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郵便制度と国境警備シーボルト 江戸参府紀行 初版第1刷発行 1979年7月15日 訳者 斎藤 信 さいとう まこと 東洋文庫87 発行者 下中邦彦 株式会社 平凡 株式会社平凡社 斎藤 信氏略歴 明治44年東京都生。 東京大学文学部独文科卒(昭12)。 名古屋市立大学名誉教授。 現職(著 当時) 名古屋保健衛生大学教授。蘭学資料研究会会員。 専攻 ドイツ語。オランダ語発達史。 主著『Deutsch fUr Studenten』。 主論文「稲村三伯研究」など。 一部加筆 山梨県歴史文学館さて同じように我々の注目に値する他の事柄、すなわち郵便制度と国境警備のことに移ろう。歴史は我が紀元六四六年、孝徳天皇の時代にこのふたつの措置の実施を、同時に他の重要な国家の制度とともどもに述べている。国の全地方には若干の地方員が駐在し、そのために都との緊密な連絡の必要が宿駅を設けるきっかけとなったものと思われる。今日では往来の非常に激しい街道に沿って全国いたる所に宿駅があり、牛馬や人足の雇い入れや交替に便利で一般に広間が用意してある。そういうものを駅站(えきたん)といったり、駅(むまつぎ)といったりする。ひとつの大名行列が時には数百の人馬を必要とするから、それだけの数を扶養するのは、とうてい一企業者の手にはおえないから、荷物を運ぶ仕事と牛馬の飼養は宿場のある土地全体の生業部門となっている。そして宿場はその筋の監督下にあって安全確実に旅行者に対して必要な助力を与え、国中の交通を管理するところである。 荷物の目方と駄馬や人足の賃金は地方地方の状況d- sさて同じようにわれわれの注目に値する他の事柄、を斟酌してその筋できめている。すなわち馬に登り降りするのである。一般に道幅の広い街道には地形の許すかぎり両側にモミ・イトスギ・コノデガシワなど蔭の多い樹木を植え、また必要に応じて堀・堤防・水路を設けている。街道はその領地の大名たちの費用で維持され、大代官や庄屋の監督下にある。大名行列がたびたび行きあうので、秩序を保つために規則がつくられ、各々は道の左側にいて他の者には右側を行かせるが、こうしたことは大きな橋の上でも見かけることである。 一里塚日本の道標はたいてい道の両側にあるふたつずつの小さい丘で、その上にはモミや東洋種のエノキが植えてある。「一里の丘」という意味で「一里塚」と呼ばれる。一里より短い距離は町によって表わされ、境界線や道標と同じように石に刻まれている。 日本の一里は三六町で、江戸幕府の天文方のいうところでは緯度の一度は二八・二〇里である。日本の里は……支那や朝鮮のそれと混同してはいけないが、二千トアーズ〔フランスの古い尺度〕(一緯度二八・五四)あるフランスの里程よりいくぶん長い。 二、三の地方ではなお古い五〇町一里を用いていて、われわれは旅行中そういう所を通ったことがある。当時、不浄だとして排斥されていた、エタという階層の人が住んでいる区間は、たとえ数時間の距離でも、ある場所から他の場所までの距離にはかぞえられないし、輸送の場合にも計算にはいらないという風習は奇妙なことだ。日本という大きな島国では距離はみな日本橋という江戸の大きな橋から測る。 日本では道路地図や旅行案内書は必要で欠くことのできない旅行用品のひとつである。旅行者は、ヨーロッパで使われるよりもっと多く一般にこういう類を利用する。海陸の旅行に好都合なようにできていて、旅行用地図や道程表のほかに日本人旅行者にとって有益なことがらの要点がのっている。すなわち旅行用品の指示・馬や人夫の料金・通行手形の形式・有名な山や巡礼他の名称・気象学の原則・湖の干満の表・年表などである。そのうえ現行の尺度のあらまし・紙捻を立てるとでき上がる日時計までついている。 さて同じように我々の注目に値する他の事柄、すなわち郵便制度と国境警備のことに移ろう。歴史は我が紀元六日六年、孝徳天皇の時代にこのふたつの措置の実施を、同時に他の重要な国家の制度とともどもに述べている。国の全地方には若干の地方員が駐在し、そのために都との緊密な連絡の必要が宿駅を設けるきっかけとなったものと思われる。今日では往来の非常に激しい街道に洽って全国いたる所に宿駅があり、牛馬や人足の雇い入れや交替に便利で、一般に広間が用意してある。そういうものを駅(えき)といったり、駅站(えきたん)いったりする。駅(むまつぎ)と言ったりする。ひとつの大名行列が時には数百の人馬を必要とするから、それだけの数を扶養するのは、とうてい一企業者の手にはおえないから、荷物を運ぶ仕事と牛馬の飼養は宿場のある土地全体の生業部門となっている。そして宿場はその筋の監督下にあって安全催実に旅行者に対して必要な助力を与え、国中の交通を管理するところである。 荷物の目方と駄馬や人足の賃金は地方、地方の状況を斟酌してその筋できめている。すなわち馬一頭に満載の荷を一駄といって36貫目、乗用馬にたくさんの荷をつむのを乗掛といって10ないし18貫、乗用馬に軽い荷をつむのを空尻といい3ないし6貫、ひとりの人夫が担ぐ荷物は5貫目で、その際の駄賃は一頭の駄馬に対し定められている料金の人足ひとりなら半分、駄賃は3分の2という割合を標準としている。貫目という重さは1750〔正しくは3750〕グラム、オランダの昔の7と2分の1ポンド、または日本の6と4分の1斤である。斤はオランダ人の間では、「kAtje」という名で知られている。料金は地形によって見積られ、山地とか主要都市の近くでは非常に高くなるので、1マイル〔7420メートル〕に対する一定の料金はない。最も新しい日本の族行案内書によると、駄馬一頭分か長崎から矢上まで三里あって166文、そこから四里先の諫早まで206文、そして森本から田代まで1里につき41文とられ、長崎から小倉まで57里の総額2両3匁39文となる。1826年のオランダ使節に対して、馬一頭馬につきで長崎から小倉まで3両河2分、兵庫…大坂間日匁3分7厘、京都から江戸までで8両6匁6分を請求した。最後にあげたふたつの都市の距離は126里で、それで計算すると1里ないし1フランス里に対して平均13ツェントまたは9クローネが、駄馬一頭に馬方つきの使用料となる。1752(宝暦2)年の旅行案内書とて804年のものとを比べると、上述の宿駅間の古い料金の方が22文だけ安かった。 手紙の普通便と速達便手紙の普通便と速達便とはこの国第一の商業都市である大坂に中心をおき、そこからふたつの主要都市京都および江戸に、諸大名の城下町に、そして終りには外人との貿易都市である長崎に向かって活発に往来する。郵便物は毎月7日・17日・27日に大坂から長崎へ、8日・18日・28日に京都と江戸に居られる。京都は至近距離にあるのでさらに毎日でもその機会がある。長崎までは郵便は7日でとどく。よく風をはらみたくさんの漕ぎ手をのせた小舟で下関か小倉までゆき、そこから手紙は走者によって目的地まで運ばれる。蝋(ろう)びきの布で包んだ手紙入りの小箱を棒にくくりつけ大声で叫びながら次の宿場にたどりつき他の走者に渡すと、下にもおかずさらに先へと運んでゆく。重要な手紙を運ぶときには不慮の事故に備えてふたりの配達人を便う。 飛脚これらの走者を日本では飛脚といい、支那語の「Hikeo」から来ている。これは翼のある足のことである。こうした定期的な郵便のほかにいつでも飛御便を出すことができるが、その料金は季節や天候の関係でまちまちである。大坂から長崎までで100ないし200グルデンかかる。我が国の株式取引と同様に行なわれる大坂の商売、特に米や干物の売買にはこういう飛脚使を盛んに用いる。 なおここで電信のように、ある重要な知らせを急いで伝えるのに役立つ例の施設について述べておこう。それは蜂火台(ほうかだい)つまり火を燃やす爨(かまど)である。各地方の最も高い山にしつらえ、外敵の上陸というような国家にとって重大な事件が起こった場合、その台の上で火を燃やして合図をするのである。さほど重要でない場合には、支那や日本の戦術で古来知られている狼煙(のろし)をあげる。 宿場には旅館や宿屋がある宿場には旅館や宿屋がある。第ご轍の旅館は館または一般に本陣である。大名やその他身分の高い人々はここに泊まるが、庶民は宿屋をさがして泊まる。旅行中われわれはこの両方を詳しく見るつもりである。われわれ使節は本陣に宿をとるのであるが、本陣が満員のときには九州では寺院に、東海道では宿屋に泊まった。 入浴は非常に熱いのが一般の要求である。旅行者、とくに人足は毎日入浴する。すべての旅館には身分の上下に応じて異なった浴室かおり、また大抵は近くに公衆浴場もある。茶屋や女郎屋は夜更けまであいている。三味線をひく美しい芸者や女郎が、ところによっては可変らしい小間物売りの女もいて、旅行者を楽しませてくれる。 国境警備 関所国境警備は関または関門(かんもん)で、たいてい街道がひとつの地方から他の地方へ通ずるところに設けられている。こういう関所の主な三つをいわゆる三関といい、昔は近江〔滋賀県〕の瀬田の陵路あるいは逢坂・美濃〔岐阜県〕の不破・伊勢〔三重県〕の鈴鹿にあった。最後にあげた鈴鹿の関から国を東西に分け関東・関西とする。現在は箱根・新居・福島・松戸・中川および江戸湾の西側にある浦賀は首都である江戸防衛の要所となっている。 橋いろいろ(外題) 日本の山岳地帯には急流が多く、それに江戸や大坂のように人口の多い都会は大きい河の河口にひらけ、諸方へ運河で分断されている。こういう状況からたくさんの大橋がかけられ、従ってその総数が全国で239といわれているのも怪しむにはあたらない。大坂だけで79、江戸には75の大橋がある。橋は構造様式によって次のように分類される。 岩橋はたいていは弧を描いてせまい支流や小川にかかっているが、最長、約25メートルにおよぶ長崎の橋をのぞけばそれほど多くはない。 本橋は杉(スギ)・欅(ケヤキ)・桧(ヒノキ)で作られ、石の基礎に建てられた木製の橋脚の上にのり、幅の広い河に架かっている。最大のものは岡崎〔愛知県岡崎市の西を流れる矢矧川(やはぎ)にある橋で397メートルに達する。 浮き橋は雨期に増水した森の小川やそういう川の河口にかけられている。竹で編んだ龍に石をつめたものを橋頭に積み重ね、強い木の支えを河床に据え、その上に板や木の枝をならべ、砂袋で重しをするのである。 吊り橋、インドにあるような吊り橋や自然の岩橋はいくつかの高山地帯にある。高い岩が富士山の火ロヘ行く途中にあって、鉄のクサリを使ってよじ登るものもあり、また飛騨地方にはふたつの岩にうまくザイルを張ってつなぎ、それに動かすことのできる龍をつけたものがある。「はね橋」または「引き橋」はただ城塞だけに見られる。日本のいくつかの地方には舟僑もある。越中の富山付近の幅763メートルの神通川にかかる橋は、鉄のクサリつなぎあわせ板をのせた二艘の川舟からできている。これと似たものは越前の福井付近と上野〔群馬県〕の佐野にある。日本の歴史書は架橋の初めを仁徳天皇の14年(西暦326年)としている。612年には百訴から移住して来た者が、橋づくりに熟達していて多くの地方で架橋工事を行ない、彼の監督のもとに大小約180の橋ができあがったということである。その中では木曽のかけ橋や遠江〔静岡県西部〕の浜名の橋が有名である。七世紀の終りころ支那へ旅した僧道昭もまたたくさんの構を架けた人だといわれているが、その中には山城国〔京都府〕の宇治橋がある。航海および航海術 航海および航海術は、海上商業が自国の沿岸航行だけに限られていて、そのうえ船の構造様式に一般の規則を設けている国においては、ほとんど進歩というものがなかったのかもしれない。それにもかかわらず沿岸の航海は国内商業の場合と同様に完全な段階にあるのがわかる。ことに入江や港にめぐまれた地方では沿岸の航行は陸上の輸送よりはるかに有利である。そういうわけで海上交通ができない場合に限って陸上輸送をするのである。 古代の船(外題) すでに古代の伝説に船の使用のことが語られている。また第一代の神武天皇(前667年)は軍船を造り、それに乗って本土に対する遠征を企てた。もっと一般的にかつ国民の生活に感動を与えたと思われるのは、崇神天皇の時代の航海である。すなわち天皇は紀元前八一年に命令を下し、全国にわたる沿岸住民の交通の便をはかるために船を造らせた。第二世紀の終りごろには日本の艦隊はいちじるしく充実し、多数の兵員を朝鮮半島に運ぶことができるようになった。 察するに昔の日本の船は朝鮮のものの模倣であって、年代記の記述によれば、日本人は紀元前43年に朝鮮の船を知っていた。われわれが神社の奉納額で見るような古代の日本船の絵はこうした見解の正しいことを示している。ともかくそれは独特な構造をもっていて、今日にいたるまで支那の造船術からほとんど受けついでいるものもないし、ヨーロッパの造船術からの影響は皆無である。両者を知るよい機会を日本人は数世紀以来もってはいたのだが。 日本の船(外題)日本の船は杉・樅(モミ)・楠(クスノキ)の木材で造られており、まれにはトウヒ・欅(ケヤキ)その他の種類の材が用いられる。その構造の独特な点はほとんど目立つような竜骨や肋材のないこと、開いた船尾とくちばしの形をして突き出た船首とである。帆柱は多数の木を合わせてつくり、一枚の大きな帆をはり、釘や金具は銅製である。船体にタールを使うことを知らないから焼いて虫害に備える。索具はアサまたはワジュロの繊維でできているが、またときには稲の藁でつくったものもある。一方帆は木綿織の布地を用い、わりに小さい舟ではただ藁で編んだゴザを使うこともある。 鉄製で四本の腕の出ている錨はオランダの四つめ錨に似ている。軽い舟には錨の代りにただ石の重りをつけた木の勾(かぎ)を用いる。商船は八ないし18間(約14~32メートル)の長さで、幅は長さに比例して4間まである。そして約150トンの荷物を積むことができる。非常にすぐれた造船所は大坂・堺および兵庫にある。 沿岸は港にめぐまれていて、それらのうちには長崎・下関・兵庫・堺・江戸・石巻および青森……あとのふたつは日本の北部、すなわち津軽地方にあるのだが……は大型船に適した良港である。大坂港は船の出入りがいちばん多いけれども、港が深くないのでただ小さい商船が入港できるに過ぎない。港には問屋があって航行の業務をつかさどり、入港手数料や荷物の引渡しを行ない運賃や運送状を処理する。またいっそう重要な港には少なくとも番所を置き、入港および出港する船に監視の目を光らせている。 湖や河の舟行商業や交通にとって同じように重要なことは湖や河の舟行である。淀川は近江の大きな湖水〔琵琶〕に源を発し、商業の中心地大坂を近江・山城・内〔大阪府〕だけでなく、丹波〔京都府の大部〕や伊賀〔三重県〕地方とも結び、日本の心臓部における活発な商業の仲介をする。また隅田川や中川は住民の多い江戸にとってはたくさんの支流をもつ水路として輸送に役立っている。他方大井川・瀕田川・安倍川のような河川は舟の航行には不適だが、しかし渡し舟で盛んに往来して豊富な財源をもたらす。 川舟は何の性質やその用途に応じて当然構造が異なっているが、一般に舶先(へさき)は突き出ていないし、底が平らで舟縁は底と直角をなしているなどの点で一致している。川舟は無格好で、遊山船や快連動は別として海の船のように立派ではなく清潔でもないのに気づく。船の種類は次のとおりである。 一、軍船ふたつの上甲板とひとつの後部上甲板があるか、あるいは単にひとつの上甲板だけで後部上甲仮のないものもある。二、監視船蚕齢ともいい、前部に屋形を備えた小艇で、港湾の監視に任じ、時に「見送り」と呼ばれる。そして海洋を航行することができ、捕鯨船に似ているところから、鯨船(Kudsira fune)とも呼ばれる。三、商船(Akinai fune)北船と南船とに分けられ、北船は、北日本や蝦夷へ商売にでかけ南船よりも大形で高い船尾を備えている。南船のうちにはいわゆる堺船と田舎船とがあって、堺船には舷側の手摺に開口部があり、田舎形にはそれがない。両方とも船尾のところが開いていて、中甲板があり、上甲板には屋形がある。 四、木船石和舟ともいう。薪やその他の荷を運ぶのに用いる、小さな丈の低い舟である。荷物をつむためのただひとつの場所と薬ぶきの屋形が甲仮にある。 五、漁船犯は鯨船と鰹船・普通の釣舟などがあり、生きている魚類を送るにはいさわ船の様式を採り入れた特別の船を用い、船槽の中央部の舟底の格子づくりの窓によって海水が出入りするようになっている。これを生簑船という。 六、遊山船遊び船といい、湾内や河で用いる。 七、湖水や河の船は川舟(KAWAFUNE)といい、積み舟と渡し舟に分けられる。 。 運河最後にわれわれはなお運河について述べなければならないと思う。運河は一方では船が通るために、もう一方では農業を保護するために設けたのである。船を通すための運河では安芸〔広島県〕の音戸の瀬がすぐれている。それは今の倉橋の島(Kurabasi no sima)を日本本島から隔てて、商都広島へ向かうまっすぐな水路を造っているものである。農薬用のものは、流れを肥沃な平野にみちびく、土手で囲まれた水路と思えばよい。兵庫周辺の地方では海を埋め立て、土地が造られていて、百年にわたる人力が河川による被害を食い止めた実例をしばしば旅行者に示している。 旅行者さてわれわれが旅行者そのものを見てみると、彼らは旅行の目的・旅行のやり方に従い、また自分にふさわしく旅装をととのえているのがわかるが、しかも自国の風習をきちんと守っているのである。旅行に当たっては人々は身分の上下を問わずある程度の準備をし、出発に先だって故郷の寺や社に参り、自分や家族のために神仏の加護を祈ってからでないと、誰ひとりとして旅に出ない。別れの宴では旅に出ようとする者はもう一度親戚や友人を呼び集め、皆から賤別の品や土産をもらうのだが、これはよその土地へ行くものに故郷の産物を持たせてやり、その品々を行き先でほかの品と交換していた古い時代の尊ぶべき風習が名残りをとどめているのであって、旅行者が適当なお返しの品を持って帰省する今日の慣例もまたこれに由来している。旅行のやり方そのものについては、身分が低いほど旅は気まま気まかせ、という言いならわしが日本ほどぴったりする国はおそらくほかにあるまい。日本の高貴な人々は家柄や礼儀作法にかたく縛られているようにみえ、その人の自由な意志はもはや全く問題にならない。服装・従者・旅行の道具・紋章・通路・一日の旅程・昼食・宿泊・そのうえ休息や娯楽の場所さえもあらかじめ身分相応に決められている。 従って年々行なわれる諸大名の参勤交代の旅行は彼らにとっては形式張った出費のかさむ仕事である。最近では従者についていちじるしい制限を設けはしたが、時代おくれの礼式が規定している外見の華美の風はなお変わることなく続けられた。本来の旅装を身につけている者は歩行者と騎行者に過ぎない。駕龍に乗って行くひとは、みな身分相応の身なりをしている。旅行着は野服と呼ばれ、股引・脚本・半纏という外套・藁笠また、ときとしては漆塗りの笠や、すでにたびたびのべた草履という藁靴などである。そのうえ一般人の旅行者は一本の刀をさし、貴族や武士階級の者は長さの違った刀を二本さしている。それは伺時に武士や役人の目印であって、われわれの供をする番所衆や、二、三の地方においてわれわれが通過する地域の大名から儀伏兵として供を命じられた兵士たちも二本差しの武装をしている。 これら一般的な観察は、読者に対し全体の見通しならびに旅行の途次に現われるに相違ない多くの個個の事柄の評価を容易にすると思うが、こうした観察を終わったので、われわれは再び出島にもどって来ようと思う。出島ではわれわれ使節は旅行の準備を終えているのだ。荷物の一部は艀(はしけ)に積みこまれ、海上を下関に運ばれ、一部はすでに保管させて、次の日には陸路をあとを追って下関へ向かうのである。 数人の役人は古くからの慣例に従ってわれわれの住いに来るが、それはわれわれの持ってゆこうと考えている物の中に万一禁制品があえりはしないかを調べるのが目的である。けれどもそれもただ形ばかりに行なわれ、満足してその上に封印を押すが、最初の宿泊地で再び取り除かれてしまうのだ。 1826年2月15日の夜明けとともに、われわれは日本人の旅行仲間を待っていた。彼らはわれわれを出島から連れてゆかねばならなかったのである。ビュルガー君と私は、ドイツ人としてこんなに珍しい国を旅行する、まれな籤をひきあてた幸運を喜びあった。われわれは準備万端怠りなく、われわれの仕事に対する感激でいっぱいだった。そして私が勇気と厳粛な意図を抱いて、ひとつの事業に没頭しているのを感じとったとすれば、それは今この時なのだ。明けゆくこの日が、故郷からはるか遠く離れた国々のうちで、特別な衝動にかられて訪れたひとつの国の内部を私犯あけて見せる約束をした今なのである。
2022年03月28日
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日本国内旅行の考察(仮題)初版第1刷発行 1979年7月15日 訳者 斎藤 信 さいとう まこと 東洋文庫87 発行者 下中邦彦 株式会社 平凡 株式会社平凡社 斎藤 信氏略歴 明治44年東京都生まれ。 東京大学文学部独文科卒(昭12) 名古屋市立大学名誉教授。 現職(著 当時) 名古屋保健衛生大学教授。蘭学資料研究会会員。 専攻 ドイツ語。オランダ語発達史。 主著『Deutsch fUr Studenten』。 主論文「稲村三伯研究」など。 一部加筆 山梨県歴史文学館使節の一行が出島に別れをつげるに先だって、日本国内を旅行する種々な方法や道路・橋梁・宿舎・接待・旅行道具・格式の表示などに関する二、三の一般的な考察をあらかじめ述べておくことが必要だと思う。旅行を続けてゆく間にたびたび触れるこれらの事柄を読者諸君にお知らせするためである。 おそらくアジアのどんな国においても、旅行ということが、日本におけるほどこんなに一般化している国はない。自分の領地から江戸へ行き来する大名の絶え間ない行列・活発な国内商業・その貨物の集散地、大坂にはこの国のあらゆる地方から売手や買手が殺到するし、また巡礼旅行も非常に盛んである。 〔参勤交代〕これらすべてがこの孤立した島国の多忙な生活の原因となっている。あたかも平常の静けさと孤独をそれで埋めあわせようとしているかのようである。しかも諸大名が一年の半分を江戸で、残りの半分を各自の領地で暮らすように義務づけているあの政策的な制度〔参勤交代〕ほど、日本での旅行をしやすくするのに役立っているものはおそらくあるまい。彼らの江戸への到着、最初の登城ならびに帰国の挨拶、帰還の旅立ちさえ各大名に対してたいへんきびしく決められていて、それらは国の年中行事衷の中でひとつの特別な条項になっているほどである。従っていまや旅行者に安全と快適な気分を与えるすべてのこうした制度が成り立つわけであるが、こういう制度をわれわれが他のアジアの諸国で捜し求めようとしても、おそらくは徒労に終わるであろう。 大名行列大名行列に関しては、我々は旅行中にいくつかを子細に見知る機会があるであろう。我々の行列が一般に大名のものと似ているのは、われわれの使節も大名と同様の身分の表示と特権をうけているからである。ただ彼らがその表示や特権を行使するやり方が変わっているのである。彼らは一度できあがると、古くなっても習慣を廃止したがらないし、大衆にはその値打ちがわからないヨーロッパ的なやり方よりも、一般に知れわたった身分の表示の方が、国民の間ではいっそう多くの名誉をもたせるだろう、と思いこんでいるのだから致し方ない。われわれの行列には大名たる格式の標示……槍・弓矢・小銃・鎧櫃・陣笠・高価な鞍と布地をつけた代馬が握りのついた籐の杖、贅沢な刺繍をしたふたつの上履き・文机・それに茶道具やその他二、三の旅行用具を加えて、おごそかに後に続かせる。しかしこれがヨーロッパの一国の使節にとってふさわしいものであるかどうか。それについては読者自身で判断していただきたい。駕龍と駕龍舁(か)き駕龍と駕龍舁(か)きはわが国の御者と馬と同じ役割を日本では演じている。地形が他のどんな乗物の使用にも不向きなので、御者と馬の代りをするわけである。ただあまり多くない平坦な地域だけで荷物を運ぶのに無格好な車を利用しているが、そのほかではすべての荷物は人や牛馬に負わせて運ばせる。駕寵にはいくつかの種類があり、階級や身分によって区別がある。いちばん上にいわゆる「乗物」がある。わが方の儀式用の馬車に当たるもので、貴族・役人・僧侶・医師・貴婦人だけが古いしきたりによってそれを使うことが許されている。こういう貴族用の駕龍の図は「さし絵三」にある。駕龍は編み細工と漆塗りの木部からできている運ぶことのできる小さい四角形の家である。漆塗りの木製の屋根がついていて、屋根の上に多少弓なりに曲がった長い担ぎ棒が金其の留金でとめられてついている。屋根が上へあけられるようになっている左側に引き戸があり、その引き戸にもまた向い側にも窓があって、紙か絹布を張った枠がはめこまれ、外から上品に作られた竹の簾をたらして扱うことができるようになっている。時には同じような窓が前方につけてあることもある。こういう箱の中の平らな床の上に、蒲団とかゴザとかまたは熊か虎の毛皮を敷いて旅行者は坐っているのだが、日本人は若い時からあぐらをかくことに慣れているので、いたって快適なのである。われわれのうちでも比較的小さい人ならば、足を伸ばすだけの充分の広さがあるから、それで辛抱できるのだが、大きい部類の者にとっては伸ばしている足を背中と直角にした体位で、幾日も背をのばして坐っていなければならないのであるから、こういう駕箭は本当に拷間合のようなものである。 内部には我々の方の旅行用の馬車のように種々便利なものがとりつけてあるが、それらの中には喫煙具や食物入れの小箱がある。このふたつは日本人の習慣からいって欠くことのできぬ必需品である。日本人が駕龍をかつぐ方法は旅行者の安全ということを考えて十分計算されているようである。というのは駕龍の持ち上げ方は地面からほんの少し離れているだけだから、駕龍昇が滑ったり転んだりしてもめったに危険は起こりそうもない。ひとつの「乗物」にはふたりの担い手が必要であるが、その員数は状況次第で八名までふやすことができる。揺れ方が快適かどうかは、乗用馬の場合と同様で、担い手の歩き方によるのである。九州の沿道では不器用な百姓が、荒い駄馬に乗っている時のように我々をゆすった。だから我々は動揺と衝撃のために陸上で船酔心地であった。しかるに京都から江戸に至る街道では、熟練した駕龍舁きがわれわれを揺らさずに静々と運んだので、我々は駕寵の中で読み書きもでき、眠ることもできた。諸侯のお屋敷では乗物、とくに婦人用のものが立派に作られている。竹の見事な編み細工と木部は黒漆に金蒔絵を施したものそ、銀や金張りの金具の飾りがついている。そして担い手の人数は、実際に乗物をかつぐか交替に備えて側を歩くかは別として、階級を示すのである。 同じようなやり方で作られ、ただ少々小さくてそれほど高価でない次の階級の駕龍はいわゆる権門駕龍で、武士や役人が用いる。肩棒の長さとそ方の大小は彼らの身分をみわける目印としてこの駕寵にはふたりの、まれには四人の駕龍る。 駕龍は編み物細工と軽い木で作られた運ぶ椅子で、宿駕龍の龍で竹や抑やその他の曲がりやすい木で編まれ、取手がついていて簡単な円い担い棒が通してある。旅行者は秤皿の中にいるように、そのなかに坐るが、おおう物もなく快適でもなし、雨風にもさらされたままである。 長持 ながもちかなり大きな旅行用のトランク……長持というなまえは長い入れ物ということであるは長方形で、木製のまれには編み細われる。一般にはその中に贈物を、とくに花嫁道具をいれることが多い。 ひとりの担ぎ手が二個ずつ一本の棒につけて肩に担いで運ぶ長方形の、割合に小さい荷物入れを両掛という。つまり「ふたつ掛かっているもの」のことである。編龍細工と軽い木からできていて漆塗りになっている。入念に作られ、漆仕上げで金具のついているのは挟箱で、ただ一個を一本の棒につけて高位・高官の人々の前か後ろで担がれる。我々は旅行中こういうものを持って行かないが、将軍とか長崎奉行を儀礼的に訪問する場合には使用する。上述の旅行カバンの類には運搬中要注意の品物をいれるのが普通で、乱暴な取扱いにたえるほかの荷物は、竹か柳の行李に入れ、筥か油紙か渋紙で包み牛馬の背にのせるので、駄荷という。すなわち駄獣にのせる荷のことである。また油紙や藁で作った雨外套・提灯その他軽い旅行具をしまうには、上に述べた油紙をかぶせた竹行李を持って行く。これが雨具入れで合羽寵(Kappa kago)といい、おおいがあってその上に普通は藁帽子をつけておき、雨傘や日傘に用いる。 身分の高い日本人は特別な道具を旅行に携えて行く。一本の担い棒にしっかりとつけたふたつの小箱からできていて、好きな茶をたてるのに使う。茶弁当といって、その簡素な点と目的にかなっている点でわれわれの注意をひく。すでにケンプファーはこれについてたいへん詳しい記述をわれわれに示してくれた。茶弁当を使うことは貴族の特権である。その意味において前述の箱類とともに使節の行列の中で人目をひくのである。医者の駕龍にはもっと有用な品……旅行用の薬箱が付き添っている。そのほか人々が荷物として特ってゆくものは、かなり大型の長い荷物で、長持の形に荷づくりされ長袴と同様人足が運ぶか、あるいは駄荷として牛馬に積むかである。ただふたつの駄荷が積まれている馬の上に普通ならば床や座蒲団や敷物をしき、旅行者はクッションやマットの上にかけるのと同じようにその上に腰かけ、馬を御すことには無頓着で、その方は手綱をとる馬方に任せる。こういう用途に向くよう用意した馬を空尻と云う。背に何も乗っていないという意味である。我々の召使はたいていこういう馬を使って供をしている。ところで一般に、商売人は荷物といっしょにこういう馬に乗って旅行するのが普通である。馬で旅行するもうひとつの特別な方法はたいへん風変りだからふれておきたい。一頭の馬に、我々の国の驢馬(ろば)のようにふたつの籠をつけ、その各々の籠にひとりずつ乗り、三番目の人は鞍にまたがり馬を御すのである。このような旅行仲間を三宝荒神という。こうやって巡礼旅行するのはたいてい田舎の人たちである。 牛馬は活発な国内商業のための輸送力不足に利用される唯一の駄獣である。主要な街道では荷物の運搬には雄の牛馬を使うが、農業の方面、ことに耕作とか木材や穀物の運搬には雌の牛馬を用いる。荷鞍は数本の小割で結ばれたふたつの鞍の前輪から成っている。雄牛用の鞍枠はカシ(樫)やナラ(楢)材の粗造りである。しかも馬匹用のは赤くぬられ、真鐘の鋲が打ってある。こういう鞍は毛を詰めた二枚のゴザ蒲団の上に置かれ、馬の場合には胸帯・腹帯・鞦(しりがい)で、牛にあっては腹帯・胸帯・尻帯の役をする藁縄で固定されている。けれども結び方はたいへんゆるいので、置いた鞍は皮紐や綱でとめられているのではなくて、むしろ積荷のバランスとか牛馬の変化のない歩き方によって安定を保っている。こういう仕方だと摩擦も少なく、牛馬が窮屈に感じないで歩くことは確かである。馬には端綱(はづな)と勒(くつわ)があり、牛は藁縄を何回も首の回りに巻き、ひとつの輪を鼻に通すが、その輪は頬の両側を通っている綱で首輪と結ばれている。葛(クズ)の蔓で編まれた鼻輪には端綱がしっかりと結びつけてある。さらに馬具にはわが国の馬車馬の場合と同じく小さい鈴やガチャガチャ鳴る金属の板をさげ、積荷は鞍の小割に通っている綱でしっかりとくくられている。馬方はひと引きですべての積荷がはずれるようにたいへん上手に結んでいるが、これは荷をつけた馬が倒れかけた場合には利点があるかもしれない。蹄鉄は日本では使用されていない。牛馬の蹄には稲藁で作った靴をはかせるが、街道沿いの至るところで旅行借用の同じような藁靴といっしょに買えるように吊るしてある。しばしば細い道だけがまた段段さえもが山を越えて通じている日本の地形のようなところでは、蹄をおおうことは不適当ではない。それで滑る心配もなく荷物を背負った牛馬は非常にけわしい高所へ登るのである。牛馬は同時にとがった石の上で蹄を保護する。馬方や牛方は勧や鼻輪をもち、声をかけて牛馬を御すのだが、歩かせるために打ったりすることはめったにない。 運搬入については我々はすでに何カ所かで述べたし、荷を担ぐ者と駕龍舁きのあることを承知した。彼らの鍛練と忍耐と敏捷さには驚くが、反面かれらが節制を重んずるのは賞賛に値する。荷を担ぐ仕事には下層階級出で力強い男子がえらばれる。しかし駕龍を担ぐには相当の訓練がいる。荷物の担ぎ手が宿場ごとに交代するのに、駕龍昇は数日にわたって、10~15里(約40~60キロ)歩かねばならないから、軽やかな歩き方と豪壮な胸板が必要である。彼らは平坦な道を普通で一分間百歩のせまく規則正しい歩幅で足早にあるく。普通の荷担ぎ人足はみすぼらしいものを身にまとい、両足にはたいてい藁靴をはき、綿布とか藁または木の皮で作った脚布という一種のゲートルをつけている。そして長い杖をもち、休む時には荷物をその上にのせる。身分の高い人々の駕龍隮舁きも同じようなものを着ている。彼らは藁靴をはき脚布をまき藁帽子をかぶり、黒か紺色の木綿で作った着物を着ている。腰のまわりに色のついた帯をしめ、その帯の下へ着物の裾のうしろの方をは背負いこんでいる。胸元と背中と両袖に主君の定紋をつけている。ほかのことでは非常に困苦に慣れた日本人が湿気に対してはたいへん敏感で、猛暑の夏の雨にも全身に油紙か藁の外套をまとっているのをみると、不思議でならない。時にはそれは必要かもしれなかった。しかし今では一般の風習になってしまったので、ちょっとしたにわか雨に出会ったりした時、もし高貴な主人が従者に雨合羽を着せずに歩かせたりしたら、無作法とみなされるであろう。 街道や間道は各地方間の活発な商業交通ならびに江戸に行き来する大名の通過によってずっと古い時代に作られたが、一方牛馬や荷物運びの人足たちによる旅行の仕方には、目的にかなう施設が必要であった。すでに我々の紀元二五〇年に日本の年代記は、この国の諸地方における街道の建設に言及している。それは例の神功皇后が軍を新羅(しんら)にすすめたあの時代であった。この国の区分に多大の改革が行なわれた和銅年間(708~714)には信濃・美濃への街道がつくられ、それは現在木曽路と呼ばれている。それ以来三つの大きな島の諸地方には各方面にむかうたくさんの道路が通じ、相互の連絡はいっそう改善されるにいたった。 これらの道路はただ歩行者や牛馬のためで、従ってわが国においてのように荷車や郵便馬車には役立たないに違いないが、だからその建設にあたってはさほど困難もなく維持費もそれほどかからない。地面を平らにし、数インチ〔1インチは約平・5センチ〕の厚さに小石・丸石または砂利を敷き、踏みかためてから、歩行者が歩きやすいように砂をまく。急斜面で道路がつくれない山岳地帯では、段は低いが幅の広い階段を考え出し、それで人馬は安全確実の上に置かれ、馬の場合には胸帯・腹帯・鞦(しりがい)で、牛にあっては腹帯・胸帯・尻帯の役をする藁縄で固定されている。けれども結び方はたいへんゆるいので、置いた鞍は皮紐や綱でとめられているのではなくて、むしろ積荷のバランスとか牛馬の変化のない歩き方によって安定を保っている。こういう仕方だと摩擦も少なく、牛馬が窮屈に感じないで歩くことは確かである。馬には綿綿と励があり、牛は藁繩を何回も首の回りに巻き、ひとつの輪を鼻に通すが、その輪は頬の両側を通っている綱で首輪と結ばれている。葛の蔓で編まれた鼻輪には端綱がしっかりと結びつけてある。さらに馬具にはわが国の馬車馬の場合と同じく小さい鈴やガチャガチャ鳴る金属の板をさげ、積荷は鞍の小割に通っている綱でしっかりとくくられている。馬方はひと引きですべての積荷がはずれるようにたいへん上手に結んでいるが、これは荷をつけた馬が倒れかけた場合には利点があるかもしれない。蹄鉄は日本では使用されていない。牛馬の蹄には稲藁で作った靴をはかせるが、街道沿いの至るところで旅行借用の同じような藁靴といっしょに買えるようにつるしてある。しばしば細い道だけがまた段段さえもが山を越えて通じている日本の地形のようなところでは、蹄をおおうことは不適当ではない。それで滑る心配もなく荷物を背負った牛馬は非常にけわしい高所へ登るのである。牛馬は同時にとがった石の上で蹄を保護する。馬方や牛方は励や鼻輪をもち、声をかけて牛馬を御すのだが、歩かせるために打ったりすることはめったにない。 運搬入についてはわれわれはすでに何カ所かで述べたし、荷を担ぐ者と駕龍昇のあることを承知した。彼らの鍛練と忍耐と敏捷さには驚くが、反面かれらが節制を重んずるのは賞賛に値する。荷を担ぐ仕事には下層階級出で力強い男子がえらばれる。しかし駕龍を担ぐには相当の訓練がいる。荷物の担ぎ手が宿場ごとに交代するのに、駕龍昇は数日にわたって10~15里(約40~60キロ)と歩かねばならないから、軽やかな歩き方と強壮な胸板が必夥である。彼らは平坦な道を普速1分間100歩のせまく規則正しい歩幅で足早にあるく。普通の荷担ぎ人足はみすぽらしいものを身にまとい、両足にはたいてい藁靴をはき、綿布とか藁または木の皮で作った脚布というご狸のゲートルをつけている。そして長い杖をもち、休む時には荷物をその上にのせる。身分の高い人々の駕龍舁きも同じようなものを着ている。彼らは藁靴を履き脚布をまき藁帽子をかぶり、黒か紺色の木綿で作った着物を着ている。腰のまわりに色のついた帯をしめ、その帯の下へ着物の裾の後ろの方をはしょいこんでいる。胸元と背中と両袖に主君の定紋をつけている。ほかのことでは非常に困苦に慣れた日本人が湿気に対してはたいへん敏感で、猛暑の夏の雨にも全身に油紙か藁の外套をまとっているのをみると、不思議でならない。時にはそれは必要かもしれなかった。しかし今では一般の凪習になってしまったので、ちょっとした俄か雨に出会ったりした時、もし高貴な主人が従者に雨合羽を着せずに歩かせたりしたら、無作法とみなされるであろう。 街道や間道は各地方間の活発な商業交通ならびに江戸に行き来する大名の通過によってずっと古い時代に作られたが、一方、牛馬や荷物運びの人足たちによる旅行の仕方には、目的にかなう施設が必要であった。すでにわれわれの紀元二五〇年に日本の年代記は、この国の諸地方における街道の建設に言及している。われわれは旅行中そういう所を通ったことがある。当時、不浄だとして排斥されていた、エタという階層の人が住んでいる区間は、たとえ数時間の距離でも、ある場所から他の場所までの距離にはかぞえられないし、輸送の場合にも計算にはいらないという風習は奇妙なことだ。日本という大きな島国では距離はみな日本橋という江戸の大きな橋から測る。 日本では道路地図や旅行案内書は必要で欠くことのできない旅行用品のひとつでおる。旅行者は、ヨーロッパで使われるよりもっと多く一般にこういう類を利用する。海陸の旅行に好都合なようにできていて、旅行用地図や道程表のほかに日本人旅行者にとって有益なことがらの要点がのっている。すなわち旅行用品の指示・馬や人夫の料金・通行手形の形式・有名な山や巡礼地の名称・気象学の原則・潮の干満の表・年表などである。そのうえ現行の尺度のあらまし・紙捻(こより)を立てるとでき上がる日時計までついている。
2022年03月28日
