マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

2021.12.06
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~首里城炎上~



 現存する首里城の一番古いとされているのがこの写真である。撮ったのはフランス人で、撮った時期は明治10年(1877年)。いわゆる「琉球処分」(琉球王国が日本に編入されて一時「琉球藩」 となり、それが沖縄県となった)のが明治12年(1879年)なので、これはまだ琉球藩当時のもの。確かに写真の下に見える説明文はフランス語だ。なお琉球処分後、城は「神社」として残された由。



 さてこれはアメリカのペリー提督が首里城を訪ねた時の絵。時は1853年で日本の暦では嘉永3年に相当する。ペリーは日本に向かう前に当時の琉球王朝を訪れ、あわよくばこの島国を奪おうと企んだ由。だが琉球は一行を丁寧にもてなし、那覇港に停泊していた黒船に無事帰還してもらえた。当時カメラはなく、ペリーはお抱えの絵師に描かせた。これは守礼門から立ち去る際の様子。

  尚巴志王

 これは第一琉球王朝第2代の尚巴志王の肖像。1429年に沖縄を統一した中山王国は王都を浦添城から首里城に移したと伝えられている。そしてその後の600年間で首里城は5度焼失している。そのうち3度は王朝内部の対立によるもので、1609年の島津藩による侵攻の際も、琉球処分の際も城は無事だった。最後の琉球王尚泰は明治政府の命により、住居を東京に移された。反乱を防ぐ人質だった。



 首里城の4度目の炎上は、第二次世界大戦時に米軍による攻撃のため。城の地下に日本軍司令部の塹壕があったため、写真の通り神聖な首里森は全くのはげ山となった。城跡は整備され、昭和25年(1950年)琉球政府立琉球大学のキャンパスとなる。校舎は木造でキャンパスはとても狭かったそうだ。昭和47年(1972年)の本土復帰を契機に、琉球大学は国立となり現在の西原町に移転。私もそこで3年間勤務した。

  復興した首里城

 昭和61年(1986年)国営公園として首里城を復元することが閣議決定した。本土復帰20周年に当たる平成4年(1992年)11月3日に、正殿や瑞泉門などの復元完成により、公園を一部開園した。平成12年(2004年)、他の4つの城、御嶽1か所、王朝の王陵および別荘庭園と共に世界文化遺産に指定された。

  

 首里城の復元に関して大変な苦労があったことを私も知っている。資料調査のため関係者が私の職場にも来たからだ。決め手となった過去の資料類が、沖縄県立芸術大学の資料館(左)にあるのを発見したのが高良倉吉氏(右)。氏が浦添市立図書館長時代に「沖縄県史」(全20巻)を刊行した記念式の際にお会いした。氏はその後琉球大学教授、名誉教授、沖縄県副知事を歴任されている。専門は琉球史及び琉球文化。

  炎上する首里城正殿

 それほどまでに苦労して復元した首里城が、令和元年10月31日の火災により焼失した。火災の原因は今も不明のままで、当夜は城内で工事中だったがその責任追及も、警備会社に対する賠償請求もなかった。それが私が嫌う沖縄のテーゲー(いい加減)主義の弊害だ。あの美しい城を観られたのはわずか13年間。幸いにして私はたった1回だけどこの目で観ることが出来た。

 厚かましくも玉城沖縄県知事は、首里城の早急な復元を政府に要求した。不十分な管理体制で貴重な建築物や歴史資料を焼失させたのに、焼けたら次のを作れば済むと言うのだろうか。当時の安倍総理は沖縄県の希望を入れ、2028年までには再興することを約束した。沖縄県民も再建のための基金を拠出し、5億円ほどになったと聞いた。実際はもっと巨額を要するのだが、問題は建築資材の確保。前回以上の苦労は目に見えている。大量な木材や特殊な屋根瓦の製造など。そして次回は厳重な防火設備の確保だ。山の上にある首里城の消火設備をどうするか。文化財の展示とは相反する要素であるからだ。

    焼失した正殿跡地  

 これが焼失した正殿の跡地。正殿前に立っている「龍柱」(黒い2本の石柱)が哀れだ。正殿の右手にあった北殿(にしのうどん)も左手にあった南殿(ふぇーぬうどん)も全焼し、正殿の跡地はまだ整理中のよう。たくさん見える袋の中には、赤瓦が入っている。再利用と、次回の素材とするためだ。私はたまたまこの現場も観た。復元前、復元後、そして焼失後の首里城を全て見た内地人はそう多くないはずだ。

  最近の空撮か?

 変な言い方だが、首里城が焼失したお陰で、私は長年の疑問が解けた。沖縄勤務当時、そしてその後に首里城を訪れた際に、それまで見たくとも見られなかった場所を観ることが出来たためだ。昨年末の旅では、女官たちの浴場、王の遺体を一時安置する聖地、城内の幾つかの御嶽(うたき)そして東西の砦などを確認出来た。やはり首里城は、敬虔な祈りの場所だったのだ。首里城の輪郭がはっきり分かる。

  王の間(焼失前)

      王の間の火の神と香炉   

 このシリーズを書く契機になったテレビ番組で、琉球王の個人的な空間である「王の間」にも、「火の神」(ひぬかん)が祀られていたことを知った。「火の神」は民衆の間で古くから守られて来た習俗。火は神聖かつ暮らしには欠かせない重要な存在であるのは、縄文以来不変なのだろう。伊勢神宮でも深夜に松明を灯して遷宮の儀式をする。こんなことでも沖縄と古代日本のつながりを感じている。

  首里森御嶽の位置関係

 これもテレビの画面から借用した。焼失前の正殿前から伸びる赤い線が御庭(うなー=正殿の前庭でピンクに見える場所)を通り緑色をした「首里森御嶽」(すいむいうたき)まで一直線につながってる。ここが城内で一番神聖な場所。恐らくは首里城が建てられる以前から、首里森(首里城がある山)の聖地だったことが窺える。華美な城中にも、祈りの場所があったことをようやく確認出来た想いだ。




 祝女(のろ)に扮した女性が祈っているのは上の地図の「京の内」にある御嶽の一つ。その上に緑色の「首里森御嶽」が見える。だがそれは城の復元に伴って新たに作られたもの。戦後琉球政府立琉球大学のキャンパスとなった時に、ここから北東方面に3kmほど離れた「弁の嶽」(びんぬたき)に城中の御嶽を移動して祀った由。私はその御嶽も訪ねたが本来の神々しさが失われ、とても明るい墓地だった。さて今回の番組で、首里城内に10の御嶽があると分かったのが、私にとっては最大の収穫だった。





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Last updated  2021.12.06 22:07:39
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