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実は現在他のブログでベトナム旅行記を書いているため、なかなかこちらを更新できません。ただ、前回のチャム彫刻博物館のように芸術関連のものは、こちらにも記述していきます。 2006年8月6日(日)13:00 - 15:00頃 上の写真は8月6日の昼にいった、ベトナム4つの世界遺産の1つで、1999年に世界遺産に登録された、チャンパ王国のミーソン遺跡郡の写真です。 中部の都市、ダナンから車で1時間30分くらいで、四方を山に囲まれ、南に聖なる山マハパールヴァタがそびえる盆地の中央にあり、緑の森と遺跡が融合した美しい景色が広がります。 現在70位の遺跡が見つかっているそうで、日本も発掘や研究に協力しているそうです。 1つ1つの建物の外壁に多くの彫刻が施されており、美しい建物が多いです。 最初にこの遺跡を発見したフランス人はどれほどの感動を得られたのでしょうか。 想像するとぞくぞくしますね。 実はここはベトナム戦争時、解放軍(現在の政府軍)が本拠地としていたため、アメリカ軍の空爆で多くの建物が破壊されたのだそうで、その傷跡も多く残っています。悲しそうに、あるいは残念そうに話すガイドさんは複雑な表情でした。 幾つかの建物は小さなミュージアムのように、像等を展示しています。下の写真のものはシバ神です。チャム彫刻博物館とあわせて見ると、理解が深まり、とても面白い遺跡です。
2006年09月17日
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今日はちょっとフェルメールから横道にそれて、先月はじめに行ってきたベトナム旅行で、芸術関連について書きます。 2006年8月5日(土)15:00頃、2世紀から17世紀にベトナム中部以南で栄えたチャンパ王国の遺跡から彫刻類を集めたチャム彫刻博物館に行きました。 写真は破壊神シバ神の石像の写真です。 この博物館はこのように色々な彫刻を保存しています。 チャム族は17世紀に、グエン朝を起こしたキム族に滅ぼされた後、現在は南部山岳地帯にひっそりと暮らす少数民族になってしまったのです。 シバ神の石像等からもわかるように、チャンパ王国がインド、ヒンズー系の文化を継承している文明です。 ちなみにシバ神は創造を前提とした破壊を行う神様だそうで(ガイドさん受け売りです)、そう考えると”破壊”と”神様”という相反する2つの概念を持つのもわかる気がします。 日本では七福神の大黒天になっており、何故か悪いイメージは無くなっていますね。 ミーソン遺跡の彫刻はフランス人によって多く破壊され、また一部フランスに持っていかれているものも多いそうです。 ミーソン遺跡を見る前に、この博物館で基礎知識をつけていくと楽しさ倍増です。 日本語の説明書きなどもあり、多少の時間をとって見に行く価値は充分あります。
2006年09月10日
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「この中断された音楽の稽古」は「二人の紳士と女」と同じ1660年~1661年頃に書かれた作品です。 絵の構成は、「二人の紳士と女」などとも非常に良く似ていますね。 しかし、この絵は、「二人の紳士と女」や「紳士とワインを飲む女」に見られる遠近法の失敗点を解消する工夫がなされているのです。 わかりますか? 正解は、「右下のタイルのゆがみ」を解消するために床を描かないことなのです。 (2006年07月14日参照してください。) 意外な解決法ですがシンプルな考え方ですね。
2006年09月09日
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「二人の紳士と女」と似た構成の絵である2006年07月10日の作品「紳士とワインを飲む女」と比較をしてみると、構成はとても似ているのですが、彩色には随分と違いがあるようです。 「紳士とワインを飲む女」は粘りのある絵の具で時に厚塗りをしつつ事物の質感、光のが濃密に表現されています。 これに対して「二人の紳士と女」は筆致は、例えばワインを勧めている男性のマントを見てもわかるように、より滑らかで洗練の度を増しています。 また、机のタペストリーもきっちりと書き込まれている「紳士とワインを飲む女」に比べ、「二人の紳士と女」はとても滑らかな描き方になっています。 多分2年の間隔は無い間に描かれた2作品の違いからみて、この時期にフェルメールが色々な技法にチャレンジしていたことがわかります。
2006年09月03日
