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にほんブログ村「毎日訓読生活」(2017.01.19)堕落した世界の父母の愛でもそうなのに、本然の本質世界である神様の愛に属しているとすれば、疲れることがあるでしょうか。ここで初めて、私たちの人生において、神様の対象圏を確定することができます。神様の愛が永遠不変であることを知るようになるとき、私たち人間の愛を中心として永生の論理が妥当なものになるのです。愛を中心として見るので永生するのです。(天聖経P310)
2017.01.19
にほんブログ村「毎日訓読生活」(2017.01.18)女性の話し声が高いですか、男性の話し声が高いですか。女性の話し声が高いのです。何がそのように高くしたのでしょうか。女性は、力が男性よりも弱いのに、どうして声を高く出すのですか。愛の情、その愛においては、女性は高く、男性は広いのです。男性は、広い愛をもっています。女性は、自分の夫と息子、娘だけを考える、その愛においては高いのです。しかし、男性は、親戚や国などを考える愛においては広いのです。ですから、息子、娘を愛したり、家庭を愛したりすることは母親に学び、世の中を愛することは父親に学ばなければなりません。このようになるのです。このように結んでおくことで、円満な円形を成し遂げることができるのです。皆さんは、すべてが自分を主として「私だけ良い暮らしをすればいい」と利己主義に流れていっています。しかし、今は利己主義をすべて捨てて愛を分けてあげなければなりません。家庭もそうでなければなりません。幸福な家庭は、夫が出掛けて帰ってくると、外であったすべてのことを妻とともに話し合い、新しく開拓できる要因を発見しなければなりません。お互いが力を合わせて研究する家庭が、幸福な家庭です。父母がそのようにすれば、子女たちもそこに力を加えて、私たちもこのような過程をつくろうといって同調するようになります。(天聖經318)
2017.01.18
にほんブログ村「毎日訓読生活」(2017.01.17)人間は愛から生まれ、愛の実体になり、愛で始まって愛で終わらなければなりません。また、愛する人に出会って、愛する息子、娘を生み、その愛する息子、娘を愛しながら生き、再び幼子のようになって帰っていくのです。老人ぼけは、悪いことではありません。それを悪いことと考えてはいけません。そうなることによって、子女たちが以前に父母に世話になったことを、限りなく恩返し出きるのです。(天聖経P307)真の愛とは何でしょうか。ために生きる愛ですが、いくらでも与え、千年与えても忘れようとします。千年与えても忘れてしまうのです。記憶しません。愛の世界では、入力よりも出力が大きいのです。父母は、七十歳になった息子だとしても、その息子がどこかに出ていくとき、「きょうは車に注意しなさい」と言うことができます。九十歳の老年になるまで毎日のように繰り返したとしても、疲れることを知りません。それは、永遠に続けても疲れないのです。それが愛です。(天聖経P310)
2017.01.18
にほんブログ村「毎日訓読生活」(2017.01.15)愛の主体が満ちれば、すべてのものが満ちるのです。愛がいっぱいに満ちてこそ、すべてのものが満ちるので、無限に与えることができ、真実に与えることができるのです。そこで授受することは、理想の実現であり、理想の繁殖です。愛の世界は、距離を超越します。愛がどれほど速いかといえば、光もついていくことができません。一番早いのが愛です。一番明るいのも愛です。一番完全なものも愛です。一番完全に満ちるのも愛です。居眠りしていた女性も、本当に愛する相対が現れると、花が咲いたようになります。愛だけがそのようにすることができます。その愛は、どのような愛でしょうか。宇宙の主人になる愛、宇宙の中心になる愛、宇宙の源泉になる愛である、真の愛です。(天聖経P302)
2017.01.15
にほんブログ村「毎日訓読生活」(2017.01.14)真の愛を所有するようになると、すべての悲しみと苦痛も、その真の愛の中では喜びに昇華されます。言い換えれば、この宇宙の個人的な権力をもって、知恵をもって、金力をもって主張する以上の、絶対的権限として残したいのが、人間の本性の欲求である真の愛なのです。真の愛は、どこから来たのでしょうか。言うまでもなく、宇宙の根本であられる神様の真の愛から来ました。神様のそのような愛を願っているので、そこに由来しているのです。結婚しようとする男性と女性に聞いてみれば、新婦は、「彼が自分よりも立派であってほしい」と言い、新郎も、「新婦が私よりも立派であってほしい」と考えるというのです。また、父母は、誰でも自分の子女たちが自分よりももっと立派になってほしいと願っています。そのような心は、すべて神様から来たのです。これは、真の愛を中心として語る言葉です。(天聖経P299)
