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同級生、母校で刺激「社会人で野球を続ける」決意固まる前川(樟南卒、駒沢大) 樟南高野球部OBの前川大成(駒沢大4年)が、新型コロナウイルス感染拡大の影響で鹿児島に戻ってきてから、間もなく2カ月になる。この間、母校・樟南のグラウンドなどで自主練習を続けながら、大学野球再開を待ちわびた。チームで野球ができない日々が続いたが「社会人で野球を続ける」決意が固まり、新たな心境にたどり着いた。 帰省したのは4月9日。東京で緊急事態宣言が出されて、野球部の活動は休止。遠方から来ている学生は帰郷となった。奄美に帰らなかったのは「一緒にトレーニングできる相手がいなかったから」。鹿児島市内の親戚の家に身を寄せて、2週間は外出を自粛。その後は母校のグラウンドに足を運んで自主練習や後輩の練習を手伝った。 一緒に練習したのが同級生・畠中優大(中央大)=写真=だ。浜屋将太(現西武)と左腕2枚看板で、4年前の夏、鹿児島実との史上初となる延長十五回、引き分け再試合の決勝戦を経て甲子園を勝ち取った時にバッテリーを組んでいた。今は同じ東都リーグに所属していてライバル関係にある。 畠中は1年春から頭角を現し、中心選手として活躍していた。前川はチーム内の熾烈なレギュラー争いをなかなか勝ち抜けず、今のところ直接対決したことがない。グラウンドの外からかつてのチームメートの投球を外から見ていたが、今回一緒に練習しながら、ブルペンで実際にボールを受けることができた。 「球速はそれほど変わっていなかったが、ボールの切れが増した」と感じた。何より「自分の悪いところに自分で気づいて修正できるようになった」ことが驚きだった。ちなみに関東では社会人野球をしていた浜屋と3人で「よく遊んだ」という。昨秋のドラフトで浜屋の西武入団が決まった際は、鹿児島にいる同級生も駆けつけてお祝いをしたという。 久々に畠中と一緒に過ごして「自分も社会人で野球を続ける決心がついた」。これまで口では「社会人に行く」と言いながら、どこか迷いがあった。社会人、その先のプロを夢見る畠中から「一緒に社会人でやろう!」と言われ、迷いが吹っ切れた。 母校の後輩たちと日々接しながら、特に1年生を見ていると「自分もこんな初々しい頃があった」と懐かしくなり「ここで育てていただいた」ことに感謝の気持ちがわいた。2カ月間、大学野球から離れてみて「もっとこうしたらチームが良くなる」と思えることがいくつも見えてきた。チームの活動が再開したため、畠中は一足先に6月4日に帰京。前川も19日に東京に戻る。春のリーグ戦や全日本選手権は中止となったため、大学野球の集大成は秋のリーグ戦、その先にある明治神宮大会。チームの勝利に貢献するのはもちろん、畠中、その先のプロに進んだ浜屋、今や良き「ライバル」となった2人を追いかける決意を固めていた。 【メモ】まえかわ・たいせい。1998年6月25日生まれ。奄美市出身。金久中、樟南高から駒沢大。高校時代は主将、大学では副主将。175cm、83kg。樟南OB(文写真 政純一郎氏)・前川(駒大)が語る!
2020.06.07
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元巨人軍エース桑田真澄さんのPL時代の同期で、5番ライトとして甲子園で大活躍さらた、黒木泰典さんが テレビ番組「消えた天才」に出演されていた。内容は、KKの仲間の現在を追ったものであった。度々、前宣されていたのでご覧になったかたもいるとおもう。黒木泰典さんは、PLから法政大学に進み、現在は大手外資系企業の支社長に。宮崎出身ではあるが、ボーイズリーズ出身で鹿児島には度々来ていた。当時、宮崎にボーイズリーグ出来たばかりで、鹿児島のチームと試合を重ねていた。中学2年生の時には、3年生と間違えられ、都城高校からお誘いがあった。身長こそ高くは無かったが、投げては凄いストレートを投げ、打撃もセンスの塊であった。そんな黒木さんは、3年生の時は 多くの名門校からお誘いを頂いたが、PL学園を選んだ。PLに入学後は、桑田さんと出会い、投手をあきらめたという。このニュースは、鹿児島の野球関係者には衝撃を与えた。桑田さんは中学時代から八尾フレンドで活躍していたが、黒木さんも南九州リーグでは凄い選手であった。その黒木さんが、投手をあきらめるのだがら、桑田さんは相当凄いのだろうと。その後の活躍をみれば、桑田さんに対する評価が間違いでなかったのは皆が認めるところだ。黒木さんは、大学では苦労されたようだが、野球で得た経験や、桑田さんなどの頑張りを励みに、大手企業の支社長として大出世をされていた。桑田さんが、プロ野球選手だけが人生の成功者ではない。野球に例えれば7回あたり。最後にどういう人生だったかが大切というような内容のコメントしていた。また、芸能人のひろみさんは、清原さんの事にも言及していた。黒木さんの事からいろいろ思い出させられ、考えさせられたが、栄光や挫折も含め、いろいろあっても野球はやっぱりいいもんですね。心の野球 超効率的努力のススメ (幻冬舎文庫) [ 桑田真澄 ]価格:702円(税込、送料無料) (2018/10/1時点)楽天で購入
2018.10.01
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鹿児島市新人戦3回戦 樟南5-4鹿児島 接戦でしたが、きっちり勝利に結びつけるあたりは やはり 甲子園常連校の貫禄です。尚 第34回鹿児島地区普通高校大会(8月10日~12日,市営球場他)・1回戦 鹿児島中央10-3甲南(夏・甲子園出場 過去1回)・2回戦 武岡台10-1松陽(7回コールド) 鹿児島中央7-3錦江湾 鹿児島玉龍9-3鶴丸 甲陵7-2鹿児島東・準決勝 武岡台9-3鹿児島中央 鹿児島玉龍3-2甲陵・3位決定戦 鹿児島中央8-2甲陵・決勝 鹿児島玉龍6-5武岡台(延長11回) 【鹿】丸山、速見、市野-井口 【武】小久保、佃-森 3塁打 松木(武) 2塁打 後藤 丸山2(鹿)森、松木(武) 試合時間 3時間43分 ※参照 鹿児島玉龍 2年 井口和也(伊敷台)後藤侑成(吉田南) 1年 丸山大史郎(重富)速見晋平(福平) 武岡台 2年 小久保壮(城西)佃雄太(溶城)森健太郎(公徳寺)松木雄志(甲南)
2005.08.24
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万里一空~すべての高校球児に贈るメッセージ 夏の甲子園開催可否が正式に決まる5月20日をどのように過ごそうか、思案した。 「記者」という仕事柄を考えれば、どこかの野球部に「取材」に行って監督や選手の話を聞き、記事を書くのが本分だろう。実際「高校野球ドットコム」から取材依頼があった。だが正直なところ「そっとしておいてあげたら?」という葛藤もあった。 ふと「取材」よりも、高校球児の気持ちになって「野球の練習」がしてみたいと思った。20代後半から30代前半にかけては「体験取材」「ペンとノートをグローブとバットに置き換えた取材」と称していろんな学校の練習に参加したことがある。 さすがに40代になってからやる機会はなかったが、またやってみたくなった。いくつかの学校に問い合わせたら、鹿児島の上之薗大悟監督が「いいですよ」と承諾してくださった。 鹿児島市犬迫にある鹿児島のグラウンドは、個人的な思い出がある。鶴丸での現役時代、練習試合の代打で1打席、守備は9回の1イニング守ったことだけが私の「試合経験」だ。守備についたのが鹿児島のグラウンドで対戦した菊池(熊本)戦だった。 ユニホームを着て、グローブとスパイクを野球バッグに詰め、自転車で犬迫に向かう。グラウンドに上がるのに勾配のきつい上り坂がある。高校生の通学用自転車ではとても登れない斜度があるが、今乗っているのは長距離ライド用にも使用しているクロスバイク。テクニックと根性で何とか上り切った。 練習はすでに始まっていて、アップをしていた。上之薗監督が鶴田康太主将(3年)を指名してキャッチボールやトスバッティングの相手をしてくれた。「甲子園、なかったら辛い?」「辛いです」そんな会話を交わした。内面の葛藤は表に出さず、笑顔で突然現れたおっさんの相手をしてくれた。 1、2年生がシートノックをしている間、3年生はウエートトレーニングをやっていた。あえて野球の練習をさせず、1、2年生のやっていることを見させていたという意図があったことは、後で上之薗監督が話していた。 顔は笑っていても内面に葛藤があるのは鶴田主将と同じだ。「1年冬に亡くなったおじいちゃんと約束したんです」。加治屋翔太は言う。練習熱心で「春の県大会ではエース番号を背負うはずだった」と緒方勝副部長が教えてくれた。 緒方副部長は高校の後輩にあたる。遅れてやってきた緒方副部長に受けてもらってブルペンで投球練習をした。一通り投げ込んで肩を作ると、やはり1、2年生が1本バッティングの練習をするので志願してマウンドに上がった。 カウント2ストライクからだったが、思うようにストライクが入らない。ごまかしながら何とかアウトを重ねる。途中四球を連発した時は三塁で守っていた選手がタイムをとって寄ってきた。 「上之薗監督から『上半身と下半身がバラバラで投げている』だそうです」 ふと我に返ってまずは下半身を意識して投げてみた。それでも思うようにストライクが入らなかったが、4イニング分ぐらい投げて、1失点だったから急造投手としては及第点だろう。打者にしてみれば「練習にならない」と思ったかもしれないが、ストライクの入らない投手を攻略しなければならない場面も試合では必ず出てくる。 マウンドを緒方副部長、さらに遅れてやってきた佃雄太副部長に譲った。佃副部長は先日、地元放送局の動画サイトの企画で「私が選ぶベストナイン」を担当した際、遊撃手のベストナインに選んだ。