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シーボルト 江戸参府紀行(1) 初版第1刷発行 1979年7月15日 訳者 斎藤 信 さいとう まこと 東洋文庫87 発行者 下中邦彦 株式会社 平凡 株式会社平凡社 斎藤 信氏略歴 明治44年東京都生まれ。 東京大学文学部独文科卒(昭12) 名古屋市立大学名誉教授。 現職(著 当時) 名古屋保健衛生大学教授。蘭学資料研究会会員。 専攻 ドイツ語。オランダ語発達史。 主著『Deutsch fUr Studenten』。 主論文「稲村三伯研究」など。 一部加筆 山梨県歴史文学館 凡例 一、本書はフィリップ・フランツ・フォン・ジーボルトの『日本、日本とその隣国および保護国蝦夷・南千島列島・樺太・朝鮮・琉球諸島の記録集』の第二版、 原名。NIPPON. ArchivzurBeschreibuag 1897の第二章『一八二六年における将軍の居城への旅』 すなわち『一八二六年の江戸参府紀行』。 本文中に用いた( )はすべて原文にあるもので、主としてジーボルトが原著において用いたローマ字による日本語を示すものが多い。 従ってローマ字の綴りが今日のそれと異なるものも少なくない し、明らかに読違い、あるいは書誤りと思われるものもあり、頭字の大小などもすべてもとのままにしておいた。異なる点としてはたとえばSなどは所によってサ[S]と読ませたり、ザ「旨」と読ませたりしている。一、訳注は一括して巻末に掲げたが、文章の説明や補いなど簡単なものは、本文中に〔 〕を用い六号活字で示してある。 またジーボルが用いた年月日はもちろん太陽暦によるものであるが、日付の下の〔 〕内に当時日本で用いられていたものを「旧」として加えてある。一、本文中に掲載した図版は、原著にある図版をすべて収録したが、一六七ページの鋳型の図のみ、国立国会図書館文部東洋文庫所蔵のジーボルト稿本『一八二六年、江戸参府旅行中の日記』から複写して転載した。一、最後にSieboldをどう読むかの問題がある。当時の日本人はオランダ語流の発音でもちろん「シーボルト」と言ったはずだし、また 南ドイツ人は一般に有声音の「S」を知らないから、彼自身も無声音の・・[一]と発音したに相違ない。わが国の歴史教科書・人名辞典・百科事典などもごく少数をのぞけぱ、すべて「シーボルト」と表記してあってすでに一般化されてはいるか、ここでは本来の発音に近づける意味であえて「ジーボルト」を用いることにした。 一八二六年(文政9年)の江戸参府紀行の序概要……旅行の準備……江戸滞在の延長計画……蘭印政庁の後援……日本人との深い理解・公使の不機嫌……和蘭使節の一行……日本の通詞およびその他の従者の描写……使用人……旅行具ならびに他の機具類の装備……和蘭使節の特権……ヨーロッパの使節に対する日本的格式の不適当な応用……旅行進捗の方途・駕寵・挿箱・荷馬・荷牛・駕寵かき・荷物運搬入についての記述……郵便制度・運搬人および馬に対する価格の公定……郵便および飛脚便……狼煙打上げ式信号……旅館および宿舎……浴場……茶屋など……国境の警備……橋……航海および航海術・造船・造船所・港……河の舟行……運河……堤防 私が日本へ派遣されることになったので、1826年(文政9年)に予定されている江戸旅行は、自然科学ならびに地理学・民族学に関して興味ある成果をあげるものと期待された。二年あまりの出島の生活は、こういう問題を解決するのに必要ないっさいの準備のための時間と機会とを払に与えてくれたので、その期待はいっそう大きかった。目の前に迫っている旅行からできうる限りの収穫を得ることが大切で、私は旅行者が興味を抱きそうなすべてのものをあらかじめ心得ておくことに全力を傾けた。 この国の地理・住民の言語・かれらの風俗習慣を、私は教養ある日本人との交際を通じて調べておいた。私自身の小旅行はさし当たっては九州のせまい……地区……長崎の近郊に及んだ程度に過ぎなかったが、遠い国々の事情に通じている医師たちが私にその地方の天産物を教えてくれた。彼らは自然科学や医学について私の講義を受けようとして、日本の各地からやって来て、自分たちの先生に博物標本や動植物の図譜や書物などを贈った。私の生徒たちは生きているのや乾燥した植物の収集物を、また動物や鉱物をこの国のあらゆる地方から熱心に集めてくれた。新しく到着した医師の名声にひかれて長崎に集まって来た数百の患者は、自分たちの眼にとまった珍しい博物標本をさし出して、医師の積極的な援助を確約しようとした。海棲動物を集めるには、長崎の港はこれ以上を望むことができないほど地の利を得ていた。とにかく魚類やカニ(蟹)類など魚市場で見つけだすことのできるものは、私の観察の、さらに知識欲に燃えている弟子たちの研究の対象ともなった。また数人の猟師を鳥や獣を捕えるために雇い入れておいたし、昆虫採集の目的でほかの人々を仕込んでおいた。出島では植物園を造ったが、私の多方面にわたる交友関係のおかげで、まもなく約千種にのぼる日本と支那の植物を数えるにいたった。このようにして、私は日本列島の動・植物群を知ったのである。また蝦夷や千島についてさえ、私が重い病気を直してあげたある高貴な日本人を通じて、博物学および民族学上の資料の貴重なコレクションを手に入れた。 国土とその産物について得た知識・国民の文化程度・商工業・国家や国民の施設についての私の見聞をあらゆる方面に広げることが、いまや来たるべき江戸旅行の主目的であった。けれどもこの旅行には種々の制約があって、私は自由に研究しその領域を広げようと切に望んでいたのであるが、そういうことは期待できなかったから、使節派遣が終わったのち、なおしばらくの間しかも国費で江戸に滞在し、将軍家の医師に博物学や医学を教えることを口実にして、状況次第でそのあと日本の国内を旅行しようという計画をたてていた。長崎奉行や江戸在住の身分の高い二、三の庇護者の影響力と、すでに医師としてまた自然科学者として立てられていた高い前評判とは、江戸幕府がこの計画に承諾をあたえるであろうという期待をいっそう確実なものにした。それに関連して日本人にあたえられる利益も莫大なものだったからである。 私からこの計画の知らせを受けた蘭印政庁は、これに同意し、私の特別な研究対象恚なるものを詳しく指示した命令を私によこしたばかりでなく、商館長でこの度の使節ヨハン・ウィレム・ドヴ・スチュルレルに、私の江戸における日程外の滞在費とその後の旅費を蘭印政庁の金庫から支払う権限をあたえ、さらにまたこの計画ならびに私の学問的企画一般に対し、公使の権限をもって強力に私を支援するよう、特に依頼してきた。 また、助手と画家各一名の必要をのべた私の申し出に対して同意が得られたのも、蘭印政庁の同じように寛大な決定のおかげであった。それでハインリヒ・ピュルガーとフーベルト・ドゥ・フィレネーフの両氏が日本に派遣されて来たのである。ジャワのわれわれの病院で以前薬剤師をしていたビュルガー氏には物理学・化学および鉱物学の部門をまかせたが、彼は特別な情熱を傾けてその方面の仕事に励んだ。一方、出島商館の職員に任命されたフィレネーフエ氏は絵をかくことを受け持った。この両氏は私が研究を続けてゆく間、よく期待に応えてくれた。 オランダの船舶は……周知のように毎年わずか二艘だけ貿易のために一寄港することを許されていたのだが……1825年12月には帰りの荷を積んでバタヴヂアヘ向け出帆してしまい、ふつう8月から12月に至る貿易の期間には種々の業務で中断される、あの単調な静けさを出島の住人は再びとりもどしたのだが、ちょうどそういう特期にわれわれは江戸旅行の準備にとりかかった。われわれの旅行が行なわれる状況は独特である。オランダ人は一方では外国人としての制限を受け、一挙手一投足を不安げに見守られるという、そんな監視のもとにあった。しかし他方ではまた多くのことがわれわれの態度、とくに案内者との協調如何にかかっていた。たとえ公の手段ではないにしても、内々に、つまりBinnenkant(裏面)の工作で、かなり多くのことがわれわれの利益となるように変更され、われわれの自由を束縛していた制限が除かれるかもしれないのである。このBinnenkailtという言葉は、BUitenKanyt(表面)の対語として日本の通詞たちがさかんに使うのである。 ‐ ’ 。私は旅の道づれとなる日本人をよく知っていたし、そのうちの何人かとは親しく付き合っていた程である。ちょうど彼らが旅行の準俸におわれていた時に、私がちょっとした好意を示すと、彼らはなおさら私の意を迎えようとした。その結果私が目前に迫っている旅行に関して、彼らの世話好きに多くの期待をかけたのは当然であった。使節の案内をする給人はすでに8月中に江戸から長崎に着いていたが、日本の友人たちは私をその人に紹介しようとした。私が引き合わされた時に、私は全力を尽くして私個人のことや私の学問上の意図に対する彼の関心を呼び起こそうとした。われわれを案内する日本人の側から私はきっかけを見つけだして、いちばん好都合なことを、すなわち制限された状態を緩和し、自然科学およびその他の研究を行なう機会を与え、そしてできる限り援助を借しまぬという約束をとりつけてしまったのである。 私が公使ドゥ・スチュルレル大佐から期待したものは、そんなものではなかった。私は悲しい思いでそのことを告白せざるをえないのであるが、この男はジャワにおいては私の使命に対してたいへん同情をよせ、非常な熱の入れ方で援助を借しまなかったのに、今この日本に来てしまってからは、みずから私の企てに関連していたすべてのことに対して、ただ無関心であったり冷淡であったばかりでなく、無遠慮にも妨害を続けて頓挫させ、困難におとしいれようとさえしたのである。このような不機嫌の原因は何にあったのか。政庁の指示によって私の活動範囲が拡大され、私の学問研究にこれまで以上の自主性が重んじられたことによって、よしんぱ彼自身の計画に齟齬(そご)を来たさなかったにせよ、おそらく彼の利害関係を損ったことに、その原因があったのか。あるいは貿易改善のために彼が行なった提案に対して、政庁があまり都合のよくない決定を下し、それがもとで不満もつのり、それに病弱も加わって、こうした変化をひき起こしたのかどうか、私には判断を下すことができない。しかしいずれにせよ、彼が最初に日本研究のための私の使命と準備とに対して寄せていた功績は、何といっても忘れることができないのである。そして、私は感謝の念をこめてそれを認めるのにやぶさかではない。もしドゥ・スチルレル氏が彼自身の使命のもつ立派な目的と、政庁がそれにかけていた計画とを注意深くじっと見守り、忍耐強く実行していたら、彼の日本における滞在と江戸の将軍家に対する使命とは、貿易の促進およびさらに大きな自由の獲得のためにとった処置と同様に、それ相応の成功をおさめていたであろうし、これらのことは日本とオランダの貿易史上においてひとつの光輝ある時期を画したことであろう。 先例によると、江戸旅行のわれわれ側の人員は、公使となる商館長と書記と医師のわずか3人ということがわかっていた。私はできることならビュルガー氏とドウ・フィレネーフエ氏を同伴したかったのであるが、今度はとても無理であった。そこでいろいろ面倒な手だてを重ねて、やっとピュルガー氏を書記の肩書で連れていくことが許されるようになった。日本人随員の身分についてはなお若干の所見を加えさせていただきたい。私は、われわれの旅行中種々の状況のもとで登場する通詞たちを読者諸君に紹介するが、その輪郭はとくに興味深いものではない。しかしこうした職業の人々は代々ヨーロッパ人との交際によって、長所も少なくはないが、短所の方をずっと多く受け継いでいるので、彼らを本来の日本人と混同してはならないということを、私はあらかじめ注意しておきたい。大通詞本来の日本人は外国人との交渉もなく、自国の風習に応じてしつけられ教育されているので……出島でわれわれと交際しているこのような日本人と通詞とが話題にのぼる場合には、こういう相違にいつも留意しなければならない。 この旅行で重要な役割を演じ、現金の出納を担当し、給人と連帯して政治・外交の業務を行なう大通詞として末永甚左衛門がわれわれに同行した。60歳に近く、立派な教養といくらかの学問的知識をもっていた。彼はオランダ人との貿易には経験も多く、さらに貿易にかこつけて巧みにそれを利用した。日本流の事務処理にすぐれた能力があり、賢明で悪知恵もあった。また同時に追従に近いほど頭も低く、洗練された外貌をもち非常に親切でもあった。そのうえ物惜しみはしないが倹約家で、不遜という程ではないが自信家であった。甚左衛門は、出島にいる大部分の同僚と同じように、少年時代に通詞の生活にはいり、オランダの習慣に馴れていて、通詞式のオランダ語を上手に話したり書いたりした。フォン・レザノフおよびフォン・クルーゼンシュテルンの率いるロシアの使節が来た時(1804~05年)に、特にペリュー卿の事件(1890年)の際に、彼は幕府のためにたいん役に立ったので、長崎奉行の信望もあつく、恵まれた家庭的な境遇のうちに暮らしていた。彼は小柄で痩せていたし、少し曲がった鼻と異状な大きさの眼をし、顎(あご)は尖っていた。非常に真面目な話をする時に、彼の口は歪んで微笑しているような表情となり、普段はそういう微笑でわざとらしい親愛の情をあらわすので、鋭い輪郭をした彼の顔は、なおいっそう人目をひき、目立つのである。彼の顔色は黄色い上に土色をおびていた。剃った頭のてっぺんは禿げて光り、うえに上を向いた薄い髷(まげ)がかたく油でかためて乗っていた。 小通詞は岩瀬弥十郎といった。彼は60歳を少々越していて、体格やら身のこなし方など多くの点でわれわれの甚左衛門に似ていた。ひどいわし鼻で、両その方の眼瞼(まぶた)はたるみ顎は長く、口は左の笑筋が麻痺していたので、いつもゆがんで笑っているように見えた。大きな耳と喉頭の肥大は彼の顔つきを特徴づけていた。彼は自分の職務に通じていて精励し、旧いしきたりを固くまもった。彼は卑屈なくらい礼儀正しく、同時に賢明だったが、ずるささえ感じられた。しかしそれを彼は正直な外貌でつつんでいたし、また非常にていねいなお辞儀をし、親切で愛想もよく、駆け足と言ってよいぐらいに速く歩いた。 彼の息子の岩瀬弥七郎はたいそう父親似であった。ただ父は病気と年齢のせいで弱かったのに対し、息子の方は気力に欠けた若者だった点が違っていた。そうはいうものの噂では彼は善良な人間で、お辞儀をすることにかけてはほとんど父に劣らず、何事によらず「ヘイヘイ」と答えた。彼は世情に通じていたし、女性を軽視しなかった。女性だちといっしょにいるとき、彼はいつでもおもしろい思いつきをもっていた。またわれわれに対してはたいへん親切で日常生活では重宝がられた。彼は今度は父の仕事を手伝うために、父の費用で旅行した。 公使の私的な通訳として、野村八太郎とあるが、NAMURA(名村)の誤り〕とかいう人がわれわれに随行した。当時われわれと接していた日本人のうちで、もっとも才能に恵まれ練達した人のひとりであったことは確かである。彼は母国語のみならず支那語やオランダ語に造詣が深く、日本とその制度・風俗習慣にも明るく、たいへん話好きで、そのうえ朗らかだった。彼の父は大通詞だったが、退職していた。だから、父が存命していて国から給料をもらっている間は、息子の方は無給で勤めなければならなかったし、そのうえ息子八太郎は相当な道楽者だったから、少しでも多くの収入が必要だったのに、実際にはわずかしかなかった。信用は少なく、借金は多かった。二、三のオランダの役人と組んで投機をやり、いくばくかの生計の資を得ていた。彼自身はお金の値打ちを知らなかったが、お金のためにはなんでもやった。われわれの間で彼を雇ってやると、たいそう満足したし、それで利益があると思えば、いつもどんな仕事でもやってのけた。彼は痩せていて大きな体格をしていた。幅の広い円い顔にはアバタがいっぱいあったし、鼻はつぶれたような格好をしていたし、顎は病的に短く、大きな口の上唇はそり返り、そこから出歯が飛び出して、彼の顔の醜さには非の打ちどころがなかった。 日本人の同伴者のうちで最も身分の高い人物は給人で、御番上使とも呼ばれ、出島ではオッペルバンジョーストという名で知られていた。彼の支配下に三人の下級武士がいて、そのうちのひとりはオランダ船が長崎湾に停泊している時には見張りに当たるので、船番と呼ばれていた。それからふたりの町使で、これは元来わが方の警察官の業務を行なう。船番の方は出島では、普通オンデルバンジョーストは「下級」の意〕と呼ばれ、町使の方は出島の住人にはバンジョーストという名でと名づている。長崎奉行の下には通常一〇名の給人がいる。大部分は江戸から来ている警察官〔役人のこと〕で、公務を執行している。彼らは国から給料を受けていない。彼らが役所からもらっている給金はごくわずかだが、彼らが……合法と非合法とによって受けとる副収入はなおいっそう多かった。貿易の期間中、彼らは出島で交替に役目についた。彼らは重要な業務において奉行の代理をつとめるから、貿易並びにわれわれ個人の自由に対し多大の影響を与えた。輸出入に関しては彼らはわれわれの国の税関吏と同様に全権を委ねられ、従って密貿易の鍵を手中におさめていた。そういうわけだから、彼らは奉行所の書記や町年寄の了解のもとで、密輸に少なからず手加減を加えた。長崎奉行のこういう役人のひとりが例の給人で、今度の旅行でわれわれに随行することになっていた。役所は彼に厳命を下し、その実行に責任をもたせ、彼に日記をつけさせ、旅行が終わったとき提出させた。われわれに同行するそのほかの武士や通詞たちも、互いに監視し合う目的で日記帳を用意しておく責任があった。それゆえ彼らは手本として、また旧習を重んずる意味で以前の参府旅行の日記を携えてゆき、疑わしい場合にはそれを参考にして解明していくのである。我々は我々と行をともにする給人一名をカワサキ・ゲンソウ(Kawasaki GenzO)といった……を賢明で勇気ある男として知り合っていた。彼の部下たちは彼を手本として行動した。上述の通詞や武士たちのほかに、四人の筆者と二人の宰領・荷物運搬人夫の監督一人・役所の小使7人・われわれのための料理人2人・日本の役人の仕事をする小者31人と料理人1人、従って随員は日本人合計57名であった。 われわれの従者は誠実で信用のおける人々であった。彼らは若いころから出島に出仕していた。彼らのうちで年輩のものは、かつて上司の指揮のもとでこういう旅行に加わった経験があって、旅行中すばらしく気転がきき、職務上や礼儀作法にかかわるいっさいに通じていた。また彼らは、わかりやすいオランダ語を話したり書いたりした。 私の研究調査を援助してもらうために、私はなお2、3の人物を遮れて行った。彼らのうち一番初めには高良斎をあげるが、彼はこの2年来私のもっとも熱心な門人に数えられていたひとで、四国の阿波出身の若い医師であり、特に眼科の研究に熱心であった。けれども私か彼をえらぶ決心をしたのは、日本の植物学に対するかれの深くかつ広範な知識と、漢学に造詣が深くオランダ語が巧みであったこと、さらにまた彼が信頼に値し誠実であったからである。彼は私によく仕えた。私が多くの重要なレポートを得たのは、彼のおかげであるといわざるをえない。画家としては登与助か私に随行した。彼は長崎出身の非常にすぐれた芸術家で、とくに植物の写生に特異な腕をもち、人物画や風景画にもすでにヨーロッパの手法をとり入れはじめていた。彼が描いたたくさんの絵は私の著作の中で彼の功績が真実であることを物っている。乾譜標本や獣皮の作製などの仕事は弁之助とコマキ〔これは熊吉の誤り〕にやらせた。私の召使のうちのふたりで、こういう仕事をよく教えこんでおいたのである。これらの人々のほかにひとりの園丁と三人の私の門人が供に加わった。それは医師の敬作・ショウゲン・ケイタロウの三人で、彼らは助手として私に同行する許可がえられなかったので、上に述べた通訳たちの従者という名目で旅行に加わった。彼らは貧乏だったので、私は彼らの勤めぶりに応じて援助してやった。私は2、3人の猟師を長綺の近郊でひそかに使っていたので、できれば連れて行きたかったのだが、狩猟はわれわれの旅行中かたく禁じられていた。 旅行の準備 さてわれわれの旅行の準備についていうと、われわれは家庭的ならびに社交的生活を営むのに便利で必要なすべての品々を充分用意していた。使節は新式の家具や立派な食器類や銀器やガラス器を持って行かせた。またわれわれは……つまりビュルガー氏と私は種々の贅沢品ととくに贈物に適した品物を準備し、またわれわれの目的にかなうよう充分に整備した。バロメーター・高度測定用のトリチェリのガラス管・湿度計および寒暖計のほかに、われわれはロンドンのハットン・アンド・ハリグ社製のクロノメーター・副尺が付いていて一五秒を読みとることができる同じくロンドン製の六分儀・精巧な水準器と羅針儀・ガルバニー電気治療器および二、三の組立て顕微鏡などを持って行った。あとの品々は小型のピアノといっしょに日本の学者やヨーロッパの技術および科学の入門者に見せるのが狙いだった。なおよく整備された携帯用の薬品とごく普通の外科の手術用具をそれに加えた。 礼儀作法や外観の立派さにとくに注意をはらう日本人のような教養ある民族にあっては、使節は品位とヨーロッパ的な華麗さを身につけて振る舞い、単に自分たちの国民を代表するばかりでなく、自分たちの風俗が洗練され進歩していることをはっきりと見せることが確かに必要である。われわれオランダ人のほかに他のどんな外国人に対しても入国が許されていない場合には、なおさらそうである。商業上というよりはむしろ政策上の利害から、たがいに意を迎えようとしている文明化された二国民の出会いは、双方の風俗習慎のいちじるしい相違によって、使節の態度や一挙手一投足をいちだんとむずかしくする。彼の行動が民族性や国民性に関係があるときには、公然たる批判にさらされないうちならば、慎重すぎるくらいよく考え、できるだけ抜け目なく形にあらわすにこしたことはない。
2022年03月28日
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あなたのふるさと いっしょにあるこう 白州
2022年03月27日
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2022年03月27日
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2022年03月27日
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《表紙解説》 顔面把手付深鉢 (所在地北巨摩郡須玉町若神子、一五五番地) 所有者須玉町教育委員会) この土器は、昭和五十六年九月~十一月にかけて発掘調査された、北巨摩郡須玉町の津金御所前遺跡五号住居跡から出土したもので、平成四年二月二七日、県指定有形文化財(考古資料)に指定されている。 縄文時代中期中頃(今から約四五〇〇年的)に作られた土器で、全器高五七㎝・口径三五㎝・底径一五㎝で、口縁部に付けられた把手高は一三㎡である。顔面把手付深鉢の顔面は、一般的に土器の内面を向いて付けられるのが普通である。これは一説に、上器内部の貴重なものを賦守る為に内面を向いているとか、土器の内部が母親の胎内をあらわしているとも言われてきたが決着を見ていなかった。しかし、この土器の発見によって、後者の説が大きく前進したと言えよう。 この土器の特徴は、口縁部に顔面把手が付くだけではなく、土器胴部正面中央部と背面中央部に、それぞれ人面、が付けられることで、土器の胴部を胎内に見立てると、胎内から今まさに生まれでようとする子供が、顔をだして産声をあげているようである。全国的にもこのような形態は希有であるために、本土器は通称『お産土器』とも呼ばれ親しまれている。 (末木健)
2022年03月27日
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三 下関から室への旅と室の潜在 『シーボルト 江戸参府紀行』三月一日 〔旧一月二三日〕 初版第1刷発行 1979年7月15日 訳者 斎藤 信 さいとう まこと 東洋文庫87 発行者 下中邦彦 株式会社平凡社 斎藤 信氏略歴 明治44年東京都生。 東京大学文学部 独文科卒(昭12)。 名古屋市立大学名誉教授。 現職(著 当時) 名古屋保健衛生大学教授。蘭学資料研究会会員。 専攻 ドイツ語。オランダ語発達史。 主著『DEUTSCH FUR STUDENTEN』。 主論文「稲村三伯研究」など。 一部加筆 山梨県歴史文学館概要 日本〔本州〕・九州および四国に囲まれた多島海の性格…… 屋代島到着…… 牛首崎・上陸・化石となった象の歯…… マンモスの頭蓋…… 植物界…… 景色…… 出港…… オカムロ瀬戸という海峡…… 三島…… 三島灘の海盆…… 阿伏兎岬…… 琴平山…… 温度…… 児島・その植物界・日比の製塩場…… イカ漁…… 科学と引き船…… 室戸到着…… 宿舎…… 港・大浦湾はヨーロッパ船に適している…… 山根崎からの眺望…… 家島諸島 …… 室の町 …… 茶屋・室の明神の社・仏寺の塔・花占い …… 展望台 …… 国民性 …… 室の産業部門 三月二日 〔旧一月二四日〕 八時ごろ、われわれは西風をうけて出帆し、潮流に援けられ速い速力でファン・デル・カベレン海峡を通過する。満珠島の沖合で九州の田野浦に対し南から南二分の一南〔南二分の一東の誤りであろう〕に向けて舵をとり、江崎〔今日の部崎か〕を南45度東、本山岬(MOTOJAMA)を南75度東に望む。これらふたつの岬と、満株・干株というふたつの小さい島は、海峡に船を進める場合には頼りになる目標である。正午ごろ九州の東北端を認め、御崎の沖合で太陽の高度を計った。これによると、われわれは北緯33度53分にいたのである。 ここには多数の大小の島々が散在する水路がひらけ、日本の三つの主要な島、すなわち、日本〔本州〕・九州および四国に取り囲まれ、東北の方向に約60地理学的マイルにわたり、北緯33度一13から34度50分、グリニッチ東経130度52分15秒から135度25分の間にひろがっている。三つの入口がこの島の多い内海に通じている。西にあるのがファン・デル・カベレン海峡、南にあるふたつのうち西にあるものを、タスマン海峡〔現在の豊予海峡〕、東にあるのをリンスホーテン海峡〔今は紀州海峡というを注しているが紀淡海峡のことであろう〕という。この内海に散在する島嶼(とうしょ)・岩塊・岩礁・浅瀬の数は非常に多い。幕府の天文家高橋作左衛門の言によれば、 その数は1000以上に達するという。これらは皆知られてい、われわれがヨーロッパヘ持ち帰った日本の地図や海図に挙げられいている。 日本人はこの広々とした多鳥海を三つの灘あるいは海域に分けている。すなわち、周防灘(SUWO‐NADA) 水島灘(MISIMA‐NADA)および播磨灘(HARIMA‐NADA)である。第一のは周防領から名づけ、最後のは播磨領から名をとっているが、中の灘は三島から名をつけたもので、三島というのは甘い水〔淡水〕の出る島の意味である。この海域を形成している海岸の地形ははなはだ不規則で、ある所では細長い岬となり、険しい前山となって海峡に向かって突出し、ある所では入り込んで湾や入江となっている。周囲の大きい島々は、海岸と海岸の間に横に広がって無数の海峡を形成し、そのため外国船にとってはこの迷路を通って危険な航海をすることは今日まで不可能であったけれども日本の船乗りはこの水路に精通しているので、われわれはすっかり任せておいても安心である。ヨーロッパの船舶が、もしこの海に船を乗り入れようとするならば、航行の際に比較的大きな日本の船をいちぱん確かな水先案内人として目を離してはならない。すなわち数世紀以来日本の商船のために航路が開かれていて、内海の東端にこの国最大の商業都市大坂が位する。われわれが持っている海図にはこの主要航路と同様に小舟のための狭い水路・港の入口などが詳しく記されている。最も注目すべき島嶼ならびに地点は旅行の行き帰りの際にお知らせすることにする。…… 午後に偉高地を東南から東に望む。四国の伊予ならびに土佐領の山々である。内海の南の入口を示している姫島〔大分県国東半島北方紺5キロ〕の位置は南23度東、それからまもなく佐田岬の低く細長い半島〔佐田岬半島を四国の西海岸に認める。その半島は九州の東海岸にある関崎〔佐賀関半島〕と見たところひとつになっているようであるが、内海の入口は約三里の幅がある。下関ら17里はなれているという向島〔山ロ県防府市の南〕・野島〔向島の東南約10キロ〕・笠間島〔徳山市南方の笠戸島であろう〕のかたわらを過ぎ、タ方には航路を東北から東の長島に向け、上関〔長島にある村〕と室津の間の海峡を通過した。この海峡は島の北端と周防の南角の間にある。われわれは10時まで帆をあげたままにし、沖家室と屋代島〔柳井市の東で大島ともいう〕の牛の首崎の間に錨を降ろす。やっと数隻の船の長さしかない上関の海峡は南42度東にある。われわれの真前には平郡島がある。右舷には横島・秋島・八島および宇和島などの島々がある。潮流は速く、船が通過する際に南72度東に針路をとるのは、南に流れがちな潮流のため右舷にある岩に打ち当たらないためである。
2022年03月26日
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佐渡金山 磯辺欣三氏著 挿入画像
2022年03月26日
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『シーボルト 江戸参府紀行』三月一日 〔旧一月二三日〕 初版第1刷発行 1979年7月15日 訳者 斎藤 信 さいとう まこと 東洋文庫87 発行者 下中邦彦 株式会社平凡社 斎藤 信氏略歴 明治44年東京都生。 東京大学文学部 独文科卒(昭12)。 名古屋市立大学名誉教授。 現職(著 当時) 名古屋保健衛生大学教授。蘭学資料研究会会員。 専攻 ドイツ語。オランダ語発達史。 主著『DEUTSCH FUR STUDENTEN』。 主論文「稲村三伯研究」など。 一部加筆 山梨県歴史文学館三月一日 〔旧一月二三日〕 出発は今日ということになっている。早朝から門人や知人が別れを告げにやってくる。今度は多少個人的な利害がもとになって、彼らはこんなに朝早く来るようなことになってしまう。彼らは師であり友である私に国の風習に従って贈物をしてしまうと、次は私に順番が回って来て、別れのしるしに返礼の品を渡すことになる。われわれはそんなわけだから準備をちゃんとしておいた。各人は似つかわしく役立つ贈物を受け取った。薬・薬を入れるビン・オランダの書物や外科用の機械を医師たちの間で分け、装飾品・ガラス器・いわゆる金唐革の品物などを知人にわり当てた。その時われわれは両方の宿の主人の親切な家族と教子〔名をつけてやった子供〕に充分心を配った。さらに上に述べた論文の編著者のひとりひとりには特別な贈物をもったいぶって渡した。ドクトルの免許を得た新人には、取り扱ってもらうたくさんのテーマを課した。こういう行動をとるに当たってわれわれは常に品位と威厳をもって行ない、同時に心を打つ力強い言葉を使うように努めた。行斎は秘密の指示をうけて阿弥陀寺の住職のところへ布施を持参し、その名声を慕ってこの海峡の名とした蘭印総督ファン・デル・カペレン男爵を記念して、われわれが奉納節を掲げる許可を得た。すでに前日出島のフィレネーフエ君に手紙を出し、海峡の絵の下書きを送り、奉納画が帰りがけには下関に着いているよう配慮せよ、と指示した。 その文書およびいわゆる奉結画は羊皮紙に書かれ、カベレン男爵の紋をつけたもので、次のような銘がある。 ここはファン・デル・カベレソ海峡である。 この海峡は、われらにこの国を研究する崇高な 委託を与えた者の名を冠むるべし 一八二六年二月二四日、阿弥陀寺にて 江戸参府の使節一行 ファン・デン・ベルヒも同様に秘密を打ち明けられ、われわれのために僧侶に仲介の労をとることを約した。また彼はオランダの友人の興味深い文書を オランダ貿易の繁栄を望む者の フレデリック・ヘンドリック 中津藩主 正午ごろわれわれは旅装をととのえ、もう一度太陽の高度を測り、宿のふたりの主人・門人・知友を、伴い、オランダの国旗が風にはためいていた宿舎の階段のすぐ前方に停泊していた船に乗り込んだ。 一われわれは船が錨をあげる前に、もう一度町を眺めようと思う。下関、旧名赤間関は大きな日本島最南端の、長門藩内の豊浦郡にあり、北緯33度36分30秒・グリニッチ東経130度52分15秒にある。低い丘が連なり、その北の境界は飯塚から小倉への道程の間者同じような推移性板岩の連山とが重なって、町の中まで延びている。町は御裳川という小川で新旧ふたつの地区に分けられている。海岸に沿って続く大きな石垣は波止場となり、数数の多い石段がそこに通じている。同じような石垣が丘の上のほうへ階段状にに築かれ、その上にどっしりとして反り曲がった寺院の屋根や優美な朱塗りの神社が常緑の古木の間にそびえ立ち、印象的な眺めである。海水が岸を洗う町は、東部にある寺の墓地、郊外の竹崎、今浦の村を加えると二里あまりに広がり、東から西の終りまで主要道路が走り、その道からたくさんの支道が寺や社へ、さらに郊外に通じている。本通りは10の町に分かれ、次のような名がついている。阿弥陀寺町(AMIDAZL‐MATSI)外浜町(SOTO‐HAMA‐MAT\I)中野町(NAKANO‐MATSI)赤間町(AKAMA‐MLLTSI)上下の南部町(NABE‐MATSI)東西の帆寄町(HOJOSE- MATSI)豊前田町(BUZENDA‐MATSI)などがあって、豊前田町は竹筒と今浦に通じている。御裳川には西ノ橋という石橋がかかっている。町の西はずれに河原石を敷きつめたふたつの急流の河床の上に、なおふたつの別々の橋が掛かっていて、観音崎と大江崎の付近で海に注ぐ。観音崎の入江、ことに入江原の湾はよい停泊地で、・釜山(KANIAJAMA)の上手の入江も同様である。小さい方の通りのうちには、稲荷の社と娼家に通じる稲荷町・芝居小屋に行ける浦町・田中町・同じ名の寺に行く王子町と三百目町などの町筋がある。漁師や島民の藁葺の小屋がたくさんある町の両端は例外であるが、主要道路の両側には立派な住いやたくさんの商店や茶屋がある。また堂々たる建物もいくつかあり、ふたりの町年寄の宿舎も兼ねる住宅・柳川屋敷や大名や勘定所や商人の事務所などが人目をひく。しかしこの町を飾るもの位すばらしい神社仏閣で、そのうちほんのわずかしか訪問できなかったのは実に残念であった。 最も主要な神社仏閣は、旧市街の東端にある。一、阿弥陀寺 二、極楽寺 三、神宮寺境内に帝応神とその父仲哀・母神功を祭る八幡社 四、稲荷神社 五、教法寺、町の西端には大陸寺・西谷寺・光明寺があり、輝く光の寺ということで、普通三百目と呼んでいる。永福寺・東光寺および福谷寺などがある。下関は日本における最も繁栄している中位の海港のひとつで、長門周防藩が九州との国内貿易をする中心地であり、船の出入りがたいへん多く活況を呈している土地である。れわれが当地の友人から得た信頼すべき通報によると、この町には(1826年に)1890軒の家があり、全住民の人口は5140人、そのうち男2860人・女2340人である。男女の人口の不均衡は、ここの遊廓の中にいて調査の際に計算にはいらなかったおおぜいの娼婦がいたことで説明がつく。これらの女たちはわれわれの耳には異様に聞こるかもしれないが、この土地では特別の尊敬を得ている。すなわち日本における遊郭の起源をあの不幸な壇ノ浦の海戦のせいにし、戦いに敗れた後、内裡や赤間関にとどまった平家一族出の女官や貴族の娘たちは、戦勝者のいうなりに身を任せる以外にはおのれの身を守り、生活の資を得ることができなかったのである。それゆえ下関の売春婦は今日に至るまで、われわれの国で美しい貴族の令嬢というのと同様に女郎と称してもよい特権を受けている。当地の商業はいちじるしく活況を呈し、ことに生活必需品・旅行用品の小売が主となっている、天候に恵まれ、順風をうけて毎日ここに入港する大小の船舶は平均して150を数えるほどである。
2022年03月26日
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『シーボルト 江戸参府紀行』 二月二七日 〔旧一月二一日〕 初版第1刷発行 1979年7月15日 訳者 斎藤 信 さいとう まこと 東洋文庫87 発行者 下中邦彦 株式会社平凡社 斎藤 信氏略歴 明治44年東京都生。 東京大学文学郁枝文科卒(昭12)。 名古屋市立大学名誉教授。 現職(著 当時) 名古屋保健衛生大学教授。蘭学資料研究会会員。 専攻 ドイツ語。オランダ語発達史。 主著『DEUTSCH FUR STUDENTEN』。 主論文「稲村三伯研究」など。 一部加筆 山梨県歴史文学館 竹崎われわれは竹崎(この町の西部ではそう呼んでいる)とその近郊へ散歩にでかける許可を得た。長門の西南端、小門真岬・小引島・六連諸島を調査することが、今日のわれわれの課題であった。小さいグループでわれわれは西鍋町・入江町・西細江町、それから豊前町を通り、竹筒の海岸通りにある税関〔監視小屋〕の近くで休んだ。われわれの眼前には引島や舟島や豊前の海岸を望む景色がひらけていた。そこには小さい商船が錨を降ろしていて、波止場では人が荷物の積降しに忙しげに立ち働いていた。第一〇図はこの有様を伝えるものである。下関商業の貨物集散地である。 われわれの到着は評判になった。好奇心を抱いた群衆が殺到してきて、ここでは測量はうまくゆかなかった。また登与助も今度はこの地方の略図が描けなかった。われわれは今浦へ行き、海岸にある漁師の家に立ち寄り、われわれを先へ案内するのをためらっていた日本の士官たちに葡萄酒と酒をすすめて、なおさらよい気分にならせようとした。今浦の村はもう下関の地域に具していなかった。早鞘へ小旅行を企てたときにもわれわれはこれと似た状況であった。外国人をもてなすことの禁制は、日本の全住民に非常に恐ろしい力となってのしかかっているので、われわれが体験したいっさいのことから洞察されるように、ひとりの外国人が、見つけられずにただの一日でも日本の土地にとどまっていることは不可能である。 我々は監視者に対し、我々の仕事には関与せず小門からの帰りをここで待っているようにすすめ、彼らもまたそれに賛成した。我々は彼らの視界から離れてしまうと、すぐに仕事にかかり、一連の測量によって引島のまだ全く知られていない東海岸を確定し、湖のようにここに開けている海のほかの多くの地点を訂正した。最も重要な測量のうちの数例をここに挙げようと思う。 舟島は南20度東。内裡の町は引島の東端とともに南10度東、引島の東北端(天ノ郷崎)は南35度西、小倉の町は前にある引島のために見ることはできないが、われわれと同行の日本人はその方角をわれわれにはっきりと示した。それによると前方南16度西にあたった。それからわれわれは小門へ急ぎ村の西南にあった岬に登った。そこからは玄界灘を望む広々とした景色がひらけていた。ここは日本の地図では大きな欠陥があった(われわれは当時日本の精確な地図も上述した海図も知らなかった)。この地図では九州の海岸からよりも日本(本州)の海岸のほうからいっそう遠く離れている引島は、ただ狭いほとんど一町(14・54メートル)〔109・09メートル〕幅の海峡によって小門鼻岬と隔てられ、そして長細い岬となって西北の方向に延びて、いわば六連島に接しているように見えた。我々はここで眼前に、この六連島と引島の西北ならびに東北岸を鳥瞰し、登与助は見取図を描いたが、その図は彼が熟練と技術を備えていることを証明していた。宣誓な地点の決定に関しては、われわれは次に掲げておいた。引島の北端は東68度南、岬のいちばん端、おそらく岬とひとつになっていた笥島(TAKENOKOSIMA)は北86度西、元来上ノ六連(KAMINO―MOTSURE)と呼ばれている六連島の南端は北59度酉、小さい馬島(MUMASIMA)(小六連KOMOTSURAともいう)は北73度西である。長門の西岸にある武久岬は北4度東、室津岬は北9度東で、われわれは同じ名の村をはっきりと見ることができた。武久の近くでは武久川が、室津付近では綾羅木川(ASARAKI‐GAWA)が海に注いでいる。 六連諸島は六つの小島から成る。一、塙浦村のある上ノ六連 二、小六連または馬島 三、金崎島(KANASAKISIMA) 四、和合良島(WAKURASIMA) 五、温子島 六、片島で、あとの四つは無人島である。向いにある筑前の北岸では鐘崎まで眺められる。芦屋岬は南87度西、若松の水道(洞海ともいう)は南61度西にある。芦屋岬と同緯度のところにふたつの小島が並んでいて、双子島とか男女島というが、北の島は男島で北69度西、もうひとつは女島で北73度西にある。もっとずっと北の方にひとつの島があって、北33度西にあたる。同伴者のいうところでは藍ノ島という由。小瀬戸という幅の狭い水道は東から西へ延び、小門鼻岬と引島の北端で形造られ、人々の言によると、約114メートルの幅があるだけで、小さい商船だけが航行できる。瀬戸の潮流は速く、鳥偏の、ちょうど小門鼻岬の向いに暗礁があるので、航行はなおさら危険である。 今浦ではわれわれの費用で楽しい事をしていた武士たちに会い、夕方われわれは水路学上の小旅行から下関にもどった。 ★高野長英そこにはたくさんの患者が特っていた。その中には平戸の捕鯨業者がいて、前述した医師高野長英の捕鯨に関する論文は、この人に負うところがすこぶる多い。彼の非常に豊富な経験からわれわれに捕鯨に関し若干の詳しい報告をさせる目的で、彼をここに伴って来たのであった。収穫の多い捕鯨は平戸島・五島および女島群島・壱岐鳥付近、従って北緯31度から34度、グリニッチ東経128度から130度までの範囲の間で行なわれるという。そのいちばんよい季節は一二月から四月初めまでである。それゆえに平戸侯の特権収入である捕鯨はこの期間、ふたつの会社に賃貸される。前年においては冬の捕鯨に対する賃貸契約は九万両、すなわち約一八万グルデンに達した。賃貸(契約)期問外にとれた鯨に対しては鯨の大きさを標準として税金が支払われる。4尋2尺(6666メートル)の長さおよびそれを超えるものは100両あるいは200グルデンである。それより小さいものに対しては税は比較的少ない。 ★日本の鯨(くじら)捕鯨この動物(鯨)の長さというのはただ気孔から尾鰭までを計るのだそうである。 日本の捕鯨者は、鯨のさまざまの種類を区別するが、彼らはどれも捕えようとする。けれどもそれらのうちの三種、すなわちザトウクジラ・ナガスクジラ・ノンクジラは変種にすぎず、喜望峰でいわゆる、ROHRQUALというものの年齢の違ったものもある。一方、セミクジラとコクジラは南太平洋にいるクジラの年を経たものと年若いものの違いで、マッコウクジラはあの有名な(PHYSETER)であり、非常に珍しいイワシクジラは多分わが方のクジラ(BALAENOPTERA ARCTICA.)である。日本の海ではセミクジラが最も多く姿を現わす。このグジラの肉はおいしく、日本人の好みに合い最も珍重される。周坤のように、鯨肉は日本では一般に食用となり、およそクジラの何から何までが食用にされ、そしてヨーロッパでは人々がまだ考え及ばなかった用途に使用される。それゆえに一匹の大きなセミクジラは3600から4000両、7000から8000グルデン……までもする。そして平均して年間に約250から300頭までのクジラが捕えられるから、それから考えても日本における捕鯨業の重要さが判断される。ごく控え目に見積っても、クジラは100万グルデンと評価されるかもしれない。業者は20尋(30・3メートル)のセミクジラを見たし、また壱岐の近海で一日に7ないし10頭の、それも大部分セミクジラを捕ったのを眼のあたり見ていた、とはっきり言っていた。 従って日本の捕鯨は、わが国でやっているのとは全然異なった目的で、しかも遮った方法で行なわれる。わが国〔ヨーロッパ〕の捕節水が装備しているような種類の舶は日本にはない。われおれは捕獲、鯨油の製造その他鯨を利用するために必要なすべてのものを備えて各船ごとに出漁する。日本では普通二五の小舟と8隻の割合大きい船が船団を作って捕鯨にでかける。小さいほうの舟は鯨船(KUZIRAFUNE)で、八つの櫓をもち、11ないし13人が乗り組んいい、5~6間(9~11メートル)の長さの空舟でいるのは本来捕鯨をするためのものである。彼らは鯨が見つかると、この小さい舟にのって鯨に向かって漕ぎ進みモリ(銛)を投げる。大きいほうの船は、さきに堺船という名で述べたもので、商船式に造られていて普通それには石和船という木造船を用いる。傷ついた鯨をつつんだり、あるいはその退路を断つ大きい鯨網を運搬したりする役を受けもつ。こういう網は稲藁か、またまれにはシュロ(棕櫚)の繊維で編んだもので、十丈(38・18メートル)の深さで、300メートルの長さがあるので、これだけで船の積荷となる。捕った鯨や殺された鯨をその網でつつみ、普通は漁村の海岸まで引っぱってゆき、陸揚げ場のうちとくにそういう設備のある場所で切り開く。肉や脂身やその他食用になるところは魚屋が買い集め、新鮮な状態で日本じゅうのすべての港へ送り出す。イルカなども同様であるが、食用にならぬものだけが鯨油をとるのに使われる。 いちぱん需要の多いのはセミクジラとコクジラの肉である。われわれはたびたびそれを食べてみた。歯切れのよくない牡の種牛か水牛の肉のような味で、生のまま食べたり塩漬けして食べたりするが、塩漬けのほうがおいしい。塩漬けにして薄い小片に切って食べる脂身は日本人の好物で、塩漬けしたオリーブのような味がする。内臓、鰭(ひれ)および髭(ひげ)も食用となる。鰭はきれいにおろしてサラダにする。脂身の屑や砕いた骨から鯨油を精製するが、人々はその油を菜種油よりよいとして好んで用いる。焼いて油をとった残りの部分もなお貧乏な人々の食用となり、粉は肥料として用いる。塩漬けの脂身は慢性下痢の、また胃や勝臓の薬として効能がある。粉にした鬚(ひげ)は便秘薬として、鯨油は苔癬(たいせん)の薬として知られている。またイナゴなどが穀物についた時に、鯨油を田にまく。腱からは木綿を織るのに用いる弾弓の線を作る。