2017.01.14
にほんブログ村「毎日訓読生活」(2017.01.13)真の愛には消耗がありません。動けば動くほど大きくなります。力学では、入力が出力が大きいですが、愛の世界では、入力よりも出力が大きいのです。ですから、愛がすべてのものの核なのです。それで、相対に供給しても余るのが真の愛です。供給して不足するということがありません。真の愛は、相対になるそのすべてに分けてあげても余るので、運動をすればするほど大きくなって行くのです。真の愛の関係では、入力よりも出力が大きくなるのです。ですから、歴史の聖人たちは、その時代に迫害されて消えていったのですが、彼らは入力より出力が大きくなる真の愛を投入し、また投入し、さらに投入しました。神様もそのようにしたので、宇宙創造が可能でした。投入すれば大きくなります。大きく、大きく、大きく、もっと大きくなるのです。投入する心情圏があれば、生命の存在基台は、永遠に残るのです。(天聖経P291)
2017.01.13
にほんブログ村「毎日訓読生活」(2017.01.12)愛には終わりがありません。すべてを終えたという終わりを感じる愛は、愛ではありません。愛する夫や妻に、「あなた、私を愛していますか。愛しているのなら、どれほど愛していますか」と尋ねた時、夫や妻が「これくらい愛している」と言えば、気分が良いでしょう。愛には終わりがないからです。自分だけのために生きる人々の愛は、一日も持たないで終わります。なぜ、夫婦けんかをするのでしょうか。お互いが愛を受けようとするからです。お互いが愛を受けようとする者たちは長続きしません。しかし、お互いが愛そうとする家庭は、祭祀を行って「壊れろ」と呪っても壊れません。お互いがために生きてあげようとする愛は永遠なのです。(天聖経P283)
2017.01.12
にほんブログ村「毎日訓読生活」(2017.01.11)愛しても忘れ、もっと愛そうとするところに、生命を投入しても忘れ、もっと投入するところに真の愛が住むようになります。価値のあるものを一度に、すべてあげても忘れてしまうのです。なぜ忘れなければならないのでしょうか。もっと与えようとするので、忘れなければならないのです。母親の愛は与えて、それを忘れてしまう愛です。それをすべて帳簿につけて、見返りを受け取ろうとはしないのです。自分のお乳を、生命を分け与えてあげながらも喜びます。堕落した母親でもそのような心情なのですから、皆さんは、それ以上にならなければなりません。すべてのものを投入しても忘れてしまう人の中には、真の愛が永遠に存在するのです。(天聖経P276)
2017.01.11
にほんブログ村「毎日訓読生活」(2016.12.23)天国は無限の世界ですが、そこでは愛の心情によって連結される橋がなければなりません。ですから、自分の伝道した人が世の中に多く広がっていれば、霊界に行ったとき、それに比例して広く往来できる道が生じるのです。すべてが自分と関係を結び、縁を結ぼうとします。それは、地上で思想武装して連結させたものと同じ体制が、自分を中心として連結されるということです。教育して多くの弟子をもったのと同じように、地上で解いてあの世に行けば、霊界で解くことがてきる相対的関係になっているので、膨大な活動基盤になるのです。(天聖経786)
2016.12.23
にほんブログ村「毎日訓読生活」2016.12.22私たちが行くべき道は、いずれにせよ突破していくべき道であることを考えれば考えるほど、これは私たちの力だけでは不可能です。ですから、信仰者は祈りを捧げなければなりません。個人として神様のみ旨と一致する伝統を受け継ぐ道を見いだせなくなる時は、彼がいくら努力をし、いくら忠誠を尽くしながら行くといっても、その結果は、必ず神様のみ旨に背く立場に帰結するようになります。そのような観点から、現在の「私」の位置がどれほど重要かということを知らなければなりません。(天聖經P.877)
2016.12.22
にほんブログ村「毎日訓読生活」2016.12.21祈るときには、涙を流しながら祈り、汗を流しながら祈らなければなりません。「何かがぶつかっても、私を突き抜けるのであって、私は倒れない」、このような信念をもって祈りを捧げなければなりません。迫害があり、反対が起こっても、祈りを成就してくれるための、神様の時が近づいたことを知らなければなりません。統一教会を信じていくとともに、だんだんと大変になればなるほど、時が近づいたことを知らなければなりません。(天聖經P.877)
2016.12.21
にほんブログ村「毎日訓読生活」2016.12.20涙を流しながら祈りをたくさんしなければならない時が、終わりの日です。また、涙だけでなく、血を注ぎながらでも祈らなければなりません。私たちは、涙の峠を越えてきました。イエス様はゲッセマネの園で血のしたたりのように汗を流して、涙の祈り捧げられました。民族を胸に抱いて涙をながされました。そのような祈りは、サタンの権限を抑えることができるのです。皆さんは、自らの心を通して祈れる人にならなければなりません。皆さんが体を通して現す言葉や行動が、皆さんの心の中心と連結された時、その言葉や行動は、神様とサタン、またはどんな人の前でも恥ずかしくなく、堂々としているでしょう。神様は、正にこのような存在を求めていらっしゃるのです(天聖經P.877)
2016.12.20
にほんブログ村「毎日訓読生活」2016.12.19心は丸く、心門というものがあります。祈れば、いつもうまくいくわけではありません。そこにも、春夏秋冬と同様の、自分の性稟による形があります。天の方向と心の方向がぴったり合う時があります。その時を逃してはいけません。そのような時が来れば、すぐに分かるのです。祈りの生活をすれば、直ちに「何か起こる」ということが分かります。その時のために、しっかりと準備しなければなりません。その時には、百事に備え、この心の門を開いて、そこを掘り下げれば、非常に大きな力と、非常に大きな神様の愛が、どのようなものかを感じられる段階に入るのです。(天聖經P.877)
2016.12.19
にほんブログ村「毎日訓読生活」2016.12.18祈りは、自分の気が散るような所でするものではありません。奥深い所、天を代表する所、境界線から遠い中央の地に行って祈らなければなりません。ですから、どのように祈るのでしょうか。自分の生涯の切実で重要な問題を祈るためには、自分自身を清め、この境界線と関係ない、永遠にサタンと関係のない所で祈らなければなりません。ある人は、「神様のみ前にいくら祈ってみても、応答がなかった」と言いますが、それは応答するようにはなっていません。サタン側で祈っているのに、神様がそのような祈りを聞いてくださるでしょうか。(天聖經P.876)
2016.12.18
にほんブログ村「毎日訓読生活」2016.12.17夜も全体のために祈ってこそ、それが生きた祈りになります。そうしてこそ、何年かごとに、自分が願う祈りが変わり、題目が変化するとともに発展するのです。ですから、今の時がどんな時なのかを知らなければなりません。そのような背後の生活を、皆さんは、祈りの生活を通して備えなければならないのです。(天聖經P.876)
2016.12.17
にほんブログ村「毎日訓読生活」2016.12.16祈りは、御飯を食べることより重要です。ですから、先生も自然を好み、一人で過ごす時間は心が満たされます。静かな夜が本当に好きです。生活の豊かな底辺基盤を築くことができるのは、祈り以外に道がありません。その世界、その場で愛を感じ、愛を体験できるのであって、普通のところでは難しいのです。そのような基盤の上で、自分自体が力を補強できる立場に立ってこそ、皆さんの信仰の道を皆さん自身が行けるのであって、いつもこのように先生が導いてあげていては、先生がいないときはどうするのですか。そのような背後の生活を備えるためには、祈りが必要です。(天聖經P.876)
2016.12.16
にほんブログ村「毎日訓読生活」2016.12.15深く根を張った祈りの生活を、たくさんしなければなりません。み旨に徹した生活をしなさいというのです。そして、神様が行かれる道と教会が行く道に、自分がどれほど呼吸を合わせて生きるかを、常に考えなければなりません。そうしようとすれば、「教会の便りが気になって死にそうだ」と言いながら、直接、訪ねていけなければ、「電話してでも知りたい」と思う気持ちがなければなりません。そのような心を全面に立てて暮らす家庭なら、神様が共にいない道理はありません。そのような根もないのに植えておけば死んでしまうので、植えないことより良くないというのです。皆さんは、このような原則を知り、生活を再整備して、そのような基盤を築き上げなければなりません。(天聖經P.876)
2016.12.15
にほんブログ村「毎日訓読生活」2016.12.14皆さんが真を求めようとするときには、真を求める心が必要だということを感じなければならず、天と地が喜ぶことのできる真理を探そうと願うときには、皆さんの体が自ら真の体になる真の相対基準を備えなければならないことを悟らなければなりません。真であられる神様と真の真理と真の人間はそれぞれその存在の在り方が異なりますが、内的基準においては同じ方向に向かって動いています。すなわち、神様と真理は同じ方向に向かって永遠に実存するというのです。(天聖經P.831)
2016.12.14
にほんブログ村「毎日訓読生活」2016.12.13真の信仰の道というとき、真とは一つしかありません。信仰の対象とは誰かでしょうか。絶対的な神様です。信仰生活とは、神様のみ旨に合うように、神様が願う目的地を訪ねていくためのものです。「私」が願うものではないというのです。信仰する人たちが願うものではありません。今まで信仰界の混乱が世界的に広がったのは、信仰の目的が自分を中心としてするのではなく、神様のみ旨を成就するためのものであることがわかっていないからです。(天聖經P.830)
2016.12.13
にほんブログ村「毎日訓読生活」2016.12.10真の家庭には、真の父母がいなければならず、真の男性と真の女性、真の夫婦、真の子女がいなければなりません。一番の中心は何でしょうか。個人の目的も真の父母であり、男性と女性の目的も真の父母だということです。真の父母になって、息子、娘をもち、家庭を持つのです。それで統一教会は、「真の父母様を信仰しよう」、「真の父母を信じよう」というのです。信じるというのは、明確ではないからです。明確ではないので、信じるのです。明確であれば、信じる立場を越えられるのです。(天聖經P.828)
2016.12.10
にほんブログ村「毎日訓読生活」2016.12.09真の愛は誰もが願います。千年、万年たっても真の愛を嫌いにはならないのです。それを革命しようとする群れはいません。それでは、真の愛とは、どのようなものなのでしょうか。世の中で未婚の女性や男性が好むような一時的な愛ではありません。神様が介在しているので、永遠性、唯一性、不変性が連結されています。太陽系で太陽を中心として惑星が運行しているのを見ると、それは変わらないのです。地球は、太陽の周囲を一年に一回ずつ回っていますが、数億年の間、一秒も狂うことなく回っているのです。このように、巨大な地球が数億年の間に一秒も狂わないで回っているものは、驚くべきことです。一秒違っても大問題です。このように真の愛は絶対的であり、永遠、唯一、不変なものです。(天聖経P284)
2016.12.09
にほんブログ村「毎日訓読生活」2016.12.08私たちは、先にサタン世界から抜け出さなければなりません。そして、外界の人たちとは違う感情を持たなければなりません。神様の愛を体じゅつできなければならないのです。サタンが愛するものを憎悪しなければなりません。そして、全世界のために私たち自身を犠牲にしなければなりません。先生を中心として、皆さんが個人、家庭、氏族、民族、国家、そして世界的に勝利すれば、私たちは、第三イスラエルとして、イスラエル選民、または霊的なイスラエルを再建することができます。そのようになれば、神様は、私たちを通して全人類を霊肉両面で救援なさることができるのです。(天聖經P.828)
2016.12.08
にほんブログ村「毎日訓読生活」2016.12.07イエス様が十字架にかけられたために、肉身をもった真の父母は実現されませんでした。すなわち神様の血統である息子は立てられましたが、霊肉ともの真の父母の顕現は実現されなかったのです。霊界にだけ限定され、霊的救援のみいってきたのであり、肉的救援、すなわち体の贖罪は実現されなかったのです。結局、今日までキリスト教には、霊的な父と霊的な母しかいませんでした。ですから、真の父母がいらっしゃれば、私たちは、その父母によって霊肉が共に生まれ変わるために条件的、あるいは象徴的に母の胎内に入り、新しい生命として再びよみがえらなければなりません。私たちは、そのための路程を求めながら歩んでいるのです。(天聖經P.827)
2016.12.07
にほんブログ村「毎日訓読生活」2016.12.06真の家庭には、真の父母がいなければならず、真の男性と真の女性、真の夫婦、真の子女がいなければなりません。一番の中心は何でしょうか。個人の目的も真の父母であり、男性と女性の目的も真の父母だということです。真の父母になって、息子、娘をもち、家庭を持つのです。それで統一教会は、「真の父母様を信仰しよう」、「真の父母を信じよう」というのです。信じるというのは、明確ではないからです。明確ではないので、信じるのです。明確であれば、信じる立場を越えられるのです。(天聖經P.828)
2016.12.06
にほんブログ村「毎日訓読生活」2016.12.02完全攻略一致するということは、自分自ら主張できる一片と心もないのです。信仰生活をしながら自分の思いどおりに主張できるところがあるとすれば、その場所は天国ではありません。自分の思いどおりに願うところでは、いくらよく信じたとしても、そこは天国ではありません。このような根本問題を中心として、皆さんは深刻に考えなければなりません。先生も、そのような問題を中心として深刻に考えるというのです。(天聖經P.821)
2016.12.02
にほんブログ村「毎日訓読生活」2016.12.01信仰の道においては、自己主張や自我観念はあり得ません。絶対的な信仰は、自我観念が一つも残らない信仰を言います。絶対的に信じるというときは、「私」自体に絶対的に反対する要因が一つもあってはいけません。神様を中心として一つになろうというところに、自己主張はあり得ません。主体が求めるとおり、完全に一致しなければなりません。(天聖經P.821)
2016.12.01
にほんブログ村「毎日訓読生活」2016.11.30信仰生活をしながら自分の思いどおりに主張できるところがあるとすれば、その場所は天国ではありません。自分の思いどおりに願うところでは、いくらよく信じたとしても、そこは天国ではありません。このような根本問題を中心として、皆さんは深刻に考えなければなりません。先生も、そのような問題を中心として深刻に考えるというのです。(天聖經P.821)
2016.11.30
にほんブログ村「毎日訓読生活」2016.11.29信仰の道においては、自己主張や自我観念はあり得ません。絶対的な信仰は、自我観念が一つも残らない信仰を言います。絶対的に信じるというときは、「私」自体に絶対的に反対する要因が一つもあってはいけません。神様を中心として一つになろうというところに、自己主張はあり得ません。主体が求めるとおり、完全に一致しなければなりません。完全攻略一致するということは、自分自ら主張できる一片と心もないのです。(天聖經P.821)
2016.11.29
にほんブログ村「毎日訓読生活」2016.11.19純粋な宗教であるほど、体を打つのです。特にキリスト(カトリック)教徒たちが独身生活をしますが、社会と万民のために犠牲になり、奉仕しなさいというのです。キリスト教では、「城の頂上の石ならずに、隅のかしら石になりなさい」、「柱の中でも正門の柱にならずに、隅のかしら石になりなさい」と教えています。聖書の教えは、すべて、体が願うことと反対です。堕落した心と体を、二つともそのまま放っておいてはいけません。ですから、体が喜ぶことの反対側に追いやるのです。そうしてこそ、体の願うことが除去されるからです。純粋で最も高次的な宗教は、体が願う方向反対に追いやる宗教なのです。(天聖經P.821)
2016.11.28
にほんブログ村「毎日訓読生活」2016.11.25先生が特別に、何千年前に生まれては逝った霊人と地上にいる人を祝福してあげました。その人々が、この霊人たちと暮らしています。彼らは、世の中の現在の人と結婚するより、霊界の霊人と結婚したほうが天国に行ける確率が高いので、霊人たちと結婚しようと思ったのです。彼らの心と体は、いつも神様のように一つになっているので闘いません。ですから、彼らの相対になれば、この地上で暮らしていても心と体が闘わなくなります。もしその相対が地獄に行くようになっても、彼らが「私についてきなさい!私が導こう」と言うのです。そうすれば、自動的に霊界に入っていくようになります。そのような背景を知るようになれば、すべての人々が霊人たちと結婚しようと考えるでしょう。(天聖經P.797)
2016.11.25
にほんブログ村「毎日訓読生活」2016.11.24復帰の路程を歩んでいたイエス様が奇跡を行ったのは、喜んで行ったわけではありません。喜んで、楽に奇跡を行ったと思ったら大きな誤解です。この地にはよりどころがなく、この宇宙の中には頼るところがないので、天に対して訴えざるを得ない事情があったのです。このように悲壮な境地にいたイエス様の懇切な姿を見つめなければなりません。イエス様が同情せざるを得ない哀れな事情に置かれ、手を挙げてわ「父よ!」と呼び求めたとき、ここで奇跡が起こったのです。この上なく悲しい、骨肉が溶けるほど悲しい場面で叫ぶ、その事情を通じて現れたのが奇跡でした。(天聖經P.796)
2016.11.24
にほんブログ村「毎日訓読生活」2016.11.16モーセが奇跡を行っていなければ滅びませんでした。イエス様が奇跡を行っていなければ十字架にかからなかったというのです。奇跡が良いのではありません。それは多くの犠牲の代価を払っても一度にこっとわやうだけで、終わってしまうのです。今日、それを盲信して、そのような奇跡で天地を収拾し、人間世界のすべてのものを清算しようという荒唐無稽な者たちになってはいけません。(天聖經P.796)
2016.11.23