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1653年に結婚したフェルメールは、1660年頃に義母マーリア・ティンスと同居を始めています。そhして1661年ようやくフェルメールと娘のカタリーナ・ボルネスとの結婚を承認しています。この前後頃からの作品が非常に充実しています。もっとも1660年台は風俗画のレベル全体的に向上しており、フェルメールも幾つかの同じような構成の絵を試し、レベルを上げていっています。 「二人の紳士と女」は1660年~1661年に描かれたとされており、「紳士とワインを飲む女」とほぼ同じ構図で描かれた絵になってます。
2006年08月27日
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デルフトの眺望の基礎データです。【作品名】・デルフトの眺望【作成年月】・1658(デ・フリーズ説)・1660-61(ウィーロック説)・1659-60(小林頼子説) 【種別】 ・油彩 カンヴァス、96.5×115.7【所蔵場所】・マウリッツハイス美術館 オランダ デン・ハーグ作品年表も更新しましたので、そちらもご一読ください。大分作品も増えてきました。
2006年08月22日
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7/21に書いた、1654年のホラント州西フリースラント州の火薬庫の大爆発が、フェルメールが風景画を描いた一つのきっかけと書きましたが、フェルメールが「デルフトの眺望」を書いたきっかけをもう2つ、計3つほど挙げる研究者もいるそうです。 1つめは上記の火薬庫の爆発で、デルフトの北側の街は破壊されましたが、スヒーダム港を中心とする街の南側は完全に被害を免れ、17世紀以前の古く美しいイ町並みを残しました。 2つめは、1660年1月にスヒーダム門の後ろの武器庫での火事です。 1654年からわずか6年後の火事で、デルフトの市民に大きな印象を与えたと記しています。 3つめは1660年5月25日のイギリス王チャールズ二世のデルフト立ち寄りで市民は大歓迎で迎えました。その訪問場所がスヒーダム港だったことです。 以上の3つの事柄からスヒーダム港はデルフトの市民に特別な思いを持って見られている場所であることが、フェルメールが「デルフトの眺望」を書く場所に選んだとされています。
2006年08月20日
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ちょっと画像が小さくてわかりにくいかもしれませんが、図の赤丸で囲んだ、日の光に照らし出されている塔は新教会なのですが、素通しで向こうが見えているのです。 記録によると、デルフトの新教会のカリヨンは1660年9月頃から2年ほどの時間をかけて取り付けられているようです。 よってフェルメール絵は1660年9月以前の状態を表していることになり、この作品の製作年月日を決定する一つの根拠となったそうです。 この事実は2人の研究者ラウラ・メイリンク・フーデマーケルとベン・ブローズにより、1997年頃発表されたそうです。 フェルメールの絵に関して、リアルタイムで研究が進んでいるトピックとして、何かわくわくする話ですね。 ちなみにカリヨンとは、日本語では”組鐘”などと訳されており、多数の鐘を音律に従って配列し、鍵盤や機械仕掛けにより打ち鳴らす楽器で、例えばベルギーのブルージュのベルフォルトなどは世界遺産として有名です。 何時間でも聞いていたいような素晴らしい音色でした。
2006年08月19日
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フェルメールが「デルフトの眺望」を描いたスヒーダム港の対岸の位置には、描かれた範囲を示すパネルが立てられています。 デルフトに行ったときに写真を撮ったつもりだったのですが、どこにいったかわからず・・残念です。 ロッテルダム門今は無く景観は全く変わっていますが、新教会、旧教会の位置などは当時のままでなかなか感慨深いものがありました。 皆さんもデルフト行くことがあれば、是非行ってみてください。
2006年08月17日
