2011年12月21日
XML
カテゴリ: 秋山真之伝記
 単縦陣は、先頭艦(通常、旗艦になります)の跡を、

 後続艦が金魚の糞のように追いかける陣形で、

 単純明快ですから、艦隊のコントロールが容易であるという長所があります。


 しかし、先頭艦が砲撃を受けて撃沈されたり航行不能になると、

 艦隊そのものが崩壊する可能性が高いという短所も持ち合わせていました。


 そこで、単縦陣同士の砲撃戦になると、

 互いの先頭艦(旗艦)が狙われたのです。


 日本海海戦でも連合艦隊旗艦「三笠」がバルチック艦隊からの砲撃を最も受けており、

 「三笠」の砲術長であった「安保清種」は、次のように証言しています。


 『東郷長官直卒の戦艦6隻(第1戦隊、実際は戦艦4隻、装甲巡洋艦2隻)、

 上村長官隷下の出雲級6隻(第2戦隊)、合計12隻の主力艦が、

 この日本海海戦で被った6インチ以上の敵弾は、合計103発を算するのでありますから、

 この命中弾の4分の1が三笠一艦に命中しているわけであり、

 しかも三笠のこの32発のうち25発、

 即ち命中弾の約4分の3というものは

 実に戦いが始まってから僅かに3分の間に命中したものであって

 海戦の初期において三笠がいかに苦戦を致したかは

 これによってみても判るのであります。』


 昨日書いたように、当時連合艦隊先任参謀であった「秋山真之」は、

 明治37年8月10日の黄海海戦のデータなどを分析して、

 この程度の被弾は予想していたことでしょう。


 そして、「東郷ターン」の最悪のシナリオについても、思い描いていたはずです。

 それは、第1戦隊が「東郷ターン」から「丁字戦法」へ移行する間に、

 敵弾が旗艦「三笠」の露天艦橋を直撃し、

 連合艦隊司令長官「東郷平八郎」大将とその幕僚を吹き飛ばしてしまい、

 これにより、第1戦隊は混乱の中で烏合と化し、

 バルチック艦隊を取り逃がしてしまうというものです。


 黄海海戦の「 怪弾 」の例もあるのですから、

 連合艦隊参謀長「加藤友三郎」少将と真之の間で、

 事前にその対応策の協議が行われていたはずです。


 「東郷ターン」という歴史的瞬間に、

 その発案者であろう真之が「三笠」の露天艦橋からその姿を消したのは、

 リスク分散の為の加藤の指示であったのではないでしょうか。


 その日、真之は「三笠」の露天艦橋に陣取り、

 「敵前大回頭」を行える位置に「三笠」をコントロールしたのです。


 この目的を達成したのは、明治38年5月27日14時2分で、

 「東郷ターン」が開始される3分前でした。


 自らの役割を終えた真之は、勝利への確信に満ち溢れていたはずで、

 そして、静かに露天艦橋から立ち去ったのだと思います。 





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2011年12月22日 01時58分49秒
コメント(0) | コメントを書く
[秋山真之伝記] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: