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今日はちょっと禁を破ってマイセンネタを書くことにした。私がこの頃日記を書かなくなったのは仕事のことを書かなくなったからである。何しろ私の生活は毎日骨董、特に明けても暮れても「マイセン」であるから。なぜ今日マイセンのことを書く気になったかというと某インターネットオークションで「マイセンヘロルト(=Johann Gregorius Hoeroldt)のカップ&ソーサー、シノワズリ」を出品していた人がいたからである。ヘロルトの特徴は豊かな色彩(彼は化学者でもあったから多くの顔料を創造した)と細部にわたった丁寧な描き方だと思う。そして彼の絵がすぐれたものであるのは素人にも分かると今まで私は思っていた。この出品者はわざわざ博物館収蔵のヘロルトの作品と自分のカップ&ソーサーを並べて、私のC&Sは博物館収蔵品のようにすばらしいものと言わんばかりである。このC&Sの拡大写真を見て私は瞬間的にこれは偽物だと判断した。案の定マークの上を2本線で削ってある。これはマイセンが白磁の失敗品を安く売ったのである。それを買った人がその上に絵を描いたのである。工場外の絵付けで素人が描いたものでもうまい絵はあるが、この絵は雑でまるで素人が描いたみたいに下手だった。ヘロルトの絵を描くのにマイセンが2級品の素地を使うことなどありえない。で、私は彼女に質問した。この絵のどこがヘロルトですか?私には下手くそな素人絵にしか見えませんが。当然私の質問は無視され、削除された。あとで彼女の経歴を見てびっくりした。日本のT大学の美術史学科卒業、イタリア留学、イギリス留学、フランス留学を経てフランス在住、イギリスのM大学の学位、K大学の学位、ソルボンヌ大学院聴講などの華々しい学歴をこれでもか、と書いている。日本の最高峰の大学で美術を専攻して、「鑑定家」、「専門家」を名乗っている人の鑑定がこれ~~~???????このページを知り合いの骨董屋さんに送り意見を聞いてみた。やっぱり彼女の意見も同じ、おまけに他に出品しているセーブル数点は「完璧」に偽物だと言った。かわいそうにこの「才媛」は全然自分でもわかっていないみたい、インターネットで天下に恥をさらしているだけですね、との感想であった。私はセーブルに関してはよく知らない。偽物がすごく多い、ということしか聞いていない。おまけにこの人は仕入れはコネを生かして貴族やコレクターから買い取ったそうである。へ~~、へ~、おフランスの貴族というのは酔狂にもこんなガラクタを集めるのかね?バカじゃないかな、この人! 貴族が彼女に売買の仲介なんか頼むわけがないでしょ。私の住んでいるドイツでは学歴詐称は確か刑法違反で刑罰の対象になる。上にアップした写真はホンモノのヘロルトである。彼女のヘロルト(写真を載せられなくて残念だが)とは似ても似つかない。マイセンに関しては私はちょっと思うところがあって後日日を改めて書きたい、と思っている。明日から買い付け旅行に出るので当分は書けない。タイトルは「マイセンの真贋」の予定である。なお、骨董に興味があってこのページにたどり着いた人、もし言いたいことがあるのなら私書箱のほうにメールお願いします。前回の通りすがりさんのような匿名での書き込みは礼儀違反ですので、しないでください。
2005.10.19
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1066年10月14日イギリスの正当な王位継承者Haroldとフランス人Normandy公Williamはここで戦う。写真は小高い丘の上のHaroldの軍から見た風景である。Witan会議(Witanは英語古語で会議とかMeetingの意味、法王選出の会議コンクラーベみたいなものか?)でHaroldが選ばれた。Williamは面白かろう筈がない。そこで彼はHaroldの窮地を救った時に取り付けた言質をHaroldに思い出させた。Haroldの答えはWitanの決定を尊重する、というものであった。このあと9ヶ月間一族郎党を巻き込んでノルマンディ候William(フランス人)とHarold of Wessex(イギリス人)、すなわちWilliamの娘婿は王位をめぐって争います。Haroldの弟TostigはノルウェーのHarald Hardradaと組んで兄のHaroldを裏切ります。Yorkshireを制圧したものの、9月25日の暑い夏の日、北国から来たバイキングはあまりの暑さに鎧を脱ぎ、戦いの装備を解いてリラックスしていたところをHaroldに急襲され、TostigとHaraldはあっけなく戦死します。ノルウェーから来た300隻のうち、無事ノルウェーに帰れたのはたったの25隻という壊滅的敗北でした。一方HaroldがKing Hardradaと戦っている間Williamはドイツ、デンマーク、イタリアからの支持を取り付け、法王の支持も取り付けました。この交渉にWilliamはひと夏かけました。8月には700隻が戦い準備完了していました。しかしWilliamは風向きが自分に有利に変わるようひたすら待ちました。こうしてWilliamは8月27日夜ノルマンディを出航しました。翌28日にPevensey港に到着、数マイル離れたHastingに要塞を築きます。こうして1066年10月14日Hastingsで戦いの火蓋が落とされました。結果だけを簡単に言うとこの戦はWilliamの作戦勝ち、1066年10月14日はイギリスが外国人に最後に侵略、征服された日である。いつか暇な時にこの征服王ウィリアムがもたらした影響について書いてみたい。何しろこのフランス人王は英語が話せなかった。政治、法律、科学、文学はイギリスはこの時代フランス語だったのだ。つまり英語は下々庶民の話し言葉であるに過ぎなかった。フランス語統治は300年近くも続いた。
2005.10.18
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ご期待に答えて(?)イギリスの歴史編第2弾である。下の写真のハンサムな男性は誰でしょう? アメリカ人にとって一番印象深い年号ってなんだろう?1492年(コロンブスのアメリカ大陸発見)か1776年(イギリスからの独立)ぐらいではないでしょうか?日本人にとっては何だろう?1868年か1945年かなあ?1066年という年号はたいていのイギリス人が知っている特別な年号だそうだ。それはイギリスが外人に侵略され、征服された屈辱の年である。1065年、時の英国王Edward the Confessor(彼は信心深かったのでそう呼ばれた)は重病の床にあった。彼には後を継ぐべき息子がいなかった。4人の候補者が名乗りを上げた。William(後のWilliamI世、William the Conqueror)は1027年にDuke of Normandy(フランス北部)の私生児として生まれた。1035年、父親の死後Duke of Normandyを継ぎ、次々に政敵を制圧し、この頃までにはフランス国王Henry(アンリ1世)の支配から独立するまでに勢力をつけていた。彼はEdward王の遠いいとこであった。Harold of WessexAngloSaxonの中でもっとも力をもっていた。1064年フランス沿岸(Coast Ponthieu)で彼の船が難破し、捕虜として捉えられる。Williamが領主と交渉して彼を釈放する。2年後にWilliamとHaroldは共同でConan ofBrittanyと戦い勝利を収める。その功労でWilliamはHaroldにKnightの称号を送る。その見返りにHaroldはエドワード王の死後、Williamが英国王になるのをバックアップすると約束。HaroldはWilliamの娘と結婚、Williamはイギリス王となった暁には領土の半分を彼に与えると約束。WilliamとHaroldはFather-in-lawとSon-in-lawの関係である。Edgar EthelingEdward王の娘の息子、つまり彼の孫息子。Harald Hardradaノルウェー国王OlafII世の腹違いの兄弟。1065年誰が次の王になるべきか、Witanの会合が開かれた。1066年1月にWitan会議は上記4人の候補者の中からHaroldを選んだ。これが争いの発端である。 続く
2005.10.17
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昨日の日記にハノーヴァー家のことを少し書いた。チャールズ皇太子がダイアナと結婚する時に知り合いのイギリス人が少なくともダイアナはチャールズよりmoreイギリス人よ。と言っていた。またダイアナがパリで客死した時にエリザベス女王は最初何も言わなかった。それでイギリス人は「あの人たちはドイツ人だから冷たいのよ」とコメントしたそうである。今日はインターネットでどうしてイギリス王室はドイツ人なのか調べてみた。1714年にAnne女王が死んだ時に、彼女に生存する子供たちがいなかった。それでいとこをドイツのハノーヴァー家から呼んだ。これがジョージ一世となる。彼は100%ドイツ人であった。また生存中英語が全然出来なかったそうである(笑、当時はそれでも国王が勤まったのね)。イギリスはこのあとずうっとハノーヴァー家直系のドイツ人が王位を継ぐ。1760年から1820年まで統治したジョージIII世はジョージI世のひ孫にあたり、イギリスで生まれ、英語をきちんと話せる初めてのハノーヴァー家出身の国王であった。現在エリザベス女王が住むバッキンガム宮殿はもとはジョージ3世が妻のCahrlotte of Mecklenburg-Strelitzのために建立した家である。Victoria女王はお婿さんをドイツのSaxe-Coburg-Gothaから迎え、第一次世界大戦の始まる1910年ごろまで、イギリスのロイヤルファミリーはドイツ名であった。時の国王ジョージ五世は敵対するドイツ名を持つのは都合が悪いと考えたのでこのときに初めてSaxe-Coburg-Gothaのドイツ名からイギリス風のHouse of Windsorの名前に変えた。このジョージ5世を継いだ息子のエドワードはアメリカ人の2回結婚(その他にアフェアーは数知れず!)歴のあるWallis Simpsonと恋に落ち、王位を捨てる。その王位は弟(エリザベス女王の父)が継いだ。やっぱりエリザベス女王はイギリス人であるよりはドイツ人なのですね。
2005.10.16
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これはドイツの(多分世界の)オークション史上落札された最も高い花瓶である。昨日骨董屋のSの店に寄った。そこでその話を聞いた。ロシアのセントペータースブルク製の大してきれいでもない2つの花瓶。スタート値段は300(4万円強)ユーロだったそうである。で、Sにいくらまで上がったと思う?と聞かれ、冗談に8000ユーロぐらい行ったんじゃないの?と言った。この2つの花瓶、どこまで上がったと思いますか?な、な、なんと、なんと、 1.69ミリオンユーロ!!! (208万ドル!!!) (2億3660万円!!!)しかも落札者は実際にはこの2割(コミッション)増の金額をオークション会社に支払う。ハノーヴァー家の当主Ernst Augustの最初の(2番目かもしれない?)結婚で出来た2人の息子(20歳と22歳、アメリカに留学中)が2万点の絵や銀器、磁器などをサザビーズの仲介でオークションにかけた。売上は3700万ユーロだったそうであるから、サザビーズは1500万ユーロぐらい仲介手数料を儲けたことになる。Prince Augustは最近モナコのキャロリーヌと結婚した人である。300年ばかり前(正確には知らないが)このハノーヴァー家からの人がイギリスに行って国王になった(詳しい事情は忘れた、興味もない)。純粋のドイツ人である。だからハノーヴァー家はイギリスのロイヤルファミリーとはかなり近い親戚になる。マリーエンブルク城で開かれたオークションにはヨーロッパ中の貴族が美術商が集まったそうである。私も話の種に行けばよかった!いつも思うのだが、お金ってあるところには腐るほどあるものなのね。
2005.10.15
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下の写真は多分スイスだと思う。今日は明日のオークションの準備があるので、この日記は明日にまわす。
2005.09.29
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実はこの写真は33年前の古い写真をスキャンしてアメリカの眞弓さんのところに送り、アップしてもらった。桔梗さんがそれを見て以下のコメントを書いてくださった。この写真は33年前の眞弓さんと私(右端)、眞弓さんの同級生(真ん中)である。桔梗さんが間違えるのも無理はない。だって眞弓さんは33年前とプロポーションが全然変わらない!顔もよく見れば皺が増えたぐらいで、写真では全く分からないから。それで、上記のタイトルにした。眞弓ちゃんのキュートさはもしかしたら永遠?何しろ33年前のどの写真を見ても今と殆ど変わらない。私も昔は(つい5、6年前までは20代のこのスタイルを30年維持していた)彼女に負けないぐらいスタイルだけはよかったのだが、更年期からはぶくぶくと太りだしてしまった。どの写真を見ても眞弓さんと私は群を抜いてスタイルがいい。あの時代は日本女性の殆どが短足胴長、大根足かO脚であった。それにしても昔の人って写真を撮るのがなんて下手だったんだろう?足が途中で切れたような写真ばっかりである。私がシャッターを押した写真はもっとずっといいはずである。この写真はSevilla(セビーリャ)かCordovaである。多分Sevillaだと思う。Sevillaで私と眞弓ちゃんはディスコで何人かの学生の男の子たちと知り合った。彼らはギターを奏でて自分たちが作ったという歌を歌ってくれたっけ、、Para Te(Ti?) yo soy, Para Ti yo soy,,,,,,私の耳にはまだあの時の節も歌声もよみがえってくる、、、、スペインでもイタリアでもスイスでもどこへ行ってももてましたね、私たち。男の子たちは私たちの周りに蝶のように集まってきましたね。それを見た、他の女性(自称美人!)が悔しそうに皮肉をこめて私に言いました。「あら、ヨーロッパではあなたみたいなタイプがもてるのね?」(えっ、そんなに意外かなあ、当然じゃないの? - 私の今の声)私は当時の日本では決してもてないタイプであったから別にそう言われても意に介さなかった。でも33年後の今、写真を見ると私たちがもてたのは当然?だと思う。どの写真でも私たちは他の誰よりも輝いていた!個性が写真からはみ出しそう!10代、20代の私は自分が醜いと思っていた。容貌には大きな込むプレックスを抱いていた。このヨーロッパ旅行は自分に自信を持ち始めた第一歩かもしれない。この33年前のヨーロッパ旅行で私が得たものは自信だけではない。私は眞弓さんという「かけがえのない友達」を得た。
2005.09.29
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写真を見て私も思った、何でみんなおんなじ半そでの黒いTシャツを着ているんだろう?この年(1972年)にはきっと黒が流行ったのだと思う。私は学生時代から黒をよく着る人であった。でも眞弓ちゃんもその隣の(J大学のスペイン語科4年生?)も黒い半そでTシャツを着ている。そしてよくよく見ると私は確かイタリアのフィレンツェ、アカデミア(有名なダヴィデ像がある-最も美しい男性の裸体!)の前の手作りの皮のお店で買ったベルトをしている、ということはこの写真はスペインではないのかなあ。私が覚えている日程は6月末にデンマーク経由でパリ到着、パリに5日間滞在、電車夜行でサンセバスティアン、そこからサンタンデール、そこに1ヶ月滞在で夏期講習、パンプローナにはサンタンデール滞在中に訪問、1ヶ月の講習後、スペイン旅行、バルセロナからマジョルカ、そこからフィレンツェ、ローマ、ヴェニス、スイスだったと思う。だとするとこの写真はどこだろう?イタリアかなあ?そう言えばローマに”Piazza di Spana”(スペイン広場)があったけど、そこかなあ?
2005.09.25
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写真の中から楽しそうな笑い声がはじけてきそうです。真ん中の女の子にご注目ください。この日記を読んでいる人にはすぐにわかりますね。そう、これは「眞弓さん」の33年前、まだ19才か20才になったばかり、場所は定かではないのですが、多分マドリードのドン・キホーテの像がある”Plaza de Espana”(そんなところあったっけ?)ではないでしょうか? したのDaveちゃんのコメント、ありがとう。お世辞を言っただけですよ。きっと彼は心の中でこう思ったのではないでしょうか?Binchanのこの変わりようは何だ?(写真右が33年前の私、Binchanです)ぼくの眞弓ちゃんは昔も今もちっとも変わらなくてかわいい、と。この20才のプロポーションをいまだに維持しているのは驚きですね。この夏眞弓さんを訪問した時に彼女の現地のお友達のKatiebooksとランチをごいっしょした。Katieさんは本を書く人らしく、開口一番、私にこう聞いたのである。「眞弓さん」のどういうところが好きでこんなに長く友情が続いたんですか?1972年の夏、私はJ大学の主催したスペイン語夏期講習(今でいう語学短期留学)のヨーロッパ旅行に参加した。その時にスペイン語科の学生だった眞弓さんといっしょにスペイン語を勉強し(クラスはテストで二つに分けられ、私はスペイン語専攻でなくて上級に入った唯一の人だった- 許して!、いやみな昔の自慢話)、そのあと1ヶ月以上(旅行は6月末~9月初まで)ヨーロッパを旅行して回った。いっしょに(20人ぐらいの団体)名所旧跡を見たり、芸術作品を鑑賞したのはもちろんだが、今でも思い出すのは夜な夜なディスコテックに繰り出し、Cuba Libreを飲みながら、踊り狂ったこと、登山電車に年令をごまかして(16才に?!!)半額で乗ったりとか、ヴェネツィア映画祭のプレミアに紛れ込み、招待客ばかりの中に入れてもらったとかそんなことばかりである。日本に帰ってきてから翌年に私はドイツに行ったのだが、学生であった眞弓さんとの交流は途切れることなくずうっと続いた。私の状況も激変、眞弓さんも激変(中略)、それでも友情はずうっと続く、、、これはどうしてだろうか?Katieさんのインタビューに私はこう答えたように記憶している。彼女はいつも明るい。彼女の人生が必ずしも順風満帆でなかった時ですら、彼女とはいつも笑いあっていた。私は自分を悲劇の主人公にして泣く人より、自分の人生をコメディにしてしまえる人のほうが断然好きである。日本女性でこの資質を持つ人は少ない。私の夫も彼女が大好きであり、日本人には珍しい(女性には特に!)"Sense of Humor"があると絶賛していた。"Sense of Humor"とは自分を客観的に見て笑える能力のことだと私は思う。**************いつか彼女に日記に書いてあった。「金銭の貸し借り」をしないことが友情の秘訣だと。それも一つの条件には違いない。でもそれだけではない。眞弓さんは花に例えたら「ひまわり」のような人だと思う。彼女がいると周りが明るくなり、はじけるような笑い声が絶えない。でも彼女の人生がいつも順風満帆であった訳ではない。若くしてリューマチの発病があった、離婚もあった、シングルマザーの子育てもあった。それでも彼女とはいつも笑っていた。その笑える能力を私はすばらしいと思う。彼女は人が悪意なく言ったことを決して悪く取らない。また人の悪口、陰口、告げ口をしない。これは私のモットーでもある。また彼女は「気配り」の人でもある。「人に気を使わせないようにする」のも気配りだと思う。******昔を思い出しながら、1時間ぐらい日記の続きを書いていたら、電話がなった。急ぎの書類をメールするから読んで欲しいと。最新のコンピュータで送ったから、私の古いコンピュータを1行ごとに左右に画面を動かさないと読めない。画面を小さくしようと思っていろいろやっているうちに「日記の続き」がなくなってしまった。再度書いたけど同じものは書けない。書き上げたのはなんか気が抜けたビールみたいになってしまった。ごめんね!
2005.09.23
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「眞弓の庭」はとても広い。どれぐらいあるんだろう?ともかく広いので庭作りは大変だったと思う。庭師を使わないで殆どDaveと眞弓ちゃんの努力の結晶である。8月の暑い日眞弓ちゃんと二人でサンスクリーンを塗りたくって散歩に出た。周りの庭を東側から観察するためである。この辺で庭を持つ(手入れする)ということは大変な労力かお金あるいは両方を意味する。何しろ乾ききった大地、夏は来る日も来る日もピカーンと晴れた青空、雨は一滴も降らないのだから。眞弓ディブ夫妻の南側の家は庭師を入れたそうである。でも手入れを怠ったので、旅行中に北側の木が枯れてしまった。今も枯れたままほおってあるので見苦しい。ドイツだったら隣から苦情が来るであろう、庭の美観を損ねるから。中には手入れする暇がなかったのか、お金がなかったのか庭は荒れ放題と言う家もあった。ここはドイツと違って夏は雨が降らないから、手入れしないと庭はすぐ枯れ草で荒れてしまう。中にはプールのある家もある。小さな子供がいる家はブランコなんかも。そうだろうなあ、この暑さでは子供を公園で遊ばせるなんて出来ないもんね。私はプールなんか庭に造る人の気が知れない。ただ水浴びしか出来ないし、この暑さの中日向に寝っころがるのもなあ。私はおかやきが大っ嫌い。「眞弓の庭」の日陰にはブランコがある。このブランコに座って読書か昼寝なんて最高!!眞弓の庭がいいのは手作りの暖かさにあふれているところかもしれない。敷石もまっすぐではなく曲げて変化をつけてある。大きな木が1本あって日陰を作っている。大きな木が1本か2本あると日陰を作ってくれるだけでなく、庭にメリハリがつく。同様に高さも東側の隅っこは土を40cmぐらい盛って高くなっている。この高さが一様でないのもメリハリが利いていい。植えてある木もいろいろである。カリフォルニアは植物の成長が早いらしく、桃、なし、みかんがたわわに実をつけていた。20件か30件ぐらい庭を見て歩いたけど、眞弓の庭が一等賞だった。中でもすばらしいのはローズガーデンである。アーチに這っているバラもすごくきれい。毎朝暑くなる前に咲き終わったバラを選定するのは楽しい仕事であった。開き始めた朝のバラはとても美しい。帰るちょっと前に私はバラをプレゼントしてきた。Daveはバラがあまり好きではないらしく、渋ったのだが、私の希望を強引に押し付けてしまった。眞弓ちゃんが選んだのは「イングリッド・バーグマン」という名前の真紅のバラ。もう一つは色が気に入って買った「コーラル」。名前の通り、淡いピンクに珊瑚のオレンジ色を混ぜたような色である。真紅のバラの名前のイングリッド・バーグマンは彼女の容姿には合わないように思ったが、考えてみると彼女は結婚していたのにもかかわらず、イタリア人のロッセリーニと恋に落ちて駆け落ちしてしまったほど情熱の人だったから、真紅のバラは彼女にふさわしいのかもしれない。眞弓さんは花にたとえたら、クリーム色(黄色)のバラがふさわしい。私も山吹色の濃い黄色ではなく、澄んだ待ち宵草やポピー、バラの黄色が好きである。あ~あ、またアメリカに行きたい!!!
2005.09.22
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私はこの骨董の仕事に収入は別として満足している。自分の好きなことを仕事にしていると言う満足感がある。でも先日私の大学の後輩が某外資系企業の女性初の取締役に選ばれ、日経に名前が載ったというニュースが入った。彼女の出世はとてもうれしい、だけどどうしても私の心には「無念」のさざなみがたってしまった。学生時代もそのあとも回りの人も(自分自身も)Binchanは絶対キャリアウーマンになる、と思っていたのに、なれなかったから。外資系企業は女性の能力を無駄にしない。大学を出てから勤めたドイツ系企業では私はあらゆるチャンス(ドイツに行ったのもその一つであった)に恵まれた。でもいろいろな事情があって私はそのチャンスをいかすことが出来なかった。チャンスはその後もいつでもあった、50過ぎて就職した日系企業で働くまでは。この会社で私はそれこそぼろ雑巾のように扱われた。この屈辱は忘れない。今でもその後遺症か、日本人の男性は信用できないし、あまり商売はしたくない。ドイツからの撤退の際私はその日系企業の責任者に、今まで働いた日系以外の企業や団体は全部私の能力を高く評価してくれたのに、お宅の会社はなぜ私の能力をそんなに低くしか評価してくれないのか理由を言って欲しいと書面で質問した。返事はなかった。今思うとこの会社に解雇されたことは私の職業人生の(ポジティブな)節目、いわば私が全く別の仕事にジャンプするための踏み台になったような気がする。ともかくこの日系企業が私の職業人生の最後にならなくてよかった、と思う。昨日はちょっと遠出のオークションに行った。ビッド見積もりが低すぎて買えなかった。遠くのオークションに行く時は買えなくても何がしかの報酬をもらう取り決めにはなっている。でも私は必ずしもそれを請求していない。骨董のために働くのは苦にならないが、生活費を稼げないのはちょっとなあーーー。それで私は考えた、生活費は副業で稼ごう!で、去年までは「大家業」をやっている人のアシスタントみたいなことをやった。私も大家になりたいけど、Katieさんと違って、ちょっと資金が~(涙)。この人は自分のアパートを3軒所有して、他にアパートを18軒借りて、それを一週間単位でホテルアパートとして貸している。F市はビジネス都市であるから、ビジネス需要が結構ある、例えばメッセの時のホテル代わりとか、単身赴任者用とか。一週間単位(3日しか泊まらなくても一週間分チャージだから儲かる!)だから、出たり入ったりのコントロールでとても忙しい。彼女は年だから、後継として私に任せたい、と。だけどこの仕事は骨董の仕事が暇な時にやるという訳には行かない。両方とも期日にしばられるから両立は不可能であることがすぐにわかった。起業に成功した私の友人たちはなぜか口をそろえて言う、ビジネスを自分でやったら、お金をもうけなければ意味はない、趣味でなんかやるんなら、最初からやらないほうがいいと。その意味ではこのホテルアパート業の女性はビジネスウーマンとして成功者である。また彼女は「お金が全て!」という人である。なんだかわたし、彼女を見てもちっともうらやましくはないのである。自分の好きなことを仕事に出来るのは幸せである。好きな仕事でお金が稼げたら、もっと幸せであるのは言うまでもない。目下のところ私は本業でもっとお金を稼ぐやり方を考えている。と同時にお金が儲かるサイドビジネスの計画も進行中である。
2005.09.19
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アメリカで仲良しになったKatiebooksさんが先日の日記に本業と副業について書いていらした。私もちょっと思うところあってこのテーマで日記を書くことにした。ご職業は何ですか?と聞かれて去年までの私はちょっと答えられなかった。なぜかならお金を稼ぐために結構あっちこっちに手を伸ばしていたせいでもある。それにドイツでは学歴によって職業が限られてくる。アメリカや日本のように大学で経済や法律を勉強したけど、適当な仕事がないから、タクシーの運ちゃんをしてお金を稼ぐ、なんてことはドイツでは殆どありえない。従って大学で英米文学を勉強して、教職をとっても、ドイツでは教えられない。ドイツの大学では2科目から3科目専攻して学校の先生(5年生以上)は最低2科目教えられなければならない。私が知る限り、大学では体育と化学、音楽と英語など何をとっても自由だ。学校の先生も英語と宗教学、体育と化学など、かけ離れた2科目を教える先生はざらにいる。で、私の場合、田舎に住んでいなければ、日本語と英語を教えることも出来たが、M市は私が住んでいた頃は日本語はグラマースクールの選択科目に入っていなかった。M市では去年から日本語のクラスが導入されたと言うニュースを新聞で読んだ。M市に住み始めた当時はドイツ語は今ひとつ、英語は今よりずっと流暢であった。ドイツ人の夫と神戸に長く住んでいたので私の生活語は長い間英語であったから。子供たちは英国系の学校に行っていて、家族の共通語は英語だった。私はドイツ語を何とか英語のレベルまで持っていきたい、と頑張った。日本人の中には外国に住みさえすればその国の言葉がきちんと話せるようになる、と誤解している人が多いみたいだが、これは間違いである(と思う)。20才過ぎてから何語であろうと習得(上級レベル-本や新聞が読めて、教養ある人とおしゃべり以上のディスカッションができる-)するのはかなりの努力を要する。今私は確かにドイツ語が英語のレベルになったかもしれない、でも、でも、それは私の英語のレベルが格段に下がったからドイツ語が英語のレベルと同じになっただけである(涙)。最初の頃私は職業を聞かれるたびに本当はグラマースクールの英語の教師です。でも今はxxxxをしています、のように答えていた。このxxxxは通訳、翻訳、コーディネーター、日本語講師、法律事務所勤務、日系企業勤務などであった。なぜグラマースクールの英語教師というと、「わたしゃあー、大学を出ているんだよ、」ということを暗にほのめかさないとドイツ人にバカにされるからである。定年まで勤めるつもりで引越しまでした(M市から400キロ)のに、この日系企業は撤退してしまい、私は解雇されてしまった。それで私は友人の紹介でこのアンティークの世界に入ったのである。私は昔から絵や美術品、骨董、ガラス、焼き物が大好きでコレクターでもあった。また美術品を見るのが趣味であったから、世界のどこへ行っても美術館、アートギャラリー、骨董屋を覗いた。私はもともと定年(60才)になったら、好きなことを仕事にしようと思っていた。今ではこの仕事を早く始めてよかった、と思っている。骨董は好きだから、面白くてやめられない。やればやるほど面白い。まだ4年目にしかならないが、私は日本人で誰よりもドイツ磁器(マイセン、KPM、ニュンフェンブルク、ローゼンタールなど)の相場を知っている。 続く
2005.09.17
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今回のアメリカ滞在18日間で自慢ではないがお酒を飲まなかった日は一日もない。到着日、眞弓&Dave家に着いて早々、まず一番にしたこと:待ってました!噂に聞いたメキシカンビールのコロナである。うぅ~~ん、おいしぃ~~~い!ちょっとこの味はドイツにはないなあ、ビールというより、清涼飲料水にちょっとビール味を添加したような感じ。アルコール度は大分低いような気がした。あれれ、だけどこのビールにはアルコール度の表示がない。テイクアウトのヴェトナム料理を食べながら、コロナを2本空けたが全然アルコールを飲んだという気分がしない。私はコーラ、ファンタなどの砂糖いっぱいの清涼飲料水は一切飲まない。コーラを飲んだのは30年前、ソウルから羽田への飛行機の中である。気分が悪くなってしまって吐いてしまった。あれから飲む気がしない。コロナのほかにも2種類ばかり(名前は確かTekateだったと思う)飲んだ。こちらも両方ともアルコール度は低めだが、おいしかった。アメリカのビールに対してもも私はまずい、という偏見(?)を持っていた。ハワイで飲んだBudweiserがあまりにもまずかったからである。飲んでいて保存料の化学薬品の味をはっきりと感じた。そういえばハーシーのKissチョコとかも保存料たっぷりみたいな変な味がする。あんなまずいビールやチョコレートをアメリカ人はよく食べるなあ、と思っていた。意外や意外だったのが全然期待していなかったワインである。始まりは8月28日Mちゃんが一足先に帰国した時に帰り道にカリフォルニアのワイナリーをディブちゃんの運転手つきで観光したことであった。私はドイツではビールよりもむしろワインをたしなむ。アメリカのワインなんて今までバカにしていた。なんて言ったってヨーロッパはワイン作りの本場、中世からの伝統があるからねぇ~!!でも私は間違っていた!アメリカのワインはびっくりするほどおいしかったんですねぇ。空港からの帰り道、私たちは6ヶ所(全部で50以上の醸造所がある)のワイナリーに寄り、合計19種類!!!のワインを試してみたのである。これもDaveちゃんというアルコールを全く口にしない人が運転手をしてくれたおかげである。眞弓の庭で飲む時は「Daveちゃんも飲めたらいいのにねぇ」なんて言っていたくせにこんな時は「Daveちゃんが飲めない人でよかった~」と言ってしまった勝手な私たち!!ごめんねぇ~、Mちゃん、ワインの大好きなあなたをおいて私たちだけでこぉ~~んなに楽しんでしまってぇ~!! こんどはぜひいっしょにやりましょう!カリフォルニアワインを一口で言うと(ワインの形容詞は数限られていてみんなその形容詞の組み合わせであると思う)、自然なマイルドな味とフルーティさ、それでいてドライである、に尽きると思う。それが証拠にいくら分量が少なくても19種類も飲んだら、添加物がたくさん入っている、ドイツ、オーストリアなどのワインは必ず悪酔いしてしまう。とある醸造所で眞弓ちゃんが昔、私の夫がよく言っていた、「ドイツワイン?? あんなものはワインではなくてSugar Waterだよ!!」とのRemarkに言及したところ、醸造所の人も同じ理由でその通り!と言った。それはカリフォルニアは気候がいい、太陽の光と熱をさんさんと浴びて葡萄は糖分が多く自然の甘さがあるので添加物を入れなくても発酵する。かたやドイツやオーストリア、スイスは太陽が夏でもそんなに出ない、で、糖分が足りないから、砂糖や添加物を加えて醗酵させる、つまりカリフォルニアワインは自然の恵み、ドイツワインは人工的な味の「芸術(?)」である。私は断然カリフォルニアワインのほうが好きだ。もっともMondaviやSuperyなどの名前を見るとアメリカに移住したイタリア人、フランス人が気候がワイン作りに適したカリフォルニアでワイン作りを始めたのだと思う。カリフォルニアで飲んだワイン、全部名前と感想を書いておけばよかった。今度行ったときにはそうしよう。アメリカから帰ってきて1週間しか経っていないのに、あの「眞弓の庭」で飲んだ楽しい日々は早くも遠い過去の出来事のような気がする。楽しいことって、幸せな時って何ですぐに遠い過去になってしまうのだろう?ボケ老人は近い過去は全く覚えていなくても過去の経験は昨日のことのように覚えているそうである。私も「眞弓の庭」での楽しい経験はいつまで経ってもきっと忘れないと思う。「眞弓の庭」でBBQを楽しんだこと、ワイン、ビールを飲んだ夕べ、星がきれいだったね。これを幸せと言わず、何を幸せと言おうか?眞弓ちゃん、Daveちゃん、ありがとう!!