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本日はまたもフェルメールから脱線して、先日まで旅行に行っていたベトナムのことについて、備忘のため、書いておきます。 ハノイでもホー・チ・ミンでも驚いたのが、絵を売っているお店の多さです。 他のお土産物屋や雑貨店に混じり絵画商が多く、「ベトナムの人は絵がよほど絵が好きなのか?」と感じていました。 ガイドさんに聞いたところ、作者はベトナム人だが買い手はほとんどヨーロッパの人で、ホー・チ・ミンは世界でもっとも多く絵の売買がされる土地であるとのこと。 世界一かどうかはおいておいて、確かにたくさんの画商があったので、それなりに取引量はあるのでしょう。 しかし、有名なベトナム人画家とかは聞いたことが無いのですが、今後近代美術で良い作品がでてくるのでしょうか? 風景画や人物画、静物画や現代アート等種類も様々で、そのうち”ベトナムのフェルメール”なんていう風俗画家なんかもでてくるかも知れませんね。 経済的にも発展してきているし、”絵画市場”という観点からも面白い国なのかも知れません。 どなたか、ベトナムの芸術界の情報お持ちの方がいらっしゃったら是非教えてください。
2006年08月15日
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本日から復活しました。 今日テレビを見ていると、浮世絵師”菱川師宣”のことをやっていたのですが、この人が活躍し、日本で浮世絵が始まったのが17世紀だそうです。 オランダでもフェルメールたちが活躍した17世紀に風俗画が始まったということを思いだしました。 いずれも市民が豊になってきた等色々共通点はあるのでしょうが、何か奇妙な共通点だなーと思いました。 ちなみに”菱川師宣(もろのぶ)”は浮世絵を単なる挿絵ではない、鑑賞絵画の一ジャンルにまで高めた「浮世絵の祖」といわれる絵師です。 代表作の「見返り美人図」いえば皆さんご存知ではないでしょうか。
2006年08月13日
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1659-60年頃の作品で、フェルメールの生まれ故郷デルフトの全景を描いた絵です。 デルフトの近く、デン・ハーグのマウリッツハイス美術館所蔵作品です。 マウリッツハイス美術館には2回行ったことがありますが、2回とも2階(3階だったかな?)の有名な「真珠の耳飾りの少女」と同じ部屋に、ひっそりと飾られていました。 同じ部屋に「ダイアナとニンフたち」も飾られており、随分贅沢な展示室だな~と思いました。 多分この場所は変わらないのでしょうね。 ところで、私今日から夏休みで旅行に行ってきますので、1週間ほどブログをお休みします。 また、戻ってきたらよろしくお願いします。
2006年08月01日
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この作品は、オランダアムステルダムの国立美術館で2回程見ているのですが、そのときは「なるほどー」くらいでした。 デルフトの眺望との関連性や、デルフトでの養老院の場所など知ってみてればよりいろいろ想像ができて面白かったかなーと思います。 是非もう一度オランダに行って見たいなーと思いました。【作品名】・小路【作成年月】・1658(デ・フリーズ説)・1657-58(ウィーロック説)・1658-59(小林頼子説) 【種別】 ・油彩 カンヴァス、53.5×43.5【所蔵場所】・国立美術館 アムステルダム あと、作品年表も更新しておきましたので、そちらもご覧ください。
2006年07月30日
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先日ニュース23で面白いニュースをやっていたので、ちょっと書いときます。 それは、金沢21世紀美術館 の特集。現代アートの美術館にもかかわらず、年間157万人の来館数を誇る美術館です。特長は、子供が多いこと。 見て、触って遊べる展示物も多く、またフリースペースが多く、入場料を払わなくても子供と一緒に行って遊べるので公園感覚で行くリピーターが多いそう。 ターゲットを子供に絞り、石川県の小中学生4万1千人を無料招待し、その際にまた「もう1回券を渡して」親や祖父母をつれてきてくれる好循環を作っている。 また、美術館の半券を周囲の商店街に持っていくと割引が受けられる等、周囲との強調も忘れない。 何より館長蓑 豊氏の、「子供の感性を豊にするため。」との情熱に感動を覚えました。
2006年07月27日
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「小路」と「デルフトの眺望」は様式的に非常に似ていることがわかっています。建物本体はやや暗めの茶系で彩色され、レンガをつなぐモルタルが白い線で描かれている点。風雨にさらされた跡や補修の跡はレンガの部分の色をわずかに変えている点。鎧戸や歩道の凸凹や汚れは彩色を何層かに重ねて絵の具を微妙に透過させて表現されている点。葉の茂りはまずおおよその色調で形を決め、その上に小さな明るい点を載せてボリュームを出す。建物の形は白い輪郭線で目立たないように強調されている点などです。 多分もう1点の風景画も同じ描き方で、色々な角度からの風景画を試したんでしょうね。
