マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

2019.01.22
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~失われたものと残ったもの~

 上陸する米軍

 第二次世界大戦では、国内で唯一沖縄で地上戦があった。犠牲者は軍人と民間人併せて30万人以上。沖縄本島周辺はアメリカの軍艦で溢れ、連日の艦砲射撃で地形までが変わった。今でも工事中に不発弾が発見され、その都度住民は退避し爆破処理が行われる。艦砲射撃の嵐の後上陸した米軍は、日本軍と激烈な地上戦を繰り広げる。

  白旗の少女  

 墓の中や洞窟に隠れた県民を、米軍は手りゅう弾や火炎放射器で攻撃。人々は追い詰められ、南部へと逃げた。洞窟は軍の最後の砦であり、捕まれば殺されると教えられた住民は万歳しながら崖から飛び降りた。「ひめゆり部隊」の悲劇も名高い。写真は「白旗を掲げる少女」。たった1人洞窟を抜け出し、米兵に助けられた話は有名。降参した人を米軍が殺すことはなかったのだ。

  戦後の那覇

 那覇市内に戦後「奇跡の1マイル」と呼ばれた箇所がある。現在の「国際通り」がそうだ。焼け跡の残骸を片付け、凄まじい勢いで復興させた住民。1マイル=1.6kmは国際通りの長さ。そこに次々とバラックの店を建て、ヤミ商売を始めたのだ。当時は米軍の統治下にあり、交通は右側通行で、通貨はドルしか使えなかった。見事に整備された街並みは、今国内外の観光客で賑わっている。

  沖縄の古写真  

 戦後の沖縄で「1フィート運動」が起きた。戦争で失った沖縄の風景を蘇らせるため、県民の寄付でフィルムを少しずつアメリカから買い戻す運動だった。わが職場では沖縄関係出版物の収集のみならず、戦争で失われた資料の探索と保存も任務。私が在任中に実行したのは、米国国立公文書館の沖縄関係資料の一部を複製整備したことなどで、国の機関の協力も大きかった。

 ペリーのスケッチ

 仲宗根政善氏(琉球大学名誉教授)が精力的に収集した、琉球方言(中でも今帰仁地方の)関係資料も購入した。さて、ある時中国人の調査員が訪れた。「尖閣諸島の古地図」の有無を確認するためだ。だが私は即座に「ない」と断った。尖閣諸島を含む台湾の教科書が発見されたのはそのずっと後。国境線の外側に琉球所属と書かれた尖閣が載っていた由。その台湾を、今中国は虎視眈々と狙っている。

 戦前の首里城  

 首里城の古い写真を探しに来られた方もいた。復元工事のため、正殿の柱の色を知りたい由。あるのはあったが、カラーではない。結局戦前に撮影した鎌倉芳太郎氏が残した資料が役に立った由。氏は内地の人で染色と沖縄文化の研究者。沖縄女子師範の教師でもあった。彼が撮影した写真や、詳細な調査結果が復元に役立った。「うちなんちゅ」だけで、あの城は復元出来なかったのだ。

  復元後の正殿

 柱の色は赤と黒の2説あった。だが元々赤く塗られた漆が、経年変化で黒ずんだのが真相と判明。私が沖縄を去った翌年、青空の下に美しい正殿が現れた。日本の城とは趣が異なる王宮。ただしその後アメリカで発見されたカラー写真によって、屋根瓦が赤でなかったことが判明した由。なお世界遺産の指定はこの復元後の建物ではなく,あくまでも「首里城跡地」なのである。<続く>





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Last updated  2019.01.22 00:00:24
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