2005.09.14
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以前の日記にアメリカの食べ物はまずい、と書いたが今回の旅行でそれを訂正したい。私はハワイにもう20年以上前に2度(オアフとマウイに合計3週間)ばかり行った。その時に結構いろいろなレストラン(私の旅の楽しみの一つは現地のおいしいものを食べることである!)をトライした。どこに行ってもまずかったので、終いにはおいしいものを求めてレストランを探すのにも疲れ(しかも子供連れで)、日本レストランに直行した。もちろんそれでもってアメリカの食べ物が分かったなどとは言わない。同様に今回の旅行で食べたものがおいしかったからと言ってアメリカのレストランの水準が上がったなどというつもりもない。これはあくまで私の個人的感想である。今回の食べ物がおいしかったのには訳がある。私たちの行ったレストランの殆どは日本料理、アジア料理であった。ラスヴェガス3泊4日滞在中に「Todai」というお寿司と中華その他食べ放題に3回も行ってしまった。今でもシーフード好きではないMちゃんの恨めしそうな顔を思い出して胸が痛む(?!)。なんと言っても3対1だからねぇ。結局ヨーロッパから行った、しかも最年長の私に敬意を表してMちゃんはせっかくおいしいアジア料理を(しかもアメリカは安い!)諦めてくれた。ありがとうね、Mちゃん。この日記を書いていても「Todai」でなみいるおいしそうなイクラ、マグロ、タイ、もろもろの貝(名前は分からない)を尻目に玉子焼きのにぎりとカッパ巻きを食べていたMちゃんが目に浮かぶ。ゴメンね、Mちゃん!Mちゃんが帰る前日には彼女ご希望のタイ料理に行った。これもドイツで食べるのよりか数段おいしい。そしてこれは4人全員ご機嫌であった。またヴェトナム料理も何回か食べたがおいしい、これは眞弓ちゃんの上の娘のMちゃんのボーイフレンドがヴェトナム系中国人であるのも関係している。おかげで私たちもおいしいものを食べるチャンスが増した。サンフランシスコで食べた飲茶もおいしかった、しかも安い。でも以前にサンフランシスコに住んでいたMちゃんや眞弓ちゃんに言わせると「10ドルなんて高い!」そうである。ドイツは日本料理が安くておいしいのはヨーロッパ一であると思う。日本料理以外も水準はともかくとして安くてボリュームがあることにかけてはヨーロッパ先進国中No.1ではないだろうか?でもアメリカでの日本料理の水準と安さはもうドイツとは比較にならない。おかげで私のウェストは、、、あーあぁぁ、、、、無残!夫(元ではない、念のため)の友達のソクラテス(レバノン人、本名、彼の4兄弟の名はピタゴラス、アリストテレス、ソクラテス、もう一人は忘れた!)曰く、「どうせ太るのなら、おいしいもので太りたい」、名言だなあ。ともかくおいしいものをいやと言うほど食べまくって太った、本望である。注:今年日本から帰ってきて(1月)始めたダイエットは3月に入って仕事が忙しくなったらコントロールが出来なくなり挫折してしまった。アメリカに行ってまた一段と太った。でもまぁ、いいか、散々楽しく飲み食いしたんだもの。もうこの年になると色気より食い気かなあ、いやまだあきらめてはいけない。アメリカでおいしかったのは、しかし、アジア料理に限られるようだ。まずかったなあ、普通のアメリカ人が行く中華料理(名前は忘れた、買物した隣にあった)、ホテルアラディンのイタリア料理(あれだったら私の作るスパゲッティのほうがずっとおいしい)、8月31日にショッピングモールで食べたピザ。まずそうだったなあ、レイクタホでディブちゃんが食べてたピザやポテト、ソーセージ類、デザート!!!ディブちゃんがビュッフェから取ってきた食べ物を見て私は再び(Mちゃんの卵焼きとカッパ巻き依頼)目が点になってしまった!だって、おいしいえびもかにも食べ放題なのに、彼の食べるものと来たら!!!でもそんなことを言っては罰があたる。なんと言っても一番おいしかったのは眞弓の庭で食べたディブちゃんが焼いてくれたとうもろこし(炭火で焼いておしょうゆをかけて焦がす!、、、思い出してよだれ、、、)やスペアリブ、バーベキューでした!そしていっしょに飲んだビールとワインでした!!! -続く
2005.09.11
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今日8月18日から18日という長い休暇からドイツに戻ってきた。私にこんなにすばらしい休暇を与えてくれた眞弓さんに心から感謝したい。日本への一時帰国を除いたら、過去17年間で一番長い休暇であった。グランドキャニオンもラスヴェガスもレイクタホもすばらしい見ものであった。でも私にとって何よりも楽しかったのは眞弓さんを軸とする他の人たちとの交流であったような気がする。どこにいっても彼女の周りには笑いが絶えない。どこに行っても(彼女の)笑い声ですぐに彼女がどこにいるのか分かるのです。そういう明るさは30ン何年前とちっとも変わらない!!。彼女の人生は決して順風満帆ではなかったのにこの「明るさ」だけは変わらない、そこが不思議であり、私が彼女を尊敬する理由の一つである。今回彼女の交友の「おこぼれ」を目いっぱい楽しんだ。日本からのMちゃん、現地のKちゃん、Katiebooksさん、元同僚のLindaとその旦那さん、Mr. 眞弓ちゃんのDave、その家族一同、眞弓ちゃんの職場での同僚、etc.私はそれらの人々とそれこそドイツでの2、3年分ぐらいの会話をしたのではないだろうか?私はドイツに住んでから今年で18年目になった。今日17年住んで今もお付き合いしている日本人のRさんと長いこと今日電話で話した。彼女は政府派遣の音楽留学生(今ではこのような人は掃いて捨てるほどいるが)でドイツ滞在40年以上、30年以上ドイツの子供たちにピアノを教えている。私は18年のうち、友達づきあいをしているのはこのRさんとドイツ人のアニヤ(と私のBFのドンちゃん)だけである。8月に入ってから彼女からの連絡がちょっと途絶えて私は心配していた。案の定彼女のお母さまが亡くなられて(98才)日本に帰国なさっていたとのこと。えんえんと2時間近くしゃべっていたのではないだろうか。彼女とは5年ばかり前に未亡人(年下、59才の若さで亡くなった)になって以来、深い交流が続いている。日本にしか住んだことのない人にはわからないかも知れないが、ここドイツではわずらわしい親戚づきあいはないかもしれないが個々の個人はとっても孤独な生活を送っている。私自身もその孤独な生活に慣れ(いや、私と友達づきあいをしたいという人はいくらでもいる!!でもねぇ、、、、面白くない人と付き合うのは時間の無駄だからねぇ)、別に友達がいなくても寂しいとも思わない生活を送っている、まあ、楽天に眞弓ちゃん、桔梗さん、此花朔耶さんもいるしなあ、、、、アメリカに行って感じたこの楽しさ、この気楽さ(ドイツには何年住んでも絶対にない!)はいったい何なんだろう?ともかく私に多くの???を与えてくれた今回のアメリカ旅行であった。その楽しさを教えてくれた眞弓さんには感謝してもしきれない、、、、
2005.09.06
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ghjghghgh
2005.08.23
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practise
2005.08.21
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明日の朝早くアメリカに出発だというのになんということだ、私のアパートのバスルームから水漏れがしている。9時になるのを待って管理人に電話する。彼は11時ごろに見に来て職人を呼ぶ手配をしてくれた。2時ごろになってやっと職人二人がやってくる。調べた結果シャワーの中のパイプが壊れて水が漏れていた。バスルームにはバスタブ、流しの下、シャワーのの下のタイルに穴が開いている。漏れている箇所はふさいだので、タイルの修理と部品の替えはアメリカ旅行から帰ってきてからやってもらうことにする。幸いなことにこれは建物の保険でカバーされる。やれやれ、、、職人が帰ったのはやっと5時半、骨董屋のSeeさんに電話して、残金を払い、人形をピックアップする。先週Seeさんはちょっと変わったマイセンの人形を仕入れてきたので、eBayに出す前に私が買ってしまった。帰ってから、最後のパッキングにかかる。
2005.08.17
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さあ、この天使のように愛らしいベイビーは誰でしょう?この写真だけ見ると将来はベッカムかヒューグラントになりそうですが、これはうちのドンちゃんの半世紀前の写真です。彼はスポーツマンだから(またドイツ人ではないので)、体型は50過ぎたとは思えないほど若いです。ヨーロッパ人は国によってある程度顔も体型も異なります。例えばドイツ人にはがっしりした骨組みにしっかりと脂肪がついて、お尻もおなかも大きい人が多いです。イタリア人は下半身が引き締まった人が多い(コマーシャルのモデルになる男はイタリア系が多いと思う)。----- 続く
2005.07.20
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私のしょぼいHPを読んでくださっている三名の方から次のような書き込みがあったのでその返事を書くことにした。Re:イギリスはおいしい(07/14) 楽天眞弓さん つまり、イギリスではイギリス料理以外の料理が食べれるレストランが増え、イギリス人も美味しいよその国の料理を楽しむようになったということで、イギリス料理自体はまだ まずいままということ?とにかく、おかえりなさい!(2005.07.18 04:49:51)-----私がイギリスを知っているのは1972年から2005年までである。食べるものに関して言えば、1972年から最後から2番目の1990年までは変化を感じなかった。私の分析はこうである。レストランの質はおいしいものに対してお金を払うのを惜しまない人がいてこそあがると思う。イギリスは日本をはじめ各国が不況に突入した90年代に入ってからも経済は絶好調だった。所得水準が上がった、食べ物に偏見のない若い人がお金を払ってフィッシュ&チップス以外のものも食べるようになった、食べたらおいしかった、というのも一因ではなかろうか?1972年にフィッシュ&チップスを食べた時もおいしいとは思わなかった。あのころは今ドイツで冷凍で売っているみたいな細長い今のチップスみたいな大きさの干からびたようなフィッシュフライだった。チップスも今より小さい干からびた感じのものだった。うぅーん、イギリスの食べ物はちょっとハワイと似ている。ハワイもおいしいものを食べるのが難しい。アメリカ人はあんな豪華なホテル(マウイヒルトン)でなんであんなまずいものが食べられるんだろう?と感心しました。-----Re:イギリスはおいしい(07/14) 桔梗2289さん お帰りなさい、お疲れ様でした。我が家も休日の昼食は、焼きそばが多いです。イギリスがまずいなんて今まで知りませんでした。そういえば、イタリア料理、ロシア料理、中華料理、フランス料理、地中海料理等々・・ホント!イギリス料理なんて聞きませんんね。ダイアナ妃も、美味しいものはあまり食べなかったのかしら?(2005.07.18 12:58:27)-----シンガポールのレストランガイドにイタリア料理、日本、フランス、いろいろ並んでいました。アメリカの下に代表的なレストランとしてマクドナルド、ケンタッキーフライドチキンが載っていました。イギリスの水準も似たようなものです。でもアメリカ(ハワイ)よりはましだと思うなあ。ハワイで上の娘が5才(マック大好き!)がハンバーガーショップで、おなかがすいていたにもかかわらず、ハンバーガーを残しました。そして一言言いました、「ママ、ごめんね、でもまずくてたべられない、、、、」あのまずさ、今でも忘れられません。アメリカ人って味覚オンチが多いのではないでしょうか?-----イギリスのフィッシュアンドチップス 此花朔耶さん は、さすがにおいしかった記憶があります。林望氏の著作は好きで、3冊ほど持っております。ウオーカーズのフィンガービスケットもカロリーさえ低ければ毎日食べたいほど好き、ですが、あれは料理ではありませんものね。(2005.07.19 00:31:06)-----私も今回フィッシュ&チップスはおいしくて2度も食べてしまいました。ウォーカーズのフィンガービスケットは私は知りません。今度試してみようっと。林望先生、私は「イギリスは、、」しか知りません。それもついこの間読んだばかり、88年(私がドイツに来た)以降に出版された本はあまり読んでいないのです。-----以下うちのダーリンでもってイギリス人がどのように味覚を進化させることが出来るか書いてみました。ドンちゃんは最初私が日本料理を作っても決して箸をつけることはありませんでした。気味悪そうに見ているだけ、、、、しまいに私はしっ、しっ、と猫を追い払うように彼を追い払いました。ある日、私はドンちゃんと領事館主催の日本経済に関する講演会に行きました。講演が終わったあと領事館からなんと「すし元」のおすしの折り詰めがでましたっ!おなかがすいていたドンちゃんは食べたのですねぇ。非常においしかったそうです、日本料理初体験、生魚(何種類もの)初体験の瞬間でした。フランクフルト総領事館に感謝、ですね。それから彼は徐々に日本的なものを食べるようになりました。食べてみたら、何でもおいしいじゃないか、、、そんなところでしょう。週末はポークの味噌漬(味噌、しょうゆ、みりん、しょうがとにんにくのすりおろし)をおいしいと言って食べました。このようにしてうちのイギリス人は50年の味覚オンチから進化中です。
2005.07.19
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木曜日は朝4時半に起きて、5時半にDr.Gに飛行場まで送ってもらった。私は7時15分にフランクフルトへ、Kは7時45分にパリ経由で日本に帰る。ルフトハンザ機は定刻にフランクフルトに着いた。帰りに7月2日のオークションで保留になっていた分をピックアップして行こうかとも思ったが、暑いし疲れていたのでまっすぐに家に帰ることにした。やれやれドイツも相当の暑さである。12時半頃家に着いた。荷物を整理して冷凍庫のパエーリャを出して、玉ねぎとしょうがと冷凍のえびを加えていためて食べた。ここのところずうっと洋食が続いたので、日本のご飯が食べたい。食べた後は疲れてソファで昼寝をした。私が初めてイギリスに行ったのは1972年のことである。ロンドンで帰りの飛行機が取れなくてイギリスに3週間もいることになってしまった。あれからイギリスには何度も行った。数えてみたら、72年、74年、76年、84年、86年、90年、2005年と今回が7回目のイギリス訪問であった。ドイツに住むようになって(1988年)から、2回しか行ってない。90年は確かGがボーディングスクールに入った時である。最近、林望の「イギリスはおいしい」という本を読んだ。この本はイギリス料理がいかにまずいか、またイギリス人がいかに味覚オンチであるか延々と書いてある。私も今回イギリスに行くまでは全く同感であった。1990年まで何回もイギリスに行ったが、私の個人的意見ではイギリスはおいしいものにありつけるチャンスが最も少ない国であると思う。私はどこの国に旅行してもそこでおいしいものを一回でいいから食べようと努力する。イギリスは私の努力にもかかわらず、一回もおいしいものにありつけたことのない国だった、今回の旅行までは。彼らは決まって言う、レストランはまずいけど、家庭料理はおいしい、と。私はこれも疑わしい、と思っている。私の娘も12、3年前にイギリスに語学研修に行った。帰ってきて、ママが日本人でよかった、おいしいお料理が食べられてうれしい、と言った。イギリスの家庭で出された料理はそれはひどかったそうである。バラエティが全然ない。味付けも軽い塩味一辺倒!野菜はぐちゃぐちゃに煮て薄い塩味をつけるだけ、味付けがチョー単調、おいしいものなんか4週間全然食べなかったそうである。ドンちゃんを見ていてもそう思う。「アンタ、いったいどんなものを食べて育ったんだい?」と聞きたくなるほど(実際に聞いて確かめちゃったのだが)グルメではない(おいしいものを食べようという意欲が全然ない!!)。でも今回の15年ぶりの旅行から言うとイギリス料理はこの15年間に進化したようだ。昔はロンドンの日本料理店(“ひろこ”-私の間接的な知り合い-や“まさこ”-帝人の大宅昌子さんがオーナー)は高くて、日本人しか入っていなかった。でも今はイギリス人経営の日本料理店があちこちにあるそうである。客はイギリス人である。この15年間にイギリス人もおいしいものを食べる喜びを学んだようだ。今回のイギリス旅行の結論: 「イギリスはおいしかった!」
2005.07.14
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今日はバーミンガム滞在最後の一日。Mariは今日は午後7時から翌日の朝7時まで夜勤である。車で骨董屋に案内してくれることになった。バーミンガムでは1年に4回大きな骨董市が開かれるそうだが、骨董屋はあまりないようだ。イエローページを見ると骨董屋はあまり載っていない。でもオークションはあるようだ。骨董屋は圧倒的にロンドンに集中しているみたい。最初に行ったところはかなり本格的な骨董屋(ガラクタ屋、古道具屋ではない)だった。18Cの家具が中心と見た。イギリスの家具はかなりシンプルである。値段は高い。ドイツのオークションで(イギリスの家具を)買うほうがずっと安い。次に行ったところはガラクタばかりだった。ここも90%が家具である。ガラスや焼き物もあったが新しい安物ばかりで美術骨董のようなものは皆無だった。同じ通りにもう1軒骨董屋があったので行こうと思ったが、イギリスの建物は表にNo.を書いてあるのは少なく、あっという間に通り過ぎてしまった。暑いし、もう戻らないことにした。いったん家に戻り、お昼は歩いてイタリアンに行くことにする。Mariがおいしいところを知っていると言うので案内してもらう。3人で別々のピザを取って分け合う。どれもおいしかった。私はアメリカ式のパンみたいに厚いピザは好きではない。ここのピザはカリカリとクリスピーでおいしかった。昼間からまたビールを飲んでしまった。食べ終わるともう2時半になってしまった。Mariが繁華街のデパートに案内してくれると言ったが、彼女は7時から夜勤なので、それはありがたい申し出ではあったが、断った。タクシーで繁華街まで行く。Kは会社の女の子にお土産を買わなければならないと言う。私は特に買うものはなかったが、イギリスのデパートを見てみたかった。まずDVD/CD屋に入る。そこで私は前から欲しかったFour Weddings and a Funeralを買う。ドンちゃんへのお土産にKお勧めのGold Mountainを買った。そして何年か前にドイツで探してどうしても見つからなかったRobson & JeromeのUnchained Melodyの入ったCDを買った。私はRighteous Brothersのアンチェインドメロディも好きだが、R&Jのはもっとスウィートである。何であんなにあま~い声が出るんだろう、と思うほどsweetだ。私も娘たちもこの曲が大好きだ。今流行っているHoobastankのCDも買おうと思ったが、8ポンドがドイツより安いのか高いのか分からないので止めた。バーミンガムのデパートの地下はちょっと日本のデパートのデパ地下みたいになっている。ドイツの日本語新聞で読んだYo回転寿司もあった。いろいろなお惣菜風なものが売っている。お土産を買ってから今日の夕飯は焼きそばにするので、中華そばを買いに中華街に行った。ショック、この辺の中華ショップは6時に閉店だということが分かった。時すでに遅し、、、6時20分過ぎであった。えー、ドイツですらこの頃は夜の8時まで開いているのに、6時閉店だなんて!あの夜遅くまで働く中国商人はバーミンガムにはいないらしい。買物に疲れてちょっとお茶したのが間違いだった。どうしよう?私はスパゲッティで代用することを勧めた。で、タクシーで家のほうに戻り、マークス&スペンサーでスパゲッティと野菜、肉を買うことにした。ところがそこで見つけたのである、ちゃんとした生の焼きそば用の中華麺を。6人分300gx3を買う。野菜はグリーンアスパラガス、たまねぎ、長ネギ、にんじんなどと豚バラ肉を買った。そこでKは鍵を忘れたことに気付いた。なんと言うことだ!Dr.Gが帰宅する9時まで家に入れない!また近所のパブに行ってビールを飲み9時まで暇をつぶした。Gの仕事が終わる頃電話してピックアップしてもらって家に帰る。焼きそばはいろいろな野菜を入れてとてもおいしかった。明日の朝早く帰ってくるMariの分も作っておいた。明日は7時15分の飛行機に乗ってドイツに帰る。
2005.07.13
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昨日の会社訪問の成功によって一応バーミンガムに来た目的は達成した。今日はDr.GもMariも昼間の勤務である。だから私とKはTake it easyに過ごすことにした。朝はGとMariが出勤後(7時半)にゆっくりと起きて、シャワーを浴びる。庭でトースト、果物、サラダの朝食を取る。Gのギリシャのおばあちゃんが作ったオレンジジャムがおいしい。昼間は暑くても朝晩はセーターがいるほど涼しい。Kと日本語で息子の前では話せないようなこと(例えばKのボーイフレンドのこと、前夫とのトラブル等)を話した。それから部屋で今後私に何を期待しているかを話し合った。もう毎年自分や社員が新しい商品の開拓にヨーロッパに来るのは効率が悪いし、費用もかかるから、私にドイツを本拠地にして商品のリサーチをやって欲しい、ということらしい。中にはドイツ製もあるし、ドイツで調達できそうなものもたくさんありそうだ。やってみることにする。Kからカタログをもらって、製品の説明を受ける。午後からMariに書いてもらった地図を頼りに街中に出てみる。まず銀行で両替。ユーロになってから、ドイツの銀行では両替部門を大幅に縮小したようだ。その銀行に口座を持っていなければ、両替が出来ないようになった。イギリスでも同じようなことを言われた。郵便局なら誰でも両替できると聞いて郵便局に行く。イギリスはクレジットカードが使えるので、50ユーロしか替えなかった。パブの外の木陰のテーブルでビールとパスタの軽い昼食を取る。そのあとそこでおしゃべりしながらビーズや真珠、天然石を使ったネックレス、指輪、イヤリングなどのアクセサリーを作った。こういうのってボケ防止にはとても役立つと思う。指先を使うし、どういうものを作ろうか、デザインにも頭と色合いなどのセンスも使う。夕方地図の学校を目印に帰路についたが、間違った学校を目印に歩いたため、道に迷ってしまった。今日も暑い。毎日暑い。ドイツより暑い。日曜日にこれは異例の暑さだと言っていたが、毎日異例の暑さが続く。1時間ぐらい歩いてやっと家に着いた。Dr.Gはもう帰っていた。Mariが帰ってくるまで庭でビールを飲む。8時ちょっと前に帰ってきたMariとインド料理店に歩いていく。バーミンガムはカレーがイギリスで一番おいしいところだと骨董屋さんから聞いた。でも15年前にブライトンで食べたカレーが水っぽくてあまりにまずかったので、半信半疑であった。私が14年住んだ神戸もインド人が多く住んでいて、インド料理がおいしいところだった。でもバーミンガムのカレーは今まで食べたカレーの中で一番おいしかった。前菜にサモサを取り、そのあと4種類のカレーをナン(パン)とライスでみんなで分け合って食べた。おいしかった~~!!
2005.07.12
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昨日バーベキューの後仕事の打ち合わせをした。今日はバーミンガムから北へ3時間行った会社と午後2時にアポがある。朝9時にドクターG(一日休暇を取ってくれた)の運転でPeterlieというところに向かう。昨日の日曜日も例外的な暑さだったが、今日もものすごい暑さだ。イギリスもドイツと同じように家にも建物にも車にも冷房はないのが普通である。車は真夏の太陽の中で蒸し風呂状態である。窓をいっぱいに開けて140~160キロで走るから、ものすごい風、Peterlieにつくのに3時間半、そこで目的の会社を探すのに30分近くかかった。会談は2時のアポイントだったが、1時45分から始まった。友人のK、わたし、オーダーを受けたセールス担当の責任者のゴードン、製造部門の責任者ジョン、の4人、イギリスではみんなファーストネームで呼ぶのでちょっと変、私も会ったばかりの人にBinchanと呼ばれる。部屋は冷房なしだからとても暑い、会議の進め方はドイツと殆ど同じ、いきなり本題に入る。友人はゴードンがオーダーを受けたのだから、全部彼が責任を持って問題の処理にあたる、と思っていた。私はそんなことは(誰に問題を話しても、その会社の人はしかるべきところに社内で話を持っていき回答してくれる日本のシステム)ヨーロッパの会社では期待できない、ということを説明しておいた。セールスはセールス、製造は製造部門の人しか分からない。結論を早く言うと製造責任者はなぜ6月のShipmentが製品不備だったのか原因は分からない、これから製造部門の担当者と話して原因を突き止めるそしてリポートする、こちらは今後このような不備な製品しか出来ないのなら、オーダーはキャンセル、品質改良できれば、もっとオーダーする等の結論に至った。問題がどこにあるのか分かったこと、問題をどう解決してくれるのか回答を得たことなどで今回の会社訪問は成功であったと友人は言う。私がショックだったのはゴードンと最初電話で話した時、私は彼はその英語のアクセントから外国人だと思ったこと!ジョンの英語もフォローするのが難しい。私は自分の英語にすっかり自信を失ってしまった。えっ、えー、こんな筈ではなかったよ!私は英文科と言ってもイギリスならBBCのアナウンサーのような英語、ブレアのような中流階級の英語、アメリカならBostonのハーバード出の英語(私の大学時代の先生)でないと分からない、のである。ドイツには何せ17年も住んでいるから、ハイジャーマン(標準ドイツ語)でなくても一応理解できる。この友人Kには私は会うたびに感心してしまう。大学を出ているわけではない。私の年代では頭がよくても大学に行かなかった人はいくらでもいる。Kは化学を勉強したわけでもないのに、不良品を一所懸命改良して、ある程度売れるよう製品化した。その方法は企業秘密だからここには書けない。彼女は10年前に会社を興し、自分の才覚で従業員7,8人を使って会社を成功させた。彼女の才覚と、Creativityで事業を成功させた。私は心から彼女を尊敬する。私も50代で始めた骨董ビジネスを成功させたい。バーミンガムに帰ってから、彼女特製の豚肉味噌漬のステーキで晩ご飯にした。またビールとワイン。楽しい。前回イギリスを訪問したのは1990年、Gが寄宿舎に入る時だった。私はドイツからブライトンに行ってKとGに合流した。あれから15年の歳月が流れた。Gは立派な医者になり、Kは旦那と離婚して事業を起こした。歳月は流れ、私にもいろいろなことがあった。感無量。
2005.07.11
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バーミンガムでは土曜日に爆弾の予告があり、避難命令が出たとのことでちょっと心配していた。土曜日の夜友人のKさんから電話があり、日曜日は空港から直接ケンブリッジに車で行き、スケジュールが一日中目いっぱいに組んであるという。日曜日の朝、8時の飛行機に乗るべく、4時半(イギリス時間の3時半!)に起き、ドンちゃんに車で駅まで送ってもらう。日曜日はバスが朝の9時までない。電車で空港に向かう。7時ちょっと前に空港に到着、チェックインする。ところがなんと、なんと、8時発のルフトハンザは爆弾予告の余波を受けてキャンセルされてしまった。Kさんに電話をして今日の予定を変えてもらう。バーミンガムには11時過ぎ到着になる旨伝えた。空港で待つこと約4時間、飛行機は30分遅れて離陸したが、到着は殆ど予定通り、小さいバッグ一つを機内持込にしたので、すぐに外に出られた。イギリスの入国審査も前よりずっと簡単になったようだ。Kさんと彼女の息子のGが待っていた。GのフィアンセのMarixxxに紹介される。Gは上の娘が神戸の英国系小学校に通っていた頃の同級生である。Mariの運転でケンブリッジに向かう。彼女の両親とケンブリッジで落ち合うためである。彼女のお父さんはケンブリッジ大学を出て、先生になり、今は学校関係のエライさんらしい。Kはとても緊張していた。みんなイギリスの中流階級のきれいな英語なのでとても話しやすい。おなかがすいたのでまず腹ごしらえ。カム川(CambridgeはCam川にかかる橋という意味)のほとりのパブでビールとイギリス名物フィッシュ&チップスを食べる。ケチャップをたくさんかけて、なかなかおいしい。食べたあとはK、息子の医者のG、Mari(看護婦)、Mariの両親、私の6人でカム川のボートトリップを楽しんだ。この日はものすごい暑さだった。で、ボートで観光をするのはグッドアイディアだった、暑い中歩かなくてもすんだから。この頃のイギリスの若い男はハンサムなのが多い、ボートこぎのお兄さんたちもケンブリッジの学生がアルバイトをしているのかなあ、みんないい体格をしてきれいな顔をしていた。イギリス人はドイツ人のように太っていない。ボートトリップのあとは暑いので芝生の上に座って木陰でみんなで話をした。4時半頃、Mariの両親と別れて、今度はGの運転でバーミンガムに帰ってきた。GとMariはバーミンガムに家を買って2ヶ月前に引っ越した。家は中古を買ったので、まだ壁も塗り替えるし、リフォームをするらしい。イギリスは壁がレンガ造りの家が多い、GとMariの家もそうである。寝室3つ、居間とダイニングルームもあり、なかなか広くて立派である。また環境がすばらしい。緑に囲まれ、静か、しかも買い物には徒歩10分で街に行ける。庭でGが炭火をおこしてバーベキューをする。おいしい、みんなで話も弾み、ビールとワイン(全員ノンベエ)でおなかいっぱい。Gは母親は日本人、父親はギリシャ人で、イギリスではものすごくもてたらしい。で、そんなに早く結婚するのはちょっと意外だった。Mariが早く結婚したがったらしい。Mariは金髪碧眼、バラ色のほほ、真っ白なきれいな肌、English Roseという形容がぴったりの美しく、性格もチャーミング、優しいよく気のつく女性である。二人はもうラブラブ、熱愛状態である。今日は朝早くから夜遅くまで長い一日だった。
2005.07.10