(※画像をクリックすると放送がご覧になれます) 振り返れば01年3月、小学生のソフトボール大会の取材の合間に、当時6年生で以前から知り合いだった彼とキャッチボールをしたことがある。「グローブを見せてください」というので見せると「手入れをしていませんね? 毎日磨かないとだめですよ」と笑顔で言われた。 小学6年生に「説教」されたのは後にも先にもこの1度きりだ。「道具を大事にする選手」ということで武岡台時代の彼をベストナインの1人に選んだ。「今、鹿児島で指導者になっている。道具の大切さを高校生に教えていることでしょう」と動画でコメントした。 マウンドの佃投手と2度勝負して、ライト前とセンター前、2本のヒットを放った。投げ終わった後、19年ぶりにキャッチボールをした。 練習も終盤に差し掛かった。ちょうど日本高野連の発表があった。甲子園の中止は予想されたことだったが、地方大会も中止が決まるとは予想外だった。 「野球がつないだ縁、この仲間を大事にせんといかんよ」 上之薗監督が3年生に向けて語った。その後で私にも何か語って欲しいと言われた。監督自身も気持ちの整理がつかず、涙を流す3年生を前にして言葉が出てこなかった。僭越ながら私が語ったことは、この夏「甲子園」という舞台がなくなったすべての高校球児に贈りたいメッセージなので、要約して紹介する。・私からのメッセージ 1週間前の5月13日、鹿児島県高体連の会見があり、県高校総体の中止が発表された。高体連の石田尾行徳会長に「集大成の場を失った高校生に大人として何かアドバイスがありますか?」と質問した際に石田尾会長が紹介した「万里一空」という言葉が胸に染みた。 世界のすべては同じ一つの空の下にある。今、高校球児が目指していた「甲子園」という空、「県大会」という空さえ見えなくなった。辛いことであり、悲しいことだ。「切り替えて次の目標に」と軽々に言えるものではない。今は心に芽生えた感情を思う存分味わって落ち込む時間があっていい。 しかし、いつまでも下を向いたままでは何も変わらない。現実を受け止め、勇気を出して見上げたら新しい空が見えてくるかもしれない。その空は甲子園ではないかもしれないが、きっとどこかで甲子園とも1つにつながっている空だ。 「マスターズ甲子園」という大会がある。昨年、元PL学園の桑田真澄投手が出場して話題になった。あの大会を作ったのは鶴丸の先輩・長ケ原誠さんだ。神戸大教授の長ケ原さんは生涯スポーツの場として大人の甲子園大会を思いついた。 6年の準備期間を経て04年に1回目の大会を開いて以降、毎年秋に開催されている。6年前の14年に鶴丸は鹿児島大会を制し、甲子園出場を決めた。私も甲子園の土を踏み、打席に立って守備についた。40歳になる年にそんな経験ができるとは、高校時代想像すらできなかったことだ。 今、高校3年生で同じ仲間と甲子園に行くことはできなくても、マスターズ甲子園なら何度でもチャレンジができる。無論、現役高校生として甲子園に行くこととは比べ物にならないが、少なくとも「甲子園で野球をする」という「空」が決して閉ざされたわけではないことは伝えておきたい。・「集大成」としての地区大会を! 甲子園、県大会も中止となると、3年生にとって「集大成」の場をどう作るか。 「中止を決めるのは簡単。でも我々は終盤、どんなに負けていても『絶対あきらめるな』と子供たちに言い続けてきた。簡単にあきらめず、何かできることを考えるのが大人の責任ですよ」 昼間電話で話したある高校野球指導者の言葉を思い出す。現実的に考えられるとしたら「地区大会」の開催だろう。 鹿児島市、南薩、北薩、姶良・伊佐、大隅、熊毛、大島、県内には7つの地区がある。7月か8月で集大成となる各地区大会を開催する。それぞれの地区ごとの大会なので、例えば離島のチームが県本土にフェリーで上がってくるような移動のリスクは軽減できるだろう。 晴れ舞台を見られない保護者や応援者には恐縮だが無観客での開催。報道陣もシャットアウトした方がいいかもしれない。あるいは観戦できない人たちのために放送局やそれぞれの地元ケーブルテレビなどが協力し、試合の模様をネット配信するサービスなどはあってもいい。 いずれにしても「準備」のために残された時間があまりない。いろんな想いはあっても「3年生にとっての集大成の場を作ってあげたい」気持ちは誰もが持っているだろう。「出来得る限り安全に」という難しいタスクがあるのを承知の上で、早めの決断を鹿児島県高野連に期待したい。 「このことで野球が嫌いになったやつがいるか?」 最後に3年生に聞いた。誰1人手は挙がらなかった。その気持ちがある限り、きっと彼らには新しい空が開け、彼らの中からこの閉塞した日本社会を打破する「逸材」が出てくるに違いないと希望が持てた。(文写真 政純一郎氏)
2020.05.24
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