2022年03月26日
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小倉から下関への渡航と下関滞在『シーボルト 江戸参府紀行』初版第1刷発行 1979年7月15日 訳者 斎藤 信 さいとう まこと 東洋文庫87 発行者 下中邦彦 株式会社平凡社 斎藤 信氏略歴 明治44年東京都生。 東京大学文学郁枝文科卒(昭12)。 名古屋市立大学名誉教授。 現職(著 当時) 名古屋保健衛生大学教授。蘭学資料研究会会員。 専攻 ドイツ語。オランダ語発達史。 主著『DEUTSCH FUR STUDENTEN』。 主論文「稲村三伯研究」など。 一部加筆 山梨県歴史文学館二月二七日 〔旧一月二一日〕 竹崎われわれは竹崎(この町の西部ではそう呼んでいる)とその近郊へ散歩にでかける許可を得た。長門の西南端、小門真岬・小引島・六連諸島を調査することが、今日のわれわれの課題であった。小さいグループでわれわれは西鍋町・入江町・西細江町、それから豊前町を通り、竹筒の海岸通りにある税関〔監視小屋〕の近くで休んだ。われわれの眼前には引島や舟島や豊前の海岸を望む景色がひらけていた。そこには小さい商船が錨を降ろしていて、波止場では人が荷物の積降しに忙しげに立ち働いていた。第一〇図はこの有様を伝えるものである。下関商業の貨物集散地である。 われわれの到着は評判になった。好奇心を抱いた群衆が殺到してきて、ここでは測量はうまくゆかなかった。また登与助も今度はこの地方の略図が描けなかった。われわれは今浦へ行き、海岸にある漁師の家に立ち寄り、われわれを先へ案内するのをためらっていた日本の士官たちに葡萄酒と酒をすすめて、なおさらよい気分にならせようとした。今浦の村はもう下関の地域に具していなかった。早鞘へ小旅行を企てたときにもわれわれはこれと似た状況であった。外国人をもてなすことの禁制は、日本の全住民に非常に恐ろしい力となってのしかかっているので、われわれが体験したいっさいのことから洞察されるように、ひとりの外国人が、見つけられずにただの一日でも日本の土地にとどまっていることは不可能である。 我々は監視者に対し、我々の仕事には関与せず小門からの帰りをここで待っているようにすすめ、彼らもまたそれに賛成した。我々は彼らの視界から離れてしまうと、すぐに仕事にかかり、一連の測量によって引島のまだ全く知られていない東海岸を確定し、湖のようにここに開けている海のほかの多くの地点を訂正した。最も重要な測量のうちの数例をここに挙げようと思う。 舟島は南20度東。内裡の町は引島の東端とともに南10度東、引島の東北端(天ノ郷崎)は南35度西、小倉の町は前にある引島のために見ることはできないが、われわれと同行の日本人はその方角をわれわれにはっきりと示した。それによると前方南16度西にあたった。それからわれわれは小門へ急ぎ村の西南にあった岬に登った。そこからは玄界灘を望む広々とした景色がひらけていた。ここは日本の地図では大きな欠陥があった(われわれは当時日本の精確な地図も上述した海図も知らなかった)。この地図では九州の海岸からよりも日本(本州)の海岸のほうからいっそう遠く離れている引島は、ただ狭いほとんど一町(14・54メートル)〔109・09メートル〕幅の海峡によって小門鼻岬と隔てられ、そして長細い岬となって西北の方向に延びて、いわば六連島に接しているように見えた。我々はここで眼前に、この六連島と引島の西北ならびに東北岸を鳥瞰し、登与助は見取図を描いたが、その図は彼が熟練と技術を備えていることを証明していた。宣誓な地点の決定に関しては、われわれは次に掲げておいた。引島の北端は東68度南、岬のいちばん端、おそらく岬とひとつになっていた笥島(TAKENOKOSIMA)は北86度西、元来上ノ六連(KAMINO―MOTSURE)と呼ばれている六連島の南端は北59度酉、小さい馬島(MUMASIMA)(小六連KOMOTSURAともいう)は北73度西である。長門の西岸にある武久岬は北4度東、室津岬は北9度東で、われわれは同じ名の村をはっきりと見ることができた。武久の近くでは武久川が、室津付近では綾羅木川(ASARAKI‐GAWA)が海に注いでいる。 六連諸島は六つの小島から成る。一、塙浦村のある上ノ六連 二、小六連または馬島 三、金崎島(KANASAKISIMA) 四、和合良島(WAKURASIMA) 五、温子島 六、片島で、あとの四つは無人島である。向いにある筑前の北岸では鐘崎まで眺められる。芦屋岬は南87度西、若松の水道(洞海ともいう)は南61度西にある。芦屋岬と同緯度のところにふたつの小島が並んでいて、双子島とか男女島というが、北の島は男島で北69度西、もうひとつは女島で北73度西にある。もっとずっと北の方にひとつの島があって、北33度西にあたる。同伴者のいうところでは藍ノ島という由。小瀬戸という幅の狭い水道は東から西へ延び、小門鼻岬と引島の北端で形造られ、人々の言によると、約114メートルの幅があるだけで、小さい商船だけが航行できる。瀬戸の潮流は速く、鳥偏の、ちょうど小門鼻岬の向いに暗礁があるので、航行はなおさら危険である。 今浦ではわれわれの費用で楽しい事をしていた武士たちに会い、夕方われわれは水路学上の小旅行から下関にもどった。 ★高野長英そこにはたくさんの患者が特っていた。その中には平戸の捕鯨業者がいて、前述した医師高野長英の捕鯨に関する論文は、この人に負うところがすこぶる多い。彼の非常に豊富な経験からわれわれに捕鯨に関し若干の詳しい報告をさせる目的で、彼をここに伴って来たのであった。収穫の多い捕鯨は平戸島・五島および女島群島・壱岐鳥付近、従って北緯31度から34度、グリニッチ東経128度から130度までの範囲の間で行なわれるという。そのいちばんよい季節は一二月から四月初めまでである。それゆえに平戸侯の特権収入である捕鯨はこの期間、ふたつの会社に賃貸される。前年においては冬の捕鯨に対する賃貸契約は九万両、すなわち約一八万グルデンに達した。賃貸(契約)期問外にとれた鯨に対しては鯨の大きさを標準として税金が支払われる。4尋2尺(6666メートル)の長さおよびそれを超えるものは100両あるいは200グルデンである。それより小さいものに対しては税は比較的少ない。 ★日本の鯨(くじら)捕鯨この動物(鯨)の長さというのはただ気孔から尾鰭までを計るのだそうである。 日本の捕鯨者は、鯨のさまざまの種類を区別するが、彼らはどれも捕えようとする。けれどもそれらのうちの三種、すなわちザトウクジラ・ナガスクジラ・ノンクジラは変種にすぎず、喜望峰でいわゆる、ROHRQUALというものの年齢の違ったものもある。一方、セミクジラとコクジラは南太平洋にいるクジラの年を経たものと年若いものの違いで、マッコウクジラはあの有名な(PHYSETER)であり、非常に珍しいイワシクジラは多分わが方のクジラ(BALAENOPTERA ARCTICA.)である。日本の海ではセミクジラが最も多く姿を現わす。このグジラの肉はおいしく、日本人の好みに合い最も珍重される。周坤のように、鯨肉は日本では一般に食用となり、およそクジラの何から何までが食用にされ、そしてヨーロッパでは人々がまだ考え及ばなかった用途に使用される。それゆえに一匹の大きなセミクジラは3600から4000両、7000から8000グルデン……までもする。そして平均して年間に約250から300頭までのクジラが捕えられるから、それから考えても日本における捕鯨業の重要さが判断される。ごく控え目に見積っても、クジラは100万グルデンと評価されるかもしれない。業者は20尋(30・3メートル)のセミクジラを見たし、また壱岐の近海で一日に7ないし10頭の、それも大部分セミクジラを捕ったのを眼のあたり見ていた、とはっきり言っていた。 従って日本の捕鯨は、わが国でやっているのとは全然異なった目的で、しかも遮った方法で行なわれる。わが国〔ヨーロッパ〕の捕節水が装備しているような種類の舶は日本にはない。われおれは捕獲、鯨油の製造その他鯨を利用するために必要なすべてのものを備えて各船ごとに出漁する。日本では普通二五の小舟と8隻の割合大きい船が船団を作って捕鯨にでかける。小さいほうの舟は鯨船(KUZIRAFUNE)で、八つの櫓をもち、11ないし13人が乗り組んいい、5~6間(9~11メートル)の長さの空舟でいるのは本来捕鯨をするためのものである。彼らは鯨が見つかると、この小さい舟にのって鯨に向かって漕ぎ進みモリ(銛)を投げる。大きいほうの船は、さきに堺船という名で述べたもので、商船式に造られていて普通それには石和船という木造船を用いる。傷ついた鯨をつつんだり、あるいはその退路を断つ大きい鯨網を運搬したりする役を受けもつ。こういう網は稲藁か、またまれにはシュロ(棕櫚)の繊維で編んだもので、十丈(38・18メートル)の深さで、300メートルの長さがあるので、これだけで船の積荷となる。捕った鯨や殺された鯨をその網でつつみ、普通は漁村の海岸まで引っぱってゆき、陸揚げ場のうちとくにそういう設備のある場所で切り開く。肉や脂身やその他食用になるところは魚屋が買い集め、新鮮な状態で日本じゅうのすべての港へ送り出す。イルカなども同様であるが、食用にならぬものだけが鯨油をとるのに使われる。 いちぱん需要の多いのはセミクジラとコクジラの肉である。われわれはたびたびそれを食べてみた。歯切れのよくない牡の種牛か水牛の肉のような味で、生のまま食べたり塩漬けして食べたりするが、塩漬けのほうがおいしい。塩漬けにして薄い小片に切って食べる脂身は日本人の好物で、塩漬けしたオリーブのような味がする。内臓、鰭(ひれ)および髭(ひげ)も食用となる。鰭はきれいにおろしてサラダにする。脂身の屑や砕いた骨から鯨油を精製するが、人々はその油を菜種油よりよいとして好んで用いる。焼いて油をとった残りの部分もなお貧乏な人々の食用となり、粉は肥料として用いる。塩漬けの脂身は慢性下痢の、また胃や勝臓の薬として効能がある。粉にした鬚(ひげ)は便秘薬として、鯨油は苔癬(たいせん)の薬として知られている。またイナゴなどが穀物についた時に、鯨油を田にまく。腱からは木綿を織るのに用いる弾弓の線を作る。
2022年03月25日
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『甲斐国志』所収大宮神馬奉納者一覧表 佐藤八郎氏著『武田氏の研究9』 一部加筆 山梨県歴史文学館 種別 氏 名 馬数親族衆 武田左衛門佐信亮 不明 々 武田逍遥軒信綱 不明 々 仁科五郎盛信 々 々 松尾新十郎信俊 々 将帥一 山県源八郎 々 々 山県源四郎 々 々 春日弾正忠 二 々 春日中務少輔 一 々 馬場民部少輔(信房) 五 々 内藤修理亮昌月 不明々 秋山左衛門佐昌詮 二 々 土屋右衛門尉昌恒 五 々 土屋同心 某 一 々 小佐手 某 不明々 甘利次郎四郎 三 々 日向玄徳斎宗榮 不明 々 日向玄東斎宗立 々将帥二 工藤長門守 二 々 曾根源五 不明 々 下曽根出羽守 々 々 向山中務丞 々 々 跡部淡路守 二 々 跡部美作守勝忠 三 々 跡部九郎右衛門尉昌忠 一 々 跡部民部助昌秀 不明々 跡部次郎右衛門尉昌副 々々 三枝栄富斎虎吉 々 々 栗原大学助 々 々 栗原十三郎 々々 温井常陸介 々々 釣閑斎光堅 一々 長坂 某 一々 長坂弥三昌春 一々 田沢久助 不明 将帥三 今福新右衛門尉昌常 々々 青沼助兵衛尉 々 々 奥山美濃守 々々 御宿監物友綱 々々 御宿 某一 々々 御宿 某二 々々 津梁斎 々々 大井民部亮信直 々々 依田美濃守 々々 大目方佐渡守 々 々 加津野市右衛門尉 々 々 今井新左衛門信衡 々 々 今井彦十郎信尚 々 々 今井新右衛門尉 々 々 今井彦三郎 々 々 今井左衛門尉 々々 安西平左衛門尉有味 々々 諏訪伊豆守 々々 関新右衛門尉 々々 城 意庵 々 々 小泉讃月斎 々 々 小泉紅葉斎 々 々 矢沢 某 々 々 尻高 某 々々 青柳 某 々 々 栗田与右兵衛尉 々々 僥倖軒宗慶 々々 大目方右衛門尉 々 上表の神馬奉納者合計六二名の内訳は、武田家親族衆五名、武田家将帥五七名である。 『国志』編纂のため、駿河方面の資料収集に赴いた諸員により、富士大宮の所蔵する「駿州大宮神馬奉納記」は調査の対象とされたが、その資料の一部が「賜芦文庫文書」に収められた。『静岡県史料』第二輯所収の旧大宮司富上家文書四五「武田信亮等神馬奉納状写」である。 「武田信亮等神馬奉納状」写 御神馬壱疋 左衛門佐信亮御神馬弐疋 仁科五郎盛信御神馬弐疋 逍遥軒信綱 (花押)御神馬弐疋 内藤修理克昌月 (花押)御神馬一疋 今福新右衛門尉昌常 (花押)御神馬一疋 跡部次郎右衛門尉昌副 (花押) 御神馬一疋 今井新十郎信忠 (花押)御神馬三疋 跡部美作守勝忠 (花押)御神馬二疋 安西平左衛門尉有味 (花押)御神馬三疋 御宿監物霞網 (花押)御神馬一疋 以清斎元松 (花押)御神馬一疋 僥倖軒宗慶 (花押) 鷹野因幡守これを奉(承け賜)る」 というもので、これが『国志』人物之部に「駿州大宮神馬奉納記」として幾十ケ所も記される史料の一部にほかならない。しかも注意すべきは、納馬奉行鷹野因幡守が年月日の記入を欠いていることで、何か理由がありそうである。また連署者一二名の内三名までが武田家親族衆であり、残り九名も名士で、御宿監物・跡部美作守などは、元老として各三疋ずつ納馬している。また僥倖軒宗慶は、本姓石坂、本国近江で、代々医家を以て聞こえ、京に住したが、信玄の懇ろな招きに応じて来甲、武田家の侍医となり、信玄の死後も勝頼・夫人北条氏の侍医として名医の誉高く、重臣として、大宮御神馬奉納者に列したのである。 以上のうち二名はいずれも『国志』のそれぞれの位置に転載されているが、独り以清斎元松だけが『国志』に転載漏れ故、補って六三名とする。 次に各武将の納馬数について、「駿州大宮神馬奉納記ニ、工藤長門守御神馬二疋」トあり。「是レモ有縁ノ隊長ナルペシ。此記、神馬一疋ヲ並トス、二匹 三匹 四匹 五匹ニ及ブハ縁ノ厚薄ニ因ルナリ。」とあるのが当を得た説といえよう。 前記「武田信亮等神馬奉納状写」は、奉納年月日の記入を欠いているが、この写本は「賜芦文庫文書」に収められ允もので、じゅうぶん信頼するに足る史料である。というのは、この写本を収める「賜芦文庫」の主、新見(しんみ)正路は江戸時代後期の幕臣で、文政12年(1829)に大坂西町奉行となり、在任中に淀川の大浚渫工事を完成して舟運の維持に貢献し、河中より浚い上げた土砂で天保山を築き、市民に遊楽地を提供し、また将軍家慶の側用人として幕政に貢献した。愛書家として知られ、邸内に「賜芦文庫」を設け、影写本が東大史料編纂所に54冊、巻子本11巻がある。それらの内の一通が旧大宮司富上家文書四五「武田信亮等神馬奉納状写」である。したがって旧大宮司家の原本はもっと多くあった筈で、筆者の推定では奉納状は少なくとも5通はあって、1通におよそ12~13名ほどの連署ではなかったかと思う。なぜならば、一通に12名が連署している割合は、63名ならば5通ほどになると思われるからで、馬の匹数を推定しても、12名が20疋と見なされる。 『国志』編纂者たちが、文化3年(1806)に駿河大宮に赴いて、当時は大宮司家に完全な姿で保存されていた奉納状から奉納者62名を写し、うち一四名についてはそれぞれの疋数も写し、計30疋に及びながら、残りの奉納者49名の奉馬72疋を書き留めなかったことは、折角駿河大宮まで資料収集に赴いた『国志』編纂当事者の迂閤さが残念に思われる。 幸い、『静岡県史料』第二輯、富士郡「旧公文富上家文書」の中に、遷宮に関する史料のあることを発見することができた。同文書八号の「富士大宮御遷宮入物引付覚」である。 此の文書の端裏書には、「御遷宮入物引付覚、天正六戊寅年十二月勝頼公御建立ノ記」とあるから、富士大宮の遷宮の際の入用物の控えに相違ない。巻子本で標題は、「富士大宮御遷宮入物引付覚」とある。引付とは、「後日の例証とするために書き留めて置く文書・記録」のことである。引付覚の内容は次の通り。 「第一 きぬ拾壱引(疋)是は御みそぎ廿一馬を各七□□ 第二 おみつき(御神酒)第三 御ほこ 三本 但まきぎぬ有り (中 略)第三十七 御神馬 三疋 是は本三社へ参御くら有り第三十八 御乗くら御道具共に 一ロ分大ふくりん第三十九 末社之御神馬 九十九疋 是は九十九社参候分第四十 馬船 百二そう 右の神馬の入物 (中 略)第五十三 いむしろ 二百まい第五十四 ちやうちん(提灯) 五十 」 右のうち、第三十七-第四十が神馬に関する事項で、この「引付覚」の眼目とも見られよう。 第三十七の御神馬三疋は、本三社(富士浅間神社の主祭神三柱、すなわち木花開耶姫命・瓊々杵尊・萬幡姫命)に参らせるものである。 第三十八の御乗くら御道具共に一ロ分大ふくりんは、本三社へ参らせる御乗鞍、御道具、共に一口分。大ふくりんは鞍の金具。 第三十九の末社の御神馬九十九疋は、末社九十九社に参らせる馬で、本三社の三疋と合わせて百二疋となる。 第四十馬船、百二そう。馬船は馬槽、飼葉を入れて馬に食わせるための桶。馬船と見倣し一槽を一艘と呼ぶので百二艘といった。 武田氏が駿河を分国に加えるために、信玄は永禄11年(1568)以来4ケ年の歳月に、言語に絶する労苦と、少なからぬ人的、物質資源を消耗して漸く初志を貫き、海国としての武田領国を造り上げたが、幾許もなく世を去った。後を承けた勝頼も父の遺志を継いで駿河の経営に努め、長篠の敗戦後にもかかわらず、富士大宮社殿の造営、遷宮の大事業を成し遂げて、亡父の遺志を実現したことを喜んだことは想像に余るものがある。そのあらわれとして、功労者鷹野徳繁に対し次の褒状を与え、徳繁の次男富士千代を当時空席の公文職に補任することを約したのであった。 「 定 富士大宮御道営幷びに今度の御遷宮の儀に別して馳走せしむるの条、感じ思し食され候。弥(いよい)よ他に譲らず、今より以後も祭祀修造の功に粉骨を端すべし。然れば公文退転の間、向後は其の方の次男富士千代を以て彼の職に補任せしめ、神役厳重に勤仕肝要たるべきの由、仰せ出ださるるものなり。但って件の如し。天正四作 十二月廿八日 釣閑斎 跡部美作守 これを奉る鷹野喜兵衛尉殿」(封筒書) なお、公文家(鷹野徳繁二男再興)の記録「富士本宮雑記」に次のような記事がある。「富士相模守信通、去る永禄十二年より信玄公御意に背き、伊豆韮山に整居仕り、因幡守御前申直し、四和尚宮崎春長を遺し、韮山より同道致し、因幡守一同にて武田信玄公へ御目見申し上げ、大宮司退転の所、還任して社職之を務む、其厚恩を以て口伝等伝授数し、公文職相続し候。其後相模守子息蔵人娘を千代麿に嫁し、聳に申合侯。宮司信通より因幡守へ申越候は、向後千代麿親子に申合の上は、神慮の奉公井公文家へ疎意有間数の起請文有之、年号 天正五年十二月朔日」 と。この文中、相模守信通は兵部少輔信忠が正しい。但し、相模守をも受領していたであろう。因幡守は鷹野徳繁の受領名である。 頑固一徹、今川氏多年の恩顧に報いようと大宮城を死守した兵部少輔(相模守)信忠は、北条氏康亡きのち甲相二国が復交すると、大宮開城の已むなきに至ったが、大宮居住を潔しとせず、伊豆韮山に整居して謹慎していた。 しかし、武田信玄の懇切な招きと、鷹野徳繁の誠意ある執り成しにより、信恵は甲府参侯を決意した。元亀三年四月甲府に参侯すると、信玄は信忠の罪を問うことなく、多年の篭城の労苦を慰め、旧の如く富士大宮司として神授に励むよう希望したが、信忠はこれを固辞した。ここでも鷹野の推薦により信恵の嫡男、蔵人信通が大禰宜職に補任され、父に代って大宮司職を代行することになった。 武田勝頼が大宮の再興のために大きな決意をしたことは、想像に難くない。長篠の敗戦によって失った人的、物的戦力は想像を絶するものがある。しかも亡父信玄の本願は何としても果たさねば神慮に背くことになる。況して天正四年以来の宿題ともいうべき富士大宮本宮の造営と、それに伴う遷宮の儀式は信玄の後嗣としての勝頼の威令の見せどころともいうべき唯一無二の好機会である。それに加えて神馬の奉納も一天晴の場であり、これが成功不成功は、勝頼の威令の尺度となると見られるものである。 天正六年の遷宮予定に合わせて奉馬の日取りを打ち合わせ、遅参がないよう周到に計画は実施されねばならない。奉馬奉行鷹野因幡守の指揮が宜しきを得たのであろう。同年12月には奉馬は完了し、それに伴う神事も滞りなく行なわれたようである。神馬の全頭数は102疋とある。神馬というからには優秀な馬であること勿論で、奉馬する武将の面目にかけても、鷹野奉行の立場としても当然に厳しい企画を守らせ、遺憾なきを期したことと思われる。 武田氏による富士大宮本殿の造営もこの時に行われたことは当然として、現存の本殿は武田氏造営のそれでなく、関ケ原合戦勝利の後徳川家康が大願成就奉謝として、従来の形式に倣い、建造奉献したものと伝えられている。言い伝えの通りであれば、あの壮麗な二重楼閣型の本殿の組型は武田勝頼によって奉建されたものとして、その労苦を深く讃えるものである。 この小文は、聊か冗長の嫌が無くもなかったが、久しく幻の記録とされていた「駿州大宮神馬奉納記」の正体を突きとめ、それにメスを加えてみたのである。 ご批正をいただければ幸いである。
2022年03月23日
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『甲斐国志』所収大宮神馬奉納者一覧表 種別 氏 名 馬数親族衆 武田左衛門佐信亮 不明 々 武田逍遥軒信綱 不明 々 仁科五郎盛信 々 々 松尾新十郎信俊 々 将帥一 山県源八郎 々 々 山県源四郎 々 々 春日弾正忠 二 々 春日中務少輔 一 々 馬場民部少輔(信房) 五 々 内藤修理亮昌月 不明々 秋山左衛門佐昌詮 二 々 土屋右衛門尉昌恒 五 々 土屋同心 某 一 々 小佐手 某 不明々 甘利次郎四郎 三 々 日向玄徳斎宗榮 不明 々 日向玄東斎宗立 々将帥二 工藤長門守 二 々 曾根源五 不明 々 下曽根出羽守 々 々 向山中務丞 々 々 跡部淡路守 二 々 跡部美作守勝忠 三 々 跡部九郎右衛門尉昌忠 一 々 跡部民部助昌秀 不明々 跡部次郎右衛門尉昌副 々々 三枝栄富斎虎吉 々 々 栗原大学助 々 々 栗原十三郎 々々 温井常陸介 々々 釣閑斎光堅 一々 長坂 某 一々 長坂弥三昌春 一々 田沢久助 不明 将帥三 今福新右衛門尉昌常 々々 青沼助兵衛尉 々 々 奥山美濃守 々々 御宿監物友綱 々々 御宿 某一 々々 御宿 某二 々々 津梁斎 々々 大井民部亮信直 々々 依田美濃守 々々 大目方佐渡守 々 々 加津野市右衛門尉 々 々 今井新左衛門信衡 々 々 今井彦十郎信尚 々 々 今井新右衛門尉 々 々 今井彦三郎 々 々 今井左衛門尉 々々 安西平左衛門尉有味 々々 諏訪伊豆守 々々 関新右衛門尉 々々 城 意庵 々 々 小泉讃月斎 々 々 小泉紅葉斎 々 々 矢沢 某 々 々 尻高 某 々々 青柳 某 々 々 栗田与右兵衛尉 々々 僥倖軒宗慶 々々 大目方右衛門尉 々 上表の神馬奉納者合計六二名の内訳は、武田家親族衆五名、武田家将帥五七名である。 『国志』編纂のため、駿河方面の資料収集に赴いた諸員により、富士大宮の所蔵する「駿州大宮神馬奉納記」は調査の対象とされたが、その資料の一部が「賜芦文庫文書」に収められた。『静岡県史料』第二輯所収の旧大宮司富上家文書四五「武田信亮等神馬奉納状写」である。
2022年03月22日
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二 武田信玄の駿河進攻と大宮城 「駿州大宮神馬奉納記」 佐藤八郎氏著『武田氏の研究9』一部加筆 山梨県歴史文学館 浅間神社は富士山を御神体と仰ぎ、武田信玄は願文に浅間神社祭神を富士浅間大菩薩、或いは士峰菩薩と敬称している。甲斐・駿河ともに浅間神社を一之宮と仰いでいる。 富士山麓にはすべて十八社の浅間神社が祭られている。所在地籍により、甲斐分・駿何分と所属は異なっても、信玄は十八社のすべては同文の願文を捧げて祈願した事実がある。それは弘治3年(1557)11月九日のことで、相模北条氏政の妻である信玄息女黄梅院夫人の安産祈願の願文奉納一件であった。 当時は甲(武田)・駿(今川)・相(北条)三国同盟が最も親密の度を加えつっあった際であったから、信玄の願意は駿河の浅間神社においても何等滞るところなく、それぞれの浅間神社の神主の新禧により達成された。 それから13年、永禄11年(1586)12月、甲駿の和破れ、信玄は今川氏真を駿府誠に攻め、かねて謀略を以て多くの有力武将に内応を約して置いたため、殆ど抵抗はなく、氏真夫妻は一とたまりもなく誠を放棄し、山西を経て遠乱国掛川城に逃れた。当夜の城中の混乱は言語に絶し、狼狽した氏真夫人は乗輿を見失い、洗足で誠を落ちたという。 駿河国一之宮浅間神社の大宮司富士信忠は、神職としてはもとより、文武兼備の名将であった。神官の身分を以て兵部少輔の官途を帯びたのも故なしとしない。信玄の永禄11年駿河乱入に際し、穴山信君、葛山氏元らの指揮する軍団は、信忠が死守する大宮城を猛攻したが、信忠は浅間神社に奉仕する無足人を以て編成した部隊を指揮して防戦し、寄手に多大の損害を与えたことが次の書状に見えている。 「今度大宮城中に楯篭られ、無足人別して忠節の由に候の条、 貴所承る旨に依り、恩賞の儀聯かも相違なく之を遠はすべし。 殊に氏真遠やかに遠州へ御移りの上は、走り廻りの次第、御本位意の上氏政申し立つべきものなり。戊辰十二月十九日(永禄11年) 但って件の如し。 氏政(花押) 富上兵部少輔殿」 大宮城の守将、富士兵部少輔の防戦はまことに見事で、信玄の部署に従って大宮城の攻略に向かった穴山信君・葛山氏元ら、精鋭を以て知られた部隊も、信忠指揮の大宮勢に翻弄され、死者・傷者が続出して遂に敗退した。 氏政は、さらに同日付を以て次の書状を信忠に与え、大宮篭城が長引いても、氏真の出して置いた知行、給人等については、今後少しも変えないよう保証する。なお忠節を抽んでるにおいては、豆州において必ず恩地を与える。殊に氏真が本意を遂げた暁は、これ迄の信忠の功を申し立てるから、この際大いに奔走して欲しいとこの書状は次のように述べる。 「今度大宮城中に楯龍り、給人領地年来の如く氏真御判形の旨に任せ、聊かも相違有るべからず。猶、此の上忠義を抽んでらるるにおいては、知行等豆州において宛行うべし。就中氏真御 本意の上は、走廻りの段申し立て引立つべし。富士上方の儀は貴所同心せしめ、馳走あるべし。承る旨に任せ、啓せしめ候。但って状すること件の如し。戊辰 十二月十九日 氏政(花押)富上兵部少輔殿」(暫類書) 信玄の駿河進攻に当り、駿府城を始め幾多の堅城が守るに人無き有様で、あたかも将棋倒しの如く落城するなかにあって、眇(びょう)たる富圭大宮城が敢然とこれを遮り、百戦不敗の甲州勢に苦杯を喫せしめ、以後数次の攻防戦が展開されるのであるが、この間、北条氏政はいち速く氏真と交渉して駿河の支配権を預けられたことが、永縁12年(1569)五月二八日の氏敢の富士信恵宛て書状の一節に、 (上略)「駿国の仕置につき氏真、仰せを蒙る旨候の条遅々候。 (中略)但って当日の儀、氏敢に悉皆任せらるる由に候」(下略)」 と記してあることで明らかであり、さらに翌月の関五月三日に信恵に宛てた書状では、 「今度信玄駿州乱入、過半の駿衆甲州へ一味候の処、其方、大宮地堅固に相拘えられ、別して御忠信の筋目共連続、富に以て感悦の至りに候、然れば駿国の儀、愚息国王名跡たるべきの旨、氏真より仰せを蒙り候の条、仰せに任せ候。然る上は、此の度の其の方の忠功存じ合わせ、必ず一廉の御進退引き立つべく候。此の上は猶以て戦功を抽んでらるること専一に候。恐々謹言。追て啓せしめ候。富上上下方一騎合、前々の寄親の礼明を遂げて中付くべきの間、先ず其の間は其の地において其の方指南有るべく候。以上。閏五月三日(永禄十二年)氏政(花押)富上兵部少輔殿」 と。これによれば、氏政は氏真が掛川城に移ると、間もなく氏真と交渉し、七歳に過ぎないわが嫡男国王丸を今川氏真の名跡として名義上の当主とすることになった。しかも当主幼少の間、実父の北条氏政が当分後見役を勤める、と駿河国内外に披露した。この時、富士信忠に対し、緒戦以来の恵功を賞し、引き立てようとの意をこめた感状を与えている。 氏致としては大成功の外交で、信玄にひと泡吹かせた形である。思うに、氏政の父氏康あたりの適切な指南があったものであろうか。 この年6月、信玄は陣容を立て直して再度駿河に入り、駿東郡の古沢新城を攻めたが、この城は勇将北条綱成が守って抜き難いので、信玄は一転して伊豆方面に向かい、三島・北条・韮山等の要害を攻撃して守将北条氏規(氏政の弟)の兵と戦って大勝し、五〇〇余人を討ち捕って大いに気勢を挙げた。 7月、信玄は一部の兵を駿河に留めて駿衆を牽制させ、他の部隊を密かに甲府に引き揚げた。暫く兵に休養をさせ、新たに信濃・西上野衆に出陣の準備を命じたのであった。 9月早々に甲府をたち、信州佐久から碓氷峠を経て上州に入った信玄は、さらに強行軍で武州秩父に進み、10日には鉢形城を攻めた。この城は荒川右岸の絶壁に臨み、難攻不落を誇る堅城で、守将は氏政の弟、新太郎氏邦である。氏邦は防備を固める一方、急使を越後に派して上杉氏の救援を求めた。しかし、輝虎は当時、越中の椎名康胤と交戦中で、到底関東の応援に奔走できる状態ではなかった。椎名康胤や一向一揆を動かして越後の背後を牽制したのは、信玄の巧妙な外交成果である。 大迂回の結果、武田勢には疲労も見え、これを知った信玄は頃合を見て鉢形城攻撃を止めて南進に転じ、北条氏照の守る多摩郡滝山城攻撃に移った。滝山城は元八王子城の古名であるが、滝の氷は落ちると忌まれて八王子城と改めたという。城将、氏照は兄氏政に勝るといわれた名将で防備怠りない。信玄は夜陰に乗じて滝山城を引き揚げ、相模川に沿い厚木を経て平塚に至り、東海道を無人の野を行くが如く西進し、酒勾川の激流も難なく渡り、10月1日には小田原城外に到着した。 北条氏康・氏政は、篭城戦を最も得意とした。元来、小田原城は内郭の局囲に城下町が設けられていて工商の民が住み、その周囲を外郭で囲んだ、いわゆる囲郭城であって、戦時には四民ことごとくが長期の篭城をし、敵の疲れに乗じて逆襲撃滅するを常習とした。 しかし此の度は、武田勢の猛攻を察したか、その到着前の九月晦日に上杉に加勢を要請する親書を発している。それは越中の椎名康胤との交戦を即刻中止して、小田原への援軍に切り換えて欲しい、さすれば「信・甲の御退治、腫を廻らすべからず」と述べているのである。氏康の親書が越後春日山に着いた日が不明であるが、信玄は小田原城の包囲を四日間で切り上げ、10月5日早朝秘かに退陣に移り、同六日愛甲・津久井両郡の境、三増峠において北条氏照・氏邦兄弟の大軍を以て待ち受けるに逢い、激戦の末、これを敗退させた。地元の兵で地理に詳しく、有利な条件を具えた筈め北条勢がなぜ敗れたのか。思うに長山村民を急進招集して組織した部隊で、烏合の衆と選ぶところのないものであったため、九扨の功を一員にかく結果になったのである。一方武田勢の苦戦も相当なもので、信玄は、「兵法の三十六計、走を上計とす。とは今だ」とばかり、小荷駄(こにた)隊に命じて急行軍の妨げとなる武器・兵糧の一部を捨てさせて敵中強行突破を断行、幸いにそれが功を奏したのである。 三増峠で勝鬨(かちどき)の式を挙げた直後、信玄は盟邦はもとより各方面へ次の勝利宣言を発した。 「一戦、勝利の芝ぶこれを遺わし候、三増峠に於いて、やさしくも源三・新太郎したい候、傍若無人たりと雖も戦場のならい、 首二ツ討ち取り候。味方は浅利右馬(うめ)助鉄砲にあたり死去のほか一人も恙なく候。謹言。 信玄(判)」(『古今消息集』) 文中、源三は北条氏照、新太郎は氏邦である。浅利右馬助は武田家中に隠れのない名将で、その不運な戦死は大いに惜しまれ、相模の人士もその慰霊のために現地に浅利明神として祀りを今に伝えている。 負けない筈の軍に惨敗した北条方は呆然自失の体であったが、これも上杉の加勢のなかったせいと、恨みをこめた書状を出している。 「(上略)度々申し入るる如く、今度信玄上州を打廻り、当日迄出張し候、退き端に討って押付け、相武の境三増山と号する地まで陣を進め候。敵、手早に取り越えるの間、当旗本一日の遅々故、取り遁し候、誠に無念の至りに候。併しながら無二に仰せ合わされ、御加勢一途これ無き候、かくの如き儀是非なく候、委細は氏政申し入るべきの間、省略せしめ候。恐々謹言。十月八日 山内殿」氏康(花押) (上杉家文書) 長尾景虎が山内上杉憲政の家名を継いだので山内殿と記したのである。輝虎は当時越中の椎名氏と交戦中で、北条氏の加勢要請に応ずる余裕は全くなかった。椎名康胤や一向一揆の背後には信玄の協力があったと見られる。 武田勢は三増峠で辛くも勝利を収め、6月夜は津久井郡道志川畔に野営したが、さきに三増合戦に当り、敵の追撃に備えて小荷駄(武器・兵粗)を捨て、腰兵粮で飢は凌いだが、翌7日(太陽暦11月25日)に相模と甲斐の国境、境川を渡渉して都留郡諏訪村に到着した頃は、厳しい寒さを凌ぐために、分国の将兵(西上野先方衆)は上野原地方の地頭加藤丹後守の制止にも拘らず諏訪明神社殿を破毀、焼却して暖をとった。軍紀厳正の武田勢にしてこの有様で、苦戦の様が推察されよう(なお諏訪明神社殿は、天正5年(1577)12月に丹後守嫡男借景が再建奉納した)。 三増峠を最後の戦場として、信・上から武相と併せて四州に跨がる広大な地域を舞台とし、関ハ州に雄飛する北条氏を雌伏せしめた信玄は、甲府に凱旋して少時兵馬を休めると、間もなく翌11月9日、平素信仰する諏訪上下社・飯縄社・刀八毘沙門天の神仏に起請文を捧げ、駿河の蒲原・興国寺両城の陥落、駿河一円の討平、および越国内に反乱が起こり、輝虎がわが分国信・上二州に出兵できないよう、また駿・豆二州を信玄の分国にすることができれば、報謝として諏訪一郡を諏訪上・下社へ奉納するを誓い、来る庚午(元亀元年)に飯縄(いいずな)社を勧請して社領を献じ、さらに天台宗の化行(けぎょう)を行い、今後肉食を禁ずる」旨を起請した。重大な決意のほどが窺われる。 翌くる2月早々、信玄は駿河に出陣、6日(太陽暦1569年1月22日)北条新三郎氏時(氏政の弟)が守る蒲原城を攻めた。信玄の嫡男、勝頼、甥、信豊らが先登して城に突入し、氏時をはじめとし、伊豆衆の歴々清水・笠原、狩野介以下、名ある将兵を悉く討ちとり、忽ち城を陥れた。しかも武田勢には一人の死者も無かった。信玄も流石に嬉しく、 「当城の事は海道第一の険難の地に候。此の如くた易く本意を達し候は人作に非ず候。剰え味方は一人も恙なく候。 (恵林寺文書) と、友邦の将の音問に対する返報中に述べている。文中、人作とは人間業(わざ)の意である。信玄は、山県昌景に命じて蒲原城を守らせた。 さきに信玄が、戦略上から故意に駿河を退いたため、北条氏政は直ちに駿府城を回復し、今川家の重臣岡部正綱を城代として守らせていた。当時駿府大岩の今川家菩提所臨済寺の住持、鉄山宗鈍は甲州巨摩郡上条村窪田家の出であった。窪田家は武田家世臣の名門であるが、鉄山は幼時より仏法に心を傾けて恵林寺に入山し、得度の後興津清見寺の東谷、洛の妙心寺の南化ら、一流の禅僧に就いて刻苦し、遂に駿府臨済寺を董すに至った。信玄は鉄山に意を含め、岡部らに降伏を勧めさせた。『松平記』によれば、信玄の意を承けた鉄山は、岡部らを知行三〇倍増の好条件を以て説得し、その結果、駿府は無血裡に信玄の有に帰した。 駿府および付近の要地はこうして信玄が手に入れたが、伊豆・相模に接する地方や、また駿河の各所、殊に西部には先君義元取立の親今川諸将の籠る城があった。大原肥前守資良の守る志太郡花沢城は、殊に難攻といわれていた。信玄は永禄13年(1570)正月、この城に猛攻を加えた。賢良はよく守ったが、小敵の堅は、結局大敵の檎に外ならず、遂に降伏した。信玄は城を収め、大原の武勇に免じて釈放した。賢良は遠江高天神城へ奔った。 4月14日、信玄は伊豆に攻入ろうとして、信州海津の城将春日虎綱に信州・上州二州の兵を率いて出陣すべきことを命じた。海津城は、上杉氏に対する防備の第一線で、その守将に伊豆攻略参戦を命ずるというのは、あまりに輝虎を見くびったものというべきではないか。 当時、輝虎は上州沼田に在城していたが、信玄は、輝虎に南下の能力無しと信じていた。 「輝虎、沼田に在陣侯と雖も(中略)出馬し侯の間、信州衆早々参陣候への由、飛脚を遠わし候いき。但し輝虎定めて五日の内に本国に帰るべきの条、必然に候。(中略)その間に上・信両州衆を相集め、越山すべき存分に候。動(はたらき)は吉原津に船橋を掛け、豆州に向かって行に及ぶべく候。その意得のため自筆を染め候。兵粮欠乏の時に候へども、此の時に候条、則ち人数を催し罷り立たれ侯様相理(ことわ)らるべく候。恐々膠百。追って、真田源太左衛門尉所へ切々飛脚を越し、輝虎追散開届四で芒進待入り候なり。 春日弾正忠殿」 信玄(花押) (歴代古案) 信玄がすでに水軍を編成していたことを物語る。 情報を得た氏康は、輝虎に後詰を要請した。 (上略)信玄は去る十六、人数を集め急速に出張の由申し候。 (中略)武州口においては、新太郎則ち申し入るべく候。豆州口へ相動くに付いては、昼夜の嫌いなく申し届くべく候。聯かも御油断なぐ後詰の御支度専一に候。何様近日使を以て申入るべく候。恐々謹言。(永禄十三年)卯月十九目山内殿」氏康(花押) (上杉家文書) 信玄南進の情報を得た氏康の狼狽ぶりが眼に見えるようであるが、言う所は、豆州口の守備だけが心許ない、油断なく援軍を一刻も速やかに派遣されたい、との要請に外ならない。 1日遅れて20日午後6時(酉の刻)発信の氏政の書状が、輝虎の陣所に届けられた。甲州衆が富上口へ出張した趣きの注進があったというもので、興国寺城か、伊豆の諸城を攻めるものと思われる。そこで兼ねて申し届けてあるように、信州口へ出勢して武田勢を牽制してほしい、さすれば敵も長陣をすることはできないだろうから、というのである。 さきに三増峠、蒲摩滅で武田勢の強さを体験した北条父子の、信玄に抱く恐怖心と、輝虎に対する期待とが二通の書状に表れている。北条父子の熱烈な期待にもかかわらず、輝虎は後詰の一隊をも信州に派遣することができなかった。信玄の予想が敵中したのである。