2006年07月25日
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では、フェルメールは何点くらい風景画を描いたのでしょうか。 1696年の競売には「デルフトの眺望」以外に「デルフトの一軒家の眺め」と「デルフトの数件の家の眺め」という記録があるようです。 「デルフトの一軒家の眺め」というのが「小路」だろうとされていますが、「デルフトの数件の家の眺め」は発見されていません。 一応記録にはこの3点となっています。 「小路」のように流行に乗って、古き良きデルフトへのオマージュとして風景画を描いたとすると、本来風俗画家であるフェルメールがこの3点を大きく超える風景画を描いたとは考え難いのではないでしょうか。
2006年07月23日
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「都市景観画」の流行に乗って描いた「小路」は、1658年~1659年頃の作品です。 街角を大胆なクローズアップで切り取った作品で、この建物はフェルメールが育った宿屋「メーヘレン」と運河を挟んだ目と鼻の先の養老院ではないかと言われています。 その養老院はこの絵が描かれた数年後の1661年に建物の一部が聖ルカ組合の本部集会場のために改築されその面影も失われています。 建物の破風(屋根の段々)には縦の細い切れ目が見え、これは銃眼と呼ばれた中世の家には結構見られたものです。 デルフトでは1654年の火薬庫の爆発で古い建物は大きな被害を受けたことが記録されており、それと関連してこの絵がフェルメールの古き良きデルフトへの懐古の念から描かれたという意見が多いのです。 今風に言えば、「古き良きデルフトへのオマージュ( トリビュート )」とでも言うのでしょうか。
2006年07月21日
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絵の紹介の前に、都市景観画の背景を少し書きます。 1652年にアムステルダム旧市庁舎が火事で焼け落ちた事件や、1654年のデルフトの火薬庫爆発事件で何人もの画家が現場の惨状を絵に描いています。 これら事故画は現在の報道写真のようなもので、17世紀には風俗画の流行と併せてこういった都市景観が盛んに描かれるようになりました。 流行に敏感なフェルメールはここで都市景観画を描く気になったというのは、小林頼子氏「謎解きフェルメール」で説明されている意見です。 急に風景画を描いたのも、こういった理由があればうなずけますね。 ところで、このブログを始めて3ヶ月が経過しました。 始めたころは、私自身フェルメールという一つのテーマでどれくらい続けられるか心配でしたが、ちょっと一安心です。 それどころか、まだまだ知りたいことが増えてきて、いい刺激になっています。 ホームページは過去挫折したことがあるのですが、ブログは続けられるかもしれない手ごたえを感じています。 昨日初めてブログをお休みしました。 最近「mixi疲れ」という記事を読んで、そこまでいかないにしても、ちょっとパソコンに向かいすぎかなと思うようになってきたので、今後長く続けるためにも少し余裕を持ったペースで書いていこうかなと考えています。 いつも読んでいただいたり、コメントいただいてる皆様、これからもよろしくお願いします。
2006年07月19日
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フェルメールは2つの風絵画しか描いていません。「小路」と「デルフト眺望」です。 風俗画家のフェルメールが風景画に手をだしたのは理由があるそうです。 この頃オランダでは風俗画の新しいジャンルとして「都市景観画」が流行していたそうです。 その流行に乗って複数の風景画を描いたそうです。 それぞれの絵の紹介は、明日から書きますので、お楽しみにしてください!!
2006年07月17日
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フェルメール「紳士とワインを飲む女」の情報を追加し、フリーページの「フェルメールの作品年表」を更新しました。 いよいよフェルメールの特徴である一人、あるいは2,3人で、画面構成を考え尽くした風俗画を描く時期に入ってきました。 これからの作品の勉強が楽しみです!!