にほんブログ村「毎日訓読生活」2016.11.22神様の協助は、原理原則が形成されるところから起こります。無謀な信仰は、神様が好まれません。奇跡を願い、「絶対に信じるとおりになるだろう」と言った人はどうなりましたか。奇跡を行った人は、その人自身と、その一族がどうなりましたか。韓国で有名復興師、過去に名が知られた人々自身と゜そと子孫が良くなりましたか。良くなりませんでした。なぜでしょうか。盲目的に要求したあとには、必ず盲目的に要求したその代価を゜その人自身が要求されるのです。自分がそのような能力を使ったとき、自分自身がそれを動かせる自分になることができず、神様の力によって行ったとすれば、その人自身か受けた福によって侵害されるのです。(天聖經P.796)
2016.11.22
にほんブログ村「毎日訓読生活」2016.11.21これからは、霊的現象まで見られるものを発明する時代が来ると思います。そのようになれば、霊界がないということを言えなくなります。霊眼が開かれれば、霊界を見ることができます。すべての現象を、その世界に存在するすべてのものを、感覚的に感じるのです。天気予報のようにそれを見ることができるようになれば、神様がいないという言葉は言えなくなります。そのようになれば、宗教のようなものはなくなってもかまいません。堕落していなければ、そのような世界になっていたはずです。堕落世界となり、このようになってしまいました。復帰過程では、私たちにとってこの地球が、その世界と相対的に一致させていく訓練所になっています。(天聖經P.795)
2016.11.21
にほんブログ村「毎日訓読生活」2016.11.19これをずっと合わせていかなければ何にもなりません。それで、何百年ごとに、大転換期や霊的な大現象が起きるのです。そのようになれば、その国が滅びたり栄えたりします。国が滅びるようになる時は悪霊が動員されます。また、大きく栄える時は善霊が動員されます。それをどのようにすれば世界の運勢に巻き込まれるようになるのでしょうか。それほど簡単ではありません。そのように考えれば、霊的現象や宗教の目的とはいったいなんでしょうか。霊的現象を起こして天が摂理を導いていくのも、結局は人間完成のためです。(天聖經P.794)
2016.11.19
にほんブログ村「毎日訓読生活」2016.11.18今までは、悪の霊人たちが地上に来て役事したので、ノイローゼ現象や人格を破壊する現象が起きましたが、今からは違います。体を占領して共鳴圏を形成して、正しく高い霊的な体験圏に入っていくようになるのです。高尚な人格圏が生じるのです。霊的現象は、神様による霊的現象とその反対現象、その二つしかありません。それはすぐ分かるようになります。すなわち善の現象と悪の現象に分けられるのですが、「善の現象はこのようにならなければならない」という公式的な脈があります。(天聖經P.794)
2016.11.18
にほんブログ村「毎日訓読生活」2016.11.17霊界と地上界は、断絶された別の世界ではありません。一つの根本の存在原理のもとで相互交流し、授受する相関関係にあります。私たちの教会も、本来神霊を通じて統一する神霊協会として出発しました。神霊とは何ですか。一時的、配分的な霊力や霊的作用のことを言うのではありません。真の愛を中心として霊的と人間世界が調和し、共鳴することができる神様の愛の力です。ために生きて投入する真の愛の生活を通じて、人の心に感動を与えることはもちろん、霊的世界の協力も得る運動が統一教会の運動です。(天聖經P.792)
2016.11.17
にほんブログ村「毎日訓読生活」2016.11.16ですから、まず地上に復活した人が出てこなければなりません。霊界には、地獄と中間霊界と楽園と天国がありますが、今まで天に忠誠を尽くした人々は、すべて楽園に行っています。イエス様も楽園に行っています。復活の目的を果たすにおいて、間接目的地は霊界であり、直接目的地は地上です。霊界は復活させるべきところであり、地上は復活すべき所です。ですから、まず地上で、「私は復活した。復活の目的を終結した」と言うことができてこそ、天上天国に行くことができます。(天聖經P.791)
2016.11.16
にほんブログ村「毎日訓読生活」2016.11.15私たちは、復活の日を待ち望まなければなりません。地上を通じて、天を復活させなければなりません。私たちは、復活の根拠地が天上だと思っていますが、違います。この地が中心です。復活の根拠地も解決点も、この地にあります。この地で復活が成し遂げられなければ、天上の復活、人間の復活、万物の復活、地獄の人間の復活も、単なる言葉で終わってしまいます。(天聖經P.791)
2016.11.15