2022年03月22日
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「駿州大宮神馬奉納記」 佐藤八郎氏著『武田氏の研究9』一部加筆 山梨県歴史文学館まえがき 『甲斐国志』(以下『国志』と略記する)の人物部、ことに武田将帥の部をひもとく者は、その部中至るところ、「駿州大宮神馬奉納記二云々」の記事に行き当たられたことであろう。例えば、将帥の部第一、日向大和守の条下に、「駿州大宮神馬奉納記ニ日向玄徳斎宗栄ノ花押見ュ」と見え、同じ条下の別項に、「日向玄東斎宗立、大宮神馬奉納記ニ名押アリ」とあるようにである。この駿州大宮神馬奉納記、大宮神馬奉納記、という語は、『国志』人物部の巻中にしばしば見える語である故、その語の歴史的意味について一応考察して置きたい。 駿州大宮とは、駿河国富士郡大宮に鎮座する同国一之宮、浅間神社(大社)の称である。 浅間神社は、正しくはアサマ神社と読むべきであろう。しかし、すでにI〇世紀のむかしに編まれた延喜式神名帳にもアサマ・センゲンの両読みが附してあるから、センゲンと読んで差しつかえがないわけである。 浅間神社の起源は古い。初めは富士山(強力な活火山)そのものを直ちに神として崇拝していたが、後にはその山の神を木花咲耶姫命と仰ぐに至ったといわれる。富士山は四方から望拝される山なので、山麓の四周にはもとより、東海道・東山道の各地に望拝(遥拝)社などが建てられて、浅間神社の数は1316社(1949年現在)におよんでいる。 全国に鎮座する浅間神社のうち、著名なのは、甲斐一之官(もと国幣中社、山梨県東八代郡一宮町一之宮に鎮座)、駿河一之宮(もと官幣大社、富士宮市大宮に鎮座)と、それを後に駿河国府に勧請した浅間神社(もと国幣小社、静岡市官ケ崎町鎮座)などである。 なかでも富士宮の浅間神社は、名実共に全国の浅間神社最大の神社で、ことにその奥官が富士宮口登山道を登りつめた所にあるので、当社は浅間信仰の根元社と仰がれている。 富士信仰の核心であっただけに、本地垂迹思想の強い影響を受け、祭神の名も富士浅間大菩薩、富士権現などと呼ばれ、富士山曼陀羅が信仰の対象になって本尊と崇められたりしたが、明治維新の際の神仏分離令によって菩薩・権現など仏教的呼称は跡を絶ち、浅間神社、富士大宮浅間神社などの本来の神社名に復し、さらに昭和二一年(1946)「富士山本宮浅間大社」と定められ現在に至っている。 富士大宮浅間神社の里宮が現在の富士宮市大宮の地に創建されたのは平安時代初期、平城天皇の御代といわれ、その時祭神木花開耶姫命(このはなさくやひめ)に神階従二位を奉り、駿河国一之宮に定められた。当時奥宮が鎮座した富士山頂は活火山として高く噴煙をあげていたという。にもかかわらず秀麗な山容は花の王、桜を思わせ、祭神を木花開耶姫命と仰ぎ、朝廷・神祇・大政両宮・国司の厚い崇敬を受け来たった。下って武家時代には将軍、御家人らの武将、さらに戦国時代に入ると、多くの戦国大名の深い信仰と厚い崇散のもとに広大な神領の寄進を受け、また社殿の造営が行われていた。
2022年03月22日
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2022年03月21日
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武田発祥の定説は覆る。
2022年03月21日
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2022年03月21日
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戦国武将 番付 ◆行司 羽柴筑前守秀吉羽柴太納言秀長結城中納言秀康近江中納言秀次丹波中納言秀勝 ◆差添 織田土総介信長織田中将信忠岐阜中納言秀信尾張内大臣信雄神戸侍従信孝 ◆世話人 山本勧助晴幸竹中半兵衛重治真田左衛門佐幸村真田弾正忠幸隆明智左馬助光秀 ◆勧進元 『信長記』『太閤記』『後風土記』 前頭 アフミ 磯野丹波守 (近江)前頭 ヲハリ 森三左工門 (尾張)前頭 ヤマト 筒井順之勁 (尾張)前頭 アフミ 佐々木弾正大弼 (近江)前頭 カヒ 板垣駿河守 (甲斐)前頭 ミカハ 大久保七郎右工門(三河)❖前頭 カヒ 小幡織部正 (甲斐)前頭 キイ 鈴木孫市 (紀伊)前頭 キイ 起与四郎 (紀伊)前頭 ヤマト 松倉右近 (大和)前頭 セツツ 薄田隼人 (摂津)前頭 ムツ 津軽右京大夫 (陸奥)前頭 ヲハリ 毛受勝助 (尾張)前頭 ミノ 堀監物 (美濃)前頭 タンバ 波多野右エ門大夫(丹波)前頭 ヲハリ 長九郎右エ門 (尾張)前頭 アハ 里見安房守 (安房)前頭 ミカハ 大久保彦左工門 (三河)前頭 カヒ 原美濃守 (甲斐)前頭 アフミ 木村常隆介 (近江)前頭 エチゴ 柿寄和泉守 (越後)前頭 アキ 児玉三郎左エ門 (安芸)前頭 ミカハ 鳥居彦右エ門 (三河)前頭 カヒ 小山田備中守 (甲斐)前頭 ヲハリ 塙團右エ門 (尾張)前頭 ミカハ 大須賀五郎左エ門(三河)前頭 セッツ 和田伊賀守 (摂津)前頭 ヲハリ 平手中務大輔 (尾張)前頭 ミカハ 山本帯刀 (三河)前頭 ブゼン 十時博右エ門 (豊前)前頭 カヒ 廣瀬郷右工門 (甲斐)前頭 ミノ 加藤作内 (美濃)前頭 アフミ 斎藤伊豆守 (近江)前頭 ハリマ 林半四郎 (播磨)前頭 ミカハ 本多内蔵助 (三河)前頭 トサ 熊谷四郎左エ門 (土佐)前頭 アハ 正水天膳 (阿波)前頭 ヲハリ 荒尾但馬 (尾張)前頭 ヲハリ 稲田九郎兵エ (尾張)前頭 キイ 亀田大隈 (紀伊)前頭 ヒゼン 大村新八郎 (肥前)前頭 ミノ 遠藤但%守 (美濃)前頭 ヒゴ 斎藤立本 (肥後)前頭 サツマ 川上四郎兵エ (薩摩)前頭 ミカハ 渡辺半蔵 (三河)前頭 ミノ 赤座内膳正 (美濃)前頭 タンバ 渡辺勘兵エ (丹波)前頭 ヲハリ 可児才蔵 (尾張)前頭 ミカハ 本多彦次郎 (三河)前頭 ミカハ 内藤三左エ門 (三河)前頭 ヲハリ 長尾隼人 (尾張)前頭 ヲハリ 福鴬丹波 (尾張)前頭 アフミ 井上人九郎 (近江)前頭 シナノ 由利鎌之助 (信濃)前頭 アフミ 遠藤喜右エ門 (近江)前頭 ヲハリ 上田主本 (尾張)前頭 アフミ 森本義太夫 (近江)前頭 アフミ 安田作兵エ (近江)前頭 アフミ 木俣土佐 (近江)前頭 ヒゴ 加藤清兵エ (肥後)前頭 ハリマ 母里大兵エ (播磨)前頭 ムサシ 長野信濃守 (武蔵)前頭 ミカハ 内藤弥次右エ門 (三河)前頭 アフミ 伊木半七 (近江)前頭 ハリマ 栗山備後守 (播磨)前頭 チクゼン熊見越中守 (筑前)前頭 チクゼン芥田亜六兵エ (筑前)前頭 エチゼン十市縫之助 (越前)前頭 サツマ 伊集院右工門大夫(薩摩)前頭 カヒ 米倉丹後守 (甲斐)前頭 ハリマ 明石与四郎前頭 シナノ 木曽左馬頭前頭 ミノ 日根野備中守前頭 サツマ 種ケ鴬大勝前頭 カヒ 初鹿野博右工門前頭 ハリマ 別所小三郎前頭 シモツケ相馬大膳亮前頭 ハリマ 赤松次郎前頭 イヅモ 立原源大兵エ前頭 カヒ 甘利備前守前頭 ミカハ 菅沼新八郎前頭 越後 楽勝ミノモリ前頭 ヒゴ 木山弾正前頭 豊後 竹中伊豆守前頭 ミノ 小野寺下野守前頭 スルガ 朝比奈備中守前頭 ミカハ 永井博八郎前頭 ヒゴ 貴田弥兵エ前頭 カヒ 荻原常隆介前頭 ミカハ 平岩七之助前頭 ヲハリ 坂井又蔵前頭 エチゴ 鬼小鳥弥太郎前頭 ヤマシロ岩成主税助前頭 ミカハ 土井大炊頭前頭 タンバ 斎藤内蔵頭前頭 ミカハ 松平主殿介前頭 シナノ 真田源大左工門前頭 ヒタチ 車丹波守前頭 ヒゼン 諌早主膳正前頭 アフミ 宮部善祥坊前頭 タンバ 前田玄以法印前頭 イヅ 福鴬伊賀守前頭 スルガ 松下扁平次前頭 エチゼン湯浅五助前頭 ミカハ 水野惣兵工前頭 ミカワ 牧野左馬頭前頭 ムツ 片倉小十郎前頭 ハリマ 黒田美作前頭 タンゴ 潭村才ハ前頭 ミカハ 久世三四郎前頭 ムサシ 成田下総守前頭 ヒゴ 川村権七前頭 アフミ 藤堂仁右衛門前頭 トサ 久武内蔵助前頭 ミカハ 大久保次右工門前頭 セツツ 荒川熊蔵前頭 シナノ 相木森之助前頭 ヒゴ 木戸作左工門前頭 アフミ 明石儀太夫前頭 ヒタチ 戸村重太夫前頭 カガ 村井又兵工前頭 ビゼン 花房助兵工前頭 ハリマ 飯田堤兵工前頭 セッツ 御宿勘兵工前頭 ムサ シ山角四郎右工門前頭 ヲハリ 藤田博吾前頭 アキ 平岡石見前頭 エチゼン宿屋助右工門前頭 ヲハリ 戸田武蔵守前頭 エチゼン長谷川右兵工尉前頭 タンバ 谷出羽守前頭 ミカハ 柴田七九郎前頭 トサ 細川源左工門前頭 イセ 岡木下野守前頭 ビゼン 堀田図書助前頭 ヒゴ 小西諺殿助 大関 越後上杉弾正火弼輝虎関脇 安蘇 毛利右馬頭元就小結 加州 前田又左衛門利家 前頭 肥後 加藤肥後守清正前頭 奥州 火南少将政宗前頭 信州 真田安房守昌幸前頭 防州 火内左京火夫義興前頭 濃州 片桐東市正且元前頭 摂州 木村長門守重成前頭 蘇州 小早川左工門督隆景前頭 江州 蒲生飛騨守氏郷前頭 越前 丹羽五郎左工門長秀前頭 丹州 明智日向守光秀前頭 備前 浮田和泉守直家前頭 対州 鴬左近兼治前頭 三州 本多平ハ郎忠勝前頭 尾州 池田勝三郎信輝前頭 播州 黒田甲斐守長政前頭 和州 筒井伊賀人道順慶前頭 江州 浅井備前守長政前頭 常州 佐竹右京火火義宣前頭 三州 榊原式部火輔康政前頭 濃州 加藤左馬頭嘉明前頭 甲州 馬場美濃守信房前頭 信州 堀久火郎秀政前頭 三州 酒井左衛門尉忠次前頭 肥後 小酉摂津守行長前頭 濃州 斎藤山城人道道三前頭 尾州 蜂須賀彦右衛門正勝前頭 三州 奥平九八郎信昌前頭 江州 藤堂源助高虎前頭 出雲 山中鹿之助前頭 近江 木村又蔵前頭 尾張 平野権平前頭 山城 三渕火和守前頭 河内 松永火膳前頭 安キ 香川左衛門督前頭 伊セ 北畠入道不知斎前頭 尾張 坂井右近前頭 越前 間柄十郎左衛門前頭 三河 本多出雲守前頭 尾張 佐々陸奥守前頭 仝 生駒雅楽頭前頭 甲斐 上屋右衛門尉前頭 摂津 荒木摂津守前頭 志摩 九鬼火隈守前頭 美濃 仙石権兵衛前頭 尾張 中村式部少輔前頭 仝 金森五郎ハ前頭 筑後 久留米藤四郎前頭 出羽 秋田城之助前頭 仝 最上出羽守前頭 対馬 馬宗対馬守前頭 豊後 立花左近将監前頭 美濃 長谷川丹後守前頭 駿河 山口左馬亮前頭 越前 山南長門守前頭 信濃 真田大助前頭 出雲 紀子民部大輔前頭 安芸 吉川治部少輔前頭 同 完戸安蘇守前頭 越後 甘粕近江守前頭 尾張 池田三工門前頭 周防 弘中三河守前頭 近江 安養寺三郎左工門前頭 伊豆 大道寺駿河守前頭 安芸 天野紀伊守前頭 近江 四王天飢渇守前頭 越前 朝倉左工門督 大関 甲州 武田大膳大夫晴信関脇 相州 北条左京大夫氏康小結 薩州 鴬津兵庫頭義弘 前頭 越前 柴田修理進勝家前頭 尾州 福島左工門大夫正則前頭 播州 大谷刑部少輔吉隆前頭 雲州 尼子伊橡守義久前頭 城州 細川兵部大輔藤孝前頭 紀州 鈴本飛騨守重行前頭 蘇州 吉川駿河守元春前頭 土州 長曽我部宮内少輔元親前頭 駿州 今川治部大輔義元前頭 山上六郎左衛門道及前頭 江州 石田治部少輔三成前頭 越後 直江山城守兼継前頭 薩州 新納武蔵守一氏前頭 三州 井伊兵部少輔直政前頭 尾州 浅野弾正少弼長政前頭 城州 三好修理大夫長慶前頭 越前 朝倉越前守義景前頭 豊後 大友豊後守義純前頭 江州 滝川左近将監一益前頭 摂州 中川瀬兵衛清秀前頭 越後 宇佐美駿河守定行前頭 尾州 堀尾茂助吉晴前頭 甲州 山縣三郎兵衛尉昌景前頭 甲州 伊奈(武田)四郎勝頼前頭 防州 陶尾張守人道全薗前頭 肥前 鏑鴬加賀守直茂前頭 尾州 森武蔵守長可前頭 濃州 増田右衛門尉長盛前頭 播磨 後藤又兵衛前頭 尾張 佐久間玄蕃允前頭 近江 脇坂甚内前頭 伊勢 楠木七郎左衛門前頭 加賀 拝郷五左衛門前頭 周防 冷泉判宮前頭 播磨 糟谷助右衛門前頭 甲斐 内藤修理正前頭 尾張 森蘭丸前頭 近江 石川兵助前頭 越前 田中兵都大輔前頭 三河 酒井雅楽助前頭 尾張 一柳市助前頭 甲斐 高坂弾正忠前頭 越前 蜂屋兵庫頭前頭 美ノ稲葉伊予人道前頭 三河本多佐渡守前頭 近汪京極長門守前頭 安芸 熊谷和泉守前頭 出雲 川副美作守前頭 信洲 村上左工門佐前頭 仝 小笠原大膳大夫前頭 肥前 寺沢志摩守前頭 近江 長束大蔵大輔前頭 尾張 山内對馬守前頭 陸奥 南部修理大夫前頭 甲斐 武田左馬助前頭 信濃 諏訪安蘇守前頭 セじハ高山右近前頭 安芸 清水長左工門前頭 尾張 吉村又右工門前頭 下野 宇都宮弥三郎前頭 安芸 桂能登守前頭 越後 本庄越前守前頭 丹波 赤井悪右工門前頭 筑前 秋月筑前守前頭 信濃 真田伊豆守前頭 因幡 亀井武蔵守-
2022年03月21日
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無頼派作家とその時代 奥野健勇氏著(文芸評論家) 限りない読書への渇き「一億人の昭和史」十一月号 占領から講和へ 一九七五年十一月一日発行発行所 毎日新聞社 一部加筆 山梨県歴史文学館 今日の若者たちを、敗戦後の日本に連れて行ったら、乞食の群の中に入れられた気持がするに違いない。ズダ袋のような粗悪なよれよれの、垢じみたボロを着て、ブリキと板切れで囲った乞食小屋のようなバラックに住み、栄養失調でやせ細り、青黒くむくみ、目ばかりギョロギョロさせ食物をさがし漁っている。 おそらくそういう時代を過ごして来たぼくたちでも、かつての自分たちの姿を見れば、戦争に疲れはてたどこかの国の難民か、磯節のため餓死寸前の旧植民地の被差別民族かという感じがするのではないだろうか。ぼくたちは当時の栄養にあふれた身体をスマートな軍服に包んだ進駐軍兵士たちが、われわれ日本人を軽蔑とあわれみの目で、いや触るのも近寄るのもけがらわしい、汚らしい存在として嫌悪感を体中にあらわしていた姿を思い出し、その心情がわかるような気がする。 しかしぼくたちはボロ衣も、ボロ家も一向に苦懲なかった。食物だけは今日の生命にかかわるので、手に入れるため懸命になってあらゆる努力をした。そして腹が減っているときは、どんな食物もおいしく、むさぼり食った。その食物と同じくらい、当時の日本人は知識と芸術と娯楽に餓えていた。そしてあらゆる知識・教養を、文学・芸術を、探しもとめ、むさぼり食った。たとえば西田幾多郎全集や三木清著作集が発刊された時は、岩波書店の前に前夜から延々長蛇の列ができた。今日ではとても考えられない熱心さである。 昭和二十丁年、「中央公論」「改造」「新潮」「文芸春秋」などの雑誌が復刊し、同時に「新生」「世界」「展望」「人間」はじめ、何十、いや、おそらく百を超す新雑誌が雨後のごとくいっせいに創刊された。もちろん紙不足、印刷・製本の工場も殆んど焼けてしまった時代だから、ザラ紙・仙花紙に製本も粗末な雑誌なのだが、たちまち売切れ、闇値がつき、しかも米や芋や煙草などのプレミアムを本屋に持って行かなければ手に入らない始末であった。着るもの、住む家は乞食同様でも食糧と同じくらい、いやその乏しい食糧を割いても本や雑誌をむさぼり求めた。こんな例は稀ではなかろうか。乞食同様のみじめな生活をしていても、日本人の誇りや志は高かった。いやアメリカの圧倒的な物量の力に敗けたという意識が強く、その点では劣等感にさいなまれながら、だから最後のプライドとして、日本人は文化や芸術など精神面では高い教養を持っている文化的民族なのだという面にすがりついたのだろう。 進駐軍の米国軍人が、白木のいい木目の家や床柱までやたら赤や青のペンキを塗りたくるのを見て、アメリカ人は文化や芸術を知らない野蛮人だと軽蔑したりした。まことにはかない抵抗であるが、その知識欲はまことにけなげであり、ヴァイタリティにみちていた。それも教育の普及で、国民全部が字を識っていたという事情とかかわりあっているだろう。ぼくはこの敗戦直後夢中になって本や雑誌を求めた日本人の知的好奇心とヴァイタリティと、負け惜しみ的な粋がりが、日本をどん底から復興させたと考える。 空腹時はどんなまずいものでもむさぼり食うが、少し腹が足りてくると味がわかってくる。それと同じように敗戦直後、印刷されたものなら何でも飛びついた読者も、やがてその内容を問題にしはじめる。人々はほんものの言葉を、新しい思想を求めているが、敗戦により世の中が変ったといっても、そう簡単に新しい文学、新しい思想が生まれるはずがない。 もちろん敗戦直後、平和国家建設、デモクラシイ、社会主義革命などをしたり顔に声高に唱える文章は氾濫したが、それは何時の時代にもいる便乗主義者で、今までの米英撃滅論の口を拭って、「たちまちまわれ左」して、デモクラシイや共産主義を讃美しはじめる。こういう言動ほど、ぼくたち若者の既成世代の日本人に対する不信感を抱かせたものはない。 日本が敗けたことよりも、同じ教師が、知識人が、同じ新聞・ラジオが、同じ日本人が、昨日と全く正反対のことを平気で語っていることの方が、はるかに恥かしく、ぼくたちを絶望的にさせた。彼ら使乗主義者たちは大衆からも次第にそっぽを向かれるようになって行くが、そのあとを埋めたのが、戦前の左翼、自由主義者の知識人と文学者たちである。つまり戦争中、弾圧され禁止されていた思想や文学がいっせいに復活したのである。 文学でいえば、永井荷風、谷崎潤一郎、正宗白鳥、志賀直哉、武者小路実篤、室生犀星ら老大家のめざましい復活であり、戦争中秘かに書き溜められていた作品が次々に発表され、人々に平和な時代の到来を実感させた。そして築地劇場時代の新劇の華々しい復活、節を曲げなかった左翼、共産党の英雄的復活、政党政治、労働組合と、次々に戦中ひっそくしていた戦前の勢力が復活して来た。 疎外された若者たち 今日、戦後を紀元元年として、そこから現在にいたる新しい時代が出発したという見方が圧倒的で、したがって戦後は新しさにあふれた若者の時代であったに違いないと思っている人が多いようだ。しかし敗戦の時、十九歳の若者であったぼくにとって、戦後は若者の時代などではなかったという実感が強い。 次から次へ、ぼくたちの知らない戦前の亡霊が、華やかにフットライトをあびて次々に登場する。マルキシズム、自由主義、芸術至上主義……戦争期に育ったぼくたちには皆目見当もつかぬ戦前の思潮が突然あらわれて来て、とても若者など出る幕はなかった。それどころかぼくたち若者は、戦争中、軍国主義教育をうけ、戦争に加担したということで、新時代に相応しくない戦犯的世代として疎外されてしまったのだ。戦後の数年間ぐらい若者が疎外された時代はなく、若い新人の進出が困難であった時期はない。日本が連合軍により占領され、その支配下にあるという未曽有の新しい異常な状況ということを別にすれば、戦後の第一歩は決して新しい創造の時代ではなく、戦争を挿んで、まず戦前の復活、復古から始まったという感がぼくたちには深話を文学に限定しても、まず先に述べた老大家ののどやかな時代を超えた復活、プロレタリア文学、左翼文学者たちのついに待望の我が世いたるという英雄的復帰、ついで戦前から文壇で活躍した中堅の流行作家の進出と続く。しかし老大家の時代を超越した仕事に拍手した読者たちも、左翼文学者、そして中堅作家の戦前と変らぬ古さにはとまどった。 左翼作家はかつての転向前のプロレタリア文学運動を絶対に正しいと規定し、戦争期の敗北の体験を捨象し、戦前そのままの文学理論や運動を押しつける。かつての流行作家であった中堅は、戦前と同じ風俗的リアリズムで戦後風俗を描く。そして共に文学的根拠として、自分たちは本心は戦争に反対であり、戦争中も抵抗者であり、批判者であり、あるいは傍観者であったと主張する。 それは戦後、二十二、三年ころ、新進作家として華々しく登場して来た第一次戦後派作家……野間宏、梅崎存生、椎名麟三、中村政一郎、武田楽淳、大岡昇平らにも共通する戦争に対する姿勢である。もっとも彼らは新人、戦後派と言っても、その多くは三十代であり、戦前にマルキシズムや転向の体験を持つ、戦争期を。暗い谷間’として過ごし、戦後を……第二の青春……として謳歌できる世代であった。 それにせよ、ぼくたちは戦後発表された小説や評論を読み、その誰もがぷな戦争に対し、戦争中から批判的、傍観者的であったとばかり述べていることに戸まどい、突き放された気持を味わった。と言うのは、ぼくたち若者は戦争下、祖国のために懸命に努力した。戦争がいいか悪いかわからないが、こうなった以上、生命を犠牲にしても日本を守ろう、日本と運命を共にしようと必死の思いであった。それはぼくたち若者だけでなく、大人たち、ぼくたちの周囲の多くの日本人の姿であった。そういう祖国のため努め、たたかった殆んどの日本人の姿が、体験が、心情が、戦後の小説、評論に全く描かれていない。そうすると二十歳で死を決意したあの重い体験はまるで存在しないことになる。したがって敗戦のかなしさもくやしさも、そして戦争に夢中だった自分に対する心の痛みも、にがい批判も敗戦の衝撃も、自己崩壊も戦争に対する真の否定も虚妄のように思われてくる。 ぼくたちは自分たちの戦争、敗戦そして戦後体験と合致する文学を見出し得なかった。みんな何か嘘をついている。自分を偽っている。こんなはずはないと。戦後生きる指針を、希望を与えてくれる文学を、敗戦の虚脱と昏迷の中をさまよっていながら、ぼくたちの魂を共鳴させてくれる文学を、ぼくたちの心情をそのまま語ってくれている文学を、探し求めていた。 無頼の魂 そういう時、ただ一つぼくたちの心をとらえ、魂をゆさぶってくれたのが。無頼派の文学であり、文学者たちであった。 織田作之助、坂目安吾、太宰治、石川淳、檀一雄、田中英光。そして伊藤整、高見順、三好十郎、平林たい子、北原武夫等々、無頼派4の文学者たち、この人たちだけがほんとのことを言っている。ぼくたちの心のかなしみを知ってくれている。ぼくたちの言いたいことを代弁してくれている。そして彼らは戦後に命を賭けて主体的自立的に生きようとしていると思った。ぼくたち若者はここにまぎれもない自分たちの魂の仲間を、先達を見出したのだ。 いや事情は逆である。もともと。無頼派などという文学者のグループも、エコールも、文学運動もなかったのだ。彼らは出身校も、郷里も、文学的経歴も銘々違っていた。戦前から文学活動をしてはいたが、別に仲間でも親しい友人でもなかった。織田作之助と石川淳は生前会ったことはなかったであろうし、大宰が織田や石川淳に会ったのも座談会の席ぐらいであったろう。ほかの文学エコール、たとえば、白樺派が学習院の同窓生中心の集まりであったり、……戦旗派……や。……文戦派……がはっきりした政治的文学運動の組織であったり、……日本浪曼派……が雑誌を中心とする同人の集まりであったりなどと違って、具体的な集まりはなく、交友も余りなかった。 つまり。……無頼派……とは、読者たちがつくりあげた幻想の、あるいは理想の文学エコール坂口安吾が書いた色紙「あちらこちら命がけ」書くことをも含め生活すべてに命がけだったなのだ。若い読者たちが自分の心にはげしく訴えかけてくる数少ない文学者たちを探し出して選び、無頼派なる文学エコールをつくり出したのだ。名もない読者たちの熱烈な希求と、祈りに似た深い思いが戦後の空に現出させた美しい虹であり、蜃気楼であったのだ。 しかし文学の世界においては現実の交友関係によるエコールより、読者の中から湧き起った幻想のエコールの方がはるかに強い文学的真実をもっている。当時の鋭敏なジャーナリストたちは、その読者の欲求がっくりあげた幻想的共同体を皮膚に感じ、無頼派なるエコールを雑誌の編集、出版の中に座談会とかグラビヤとか特集のかたちに具現化して行く。そして作家自身も、作品を通しておたがいに文学的・精神的な同志として意識し認め合いはじめる。無頼派は読者の側から自然に形成されたエコールで、このような例は日本文学史上ほかにない。それだけに、無頼派ぐらい人々に圧倒的な共感と影響を与え、読者に強い同類意識、同志感を与えた文学的エコールはない。 無頼派は敗戦直後の焼跡の中に疾風のごとくあらわれ、その自由奔放な作品と自ら世相と化するような大胆な言動によって日本人の魂を烈しく揺り動かし、たちまち戦後乱世の英雄豪傑として迎えられ、彼らは自己のすべてを燃し尽して書きまくり、ある者は倒れ、ある者は自殺し、ある者は狂い、ある者は隠棲し、風の如くに消え去って行った。 無頼派が文壇を席捲するようなめざましい仕事をしたのは二十一年から二十三年までのわずか二、三年の間である。織田作之助が病死したのは二十二年一月十日であり、太宰治が自殺したのは二十三年六月十三日、田中英光は二十四年十一月三日であり、その年に坂口安吾は錯乱状態になり、東大の神経科に入院している。その短い間に、彼らはやつぎばやに驚くばかりに豊富に数多くの力作、問題作を発表している。 織田作之助 織田作之助(大正2年10月26日~昭和22年|月10日) 無頼派の中で真っ先に登場したのは大阪の作家職田作之助である。敗戦の年の十二月「表彰」を「文芸春秋」に発表し、翌二十一年三月に「アド・バルーン」「六白金星」四月に「競馬」「世相」を発表した。はじめはなかなか達者だが大阪らしい人情噺の復活かと思っていた続者たちも、「競馬」「世相」にいたって、その不思議にこちらの心にぐいぐい食い込んで来る迫力にただごとならぬものを感じはじめた。はじめて戦後の混乱の世相をまるのままとらえることのできた小説があらわれた。自から「世相」の一片と化そうというなりふりかまわぬ態度で、十銭芸者、阿部定の公判記録、ジッパーで二つに割れる洋服を着ている酒場のマダムなど、戦前の思い出話と現在とを巧みに配列させ、エロチシズムを誘うと共に、国破れた人間のかなしさ、人生のはかなさを漂わせる。 左翼が弾圧、転向させられた後に三高に入った織田は、政治や思想に対しはじめから不信を抱き、学校を中退、放浪生活の中にスタンダールばりの「青春の逆説」などの小説を書き発禁になり、戦争中も大阪の庶民たちを描き続けた。権力をきらい、政治や戦争をあえて無視して来た彼は、戦後、今こそ書けると阿修羅のごとく書き出し、私小説なんか二流文学だ、美男美女があばれまわるおもしろい本格ロマンを、しかも現代は偶然性の時代だから、新しい視点手法の小説をつくらねばと、サルトルをいちはやく吸収し、アンチ・ロマンを先取りするような「可能性の文学」を主張し、エロチシズムの重要性を説いた。長身痩躯、長い髪を無雑作にかきあげ、織田作はトンビも、またジャンパーも似合うかっこいい男で、スポットライトの中で歩きまわりながら「エロチシズムと文学」という有名な講演をやったり、当時中学生だった野坂昭如がその姿を見て胸をときめかせたように、回転の連い思考・文体で、文壇の既成権威にドン・キホーテのごとく挑み、「それでも私は行く」「夜の構図」「土曜夫人」など意外性の重なる奔放な小説を新聞・雑誌に次々に連載する。闇屋、パンパン、浮浪児の横行する無秩序の戦後乱世に水を得た魚のように泳ぎまわり、あえて軽佻をよそおい、キヤッキヤッと騒ぎまわる。しかしその時、彼は既に重症の結核で死期の近いのを知っていた。それ故、ヒロポンを射ち、死ぬのを覚悟で書きまくり、暴れまわっていたのだ。そのためか彼の作品は人生を一瞬のうちに凝縮し、一目で見てしまうような性急さとかなしさがあった。 二十二年一月十日、喀血を続け、「土曜夫人」を未完のまま、夫人になったばかりの織田昭子に看病されつつ三十五歳で世を去った。凄絶な斬り死に的な最期と言ってよいだろう。戦後一年半の間に彼は信じられないほどの活躍をなし、その一瞬の光芒は人々の心に永く焼きついて消えることがないだろう。 坂口安吾 二十一年「新潮」四月号に発表された坂口安吾の「堕落論」ほど、ぼくたちの魂に霜露のごとき衝撃を与えた文章は、あとにも先にもない。終戦の詔勅が政治的な終戦宣言ならば、「堕落論」は精神的な終戦宣言であった。ぼくたちは生きるため間商売をやり、また女にうつつを抜かし、進駐軍のペーパーバックスのヌード写真に溜息したりしていたが、特攻隊で死んだ友人のことや戦争中のことを思うと、おれたちも堕落したなという気持ばかり強く、どう生きて行くのか自信がなかった。まだ心情的に戦争期の倫理に支配されていたのだ。 ところが安吾は「生きるためには堕落しなければならない。人間は生き、人間は堕ちる、堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない」と、言い切る。この「堕落論」によって、ぼくたちは自からうつばりがとれるごとき思いがした。そうだ、生きるためには堕落してもかまわないのだ。今の間をやり、自分のやりたいことをやる生き方は正しいのだと、はじめて戦後を主体的に生き抜く原点を見出したのだ。これは生涯に二度とないような価値観の転換だった。 ぼくだけでなく日本の多くの青年が、この文章によって救われ生き返ったのだ。当時の青年が、「堕落論」の感激を語る姿を今もよく見掛ける。今日読んだら当り前のことを述べているのだが、その頃、安吾以外誰もこのような根本的な人間や社会に対する発想をなし得なかったのだ。続いて「白痴」で空襲下の白痴の女性との実存のきわみとも言うべき人間のかなしみを書き、「恋をしに行く」「肉体」で大胆に性を通じての肉体の思考を表現し、「金銭無情」「夜の王様」「青鬼の褌を洗う女」などで戦後乱世の人間たちを活写し、一方「桜の森の満開の下」「夜長姫と耳男」などのグロテスクと美のまじった人間の実存に達する怖しい傑作を書く。そして「安吾巷談」で戦後乱世を語り批判し、たとえばなぜ共産党は農地解放の時、コルホーズをつくらなかったかと問い、野坂泰三などは中尉ぐらいの見識もないと、当時批判するのがタブーだった共産党を批判し、また「安吾史譚」「安吾新日本地理」でいちはやく天皇室は朝鮮の出で、日本古代史は朝鮮の情勢に支配されていると喝破し、「不連続殺人事件」「安吾捕物帖」などのエンターテインメントの中で戦後文明の本質を探求する。 まさに安吾こそ戦後乱世の豪傑であり、ヒロポンとアドルムを交互にウィスキーの肴にボリボリ噛り、仕事をはじめると散らかりに散らかった部屋で二昼夜三昼夜便所にも行かずぶっ続け机に向い、終ると今度は飲屋へ大勢と行き、三日三晩飲み続ける。まさに超人であり、今日の文学者やジャーナリズムのあらゆる可能性を先取りしている。全身で怒り、全身でかなしみ、狂うときは徹底的に狂う。まことに見事であった。合理主義者であり、神秘家であり、死ねば終りという現実主義者であり、聖人をめざす理想主義者であった。 もともと坂目安吾は昔からただものではなく、越後の没落大地主、大政治家・漢詩人五峯の十二番目の子と生れ、父母や家や故郷に反逆し、海と空と風の中に故郷を求めた。学校に行かず怠け遊ぶが、悟りをひらこうと決意すると三年間殆んど寝ずに勉強し、神経衰弱になると梵語、チペット語の勉強で克服する。「風博士」という奇想天外なファルスで昭和六年デビューするが、求道憎と破戒憎の間を大きく揺れ動く。家に帰るのがいけないのだ、そこに振り返る魔物がいると、家も下宿も持たず、帰らず、常に前進、友人の家を泊り歩く。 戦争中の国粋主義時代、必要ならば法隆寺をこわして停車場にしてもよいなどと「日本文化私腹」で言い放つ。空襲下日本の滅亡を見ようと十貫の石をかつぎ百メートルかけたり、水風呂にもぐって息をつめたり鍛練する。ライスカレー百人分食べたいとおもえば百人分注文する。税金闘争や競輪の不正をあばく闘争をひとりでたたかう。安吾は石となり風と化す精神の振幅が石から風へとケタ違いなほど大きい巨人で、チンマリした日本文壇の純文学の枠に入らなかった。三十年二月十七日四十九歳、脳溢血で急死したが、戦後の原点のごとき存在であった。 「堕落論」に感激した若者たちは「堕ちる道を堕ちぎれ」という安吾の言葉を見落した。そしてみな年功序列やマイホーム主義の中に安息し、堕ちきるのをやめた。安吾ひとり死ぬまで、その至難の堕ちきる道を貫いた。もし若者たちが真に安吾の「堕落論」を理解しておればエコノミックアニマル、公害の今日の日本とは違う戦後の道がひらかれたであろうに、七〇年大学紛争のあと、戦後の原点として安吾が若者の間に復話してきたのは当然と言えよう。
2022年03月20日
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生捕りました三度の大地震地震どう化大津ゑぶし太平の御恩沢(ごおんたく)に鯰の力ばなし 地震のすちやらか 世直し鯰の情け 切腹鯰(せっぷくなまず)地震・雷・過事・親父 鯰と鹿島大明神の首引きしんよし原大なまず(鯰)ゆらひ(由来) 人と自然の博物館・野島断層保存館ジョイント企画展 「地震はなにがおこすのか?一日本人の地震観の変選一」 安政大地震をえがいた……鯰(なまず)絵解説…… 生捕りました三度の大地震 鹿島大神宮の神様が,生捕りにした三匹の鯨に縄をかけ蒲焼屋に連行したところ、地震で儲けた大工.とび職、左官,屋根師、絵師の五人が、どうか助けてやってくれと頼んでいる. 三匹の鯰は大きさの順に、 善光寺地震(1847年), 安政地震(1855年), 小田原地震(1853年) を表わしている。 しかし,職人たちの願いは聞き入れられず,神様は鯰を断固として許さず,「ふたたび地震がおきないために,なべ焼きにしろ」と 命じて幕となる。 地震鯰、鹿島大神宮、職人、蒲焼といった画題のほとんどを組み合わせた鯨絵の秀作である。 (東京大学地震研究所 所蔵) 地震どう化大津ゑぶし 大津絵は,江戸時代の初めに近江国大津で売り出された民衆絵で, 無名の画家の画いたものである。 民俗信仰や伝説と結びついた戯画や仏をかんたんな筆彩りで,奔放に画かれた。この鯰はその画法を写し,瓢箪でおさえつけられた大鯰を中心にいろいろな人々を画き込み,これを大津絵節という節まわしで「どう化」して、「世直し」を願望していることを表わしている。文中にはしやれも入り,庶民の気持ちを十分に引きつける力がある。 「八方へ燃え…十方にくれます」と生活の途方にくれ困ると洒落る。 さらに絵中の「祭りの跡で又永やすみ」には,政(まつりごと)は後回しで永やすみと,幕府の無為無策ぶりへの痛烈な皮肉がこめられている。 (北淡町教育委員会 所収) 太平の御恩沢(ごおんたく)に 人々が鯰をなぐったり、髭を引っ張ったりしてこらしめている。左下でも子どもが子鯰をこらしめている一方で、震で恩恵を受けた職人たちや瓦版売りは鯰をかばっている.鯰の脇には瓢箪がころがり、猿が倒れている.これは猿が瓢箪で鯰をおさえるという大津絵の一つを意識しており,今回の地震は,鯰をおさえているはずの猿が瓢箪の酒を飲み酔って寝てしまったために起こったということを示している。詞書きも洒落ている。 地震を「なへ」と読ませるのは、神代の時代より地震の呼び名であった「なゐ(地)ふる(震)」を受けたもので、 それに続くパロディ-化した君が代の歌にかけられている。 後半に 「かなめいし(要石)の いはほ(巌)ハ ぬけ(抜)じ よし ゆるぐとも] とあり, 揺(ゆ)るぐとも よもや抜けじの要石 鹿島の神のあらんかぎりは という有名な地実数を洒落たものである. (北淡町教育委員会 所蔵) 鯰の力ばなし 善光寺地震の信州鯨と安政地震の江戸鯰が、髭を結んで輪を作り、相手の首にかけて首引きをしている その脇には江戸鯰の女房鯰が画かれている。 詞書きは、 「なまずの力ばなし」と 「なまずの婦夫やきもちばなし」 の二話からなり, 歌舞伎「伊賀越道中双六」の六段目をもとにした小噺にしたてられている。 力ばなしでは,懇意になった江戸鯰と信州鯨が急に首引きを始めたので,女房鯨がびっくりして止めようとする鯰二匹ともやめようとせず、 「沼津では腹さえ切ったのに髭が切れるぐらい…」 と答えている。(北淡町教育委員会 所蔵) 地震のすちやらか 「すちやらか」は歌舞伎下座音楽の一つで、幕末から流行した阿呆陀羅経を三昧線にのせ,小木魚をいれたものである。 鯰には「すちやらか」によせて衣装や道具が描きこまれ,背景の防火用の水樽には,鹿島大明神をもじり「鹿島町」のご町名が記されている。「すちやらか節」では、 「おくれて出ぢれぬ 蔵の中 まだかでにげ出す 風呂の中」 と、地震時に人々の逃げまどう様を調子よく唄い、続けて 「雨ふり野じんハトばの中、曲がりヲ直してして、内の中」 と、地震後の避難生活を風刺している。 (北淡町教育委員会 所蔵) 世直し鯰の情け 庶民が「地震の時には神馬が人々を救ったのだ」と言う.そこへ鯰が来て、「本当はおれたちの仲間が救ったのだ。地震もおれたちの仕業ではない。おれたちは鯰を悪く言うやつは救わずに、歓迎してくれる人々だけを助けたのだ」と答える。 これを間いた人々が「鯰にそんな情けがあったのか」と感心すると,鯨は「魚心あれば水心」としやれ,会話を終わらせている。 庶民の味方として擬人化することで,地震で苦しむ庶民に特別の施策をはからなかった幕府に対する皮肉を画いた鯨絵である。 (東京大学地震研究所 所蔵) 切腹鯰(せっぷくなまず) 鹿島大明神に矢を放たれて罪を咎められ,とうとう観念した地需鰻が切腹して腹の中から黄金(こがね)を出している、これを見た長者は、「無念をはらそうと来てみれば,自腹をきって詫びる鯰の の殊勝さに,これまでの恨みは晴れた。とつぶやく、地震で亡くなった亡者たちも、「ご隠居のおっしゃることも、もっともだ」と、切腹鯰を許している。こらしめられた鯰が許される立場になったことに、この鯰絵に巧みに盛り込まれた震災後の刻々と動く世情を読み取ることができよう。 (東京大学地震研究所所蔵) 地震・雷・過事・親父 地震・雷・過事(火事)・親父は、古くから言い伝えられた恐いものの代表である.この鯰絵は、 地震を表わす町人風の鯰 鬼の姿の鯰、 職入猟の火事を擬人化し, このご馳走を前にした三人の話のやりとりを絵柄にしている・ また鯨絵の最大の購買者である親父の顔を立て,他の三人の会話だけを浮き彫りにして悪者にしている。 三人の会話では,雷が鯰に向かい 「この間の大揺れはなんだと問う。 鯰は「わっちは水の中で火は知らねえ」 とうそぶき,さらに 「天候が不順で陰陽の気が和順せず, おもしろくないから大ふざけをやるのさ」 と地震の発生原因を説明する。 さらに火事が 「春とまちがえて乱心し,仲間が踊ったり, ひっくりかえると地震になるのか」 と、問いつめると,鯰は 「自分白身でもわからねえ」 と、言いのがれる。 江戸時代の人々が地震と鯰との関係をこのように考え,地震の原因が鯰にあると信じていたことが,この鯰絵からもうかがえる。 (東京大学地震研究所 所蔵) 鯰と鹿島大明神の首引き 向かい合う二人が輪にした縄を首にかけ,互いに後ろにそり返って引き合う力比べを「首引き」という.この鯰絵では鹿島大明神と鯰が首引きをしており、鯰が勝つと地震が起こることを表わしている.鹿島大明神には多大な被害を受けた金持ちや芸人たちが,鯰には地震で儲けた職人や絵帥たちがつき,それぞれに応援をくりひろげている。 職人たちは鯨に負けてくれるなとしながらも,「もう少しやんわりとやんなせえ、またうごくとこまりやすぜ」 と,地震はもうこりごりだと言う。 鹿島の神様は、 「おれが出雲に出ているとこの始末だ.以後のみせしめを観念しろ」と言い,首に力をこめる.対する鯰は, 「どっこい,そうはうまくいきませんよ. わしもぬらくらしねえように焼け場で灰をつけてきた」 としゃれる。 絵の口上は,今回の地震は仏説の帝釈動という大吉のしるしで,鯰をときはなして蔵をゆりくずし,金銀を庶民にあたえたという意味である.(東京大学地震研究所 所蔵) しんよし原大なまず(鯰)ゆらひ(由来) 遊郭のあった吉原は,明暦大火(1657年)のあと,浅草の水田を埋め立てた軟弱地盤の上に移転されていた。 廓のもっともにぎわう夜十時ごろ激震におそわれ,直後の出火により廓内が全焼、遊郭と外を結ぶ橋も落ちて逃げ道が限られたため、630人におよぶ遊女たちが焼死した。 この鯰絵では、吉原の遊女や遊客たちが大鯰を捕えて,遊女に仕える幼女は小鯰を捕えて、口々にののしりながら、なぐる、打つ、けるなどして地震のあだ討ちをしている。 左上では職人たちがこれを止めようと、とんできている. 一方,鯰は 「おいらん(花魁)たちにのられてうれしいよ ……またゆすぶるよ」 と喜び,おどけ(道化)ている。 このように自然現象である地震に対するやり場のない怒りを,擬人化した地震鯰にぶつけることで,はらしているのである。 (東京大学地震研究所 所蔵) 解説文は,「安政大地震紅絵」(国公立所蔵史料刊行会,1979)と「紅欽一震災と日本文化」(宮田登・高田衛監修,1995)を引用・参照し,加藤茂弘(兵庫県立入と自然の博物館)がまとめました。
2022年03月20日
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2022年03月20日
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無頼派作家とその時代 奥野健勇氏著(文芸評論家) 限りない読書への渇き「一億人の昭和史」十一月号 占領から講和へ 一九七五年十一月一日発行発行所 毎日新聞社 一部加筆 山梨県歴史文学館 今日の若者たちを、敗戦後の日本に連れて行ったら、乞食の群の中に入れられた気持がするに違いない。ズダ袋のような粗悪なよれよれの、垢じみたボロを着て、ブリキと板切れで囲った乞食小屋のようなバラックに住み、栄養失調でやせ細り、青黒くむくみ、目ばかりギョロギョロさせ食物をさがし漁っている。 おそらくそういう時代を過ごして来たぼくたちでも、かつての自分たちの姿を見れば、戦争に疲れはてたどこかの国の難民か、磯節のため餓死寸前の旧植民地の被差別民族かという感じがするのではないだろうか。ぼくたちは当時の栄養にあふれた身体をスマートな軍服に包んだ進駐軍兵士たちが、われわれ日本人を軽蔑とあわれみの目で、いや触るのも近寄るのもけがらわしい、汚らしい存在として嫌悪感を体中にあらわしていた姿を思い出し、その心情がわかるような気がする。 しかしぼくたちはボロ衣も、ボロ家も一向に苦懲なかった。食物だけは今日の生命にかかわるので、手に入れるため懸命になってあらゆる努力をした。そして腹が減っているときは、どんな食物もおいしく、むさぼり食った。その食物と同じくらい、当時の日本人は知識と芸術と娯楽に餓えていた。そしてあらゆる知識・教養を、文学・芸術を、探しもとめ、むさぼり食った。たとえば西田幾多郎全集や三木清著作集が発刊された時は、岩波書店の前に前夜から延々長蛇の列ができた。今日ではとても考えられない熱心さである。 昭和二十丁年、「中央公論」「改造」「新潮」「文芸春秋」などの雑誌が復刊し、同時に「新生」「世界」「展望」「人間」はじめ、何十、いや、おそらく百を超す新雑誌が雨後のごとくいっせいに創刊された。もちろん紙不足、印刷・製本の工場も殆んど焼けてしまった時代だから、ザラ紙・仙花紙に製本も粗末な雑誌なのだが、たちまち売切れ、闇値がつき、しかも米や芋や煙草などのプレミアムを本屋に持って行かなければ手に入らない始末であった。着るもの、住む家は乞食同様でも食糧と同じくらい、いやその乏しい食糧を割いても本や雑誌をむさぼり求めた。こんな例は稀ではなかろうか。乞食同様のみじめな生活をしていても、日本人の誇りや志は高かった。いやアメリカの圧倒的な物量の力に敗けたという意識が強く、その点では劣等感にさいなまれながら、だから最後のプライドとして、日本人は文化や芸術など精神面では高い教養を持っている文化的民族なのだという面にすがりついたのだろう。 進駐軍の米国軍人が、白木のいい木目の家や床柱までやたら赤や青のペンキを塗りたくるのを見て、アメリカ人は文化や芸術を知らない野蛮人だと軽蔑したりした。まことにはかない抵抗であるが、その知識欲はまことにけなげであり、ヴァイタリティにみちていた。それも教育の普及で、国民全部が字を識っていたという事情とかかわりあっているだろう。ぼくはこの敗戦直後夢中になって本や雑誌を求めた日本人の知的好奇心とヴァイタリティと、負け惜しみ的な粋がりが、日本をどん底から復興させたと考える。 空腹時はどんなまずいものでもむさぼり食うが、少し腹が足りてくると味がわかってくる。それと同じように敗戦直後、印刷されたものなら何でも飛びついた読者も、やがてその内容を問題にしはじめる。人々はほんものの言葉を、新しい思想を求めているが、敗戦により世の中が変ったといっても、そう簡単に新しい文学、新しい思想が生まれるはずがない。 もちろん敗戦直後、平和国家建設、デモクラシイ、社会主義革命などをしたり顔に声高に唱える文章は氾濫したが、それは何時の時代にもいる便乗主義者で、今までの米英撃滅論の口を拭って、「たちまちまわれ左」して、デモクラシイや共産主義を讃美しはじめる。こういう言動ほど、ぼくたち若者の既成世代の日本人に対する不信感を抱かせたものはない。 日本が敗けたことよりも、同じ教師が、知識人が、同じ新聞・ラジオが、同じ日本人が、昨日と全く正反対のことを平気で語っていることの方が、はるかに恥かしく、ぼくたちを絶望的にさせた。彼ら使乗主義者たちは大衆からも次第にそっぽを向かれるようになって行くが、そのあとを埋めたのが、戦前の左翼、自由主義者の知識人と文学者たちである。つまり戦争中、弾圧され禁止されていた思想や文学がいっせいに復活したのである。 文学でいえば、永井荷風、谷崎潤一郎、正宗白鳥、志賀直哉、武者小路実篤、室生犀星ら老大家のめざましい復活であり、戦争中秘かに書き溜められていた作品が次々に発表され、人々に平和な時代の到来を実感させた。そして築地劇場時代の新劇の華々しい復活、節を曲げなかった左翼、共産党の英雄的復活、政党政治、労働組合と、次々に戦中ひっそくしていた戦前の勢力が復活して来た。 疎外された若者たち 今日、戦後を紀元元年として、そこから現在にいたる新しい時代が出発したという見方が圧倒的で、したがって戦後は新しさにあふれた若者の時代であったに違いないと思っている人が多いようだ。しかし敗戦の時、十九歳の若者であったぼくにとって、戦後は若者の時代などではなかったという実感が強い。 次から次へ、ぼくたちの知らない戦前の亡霊が、華やかにフットライトをあびて次々に登場する。マルキシズム、自由主義、芸術至上主義……戦争期に育ったぼくたちには皆目見当もつかぬ戦前の思潮が突然あらわれて来て、とても若者など出る幕はなかった。それどころかぼくたち若者は、戦争中、軍国主義教育をうけ、戦争に加担したということで、新時代に相応しくない戦犯的世代として疎外されてしまったのだ。戦後の数年間ぐらい若者が疎外された時代はなく、若い新人の進出が困難であった時期はない。日本が連合軍により占領され、その支配下にあるという未曽有の新しい異常な状況ということを別にすれば、戦後の第一歩は決して新しい創造の時代ではなく、戦争を挿んで、まず戦前の復活、復古から始まったという感がぼくたちには深話を文学に限定しても、まず先に述べた老大家ののどやかな時代を超えた復活、プロレタリア文学、左翼文学者たちのついに待望の我が世いたるという英雄的復帰、ついで戦前から文壇で活躍した中堅の流行作家の進出と続く。しかし老大家の時代を超越した仕事に拍手した読者たちも、左翼文学者、そして中堅作家の戦前と変らぬ古さにはとまどった。 左翼作家はかつての転向前のプロレタリア文学運動を絶対に正しいと規定し、戦争期の敗北の体験を捨象し、戦前そのままの文学理論や運動を押しつける。かつての流行作家であった中堅は、戦前と同じ風俗的リアリズムで戦後風俗を描く。そして共に文学的根拠として、自分たちは本心は戦争に反対であり、戦争中も抵抗者であり、批判者であり、あるいは傍観者であったと主張する。 それは戦後、二十二、三年ころ、新進作家として華々しく登場して来た第一次戦後派作家……野間宏、梅崎存生、椎名麟三、中村政一郎、武田楽淳、大岡昇平らにも共通する戦争に対する姿勢である。もっとも彼らは新人、戦後派と言っても、その多くは三十代であり、戦前にマルキシズムや転向の体験を持つ、戦争期を。暗い谷間’として過ごし、戦後を……第二の青春……として謳歌できる世代であった。 それにせよ、ぼくたちは戦後発表された小説や評論を読み、その誰もがぷな戦争に対し、戦争中から批判的、傍観者的であったとばかり述べていることに戸まどい、突き放された気持を味わった。と言うのは、ぼくたち若者は戦争下、祖国のために懸命に努力した。戦争がいいか悪いかわからないが、こうなった以上、生命を犠牲にしても日本を守ろう、日本と運命を共にしようと必死の思いであった。それはぼくたち若者だけでなく、大人たち、ぼくたちの周囲の多くの日本人の姿であった。そういう祖国のため努め、たたかった殆んどの日本人の姿が、体験が、心情が、戦後の小説、評論に全く描かれていない。そうすると二十歳で死を決意したあの重い体験はまるで存在しないことになる。したがって敗戦のかなしさもくやしさも、そして戦争に夢中だった自分に対する心の痛みも、にがい批判も敗戦の衝撃も、自己崩壊も戦争に対する真の否定も虚妄のように思われてくる。 ぼくたちは自分たちの戦争、敗戦そして戦後体験と合致する文学を見出し得なかった。みんな何か嘘をついている。自分を偽っている。こんなはずはないと。戦後生きる指針を、希望を与えてくれる文学を、敗戦の虚脱と昏迷の中をさまよっていながら、ぼくたちの魂を共鳴させてくれる文学を、ぼくたちの心情をそのまま語ってくれている文学を、探し求めていた。 無頼の魂 そういう時、ただ一つぼくたちの心をとらえ、魂をゆさぶってくれたのが。無頼派の文学であり、文学者たちであった。 織田作之助、坂目安吾、太宰治、石川淳、檀一雄、田中英光。そして伊藤整、高見順、三好十郎、平林たい子、北原武夫等々、無頼派4の文学者たち、この人たちだけがほんとのことを言っている。ぼくたちの心のかなしみを知ってくれている。ぼくたちの言いたいことを代弁してくれている。そして彼らは戦後に命を賭けて主体的自立的に生きようとしていると思った。ぼくたち若者はここにまぎれもない自分たちの魂の仲間を、先達を見出したのだ。 いや事情は逆である。もともと。無頼派などという文学者のグループも、エコールも、文学運動もなかったのだ。彼らは出身校も、郷里も、文学的経歴も銘々違っていた。戦前から文学活動をしてはいたが、別に仲間でも親しい友人でもなかった。織田作之助と石川淳は生前会ったことはなかったであろうし、大宰が織田や石川淳に会ったのも座談会の席ぐらいであったろう。ほかの文学エコール、たとえば、白樺派が学習院の同窓生中心の集まりであったり、……戦旗派……や。……文戦派……がはっきりした政治的文学運動の組織であったり、……日本浪曼派……が雑誌を中心とする同人の集まりであったりなどと違って、具体的な集まりはなく、交友も余りなかった。 つまり。……無頼派……とは、読者たちがつくりあげた幻想の、あるいは理想の文学エコール坂口安吾が書いた色紙「あちらこちら命がけ」書くことをも含め生活すべてに命がけだったなのだ。若い読者たちが自分の心にはげしく訴えかけてくる数少ない文学者たちを探し出して選び、無頼派なる文学エコールをつくり出したのだ。名もない読者たちの熱烈な希求と、祈りに似た深い思いが戦後の空に現出させた美しい虹であり、蜃気楼であったのだ。 しかし文学の世界においては現実の交友関係によるエコールより、読者の中から湧き起った幻想のエコールの方がはるかに強い文学的真実をもっている。当時の鋭敏なジャーナリストたちは、その読者の欲求がっくりあげた幻想的共同体を皮膚に感じ、無頼派なるエコールを雑誌の編集、出版の中に座談会とかグラビヤとか特集のかたちに具現化して行く。そして作家自身も、作品を通しておたがいに文学的・精神的な同志として意識し認め合いはじめる。無頼派は読者の側から自然に形成されたエコールで、このような例は日本文学史上ほかにない。それだけに、無頼派ぐらい人々に圧倒的な共感と影響を与え、読者に強い同類意識、同志感を与えた文学的エコールはない。 無頼派は敗戦直後の焼跡の中に疾風のごとくあらわれ、その自由奔放な作品と自ら世相と化するような大胆な言動によって日本人の魂を烈しく揺り動かし、たちまち戦後乱世の英雄豪傑として迎えられ、彼らは自己のすべてを燃し尽して書きまくり、ある者は倒れ、ある者は自殺し、ある者は狂い、ある者は隠棲し、風の如くに消え去って行った。 無頼派が文壇を席捲するようなめざましい仕事をしたのは二十一年から二十三年までのわずか二、三年の間である。織田作之助が病死したのは二十二年一月十日であり、太宰治が自殺したのは二十三年六月十三日、田中英光は二十四年十一月三日であり、その年に坂口安吾は錯乱状態になり、東大の神経科に入院している。その短い間に、彼らはやつぎばやに驚くばかりに豊富に数多くの力作、問題作を発表している。
2022年03月19日
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玉音放送 聴き 見て 歌った あの頃『演劇』「一億人の昭和史」十一月号 占領から講和へ 一九七五年十一月一日発行発行所 毎日新聞社 一部加筆 山梨県歴史文学館 演劇 歌舞伎は、焼け残った東劇・帝劇を根城に公演を再開した。しかし、戦後の日本の支配者であったGHQは、歌舞伎に好感を持たなかった。歌舞伎劇にみられる忠君愛国、封建的な思想は、再建日本にとって有害なものである、というのがその理由であった。二十年十一月東劇で上演の「菅原伝授手習鑑」がGHQの命令で中止になり、その直後歌舞伎劇の上演禁止リストが内示された。忠義をテーマにしたもの、仇討もの、封建的色彩の強いものはすべて上演禁止となり、わずかに世話物の一部と舞踊劇だけが上演を許された。GHQは民主主義路線にのっとった新作、現代劇の上演を奨励した。二十一年には菊五郎、吉右衛門が現代劇を演じ、女形が洋装で登場するといった奇妙な公演がみられた。二十一年二月東劇の「滝口入道の恋」には、歌舞伎では始めての接吻シーンが登場、話題になった。この禁止リストは二十一年夏ごろから徐々に解除され、二十二年十一月に東劇で「忠臣蔵」の上演が許可された。この「忠臣蔵」は七世幸四郎、六世菊五郎、初代吉右衛門、七世宗十郎ら、戦前から活躍した名優たちの顔合せで上演され、歌舞伎に飢えていた観客を熱狂させた。その一方で、戦後歌舞伎のにない手である次代の俳優たちは、三越劇場を足場に、着々と実績を積みあげてきていた。二十三年二月東劇の「千本桜」の通しは、海老蔵(故団十郎)をはじめ新世代俳優の台頭を示す公演だが、舞台、観客の入りとも成功で、歌舞伎の継承に明るい見通しが立った。二十四年に幸四郎(一月)宗十郎(三月)菊五郎(七月)が相ついで亡くなった。二十六年一月歌舞伎座が二億八千万円の費用で再建され、名優たちの死で沈みがちの歌舞伎界に、また勢いがついた。三月には「源氏物語」が劇化され、絵巻物のような動く王朝風俗に観客は魅了された。続いて「なよたけ抄」「少将滋幹の母」など王朝物が上演され、新作歌舞伎に一T分野を作った。 関西でも事情は似ている。戦争直後の舞台を支えたのは梅王、延若といった老名優であったが、そのあとを寿海、寿三郎、雁治郎らが受けついだ。ただ、戦争による観客層への打撃という面では、大阪のほうがはるかに大きく、関西歌舞伎は、東京ほどの立直りを見せることはできなかった。一方、新劇はどうか。戦前の新劇は弾圧につぐ弾圧で、十五年の新築地、新協両劇団の強制解散以後、事実上鳴りをひそめていた。敗戦と、戦後民主主義の誕生は、新劇界には、日の出のようにみえたことだろう。戦前からの文学座に加え、二十一年には新協劇団再建、俳優座、東芸の創設と、早くも四つの劇団が活動を開始した。それにさきがけ二十年十二月には毎日新聞社主催の新劇合同公演「桜の園」が有楽座で上演された。入場料は十三円五十銭と四円だったが、大入りであった。が、新劇界にとって最大の悩みは、上演する劇場のないことであった。東宝、松竹などの大資本と提携して帝劇、有楽座、東劇、新宿第一劇場などで公演したが、上演経費と入場料収入のバランスがとれず、台所は火の車であった。当時の入場税は十五割、べらぼうな重税だったのである。さらに全盛の映画が新劇から数少ない劇場を奪ってしまった。二十一年九月に文部省主催の第一回芸術祭が行なわれ、新劇からは新協・東芸合同の「どん底」が参加した。二十二年七月に東芸が解散、民芸(第一次)が生まれた。上記四劇団のほか、中小さまざまな劇団が生まれ、新劇界の表面の動きは活発化した。大劇場を追われた劇団は、三越劇場、毎日ホール、日劇小劇場などを足場に活動していったが、劇団経営を支えるため売れっ子は映画へ出演して稼ぐという風潮も生まれた。しかし、こんな条件の中で、俳優座は「検察官」(二十一年)「フィガロの結婚」(二十四年)、 文学座は「女の▽生」(二十一年)「へッダ・ガブラー」(二十四年)、民芸は「山脈」(二十五年)「炎の人」(二十六年)、ぶどうの会「夕鶴」(二十五年)などの秀作を世に出した。二十四年からピカデリー劇場で行なわれた実験劇場というプロデューサー・システム公演も、戦後的公演として記録しておきたい。 演出家として千田是也、俳優では滝沢修、田村秋子、杉村春子、小沢栄太郎、作家では木下順二、久保栄、福田坂存の活躍が光った。 新派は喜多村、花柳に水谷八重子が加わり、復興(二十三年)した新橋演舞場を中心に活躍、新国劇は北条秀司の新作を得て、剣劇劇団でない新しい分野を開拓。前進座は、二十二年から青年演劇運動と銘打って地方公演を重ね、安く芝居をみせる行動を続けた。演目は「ペニスの商人」で、二十三年の朝日文化育を受けた。女剣劇(二十四年)の全盛、ストリップ(二十三年)の流行など、大衆演劇の世界には戦後を反映する現象がみられた。 〈水落 潔〉
2022年03月19日
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玉音放送 聴き 見て 歌った あの頃映画 「一億人の昭和史」十一月号 占領から講和へ 一九七五年十一月一日発行発行所 毎日新聞社 一部加筆 山梨県歴史文学館 映画 敗戦がもたらした困惑に輪をかけたのがGHQから出された日本映画製作。『べからず集』である。「軍国主義を鼓吹するもの」にはじまる十三条のこのお触れは、仇討はいけない。歴史に手を加えるな、封建思想はまかりならぬ、といったかなり于きびしい戒律ばかり。 きびしい禁止事項に触れない映画作りといえば時代劇だけでなく現代劇だってそう楽ではない。そこで苦肉の策として各社が考え出したのが、「そよ風」「グランドショー一九四六」(以上松竹)、「歌え!太陽」「東宝ショーボート」(東宝)、「別れも楽し」(大映) といった、たわいのない現実逃避の娯楽映画で、それらの映画の主演者も、戦中からおなじみのスターたちだった。 この戦後の映画スター不足の傾向は、かなり長く続くが、映画の中身がかわったのに俳優だけがおなじではと、新しいスターの出現を待望する声もつよく、これに答えるように東宝・大映では二十T年に第一回のニューフェース募集をやった。ここから生れたのが、三船敏郎、堀雄二、久我美子、若山セツ子、岸旗江、 そして大映からは折原啓子、三条美紀といった新スターである。三船は「銀嶺の果て」、久我・若山は「四つの恋の物語」、岸は「戦争と平和」、折原は「彼と彼女は行く」、そして三条は「踊子物語」で華ばなしくデビューする。この年日本映画は、現代劇、時代劇あわせて八十本を製作。この中には、黒沢明監督の「わが青春に侮なし」(節子・藤田進主演)、木下恵介監督の「大曽根家の朝」(三浦光子・杉村春子主演)などの映画史に残る名作もふくまれているが、最大の話題は最初の接吻映画の登場だ。松竹の「ある夜の接吻」は若原雅夫と奈良光枝がそぼふる雨の中で抱き合うシーンが見せ場だったが、大映の「はたちの青春」では幾野道子と大坂志郎が、ほんとにくちびるを合わせた、というのでセンセーションをまきおこし大ヒットした。 長い戦争の間に荒廃した撮影所もその機能を回復、二十二年には九十七本だったのが、二十三年には百二十三本、そして二十四年には百六十本と製作本数が飛躍的に増えていったが、新しい民主化の波は東宝大争議をひきおこし、その結果として新東宝という新しい映画会社が誕生。またレッドパージで各社を追放された映画人がそれぞれ群雄割拠しての独立プロが雨後のタケノコのように群立したことも、戦後の新しい現象だった。京マチ子という踊り子出身のグラマー女優が「痴人の愛」という肉体もので一躍スターダムにおどり出たり、上原謙・山根寿子主演の「三百六十五夜」というメロドラマが大ヒットしたのもこのころ。また戦前派のビッグスター田中絹代や原節子、木暮実千代もカムバックして「わが恋は燃えぬ」や「晩春」「花の素顔」などで人気をとりもどした。満州から身ひとつで引揚げてきた李香蘭が日本人名の山口淑子と名乗って、松竹映画「我が生涯の輝ける日」でカムバックしたのは二十三年のこと。戦時中は映画法という壁に阻まれて見られなかった外国映画の輸入も自由になったが、そのトップをきったのは敵性映画として開戦いらいストップ状態にあったアメリカ映画だ。二十一年二月、まずダリア・ガースン主演の「キューリー夫人」とディアナ・ダービンの「春の序曲」が東京・大阪で公開されたとき、長い間の渇望をいやすように洋画フアンの長蛇の列が映画館をとり巻いた。このあと「ラインの監視」「チャップリンの黄金狂時代」さらにイングリッド・バーグマンの「カサブランカ」、デュヴィヴィエ監督の「運命の饗宴」、ビング・クロスビー主演の「我が道を往く」と続いてフアンは随喜の涙をながして、敗戦がもたらした自由の有難さを実感したものである。二十二年には東京の有楽町にスバル座という新しいロードショー劇場ができて、「アメリカ交響楽」をはじめ「心の旅路」「荒野の決闘」「ガス燈」「我が生涯の最良の年」 など新しいアメリカ映画の昧を堪能させてくれた。これにつづいて二十三年には、ソ連映画を皮切りにヨーロッパ映画が輸入され、「美女と野獣」「旅路の果て」「シベリヤ物語」「石の花」「逢びき「ヘンリー五世」などの香り高い名作が怒濤のように押し寄せた。 長い争議で荒廃した東宝は二十五年、今井正監督の「また逢う日まで」でやっと立直りのきざしを見せたが、このころから日本映画のぜんたいが活気をとりもどした。そのシンボルとなったのは二十六年のベネチア国際映画祭に大映が出品した「羅生門」が見事グランプリを受賞したことである。 これが大きな刺激となって、「源氏物語」「雪夫人絵図」「風にそよぐ葦」「暁の脱走」「白痴」「偽れる盛装」「自由学校」「生きる」 などの話題作、問題作が続々と作られ、新しい日本映画の黄金期が到来することになる。〈草壁久四郎〉
2022年03月19日
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玉音放送 聴き 見て 歌った あの頃歌 「一億人の昭和史」十一月号 占領から講和へ 一九七五年十一月一日発行発行所 毎日新聞社 一部加筆 山梨県歴史文学館 歌「終戦」……悪夢は終わったが、夢も希望も失って、呆然と焼野原にたたずんでいた人々の心に、明るく元気づけるように響いたのは「リンゴの唄」だった。松竹少女歌劇出身の並木路子が霧島昇とデュエットした松竹映画「そよ風」の主題歌である。衣食住すべてがなく、巷には浮浪児があふれた二十一年、メーデーが復活、皇居前広場に五十万人が集まって「米よこせデモ」となったが、この虚脱時代にスパートしたのは岡晴夫だった。リバイバル・ヒットした「港シャンソン」につづいて「東京の花売娘」「啼くな小鳩よ」と、鼻にかかった歌声は焼跡を吹く風に乗って街から街へ流れた。とくに「啼くな小鳩よ」は、小学生の間にも大流行したので、職員会議を開く学校まで出た。このほか近江俊郎・奈良光枝の「悲しき竹笛」、二葉あき子の「別れても」などがヒットしたが、田端義夫のうたう「かえり船」が、外地からの引揚者や、それを待つ家族の胸にしみた。またGIがよくうたった「ユウ・アー・マイ・サンシャイン」やWVTRから流れる「センチメンタル・ジャーニー」が若い人たちによろこばれた。東京・新宿の帝都座五階劇場で、初のストリップ・ショーが行われた昭和二十二年、近江俊郎の出世作となった「山小舎の灯」や、 平野愛子「港が見える丘」二葉あき子「夜のプラットホーム」藤山一郎「夢淡き東京」ディック・ミネ「夜霧のブルース」 など、戦後派歌謡が相ついでヒットしたが、夜ともなれば、こんな女に誰がした、と、菊池章子のうたう「星の流れに」が、外国兵のソデをひく夜の女たちの間に流れた。この歌は新聞の投書欄にのった、元看護婦の手記から生まれたもので、奉天から引揚げた二十二歳の女性が。夜の女に転落してゆく訴えを読んだ作詞の清水みのるが、怒りをこめて徹夜で書きあげたもの。曲がブルース調なので、淡谷のり子を予定したが「パンパン歌謡はうたいたくない」と断わられて、新人の菊池章子が起用されたという裏話もあった。「タケノコ生活」「欠食児童」が流行語となった二十三年は、笠置シヅ子が体当たり的に唄う「東京ブギウギ」の強烈なリズムが、爆発的に氾濫した。近江俊郎の甘い演歌「湯の町エレジー」が、たちまち四十万枚を 売って、プレーヤーの少ない当時としては大 ヒットを記録。同じく彼のうたった「南の薔薇」とともに、ラジオの「のど自慢」番組のレパートリーにランクされた。その「のど自慢」から遂にとび出しだのが、引揚ソングの「異国の丘」で、吉田正が作曲家としてデビュー、つづいて「シベリヤエレジー」・「ハバロフスク小唄」など引揚ものが作られた。「ともしび」「カチューシャ」など、ロシヤ民謡がうたいだされたのもこの頃だった。
2022年03月19日
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玉音放送 聴き 見て 歌った あの頃「一億人の昭和史」十一月号 占領から講和へ 一九七五年十一月一日発行発行所 毎日新聞社 一部加筆 山梨県歴史文学館 ラジオ昭和二十年八月十五日正午、ラジオからは玉音放送が流れた。かくして終戦とともに演芸、音楽番組はまったく姿を消し、電波は敗戦にともなう事態収拾を目的とする内容の告知・講演・報道の番組で埋められるようになった。八月二十二日、三年半ぶりに「天気予報」が放送された。これは玉音放送と並び終戦の象徴的な役割を果したものであった。 やっと平和が来た。人びとの思いはそれにつきた。ラジオも次第に活気をとり戻して来た。九月三日戦後初の放送劇「五重塔」がとりあげられ、八日には再開された第二放送で舞台劇「助六由縁江戸桜」が、翌九日には東海林太郎の歌謡曲や桜井潔楽団の軽音楽が第一放送で放送された。 ラジオから流れるメロディに、人びとは耳を傾けた。しかし当時の聴取者は空襲による被害で激減し、しかも受信機の35%は老朽などによる不良品であった。にも拘らずラジオが戦後のすさんだ世相の中で順当にのびていったのは、放送民主化の第一歩として、まずマイクロホンが一般民衆の声をそのままのせたり、意見を伝えるようになったからである。 九月十九日、後に「私たちの言葉」と改称された「建設の声」が発足、これは投書によるマイクの開放を目指したものであり、この番組が発表されるや、日に三〇〇通以上の投書が殺到、内容は世相を反映して食糧問題が圧倒的に多かった。九月二十九日には「街頭にて」(後の「街頭録音しがはじまった。この番組も当初は発言する人を見つけるのが一苦労であったが、やがては銀座資生堂前にいつも黒山の群衆を集めるほどの人気番組になった。十月二十一日には座談会「天皇制について」の討論が放送された。つい先ごろまでは口にするさえタブーであった天皇制に対する批判が堂々と放送されたことに、人びとは今さらのように時代の転換の激しさを思い知らされた。なお、この番組は後に「放送討論会」に発展した。さらに十一月から十二月にかけて、現在の番組編成の基調となった一日中休みなしの全日放送や、放送番組のクォーターシステム(各番組の持ち時間を一様に一五分、三〇分、四五分、六〇分というように十五分単位制にするもの)が相次いで実施された。これによってはじめて一週間単位の放送時刻表が作られて、番組も安定するとともに、聴取者にとっても聞きやすくなり、放送は次第に生活の中へとけこんで行った。こうした一連の措置には、もちろんCIE(民間情報教育局)の指導によるところが多かった。大晦日には「紅白歌合戦」の前身「紅白音楽試合」がスタジオから放送された。二十一年一月十九日、「のど自慢素人音楽会」がはじめて放送された。ずぶの素人の歌、しかもそのテスト風景をそのまま電波にのせる、実はこれは大変なことであった。というのは戦前は放送に対する考え方が厳格で、出演はその道の専門家に限られ、いやしくも素人が出演することによって、放送を道楽とか遊びの手段とかに見られることを嫌う空気が強かったからである。ともあれ「のど自慢」はこうした壁を打破して大成功、二十三年には第一回全国コンクールが聞かれた。 わが国最初のクイズ番組『話の泉』が放送されたのは二十一年十汗り八日、従来見られなかった新しい形式の種目として聴取者の耳を驚かした。続いて二十二年十一月八日には「二十の扉」、 二十四年一月二日には、『私は誰でしょう」が誕生した。これらのクイズはいずれもその原型を外国に求めたものであったが、二十四年一月ス日にうぶ声をあげた「とんち教室」は、発想を日本的なことば遊びに求めた純国産のクイズ番組であった。これらの番組のレギュラー出演者は、本業を離れて大衆の人気を獲得、やがてラジオスターなる新語が生まれ、司会者は、いわゆる司会業の先達となった。一方忘れることのできないものに連続放送劇がある。最初は二十年十月二十八日から放送した、菊田一夫作「山から来た男」であるが、何といってもその代表的なものは、日常的な家庭生活をテーマとするアメリカのソープオペラに着想を得て、これを日本的に消化した、伊馬券部他「向う三軒両隣り」であり、二十二年七月一日から二十八年四月十日まで、連続一、三七七回という長寿番組になった。これと並んで浮浪児救済を中心に押し出し、キンコンカンの主題歌で知られる「鐘の鴫る丘」は、二十二年七月五日から二十五年十二月二十九日まで、七九〇回にわたる連続放送劇であった。また、二十二年十月十二日、「歌の新聞」を衣更えした「日曜娯楽版」が風刺のきいたコントと冗談音楽が大衆の共感を呼び起こした。バラエティーショウの草分けともいうべき「陽気な喫茶店」が開店したのは二十四年四月五日。そして二十七年四月十日、連続放送劇「君の名は」がスタートした。〈守屋素衛〉
2022年03月19日
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犠牲者続出 坑内人足の運命は、作業が辛いだけでなく、坑内の衛生に問題があった。珪酸分か高いから「山よろけ」(珪肺病)を誘発した。珪分を含んだ鉱塵が、身体にふりかかるのを防ぐ方法は、坑内の通気をよくするしかない。佐渡金山では、「この世の地獄」と、大工たちが大胆に歌いあげているように、坑内の人口密度が高いのと、金見制度による部分的な請負採掘法が、一貫した通気対策がとられることをさまたげていた。また奉行や、金山担当の山方役は、江戸から赴任して、短期で引揚げる制度であったから、勤務期間内の採鉱量増加だけが頭にあって、一貫した厚生対策を顧みる暇がなかった。通風が悪いと、坑内の酸素欠乏からくる「気絶え」(一酸化炭素による急激死)が発生し、坑内で死ぬ率が驚くほど高かった。 吉田松陰は高水四年(一八五一)に佐渡へ渡り、金山をみて「強壮にして力ある者といえども、十年に至れば、すい弱して用に通せず、気息えんえんとしてあるいは死に至る。誠に憐むべきなり。而してその自ら言うに即ち曰く、この山は最も人を害せず。他山に至っては、あるいは三、四年にしてすでに死に至る」(『佐渡日記』)と書いている。 佐渡奉行の日記にも「三年で死ぬ」などと書いているのがみられる。 坑内衛生を悪くしたもう一つの理由は、油煙であった。油煙は坑内照明月の灯火によるもので、松脂(まつやに)を、竹の皮で包んだ「松蝋燭」、魚油、獣油が用いられた。これを粘土でつくった焼きの灯皿の上で燈した。 「山よろけ」や「気絶え」は、生野銀山などと比べると、記録的にも非常に多い。坑内衛生や保安対策は、日本の鉱山では、佐渡がいちばん遅れていた。これは幕府が、佐渡金山に、常に最新の機械や精練法を投入していたことと、まったく対照的である。生野銀山や佐竹藩大蒜銀山などでは「山よろけ」対策が、領主や出先奉行の千で、江戸時代でもかなり早くから、とられていたが、佐渡金山では、紀宝年間に、益田玄皓という民間の医師が「紫金丹」という薬をつくって、大工を救済したという記録があるだけである。「山よろけ」は、紅塵となった珪粉が、肺の中に沈着し、繊維増殖が起って呼吸が苦しくなり、咳や痰が出る。胸部に圧迫感を覚え、これが悪化すると死ぬ。 『鉱山保安法』ができたのが、戦後の昭和二十四年であるが、佐渡金山では比較的坑内の通風がよくなったのが、二十七年である。鑿岩機の内部に水を通して、紅塵をいくぶんか防ぐようになったのは三十年であった。鉱山のながい歴史に比べると、坑内衛生の面は非常に遅れていた。 大工 大工と名はよいけれど 住むは山奥穴の中 竪坑三千尺下れば地獄死ねば廃坑の土となる 休みや迎えにくる 休まにゃつとまらぬ大玉迎いがなかよかろ 大工すりゃ細い 二重廻りが三重廻る そして、さらに佐渡金山の大工たちは、次のような、はなはだ自嘲的な歌も残した。この中にある称名寺というのは大工の集団墓地である。 早く叩いて称名寺山へ あとは花松立て腐れれ で、労働が過酷で、悲惨だったのは坑内の排水人足である。排出の開発は、排水難との戦いといってもよいが、これが、日本の鉱業労働史の中では、まったく知られずにいる。佐渡金山のように、開発の初期から、坑内採堀法がとられたところでは、坑内の排水が、ヤマの盛衰をいつも左右している。地底にどんな良鋼帯があっても、水没していては、鉱石を採取できない。幕府が佐渡金山の排水に使った費用も莫大なら、このために要した労働力もまた大変なものであった。 佐 渡 金 山 その三 著者略歴 磯部欣三氏一九二六年(昭和元年)二月、新潟県佐渡郡に生る。毎日新聞新潟支局勤務。鉱山庶民史に興味を持ち「水替無宿論」 「水金遊廓・人身売買」 「金山町の流人」などの論稿がある。著書『佐渡金山の底辺』『流人帖』(共著)。 昭和三十九年(1964)十一月二十日 初版発行 新人物往来社刊 この本は、この排水人足に幕府が使った無宿、囚人の強制労働について書くので、作業の内容は後で触れることにして、佐渡金山の排水の歴史を、すこし概観してみたい。 佐渡金山 その三 山師但馬(甲斐出身) 著者略歴 磯部欣三氏一九二六年(昭和元年)二月、新潟県佐渡郡に生る。毎日新聞新潟支局勤務。鉱山庶民史に興味を持ち「水替無宿論」 「水金遊廓・人身売買」 「金山町の流人」などの論稿がある。著書『佐渡金山の底辺』『流人帖』(共著)。 昭和三十九年(1964)十一月二十日 初版発行 新人物往来社刊 初期に、味方但馬という山師がいた。但馬は関ケ原の戦いで福島正則に仕えて戦功があり、五百石の知行を得たが、のちに廃業して山師になった。甲州の出身である。(註、山梨の歴史資料には見えない) 慶長元年(一五九六)以来、佐渡で五十七ヵ所の鉱区を稼行し、このほかに摂州多田銀山、奥州南部、勢州銀山などでも、ヤマを請負った形跡がある。慶長元年から約二十年間に、佐渡金山では百人近い山師がいて、苗字、帯刀も許され、群雄の状態で、権勢を誇っていた。山師の出身地は、丹波、石見、若狭などの山陰から、億前、備後、但馬などの中国をはじめ、北陸、近畿、東海の各地にまたがっている。但馬はその代表的な山師の一人であった。但馬は、巨万の富を得て後世に数々のエピソードを残した。彼が、他の山師にいつも先行して採鉱の成績をあげたのは、排水の投下資本に恵まれた大資木家だったからである。寛永三年(一六二六)に、割間歩から水金沢までに、公儀に願って四月八十間の排水道を掘鑿した。十三年かかった。割間歩は、このころ佐渡金山で最大の良鉱地帯であったが、湧水がはげしいので、但馬は、この現場から海岸まで地底にながいトンネルをくりぬいて、自然排水する計画であった。但馬はこの大きな土木工事で、大量の排水に成功して、巨富を得た。 この排水路は、その後洪水で埋まってしまった。文献だけが残り、いまはその所在はわからない。但馬の孫の孫太夫は、トンネルの代わりに、六百七十貫文を公儀から借りて、二百六十の樋を割間奏に投下した。この樋は水上輪ともいい、あとで説明する。樋を使用して、二百メートルもの地底から順々に水を地上へ汲みあげることに成功して、毎日十日間に一万荷(一荷は五貫)の鉱石を出した。二百六十の樋を動かすには、一日に七百八十人の人足を必要とした。 寛永十三年(一六三六)には、谷川の水が坑内へ流れこみ、二百六十の樋は、全部水没してしまった。承応元年(一六五二)に、孫太夫は先祖の持っていた江戸石町と京都六角通りの家屋敷四軒を、四千三百両で売却して、兄弟と分け、自分は千二百両で、二百の樋を作って割間歩へ入れた。これも、間もなく豪雨にあい、一夜で押し流されてしまった。彼は資力も尽きて、割間歩の稼行を放棄しなければならなかった。この稼行が中止されたことによって、金山では三千人から四千人の失業者が出た。町内の名主、町役人が、騒ぎを見兼ねて割間歩の再興を、再三奉行に願い出るので、奉行は、治安確保のために、ついに彼らをことごとく捕えて、入牢させるという騒動もあった。 排水坑道の完成 佐渡金山の産出量は、寛永末から下降線を辿る。この主な原因は排水難であった。脈を求めて、地下へ地下へと掘り下げてゆき、坑内労働の稼行範囲は急激に大きくなるが、これに排水が伴わないと、採掘は進まない。佐渡奉行はこの排水対策として、石高に応じて、全島の農民に排水の人足の供出を割当てた。この強い政策はその後の農民一揆の一つの要因ともなった。また町方にも一日数十人、数百人と人足を割当てて、坑内排水に全力をあげた。元禄時代は、産出量が、再診急激に増えた。島民はこれを「元禄の大盛り」といっている。この原因は、所沢疏水道の完成であった。割開示から海岸に近い所沢まで貢通してあるので、所沢疏水道といわれる。長さは四百九十七間で、六年で掘繋した。施工に当っては始点と終点の中間に、二本の壁坑を掘って、それぞれ前後に掘進し、一時に六ヵ所から掘り進んだ。坑道の高さは八尺、横幅は三尺ないし五尺ある。 岩盤は安山岩質凝灰岩で、これを延べ二十数万人という労働力を投じ、鑿と槌の人力のみで、人海戦術で掘進した。排水坑道の特徴は、桶や釣瓶や、水上輪などの機具を用いて、人足を使い、坑内から地上へ排水するような莫大な労働力を必要とせず、地下づたいに海岸へ坑道をつたって自然排水ができるのが便利な点であった。しかしこれには莫大な経費を必要とする。 南沢疏水道の大土木工事を指揮したのは、静野与右衛門という男で、ときの佐渡奉行は、当時幕府の勘定奉行も兼ねていた荻原近江守重秀であった。一ヵ月の工程進度が、八尺六寸、元縁九年(一六九六)五月に、ようやく完成し「水になりし稼所出て、追々出方(鉱石の)を増、誠に夜の明けしが如く、国中の者知ると知らざると、鼓舞して万歳を唱う」(『佐渡年代記』) という状態であった。 『日本鉱業史要』の著者、西尾能次郎氏は、この所沢疎水道を、元締時代の土木技術としては世界的なものと賞讃している。箱根用水以上である。原始的な羅針盤と傾斜計とを使って、六ヵ所から前後に掘進して、将棋の駒の形の坑道が、ほとんど狂いなく、一本の排水坑道になって、つなかった。鍛でコツコツと砕いたので、側壁や天井の愁痕は、緻密丹念で、雫がそこにたまり、夏の朝露をためた蜘蛛の巣のように、美しくみえるので「クモの巣間切り」などとも、呼ばれている。この疏水道の完成によって、佐渡金山の坑内放水は割間歩へそそぎ、さらに同疎水道へ流れれて、一挙に相川湾へ吐き出され、佐渡金山は、元和、寛氷期につぐ黄金ラッシュを再現することになった。現在でもこの排水道は活用されており、この排水道から上部で採掘が行なわれている。これがないと、排水費がかさんで、採算がとれないわけで、その下部は、水没して稼行はできなくなっている。 元禄以降は、排水難があまりなかった。しかし安永年間から、当時、佐渡金山で良鉱地帯といわれた青盤間歩の排水がかなり話題になってくる。同年三月十日から、町方人足を厘って「粉骨を尽して汲み取るといえども水勢強し」とあって、寛永、元禄の大事業にならって、疏水道の堀鑿計画が立てられたが、青盤間歩から地下排水すると、人足が十六万四百十七人、金が六千四百七十余両もかかるというので、幕府は断念した。この年の十二月から翌年の一月まで、中尾間歩では、一目三十人の町方人足を雇った。 排水に農民を使役 佐渡奉行が、石高で村々に割当てた排水人足は、文政三年(一八二二)から、労役の供出を廃止して、それに相当する銭を長明が醵金することに代った。排水作業に農民を使役することは、奉行所の役人の間でも、批判が高かった。 寛政六年(一七八九)一月から、十一年の九月まで組頭(副奉行格)を勤めた谷左中柄明は、 良民に水替さすな村ありて五穀実りて後の銀山材役に水替さする無道さよ民は天下の宝ならずや と、役人らしかぬ歌を詠んで、圧政を批判した。しかし労役がなくなっても、そのかわりに農民が銭を負担することになったのでは、結果は同じである。別に金山の利益が農民に還元されるわけでもなかった。相川町という鉱業都市の誕生で、農村も近郊化か生じて、野菜や副業生産物を売って現金化することはできたが、木炭や材木などの「金山御用晶」の供出、牛馬や米などの島外移出禁止、島外旅行の統制など、いろいろの圧政に苦しまねばならなかった。 無宿人の群れ 水替に無宿人を送る 佐渡金山では、坑内の地下水を汲み替える排水人足のことを水替と呼んでいたが、この水替は町人や農民の専業、副業として行なうのが普通だった。しかし現代のように排水の機械がないから、人間の強い体力だけに頼らざるを得なかったので、非常な重労働である。金山には鉱石を掘る大工や、鑚、槌などの武具を作る鍛冶大工、鉱石の搬送人足などたくさんの坑内労働者が居たが、作業が苦しいためにいつも労働力が不足していたのは水替であった。 幕府は安永七年(一七七八)から、江戸や長崎、大坂などの天領地から無宿者を捕えて、佐渡金山へ送りこむことにした。 無宿者 「無宿」というのは、江戸時代に、一般にならず者で通っていた無宿者のことである。名前の上に出身地をつけて「上州無宿」とか、「下総無宿」とか「神田無宿」と呼ぶ場合もあった。 国定忠治も、鼠小僧の次郎吉も、無宿者であった。特使の忠治が、嘉永三年(一八五〇)十二月に傑刑になったときの裁判請証文(判決書)には「国定村無宿忠次郎、所々悪事いたし」などとある。泥棒の次郎吉は獄門になったが、判決書には「異名、鼠小僧事、無宿入墨、次郎吉」と書いてある。 江戸時代に無宿者といえば、単に宿なし、住所不定人を指すのだと考えがちであるが、実はしっかりとした法律上の根拠がある。人別帳(戸籍)から除外された「帳外」の者をいうのである。 「久離」はよく勘当と混同される。久離には「出奔久離」と「追出久離」の二つがある。前者は欠落、失踪の場合、後者は勘当の場合である。二つとも親族が願い出て、五人組合名主の示認をもらい、代官所令町奉行の許可をとらないと、久離にならなかった。久離の目的は、縁座から免れるために、親族関係を絶つのがねらいである。その者が罪を犯したときの、連帯責任を避げるためであった。しかし久離しても、帳外にならない間は、まだ頒主に監督、支配権などのつながりが残っていた。 「帳外」は、村から願い出て人別帳から除外してもらう。帳外になれば戸籍から削除されるわけだから、鎖主には裁判権も監督権もなくなった。これが無宿者である。 罪を犯して追放の判決を受けた場合も、限外になる。だから追敏則をたくさん行なうと、それだけ無宿者が増える計算になった。無宿たちが、郷村を徘徊して治安が乱れるので、幕府内でも一眸は追放則の改革論が起ったが、これは実現しなかった。 無宿の生態 帳外となった無宿が、生きてゆく場所はいろいろあった。街道筋もその一つである。雲助と呼ばれる一群の交通労働者もそうである。博徒の客分や子分となって寄生するのもいた。これも安全な場所とされた。無宿に博徒が多いのは、このためである。文化年間に関八州の無宿(博徒)の情勢を代官の大貫治左衛門が、こんなふうに報告している。 「関東在方では、同類を集めて、通り者といい、身持の不埓なものどもを、子分などといって抱えておきます。或いは長脇差を帯し、目立った衣類を着ています。こういう不屈な所業」 の者には、それぞれ御取締りを仰せ渡されましたが、今もって武州では府内、中仙道では鴻巣宿辺から秩父郡辺まで、それから上野、下野、常陸国、ならびに下総国では銚子、佐原辺には、一旦、追放のお仕置などになった者、親から勘当をうけた者、または欠落した者、つまり戸籍からその他を削除された帳外者が無宿になって、右のような所業をしている者が多くいるのです。私ども、外に関東の代官三人の、在々をお取締り御用のため出役をつとめています手附や手代どもは、廻り村先で見当ったのは召捕り、それぞれお取締り方を仰せ付けられていますが、彼の者の子分という者が、近村に多くおりますから、近頃は、右の子分平宿場の荷物かつぎなどを渡世にしている雲助らが、親分の者へ、お取締りの出役の廻村のある事を、前々から密々に、先々へ告げ知らせますよしで、彼の者は早々に関東外の遠国に隠れ、お取締り出役に逢わないようにします」 また、無宿の日常の挙動にもふれている。 「子分のうちには、命しらずのあぶれ者が多くありますために、野平田、または人里はなれた遠い所などで、あぶれ者に何となく喧嘩をしかけさせ、殴り疵を負わせるような事をしますから、百姓はいうに及ばず、村役人まで恐怖して、この国に立入ってはならないと追放のときに申渡された生国のお構えの所にいっても見逃し、或いは村方さえ帳外にしておけば、この者が召捕られても、親類や五人組もかかわり合いにはならないから、平常は村方に居住している分は、かまわないと、帳外つまり無宿になった後も、そのまま容赦して、その村におきますから、表向き無宿とはなっていても、内実は、お構えの地、または居村に居住して、自分の家を持ち、親平作の名前にいたしておきますし、地借り、店借りをしている者も、自分の名前は出さず、外の者の名前右はひっきよう、前の無宿の者どもが、平常、専ら博突渡世いたし、不屈の所業によるのですが、この者が召捕られ、吟味になりましても、筒貸元などしたとは白状はいたしますが、証拠はなく、風聞ばかりが多く、野田賭博、少々のゆすり、或いは遺恨等の、軽い罪だけで出牢し、またまた元の居村か、その近辺の宿場や町場等へ立帰ります。そうして、よい男になったと、前科を幅にしますから、子分も却って前より増します」 大貫代官の支配地は、関東でも東海道筋であった。大貫はこういう無宿(博徒)の対策として、彼らをことごとく召拙えて、出牢などはさせずに佐渡金山へ送ったらどうか、と献策している。(田村栄太郎『やくざ考』)
2022年03月19日
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佐 渡 金 山 その一 著者略歴 磯部欣三氏一九二六年(昭和元年)二月、新潟県佐渡郡に生る。毎日新聞新潟支局勤務。鉱山庶民史に興味を持ち「水替無宿論」 「水金遊廓・人身売買」 「金山町の流人」などの論稿がある。著書『佐渡金山の底辺』『流人帖』(共著)。 昭和三十九年(1964)十一月二十日 初版発行 新人物往来社刊 一部加筆 山梨県歴史文学館 佐 渡 金 山孤島の金山 新潟県佐渡郡相川町 これが佐渡金山の所在地である佐渡島の北辺の、シベリヤに面した小さい町で、人口は二万人位ある。 夏は観光客がたくさん来るので、町は「おけさ節」で騒がしくなるが、冬は激しい季節風が吹く。佐渡の北海岸の冬は、雪が積らないかわりに、風がとくに強いので、なんとなく荒涼、蕭条とした感じになる。その風景は、廃墟となった佐渡金山のイメージとぴったりする。 佐渡が日本海の孤島なら、相川町はその最果ての町である。近世初頭には、ここに大きな鉱業都市が誕生した。 ここで、佐渡と貴金属鉱山についてふれると、代表的な金、銀山が佐渡には三つあった。 島の南部の西三川山(真野町)は砂金の産地で『今昔物語』や『宇治拾遺物語』にも、この山に関係したと思われる記事がある。島でいちばん古い鉱山である。 もう一つは中世末期、天文年間に開発されたといわれる鶴子山(佐和田町)である。これは上杉景勝が支配していた。戦国期に、景勝が秀吉に上納した金、銀は、この鶴子山と西三川山の産出と考えられる。 中世末、または江戸時代初期に、鶴子山の峠を一つ越えた北側に、相川山が開発された。 佐渡金山といえば、この西三川山、鶴子山、相川山の三つを総称したことになるが、相川山が開発されてからは、幕府は佐渡を天領(直轄支配地)とし、相川町に佐渡奉行を置いて、金銀山を支配した。産出量も、この時点ては、相川山がケタ違いに多かったので、相川山のことを佐州銀山と呼び、西三川山は西三川坑、鶴千山は鶴予抗と呼んで佐州銀山の一稼行区とした。 ここでは相川山、つまり佐州銀山を、現代風に佐渡金山とした。実は金より銀の方が産額が多かったのだが。 江戸幕府の財源 佐渡金山は、近世史上、わが国最大の金銀山といわれる。幕府が本格的な開発を始めたのは、関ケ原の戦いが終った翌年の慶長六年(一六〇一)で、七年には有名な大久保長安が、奉行となった。維新後、宮内省御料局財産から民間の三菱金属に払い下げられたが、江戸時代全期にわたって、幕府で直営して、かなり有力な財源であった。採鉱や精錬技術は、全国貴金属鉱山で、常に進歩したものであった。幕府がいち早く投資したのである。 ピークは、十七世紀前半(元和-寛永)の約三十年間である。この時代の銀の産出量を推定した、京都大学の小粟田淳博士によると、六万から九万キログラムという。当時の世界産額の、だいたい十五パーセントに相当した。小粟田博士は、この時代で世界で三位を下らない銀山とみている。 金山経営は、相川山の場合、敷人足と呼ばれる拡内労働者と、岡人足と呼ばれる坑外労働者、つまり精錬人足によって成り立っていた。採掘と精錬とは、別々の分業制度によるのが普通である。 坑内人足 坑内労働者には、直接鉱石を採掘する大工(坑夫)と、採掘された鉱石を運搬する荷揚、手伝い、採掘用の鉄具を生産する鍛冶、採掘後の数(坑内)を整理する跡向き、また特殊な技術者として、坑道の支柱作業に当る山留がある。これを総称して坑内労働者、または穿子というが、このほかに、坑内の地下湧水を除外する排水人足がある。 これらの下層労尚者は、金児と呼ばれる現場監督に隷属して、請国の金山を移動して行くのが多い。金児は技術者であるし「組」のような組織の頭であった。この金児を支配するのは山師である。 山師は古くは出生、山元とも呼ばれた。奉行からヤマを請負って稼業するのが山師である。山師は金児のように技術者ではないが、優秀なヤマを見立てて、それを稼業する企業家であり、稼業するに当って多数の金児を雇い、技術や労働力を提供してもらう。金児は、この山師の下使いであるが、のちには山師から独立して、自分でヤマを請負って稼業する、新しい企業家に変質した。そのとき山師が没落する。 それ以前の両者の関係は山師が開示(坑)を請負うと、その間歩を、何人かの金児が分担して稼ぐ。この金児の堀場を敷または領分という。 ここでは、こういうヤマの生産組織は省略して、坑内労働者の生活が、おけさ節が歌うようになぜ悲惨であったかを調べてみたい。 佐 渡 金 山 その二 著者略歴 磯部欣三氏一九二六年(昭和元年)二月、新潟県佐渡郡に生る。毎日新聞新潟支局勤務。鉱山庶民史に興味を持ち「水替無宿論」 「水金遊廓・人身売買」 「金山町の流人」などの論稿がある。著書『佐渡金山の底辺』『流人帖』(共著)。 昭和三十九年(1964)十一月二十目 初版発行 新人物往来社刊 採鉱の技術 佐渡金山で、鑿岩用の火薬が使用されたのは幕末の慶應四年(一八六八)である。ガールという英人技師が初めて紹介した。鑿岩機が使われたのは明治二十年(一八八七)であった。 江戸時代は、もっぱら鑚(きり)と鉄製の槌を用いて行なう「手掘り」形式である。鑚は三十五匁位の重さで、これを上田箸と呼ぶ「鐡挟み」ではさみ、右手で柄のついた槌をにぎり、脈を砕いた。採掘法は、鍛を鉱脈の割れ目に打ち込み、脈が割れないときは、金椀や、ゲンノウを用いて、打ち割った。 佐渡金山の鉱脈は、石英が多く、硬度は八、九度で、岩盤が非常に硬い。周辺の母岩も珪化作用が進んでいて、採鉱に苦労した。裂開性の石は割れやすいが均質で堅緻なところは、なかなか割れないので、鑚を鉱脈に四角に打ち込んで割り取る。また炭火を起して、鉱石面の水分を発散させ、石右を膨脹させてから掘鑿した。 「貫目振り」というのがある。鉱石の量で賃金が決定した。これは通常行なわれた稼行法である。もちろん労働力を高めるのがねらいであった。 作業の促進法に「さっさ掘り」というのもあった。一つの坑内に大勢の大工をふりむけて「さっさ掘れ掘れ、やわらぎだ」と、囃し立てる。やわらぎは、岩盤のやわらかいことを意味した。 「狸掘り」は、良鉱が、広い岩葉に局部的に散らばっているような場合、人間が一人だけ通れるような穴を掘って採鉱する。これは探鉱の際にもしばしば行なわれた。この狸掘りの跡は、いたる処に残っている。 採掘法も鑿岩槻と違って手振りの場合はいろいろ工夫されたが、「上部階段掘り」や「斜鉱掘り」が、能率的だった。頭の上を掘れば、落下して鉱石の除外が早い。 坑内の昇降には、梯子が用いられた。丸木を二つに割り、あるいは丸太のままで、階段を繰り抜いてつけた、原始的な梯子で、最近古代遺跡からも同じものが見つかっている。ごく古い時代から、佐渡では用いていた。長さは三~四メートルもある。これを使って、坑道の最底部に達するまでには、五十から百本以上の梯子を下らねばならなかった。 坑内の有様 坑道の入口を「釜ノ口」といい、入口から採鉱の現場までの道程を「廊下」といった。坑道を据愁する作業は「間切り」といい、大工の作業場は「切羽」、足を支えている場所を「台」と呼んだ。 坑内は真夏でも十五度くらいで、大工はいつも裸であった。当時の坑内絵図をみると、坑内の両端に渡した木の吊り台の上に、褌(ふんどし)一本の若い大工たちが、頭巾や頬かむりして、かたまって、頭上の脈に槌をふるっている。切羽の一角に吊した小さな灯皿の光がかぼそく灯り、地獄の底を思わせるような、蟻の六道みたいな坑道で、ひしめき合い、作業している。近くに頭大工がいて、掘られた鉱石を手元にたぐりよせ、作業の能率を測定している。 大工には、初期には定まった労働時間がなかった。「昼番」とか「夕入大工」の区別で時間交代制ができたのは、中期以降である。それまでは、所定の鉱量を出すまで、昼夜ぶっ通しで作業をすることが多く、過重労働で健康を害する者が多かったから、労働力はいつも不足した。 天保年間(一八三〇~一八四三)になると、二交代制が確立した。朝五ツ時(午前八時)から七ツ時(午後四時)までが昼番で、夜五ツ時(午後八時)から晩七ツ時(午前同時)までが夕入であった。 安政期(一八五八~五九)にはいると、これでも健康を害するというので、三交代制がとられた。朝一番方は明六ツ(午前六時)から四ツ時(十時)まで。二番方は四ツ時から八ツ時(午後二時)まで。三番方は八ツ時から暮六ツ(午後六時)と定められた。夜間もこれに準じた。この二時、四時間の労働を「肩一枚」と称した。肩一枚の採掘量は、普通一貫五百目ないし三貫目とし、賃金もそれに準じて七十六文であった。賃金を、なるべく多く稼ぎたいために、昼の一番方に差組まれた大工が、夕方他の坑の夜番にも稼ぎに出ることがあった。これを「またぎ大工」と称した。 坑内人足の生活 大工にも、いろいろ種類がある。「地大工」というのは、金見や山師に隷属している専業大工である。これに対して臨時に大工として、町や在方から稼ぎに出るのを「かけ 掘り大工」といった。金見が、自分の掘っている地大工だけで稼行がおぼつかない場合、助勢として、奉行所が、そこへ差し向ける大工もある。これは「合力大工」と称した。これらの中でも、地大工は、必要なとき、いくらでも労働力が自由に投下できたから、能率をあげるには、地大工を大勢抱えていなければ、本当の作業はできない。「地大工」は、山師や金見が「前貸し」で全国から募集して集めたものである。一人四両が前貸しの限度であり、期間は四カ月で、十日につき二分の利子をとる。返済できない場合は、身体を拘束された。 佐渡の良家では、金見が派遣する募集員から金を借りるのを、「山の金貸し」「金借り」といい、身売りすることと同様に考えていた。文化年間(一八四〇~一八一七)には、この前貸しの額が五両に暴騰したといって、騒いだこともある。 金見制度は、明治以降は、その「組」のような組織が、何々部屋と称する「部屋」制度に代った。大塚、鈴木、安田といった大部屋があり、一部屋に四、五百人も地大工を抱えていて、一定区域内の採掘を請負っていたが、逃亡をたくらんだ大工などがあると、捕えて荒縄で釣りあげ、下から青松葉を焼いて燻(む)す、といったような、非人間的なリンチを加えたりした。飲む、打つ、貿うの放恣的な生活を送り、親方も、その奢侈的な欲望を満足せしめて労働意欲を刺戟するため、いろんな方法をとった。
2022年03月19日
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島原の子守唄 諸説 序に変えて 私は民謡の世界のことは全くの無知ですが、子供の頃からの住む北巨摩郡(現在は北杜市)の盆踊りなどには必ず唄われていた記憶があります。 真夏の夜空に消え入るような、哀愁を帯びたどこか空しい調べが、今でも脳裏に焼き付いています。 はるか前ですが、テレビ番組の中で、「島原の子守歌」が流れていました。おや、この曲は「縁故節」ではないのか、と不思議に思いました。その時は、忙しいのに感けていましたが、久しぶりに地域職豊かな『中央線』をひろげて見ると、植松逸聖翁の「縁故節四方山話」が目に留まりました。 民謡や民話は全国津々浦々、同じような曲や歌詞が有るといわれています。民話や伝承それに地域行事でさえも、その類似性は数多く見受けられます。しかしその発生過程については、明らかに盗作や真似作と思われるものもあります。「島原の子守唄」はこうした意味合いからは、大きな関心があります。 作られた時期は明らかに山梨の縁故節のほうが早く第二次世界大戦を経て、「島原の子守唄」が作られたのですから、明らかに「模倣性」が認められます。 模倣の経過については別記してありますから参考にしていただくとして、私見としては、この両者の間に挟まっている戦争が起因していて、戦争に駆り出された人々は戦地で一緒に戦い信頼関係を深め、お互いの国の民謡や民話が多くの兵士の慰めになったと考えられます。おそらく宮崎康平氏も、こうした関係者から何かの折に山梨の縁故節を聞いて島原子守唄の製作に役立てたと思います。 私が最も気になったのが、メロディーの類似性だけではなくて、歌詞にも及んでいます。 特に、 「島原の子守歌」は邪馬台国の研究者でもある宮崎康平氏の作詞作曲です。 時代の移り進み、一部編曲に古関祐而氏も関わり、本家の「縁故節」より「島原の子守唄」の方が有名になり、「縁故節」の制作者たちは、必死に「縁故節」が先で、「島原の子守唄」は盗作であると訴えましたが、宮崎康平氏は逆に「縁故節」の方が「島原の子守唄」の盗作であるとして、すでに著作権を設定していました。 その後「島原の子守唄」は観光や産業に果たす役割も大きく、現在ホ-ム・ペ-ジで索引すると、その数は多く「縁故節」を圧倒しています。 民話や伝説それに民謡などは、各地に同じようなものがあり、どこが先かは分からないものです。民謡でも一つの唄に、その地方の地唄の一部を加えて地域の人に伝承されていくことは、ごく自然の成り行きだと思われます。 しかし「縁故節」と「島原の子守唄」はそんな昔の話ではないのです。 そこで、今回「縁故節」や山梨県の民謡を愛して止まない韮崎市の植松逸聖翁の奮戦ぶりを中心に、その他の資料を絡めて当時を偲んでみることにしました。「縁故節」の復活を願いながら。… 参考資料… 植松逸聖著 『中央線』「第8号」 (一部の語句を訂正) 郷土研究 1972年(昭和47)刊行 この唄は、「縁故節」の中でも一番代表的な唄で、誰しもが「縁故節」を唄う時、一番先に喉をついて出るのがこの歌詞である。 「縁故節」は、数多い甲州民謡のうちでも最右翼の方であって、何回もラジオやテレビで放送され、レコ-ドにもなって、各レコ-ド会社から発売されており、現在発行されている民謡集の中にも必ず掲載されていて、全国的に有名であることは、今更言う迄もないがことだが、たまたまそのメロディ-が「島原の子守唄」によく似ているところから、「縁故節」は島原の子守歌の盗作ではないかとか、九州の「隠れキリシタン」が、甲州に移り住んで、「島原の子守唄」を教えたので、それが「縁故節」のメロデ-のもとになったとか、色々な風説が流れ、またそれを肯定するような書物も現れて、一時は「島原の子守唄」説にすっかり惑わされた状態になった。これは最近九州旅行を終えて帰って来た人達が、旅行中のバスの中で聞いた、ガイドの「島原の子守唄」を聞いて、あまりにも「縁故節」に似ているところから自分の耳を疑い、不思議に思って色々憶測をめぐらした結果から、そんな事になったことゝ思うが、「縁故節」は生粋の甲州生まれ北巨摩育ちで、「島原の子守唄」の盗作でも模作でも無い。 「島原の子守唄」こそが戦後の作品であって、「縁故節」とは年代が遙に違うことを先ずもって明記して、これから「縁故節」がどうして発生し、発展して来たか、これにまつわる四方山の話を交ぜながら書いて見たいと思う。 大正の終わり頃、現在と同じような民謡ブ-ムが、日本国中に捲き起こったことがある。大変な民謡の流行だった。 それに火を付けてのが、丁度其頃から始まったラジオ放送で、東京、名古屋の三カ所から、全国津々浦々の優れた良い民謡を集めて放送したので、尚一層燃え上がったのも無理はなかった。またそれに拍車をかけたのが、レコ-ド会社であった。実際北海道、東北、北陸から九州等、それぞれ良い民謡を豊富に持っていて聞く者をして楽しませ、堪能せずには置かなかった。 こうした他県の、優れた良い民謡を聞く度に、考えさせられるのが当時の山梨県の民謡事情で、これという民謡もなく今日のように、県内各地の民謡も埋もれたまゝで、僅かに、「粘土節」が山梨県を代表する唯一の民謡であるという貧弱さであった。 心有る人は山梨県にも他県に勝るよも劣らない優れた民謡の一つや二つあってもよさそうなものと願って止まなかったと思う。 その頃韮崎町に、白鳳会という山岳会が生れた。碓か大正十二年頃だったと思う。民謡と時を同じくして、渤発した登山熱に呼応して、南アルプスを宣伝出開発しょうとしてである。初代の白鳳会快調に就任した人は、小屋忠子氏であった。小屋氏は当時韮崎町で歯科医をしてわり、後には県会議長迄した、なかなかの政治家だが、時には尺八も上手に吹き、枠な小唄もうたう風流人で、その名前が「忠子」と書くところから、女性と間違われたというか、本人は斗酒尚辞せずという剛腹な人で、カイゼル髭をたくわんた立派な紳士であった。 幹事長は、韮崎郵便局艮の柳本経武氏、とても世話好きの人で、東京の山岳会の名士多数とも親交のあった人で、小屋会長の良い女房役であった。顧問格が、穂坂村の平賀文男氏、この人も後には県会議員などしたが、本来は山岳家で「月兎」というペンネームで、数多い山岳山著書があり山岳界の権威でもあったが、唄もうたうし踊りもおどる多彩な趣味の持主であった。この三人が、良い民謡をつくって唄の中に土地の人情風俗を織りこんでうたい、踊って見せたら、南アルプスの観光宣伝にもなるだろうと。 昔から北巨摩地方で、 サアサえぐえぐ ジャガタラ芋はえぐいね 中で青いのは なおえぐいシヨンガイナー と、うたわれていた「えぐえぐ節」に目をつけて、その歌誌やメロディーを改良して、新しい民謡を作ろうと、毎晩小屋氏の家に町の芸妓を呼んで努力を積んでおられた。 当時は、韮崎の町にも金蔦屋、信濃屋、中扇、春本という芸妓屋があって、一番多い時は、芸妓も二十数人もいた。夜ともなると、左襖に、仇な投島田の彼女達の姿もみられ、あちらこちらの料理屋の窓からは絃歌のサンザメキも聞え情緒もあった。 野尻先生が「韮崎の芸妓はメレンス芸妓」と何かの本に書かれたが、先生は茶屋と呼ばれる一杯屋の酌女と芸妓を間違はれたのではないだろうか、韮崎の芸妓はなかなかの芸達者で、芸一筋の廊芸妓の気風もあって、県内では甲府の芸妓につゞいての存在であったと思う。料理屋に宴会があると、彼女達は必ず「お座付」というものをする。其時弾く曲は、時節ものとか、鶴亀雛鶴、越後獅子等の目出度い曲で、それも一月毎にかわっていて、同じものを二ケ月連続していくことはなかった。而も、正月三日間は目出度い曲の組合せで、一日毎に変っていた程だった。それと云うのも、其頃韮崎には杵屋熊吉という三味線のお師匠さんがいて、芸妓は勿論のこと、良家の子女から俗にいうお若い衆に迄稽古をつけたので、韮崎の芸事に対する標準は意外に高く、生半可な芸では迚も商売には出られなかった。それ故稽古はきびしかったと間いている。決して、 韮崎の芸妓は「メレンス芸妓」ではなかった。内容もあったと思う。面白いことに男名前の杵屋熊吉さんが女で、女名前の忠子と好対照であったことだ。 そんな芸妓を、小屋氏は毎晩白宅に呼んで、三味線をひかせ、唄わせて新しい民謡をつくり出そうと努力しておられた。 一応唄の形が出来あがったのであろう。或夜「お前も尺八を吹くから聞きに来い」と呼び出しの電話があったので拝聴することにした。 うたい始めに「アリヤセー コリヤセー」と囃子言葉をつけた。誠に結構だと思った。「縁で添うとも 縁で添うとも」と唄に人って同じメロディーを二度繰返している。これはいかん、単調だなと感じた。「柳沢はいやだよ」変化して「アリヤセー コリヤセー」の噺子言葉で結んでいる。あとの「女が木を切る」から「シヨンガイナー」迄、同じメロデーの繰返しである。 総ての楽曲には、起、受、発展、終結の原則があって構成されているもので、起から受の部分か大切で、それが楽曲全体の可否を決定づけるものである。始めの起である「縁で添そうとも」と受けに廻る二度目の「縁で添うとも」は変化してこそ望ましいと思ったのに、同じメロデーの繰返しであったから「縁で添うともの二度目の繰返しを五度あげてうたったらどうですか」と進言した。 「五度上げるとはどうゆうことかね」と質問が返って来たので、楽理の十二律を説明して、繰返し部分を五度あげてうたって見せたら「その方が良い」ということになって、今日の縁故節の基本になるメロデーが決定したのである。 「踊りもあることだから」と言はれて、四拍子に作譜することを命ぜられた。 扱、出来あがった新民謡の名前であるが「サアサえぐえぐ」と唄ったのを、「サアサえんご、えんご」と直したところから「えんご節」と名付けて、漢字で「縁故節」と当字をした。それが何時の問にか文字通り「エンコ節」と呼ばれるようになってしまった。何年頃だったか、日時のことは忘れたが、第一回縁故節発表会を、今の三辛スーパーの処にあった寿座という芝居小屋で町の芸妓を総あけて盛大に行ったこともあった。 毎年夏ともなると穴観音さんの境内に櫓を組んで「盆踊り大会」と銘打って、小屋氏の音頭で「縁故節」によって盆踊り大会を催したことが四五年も続いたろうか、その頃迄は盆踊り大会といえば(四打ち」(エ-ヨ節)だったのが、何時の間にか「四打ち」は「縁故節」に侵略されて、次第に消えて行ってしまった。 縁故節が始めてラジオで全国に放送されたのは、昭川三年の九月だった。愛宕山にあった東京放送局で、放送間始三周年記念祝賀の番組が組まれたことがる。其の中の民謡の部に全国有名民謡の中に加わって、山梨県からも「縁故節」が選ばれて出場することになった。その時の出場者は、三味線が芸妓の勝利、尺八が現在韮崎駅前通りで布団店を経営している秋山計吉さん。唄が芸妓の照葉と下宿の舟山橋際で、トラック運送業をしていた植松輝吉さん、この人は大変販やかな人で自分のことを「おらあ降っても照るやんで」とヒヨウキンを云って人を笑わしていた。踊りが、水上修一さんで歯科技工師、後には市会議員迄なった人である。 以上の五人が放送局で唄ったり踊ったりの大熱演で大好評だった。何しろ初めてのラジオ放送なので、韮崎町も大変な騒ぎで、今の四丁目の魚徳商店(元は繭糸会社といって繭の取引所だった)のところに舞台をつくって現在、韮崎市文化協会長の山本融さんが先頭にたって、スピーカーから流れ出る縁故節のメロテーに合せて踊って見せたものである。 これが縁故節の、全国え名乗りをあげた第一歩であった。 それから七年経った昭和十年十一月、白鳳会を通じて東京の放送局から、再び縁故節を放送して欲しいという依頼かあった。 二代目の白鳳会会長になった柳本経武氏に引率されて放送局に行った人達は、三味線が芸妓の桃竜、尺八が植松逸聖と清水逸映、唄か名取いく{古屋)と佐野儀雄の五人だった。当時は、全部か生放送で間違うことを許されない一番勝負だったので、緊張の連続であった。 其夜は神田の旅館に泊って、翌日東京見物でもして婦る予定だったが、突然ビグターレコードから電話かかゝて来て、翌朝、会社に来て縁故節を聞かせて欲しいという申し出があつた。 その晩の縁故節の放送を聞き、放送局に一行の宿泊している旅館を間いて電話をかけたのだという。翌朝指定された時間に会社社に出頭したところ、大野という重役が待ち受けていた。 早速縁故節を披露したところ「朝鮮民謡のようだ」と、異色性を大変ほめてくれて、レコード化の話しまで進んだが時間もないので後日を約して帰って来た。其后ビクターは、ミリオンレコード会社の設立をめぐって内部に紛争がおこり大野重役が退陣したとかで実現出来なかった。かえすがえすも残念なことであった。 昭和十四年に韮崎町中村美容院の中村千代子さん(山本)がコロンビアレコードに吹きこんで発売されたが、これが縁故節のレコードになった最初のものである。 それからは、島倉千代子、三橋美智也等の有名歌手が唄ったレコードか各社から競って発売されるようになり、縁故節は一躍全国的に有名になった。 「縁で添うとも 柳沢はいやだよ」 と唄にあるように、縁故節と柳沢は切っても切れない因果関係にあるわけで、縁故節を語るからには柳沢のことも話さなければならないことになる。歌詞「柳沢いやだよ」 柳沢という処は、以前は駒城村柳沢だったが最近の町村合併で今は武川村柳沢になっている。甲斐駒ケ岳の麓で、大武川の清流に添った細長い地区である。 徳川五代将軍綱吉公の大老として、一世の権力を欲しいまゝにした柳沢吉保の先祖の地である。 柳沢は、もともと武田の郎党で所謂、武川衆の一人である。 此処には、柳沢壱岐守信勝より、吉保の祖父である。兵部丞信俊にいたる迄居を構えておったといわれている。 宝永一年、柳沢吉保は、松平美濃守古保と名乗って、甲斐の国主となって甲斐に入っている。宝永三丙戊年の秋、吉保が荻生組釆を招いて、柳沢を調査させたがその紀行文中に、「左側黍田中、挿竹表識処、謂是使君旧荘、其四十歩許、昔時有大柳樹、是邑名者、已枯矣」とある。この当時は多少形蹟が残っていたかもしれない。大正二年、子孫の伯爵柳沢保忠氏が柳沢に来たが、何等の形跡がなく落胆して帰られたということが北巨摩郡誌に書いてある。 其の柳沢が何枚近郷近在の人達から「嫁にわやるな」「また行くではない」と、忌み嫌はれたかということは、世俗に伝わる風説では、原因は二つあるようである。第一は、柳沢古保の権力に対する反感と不満を当時とすれば直接口にし、態度にあらわすことが出来なかっにので柳沢吉保を、柳沢部落にたとえて唄にたくしたものだというし、第二には、柳沢部落は非常に封建気風の強い処で男尊女卑の思想が根強く、女が苦労すろところであるからという。第三は、年々度重なる大武川の氾濫で、切角の田地も押し流されて、女も男同様に木を切り、矛を刈るような重労働をしいれられるので、可愛い娘はやれないということである。 昨年、山梨放送の監修で、キングレコードから甲斐武田の民謡という、武田にまつわる一連の民謡集が出来に。武田節などの新民謡を主にした民謡集だが、その中に縁故節を入れることになり、其の歌誌の選定を、韮崎市文化協会が受持つことになった。一番問題になったのが「縁で添うとも柳沢はいやだよ」の歌誌である。これを加えるベきか、削除すべきかということで、柳沢の人達の意見を聞いたところ是非加えて慾しいということで歌誌の第一番に書き加えることが出来た。縁故節にこの唄が無かったら骨抜きになってしまうからである。加える事ができてよかった。 もう一つ、縁故節に欠く事の出来ない深い関係にあるのは、ジャガタラ芋である。ジャガタラ芋はオランダから日本に輸入されたものであるが、甲州は日本の中でも、この芋を栽培したのは早い方だといわれている。それは、明和年間に中井清太夫という人が栽培法を教えたからだという。それで甲州では此芋のことを「清太夫芋」と名付けたが、段々なまって「せいだいもん」と呼ぶようになった。今でも老人の中には、こんなふうにいう人かいる。 ジャガイモは日光にあてると、皮の部分が青くなり何ともいえない不味さである。その不味のことを土地言葉で「えぐい」とか「えごい」と云う。その「えぐい、えぐい」から「ジャガタラ芋はえぐいね」という唄が生まれたではないかいわばジャガタ芋は「えぐえぐ節」の生みの母であるかもしれない。 このジャガタラ芋を、明治の初めに、現在の中央線日の春駅附近の富岡地方に、麥や、桑と一緒に栽培させたのが富岡敬明という人である。この人は明治初年、藤村紫郎が県令として、山梨県に赴任して来た時、参事として同時頃着任した人である。当時は明治維新で、徳川幕府の禄を喰んだ武士達は、職を追われ、生活の道を断たれて、大恐慌の時代で、その救護対策として全国各地に入植させて、生活の安定を計った。 本県でも、日野春駅附近の原野十五六町歩を入植地と決めて士族の移民を受け入れた」。これを担当したのか富岡参事であった。この入植は富岡参事の努力で成功して、国営の農事試験場まで出来あがった程である。それで開拓民たらが感謝の気持から、参事の名を取って村名を富岡かと名付けたという。 現在、日野春駅の西方300メートル位の処に、富岡開拓神社がある。そこには富岡参事の功績を讃えた、高さ二メートルばかりの日埜原碑というのか建っている。其后富岡参事は、九州熊本の県命となり、明治十年西南の役には、谷干城と一緒に熊本城に籠城して、陸軍を撃破する端緒を開いたということで男爵の位を賜り、甲府市の善光寺裏の里垣に余生をおくられた。 富岡参事は、九川島原の高岡城廿四代の城主であったとう関係から、或る人の説では、九州の浪人を日野春に入植させて刀を鍬に持ちかえて、麥、桑、ジャガヤを作らせながら、島原の子守唄をうたわせ、蹄らせたのが、えぐえぐ節のはじまりであるといっているが、日野春えの入植は、維新政府が江戸の旗本の二男坊対策として行ったもので、此の命令を受けて本県で担当したのが富岡参事てある。従って日野春の入植者は江戸浪人であって、九川の浪人ではなかったことになる。 民謡の多くはその土地での労作と共に、土の中から作物と一緒に生れる場合が多くえぐえぐ節もジャガタラ芋と一緒に生れ仁のではないかと推察されてよいと思う。 扨、えぐえぐ節の発生は何時頃であろうかということか問題になるが、縁故節創始者の一人である平賀文男氏は、武田信玄公時代からで、四百年も前からだというか、えぐえぐ節の「語呂」ば古い昔からある。甲州民謡の語呂とは違うので、それは間違いであると思う。 古い甲州民謡では、田方で唄はれている「田の草節」も、原方で唄はれている「締打唄」身延山の碑詠歌が変化したものと思はれる「甲州盆唄」も、みんな甲州独特の語呂で「七五五七四」の二十八文字てある。田の草節に例を取れば、というようである。 もっと、古い唄と思われるのにというのがある。武田信玄公が川中島合戦の折、敵将上杉謙信が陣取った横山のことを云ったのではなかろうかと思う。横山というのは、長野の善光寺裏の城山のことで、当時は横山といったそうである。 信玄公は戸隠の方迄進攻しているので、此の地方の俚謡にも二十八文字のものがあるそうである。 埼玉県地方の民謡「麦打唄」も矢張り二十八文字の甲州の影響をうけ民謡で、これも古いものであると思はれる。 これに引きかえ、えぐんぐ節は、粘土節と同じく「七七七五」の二十六文字で、甚句式のものであるから、おそらく徳川時代になっ元禄以降のものであると思はれる。 甚句というのは、元禄年間に長崎の蛯屋甚九郎という人が、兵庫に入って伝えたという「甚九郎節」が各地に広がって「甚句」となり、処によっては土地の唄であるからといって「地ん句」とも云われ、鎮守の神様の前でうたうので「神ん句」と云ったったという。現在日本の民謡の大半は、此の影響をうけているという。この甚句が甲州にも入って来て、それからは「七七七五」の二十六文字の唄がうたわれるようになったではないかと思う。 したがって、えぐえぐ節は武田の昔からというではなく、元禄以降のものであるという結果になる。 若し、柳沢吉保に対する反感から此の唄が生れたしとすると大体、元禄の頃からということになるが、これは少し考え過ぎで矢張りジャガタラ芋の伝わった明和から明治の初めころ、ジヤガタラ芋と共に生れたのでわないだろうかと推察される。 えぐんぐ節は、発生してから北に上って諏訪地方にひろまり「柳沢節」と名をかえて広く深くうたわれていったようである。これについて諏訪市角間新田出身の作家新田次郎氏は、この程発行された「甲斐武田の民謡」集の巻頭に縁故節についてこんな事を書かれている。「甲斐武田の民謡」の中にある縁故節は古くからある歌で甲斐から信濃にかけての農民の生活の苦しさを歌ったものである。私は甲府に近い信儂の諏訪に生れた。この歌は「柳沢節」として私の村にも古くから歌われていた。祖母が歌ったその哀調を帯びたメロデーは今でも忘れられない」とある。