2006年07月16日
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いよいよフェルメールらしい作品になってきましたね。遠近法に関して、とっても勉強になる作品でした。以下「紳士とワインを飲む女」の基礎データです【作品名】・紳士とワインを飲む女【作成年月】・1658-60(デ・フリーズ説)・1658-60(ウィーロック説)・1658-59(小林頼子説) 【種別】 ・油彩 カンヴァス、65×77【所蔵場所】・ダーレム美術館 ベルリン
2006年07月15日
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正確に検討された消失点に比較し、惜しむらくは床のタイルの描写です。 昨日(2006/7/13)の絵に遠隔点も入れておきました。 画面と45度で交わるタイルの線が収斂される左右2つの点を遠近法では遠隔点といいますが、この遠隔点が消失点と近いと画面周辺部で描写にズレが生じてしまうそうです。 遠近法に正確であろうとすると、例えば画面手前では正方形のタイルが、画面右奥では長方形になっているのがわかると思います。 遠近法が示唆する奥行きと目が感知する奥行きに大きなズレが生じてしまいます。
2006年07月14日
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この絵は透視法上は極めて正確なものになっています。 全ての消失点は絵にあるように画中画の下線よりやや上、左から1/3ほどのところに集中しています。 また、窓を手前に描く事で「兵士と笑う女」での極端な窓の傾斜を隠し、緩和する工夫をしているとのことです。
2006年07月13日
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昨日のブログで、この絵は寓意的な意味をぼやかしていると書きましたが、いくつか物事を象徴する内容もあるそうです。 楽器は西洋美術伝統では調和や愛の象徴として描かれます。しかし、その楽器も戒められるべき飲酒と組み合わされると軽はずみで思慮を欠いた愛に意味を変えます。 ステンドグラスの手綱を手にした女性像は節制の寓意像で、慎むべき行為の典型といった教育的意味合いを強く漂わせています。 この作品も「取り持ち女」などの教訓的な風俗画になるのでしょう。
2006年07月12日
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こういった男女のカップルが登場する絵の場合、同世代のほかの風俗画はだいたい男女の関係をあからさまに描くものだそうです。 フェルメールの作品でも、「取り持ち女」のように、娼婦と客とか、「兵士と笑う女」のように恋人同士とか、容易に連想させますよね。 そういった風俗画に比べると、この「紳士とワインを飲む女」は意味合いを象徴する画中画や品物が絵の中に登場しておらず、意味がぼやかされています。 ある意味上品な絵に仕上がっていますね。
2006年07月11日
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「紳士とワインを飲む女」は1658年から1659年の作品とされています。 つまり、「窓辺で手紙を読む女」、「兵士と笑う女」とほぼ同時期に描かれた絵というわけです。 フェルメールにしては珍しい横長の作品です。 横長の画面はたくさんの要素を画中に納め、叙述するような絵に適しており、17世紀半ば以降の少ない人物による風俗画はたいてい縦長の絵なのだそうです。
2006年07月10日
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フェルメール「兵士と笑う女」の情報を追加し、フリーページの「フェルメールの作品年表」を更新しました。 また、備考に私がその絵を見た場所と年代を追加しました。 年表も12作品と大分充実してきました。 年表もブログにあわせて、これからも少しずつ情報を充実させていきたいと思います。
2006年07月09日
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このブログで書くまではあまり気にしていない作品でしたが、遠近法やカメラ・オブスキュラの研究話など調べてみると色々奥深い絵でした。 基礎データはいかになります。【作品名】・兵士と笑う女【作成年月】・1657(デ・フリーズ説)・1658(ウィーロック説)・1658-1659(小林頼子説) 【種別】 ・油彩 カンヴァス、50.5×46【所蔵場所】・フリック・コレクション ニューヨーク
2006年07月08日
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「絵画芸術」等にも地図の絵が描かれていますが、絵の中の地図をそれほど正確に模写するのは随分時間がかかったでしょうし、その技術力にも驚かされます。 寡作だった理由も、1つ1つの作品に非常に手が込んでいたからなのでしょうか。 また、地図を持ってないとこれだけの模写も難しかったと思いますが、多分当時地図は安くは無かったでしょうから、フェルメールは財政的に余裕があったのでしょうか。 私の頭の中の比較は、日本の幕末、「シーボルトが伊能忠敬の地図を国外に持ち出そうとしたのがばれて国外追放になった。」事件が頭に浮かぶのですが、19世紀前後の日本では地図は国家機密だったので、高いばかりでなく庶民が簡単に手に入れられないのでは無いかと考えたわけです。 でも大航海時代のオランダやヨーロッパ各国では、地図や海図、地球儀、望遠鏡、時計など公開に必要なグッズ類は特に珍しいものでは無く、誰でも購入できる安いものだったのかも知れませんね。 こういった文化的な背景も今後調べていければと思っています。
