太っ腹母ちゃんのボコボコ日記

太っ腹母ちゃんのボコボコ日記

遠い海・4

強い風が二人に吹きつけてくる。
 アンと先生は、手をつないで歩いていた。
 先生は右手でひさしを作って、その下で目を細めている。アンは向かい風だというのに、自分よりも頭二つほども背の高い先生をひっぱるようにして進んでいる。

 二人が目指している海岸は、座礁現場から少し北の方だった。
 しかし、そこから数百メートルしか離れていない、現場を見下ろす崖は朝から立ち入り禁止になっている。

 一足ごとに、重苦しい臭いが鼻とのどの奥をふさいでいくようだ。先生の足は、どんどんと重くなっていた。
 それでも引き返さず、砂浜にたどりついた。

 海には黒い泡がたくさん浮いていた。
 波打ち際は、どろどろと油をかぶった魚があちらこちらに転がり、打ち上げられた海藻もねっとりとした膜を張っている。
「昨日は、こんなじゃなかったのに……」
 アンは夢を見ているような声で言った。

 波頭に乗った油が、風に吹き上げられて体に絶え間なく打ちつけられる。
 二人はお互いの手を強く握り合ったまま、立ちすくんでいた。

 ふと気がつくと、海藻のひとつがこちらの方へ移動しつつある。
 先生はそれを見つけて叫び声をあげた。
 陸の方へ逃げようとする先生の手を振りほどいて、アンはそれに駆け寄った。
「エレナ。あたしのこと、覚えててくれたのね?」
 その声に、先生は振り向いた。
 全身ずるずるした油におおわれた、子どもが横たわっていた。
 足は……いや、うろこのびっしりついた魚の胴体だ。間違いなく人魚だった。何度頭を振っても、目をこすっても同じだ。

 呆然としている先生の目の前に立って、アンは早口に言った。
「先生、エレナが苦しがってるの。油のせいで息がしにくいの。あたし、きれいな水をくんでくる」

 そして、アンは陸の方へとかけて行った。先生は言葉をかける事も出来ずにアンを見送った。そのアンの後ろから、男の子が一人走っていくのが見えた。

 先生は何だかほっとして、二人の後姿が見えなくなると人魚に向き直った。
「エレナ……? 具合はどう」
 人魚は顔をあげた。そして、髪を後ろになでつけ、目を開こうとした。
「無理をしないで。今、アンがきれいな水をくみに行ってるから」
 すると、澄んだ高い笛の音が聞こえた。
 そして、人魚の声が頭の中に響いた。
「エレナ先生でしょ。アンがとっても好きな人」
 先生は、人魚の声にとまどいながら聞いた。
「アンがそういう風に言っていたの?」
「いいえ。でも、アンの考えている事は、だいたいわかるのよ」
 ポコン、という音がした。人魚は笑っているようだった。
「だって、わたしの名前はアンがつけたんだもの」
 人魚はそう言うと、先生をじっと見つめた。
 顔は油で汚れているが、目は透き通るような青色で、その視線は心の中までまっすぐ届きそうだった。
「私の名前から……?」
 先生は、鼻から頭のてっぺんまでキュウッと何かが走り抜けていくのを感じた。


 アンは家に帰って、勉強道具を窓から部屋の中に放りこんだ。
 そして、井戸のわきに置いてあった水おけに、いっぱい水をくみ入れた。 持ち上がらない。
 アンは顔を真っ赤にして、もう一度持ち手を引き上げた。
 底が地面すれすれだが、何とか持ち上げて、よろよろと海に向かって歩いて行く。

 学校と海とに行き先が分かれる辻で、ボブがうろうろしているのが目に入った。
 一瞬、息が止まる。
 が、深呼吸をして、また歩きだした。
「おい、アン。そんなもん何に使うんだよ。それに、おまえ、まだこりてねぇのか。朝あんなに……」

 突然アンが立ち止まった。
 そして、水おけを降ろしてボブを振り返った。
「うるさいわね。あたしは、あんたなんかにかまってられないんだから」
 ボブは目を丸くしてアンに向き合った。
「なんだ。おまえ、おっきい声出るんじゃないか。そんで、どこに何しに行くんだよ。そんなもん持って」
 アンは険しい顔でボブをにらみつけた。
「あんたなんかには教えられないわ」
 そう言うと、よろめきながら水おけを持ち上げ、出来る限りの早足で歩き始めた。
「重そうだな……。おれに教えたら、その水おけ持ってやってもいいぞ」
 アンはしっかりと前をみている。
 時々足がふらつくが、迷いのない歩き方で、ボブはまるきり無視されていた。

「おれ、おまえが先生を引っぱって歩いてくの、見てたんだ」
 アンの肩がびくっと振れた。
「おまえ、海に行っただろ。水なんか、何に使うんだよ。それっぽっちで海、きれいになんないぞ」
 ボブは一呼吸おいて、また話し始めた。
「おれ、おまえに、あんな海見せたくなかった。おまえが海の方見る時、何て言うかのかなあ……とっても懐かしそうな感じだったからさ」
 アンが立ち止まった。そして、ボブを振り返った。
「秘密、守れる?」
「ああ」
 ボブは真面目な顔で答えた。そして、アンの手から、水おけを取った。
「歩きながら話してくれよ」
 二人は並んで歩いた。
 ボブの歩く速さは、アンが小走りになるくらいだった。
 アンは前を見たまま話し出した。
「これから人魚を助けに行くの」
「ええっ?」
「会ってみればわかると思う。どんな事になってるか」
 それきり、アンは口を閉ざしたままだった。ボブもそれ以上聞かず、二人は黙々と海を目指した。


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