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ここ2,3週間はとても忙しかった。日記も書こうと思えば書けるのだが、書くと仕事のことばかりになってしまう。仕事のことは誰が見るかわからないインターネットには公表できない。狭い業界のことなのでどこの誰だか分かってしまうのである。オークションがあって買いつけたのはもちろんだが、先週はそれよりも友人の会社のコレポンで忙しかった。イギリスの会社とトラブルをおこしていて、その会社の担当者がのらりくらりと逃げてばかりで連絡がうまく行かない。そこでBinchanの登場と相成った。ドイツ人に言わせるとイギリス人はalways teatimeでろくに仕事をしないそうだ。でもそれは昔のことであり、私にはドイツ人が昔のようにまじめに働いているとはとても思えないけどなあ。統計の上からもドイツ人は休暇旅行チャンピオンである。病欠が減ったと言っても25日から13日になっただけである。休暇30日+25日+祭日が12日減っただけで、43日は8週間以上である。コレに祭日をあわせると10週間!ぐらいになると思う。電話で話したところその担当者はイタリア語なまりの英語であった(名前は普通のイギリス人だけど)。日本からの連絡がおたがいにうまく行かなかったのは時差の関係もあるようだ。ともかく11日のアポイントは確認でき、昨日はオーダーしたものも11日には手に入るというメールが入った。私がドイツで学んだのは例え相手のミスであっても、真正面から相手を非難攻撃するのは賢くない、ということである。相手を非難したら、決して相手はこちらの思うようには余計やってくれなくなる、と思う。非難する言葉は(冷静に考えてから)控えめに、ねぎらいや感謝の言葉は惜しみなく素早くすべきである。昨日オークション会社から買い付け品が届いた。前回のオークションの買い付け品は梱包が悪くて高価なお皿が2枚割れてしまった。それで今回メールにパッキングに気をつけるよう書こうかな、と思ったが書かなかった。余計なことを書かなくてよかった。相手は書かなくても前回の失敗は分かっているのである。やっぱり今回は念入りにパッキングしてあった。今日は日本に無事ガラスが到着したと言う連絡があった。よかった!イギリスに行く前に連絡があって。完璧な梱包だと言う感謝の言葉と梱包代100ユーロのボーナスをいただいた。これは薄い大きなバカラのガラスで梱包はウルトラC級の難しさ、おき場所があれば取りに来て貰いたいものだった。発送から到着まで心配していた。日通の人から、プロの美術品専門の運送会社の梱包したマイセンはよく壊れて到着する、と聞いている。このあたしの梱包技術だとアルバイトで使ってもらえるのではないだろうか?イギリスで木曜日にテロがあったので、ちょっと心配だけど、明日行ってきます。朝8時の飛行機なので、6時前に家を出発です。
2005.07.09
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アールヌーヴォーの飾り棚が我が家にやってきた。これは6月4日のオークションで私としては清水の舞台から飛び降りて買ったものである。いくらまで競ったかは営業秘密なので言わないが、一目惚れして買ったものである。アールヌーヴォー独特の優雅なカーブが美しい。この上に先週買ったアールヌーヴォーのオパールガラスの卓上ランプを置くと時代が同じせいかびったりとマッチする。でもコンピュータデスクの横に置いてあるので、居間を片付けてこの飾り棚にふさわしい場所を作らねば。本、カセット、CDの整理は遅々として進まない。カセットを聞き始めると思い出に浸ってしまい、捨て難くなるからである。昔聞いた曲、もう一度聞くとあの頃の思い出がよみがえる。例えば、佐藤隆のマイクラシック、デパート大丸のテーマソングだった。私は神戸の異人館どおり、神戸大丸まで歩いて15分のところに住んでいた。何を買うにも大丸に行った、近いから。この曲が流れていたっけ。私は今でも生まれ故郷横浜を除いたら、神戸の街が大好きである。去年の12月に里帰りした折に10年ぶりに神戸を訪れたが、その変わりようにびっくりした。ホテルやマンションがびっしりと隙間なく建っていてがっかりした。7月の第2週にイギリスのバーミンガムに行くことになった。今年はアメリカに行くので、それでかなりお金を使うので、バーミンガム行きはいったん断ったのだが、神戸の友人が飛行機代と滞在費を負担するから来て欲しい、と言われ、行くことにした。彼女の仕事を少し手伝うことになりそうだ。私に出来ることならお安いごようだ。この頃私はアンティークにのめりすぎだからちょうどいいかも。やっぱり商売をやるからには儲からなくては意味がない、とみんなに忠告されている。でもアンティークはもう面白くて辞められない、たとえあまり儲からなくても。少しこの辺で生活費を稼ぐ努力を真剣にせねば!ところで「フェラーリの君」- 爽やかな人はこれからこう呼ぶ-との未来は絶望的であると思う。地下に行って彼の車をしげしげと見たけど(それは二人乗りスポーツカー)、やっぱり彼はこういう車に乗っけて様になる人を選ぶであろう。それは(多分)彼の前任地モナコのナンバーだった。彼はどんなところで働いているのだろう。最初は金融関係かと思った。モナコだったら、違うかも。今度会ったら聞いてみよう。今度会ったら少し気の聞いたことが言えるよう考えておこう。この間まで私は男は5ヶ国語で口説けると言うのが自慢だったのに、ドイツに住んでいる間にそういうことにすっかり疎くなってしまった。これから女としての感性をせいぜい磨くことにしよう、ステキな出会いに備えて!
2005.06.22
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私は5年半前に北ドイツの田舎町からこの街に引っ越してきた。フランクフルトの某日系企業に就職したからである。この街にはミリオネアがいっぱい住んでいる。ミリオネアでなければ稼ぎのいい人である。第一この街のナンバーをつけている車の種類がちょっと違う。ベンツはざら、ベンツでもSクラス(最高級車)もよく見る。BMWも。私が最も美しいと思うジャガーもよく見かける。この間は散歩していたら、ご近所に見慣れない車があり、よく見たらロールスロイスだった。今日オークションハウスに電話して明日水曜日の午後ユーゲントシュティールの飾り棚を持ってきてもらうことになった。強行軍の買付のあと、この飾り棚のために居間に場所を空け、本やカセット、CDを整理した。水曜日午後までにはちょっと間があるので、整理を中断して、旅行前から気になっていた庭の草取りをすることにした。半そでのセーター、よれよれのジーンズ、サンバイザーのいでたちで庭でそれはもう一心不乱に草を引っこ抜いた。根こそぎ取らないとまた生えてくる。この雑草は前回草取りしたときにどんな花が咲くのかな、と思い、残したのが間違い。タンポポの茎を30~40cmぐらい長くした黄色い花が咲いた。それはそれで風にゆれているさまはなかなか風情がありよかった。でもその増え方、繁殖力と言ったら、ものすごい。芝生のように根が四方に広がり、そこから無数の芽が出ていた。もうすでに咲き終わった花はタンポポのように綿毛になって来年無数に生えてくるだろう。1つの株から100ぐらいの芽が出るようである。地面はこの草で土が見えないほどである。こんなに繁殖力が強い草を残したら、せっかく根付いた忘れな草やポピーが負けてしまう。それで1時間半ぐらい草をとり続けた。鼻水が出るもティッシュペーパーはなし。大型の紙袋がいっぱいになったので、家の前にあるごみコンテイナーに向かう、、、、、とそのときである、入り口に大型の黒塗りベンツSクラスがドアを開けて誰か乗ってくるのを待っていた。誰が乗り込むのか、そのとき私の勘はなぜか全然機能しなかった。そしてその人は足早にやってきた。そう、それは例の「爽やかな人」であった。もう、私の格好ときたら、穴があったら入りたかった。まともに目が合ってしまった。で、彼は私が誰だかすぐわかって、笑いながら、「やあ、ガーデニングをしていたんですか?」と言った。私、「はい、そうです、Have a nice day!」というのが精一杯。もう笑顔が引きつってしまった。私という女は失敗から何も学ばないなあ、午後からは落ち込みましたね。どうしてあんなにタイミングの悪いときに会ったのだろう?どうせ会うならオークションに行く前に会いたかった。いつもはスッピン、ジーンズにTシャツの私もオークションに行くときだけはおしゃれをして行く。服装も宝石もそれなりに考えて身に付ける。服装に自信が持てないといいビッドができない(ような気がする)。気を取り直してシャワーを浴び、着ていたものも全部洗濯籠にほおり込み、地下の洗濯機室へ。悪いことは重なるものである。いつもはやらないのだが、今日はうっかりとドイツ製のもの(寝巻き、ドイツではスリープシャツというTシャツを長くしたようなもの)と日本製のもの(下着類)をいっしょに洗ってしまった。その結果、今年買ったばかりの日本製の下着や白のHose(ズボン、最近パンツと言うみたいだけど)が青く染まってしまった。腹が立つなあ、だいたい肌に直接つけるものを何でこんなに色が出るような染め方をするのだろう? しかもこの寝巻きはRoeschという結構高いメーカーのものである。今日はよくよくついてない日であった。
2005.06.21
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2週間前の火曜日(6月7日)、オークションの買付品を日曜、月曜に梱包し、20キロ弱のカートン二つを郵便局から発送した。私はこの梱包の肉体労働のあとはリハビリのためプールで泳ぐ。プールでいつものように700メートル泳いだ後、急いでスーパーで買い物をした。今が旬のアスパラガス、ドイツで取れたいい匂いのするイチゴ、アスパラガスによく合うドイツ産シャンペンMummなどを買う。ガレージに車を入れ、荷物を下ろしていると、さぁ~と見慣れない車が私の隣に入ってきた。その車はカブリオ(日本語でオープンカー?)、ドライバーは一発できれいに入れた。誰だろう?どちらが先に挨拶をしたか、私は覚えていない。「変わった車ですね。なんていう車ですか?」「フェラーリです」私はしげしげと車を見た。高そうな車だなあ~。かっこいいなあ~、車も、運転手も!でも、でも、私は、、、、水泳のあと髪は洗いっぱなし、水着やタオルを入れたリュックサックをしょい、片手にゼクトやアスパラガスを入れたビニールのさえない買い物袋を下げ、もう一方の手にはイチゴを入れたパックをもっていた。彼は「イチゴ摘みに行ったんですか?」と聞いた。「いいえ、スーパーで買ってきたんです」(よかったらいっしょに食べます~?)なんてことは言わなかった。彼はイギリス人でここに最近引っ越してきたそうである。私の真上に住んでいる。イギリス人は知り合うきっかけの話し掛けが爽やかで感じのいい(私の私見であるが)人が多い。空港で、電車の中で、たまたま言葉を交わして、時間があったら一緒にもうちょっと過ごしたいなあ、と思わせる男性が多い。彼らは礼儀正しく、フレンドリーでかつちょっと気の聞いたことを咄嗟に言う(ユーモアのセンスかもしれない)。地下から、いっしょに1階の我が家まで階段を上ってきた。ドアを開けるなり、私は興奮してドンちゃんに新しい隣人のことを話した。あなたさえ一緒に住んでいなければ、私は彼を夕食のアスパラガスにご招待だってできたのよ!ゼクトを飲みながら、イチゴのデザートで楽しめたのに!ドイツには「胃を通して恋に落ちる」ということわざがある。女の色香は下り坂でもまだ食べ物で陥落させる手もあるってものだよ~ん。教訓:女たるもの、いつ何時、ステキな男性に遭遇するかも知れず、いつも気を抜かないで身だしなみ整えていることが大事である。オークションに行くときだけおしゃれをしていてもだめなんだよなあ。
2005.06.20
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第一日目はまずまずのできだった。本命のバカラが取れたのだから。第二日目は小物はすべて予定より安く取れたが、大物のマイセン人形は予算よりウ~ンとあがってしまい、残念ながら取れなかった。前日ファックスで骨董屋さんにこのリミットではとても無理だから、もう少しリミットを上げて欲しい、とお願いした。で、リミットを600ユーロあげてもらった。それでもこちらのリミットよりさらに800ユーロも高くなってしまった。いい人形はやっぱり高くなるなあ。この人形は19Cマイセン、天使4体と羽を広げた孔雀が入っている。天使も全部きれいな顔をしており、大きさもあり、色彩も豊か、破損も殆どなく、またオークションには滅多に出てこない人形である。もう一つ、天使のオベリスクの人形があったが、これも滅多に見たことのない人形、私はそんなにきれいだとは思わなかったのだが、ものすごく高くなった。電話のビッダーが取った。あとで品物を受け取るところでこの人形を会場で競った女性と会った。彼女は自分が逃した人形をもう一度見せて欲しい、と頼んでいた。普通はもう他人のものとなったものは見せてもらえない。彼女はケルンの美術館からこの人形を買いにきたそう。美術館の予算が足りなくて落札できなくて残念だ、どうせ業者が後で売りに来るだろうから、この人形をもう一度よく見ておきたい、と説明していた。何しろこのオークションハウスは参加者(ビッダー)の数が膨大である。小物類は結構高くなる。どういう人が買っているかというと、60代以上の年金生活者が多い、と見た。なにしろ、旧東ドイツのこの年代の人たちは戦後の西ドイツが築いた繁栄を最も享受している人たちではないだろうか?働かなくても毎月結構なお金が入ってくる!長くなった寿命!オークションハウスで買い物をするのはさぞかし楽しいであろう。私も早くそうなりたいものだ。ポースレンは午後2時過ぎに終わったので、私はそのあとは残らず、梱包後まっすぐ家に帰った。この近くにはワイマールもあり、寄っても見たかったが、何しろ連日朝早くから夜遅くまで、で、ちょっと疲れた。それに高額商品を積んでいるので、低速安全運転をしなければならない。それでまっすぐ寄り道せず300キロを一回給油休憩しただけで帰った。なお、ガソリンは過去最高値! 1リットル127.9セント(1.6ドル、180円)。
2005.06.18
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今日はオークション初日。朝9時にスタート、人形から始まる。私は人形(アンティーク)にはあまり興味がないが、ここは初めてなので、どのようなやり方をするのか研究するため9時過ぎには会場に入った。人形のいす、食器、皮のブーツなど、普通の人が使うものより高い!私はアールデコのアンティークビーズのイブニング用バッグを一つ買った。これは来月会う(イギリスで)友人へのお土産である。彼女はビーズの輸入をやっている。そのあとは宝石である。宝石はたいしたものは出ない。ノーリミット(10ユーロからビッド)のものがたくさんでたのでお遊びに2つ、3つ買ってみた。銀のブローチ(10ユーロ)、銀とヒスイのブレスレット(20ユーロ)など。銀は注文の紅茶カップホルダーやきれいなレースのスプーンなどをかなりいい値段でゲット。そのあと本命のガラス、、、緊張、、、、いよいよ来た、バカラの70cmのキャンドルスタンド。3人で競って、私が勝った!落札価格は秘密。私も自分用にアールヌーヴォーの卓上ランプ(オパールガラス)を落札。今日のオークションは大成功である。バカラはハウスの人といっしょに梱包した。梱包を終えて外にでるともう9時過ぎ、遅い夕食をこの街で一番いいらしいホテルで食べた。と言っても、ここの名物のチュ-リンガーソーセージを頼んだだけであるが。どこに入っても同じようなメニューしかない。ホテルに帰り、11時に就寝、長い1日だった。