2006年07月07日
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絵の中にかかっている地図は「全ホーラント・西フリースラント精密新図」で、ブラウ=ベルケンローデ図とよばれているそうです。 フェルメールの住んでいたデルフトもこの地図に描かれています。 この地図の本物は、現在オランダのホーン市の博物館に、大変保存状態が悪いものが一幅残っているだけで、それも鮮明でないため今ではフェルメールのこの作品に描かれた地図によってその全容が推定されるとのことです。 本物の地図の正確性を補填する資料に使われるなんて、フェルメールの技術はすごいんですね。
2006年07月06日
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昨日(2006/7/4)の説は1891年アメリカのジェセフ・ベンネルが唱えたものです。 さらに、1946年、ハイヤット・メイヤーは、色調、点描に加え、1755年のカメラ・オブスキュラの利用記録などを挙げフェルメールもまた同じ機器を利用した可能性があると説明してます。 また、ローレンス・ガウイングは、顕微鏡の発明者であるアンソニー・ファン・レーウエンフックがフェルメールの没後の財産管理を任されたことを結びつけ、フェルメールによるカメラ・オブスキュラの利用説を出しています。 財産管理を任せるくらいだから、それなりに生前から親交が深く、また顕微鏡の発明者であることからレンズ関係の機械について色々情報交換をしていたということなのでしょうか。 しかし、さまざまな研究者が色々な角度からフェルメールという画家を研究してるんですね。
2006年07月05日
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遠近感の矛盾という意味で、「女性と比べて後ろ姿の兵士が大きすぎる」というものがあります。 これは当時のカメラ・オブスキュラのレンズに近接している被写体に起こる写真的な歪みに似ているそうです。 この仮説は、1920年代にウィレンスという研究者が唱え、舞台となった部屋の寸法を概算し、投影図を作成するなどして遠近の状況を検証しているそうです。 しかし、こういう研究者ってどういう仕事をしているのでしょうか。学校の教授や学芸員なのでしょうか・・。
2006年07月04日
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フェルメールは見た目の自然さを優先するために透視法を無視した色々な操作を柔軟に加えています。 例えば、「兵士と笑う女」では、左の窓は奥の壁に近づくにつれ極端に小さくなっています。 ある研究者が割り出した窓の大きさは、上下とも天地85cmずつだそうで、それに比べると壁にかかっている絵が大きすぎる気がしますが、見た目は不自然には見えませんよね。 この絵を縮尺どおりの描くと小さくなりすぎて画面構成上かえって不自然になってしまうので、あえて縮尺を変え大きな絵にしたのではないかというのが研究者の考えかたのようです。
2006年07月03日
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この作品は、2006/6/28に紹介したニューヨークのフリック・コレクションで見ることができます。 「窓辺で手紙を読む女」と同じく1658-1659頃の作品で、フェルメールの作品では珍しく満面の笑みを浮かべ感情を表した女性が登場します。 複数の人物が登場する絵で「マルタとマリアの家のキリスト」、「取り持ち女」とは違いシンプルで明るい画面構成を目指した作品となっています。
2006年07月02日
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次に紹介する「兵士と笑う女」や「紳士とワインを飲む女」と同じように、窓のある室内空間に一人あるいは複数の人物を配した構図は同時代の様々な画家が描いています。 例えば画像にあるピーテル・デ・ホーホの等がその代表です。 当時人気のあったモチーフだたのでしょうか。 確かに似た雰囲気があります。フェルメールの作品のいくつかもデ・ホーホの作品と思われていた理由もわかる気がします。
2006年07月01日
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この作品からフェルメールは絵の中に窓を描くことが多くなっています。 絵の中に窓を描き、光が差し込む様子を描く構図は、1630年頃から結構多くのオランダの画家が描いているそうです。 というのもオランダでは1年を通して天気が悪いので、晴れた日に光を取り入れる大きな窓はとても大事なものだったそうです。 フェルメールはこういったオランダの人々の生活を反映している風俗画の特徴をこの頃からどんどん取り入れていったのでしょう。
2006年06月30日
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次は既に2006/5/2 から2006/5/10頃に書いた「窓辺で手紙を読む女」で、1658年-59年の作品になります。 画面の左側に窓を描き入れるお得意の画面構成が確立されています。 一見「眠る女」と「窓辺で手紙を読む女」の間にはすごく差があるように見受けられます。 しかし、5/10に書いたように、複数の消失点を消すため、カーテンを描く等きっちりと構成された室内空間を描き出していることを知ると、「眠る女」で前景と後景で視点がばらばらになったりした失敗をしっかり学んで修復していることが理解できます。 X線で見たデッサンとの違いについては、詳しいことは是非5/10のブログをお読みください!!