新田氏の祖母となると、明治以前の生れであろうと考えられる。新田氏の祖母は娘時代をすごされた明治のはじめ頃覚えられたに違いない。こう考えると、えぐえぐ節の発生年代が大体わかるようで決定づける事は大変難しいが、おそらく明和年間から明治の初年の間で、約百年前後でわあるまいかと出思う。 最後に、島原の子守唄について少し書いてみたいと思う。島原の子守唄の作者は有名な「幻の邪馬台国」の著者てある宮崎康平氏である。 これは昭和四十六年六月十一二日平凡社発行「太陽」七号に、島原の子守唄の作者は宮崎康平氏であると明確に書いてある。宮崎氏は本年五十五才、「縁故節」は現在四十七、八年の歳月を経ている。宮崎氏が如何に英才であっても、十才未満で島原の子守唄は作れない。 昨年十一月八口午前六時十分、NHK甲府放送局ラジオの第一放送で、N氏と「縁故節」について対談を放送したことがある。 その時N氏が宮崎の放送局に島原の子守唄について間合せたところ、この唄は、二三の民謡を組合せて作ったものであるという返事があったそうである。 島原の子守唄は、 おどみや島原の おどみや島原の ナシの木育ちよ 何のナシやら 何のナシやら 色気ナシバよ ションカイナ ハヨ寝るる泣かんで オロロンバイ 鬼の池に久助どんの 連れん米らるバイ というのである。先の本唄の郡分のメロデーは、縁故節とそっくりである。 「ハヨ寝ろ……」からの後囃子的なものは、NHKの民謡を訪ねての時間に「五木の子守唄」の後頃として間いたことがある。 結局、島原の子守唄は民謡組曲であったわけである。 然し、九州という一大観光地をバックに、旅館や料亭の宴席を利用し、遊覧バスの中でガイドに唄はせての宣伝の為の演出は大したもので、大いに敬服に値するものがある。 翻って、甲州「縁故節」はというに発生当時、創始者の見せた意欲的行動は更になく、従らに島原の子守唄の独走にまかせて来たことを反省しなくてはならない。 最近「甲斐武田の民謡」集の中に、「縁故節」が多少リズム感覚をかえては収録され、踊りの振付も新しく改められ発売されたことは、「縁故節」の再出発を意味しているようで大変うれしく、この民謡集が県内のみならず全国に売れて、今後並々発展してゆく争を事を祈ってやまない。……参考資料…… ふるさと文庫所収 縁で添うとも 縁で添うとも 柳沢いやだヨ (アリャセーコリャセー) 女が木をきる女が木をきる 茅を刈るションガイナー (アリャセーコリャセー) 河鹿ほろほろ 釜無下りゃヨ 鐘が鳴ります 七里ケ岩 縁の切れ目に このぼこできた この子いなぼこ 縁つなぎ 縁がありゃ添う なかれば添わぬ みんな出雲の 神まかせ 駒の深山で 炭焼く主は 今朝も無事だと 白煙 来たら寄っとくれんけ あばら家だけんど ぬるいお茶でも 熱くする 註 柳沢……武川村柳沢。もとは駒城村(現白州町ヽ釜無川の支流大武川の右岸で、鳳風山麓の山村。柳沢吉保の先祖の出身地。 "七里岩……八ケ岳の泥流が金無川の浸食をうけてできた断崖。長野県境から韮崎まで約二七キロに及ぶ景勝の地。 "ぼこ……甲州方言。赤ん坊・子供。 "いなぼこ……変な子。妙な子。 "駒の深山……甲斐駒ケ岳 「縁故節」は「馬八節」「粘土節」とともに甲州の代表的な民謡の一つで、踊り唄あるいは座興唄である。 この唄は大正の末韮崎町(現韮崎市)で誕生した。大正十一二年韮崎の有志にって、町を、鳳岱山とそれに続く南アルプス連峰の登山基地として観光開発しようという目的をもって、白鳳会が結成された。 初代会長は歯科医師の小屋忠子(後に県会議長)で、郵便局長の柳本経武、穂坂村の平賀文男(号月兎、後に県会議長)等が協力者であった。「縁故節「はこの白鳳会の宣伝のために、前記三名の方々と土地の芸妓たちによって、従来から峡北地方で歌われていた作業唄「エグエグ節」を編曲してつくられたものである。編曲の過程で、三味線等の伴奏をつける関係もあって、曲ば陽旋律から陰旋律に変化した。この間の事情は、この計画に参加した山梨県三曲連盟会長の植松和一氏が、同人雑誌『中央線』第八号に「縁故節四方山話」として詳細に述べておられる。 このようにして出来た「縁故節」は、寿座という町内の芝居小屋で盛大な発表会が行われ、昭和三年九月六日には東京中央放送局(現NHK)から、放送事業間姶三周年記念番組民謡の部に、山梨県代表民謡として「縁故節」が選ばれ、地元韮崎町の人々によって全国放送された。その時の出演者は、三味線芸妓勝利・尺八秋山計吉・唄芸妓照葉と植松輝吉・踊り水上修一の各氏であった。ラジオ放送に踊りがついていたのは、放送に臨場感をもたせるためであったと思われる。 続いて、昭和十年十一月一十日には再び東京中央放送局から放送され、昭和十二年の暮れには甲府放送局開局記念に「縁故節」が全国放送された。 この内昭和十年放送の出演者のうち植松逸聖(和一)・名取いく・佐野儀雄の三氏は現在も御存命で元気に活躍しておられる。 このようにして「縁故節」は山梨を代表する民謡として全国に放送され、地元韮崎はもちろん峡北地方一帯では盆踊り唄として「エ-ヨー節」にとって替り、韮崎や甲府等の花柳界ではお座敷敷唄としてさかんに歌われた。 一番の歌詞「縁で添そうとも柳沢いやだよ」は、「エグエグ節」からの転用であるが、この歌の看板である。古歌「甲斐人の嫁にはならし事辛し 甲斐の御坂を夜や越ゆらむ」 と発想が同じに見えて、その意味するところは全く違う。 「甲斐人の嫁にはならじ云云」 は、東海道を旅する他国の人が、篭坂や御坂の峠越しに甲斐を想像して詠んだもので、異国人の冷たさが感じられる。 しかし、「縁で添うとも……」は野山での苦しい仕事を思いながらも、なおかつ、ふるさとを愛するほのぼのとした温かさが感じられないだろうか。「縁故節」ができるときこの部分を削除したらという意見があって、そのことを柳沢の人々に相談したところ、是非そのまま残してほしいとの意見であったというエピソードがある。 歌詞の「シヨンガイナ」は「ションガイネ」とうたうこともある。意味については諸説があるが、「致し方ない、あるいは、仕様がない」と解すべきである そう解することによって前述の愛郷の心が生きてくる。 両者の関係については、「縁故節」が「えぐえぐ節」を元唄として作られた時、その仕事に参加した唯一の生存者である植松和一氏(号逸聖、山梨県三曲連盟会長・韮崎市在住)が、同人誌『中央線』に、前後四回にわたって連載した「島原の子守唄は縁故節の盗作」の中で、概要は述べられているが、改めてとりあげたい。 ただし、「島原の子守唄」の作者宮崎康平は、昭和五十五年三月に死亡しておられるので、この問題をとりあげることは、死者にむち打つことにもなりかねないが、それは筆者の本意とするところではない。しかし、事実は事実として明らかにしておかなければならない。 「縁故節」成立の由来については、「縁故節」の項で述べたし、前記植松氏の「縁故節四方山話」(『中央線』第八号)に詳細が述べられている。 「島原の子守唄」は、宮崎の作家宮崎康平によって作られた歌謡曲である。歌詞は次の通り。おどみゃ島原のおどみゃ島原のナシの木育ちよ何のナシやら何のナシやら色気ナシばよ ショウカイナはよ寝ろ泣かんで オロロンバイ鬼の池ん久助どんの連れんこらるバイ帰りにや寄っちょくれんかあばらやじゃけんど唐芋飯ゃ粟ん飯黄金飯はよ ショウカイナ嫁ごん紅( )な誰がくれた唇( )つけたならあったかろ(以下略) 三番四番は、唐ゆきさんとして悲惨な生涯を送ったこの地方の女性の悲哀をうたったものである。 作者の宮崎康平は、大正六年島原市生まれ。本名は一章。早稲田大学文学部卒。在学中東宝文芸課に入社、文芸・演劇活動を行った。昭和十五年長兄の死により島原に帰り、家業の南旺土木社長・島原鉄道取締役として経済的手腕を発揮する傍ら、九州文学同人としても活躍したj昭和二十五年過労がもとで失明、続いて乳呑児を残して妻に逃げられる等の不幸もあったが、その中発表した『まぼろしの耶時台国」によって新婦人和子氏と共に、第一回吉川英治賞受賞した。(講談社版『日本近代文学人字典』)島原の子守唄が作られた時期は明確ではないか、昭和三十九年九月長崎市勝山小学校で開催された「第三回「九州のうたごえ」島原地区有志が、混声合唱で「島原の子守唄」をを歌っているので、昭和二十五年から三十年にかけて、彼の家庭的不遇の時代の作と考えるのが妥当であろう。(彼自身は戦中の作といっているが、そのことについては後述する) 昭和三十二年早大時代の友人森繁久弥か舞台劇、「風説三十年」の中でこの唄を歌い、昭和三十三年島倉千代子子の歌でレコード化。昭和三十五年、六年頃西日本新聞社主催十全九州民謡コンクール人気投票で第一位を獲得、一躍脚光を浴びた。もっとも、この投票には大々的な集票工作が行われたといわれている。
2022年03月19日
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山梨の縁故節 島原の子守歌ルポライターますやま栄一氏の調査『中央線』第二十四号 この唄が電波にのる様になってから、これを聞いた山梨県人は、「縁故節」との類似に驚き、直接あるいは間接に両者の関係の糾明に間心が持たれた。 このことについて、昭和五十四年八月二十八日付、石川某(山梨県人)宛宮崎康平宛の書簡(以下宮崎書簡という)があり、氏自身の見解が示されているので、それを中心に考察を加えたいと思う。 宮崎書簡は、「文芸春秋」昭和五十四年九月号誌上に掲載された、当時のNHK会良坂本良一氏の随筆「オロロンバイ」に対する、石川某氏の疑問に答えたものである。 坂本会長の「オロロンパイ」は、同氏がソヴィェトを訪問した際ヽモスクワでの歓迎レセプションの席上で、随員の歌田氏が「島原の子守唄」を歌ったところ、歌詞の中のオロロンバイは、ソ連領コーカサス地方ては揺り篭を意味するところから、子守唄と揺り竜の間連の不思議さに喝采を博したというものである。その随筆の中で、坂本会長が、島原の子守唄を友人宮崎康平作詞作曲(坂本会長と宮崎氏は早稲田の学友)と紹介したことに対して、「島原の子守唄」を古い伝承民謡と理解し、「縁故節」との酷似を不思議に思っていた石川某氏は、そのことを坂本会長に手紙(昭和五十四年八月十四日付)で質問した坂本会長は石川氏の手紙をコビーして宮崎康平に転送したので、宮崎氏から直接返答が石川氏宛に寄せられたものである。 書簡は長文であるが、主眼は「島原の子守唄の著作権を防衛することにあり、その為の強弁である。 まず「縁故節」と「島原の子守唄」の前半(ションガイナまで)のメロディ-がほとんど同じであることを認め、その理由として戦時中に「ショウカイナ」までの部分を宮崎氏が作詞・作曲し、それが九州で流行したこと、大村の第二第二航空隊の仕事をしていた山梨県人の石工(宮崎氏の会社の使用人)が、戦後その曲を持ち帰り「縁故節」の歌詞で歌ったのが「縁故節」であるとし、「縁故節」には戦前歌詞はあったが曲はなかったとしている。 「縁故節」に対する認識不足も甚だしいといわれなければならないが、それ程までに強弁をしなければならない理由は、「島原の子守唄」の前半と「縁故節」とのメロディーの酷似が、偶然の一致とは到底考えられず、もし「縁故節の曲が以前から存在したとすれば、「島原の子守唄」のオリジナリティーが疑われるからである。 事実は宮崎氏の言い分とはまったく逆で、戦時中から戦後にかけて「縁故節」のメロディ-(歌詞は替え歌)が九州各地で歌われており、本籍不明のこのメロディ-に目をつけた宮崎氏が若干の手直しを杣えて出来たのが「島原の子守唄である。宮崎氏は 囃詞「しょうかいな」は 「なるほど」 「もっとも」 という意味の 「そうかいな」 を、幼児が 「しょうかいな」 というのをとったと説明し、宮崎氏の作った唄が流行し始めた頃意味のわからない人達が「ションガイナ」と歌ったものだといっている。そして、古い記録に残っている「縁故節」の末尾には「ションガイナ」はついていなかったのではないか、といっている。これも認識不足で、「縁故節」の「ションガイナ」は元唄の「エグェグ節」の囃詞をそのままうけついだものである。 古い記録とは何を指すのか判らないが、昭和十一年刊、椎橋好の『甲斐民謡採集』には、「ションガイナ」がついている。 「縁故節」の「ションガイナ」の意味は、宮崎氏の「ションガイナ」とは違ってもっと複雑だが、はじめ意味の判らない人連が「シヨンガイナ」と歌ったというのは、それこそ「縁故節」であった証左ではないか。 このほか、終戦前後から昭和二十五、六年頃にかけて、筑前大島とその対岸七浦一帯で、「縁故節」のメロディーが歌われたことは、北九州市の高校教諭吉田信敬氏も先に報告された。(昭和五十六年八月十六日付毎日新聞紙上)この件については昭杣五十七年七月、筆者は植松和一氏に同行して現地に赴き確認のため調査を行った結果、大島村、津屋崎町、飯塚市等で多くの証言を得た。 また、ルポライターますやま栄一氏の調査によれば、宮崎氏の主張する「島原の子守唄」の本唄なるものがどこにも存在せず、逆に「縁故節」との関連が濃厚になったと報告されている。(『中央線』第二十四号)「島原の子守唄」の、曲としての構成をみると、第一句「おどみゃ島原の」から「シュンガイナ」までのメロディーを中心とした前半部と、「はよ寝ろ泣かんでオロロンバイ」から最後までの語りの部分との二つから成り立っている。これは「島原の子守唄」より数年前に流行した「五木の木の子守唄」の構成を逆にしたものである。「五木の子守唄は、オロロンバイ、コロロンバイ」という前置きのあやし詞を反復したり、あるいは「オロロンコロロン婆の孫、婆は居られん爺の孫云々」の語りの部分の後にメロディーが続く。 「島原の子守唄」は、はじめに「縁故節」のメロディーをそのまま利用し、後半に語りをおいて、「オロロンバイ」(天草の福連木地方や「五木の子守唄」のあやし詞を利用した。もちろん、唄はメロディーが主体であるべきであって、その意味から「島原の子守唄」は「縁故節」を元唄として、島原地方の方言で粉飾したものである。 この様な主張に対して、民謡は所かまわず流れ歩いて、どこでどの様に利用されようと、とやかく云うべきではないという意見がある。そのこと自体はそれで正しい。民謡は本来浮気者で所かまわずとび歩き、野合も敢えて辞さない。 その様な例証は枚挙にいとまがない。しかし、それだからこそ、民謡が民謡であるためには郷土性をもち、地域に愛されなければならない。「島原の子守唄」は、はじめ民謡としての戸籍を主張した様である。方言をふんだんに使って地域性を強調しながら、しかも、地元の観光協会や旅館組合からボィコットされた模様が、宮崎氏白自身によって述懐されている。(熊本日日新聞社編『新日本風上記(九州編二)』昭和四十八年昭和書院刊) まして、他国の民謡のメロディーをそのまま借用しながら、そのことを糊塗して著作権をとるに至っては作家としてのモラルに拘わる問題である。 次に、「縁故節」の日野原(明治七年日野春と改称、現長坂町富岡)開拓者招来説がある。これは郷上関係の出版物に多くみられるもので、管見によれば、昭和四十四年刊池田光一郎者『地蔵ケ嶽』から、昭和五十八年刊古文書研究会編『各駅停車』にいたるまで、その数は七件をかぞえる。 その説によれば、明治六年藤村県令(当時は権令)の下で、権参事富岡敬明が計画した日野原開拓の際、開墾のための労働力として、富岡敬明の郷里佐賀の士族の子弟五十人を投入したので、彼らによって島原地方の子守唄がもち込まれ、これが「縁故節」のもととなったとするものである。この説は一見もっともらしくみえるがヽ事実はまったく根拠のないものである。 その理由は、第一に、日野原開拓に当って佐賀の士族の子弟を、労働力として投入した事実はなく、佐賀士族入植の事実もない。そのことは、県立図書館編『山梨県史』第三巻の明治六年、明治七年の項、ならびに、昭和四十七年二月県農務部耕地課編『山梨県の上地改良史』日野春開拓の項に明らかである。 それによれば、開拓は付近の農民の力によったものであり、特に士族の入植については、『山梨県史』明治七年政治上開拓の部に、明治七年六月二十七日付け内務卿大久保利通宛、権令藤村紫朗代理山梨県参事富岡敬明の稟議書の末尾に 日野原に家政奉還の士族の移住をすすめたが、希望者皆無であったことが報告され それに対して、同年十一月十八日付け内務卿伊藤博文名をもって、士族の入植者のないことを認めた上で、開拓地を官有地とし、漸次民間へ払い下げるよう指令が出されている。 県はこれに先だって同年七月二十九日付け、「日野原新墾地移住規則」を布達した。その結果、移住希望者四十余名、養蚕伝習生二十一名に連したが、いずれも近村の農家の出身者であった。 また、富岡の開拓神社境内にある日野原碑の裏面に刻まれた氏名も、すべて近村の人々の氏名である。 理由の第二は、佐賀県士族が招来したという「縁故節」の元唄と考えられるような子守唄は、島原地方には存在しない。このことは前掲のルポライターますやま栄一氏の調査によっても明らかである。以上、「縁故節」の元唄を日野春の開拓者が伝えたという説は、まったく事実無根であることが理解いただけたと思うが、このような説が、何故山梨県人によって唱えられたのであろうか いうところの「文化に対するいわれなきコンプレックス」によるものであろうか。郷土尺民謡を愛さない県民性によるものであろうか。 この項「縁故節」ついて資料は収集中で、今後公開していきます。 前号で紹介した手塚洋一先生と郷土の本を創っておられる『山梨ふるさと文庫」の紹介を先にさせていただきます。 山梨県の民謡界の第一人者である手塚洋一先生が上記の件について具体的に見解を示してそれを掲載(前号紹介)している本がある。それは地域の歴史などを独特の視点で切り込んでいる「山梨ふるさと文庫」から発刊されている『山梨の民謡』である。私の手元には「山梨ふるさと文庫」の刊行本が多数あり、最近も東京の同級生が欲しいというので、書店を探して該当する本を贈ったら大変喜んでいた。今後もどんな本が発刊されるか楽しみにしているとともに今後の活躍を期待したい。 手塚先生は、『山梨の民謡』の紹介によると、大正9年(1920)岡山県和気郡山田村(現佐伯町)に生まれ、関谷中学校を卒業し立正大学・東洋大学を経て、長野県、山梨県で中学・高校・特殊学級で教職に就く。 その著書は"『郷土史指導資料』 "『郷土史事典 山梨』 "『山梨県知名大辞典』 "『六郷町誌』 "『上九一色村誌』 の多数に及んでいます。また先生は私の住む北杜市を代表する郷土研究者です。 また、山梨県教育委員会発行の『山梨県の民謡』(昭和58年)は詳細のわたって山梨県の民謡を採録してある好著で、この編著も先生の手によるものです。この本には多数の珍しい山梨の民謡や歌謡が 採録されているので、いずれ紹介していきたい。 ……郷土を知る意味でも………… 『山梨の民謡』 42頁 11、縁故節 縁で添うとも 縁でそうとも 柳沢いやだヨ (アリャセ- コリャセ-) 女が木をきる 女が木をきる 茅を刈る ションガイナ- (アリャセ- コリャセ-) 河鹿ほろほろ 釜無下りゃヨ 鐘が鳴ります 七里岩 縁の切れ目に このぼこできたヨ この子いなぼこ 縁つなぎ 縁でありゃ添う なければ添わぬ みんな出雲の 神まかせ 駒の深山で炭焼く主は 今朝も無事だと 白煙 来たら寄っとくれんけ あばら家だけんど ぬるいお茶でも 熱くする。 (注解は省略) 筆註… 植松逸聖翁の「縁故節」と「島原の子守唄」については同じ『中央線』に次の筆著が見える。 ますやま栄一氏著 「著作権侵害騒動の渦中で遂に露呈された事実」 『中央線』第24号 植松逸聖氏著 「縁故節四方山話」 「島原の子守唄は縁故節の盗作」(1)(次々回提示) 「島原の子守唄は縁故節の盗作」(2)(次々回提示) 「島原の子守唄は縁故節の盗作」(3) 「島原の子守唄は縁故節の盗作」(4) 「島原の子守唄」は、盲目の作家宮崎康平氏によって作られた歌謡曲である。歌詞は次の通り。 おどみゃ 島原の おどみゃ 島原の ナシの木育ちよ 何のナシやら 何のナシやら 色気ナシばよ ショウカイナ はよ寝ろ泣かんで オロロンバイ 鬼の池ん久助どんの (鬼ーおん) 連れんこらるバイ 帰りにゃ寄っちょくれんけ あばらやじゃけんど 唐芋飯ゃ粟ん飯 (唐芋飯ーといもめし) 黄金飯ばよ ショウカイナ 嫁ごん紅な誰がくれた (紅ーべん) 唇つけたならあったかろ(以下略) 唇 つば 3番4番は唐ゆきさんとして悲惨な生涯を送ったこの地方の女性の悲哀をうたったものである。 《筆註》 島原の子守唄の変遷 私の手元に一冊の本がある。それは昭和44年に発行された「郷土資料事典」『長崎県・観光の旅』がそれである。 からゆきさんと島原の子守唄 現在の島原の子守唄(HP) おどみゃ島原の おどみゃ島原の 梨の木育ちよ 何のなしやら なんのなしやら 色気なしばよ しょうかいな はよ寝ろ 泣かんで おろろんばい 鬼の池ん久助どんの 連れんこらるばい 2 帰りにゃ寄っちょくれんけ 帰りにゃ寄っちょくれんけ あばら家じゃけんど 唐芋飯や 粟ん飯 唐芋飯や 粟ん飯 黄金飯ばよ しょうかいな おろろんおろろん おろろんばい おろろんおろろん おろろんばい 3 山ん家はかん火事げなばい 山ん家はかん火事げなばい サンパン船はよろん人 (以後不明) 姉しゃんなにぎん飯で 姉しゃんなにぎん飯で 船ん底ばよ しょうかいな 泣く子はガネかむ おろろんばい アメガタこうて ひっぱらしゅう4、姉しゃんなどけいたろうかい 姉しゃんなどけいたろうかい 青煙突のバッタンフル 唐はどこんねき 唐はどこんねき 海のはてばよ しょうかいな はよ寝ろ 泣かんで おろろんばい おろろんおろろん おろろんばい5、あん人たちゃ二つも あん人たちゃ二つも 金の指輪はめとらす 金はどこ金 金はどこ金 唐金げなばい しょうかいな 嫁ごんべんな だがくれた つばつけたら あったかろ6、沖の不知火 沖の不知火 燃えては消える バテレン祭りの バテレン祭りの 笛や太鼓も鳴りやんだ おろろんおろろん おろろんばい おろろんおろろん おろろんばい 『長崎県・観光の旅』1 あねしゃんな どけ行たろうかい あねしゃんな どけ行たろうかい 青煙突のバッタンフル 唐は 何処んねけ 唐は 何処んねけ 海の涯ばよ ショウかいな 泣くもんな がねんかむ おろろんばい 飴型こうて引っぱらしょ2 おどうみゃ島原の おどうみゃ島原の 梨の木育ちよ なんの梨やら なんの梨やら 色気なしばよ ショウかいな はよ寝ろ泣かんで オロロンバイ 鬼の池の久助どんな 両唄を比べてみれば一目瞭然であるが、『長崎県・観光と旅』から大幅な改編があったことが分かる。特に一番の歌詞は数行を残してほとんど消失してしまっている。私には音楽や民謡のことはわからないけれども、現在の『島原の子守唄』は度重なるレコ-ド化を経て精練されていったのかも知れない。これは資料が集まればその過程が解明できる。ここで、これまでの経過を一度年表形式で整理してみる。◎印 山梨県側 ・「縁故節」○印 宮崎康平氏・「島原の子守唄」○宮崎康平氏生まれる。大正 3年(1914) 長崎県島原に生まれる。 大正13年(1924) 韮崎の有志によって、登山基地として観光開発しようという目的をもって、白鳳会が結成された。 縁故節は白鳳会の宣伝のために、前記3名の方々と土地の芸妓たちによって、従来から峡北地方で歌われていた作業唄「エグエグ節」を編曲してつくられたものである。昭和 3年(1928) 9月8日 東京中央放送局(現NHK)から、放送事業開始3周年記念番組民謡の部に山梨県代表として「縁故節」が選ばれ、地元韮崎町の人々によって全国放送された。 昭和10年(1935)11月20日 再び東京中央放送局から放送された。昭和12年の暮れ甲府放送局開局記念として「縁故節」が全国放送された。○宮崎康平氏昭和15年(1940) 早稲田大学卒業。長兄の死により長崎に戻り土木業社長・島原鉄道取締役に就任する。○宮崎康平氏昭和25年(1950)~昭和30年(1955) この間に宮崎康平氏「島原の子守唄」を製作。 (手塚洋一先生談) 失明。離婚。○島原の子守唄昭和30年(1960)9月、長崎市勝山小学校で開催された第3回「九州のうたごえ」に島原地区有志が、混成合唱で「島原の子守唄」を歌っている○島原の子守唄昭和32年(1957) 森繁久弥が舞台「風雪30年」の中で歌う。○島原の子守唄昭和33年(1958) 島倉千代子の歌でレコ-ド化。○島原の子守唄昭和35年(1960) ~36年(1961)頃、西日本新聞主催全九州民謡コンク-ル人気投票で第一位を獲得、一躍脚光を浴びた。○宮崎康平氏昭和42年(1967) 『まぼろしの邪馬台国』出版。 著の中で「島原の子守唄」の製作に触れる。○島原の子守唄昭和44年(1968) 「郷土資料事典」『長崎県・観光の旅』に「島原の子守唄」が掲載される。(前述)◎植松逸聖(和一)氏昭和47年(1972) 「縁故節四方山話』で「島原の子守唄」は「縁故節」の盗作と発表。◎石川某氏(山梨県人)昭和54年(1979) 8月14日、「縁故節」と「島原の子守唄」の類似性について、NHK会長坂本朝一氏に手紙で質問する。○NHK会長坂本朝一氏昭和54年(1979)9月『文芸春秋』に随筆「オロロンバイ」が掲載にされる。昭和54年(1979)8月28日 「縁故節」と「島原の子守唄」の類似性について、NHK会長坂本朝一氏に手紙で質問したものを、NHK会長坂本朝一氏が質問の手紙を宮崎氏に転送しそれに答える「宮崎康平氏書簡」●宮崎康平氏昭和55年(1980) 宮崎康平氏、卒。 ここまでで、一目瞭然としているのは、その創作年次かいっても「縁故節」が「島原の子守唄」を模倣することはないということは誰でもわかることである。 これについての資料はあと二編提示するが、年表でわかるように、戦争時の空白が大きな鍵を握っていると考えられる。この期間は日本列島が民謡などに浮かれている時代ではなかったはずである。ましてや長崎は軍港として役割もあり、人の出入りも激しかった。長崎の人と山梨の人が同じ部隊に居た可能性も十分に考えられる。宮崎耕平氏も大学を出て間もないこの時期、兵役にはつかなかったのだろか。 私は民謡の類似性や宮崎康平氏の功績についてどうこういうつもりはまったくない。小さな山梨県の誇りでもある「縁故節」が長崎の「島原の子守唄」に変わっていっても、それは好ましいことであるが、最近山梨からもそれぞれの目的で長崎を訪れる人が多くなっている。「島原の子守唄」を聞いても「縁故節」との類似性に気がつくことは少なくなってきていると思われる。それは長崎の人々のようにひたすら「島原の子守唄」愛し親しみ愛唱するような風潮は山梨には見られない。 そうした中で「縁故節」に地域復興をかけた山梨県人が居たことを理解していただきたい。先人の努力と「縁故節」のためにこの記事を掲載している。 最近山梨では年配者はともかく、地域の人さえ「縁故節」を忘失している。例え経緯がどうであっても、同じメロデイ-がこの日本に存続していることはうれしい限りであり、これが民謡の原点なのかも知れない。 ________________________________________
2022年03月19日
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白州に来ていた白洲次郎氏・白洲正子さん戦後の日本の憲法の骨格を作った白洲次郎、正子がテレビで話題になっていますが、実はその白洲次郎、正子は戦後頻繁に白州の当時村長であった古屋五郎さんのところに通っていました。そのような歴史を持っています。一方古屋五郎さんはそういう人達の力を借り、南アルプスのこちら側は開発を許さなかったことが今日の北杜のミネラルウォーターを守ることに繋がっています。
2022年03月19日
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ジーボルト 小倉から下関への渡航と下関滞在★ 二月二十二日 ★ 『シーボルト 江戸参府紀行』 初版第1刷発行 1979年7月15日 訳者 斎藤 信 さいとう まこと 東洋文庫87 発行者 下中邦彦 株式会社平凡社 斎藤 信氏略歴 明治44年東京都生。 東京大学文学郁枝文科卒(昭12)。 名古屋市立大学名誉教授。 現職(著 当時) 名古屋保健衛生大学教授。蘭学資料研究会会員。 専攻 ドイツ語。オランダ語発達史。 主著『Deutsch fUr Studenten』。 主論文「稲村三伯研究」など。 一部加筆 山梨県歴史文学館 概要 ……渡航……小倉出発……小さい内裏(だいり)の町を望む眺め……ファン・デン・ベルヒ宅におけるオランダ流の夜会。 彼の骨董品を納めた部屋……早鞘崎への渡航 ……水語学上の調査……与次兵衛の岩上の記念碑……下関到着と歓迎……医師行斎としての……天産物の贈物・平家ガュ・カニの目・ホウキタケ・下関の経度および緯度……阿弥陀寺……平家好歴史的な記念物……大年寄……壇ノ浦への遠足……日本人とそのこだわらぬ性質……学位論文と免許状-竹崎と……竹崎と今村への遠足……水路学上の測量……捕鯨に関する報告……参府旅行用の船……府中の侍医……新しい薬剤とコーヒーの推薦……下関との別れ……リッテル・J・C・ロムホフと中津侯。……下関を望む景色……同市についての記述 ★ 二月二十二日 ★ 志井川(しいがわ)の河口は砂で浅くなっているので、小さい舟しかはいれない。小倉の近くに出入りできるのは、満潮の時だけである。今日、二月二二日は二時過ぎに満潮となる。それゆえわれわれはふ正午ごろ宿を出て、従者とともに藩主の数人の家来や宿の主人の案内で港に向かった。 内裡港には何隻かの小さい舟がわれわれのために用意してあった。 好天に恵まれて、われわれは小倉から下関まで三里の距離を数時間かかってまっすぐに渡った。風が強い時には小倉から東へ二里離れた海辺の内裡〔いまは大里と書く、門司駅付近〕という小さい町からもっと近距離で楽な渡航をえらぶ。赤坂村、新町などの漁村を通りそこまで松並木が続いていて……たいへん心地よい散歩が楽しめる。コック・ブロムホフも一八一八年に散策を試み……内裡付近の小倉藩主の別荘に泊まり、旅の仲間と酒を汲み交わして談笑した。 内裡という小さい町は、本来天皇の宮殿を表す名前で、歴史上のひとつの事件によっている。それは一一八五〔寿永四〕年に起こったことで、この小倉や下関地方を有名にした。それでオランダの使節も普通は内裡を訪れ、その機会を利用して日本人の同伴者をこの名高い場所でもてなした。 日本人は自分の祖国に対しては感激家で、先祖の偉業を誇りとしている。教養ある人も普通の人も天皇の古い皇統に対し限りない愛着を抱き、古い信仰や風俗習慣を重んじる。それゆえ外国人が、日本人の民族性に追従し、彼らの宗教や風俗習慣を尊重し、そして原始時代の伝説や神として崇められた英雄の賛美に好意をもって耳をかたむけるのは、非常に結構なことである。 日本人のこうした弱点を昔のオランダ人はたいへんよく知っていて、それを利用することを心得ていた。また最近ではH・ヅーフやJ・C・ブロムホフが行なった貿易の保護は、こういう簡単なやり方でわれわれの使節ドゥ・スチュルレル大佐は異なった主義で行動したので、今度は日本人の同伴者には味気ない渡航であった。 すでに出島を立つ前に、私は日本の地図や旅行案内書によって九州を日本〔本州のこと〕から隔てている海峡の略図を描いておいた。地理学並びに航海にとって同様に重要な、今日までほとんど知られていない海峡を、渡る時に調査しようという計画だったのである。これが私の今日の課題であった。日本人同伴者の好意、下関の友人の協力、ことに忘れえぬ庇護者、幕府の天文方高橋作左衛門のおかげでいくつかの水路の測量を行ない、詳細な地図を明らかにすることができた。これは二世紀以上も前からヨーロッパ人が訪れた日本列島のこの場所について、われわれが手に入れた最初の報告である。この海峡の眺望は第一〇図に示す。ビュルガー君と私は、舟の前部に席を占めていた通詞や役人たちの仲間に加わった。通詞たちは、われわれがコンパスや深度測定の錘(おもり)を使って観察をしようとしているのを非常によく知っていたが、職務上われわれの作業について尋ねた給人に対しては、全然知らないふりをし、こういうことはわれわれの方の悪意のない物好きだと説明した。給人もまたわれわれの行為を了解したが、この返答に満足し、それで彼は先の審問をしなくてすんだ。 国土の調査、国家、宗教制度、軍備、その他政治的関係や施設に関する研究は、外国人に対しては非常にきびしく禁じられている。 国民に対し非常に厳しいびしい法律があって、外国人にそれらの事を知らせたり、また何らかの方法で外国人がそれらを調査する場合に、力を貸すことをきびしく禁じている。江戸参府旅行中の日本人同行者は、かかる指示によって詳しく監視するよう誓いを立てて校務を負わされている。そして彼らは厳密に考えて文字どおり一歩でも法律の限界を乗り越えることをわれわれに許さないし、彼ら自身の生命をかけるのでなければ、またそうはできないのである。けれども教養あるヨーロッパ人との接触によって彼らの政治的見解の範囲なひろげ、そしてこのような備えの偏狭さを、自分らの政府の側からよく察知していたこれらの人々は、たいていの場合に単に法律の形式を守り、出来得る限りわれわれを寛大に取り扱う。こういう寛大さがなければ、外国人には日本における学問的探求は全く不可能であろう。なぜなら厳密にいうと、外国人には国土や国民との接触は禁止されているからである。その間にも給人は彼の義務を遂行した。そして仲間の説明は彼に満足を与えたし、また彼を安心させるのに役立った。 ‘ そうこうするうちに我々は志井川の河口に半円形に広がっている浅瀬は所々で水深一尋(ひろ)を示した。さらに海峡へ舟がはいると、三、五、七から八尋となった。いま我々は小倉と引島の間の水路のほぼ真ん中に達し、下関の東南端を認めた。われわれはその東南の端を引島の東南端から北二二度と測定した。 与次兵衛記念碑西には小倉の下手にある洞の島(Kukinosima)の北端がある。貴船岬に沿って岩礁があり、われわれの前方半海里隔てて、与次兵衛瀬)という岩があり、与次兵衛の名をいつまでも伝える記念碑が立っている。ここを渡るときに有名な太閤秀吉を危険にさらした船頭の名で、彼は腹掻ききって自害したので当然の罰を免れた。過失を犯した後、勇気をもってただちに敢行した自発的な死に方は、日本人の目には重罪を償い過失を犯した者に恥の代りに名誉をもたらす。突風が吹いてわれわれの舟をその岩に近づけた。多くはカモメやウミウ(海鵜)などのたくさんの海鳥が、ちょうど黒雲で影となり、泡立って岩にくだける波間から突き出た岩上の記念碑の周りに群がっていた。とくにここにときどき気高い知人の霊が現われるという伝説がからんで恐ろしい光景を呈する。 記念碑そのものは非常に簡素である。切り立った岩の真ん中に立っている約二メートル五〇の高さの四角い柱で、四面からなるピラミッド形の飾り屋根があって、碑銘はない。手漕ぎの、たいてい小さい舟は、与次兵衛瀬を右手にみて、藪の密生した低い舟鳥'(Funasima 。厳流島 ganrlujlmaともいう)に寄港する。この航路は三尋以上の水深はない。そして舟鳥の近くはほとんど一尋(ひろ)である。 南の瀬戸与次兵衛瀬と内陸の間の海峡はもっと深く、六ないし八尋ある。大きい船はこの水路を進み、干潮時には北北東、満潮時には反対の方向に進む潮流で舟を流す。与次兵衛瀬の下手の、内裡の町と貴船岬の間では、海峡は最も狭く、幅一海里以上はない。われわれはこれを南の瀬戸と呼びたい。というのはあとでわかることだが、この海峡にはもうひとつの、引鳥の北端と下関の下手の小門鼻岬(wotuhana)の間に第二の出口がある。この北の瀬戸は、日本の地図には小瀬(koseto)という名でみえているが、小さい海峡という意味である。それは(幅が約一一四メートル有るか無しの)海峡で、ただ小さい舟が通るのによい。またそこは海流が強く、引島のヒシディエ(Hisidie)海岸は岩礁が多いから、航行はいっそう危険である。 豊前・長門・下関 小さい舟島の側を通り過ぎると、視界が拓け、豊前〔福岡県の一部〕の海岸は長門〔山口県の一部〕の海岸や引島といわばひとつになって、すばらしいパノラマを見せる。北には気持のよい港町下関が寺院のだくさんある岡と共に展開し、早鞘の前山が海峡の入口を示している東北方には和布刈の社の赤くぬられた屋根が輝いてみえる。階段状をなして内裡山まで登ってゆく東部の海岸を美しい村と幾軒かの漁師の家が飾り、西の方には引島の裂け目のある岩の海岸が、長門地方の青い山々を背景にして浮かび、視界を遮っている。周回には丘陵や山腹の段丘状に開墾された平地が古い文化の特色を帯び、白や青い条をなした帆とたくさんの漁船は広い入り海の鏡のような海面に活気を与えている。「カジン・ヨシ」という日本の船歌の元気のよい繰返しが遠く近く響き、われわれの船頭もこれに声を合わせた。その時東北ないしは北方にある阿弥陀寺のにぶい鐘の音が響いて来る……-第四番目の日本の時間(午後二時)〔午後二時は昼の八ツに当たる〕を打っている。あと幾漕ぎかである。すると海峡の入口がひらけて、満株と干珠というふたつの小さい島がいわば水先案内人としてその入口を指示している。……二世紀以上の間この海峡は、江戸旅行のたびに船で、渡ったオランダ人たちに注意されずにいた。しかし今からは、この海峡は彼らにとってひとつの記念碑となるはずである。そして数世紀にわたり「ファン・デル・カベレン海峡である」という呼び声が切り立った岩に響くことを望む。今や我々の眼前にある港町下関にすべての注意が向けられた。マストの群れが日本船の停泊地を示し、一方海岸通りの高い台地の近くに掲げられたオランダの旗は、ここの市長がオランダ人を手厚く自分の家に招待しようとして、蘭人と親しい他の友人といっしょに待っている場所を、使節の一行に示していた。使節の下関滞在中、彼はふたりの大年寄のうちの一方の家に泊まるのであって、両家は交互にその栄誉をわけ合うのである。今度はわれわれは佐甲様(sahousama)方に泊まった。同家の広々とした宿舎は、われわれが上陸した海岸通りのすぐ近くの、南部町にある。われわれはその家の主人や家族たちに心から迎えられ都合よく宿泊できた。われわれが到着すると、まもなくもうひとりの市長が使節のもとに来て挨拶したが、この人はオランダ人の熱烈な愛好者であって、彼はこういうものだとすぐに名刺を通じて名乗り出た。愛好者というのは、名刺にファン・デン・ベルヒと書いてあったからである。
2022年03月18日
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シーボルトの門人★シーボルト(1796~1869) 一八二三~一八二九・一八五九年九日日本在留。呉秀三博士『シーボルト先生生涯及功業」に、門下生五七、交際の深かった人十四、知遇を得た諸侯六名、再渡来の時面会して益を求めた人一三名を挙げている。これ等の人々は当時及び後世に影響を及ぼし蘭学者であるから、呉博士の著よりその人名を抄出する。 ★吉雄幸載 通詞 1788~1866 ★楢林栄建 通詞 1801~1875 ★楢林宗健 通詞 1802~1852 ★湊 長安 江戸、丹波篠山藩 ~1836 ★岡 泰安 京都、岩国藩侍医 1796~1856★美馬順三 阿波、長崎で客死 1795~1825 ★岡 研介 大阪、 1799~1839★二宮敬作伊予宇和島 1804~1862★三瀬周三 伊予宇和島 1839~1877 ★高良斎 阿波徳島 1799~1846 ★山口行斎 出羽庄内 1785~1832 ★高野長英 陸奥水沢 1804~1850★小関三英 出羽庄内 1774~1839 ★日高凉台 安芸新定 1797~1868 ★戸塚静海 遠江掛川、幕医 1799~1876★戸塚静甫 静海養子 幕医 1824~1849★伊藤玄朴 肥前、幕医 1800~1871★伊藤貫斎 武蔵、玄朴養子 1826~1893 ★大石良英 灘崎、佐賀藩 ~1865 ★大庭雪斎 佐賀藩 ★竹内玄同 加賀大聖寺、幕医 1795~1880 ★青木周弼 周防、長州藩 1808~1868 ★青木研蔵 長州藩、外務大臣 1813~1868★黒川良安 富山藩、金沢藩 1817~1890 ★石坂桑亀 美作、足守藩 1788~1851★石井宗謙美作、勝山居、幕医 1796~1861 ★日野鼎哉 豊後、京都 1797~1850 ★高橋春圃 肥後、1805~1868 ★高橋正純 春圃男、熊本藩 1833~1891 ★幡崎 鼎 水戸藩 1807~1842 ★本間玄調 常陸、江戸 1804~1872 ★伊藤圭介 名古屋、幕医 1803~1901★大河内存真 名古屋藩 1796~1883 ★賀来佐一郎 豊後、島原藩 1899~1857 ★児玉順蔵 備前、岡山藩 1806~1861 ★武谷元立 筑前、福岡藩 1785~1852★百武万里 筑前 1794~1854★原田種彦 筑前 1784~1871 ★河野禎造 筑前 1817~1871 ★有吉周平 筑前 ★工藤謙同 豊後、久留米 1801~1861 ★西道 朴 安芸草津 1760~1832 ★水野玄鳳 備後下徳倉 1794~1863 ★柏原兼好 讃岐、高松藩 1808~1873 ★森田千庵 越後加茂 1798~1857 ★大塚同庵 江戸 1795~1855 ★伊藤昇迪 出羽米沢 1804~1886
