マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

2012.09.22
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≪ 本部半島周辺の島々(1) ≫ 

 『宮城島』

 昨年の11月、私は沖縄本島の北部にある本部半島を走って一周した。4年に亘る「沖縄本島単独一周」の最終年だった。名護市真喜屋と言う集落までタクシーで行き、そこから橋を渡って島へ行く。最初の島が宮城島。沖縄で「宮城」とか「奥武」(おお)とつく島は、かつては風葬の地だったことが多い。ここでも小島へ渡った途端に、沖縄独特のお墓が見えた。「やっぱりなあ」私はお墓を見ながらその傍を走り抜けた。


 『屋我地島』

 次の屋我地島も沖縄本島と地続きみたいなものだ。この島は結構大きく、本部半島の付け根に「ふた」をしたような感じ。その内側にあるのが遠浅の羽地内海だ。島へ渡ってすぐの道端に何かの死骸があった。1m50cmもある白いハブだった。後で聞いた話では、屋我地はハブが多いので有名らしい。これには驚いた。何故なら標高100mくらいの島にはハブがいないとされるからだ。

 かつて沖縄の島々は中国大陸と陸続きだった。だが造山運動が激しくなって隆起と沈降を繰り返すと孤島になり、標高100m以下の低い島は何度か海の下になり、この時ハブは死んだ。だが扁平な屋我地島にハブが多いのは、沖縄本島に近いため海を泳いで来たのだと思う。まあ日中走るのであればハブは見えるので心配はないのだが。

 屋我地島に入って間もなく道は行き止まりになった。その先にあるのは病院だけ。地元の島民に道を聞きながら、古宇利島へ渡る橋を探した。後で気づいたのだが、多分あの病院は「らい病」専門の病院。全国でもあまり人の来ない淋しい場所にらい病の病院があることを私は知っていた。かつては不治の病として偏見の対象だったらい病も、特効薬が出来た今では普通の病気だ。

 一旦古宇利島へ渡った後で再び屋我地に戻るのだが、その時に観たのが「オランダ墓」。これは幕末に来たフランス艦船の乗組員の墓地。当時外国人のことを沖縄では「オランダー」と呼んだのだ。狭い海峡の向かい側つまり本部半島側に運天港が見えた。そこから伊是名島や伊平屋島に渡るフェリーが発着するのだが、かつて源(鎮西八郎)為朝がこの港に立ち寄り、琉球王の祖になったとの伝説がある。いわゆる「日琉同祖論」で、日本が琉球を併合し易くするための作り話みたいなもの。


 『古宇利島』

 古宇利大橋を渡って島へ行く際に、海中にライオンみたいな岩山が見えた。私は勝手に「ライオン島」と名付けた。橋の上からは沖縄本島が微かに見えた。古宇利島は周囲2kmほどの円形の島。この島の特産がモズク。沖縄は全国でも有数なモズクの産地だが、その7割をこの小さな島で養殖している。養殖用の網には「種」が着き易いように、ビニールのひもが結んであった。

 古宇利大橋が出来てから観光客が増えたのか、島内の至る所にレストランや展望台、宿泊施設などが出来ていた。数年前に一種のブームがあったようだ。だが、そのうち半数以上が既に閉鎖されていた。こんな小さな島はあっと言う間に見終わってしまい、休む必要もないからだろう。折角の投資が無駄になったその「残骸」を見ながら私は島を一周した。

 島の西側からは本部半島が良く見えた。琉球王朝時代には、この島にも烽火(のろし)台があったようだ。目の前には運天港、そして北部の守りである今帰仁(なきじん)城が見え、島の東側からは沖縄本島の北部が見渡せる絶好の位置にあるこの島は、きっと戦略上も重要だったのだろう。

 わずか2kmほどの距離に1時間近くもかかったのは、坂が急だったためだけでなく、不整脈が起きていたのだと思う。帰路の橋の上から、朝の光に包まれた沖縄本島が見えた。芭蕉布で有名な大宜味村辺りだ。あれほど崇高な景色を見たのは久しぶりだった。<続く>


(メモ) 本日はこれから「ツタンカーメン展」を観るために東京へ向かいます。帰宅が遅くなるため、コメントへの返事が遅れることをご了承くださいませ。





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Last updated  2012.09.22 04:29:47
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