2006年06月29日
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「眠る女」が所蔵されているニューヨークのメトロポリタンミュージアムは、他にフェルメール4点(「窓辺で水差しを持つ女」、「リュートを調弦する女」、「少女」、「信仰の寓意」)を所蔵するほか、300万点に及ぶ名品を集める世界最大級の美術館です。 私はいままで2回行ったことがあり、丸1.5日間見て回りましたが、とても2日くらいで全部を見れるような数ではありません。 一生のうち何度も行ってみたいものです。 またニューヨーク 5Th Ave にはフリック・コレクション(「兵士と笑う女」、「稽古の中断」、「女と召使い」所蔵)もあり、歩いて10分程度の距離にフェルメールが8点も見ることができる、まさにフェルメールStreetです。 セントラルパークもすぐ横にあり散歩+美術館めぐりで夜はブロードウェイ(タクシーで15分程度)でミュージカルなどとってもアートな一日を送れること請け合いです!! メトロポリタン美術館とフリック・コレクションの地図はこちらです。 ↓メトロポリタン美術館とフリック・コレクションの地図
2006年06月28日
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今日は「眠る女」の基礎データを載せます。フリーページの作品一覧にも追加してますので是非そちらもご覧ください。【作品名】・眠る女【作成年月】・1656(デ・フリーズ説)・1657(ウィーロック説)・1656-1657(小林頼子説) 【種別】・油彩 カンヴァス、87.6×76.5【所蔵場所】・メトロポリタン美術館 ニューヨーク
2006年06月27日
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この作品はフェルメールの初期の風俗画になりますが、後のように厳密な透視法に基づく空間構成を試みた途中の過程が見られるようです。 一応遠近を考えていますが、女性のいる前景は上からかぶさるような視点で、奥の部屋は低い視点からの描写になっています。 複数の視点が混在しているため、空間構成が整理できていない絵になっています。 とはいえX線写真での推敲課程などを鑑みると、これ以降の作品につながる空間構成の試みを感じ取れるエネルギーを感じる作品と言えるのではないでしょうか。
2006年06月26日
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6月に入ってから、フェルメールの作品を製作年を追って説明しておりますが、「マルタとマリアの家のキリスト」、「取り持ち女」、「眠る女」の3点を追加しました。 6月8日からの説明と併せ見ていただくと年を追って風俗画家へ変化を確認していただけると思います。 是非一読ください!!