2005.06.17
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木曜日朝7時半に出発して2泊3日の買付旅行に出た。目的地は旧東ドイツにあるオークションハウス。出品量はドイツでも1、2を争うと思う。4500点を2日でオークションにかける。1時間に200点。木曜日11時過ぎに到着。R.の街に入ったが、ナビに通りの名前が入らない。車を止めてそこら辺の人に聞く。彼は親切にも車で先導してくれた。ざっと品物を一通り見てから、注文を受けたものをじっくり検分する。で、リポートを書いてハウスの人に日本へのファックスを頼む。このオークション会社にはファックスでのプレビッドがひっきりなしに入る。それで日本へのファックスがなかなか送れなかった。外へ駐車切符を買いに出たときはすでに遅し!!反則切符を切られてしまった。オークションの時には終日見張っているのだそうな。下見を終えて何か食べようと車を置いて町に出てみた。町と言っても立派な郵便局と市役所のほかにはあまりない。ショッピングストリートもない。この街へ来る途中も壁崩壊直後によくあった朽ち果てた工場も全く見なかった。会社らしいものもなかった。いったいこの街の人はどうやって生計を立てているのだろう。食べたいようなレストランも見当たらず、結局ホテルで食べることにした。ホテルのレストランでは50代後半から70代の人たちがビールを飲みながら、大きな声で談笑していた。どっかで見た光景だと思った。そう、あれは壁崩壊から5年経って東ドイツのハレという街を訪問(友人の友人宅に泊まった)したときに見た光景と同じである。当時50過ぎた人たちは仕事がない、でも手厚い福祉がある、東ドイツマルクは西ドイツマルクと1対1で交換した、将来の経済的心配がない(年金は払ってなくても払ったものとしてもらえる)、彼らは毎晩楽しく飲んでしゃべっていた(とハレに住む東ドイツ人の説明であった)。あれから10年経ったけど、彼らのライフスタイルは変わらないみたい。この安ホテルにはサウナがあるので食事後入れるか、と聞いたら、もう9時過ぎだから、だめだと言われた。彼は10時にはサービスを終わるそうだ。今日はあまりに急いで家をでたので、本を(私は寝る前に必ず本を読む)持ってくるのを忘れた。で、仕方がないのでテレビを見て寝る。
2005.06.16
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土曜日はライン河のほとりにある小さなオークションに行った。たいしたものは出ていなかったが、マイセンの透かしフルーツ絵皿を2枚買った。あとはちょっと変わったところでは第一次大戦のマークの入った銀の茶漉し、19Cの古式豊かなガラス(今のものとは色も違う)とメタルのコンポートを買った。ガラスの小さなコンポートを一つ買った。これはアメリカの友達へのお土産である。このコンポートに彼女が好きなバラの花を短く切って浮かべたらきれいだと思った。できたら薄い黄色、クリーム色のバラを浮かべて欲しい。丈の高い花瓶は食卓で食事をするときはちょっと邪魔くさい。この花瓶なら、小さいのでちょうどいい(と思う)。気に入ってくれるかなあ?先週ガンで40才で亡くなったジャーナリストの千葉敦子さんが最後に書いたせいざんな闘病記を読んだ。彼女の最後まで自分らしく生きたい、と努力する姿にうたれた。彼女は最後まで人生を楽しく過ごしたい、という強い希望をもって、その通りに生きた。中でも印象に残るのは彼女がいつも部屋に生花を飾り、その花を毎日、飾り方を変えたという箇所だ。他の花と組み合わせたり、いつも変化をもたせていたそうな。彼女は日本からお見舞いの手紙をたくさんもらったそうで、その大部分が同情であなたのために泣いてあげる、というものだったと言う。気の強い彼女は私はいっしょに泣いてくれる人なんて欲しくない、と言った。私はその気持ちがちょっぴり分かる、私の理想の人、は私の人生がもうすぐ終わる、と分かったときにいっしょに笑ってくれる人である。私を最後まで笑わせて楽しませてくれる人がいいなあ。
2005.06.12
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土曜日はライン河のほとりにある小さなオークションに行った。たいしたものは出ていなかったが、マイセンの透かしフルーツ絵皿を2枚買った。あとはちょっと変わったところでは第一次大戦のマークの入った銀の茶漉し、19Cの古式豊かなガラス(今のものとは色も違う)とメタルのコンポートを買った。ガラスの小さなコンポートを一つ買った。これはアメリカの友達へのお土産である。このコンポートに彼女が好きなバラの花を短く切って浮かべたらきれいだと思った。できたら薄い黄色、クリーム色のバラを浮かべて欲しい。丈の高い花瓶は食卓で食事をするときはちょっと邪魔くさい。この花瓶なら、小さいのでちょうどいい(と思う)。気に入ってくれるかなあ?先週ガンで40才で亡くなったジャーナリストの千葉敦子さんが最後に書いたせいざんな闘病記を読んだ。彼女の最後まで自分らしく生きたい、と努力する姿にうたれた。彼女は最後まで人生を楽しく過ごしたい、という強い希望をもって、その通りに生きた。中でも印象に残るのは彼女がいつも部屋に生花を飾り、その花を毎日、飾り方を変えたという箇所だ。他の花と組み合わせたり、いつも変化をもたせていたそうな。彼女は日本からお見舞いの手紙をたくさんもらったそうで、その大部分が同情であなたのために泣いてあげる、というものだったと言う。気の強い彼女は私はいっしょに泣いてくれる人なんて欲しくない、と言った。私はその気持ちがちょっぴり分かる、私の理想の人、は私の人生がもうすぐ終わる、と分かったときにいっしょに笑ってくれる人である。私を最後まで笑わせて楽しませてくれる人がいいなあ。
2005.06.12
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昨日6時に目覚ましをセットしておいたが、その前に起きてしまったので、6時セットを解除しておくのを忘れた。それで今朝は6時に起こされてしまった。昨日は1時過ぎまで、リポートを書いていたので、就寝したのは1時半!もうちょっと寝たかったなあ。年をとったせいかいったん目が覚めるともう一度は寝られない。で、6時に起き出し、メールチェック、次はインターネットで新聞を読む。さまざまなメルマガを読む。便利な世の中になったものだ。インターネットと日本食さえあれば世界のどこにでも快適に住めそう。その後骨董屋さんに電話する。小1時間もしゃべっただろうか?近頃は日本への電話も市内電話と同じぐらい安い!昨日駅においてきた自転車を取りに行く。4キロの道のりを散歩がてら歩く。行くときはプールに行くドンちゃんといっしょに行く。帰りは畑の中をサイクリング。今日は暑くなく寒くなくさわやかな日、1日中室内でパッキングをするのが残念だ。コーヒーカップ&ソーサーを12客、ティーカップ&ソーサーを6客、ポット2個、ケーキ皿12枚、シュガーポット、クリーマーなど合計60ピースを包んだ。明日は15キロを2カートン発送の予定。
2005.06.05
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10時始まりだが今日は朝6時起き、9時20分ごろ会場に着いた。顔見知りの業者が続々と到着する。今日のオークションは磁器、ガラス、銀、家具に至る1200品目(中には食器12人分セット、プレート6枚セットなどがたくさんあるから、実際の品数はもっと多い)の4分の3は1ヶ所から出ている。昨日の日記にはコレクターと書いたが、多分これはアンティークを扱う大きな業者が亡くなったのだと思う。それで家族が売りに出したのだろう。なかでもマイセンのコバルト花絵皿は圧巻である。プレートが大中小合計100枚近く出た。この花絵は19C末のほんの一時期マイセンで描かれた水彩のように淡い色の自然主義的な絵である。こんなに一度にたくさん出ることは珍しい。殆ど全部今まで見たことのない業者(複数)が買ったようである。今日はこのオークションでビッドをしながら、他のオークションで大きな買い物をした。電話ビッドで、アールヌーヴォーの飾り棚を買った。ロシア人と競って買った。オークションハウスの人が、ないしょで競合相手はロシア人だよ、と教えてくれた。それを聞いたときはもうだめだと思った。ロシアは政治が腐敗しているのでアングラマネーがはびこっており、現金をたくさん持っている人が多いので、とても勝てないだろうと思った。でもあらかじめ心積もりをしていたから買えたのだ。オークションでうまく買うのは難しい。雰囲気に飲まれて舞い上がってついつい高い買い物をしてしまう。最初思っていた額とロシア人が相手だと分かってからのリミットのちょうど半分ぐらいで買えた。もしロシア人だと分かっていなかったら、買えなくて今ごろきっと悔しい思いをしていたに違いない。居間を整理して置き場所を作らないといけないなあ。結局殆ど最後までいたので、帰りは夜遅くなってしまった。朝は自転車で行ったが、帰りはプラスティックバッグ5個の買い付け品を持ち帰ったので、ほんとはタクシーで帰りたかったのだが、30分も待ってバスで帰った。帰ってからリポートを書く。
2005.06.04
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ドイツでは次期首相がアンゲラ・メルケルになるのはほぼ確実である。5月22日のノルトラインヴェストファーレン州(ドイツ最大の州、州都デュッセルドルフ)の選挙で39年続いたSPD(ドイツ社会党)が惨敗した。国民はシュレーダー政権に特にここに来て、選挙公約だった失業者の半減に失敗、社会党の売りだった福祉の後退、(大部分の国民及びドイツにきちんと-law-abiding-住んでいる外国人にとって)招かれざる外国人が増えたことなどに怒っている。でも私はシュレーダーは次の二点で評価する。まず第一にアメリカのイラク政策に追従しなかったこと、そして失業保険金の支払いを改革(遊んでいても働くよりお金がたくさんもらえるシステム)したことである。後者をもし、CDU(キリスト教民主同盟)が実行したら、きっと国民の大反対にあって、できなかったと思う。大体ドイツでは日本と違って福祉が行き過ぎていると思う。後退してちょうどいいぐらいだ。今週はオランダで国民投票の結果、フランスに続いてEU憲法にノーの審判が下った。おかげでユーロが下がってきて私はうれしい。今日はユーロは131円台(中値)までさがった。過去1年の最安値である。仕事のことは通りがかりの人が変なことを書き逃げしていったから、書かないようにしているのだが、日常生活、仕事のことを書かないと書くことが半減してしまう。明日は某市でちょっと異例のオークションがある。何しろものすごい量の古マイセンがでる。きっとお金持ちのコレクターが亡くなって、遺族が売るんだと思う。それでドイツ中(外国からも)から業者が殺到する。昨日は下見をしてきた。今日はメールを書いたり、電話をしたりで明日の作戦を練る。明日は別のところでもオークションがあり、こちらは電話ビッドを頼んだ。うまくゲットできるかどうか、今日はかなり緊張している。
2005.06.03
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28日(金)、29日(土)と二日続けてオークションに行った。5月28日まで気温が20度を超える暖かい日は殆どなかった。ところが28日から、春、初夏を飛び越えていきなり猛暑になった。ドイツの建物は基本的に冷房設備が殆どない。いくら湿気がないからと言っても気温が33度、34度にもなるとその暑さは耐えがたい、ましてやオークションハウスは大勢の人が一ヶ所に集まるから、その人いきれでもう会場はムンムン。暑くて気分が悪くなった。暑さ以上に私の気分を悪くしたのは、、、、ちょうど1年ぐらい前に同じタイトルでドイツ人(特に女性)の「人に対する気配りのなさ」について書いた。これをドイツ語では”Ruecksichtlosigkeit"という。英語では多分”Inconsiderateness"だと思う。この”Ruecksichtlosigkeit”あるいは形容詞の”ruecksichtlos”という言葉はドイツ語では日常しょっちゅう使われる。なぜならドイツにはそういう“ruecksichtlos”な人が多いからである。土曜日のオークションハウスには水曜日に下見をした。そのときに杖をついた年配のおばあさんがいた。彼女はいつも来ているので、業者かと思っていた。何しろ態度が大きい、、、品物はみんな鍵のかかったケースに入っているので、いちいち頼んで開けて貰わなければならない。彼女は2時間以上、一人の従業員を独占していた。私は彼女が見ているときについでに(従業員の手間を省くため)見せてもらったりした。銀のシャーレ(器)を出そうとしたときにちょっと上のガラスにぶつかった。その途端に、そのオバハンが”Vorsicht(Attention)! Delle(へこみ)を作らないように気をつけなさい!”と言った。私はそんなことハウスの人がいうのはともかく、大きなお世話だよ、と思ったが、黙っていた。まあ、彼女もこのアールヌーヴォーの銀の器を買いたいのだろうと解釈した。そのあと、他のケースを開けてくれるよう頼んだ。従業員は他の男の人がさっきから待っているので、彼の後すぐあなたのところにきますから、と言った。待てど暮らせど彼女は来ない。ひょっと見たらなんと彼女はあのオバハンに宝石部門でつかまっていた。で、私はそこに行き、従業員に私はさっきからずうっと待っているんです、と言った。そしたらオバハンは私は長くかかるわよ、と従業員を専用にはべらせるのを止めない。次は私の番だったんです、と私は抗議したが、オバハンは歯牙にもかけない(何と言う厚顔!!!)間に入って困った従業員は私のために他の人を呼んでくれた。で、当日、私は彼女が落札したものを観察した。あの銀のシャーレ(器)は彼女は全然ビッドせず、私は他の人と争って勝った。彼女が落札したものは安いものばっかり!業者にしてはおかしいなあ、と思った。宝石なんか散々従業員を独占して見て、結局何にも買わない。お昼過ぎまでいたが、それはお昼に出るソーセージとパン(無料)を食べるためだったようだ。見ていたら、大きなソーセージを二つも取っていきやがった、くそババアめ!おかげで私の番には小さいソーセージしか残っていなかった。帰りにハウスの人にあの人は誰?、業者ですか?と聞いたら、aggressiv(aggressive),unhoeflich(impolite)と言っただけで、あー、それはFrau Geyerでしょう、という答えが返ってきた。彼女よりもっとひどい人もいるって言ってたけど、本当かなあ?コーヒー(これも無料)を取りに行ったら、もう殆ど残っていなくて、前のおばさん(Frau Geyerとは別の人)が全部注いでしまった。私が横で待っているのを知りながら、彼女はこぼれるほどカップを満杯にした。私はちょっとでも飲みたかったので、逆さにしたら、カップに7分目ぐらい残っていた。それを見てこのおばさんは言った、「あらぁ、まだ残っていたのね!」ぶん殴ってやりたかったなあ、このおばさん!コーヒーが殆ど残っていないのを知りながら、自分はぜ~んぶこぼれるほど注いで、他の人が飲めないようにして平気なのですから。このRuecksichtlosigkeitは何なんだろう?ドイツ人(特に年取った女性)がみんなこうだとは言わないが、ドイツにはこの他の人に対する気配り、礼儀、思いやりが全然ない人が多いですね。年取ってもああいう風に卑しくはなりたくない、と思いました。