にほんブログ村「毎日訓読生活」2016.11.14今もう先生が心配することがありません。放っておいても、そのまま進みます。その代わり、霊界から再臨するのです。三時代の霊界、旧約時代、新約時代、成約時代に、救援するための神様の摂理のみ旨が成し遂げられなかったのですが、それがひっくり返ることによって自動的に成し遂げられます。旧約完成、新約完成、成約完成をすることによって、自動的に摂理が方向を定めていきます。ですから、霊界も神様を中心として霊界の方向に進み、地上も地上を中心として先に進むのではなく、本然の基準を中心として長子権を復帰し、神様、天宙父母と地上の再臨主、天地父母が新たな主義で祝福を中心として血統の決着をつけることによって、ここから平面的に進むのです。そのようにして、自動的に地上天国と天上天国が開門されます。ですから、ここでひっくり返して霊界全体が下りてくるようになります。(天聖經P.791)
2016.11.14
にほんブログ村「毎日訓読生活」2016.11.13先生が霊界と地上界の二重の仕事を一度にすることはできないので、霊的基準を中心として興進君を霊界の司令官として立てました。神様を中心として再臨主が地上に来るのと反対に、先生を中心として地上から天国の再臨主の立場で送るのです。先生が分かれた霊界と肉界を統一し、霊界に真の父母の愛の関係をもてなかったことを中心として、息子に命じて祝福の権限をもたせ、生きている父の代身者として霊界の復活圏の役事をさせるのです。重生式、復活式、永生式ができるようになり、地上に覇権的基盤ができたので、この基盤を中心として第一イスラエルの国、第二イスラエルのアメリカ、第三イスラエルの韓国を中心として、その境界線を撤廃してしまうのです。(天聖經P.791)
2016.11.13
にほんブログ村「毎日訓読生活」2016.11.12今の時は、どのような時でしょうか。全世界を見れば、たくさんの人たちにノイローゼ現象が起きています。霊的世界と肉的世界が交差するので、そのようになります。これが交差するときは、先に善の人に来るのではありません。ニュースを早く知るのは誰ですか。善の人が先に知るのではなく、反対する怨讐が先に知るのです。善の側のニュースを怨讐たちが早く把握しようとするのです。それと同じように、霊的世界が地上に臨むときに、善霊たちが先に地上に臨むのではなく、悪霊たちが先に地上に臨むのです。(天聖經P.787)
2016.11.12
にほんブログ村「毎日訓読生活」2016.11.11歳月をそのまま送ってはいけません。青春時代に息子、娘を生み、育ててこそ、後代に誇り得る基盤を残すのです。また、その子女にたちが、立派な人になってこそ、歴史に残ることができます。歴史に対して誇れる実績がなければ、自分の一家や町内ではグループに入れますが、国では入れないのです。国に入るためには、歴史の伝統に残るがなければなりません。ですから、誰でも国に何かを残すことを願い、天地に何かを残すことを願うのです。同様な道理です。ですから、自分の所有版図をどのように確定するかという問題が、終生の目的だという観念をはっきりともたなければなりません。ですから、み旨の道で、嫌ならやめようと考えることはできないのです。(天聖經P.786)
2016.11.11
にほんブログ村「毎日訓読生活」2016.11.10道端踏まれる一本のたんぽぽが、博物館にある新羅時代の金の冠と比べることができるのでしょうか。そのような神様の心情をもって、「本然の神様が慈しむことのできる王の位置で、愛を受けたその位置で、おまえを愛することができない自分自身が申し訳ない。恥ずかしい」と言える心をもって慈しむ王がいるとすれば、草もその王に従っていき、永遠不変に共にいたいと思うのです。そのように生きなければならないのが人間です。(天聖經P.659)
2016.11.10
にほんブログ村「毎日訓読生活」2016.11.09愛する心をもって食べ物と向き合うとき、その食べられる食べ物は、「あなたの血と肉になり、力になって神様を愛することのできる元素として私が吸収される、この驚くべき事実に感謝します」と言いながら、早く口に入っていこうとするのです。牛の肉を食べても、「この牛肉は、子牛のときから母親が愛し、主人が愛で育ててここまで来た愛の結実なのだなあ!」ということが分からなければなりません。愛の実を食べて生きるという概念を中心として愛し、神様の本質的愛と一致する立場で食べて感謝する人は、病気にもならないというのが理論的な結論です。(天聖經P.657)
2016.11.09