2006年06月25日
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写真ではとてもわかり難いんですが、女性の左後ろの壁の絵は、キューピッドの絵の一部だそうです。 また、絵の下の方に見える仮面は「不誠実」を意味します。 昨日書いた、後ろを向いた犬は気持ちの相違を、ドアの半分しまった後ろの部屋に描かれた男性は心の距離感を表し、多分仮面の「不誠実」は男性に裏切られたということでしょうか。 そこで、この絵は、失恋の憂鬱に酔いつぶれる女性という設定になります。 最終的に犬や男性は消されているので、意味があいまいになってはいるのですが。 色々構成を考え、絵の意味を明確にするより前景に視点を集中させることに重きを置いたことになるのでしょうか。 失恋のうさを酒で晴らすというのは昔も今も変わらないんですね。
2006年06月24日
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X線写真等を使った調査によると、最初この絵にもドアのところに後ろを向いた犬が、奥の部屋の鏡の辺りには一人の男性が描かれていたそうです。 また、画面右隅の椅子は後から付け加えられたものであることも判明しています。 後景の犬や男性を消して、前景に椅子を持ってきたのは、前景に視線が集中するように構図を変更しているそうです。 X線写真でデッサンを見ると、色々苦心して構図を考えている様子が伺えますね。
2006年06月23日
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1656年から57年の作ですが、ここら辺からフェルメールお得意の1人の人物を描いた風俗画の世界が始まります。 片肘を付いてうたた寝をしている女性と、テーブルの殻のグラスとデキャンタが意味ありげな雰囲気をかもしだした絵ですね。 ところで、実は、摂ちゃんさんから”テーマを選択する”機能を教えていただいたので、今日から『絵が好きな人!?』 に登録してみました。 色々な機能があるもんですね。 他に絵の好きな人のいろいろなブログも探しやすくなりそうです。 摂ちゃんさんありがとうございました。
2006年06月22日
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この絵は去年(2005年)日本に来た「窓辺で手紙を読む女」と同じくドレスデン国立美術館所蔵です。【作品名】・取り持ち女(女衒(ゼゲン))【作成年月】・1656(デ・フリーズ説)・1656(ウィーロック説)・1656(小林頼子説) 【種別】 ・油彩 カンヴァス、143×130【所蔵場所】・ドレスデン国立美術館
2006年06月21日
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「放蕩息子」のエピソードは、フェルメール以外でも色々な有名画家が描いています。 例えば、フェルメールと同時代(少し前)に活躍したレンブラント・ファン・レイン(1606~69年)「放蕩息子の帰宅」などです。 レンブラントは、聖書に由来する主題をもつ多数の絵画や版画を残し、物語画家として名声を博しました。 「放蕩息子の帰宅」は、1666年~69年ごろの作品で、大きさは262×206cm、現在はサンクトペテルブルク、エルミタージュ美術館に保存されています。
2006年06月20日
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画面左端で酒のグラスを手にし、こちらを振り返っている男はフェルメールの自画像ではないかと言われています。 薄ら笑いを浮かべ一見へんなオヤジっぽく見えますが、自虐的に表現でしているのでしょうか?
2006年06月19日
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この絵は1656年という年記が入っていますが、フェルメールの絵の中で年記があるのはこの「取り持ち女」を含め3点のみということになっています。 他の2点は「天文学者」と「地理学者」です。 制作年次、製作者名を入れるという習慣はこの頃は無かったんでしょうか? あるいはフェルメールが単に変わっていたとか・・?
2006年06月18日
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ちょっと興味があったので、もう少し細かく調べてみました。 ある兄弟が父から財産わけをしてもらった後、兄は父と一緒に暮らし畑仕事をし真面目に暮らしていました。一方、弟はもらった財産を遠い国で使い果たしてしまいました。 その後、弟はその地方の人の家に身を寄せたのですが、食べ物をくれる人はだれもいませんでした。 そこで、彼は我に返り、家に帰って父に「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と言い、許しを請いました。しかし、父親は良い服を着せ、子牛を屠(ほふ)り祝宴を始めました。 納得いかないのはお兄さんです。畑仕事から帰ってきて文句をいうと父は兄に対して言いました、「お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」と。 「生き返った」というのは、我に返り、真人間になったことをさしているのでしょうか? この寛容な父の姿に、神の姿を重ね合わせているのでしょうか。 間違いを犯してもそれに気づき悔い改めれば神はその人を許すと。
2006年06月17日
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「放蕩息子」のエピソードとは、”悔恨と寛容”を書いたルカ福音書の15章にあるお話しです。 兄弟二人に財産分与をしたが、放蕩の限りを尽くし、分けてもらった財産を使い果たして貧しくみすぼらしい姿で帰ってきた弟を、深い愛でゆるし、迎え入れる父の話だそうですが、ちょっとこれだけではわかりませんね。 もう少しストーリーを調べてみます。 風俗的な内容に宗教的なエピソードを入れ教訓を表す風俗画もこの頃のオランダには結構多いようです。
2006年06月16日
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