2005.05.31
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本日の日記は「もう来ない」と言っていた通りすがりさんがしっかりときていたのを確認したので削除いたしました。
2005.02.24
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昨日以下のようなメッセージが入っていた。それに答えてちょっと感情的なコメントを書いてしまった。ちょっと反省する部分もあったので今日の日記のテーマにした。「マイセンという言葉に惹かれ、一通り日記を拝見いたしました。もっとコレクターの方が楽しめる話題にしたらいかがでしょう?私もMeissenコレクターですが、年金とおっしゃるにはヘロルトでもお持ちなんでしょうか?どうもRCやへレンド、KPMの片手間にマイセンという感じがしてなりません。ちょっと残念でした。」私の日記は実を言うと親友の「楽天眞弓」さんに作ってもらった。マイセンを入れたのはこれをビジネスにもちょっと使ってみようかな、という下心があったからである。でも私はコンピュータは初心者だから、とても写真を載せたり、りっぱな面白いホームページはまだ作れない。デジカメも買ってあるのだが、まだ殆ど使っていない。仮に写真を載せて面白いページが出来るようになったとしても、私は「コレクターに楽しんでもらえるようなページ」にするつもりはない。なぜなら私はディーラーとしてお金を稼いでいるのであり、コレクターが私に手数料を払ってくれるのならともかく、どこで何をどんな値段で買うなどと言う情報は載せない。それは商売上の秘密である。「年金とおっしゃるからにはヘロルトでもお持ちなんでしょうか?」このいやらしい言い方は何なんだ?ヘロルト(Hoeroldt)は18Cにベトガ-(マイセン磁器の創始者)没後マイセンに本格的に絵付けを導入した(それまでは白磁を外に出し、外絵付け(工場外絵付け)だった)。ヘロルトはマイセンに絵付け工房を作り、多くの絵付師を育て、優れた絵付けを残した。フランクフルトの「工芸美術館」の焼き物部門にはヘロルトのシノワズリや商船の絵付けがたくさん見られる。18C半ばには他のメーカーもかなりヘロルト風の絵を真似ている。でもやっぱり、ヘロルトの壁は厚い。彼(とその工房)の絵以上にうまい絵はない(と私は思った)。でもだからと言ってヘロルトだけが(優れた)マイセンだとは私は思わない。日本人はブランドが好き、自分の目でみて判断して気に入ったものを買う人は少数派だそうだ。それを裏付けるようなニュースも読んだことがある。某生命保険会社が買ったゴッホはにせもの?だとか、オークションに1万円台で出た絵がゴッホ(ピカソだったかも知れない)の本物とわかった途端に6千万だか7千万になったとか。ドイツのオークションハウスではしばしばその全く反対の現象が起きる。2、3万円のリミットのものが100万ぐらいまで上がったこともある。無名の窯の人形を二人のコレクターが争って100万以上になった。会場からは拍手が起こった。私もその人の「コレクター魂」に心から拍手を送った。私の態度も基本的にはこれである。私にはそれがマイセンかKPMかなんてことにはコレクターとしては興味がない。自分が美しい、と認めたものにしか興味がない。ただ古いだけ、というものには興味がない。私が人形でも絵でも彫刻、家具、ガラス、宝石でも美しい、と思うのはアールヌーヴォー期のものである。お金があったら、私はヘロルトより、アールヌーヴォーの宝石や家具を買いたい。また日本ではマイセンの人形を買うのは「骨董の初心者」だと言う偏見があるそうである。そういう背景があって「とおりすがりさん」は私を馬鹿にしたのであろう。はっきり言って私はヘロルトより人形の方がずっと面白い。人形は形も絵付けも千差万別、一体一体、顔も表情も全部違う。骨董的価値は別として19C末から20C始めのものがもっとも美しい。以上書いたことは商売とは別である。商売になるのなら、何でも買う。でもヘロルトがいい商売になるかどうかは知らない。確かにオークションハウスでは高値で取引される。商売で買っている人は多分もうバイヤーが決まっているのだと思う。ヘロルトや18Cの古いマイセンのバイヤーは90年代半ば以降日本人ではない。反対に80年代に日本人に買われた美術品は欧米のオークションハウスに換金のため出されているそうである(買った値段の半分以下で)。今の日本でヘロルトを売るのは難しいと思う。とおりすがりさんの持っておられるヘロルトが年金に化けてくれるかどうかは非常に疑問ですね。
2005.02.22
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今日は日曜日。私の日曜日の朝はシャンパンで始まる。朝食の時にシャンパンで一週間の終わり(始まり?)に乾杯する。朝から飲むのはすごく気分がいい。私は日曜日の朝のこの贅沢(な気分)が好き。朝食のあと小一時間、昨日買った銀のスプーンやフォーク、トングなどを磨く。見る見るうちに汚れが落ちて白くなり、銀独特の光沢が出る。昨日の「楽天眞弓」さんの日記に3回も(!)結婚した義弟のことが書いてあった。日本人は離婚にみんなネガティブな反応を示すようだ。私も眞弓さんも離婚経験者である。ドイツに限らず、ヨーロッパでは離婚率はとても高い。私と同じ年代で、夫も妻も初婚でそれが20年以上続いているのは私の周りには殆どいない。日本ではそれが多数派だが、ドイツではそういう夫婦は完全に少数派である。但し、アメリカ人は恋愛関係に入るたびに結婚してしまうようだが、ヨーロッパ人(特にドイツや北欧の国)はそんなにたびたび結婚はしない人が多い。非婚外子(日本では私生児)の数も年々増加している。法律的にも差別はない。なぜドイツで離婚が多いかというと、離婚法の改正が70年代にあったからだ。それまでは離婚は有責主義といって、夫と妻、どちらが離婚に責任があるのか裁判で争った。つまり夫か妻、どちらかが100%黒、あるいは100%白になる。これではもめない方がおかしい。大体夫婦がもめる時片方が100%悪く、相手は100%悪くない、なんてことがある訳はない。それでドイツは有責主義を捨て、破綻主義(離婚に至った理由は問わない)に切り替えた。その方が現実的である。どちらか一方が離婚訴訟を起こせば必ず離婚になる。その際に無職の妻(専業主婦)でもいやな結婚にしばられなくてもいいように、離婚しても生活に困らないような判決を出す。具体的に言うと子供は12才から16才までは裁判所で両親のどちらと暮らしたいか聞いて子供の意思を尊重する。そして子供が無職の母親を選んだ場合は夫側は(支払いが)大変である。子供の扶養はデュッセルドルフ表に従って払う。この表は父親の月収と子供の年令に応じて、子供の扶養費が決まっている。そして子供の扶養費を引いた残りを無職の妻に半分払う(!)のである。当然収入は子供の数によって違うが3分の2ぐらい、妻の方に行ってしまう。夫側が悪くて離婚に至ったならそれは自業自得とも言えよう。でもこの法律はドイツの女性に完全に悪用された。つまり眞弓さんの義弟のように自分で勝手に男を作って出て行って、元亭主から扶養費を取る妻(ドイツの女は貞操観念が殆どない人が多い)が続出した。それで男性側から悲鳴が上がり、この法律は80年代に一部改正になった。一度専業主婦と離婚した男性は2度目には専業主婦との結婚は経済的に無理である。それもあって、同棲はしても結婚はしない人が多い。同棲は破綻しても離婚の統計には載らない。同棲相手はドイツでは「人生の伴侶」と呼ばれる。この頃は結婚も同棲も生涯一人ということはないので「人生一時期の伴侶」と呼ばれるようになった。日本の夫婦は中年になると、男と女であることを止めてしまうようだ。もうお父さんとお母さんでしかない。でも子供にとってはいつも同じ両親がいるというのは情緒的に安定すると思う。昔はそれでもよかった。この間まで人生60年、子供が成長して一人前になったら、親は寿命でもう長いことないんだから。でも今は人生80年以上。60からまだ20年もある。子供がいなくなったあと、気のあわない人と面白くない人生を送るのもどうかなあ、私の両親のように!私は最後の20年か25年は楽しく気のあう人と暮らしたい。
2005.02.20
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今日は今年になって初めてのオークションに参加する。6時に起床する。少し開けておいたシャッターがから外を見るとちょっと明るい。雪が一面に積もっていた。ここ2、3日気温が0度以上に上がったので、雪が溶けていたのだが、昨日の夜また降ったらしい。「雪明り」でちょっと明るく見えたのだ。私は昼食、夕食仕事や他の都合で食べないことがあっても朝食は必ず食べる。出かけるときには少なくとも2時間前に起きる。そして朝食だけはゆっくりと取る。丸いいろいろな穀類や種の入ったパン、チーズ、ハム、を食べる。そのあと果物(たいていりんご)を食べる。いつもは120、130キロで飛ばすと、ヴィースバーデンまでは40分しかかからないが、今日は雪のため、車線が全然見えず、80キロぐらいで走ったので、1時間ちょっとかかってしまった。FとJの2ヶ所でオークションがあるのだが、Fには書面ビッド、Jに参加することにした。銀のスプーンやフォークを買った他には余り収穫がなかった。B&G(ビング&グレンダ-ル、デンマークの磁器メーカーで今はロイヤルコペンハーゲンに吸収されている)の動物の絵の小さい飾り皿を猫の絵が可愛かったので買ってしまった。家に帰ってよく見たら、これは母の日のコレクターズプレートで、1971年から1982年まで、全部動物の親子の図柄だった。Jが終わってから、Fに向かった。Fでは絵画のオークションをやっていた。何十万の絵がポンポンと景気よく売れていく。お目当てのチョウチョのブローチは私のリミット100に対し、160まで上がって結局Fでは何も買えなかった。3時半頃オークションが終わったが、家ではドンちゃんが4時半から5時半までプライベートで教えているので、キッチンが使えない。それで街をぶらぶらと暇つぶしをすることにした。ヴィースバーデンはドイツの街にしては爆撃を余り受けなかったようだ。街の中心には結構パリのように彫刻の飾りのついた建物が残っている。鉄の黒い飾りバルコニーもパリみたいにきれいだ。ウィンドウショッピングを1時間ばかりして帰ってきた。夕食はアヴォカドとエビのオードブルとおととい買ったもやしがだめになりそうなので少しいためる。夜遅く(7時以降)食べると必ず体重が増えるので、少しセーブした。
2005.02.19
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昨日から読み始めた「望郷」を読み終えた。もともと実話を元に書いた小説だから、とてもリアルで面白い。主人公は日本から本場のスコッチウィスキー作りの勉強にやって来た若い日本人と恋に落ち、結婚したスコットランド人の女性である。森瑶子はイギリス人と結婚していたから、あの辺の人の心理描写がうまい。またどのように国産ウィスキーが造られるようになったかその歴史も(サントリーやニッカなど知っている名前が出てきたりして)なかなか興味深かった。この本が出版されたのは1988年、森瑶子さんが作家として油ののっていた時期だったと思う。この本はちょうど私が日本を離れたあとに出版されたので、読んでいなかった。私は彼女の本はたいてい読んでいる。明日はヴィースバーデンで久々にオークションがある。で、午後から骨董屋のSeeさんのところに行く。彼は人形をよく売るので、売るものがなくなると時々オークションでも買う。彼と競っても仕方がないので、事前に談合する。彼が狙うものは私は狙わない。私が狙うものは彼は狙わないようにする。郵便受けにOrdnungsamtからの封筒がきていていや~な予感がしてあけてみたら、やっぱり駐車違反の支払いである。駐車違反はしていなかった筈だけど、、、、2月9日17時54分から58分まで、と書いてある。記憶をたどってそれはボンに行く前の日、スーパーで69セントのパンを一つ買ったときのことだと気がついた。私は走って買いに行って4分しかかかっていない。時間まで書いてあるところを見ると、車を止めたときから見ていたのだろう。なんか陰険なやり方だ!ずいぶん高いパンについてしまった。
2005.02.18
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ドイツの美容院は一般的に言って高いし、下手だし、設備も日本より劣るし、結構苦痛である。今日は友人に紹介されたコリアンの美容院に行った。これで2回目、最初に行った時、予約の際に日本人だと言ったら、120ユーロ(160ドル、16500円)を請求された。友人から80ユーロだと聞いた、と言ったら、日本人の美容院は120ユーロ以上します、と言われた。どうやら、客によって値段を適当に変えているらしい。他にもっと安い美容院もあるが、ここはサービスが良い。マッサージもしてくれるし、丁寧にやってくれる。それで結局チップもやって合計90ユーロ(!)も払った。私の職業の事を結構しつこく聞かれた。あとで考えたら、これは客の値踏み(?)をしていたようだ。私は駐在員の妻ではないからお金がない、ということをもっと強調しておけばよかったかなあ。韓国の女性は肌がきめ細かくきれいな人が多いような気がする。オーナーは20才の子供がいると言うから、びっくりして年を聞いてしまった。44才だそう。ふう~ん、30ぐらいかと思った、と言ったらとっても喜ばれた。もう一人の美容師さんも30代初めぐらいに見えたけど、46才だって!私は美容院でおしゃべりをするのは昔から好きではない。向こうは気を使ってしゃべってくれているのかもしれないけど、私は気のあわない人と話をするのはとても疲れるので好きではない。でも韓国の女性たちと話をするのは結構楽しい。キムチの作り方なども教えてもらった。おしゃべりが嫌いだから、本を持っていった。森瑶子の書いた竹鶴リタの生涯を書いた「望郷」、まだ途中までしか読んでいないが、引き込まれてしまった。この日記を書いたら、寝る前に読もうっと。これは1910年代にウィスキーの製造法を勉強しにスコットランドに行った日本人とリタというスコットランド人の物語である。そう言えば竹鶴酒造という会社、今でもあるんじゃないかなあ、聞いたことがある。帰りは同じくコリアンの店でお豆腐や丸い大根、もやしなどを買って帰る。ドンちゃんが髪をほめてくれた。耳が出るぐらい短くした。
2005.02.17