にほんブログ村「毎日訓読生活」2016.11.08食堂で食事をするとき、パンが一つ残っていたとしても、「これが、世界的に数多くの手を経てここまでくるのに、どれほど多くの旅行手段があり、どれほどたくさんの苦痛を克服して来たねだろうか。すべての人の努力の実、愛の実として作ったものを持ってきて私に献上されたものなのだから、これを愛の主人である私が、相対のように思いながら食べなければならない」と言わなければなりません。そのようにするのが嫌な人は、病気がついてくるようになっているのであり、喜ぶ人は病気が退くようになるのです。愛で満ちた世界の実りをとって食べる仙人が人間だというのです。(天聖經P.656)
2016.11.08
にほんブログ村「毎日訓読生活」2016.11.07断食をしてみた人は、時間がどれほどあるか分かるでしょう。御飯を三食食べると、どれほど多くの時間を消費するか分かるでしょう。また、精神的にも、りんごを一つ食べようと冷蔵庫を開いてのぞき込み、こーらを一本飲もうと行ったり来たりする精神的消耗がどれほど多いでしょうか。食事のときだけ食べる習慣が必要です。そのようにすれば、病気にもならず、健康になるというのです。(天聖經P.655)誰であっても、多くの動物と魚を愛して放せば、子孫が繁栄するというのはもっともな言葉です。自分の故郷の地で暮らせば風土病にかかりません。身土不二です!その地域の土を踏み、空気を吸い、穀物を食べ、野菜を食べ、水を飲むのが身土不二です。自分が暮らした故郷の地と同じところを、世界的に一、二、三、四、五、六、七番から何百まで定めることができれば、そこを順番に遊覧しながら暮らすことができます。世界が一つの光復の祖国きょう土にならざるを得ない時代になるというのです。(天聖經P.656)
2016.11.07
にほんブログ村「毎日訓読生活」2016.11.06皆さんは、万物を公的に管理できる人にならなければなりません。御飯を食べるときぱその御飯の価値を知って食べなければなりません。「お前は、どんな人の口に入ることを願うのか。お前は、どんな顔をもった人の口に入って骨となり、肉となり、エネルギーとなり、善の世界のために何を残したいとおもうのか」と考えながら御飯を食べなければならないというのです。御飯がおなかに入るのは同じですが、たった一つの御飯粒でも、善の人に入っていくことを願うのです。より公的なものを願うというのです。(天聖經P.652)
2016.11.06
にほんブログ村「毎日訓読生活」2016.11.05嘆息する万物の恨を解怨してあげなければならない責任を負った皆さんは、一本の木や一株の草からも、六千年前にそれらを造る時の、神様の心情と創造のみ手を体じゅつしなければなりません。ですから、「主人を失ってしまい、どれほど寂しかっただろうかと」といいながら、歩いていて一株の草を見ても、涙を流すことができなければならず、一本の木をつかんでも泣くことができなければなりません。ここで話しをする先生は、それらをつかみながらたくさん泣きました。岩をつかんでも泣き、風が吹くのを見ても泣いてみたのです。誰がいてもいなくても、皆さんは一株の草をつかんで、「父よ!あなたがこの草を造られるとき、このような思いをもって造られたのでしょう。この草をもっていって愛する息子、娘に見せながら、どれほど誇りたかったでしょうか。父が造られたこの草も、愛する息子、娘に自らを誇ってくれることをどれほど願ったでしようか。そのような日を迎えることができなかったのですから、どれほどおつらかったでしようか。」と言えなければなりません。(天聖經P.650)
2016.11.05
にほんブログ村「毎日訓読生活」2016.11.04愛を中心として万物を主管する特権的価値を主張できる人がいません。本然の愛の心情で万物と向き合うことのできる基準に到達しなければ、万物を食べ、消化できる資格が私たちにはありません。万物は家庭に主管されるのです。愛に満ちあふれた家庭と共にいれば、万物が嘆息するでしょうか。しないというのです。万物も愛が花咲く場で主管を受けようとするのです。皆さんが着る服や一つ一つの必需品までも万物の一部なので、自分が使っている日常生活のすべての必需品を、自分の生活の限界圏内にとどまっている万物として扱ってはいけません。すべてのものを、被造世界の万物を縮小させた直接的な相対物として扱い、その価値を世界的なものとして評価する生活をしなければならないのです。そうして自身の生活自体が一つの生きた祭物の表示になるようにし、その祭物となった環境を中心として、いつでも神様が臨在なさることができるという信念をもって生活しなければ、万物主管のための真なる家庭的基盤ができません。(天聖經P.648)
2016.11.04
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