マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

2012.09.20
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 宮古島 

 職場に宮古島出身の男がいた。彼は沖縄では有名な詩人。その詩集を見せてもらったが、まるで呪文のようでチンプンカンプンだった。宮古島の言葉は沖縄の中でも特異らしい。例えば「平良」は沖縄本島では「たいら」だが、宮古では「ひらら」。それを地元では「プサラ」と発音する由。彼の詩を読んだことや亜熱帯の風景に驚いたことなどが、25年ぶりに私に詩を書かせた。

 その島を初めて訪れたのは平成9年の冬。8番目の職場の出張の時だ。私は早速、琉球王朝時代、石垣島で起きた反乱を鎮めた島の英雄仲宗根豊見親の墓や、当時使用された大和ガー(降り井戸)などを見学した。また翌朝には西平安名(いりぴんな)岬方面に走りに行った。私は全国どこにでもランニングシューズを持参し、平成16年に47都道府県を走破している。

 宮古島はロングタイプのトライアスロン「ストロングマンレース」で有名だが、これは余りにも人気が高く、出場は実績と抽選によって選考される由。一方ウルトラマラソンもかつて2つのレースがあった。土曜日にあったのが海宝氏主催の「宮古島ウルトラ遠足」で、翌日の日曜日に地元主催の「宮古島ワイドーウルトラ」が開かれた。共に距離は100kmだが、中には2つをかけ持ちする強者もいたのだ。

 私は平成20年の「ワイドー」に出た。これは宮古の言葉で「頑張れ」の意味。前日の「遠足」は27度の猛暑だったが、この日は21度と絶好のウルトラ日和。風もあってとても走り易かった。三角形の島を時計回りに廻るのだが、スタートの5時はまだ真っ暗。日本の最西部にある沖縄は、位置の関係で夜明けがかなり遅いのだ。夜が明けたのは、来間(くりま)島に架かる来間大橋を戻った時。真っ白い砂に、エメラルドグリーンの海が美しかった。

 西平安名岬からは池間大橋を渡って池間島を一周する。橋の上は猛烈な西風で、海には白波が立っていた。夏は穏やかな島だが、冬は厳しい季節風が吹き荒れる。この500mほどの海峡は干潮時には浅瀬となり、昔は竹馬で渡った由。平良市内に戻った時、苧麻(ちょま)の栽培園を見つけた。前日、たまたま島のオバーが機を織っているのを見た。それが苧麻だった。

 苧麻は日本の古代、税金代わりに納められたいわゆる「調布」の原料となる繊維だ。琉球王朝時代、宮古島ではこの宮古上布が税の代わりに納められた。折角の機会なので、レースを中断し見学。苧麻は60cmほどの高さの、赤い表皮を持つ植物だった。東平安名(あがりぴんな)岬ではマミヤの墓を見た。彼女は琉球王朝時代首里の王府から来た役人の現地妻。役人が沖縄本島に帰った後、この島一番の美女は絶望して海に身を投げたと言う。

 85km過ぎからは厳しい坂道の連続になった。七又海岸にはパイナップルに似たアダンの実が実る並木があった。その先で横浜の走友Tさんに追い着いた。彼は前日も100kmを走っている。私より2歳年上だから当時は66歳のはず。彼とは「秋田内陸」、「奥武蔵=埼玉」、「しまなみ海道=広島~愛媛」などでも何度か会っているが、まあ元気な人だ。

 5時過ぎ、イルミネーションが点いたホテルの庭にゴール。12時間02分45秒。私にとっては2番目の好タイムだった。池間大橋付近では、前日走った走友会の仲間が車中から応援してくれた。翌日、宮古空港から飛び立った機内から、雲の合間に伊良部島が見えた。間もなく宮古島との間に橋が架かるらしい。あの頃は1市2町1村だった宮古島も、今では全島が合併して宮古島市になったと聞く。

 その昔、倭寇の基地が置かれ、貧しさゆえに渡り鳥のサシバ(現在は天然記念物に指定)まで食べたと言う島も、今ではすっかり豊かで美しい島に変わった。その島を再び訪れることはないだろう。私も年老い、もう100kmレースを走るのは無理。わずか4年前だが、今にして思えばあの頃がウルトラランナーとしての絶頂期だったのだろう。<続く>





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Last updated  2012.09.20 15:28:55
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