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今日の朝日新聞の「天声人語」はドレスデンがテーマだった。私はインターネットで毎朝朝日新聞を読む。でも朝日の書いていることはあまり信用しない。朝日は親中国、親北朝鮮、新共産(社会)主義そしてアンティジャパン、アンティアメリカの偏向新聞だと思う。今日の天声人語氏によれば、ドレスデンでは戦後最大のネオナチのデモがあったという。ネオナチの主張は英軍アメリカ軍のドレスデン攻撃は爆撃のホロコーストだと。作家のギュンターグラスがナチスの罪を認めながら、ドレスデン爆撃を非難するのとネオナチを対等に(ネオナチの方が戦後最大なんて言葉を使いドイツ人多数派であるかのごとく)対比している。でもNPD(German National Party - 朝日の訳国家民主党は正しくないと思う - ドイツ国民党)は全ドイツに召集を呼びかけたのにがっかりするほど少ししか集まらなかったというのが真相である。ネオナチは普通のドイツ人には相手にされていない。もともとドイツではネオナチは少数派である。大部分のドイツ人の本音はギュンターグラスと同じである。ドイツが戦争を始め、またホロコーストという大罪を犯した、でも、でも、ドレスデン爆撃も罪である、と。外国のメディア(特にイギリス)はこのように書くのが好きである。ドイツ、ナチ、ネオナチ、、、、でもドイツでのネオナチは少数派、またネオナチの犯罪、外国人襲撃などはフランスやイギリスよりずうっと少ない。ドイツではいまだにユダヤ人の話題、イスラエル批判はタブーである。メレマンはシャロンをちょっと批判しただけでFPD(自由民主党)を首になってしまった。その後彼はヘリコプターから飛び降りて自殺した。私は外国人だから、別にユダヤ人批判だって、シャロン批判だって自由だ。ユダヤ人ってなぜ嫌われるんだろう?迫害は何も1930年代に急に始まったわけではない。ドイツでは中世からすでに職業が制限されていた。だからユダヤ人は金貸し(高利貸し)が多かった。他の職業には就けなかったから。私はパートナー(イギリス人)によく冗談でシェークスピアにヨーロッパ人がユダヤ人の悪いイメージを植え付けた責任が少しある、と言う。ご存知ヴェニスの商人のユダヤ人シャイロック(だったと思う)である。イギリスでもユダヤ人は高利貸しが多かったのかなあ。自分の居場所(国)がないから、いきおいお金に過度に頼るようになる。今でも各国で銀行業(お金)を牛耳っているのはたいていユダヤ人である。大体ユダヤ人は勤勉でかつ伝統的に教育に高い価値観をおくから、どの分野でも成功する確率は高い。またアメリカでユダヤ人芸術家が戦後活躍するようになったのは有力ユダヤ人が彼らをバックアップしたせいもあると思う。「金銭に対する異常な執着」- これはユダヤ人に多いと思う。フランクフルトで働いていた時、会社で借りていた所長宅が大家とトラブルに発展した。この大家はとんでもない人で、少しのお金を(家賃1ヶ月3500ドル)ごまかして(殆ど詐欺)まで取ろうという根性、私は途中から、この日と、Jではないかと疑った。そしたら、オランダ事務所のオランダ人と結婚している日本人が「Binchan、その大家Jではないですか?」と聞いてきた。オランダでもやっぱりJ人はお金に汚いと言う評判があるそう。2年後に偶然に知り合った日本人から、やっぱり彼らはJ人だと確認した。ミンデンに住んでいたとき、家族4人で7時に招待された。水1杯(きっと水道の水だったと思う)しかでなかった。彼女(金持ち)は何10回も夫の家で(ただ飯)食べている。そのあと私は冗談で(!)「あの人、もしかしてJ人じゃないのぉ?」と皮肉ったら、夫に「えっ、彼女がユダヤ人だってどうして分ったの?」と言われて驚いた。やっぱりなあ。夫の友達にはユ-さんが多い。私は彼らにgenerousにもてなされたことは一回も(!!!)ない。私の夫はドイツ人に珍しくgenerousだから、ユーさんにはとっても好かれた。オランダにアンネフランクの家がある。アンネの日記の著作権(=著作権料=お金)をめぐって遺族がいまだに係争中だそう。かわいそうなアンネ、安らかに眠れないよね。アメリカでのドイツの会社相手のユダヤ人訴訟、桁が大きすぎて私はいくらだか覚えていないが、弁護士が二人いて、一人は報酬を辞退したが、もう一人の弁護士(J人)はもちろん辞退なんかしなかった。日本人外交官の杉浦千畝(ちうね)は人道的な立場からユダヤ人が逃げられるよう外務省の命令にそむいて、ヴィザを発行(当時は手書き)したそうで、何千人のJ人を助けたそう。彼は戦争が終わってそのことが原因で外務省首になってしまった。彼はイスラエルを訪問したかった。でもJ人はアメリカとの関係を気にして恩人である杉浦千畝を招待しなかった。千畝を招待したのは日米関係がよくなったずうっと後のことだそう。今度シントラーのリストの2匹目のどじょうを狙って、映画化されるそうだけど、うえの事実はきっとカットされると思う。だって後半の事実は感動的じゃないから。まあ、今私が思いつくのはこんなところかなあ。------今日は2ヶ月ぶりにオークションハウスに行った。まあたいした出物はなかったので、今週の土曜日オークションに参加するかどうかは決めていない。帰りにイケアのそばを通ったので、ラムの毛皮の敷物を買った。横浜の実家のソファにかけるためである。皮なので冬は座った時にちょっと冷たい。それでラムの毛皮を買った。
2005.02.16
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1945年2月13日午後9時イギリス空軍が翌14日にはアメリカ軍がドレスデンを爆撃した。ドイツの古都ドレスデンは1昼夜で廃墟と化した。死体の山(本当に山のようになった死体の写真が残っている)。その数3万から30万まで。役人もみんな死んでしまって、何人死んだか正確な統計がない。ドイツはもうこの頃には敗色が濃くなり、降伏するのは時間の問題だったと言う。1992年にエリザベス女王がドレスデンを訪れた時、市民から謝罪しろ、のブーイングが起こり、生卵を車にぶつけられたとか。それでドレスデンの象徴フラウエン教会の復興にはイギリスからの寄付もたくさんあったとか。また空爆したパイロットも謝罪したらしい。私はそこにイギリス人の”Sense of Fairness”を感じる。昨日のテレビに駐独英大使が出席して「自分がもしドイツ人だったら、戦後60年にわたって戦争の償いをし、世界の平和への貢献をしてきたことを誇りに思う」と素晴らしいことを言ってくれた。実にそのとおり!2月始めにイスラエルを公式訪問し、ケーラー大統領の「ホロコーストの責任はドイツのアイデンティティ、そのため恥じて頭をたれる」との謝罪に対し、シャロン首相は「ナチスによるユダヤ民族に対する行為への許しや償いはありえない。ヨーロッパはアンティセミティズムに対する終わりなき戦いを続ける必要がある。」と答えた。これは人の心理を考えるならpoor psychologyと言わざるを得ない。このシャロン始め、ユダヤ人の硬直した態度こそ人を反ユダヤに追いやると思う。またそれがパレスチナ問題の解決を難しくしていると思う。ユダヤ人はドイツの60年に渡る償いを全く評価しないし、永遠に許さないつもりのようである。ナチスのしたことは許せないのは分るが、どうしてその3代あとのドイツ人も許せないのか、私には理解できない。
2005.02.15
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殆ど30年振りにあったM。人の(私の)好みって意外と変わらないなあ、と思った。今仮にMと初めて知り合ったとしても私はやっぱりMに惹かれてしまうかもしれない。Mは私をふって他の人と結婚したのだが、この結婚は最初から全くうまく行かず、なんと数週間も持たなかったそうな。原因は今でも分らず、育った環境が余りにも違ったせいかも、と言っていた。私をあんなふうにふったバチが当たったのよぉ~と言ったら、素直に「そうかもしれないな」と認めていた。でもそんなにすぐに離婚するんだったら何で私から強引にMを奪い返したんだろう?私が思うに、彼女はMを人に取られるのがいやだったんじゃないかなあ?それで彼に執着したのでは?今となってはどうでもいいことである。「奪い返した」と書くのは、私は大学を卒業してから、Mと一旦別れた。その間に彼はその人と付き合っていた。そして2年ぐらいの後、私はMと再会した。そして「やけぽっくいに火がついた」のである。今の夫人は彼の友人が「バツイチ」のことを知らないで「おみあい」をセッティングして、事情を話してキャンセルしたら、その誠実な(?)態度が現夫人のお気に召したそうな。Mはこの年、私との婚約破棄、他の人との婚約と結婚、そして離婚、また別の人と結婚をやってのけたのである。今になると何でも言えてしまう。私はあの頃、彼からの電話や連絡を毎日待っていた。人は意外に思うかも知れないが、私は自分から好きな男性に積極的にアプローチすることはない。恋愛に関してはいつも受身の「待つ女」である。でも、なんと、なんとMの方でも私からの連絡を毎日待っていた、という。日本語の「以心伝心」、恋愛の希望的観測ごっこはよくない。やっぱり思ったことは言わないと伝わらない。あの頃、たまにMとデートしても、ちっとも楽しくなかったような気がする。今あの頃を振り返ってみると毎日Mからの電話を待っていたせつなさ、つらさしか残っていない。なんと貧乏ったらしい「しょぼい青春」!あの頃流行った「神田川」の4畳半一間の世界、まあ、よく言って柴田翔の「去れどわれらが日々」の世界である。Mが酔っ払って何度も電話をかけてきてBinchanは俺の青春の全てだった、あなたは自分の青春そのものだった、そういう声を聞くのはうれしい、でもあの時にそう言って欲しかったなあ。今Mと会って豪華なお食事をして、しわの向こう側に自分たちのあの「しょぼい」青春を思い出して見るのは楽しい。今回の里帰りもMと3度目のデートをした。それはそれで楽しい。こういうの茶飲み友達って言うのかなあ?茶飲み友達+アルファですね。それがこの年になってみると楽しい。Mと別れた時、「もう絶対に恋はしない、私の青春は終わった」と思ったのだが、その後ドイツに渡った私を待っていた人、Rと私は運命的な恋に落ちる。Mのことなんかころっと(!!)忘れたのである(ふん、ザマ-、ミロ!)。これはもちろんMには言っていない。まだまだ続く私の男遍歴(笑)、オッと違った、私の青春、乞うご期待!って、誰も期待してないか。
2005.02.14
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土曜日の11時5分定刻にBAは成田に到着し、無事娘は弟にピックアップされて横浜に着いたそう。今朝電話して娘と話をしたら、ケルンの空港でのチェックがものすごく厳しかったと言う。実は前回私が里帰りした時におみやげに生ハムやソーセージをたくさん買って、出かけるときにスーツケースに入れようと思っていたのに、全部忘れてきてしまった(涙)。で、また買ってボンに持っていった。娘には冷蔵庫にしまわないように言っておいた(忘れるから)のに、娘は冷蔵庫に入れておいた。朝迎えに行ったら、娘は目覚ましがなったのも知らないで寝ていたので、当然、冷蔵庫に入れておいた生ハムなんか思い出さなかった。でもそれで正解だったと言う。なぜなら、ケルンの空港でスーツケースも手荷物も開けられて中身をぜ~んぶ調べられたそう。娘はテロリストと間違えられたのかな?それともロンドン行きが厳しいのかな?BAが厳しいのかな?生ハムを持っていったとしたら没収されていたかもしれない。横浜の家族はまたまた親子で忘れた、と大笑いしたそうな。お土産に奮発して買った毛皮のスリッパは母がとても喜んでいた。やっぱり買ってよかった。
2005.02.13
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今散々苦労して成田空港の到着予定時間を調べた。下の娘は今日ケルン空港からロンドン経由で成田に向かっている。私はお土産を届けに木曜日にボンに向かった。昨日は娘たちの希望でマーボー豆腐を作った。そのあとパッキングをするつもりだったが、娘推薦のフランス映画アメリーを見てしまった。とても面白かった。やっぱりフランス人は人情の微妙なひだみたいなものを描くのがうまい!上の娘のところに泊って約束どおり朝の8時半に娘を迎えに行ったら、な、なんと、娘はまだ寝ていた、、、、、大急ぎで着替えて20分後に出発。アウトバーンを飛ばして、出発1時間前に着いたのだが、フライトはキャンセル、その次の飛行機で出発となった。大体エアフランスやブリティッシュエアウェイズはJALやルフトハンザと違っていい加減だから、そんなことだろうと思った。午後上の娘と五目御飯を食べたあと、家路に着く。ボンのオークションハウスで去年買ったマイセンの柿右衛門模様の大きな蓋付き花瓶をピックアップする。ついでに次のオークションに出展するものを無理に見せてもらった。今日は視界50メートルもない雨と霧の最悪の天候の中を飛ばしたので、疲れた。BA07便はあと3時間余りで東京に到着する。電話で横浜の弟に迎えを頼んだ。
2005.02.12
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今回里帰りした時、大学に行く用事があって、私は渋谷の古本屋の前を通った。私は何冊かの古本を買った。それは殆ど海外に出た女性の伝記である。その中の一冊が戦前にヨーロッパに渡った田中路子の伝記(角田房子著)だった。ヒットラーがオーストリアまで侵攻した時、ユダヤ人の女性がチャリティを募っていたそう。もちろん路子さんはすぐに小切手にサインした。でもその時に宝石を目いっぱいつけた(多分鷲鼻の)ユダヤ人女性に対し、彼女は何で自分の宝石を真っ先に寄付しないのだろう?と思ったそうです。そのイメージが去年(だと思う)テレビで見たユダヤ人女性と重なった。私も同じようなことを考えたから。イスラエルからドイツに政治家が来た。そしてドイツに住むユダヤ人に向かって「お前たちはよくこんな国(ユダヤ人を60年前に迫害した国)に住めるなあ」と言った。さすがにこのステートメントに対しドイツのユダヤ人協会(?)の会長は抗議した。普通のドイツ人はヒットラーの犯した罪を心から悔いている。またドイツぐらい外人に対する差別のない公平な国は私が知る限りない。テレビで宝石を目いっぱいつけ、それでも(彼女は親戚や姉妹が殺されたかもしれないが)彼女は戦後生き延びて、かつ、いい生活をしている。でも60年経ってもドイツ人に対する「この憎悪」、これは何なんだろう?戦争で死んだのはユダヤ人だけではない。このような(多分歴史上最大の)組織的犯罪の犠牲になった人には心から同情する。でも、、、、、でも死んだのはユダヤ人だけではない。ドイツ人も日本人も死んだ。わたしの祖母は(80年代に)94才で死んだ。子供は11人。祖母の最後、「おばあちゃん、思い残すことは?」の子供たちの問いに、戦争で南の島に送られてそのまま帰らなかった(20代の)息子のことが唯一の心残りだったそうです。ジャングルで死んだのか、海の藻屑となったのか知るよしはありません。何十年経っても彼女は死ぬまで戦争で死んだ息子のことを気にかけていました。この(醜い鷲鼻の)ユダヤ人女性を見て私は夫の言ったことを思い出しました。日本人は「喉もと過ぎれば熱さを忘れる」と言う実に健全な精神を持っていると。ユダヤ人の悲劇は「忘れられないこと」、「許せないこと」ではないでしょうか?私はアメリカが勝った側のノー天気さで戦争までも「喜劇」にしてしまうセンスを許すものではないのですが、(親しい)ドイツ人に対してはこう言ってしまいます。「迫害したのがユダヤ人だったのがいけないのよねぇ、日本人だったらすぐにいやなことは水に流して忘れてあげたのに!」ヒットラーは狂人でした。でも彼のやっていることを一般的なドイツ人は正確に知っていたでしょうか。ユダヤ人が強制収容所に送られていたことは知っていたでしょう。でもこれはアメリカだって(日系アメリカ人に対し)やっていました。わたしが知る限り、それは間違っていたとアメリカが認めたのは戦後40年以上経ってからです。私が言いたいのは「正義の戦争ってあるの?」戦争は全て狂気であり、悪です。イスラエル、中東、あの人たちは平和に暮らす能力がないのでは?あの地に平和が訪れることなんてあるのかなあ?
2005.02.11
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