2022年03月18日
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シーボルト yahoo
2022年03月18日
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シーボルトの生涯(しょうがい) - 長崎市
2022年03月18日
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2022年03月17日
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2022年03月17日
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歴史 貴重資料 図版
2022年03月15日
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『シーボルト 江戸参府紀行』 二月二二日 〔旧一月十六日〕 初版第1刷発行 1979年7月15日 訳者 斎藤 信 さいとう まこと 東洋文庫87 発行者 下中邦彦 株式会社平凡社 斎藤 信氏略歴 明治44年東京都生。 東京大学文学郁枝文科卒(昭12)。 名古屋市立大学名誉教授。 現職(著 当時) 名古屋保健衛生大学教授。蘭学資料研究会会員。 専攻 ドイツ語。オランダ語発達史。 主著『DEUTSCH FUR STUDENTEN』。 主論文「稲村三伯研究」など。 一部加筆 山梨県歴史文学館 二月二二日 〔旧一月十六日〕 鶴・黒鶴・貝・引島 この町で産物を捜し出すことを頼まれていた門人や従者たちは、市場や魚類・獣肉などを売る人々のところで、ツル・ノガモ・フクロウ・アトリ・シジュウカラ・魚類や食用になる貝などを手に入れて持って来た。その中には普通のツルや大ヅル、それから当時まだ私の知らない種類で日本人がクロツルと呼んでいたものもあぅた。ツルは日本ではたいそう冷泉され、しばしば絵画や花瓶や神事の道具に幸運の象徴として描かれている。ツルを捕ることは元来将軍や大名たちに残しておかれたもので、彼らは特別の猟区で鷹を使ったり弓を用いたりして行なった。将軍は毎年必ず自分で捕ったツルを天皇に献上することは古くからのしきたりで、歴史家や歌人によって長く伝えられている。それにしても猟の禁止は将軍の居城から遠く離れた地方では、非常に厳しく守られているものではない。ツルの肉はたいへん需要の多いもので、大きな宴会ではそれで吸物を作り、肉は煮て食べる。……魚脂のような味のする料理で、この国の人々にはよりぬきの御馳走と思われているが、ヨーロッパ人の口には合わない。そんなわけでツルはたいそう高価で、一羽一二ないし二〇グルデンもする。だから読者は、私か毛をとったやせたツルを贈物として与えた時に、上検使や通詞を驚かせてどんなに愉快だったかを、容易に御想像いただけるだろう。ほかの鳥の中には美しくて珍しいカモ・ウラルフクロウ・カンムリカイツブリがあった。この土地では食用のハマグリ(蛤)のほかにマデガイという一種のナイフの鞘の形の貝が市場に出ていた。 引島(彦島)・六連諸島・男島・女島・紫川 正午ごろ、われわれは街を通って散歩し前日渡って来た橋の上で何度かコンパス測量を行なった。これは九州をほぼ〔本州〕から隔てている海峡の西にひろがる引島〔現今では彦島という〕や、今いくつかの小島や岩礁の位置を決定するためである。この橋の上からは上述の海峡を望む広々とした銀色が開けている。われわれの前方右手、北北東には引島があり、その背後には日本〔本州〕の長門の高地がそびえていた。左手の北北西には六連諸島、北西には男島、女島があって、これは二島(Futasima)とも呼ばれる。すなわち双子の島という意味である。橋の下を流れる川は、この河口のあたりでは南から北へ流れでいる。小倉の住民はこの川を原本川、紫川と呼んでいる。けれども日本の地図ではこの川は蒲生川(Kamogawa)志井川(Siwagawa)となっている〔現在では紫川という〕。この名称は江戸の天文方の作った最新の地図にのっているから、私はあとの方の名を採ったのである。この川は河口では非常に浅く、場所によってはほとんど一フィートの深さもない。そこで最近その左岸から長さ百歩あまりの堤防を海に向かって作った。これは水の流出を延ばしそれによって砂が堆積して浅瀬となるのを除くためである。 関門海峡・城 われわれは散歩中、川向うにある藩主の城を見物しようと思って城の方へゆく道を進んだ。けれども城の白い壁と高い天守閣がやっと見えて来たころ、数人の武士が我々に向かって急いで近づいて来た。われわれに付き添ってきたふたりの町使は引き返すようにしきりにすすめた。われわれはこの町のいくつかの街筋を通ったが、ついに監視役は気軽な気持からかそれとも懸念してか、群衆もふえて来たので、宿にもどるのがよいと考えた。 城下町小倉豊前の首都でこの国を支配している藩侯の城下町小倉は、小さい志井川の両岸にあり、九州を日本〔本州〕と隔てていて、われわれがファン・デル・カペレン海峡の名でやがて知ることになる海峡〔今日の関門海峡〕の西の入口に接した入江に沿って広がっている。川の左岸にある地区は城とともに本来の古い町で、濠や堤防や城壁で平松言という郭外の町と分けられていて、長方形をなしている。旧市の南方、高い樹々の森から天守閣がそびえている城は、平地に建っていて、たびたび述べた日本の天文学者のいうところによると、北緯三三度五三分三〇秒・グリニグチ東経一三〇度五〇分にある。小倉のような軍事上の重要な地点では、城はほかの所では期待できないほど堅固であるという。また町は海に面した側は高く巨大な石垣と堤防で守られ、その上に家が建っている。海上に突き出た堤防さえ、港と海峡の西の入口を護る目的で数ヵ所に造られているのかもしれない。旧市はすでに述べた約百歩の長さの橋で、右岸にあるさらに大きい市区と結ばれている。この地区は長浜という隣接した町を含めて、海岸に沿い一里以上に広がり幅は半里を越える。ケンプㇷァーの時代には小倉の繁栄は下り坂であった。現在では町は再び活況をとりもどしている。国内貿易・商業および農業は……人口ー万六千におよぷだろう……住民の生計を豊かにしている。しかし藩の下級武士の家族や召使が住んでいる町はずれでは、裕福な暮しというのは当てはまらないように見える。それゆえ私の助力を求めてやって来たたくさんの患者は、……たいていは慢性の皮膚病・眼病であるが……瘤疾の梅毒や胸・腹部の古い疾患に起因する彼らの病状によって、われわれがこの町にはいって来た時に驚いたこぎれいな住居は、ただ貧困をかくしているに過ぎないことを打ち明けていた。 小笠原案出身の現藩主は、年収一五万石・約一八○万グルデンである。 〔訂正〕 四二ページ上段〔後から9行目〕の「……湧き出ている。」の次に「湯の中の石には同様に酸化鉄水和物が付着している。」を加える。
2022年03月13日
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『シーボルト 江戸参府紀行』 二月二一日 〔旧一月十五日〕 初版第1刷発行 1979年7月15日 訳者 斎藤 信 さいとう まこと 東洋文庫87 発行者 下中邦彦 株式会社平凡社 斎藤 信氏略歴 明治44年東京都生。 東京大学文学郁枝文科卒(昭12)。 名古屋市立大学名誉教授。 現職(著 当時) 名古屋保健衛生大学教授。蘭学資料研究会会員。 専攻 ドイツ語。オランダ語発達史。 主著『DEUTSCH FUR STUDENTEN』。 主論文「稲村三伯研究」など。 一部加筆 山梨県歴史文学館 二月二一日 〔旧一月十五日〕 黒崎・石炭・茶屋原・平松・ 木屋瀬では人々は石炭を運んでいたが、それに熱を加えるためである。直方川の右岸に連なる炭焼山で石炭が出るということを聞いた。われわれは昨夜何カ所かで煙の立ちのぼるのを見ていた。絶え間なく降り続く雨にしいられて、私は今日余儀なく駕籠の中である。 茶屋原からは海が見え、好天ならば日本〔本州のことをいう〕の長門国の高地が見える。道はここから石坂を通って山にかかり、黒崎(Kurosaki)に通じ、そこで洞鳥を望むすばらしい景色がひらける。この島は元来は高い岬であるが、東は深海という深い入江で、西は上述した芦屋川の一支流が流れていて陸地から切り離されている。筑前と豊前の国境にある清水村(きよみず)で豊前藩の数人の武士の出迎えを受け、毎度のようにわれわれを案内してくれた。境界線は街道の両側に立っているふたつの石で示されている。もう少し進んで平松(Haramats)に着いた。小倉の郭外の町で大部分は藩主の家来が住んでいた。家々は本当に好ましい外観をしていた。小さいけれども例外なく上品でこぎれいな庭があり、竹やキヅタやイトスギの生垣で囲まれていた。 どっしりとした門をくぐると小倉の町にはいるが、町は濠と銃眼のある城壁で郭外と分けられている。門の内側には番人が立ち武器や旗指し物を飾り、開いている番所には指揮官が身動きひとつせずに腰かけていた。通りには見物人がいっぱいだった。大きな秩序と行儀のよい態度、それに外国人使節の到着というよりはむしろ葬式に似つかわしいような静けさが漂っていた。われわれは大きな木の橋を渡って広場に進み、そこからほど遠からぬ宿舎に着くと、主人や何人かのほかの連中がたいへん丁重に出迎えていた。 着くとすぐに藩侯の使者の来訪が告げられ、わが公使はまだ迎えに出ることができなかったので、ビュルガー君と私が訪問者を出迎える光栄に浴した。しかし高官を期待していたのに、来たのは城の門番で、そのうえ実に愚直な人間がわれわれの眼前にいたのをみて、すっかりあてがはずれた気持であった。その男はわれわれに、殿様は目下、国におられず江戸に行っておられるという報告のほかには、何ひとつ重要なことを伝えることができなかった。それにもかかわらず通詞たちは彼をもてなして、種々のリキュールやブドウ酒を飲ませた。彼はこの酒を特別うまいと感じ、われわれの生活様式に対しては感激といってよいほどの賞賛を惜しまなかった。彼は去るにのぞんで、オランダ人の寛大さを藩中の者に知らせると、われわれに約した。わが公使は前例に従って長い陶土製のパイプと少量のタバコを贈ったが、彼はたいへん満足して帰って行った。
2022年03月13日
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『シーボルト 江戸参府紀行』 二月二〇日 〔旧一月一四日〕 初版第1刷発行 1979年7月15日 訳者 斎藤 信 さいとう まこと 東洋文庫87 発行者 下中邦彦 株式会社平凡社 斎藤 信氏略歴 明治44年東京都生。 東京大学文学郁枝文科卒(昭12)。 名古屋市立大学名誉教授。 現職(著 当時) 名古屋保健衛生大学教授。蘭学資料研究会会員。 専攻 ドイツ語。オランダ語発達史。 主著『DEUTSCH FUR STUDENTEN』。 主論文「稲村三伯研究」など。 一部加筆 山梨県歴史文学館 二月二〇日 〔旧一月一四日〕 花崗岩たいへん骨の折れる山道が山家から山岳地帯に通じているが、その地帯には三百から七百メートルの地田山・宝満岳・冷たい水の山という名の冷水峠の山山がそびえている。宝満岳の麗では片麻岩と石膏が混じっていて基礎台地を形成し、その台地を貫いて花崗岩が大きな塊となり狭い谷底の斜面に突き出ている。この花崗岩は非常に美しい大粒のものである。 日本の四季 南と東南に向かって横たわっている前山の麗には、恵み深い太陽がもう日本の植物群の春の使いを誘い出していた。スミレ・コマメズメ・サワオグルマ・タンポポ・ムサシアブミ・センボンヤリ・スゲの花が咲き始めていた。 日本列島では、わが国と同様に植物は四季を一巡し、景色はそのつど季節にふさわしい装いをするが、季節の移り変りは日本では、夏から秋と秋から冬への変化が、冬から春にかけての変化ほどきびしく現われないから、北方の気候の変化と異なるわけである。なぜなら荒い北風や吹雪の下で眠り込んでいた草木は急に目覚め、数週間たらずで景色は美しい春の装いをこらす。いま(二月)上に述べた春の使者が、すでに早く(一月)庭に咲いているアンズ・ツバキ・サザンカ・ビワ・サソシュウユ・セイョウサソザシ・ミズキなどの仲間に加わる。三月にはヤマブキ・シロヤマブキ・ムメサキウツギ・アオモ・チンチョウゲ・ジャスミン・サクラソウ・ニンドウ・キンギンボク・早咲きキフジ・ハナズオウ・マンサク・ロウバイ・ムレスズメ・スモモ・サクラ・モモ などのだくさんの類種や変種が続き、モミジの色さまざまな若葉を織り交ぜて森や庭や生垣を飾り、常緑のゲッケイジュ・セイョウヒイラギ・テンニンカ・カシワが四月には新たに葉をつけ、たくさんあるシュウテイカの木は花が終わって葉となる。森は硬い葉、軟らかい葉が濃淡の緑を織りなして輝き、花咲くツツジ・ウツギ・ヒサカキ・ヤマツツジ・モクレン・ヤマシャクヤク・テマリ・ニシキギ・カナメ・キイチゴや、すばらしいキリの木が、暗い色の杉・ニオイヒバ・イヌカヤ・マキその他の針葉樹の眺めを明るくし、まだ葉をつけていないハゼノキや、たくさんの手で葉をつみとられた茶の木をおおいかくしている。次いで(五月)若々しい緑にもえて若い麦が丘をなした畑で希望にみちて立ち上がり、ほんの最近耕したばかりの畑を黄金の縁で飾っていた早熟の菜種は、色あせて重い茎を垂れる。勤勉な農夫は自然の蕃殖力と競う。驚嘆すべき勤勉努力によって火山の破壊力を克服して、山の斜面に階段状の畑をつくりあげているが、これは注意深く平入れされた庭園と同じで旅行者を驚かす千年の文化の成果である。 六月には木の葉は次第に濃く茂り、花の過ぎた潅木に影をおとし、だんだんに暗くなってゆく陰影の中で濃さを増す緑が夏の訪れを告げる。七月にはうだるような暑さでタケの地下茎は大きな新芽を出すが、その竹の子(筍)は親竹のそばでどんどん生長するので、秋の嵐や冬の霜からやっと元気をとりもどした親竹を直に追い越すほどになってしまう。熱帯の気候のもとでのように、ひとり立っているシューバショウは、あたかももっと暑い国からここへ運んでくれた人間を陰の多い屋根で守っているかのように、その葉を広げる。ダイダイ・ミカン・キンカン・モクセイ・ヒイラギ・ゲッカコウ・ランその他香り高くにおう植物が花をひらき、草木を世話する疲れた人々をその芳香で元気づける。すてきなユリや深紅色で目をひくケイトウ・モミジソウ・ハゲイトウが庭を色どり、シンケイカ・キソギョソウ・ヒルガオ・ゼニアオイが野を飾り、聖なるハスは浮かんでいる葉をもたげて、沼地を美しい花でおおう。いまや、生命のあるものはみなたびたびF九五~百度(R二八~三〇度)〔C三五~三八度〕をこえる暑さのもとで衰える。高等な植物は蔓で巻いたり匍ったりする種々の雑草、ケタデ・ミゾソバ・イタドリ・イノコズチ・チャブクロ・ツタ・シロザ・ツユクサなどと戦い、そして繁茂した草……カヤツリグサ・キビ・オイシバ……は花時を過ぎた高等な植物と乾いた田のあぜ道や干上がった水源の小川の岸に沿った濯木を押しのけ、田畑の中で生い茂る。 雨期 待ちに待った雨期が始まると、それを利用して農夫は除草したりキピやアワを播いたりして、あまり肥えていない土地から第二の収穫をする。オオムギ、コムギはすでに六月にとりいれ、その土地にコメ、リュウキュウイモ、食用となるクワズイモとナスピ、タバコ、アイなどを植える。谷にはコメが実り、岡の日当りのよいところではキウリ(胡瓜)・シロウリ・トウガン(冬瓜)・スイカ(西瓜)・ボーブラはみずみずしい実を結び、ダイズ(大豆)はサヤ(鞘)をつける。 おそらく八月まで一カ月かあるいはそれ以上の間、植物の外観上の生活には目立つほどの変化はあらわれない。ただそこここになおクサギ・トウキリ・フョウ・ムクゲ・ノウセンカズラ・サルスペリのような遅咲きの木や、オトコメシ・オミナエシ・フシバカマ・ヒヨドリハナ・ツルニガナの類や前に述べた其のいくつかの花の咲く野草が、黄色い草の中からつやのない緑色をして顔をだす。木の実や種が熟し稲田は色梗せ、春はスミレヤアネモネの花が咲くところに、いま九月には、ツリガネニンジン・ヒメ・センブリ・ミヤコアザミ・キッネノヤ・オトコヨモギ・ガンクビソウ・シラヤマギグ・ヤブニンジン・ボタンボウフウがあらわれる。 早く熟すモモの葉は一〇月には枯れ始め、カキ(柿)の葉は落ち、すき間のできた枝は柿色の実を誇らかにみせる。いくつかの早咲きの濯木、たびたび述べたレンギョウ・クツギ・ヤマブキ・バラ・ジャスミンはいま再び花を咲かせ、キク・キフネキク・ヨメナ・ヤマシロギクなどの人々の好む変種とともに庭を彩る。トキワ・カヤ・チョウセンガリヤス・オガルカヤのような種類の草の属は、注目すべきことであるが、晩秋の、それも山頂を繁った緑でおおっている海抜六百ないし八百メートル以上の高さでも花を開く。ダイダイヤスギやその他二、三の針葉樹の数多い変種も、この季節にときどきかなり冷たい北西の風が吹く時でも新芽を出す。まるで新しい衣をまとって冬をしのぎやすくしようとしているかのようである。太陽の力強い影響からまもられて、塊根をもつ植物は今や土の中にある根をますます実らせる。白や黄のカブラ・ダイコン・ジャガイモは今がいちばんよく育つ。 ハゼノキやカエデの紅葉はついに自然の力が衰えてゆくのを知らせる。大部分の樹木や潅木は葉を草とし、多年性の茎は枯れる(一一月)。ただキク・ツバキ・チャ・スイセンとシキザキイバラだけが庭、や野に咲く。明るい木立のなかからゲッケイジュ(月桂樹)やセイョウヒイラギの赤や黒い実やオレンジが輝き、コケ類はけわしい岩や、葉の落ちた幹に咲く。すでに二、三週間前から高い山の頂上は雪をいただき、冷たい北西の風が吹き、氷が張り雪や霙(みぞれ)が降る。……しかもほんの短い期間だけ高等植物の冬の眠りが続く。すでに正月の初めには幾種類かの草木が生じ、すでに新年の日に梅の枝に花が開きフクジュソウ(福寿草)が家の守護神の祭壇を飾ると、人々は豊年が知らされた思いがする。 近隣のアジア大陸との、とくに支那・朝鮮およびもっと南の琉球諸島との千年以上に及ぶ交渉は、日本の植物群を外国のたくさんの有用ならびに観賞植物で豊富にし、人の住んでいる地方の姿は明らかに技術で改良された外来の特色を帯びている。われわれがいま丘の斜面に穀物や野菜を植えた畑が階段をなして上っているのを見る所は、以前には丈の高い草、……カヤ・カルカヤ・チカラシバ・チガヤが生い茂り、シオデ・クズ・ツルウメモドキ・センニンソウ・ボタンツリ・サネカズラ・トコロ・ヤマイモ・フナワラソウの蔓性の枝がからみ合っていた。いまチャの木が、アブラナ・クレナイ・ケシ・ゴマ・ワタ(綿)を植えた畑の回りに垣をめぐらしている処は、かつては色とりどりに混じり合って、ナツグミ・ナワシログミ・ヤマデマリ・コバノグマズミ・ガマズミ・イワカサ・スズカケ・ミムラサキ・ヤブムラサキ・クサイチゴ・ゴマハギ・メドハギ・ハギ・ヤブツグサ・ハクチョウ・チサノキなどが茂っていたのだ。数時間かかる平野を亥ねが一色の緑でおおっているところには沼があって、ハス・オニバス・ガンシサイ・センダイタクシヤ・ヒジ・トチカガミ・クワイが生え、またヨシやカヤツリの類……サカカツリ・ガマ・ナルコヒエが淋しい岸辺の縁に生えていた。川や山の小川はまだ思いのまま流れて河床を広げた。その川岸にはマタケ・メタケ・シオチク・ヤタケ・モウソウチク・ハチクなどいろいろな種類の竹やイヌビワ・イタビ・モツコボク・アカメガシワ・ヤブマオ・アクソウ・ヤナギイチゴが生い茂っていた。土砂が積もってできた州にはツユクサ・ハマアカンウ・マツナ・イヌコズチ・キケマン・ムラサキケマン・テンゴサク・キンポウゲ・タガラシ・キツネノボタン・メハシキ・カタシロ・イヌフグリ・カワヂシヤ・ドクダミ・ッボグサ、などが繁茂し、それからウルシ・マンネンソウ・ゲンゲバナ・オトギリソウ・キジムシロ・キッネノゴマ・ヤブタバコ・トダイグサ・ニシキソウ・チヂコグサ・モチハナ・タマジオ・シュブンソウ・カワラヨモギ・ハナヒリソウ、が草原や丘をおおっていた。神社・仏閣の周囲の荒野を切り閣いて、組織力をもつ人が美しい森をつくり、色とりどりのツツジ(躑躅)・ノコギリツバキ・ホンバツバキ・ボタンやすばらしいユリ・ランなどで飾った。そして荒れ果てた海辺では貧しい漁師が丹精して甘いクリや食べられる実のなるカシワが茂って、小さい森になって、育ててくれた人々の小さい家にやさしく影を落としていた。数世代にわたる文化的な活動によって、はじめて日本の景観は現在の特色を得たのである。オレンジ・ザクロ(柘榴)・モモ(桃)・アンズ(杏)・リンゴ(林檎)・ナシ(梨)・マルメロ、ならびになお多くの日本産といわれる植物は外国の原産であって、われわれは約五百の有用ないし観賞植物のうち半数以上のものが輸入されたと、推定することができる。 我々が山岳地帯へ深く進むにつれて、絶え間なく降る雨のために道はいっそう苦しくなってきた。人馬の敏捷さと確実さは驚くほどであるが、細く険しく滑りやすい山道を攀じ登るのは気の毒なことであった。もし先に述べた履物がなかったら、こういう道で荷を運ぶことは人馬にとって不可能であろう。それゆえ藁靴はこの国では皮靴や蹄鉄では代用できない必要品である。私の門人や従者は、地衣やコケ類を集めるために、非常に急な斜面をよじ登りたびたび足をしっかり踏みしめて、インドの大トカゲのように険しい岩にがじりついていた。 冷水峠・通詞我々は冷水峠の山の背にある宿で休み茶菓を喫した。古いしきたりによって宿の主人は使節に土産を贈って款待した。それは杉の木の小さい板の上にきれいに並べた雉と卵で、われわれを酒宴に招いた。そこでもわれわれは日本の役人や通詞に出会った。きれいに着飾ったかわいらしい娘を連れた主人夫妻は、われわれを手厚くもてなした。この宴会では通詞諸君が元来最も宣誓な役割を演ずるのである。なぜなら款談の糸口はこの連中の仲介でつくられるからで、彼らの主な努力はわれわれ客人を犠牲にして上席検使にとりいることにあるのだから、そんなおのれの器用さを発揮して、われわれがこの役人に対し丁重にするように仕向け、使節の体面をときには傷つけるのである。私は、通詞らの性向にここで注意を向けないではいられない。提督フォン・クルーゼンシュテルンやフォン・ラングスドルフが激しく非難した以前のある事件の部分的な弁明でなくて、その説明に役立つからである。私は、オランダ賢弟の長官がロシアの使節をナデスタ号艦上に訪問したとき、ひとりの通詞のまことに無礼な合図で、ロシヤの使節に儀礼的な挨拶をするのに先だって、長官がまず艦上にいる上席検使の席に赴き、深く頭を垂れたあの場面を想像する。……ひとたび船上の与えられた状況のもとで、日本人衝突しないようにするには、商館長H・ヅーフ氏はそれ以外にどうしようもなかったのである。しかし彼は周囲の気風をよく知っていたので、前もって日本人と儀礼について折り合うべきであったろうし、日本人の側からはオランダ国民の代表者の体面にかかわるようなことは、きっと何ひとつ要求もしなかったであろう。私はもう一度繰り返しておきたいのだが、いわゆる、上席検使は出島で考えられているほどの高官ではない。ただその仕事熱心と通詞の卑屈な追従とが、とくに外国人に対すると自らのために官職の威光を行き渡らせるようにするのであって、おそらく彼ら自身は一度もそうした要求をしていないだろう。 上席御番所衆の川崎源蔵 しかし、わが上席御番所衆の川崎源蔵はひじょうに謙虚な人柄で、われわれに対してとくに気をきかせてくれた。その注意深さのほどを示したのである。 内野村 われわれは山岳地帯の東北の斜面を下り、内野という山麓の村で上に述べたのと同じように贈物を受けもてなされた。……野生のツバキ(椿)、若干のジュウテイカ、ヒサカキ、いろいろな種類のササフラス、アワブキ、ムラダチのほかに、山の湧き出る小川のほとりにはセキショウ、湿った岩の壁にはイワボタン・ヤマアイ・クサニンジン・イヌナズナ・タガラシなどが咲いている。 野椿はときどき二〇ないし二五フィートの高さで、幹は六インチから八インチの太さがあった。この植物は所々で森の一部となり、たくさんある濃紅色の花はちょうどこの季節にはとくに美しい眺めを呈している。花は簡素で半ば開いているに過ぎない。 雉われわれは新しい森林伐採区の側を通り過ぎたとき、キジに驚かされた。キジはわれわれの方のヤマドリのように音をたてて飛び上がったのである。それがヤマドリであったかキジであったかを判別する事は出来なかった。とにかく両方ともよくこの山中に居るという噂である。 シーボルト『日本動物誌』 雉・山鳥 私の『日本動物誌』の共編者のひとりである、アムニンク氏は、私がすでに、一八二六(文政九)年に日本から国立博物館〔ライデン市内にある〕に送ったこれらの鳥を、彼の偉大な鳥類学の著作の中で、ヤマドリの方をPhasianus versicolor、キジをPh. Sommeringii として図示し記述した。ヤマドリは山にいる鳥の意味で、その名の示すとおり深い山中にのみ生息しキジよりも珍しい。その長い尾と、赤褐色ひと色で光の具合で金色に輝く羽根はヤマドリの雄をキジの雄から区別し、そしてキジの方は形も色もドイツの普通のキジに似ている。両方とも光のさす新しい伐採地区をえらんで春を過ごすが、雌は交尾期が終わると密生した森に戻り、濯木の下のコケやシダの茂った場所に巣をつくり一五個までの卵を産む。日が暮れると、雄鳥は卵を抱いた雌鳥から別れて、種を播いた畑で餌をもとめ、ときには雌を呼ぶ声を聞くことがある。それで日本の歌人が次のように歌っているのはもっともである。 春の野にあさる雄子の妻恋に おのが在処を人にしれつつHaruno no asaru Kisi。 sono tsuma koini Onoga arigawo hijtoni sire tsutsu。 「春の野に餌を捜しながら、キジは恋しい妻に寄せる愛情から自分の居所を人にもらしてしまうのだ」 春や夏には穀物の種子がこれらの鳥にたくさんの餌を提供し、秋や冬には鳥は木の実や芽を食べる。このころになるとヤマドリやキジの胃はたいていヒサカキの実でいっぱいになっていて、その青い色素で胃の内壁はすっかり染まっていた。キンキジ(金雉)やギンキジ(銀雉)は日本の原産ではなく、わが国におけると同様に、ただ楽しみとして飼われるだけであるが、盛んに繁殖したくさんとれる。その原産地は多分支那である。 長尾村の少年・少女 内野と飯塚の間の冷水峠の東北斜面の麓にある長尾村で、音十郎という一八歳の日本人の奇妙な顔に注目した。この男の鼻は非常に小さく額がたいへん突き出ているので、頭から額に線をひくと、鼻はその線より後ろにあったくらいである。彼の挙動は単純で子供っぽく、声は少年らしくないし、髭や眉毛のあるべき箇所にはヴブ毛が生えているだけであった。上顎骨の二本の白歯以外には歯がなかった。この少年は健康な両親から生まれ、見た目にはたいへん弱そうであったが、丈夫であった。この病的な醜さにはクレチン病〔一指の白痴〕に似た状態が認められる。 ともかく九州の内陸部の高原を形成しているこの地方の住民は強健な人種で、顔づきは平らで横幅があり、鼻は小さく幅が広くロも大きく唇も厚くて、九州南岸の住民と見分けやすい。女性はたいへん優美である。若い娘は美しく白い皮膚をし、頬は生き生きとした赤味を帯び、まるまるとした顔立ちである。鼻根は深く押しつけられ、内側の眼角め間隔が広く顴骨(かんこつ)はいちだんと突き出ていて、そのためちょっと見ると内斜位である眼の独特の位置が、他の日本人について観察したのよりもいちだんと目立つのである。 長尾川(Nagawogawa)・瀬戸川(Setogawa)ムスエ川(Musujegawa)・直方川・芦屋川 飯塚付近で山地は終わり、肥沃な水田のある広々とした平野がひちけ、長尾川(Nagawogawa)。瀬戸川(Setogawa)及びムスエ川(Musujegawa)で潅漑されている。これらの川は三メートルから九メートルの幅で、たった今われわれが通ってきた山岳地帯に水源を発し、筑前と豊前の境をなしている山地の直方付近で堺川Sakaigawa)と合流して、それから直方川という名の幅九〇メートルの河となり、芦屋崎の近くで芦屋川となって海に注ぐ。同一の川が水源から河口までしばしば短い距離で種々の名称をもっていること、普通その川が流れ過ぎる地方の名を冠していることを、ここで注意しておかねばならない。これは大きな河川を記述するに当たってよく斟酌しなければならないことである。……長尾川の右岸にある約二百戸の飯塚村でわれわれは昼食をとり、それから直方付近で同じ名まえの川を渡力、夜ふけて木屋瀬(KojanoSe)に着いた。
2022年03月13日
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『シーボルト 江戸参府紀行』二月一九日 〔旧一月一三日〕 初版第1刷発行 1979年7月15日 訳者 斎藤 信 さいとう まこと 東洋文庫87 発行者 下中邦彦 株式会社平凡社 斎藤 信氏略歴 明治44年東京都生。 東京大学文学郁枝文科卒(昭12)。 名古屋市立大学名誉教授。 現職(著 当時) 名古屋保健衛生大学教授。蘭学資料研究会会員。 専攻 ドイツ語。オランダ語発達史。 主著『DEUTSCH FUR STUDENTEN』。 主論文「稲村三伯研究」など。 一部加筆 山梨県歴史文学館 二月一九日 〔旧一月一三日〕 神崎・ 神崎は約干戸の気持のよい所で、八つの町にわかれていて、長さは一里に及ぶ。比較的少ない家数のわりに著しく長いのは、これだけの戸数がたった二列に並んでいることで説明がつく。すべての町村に特有な町の作り方で、街路が交叉している都市とは異なる。われわれが出発する時に、大通詞甚左衛門が夜分に現金を盗まれたという噂が伝わった。彼は会計主任をしていてそのうえ寛大だったので、旅行中少なからず好都合なことを期待していたのであるが、今はもうあてにできなくなったので、この事件はなおさらおもしろくない感じがした。公にはこの盗難品について何ひとつ詳しいことは知られていなかった。けれども甚左衛門は内々私に大金が盗まれたことを打ち明けた。彼はともかく自分の被害を決して我々に感づかせなかったし、そのことについてはそれ以上触れなかったが、私は、この事件が知れわたると、盗まれた者の不注意ととられ、しまいには彼が罰を受けることになるだろう、と懸念して書きそえておきたい。 日本の官僚主義的 これは少なくとも、日本の官僚主義的な見解なのである。われわれはF四八度、〔C九度〕の気温のもとで心地よい朝を迎え、引き続きよく晴れた春の一日であった。右手には肥沃な田が、肥前と肥後の自然の境界をなしている筑後川の岸まで広がっていた。 筑後川筑後川は豊後西部の山岳地帯に源を発し、多くの支流を合わせて水嵩を増して筑後地方をうるおし、北緯三三度一〇分の佐賀・柳川両都市の間で二筋に分かれて島原湾に注ぐ九州最大の川で、その流域は、左は柳川の、右は佐賀付近の嘉瀬川(Kasagawa)の周辺まで続き、日本における摂津地方の淀川流域の平野、越後の信濃川、尾張の木曽川流域の平野をのぞけば、九州はもちろんおそらく日本中でも最も広大な平野を形づくぅている。そしてケンプㇷァーの意見ではもしこの地方で農業と同じ程度に牧畜や果樹栽培が盛んだったら、ここは、豊かなメクア王国〔前七~六世紀に栄えた国。今のイラン西北部にあたる〕にも優るだろう、という。……北には肥前と筑前の国境の山脈が延び、東南はるか彼方には筑後を豊後や肥後の国々から隔てている山々の峯が見える。かなり高い山の頂は雪におおわれているが、それは北緯三二度から三四度の間で、およそ千二百ないし千五百メートルの高度と推定される。 二毛作・麦・黄櫨の木・蝋燭 この地方では稲田から二度の収穫がある。農夫は晩秋になると土を積み重ねて三フィートの幅の畝をつくり、早播きのハダカムギ(麥)かコムギ(小麦)の種を横の列にまく。にうして播いた畝は水のみなぎる田から高く串ていて、よく茂ったシバの腰掛のように見え、衛生的な休息所といった観を呈している。日本でよく栽培されるオオムギはハダカムギの一種で、二列あるいは六列の穂がある。このムギは六月の始めに実る。それから掘り返され、切株や栄費に富んだ緑肥でこえた土地にすぐ米がつくられ、やがて第二の収穫をもたらすのである。 ロウソク ……このあたり傾斜地や高地ではよく蝋(ろう)の木を見かける。これは有名なハゼノキ{黄櫨}で、その実から脂肪をとり然るべく仕上げ、この国では一般に蝋燭(ろうそく)に使う。品質ではミツバチの蝋に近く、獣脂のロウソクは全然ない。ハゼのロウソクは盛んに使われるので、この木蝋は重要な商品となっている。近ごろではまたジャワやヨーロッパヘの輸出品になった。その安値……百ポンド〔五〇キログラム〕で、約七〇グルデン……のため需要がたいへん多いのは、商人が動物性の蝋と思っていたからである。けれどもやがて植物性の脂肪であることがわかって、今あるようなやり方で燈火に使うと、濃い煙が出るので、以来それについての問合せは少なくなっている。日本人はロウソクの構造をなおしてこうした欠点を除いた。木綿糸をかたくよったものを芯に用いないで、紙で作った中空の円柱を使い、日本語で藺(い・りん)というトウシングサの髄をそれに巻きつけ、くっつきやすい生糸で結ぶ。濃い煙は円柱の中に扱い込まれ、燃えるときに無影燈の場合と同じように煙がでない。 ハゼノキ・大根の木・麦きり・米通し ハゼノキは南方または東南方の風土で最もよく育ち、われわれの方の果樹と同様そこかしこの野原に適当な間隔をおいて植えられる。ハゼノキは、樹脂を含んだ植物に特有な羽状の葉をのぞけぱ、ドイツの野生のリンゴの木ぐらいの外観と大きさをもっている。晩秋には落葉する。すると農民は木の枝に大きなダイコンを隙間なく掛けるが、それは塩漬にするために干すのであって、木はそのためおかしな格好となり、不案内な船乗りはそれを大根のなる木だと思うことも珍しくはない。 そうこうするうちにわれわれは苔野(こけの)という小さい村に着いた。この村はソバ(蕎麦)から作った一種のうどんで旅行者の間に名がある。それはソバ切りといってたいへん栄養に富んだ食物で、醤油の汁・ワサビ・トウガラシ・ネギなどでよい味がする。農夫はこのあたりでは一般に穀物を挽くのに一種の唐箕を使っているが、それはわが国のものと同じ方式である。私が聞いたところでは、この有益な農機具はオランダ人が導入したのだという。この機械は米通し(Kometosl)あるいはモミ車(Momi‐kuruma)ともいう。われわれはここでまた非常に簡単にできている硯臼を見た。この臼は、回転軸の端に恢歯車を備えた汲水車からできている。その歯車は上部の日石の上にある木製の変速歯車にかみあい、上の臼回る。穀物は縁が高くなっている上の臼に投げこまれ、穴を通って下臼の上にゆき、ふたつの石の間ですり砕かれ、下石のまわりにある箱の中で挽割りとなって集められる。挽割りはそれから特別な箱の中で篩(ふる)われ、そしてまだ穀粉を含んでいる糠はもう一度臼にかける。水樋も同じく簡単で、木で作った樋が水を上掛け式水車に導き、汲み涌かいっぱいになると水車を動かす。水車小屋は藁葺きの屋根で、水車の機械はむき出しのままその中にある。風車は日本にはないが、牛や馬でひく臼はたぶんあるだろう。 肥前……陶土・陶工・陶器 肥前は良質の陶土で知られていて、そこで掘り出し加工される。町の至る所で陶工が陶器を乾かす仕事をしているのに出会う。破砕機は非常に簡単で工夫をこらしてあり、その中にかなり堅い陶土(風化した長石)を入れて砕く。二〇ないし二五フィートの長さの円い材木の、太さ約ニフィートの一方の端のところが長方形の涌の形に彫ってあり、もう一方の端には木製のハンマー形の杵がつけてあり、その下側には鉄が打ちつけてある。この円材はほぼ中央の重心のあるところが軸になって、シーソーのように昇ったり降りたりする。桶が水でいっぱいになれぱさがり、反対の端に取りつけてあるハンマーは少しの間あがっているが、流れ込んでいた水で重くなっていた桶がからになると、急にはねあがりハンマーは重みで玄武岩か花尚岩で作った摺鉢の中へ落ちてゆき陶土を砕く。 目達原……ニワトコ・クスノキ太陽の高度を測った 目達原(めたばる Metabara)の近くで、道は心地よい松林をぬけてゆく。それは遠くから見ると、まだ植え付けていない平らな田圃から、砂漠の中のオアシスのように姿をあらわしていた。われわれが休んだ中原の村で、私は、生垣がみんなムメサキウツギ(Mumesaki utsugi)なのを見た……おそらく日本で最も美しい濯木のひとつであろう。またそのあたりにはよくニワトコの一種の、クズノキ(Ku―zunoki)が生えていた。その木はわが国の〔ニワトコ〕によく似ている。クスノキの新芽はその後に降った霜で傷んでいた。この木はもっと南方の風土に適しているように思われる。 太刀洗(Tatsiaral) 太刀洗(Tatsiaral)の近くで、昔山賊が住んでいた大刀洗峠という山を指して、山賊の恐ろしい話を聞かせてくれた人がある。昼ごろ轟木に着き太陽の高度を測った。この地点の天文学的測定は、この付近で肥前、筑前および筑後の三つの大名の領地が境を接しているので、なおさら重要である。われわれの観測によると森本は北緯三三度二一分にある。ビュルガー君と私は、害を受けずに観測できるように、行列の先を急いで進んだ。しかしわれわれが六分儀をとりだすと、すぐさま数人の警護の役人が近づいてきて、われわれの意図を尋ねた。われわれはうまい口実をみつけて、使節が旅行の計画を時間どおりに行なうため、天文学の機械を使って正午ごとに彼の旅行用の時計を合わせるよう我々に命じたのだ、と言ってその場を切りぬけた。我々の仕事は幾重にも取り巻いていた住民の好奇心を誘った。厳粛な静けさがみなぎり、顔という顔には驚嘆と畏敬の色がこもごも浮かんだ。実際われわれはたえず肉眼や望遠鏡を用いて、その創造力のゆえに神と崇められる太陽をながめ、それから太陽神の祭壇に立っているような人工水準器の鏡の中に、純粋の像として太陽の反映をみたのである。残念ながらわれわれの乗物はクロノメーターを積んで遅れて来たので、この土地の経度を測ることができなかった。しかし江戸の天文方の報告によって佐賀と柳川の距離がわかっていたし、日本の道路標には各地の距離が精確に書いてあったので、轟本の経度は一三〇度三〇分と推定される。このあたりの景観は次第に山岳的となり、西北方には高い山脈が走っている。権現山・針山・吉川岳・酒盛山で、これらの山は肥前と筑前の国境をなしている〔福岡・佐賀術県の境にある背振山地をいう〕。 嬉野…牛津…神崎 嬉野から牛津までにビュルガー君は粘土と泥灰板岩を見つけ、牛津から神崎までは粘土がうすい層をなして石炭層とか粘上板と交互になっているのに気づいた。神崎からここまでとさらに田代までには長石があらわれ、山全体が陶土から成っている。それは天草島で花崗岩の間に現われ、質の良さで珍重されているのと同じものである。 田代・基肆(きい)郡・対馬藩主 われわれはなお一里すすんで、肥前と筑前領の境にある田代に着いた。ケソプファーは、この地方は彼が来た当時には対馬藩主が領地として受けていたと、報告しているし、実際にまたその通りであった。田代が二一の村とともに属している基肆(きい)郡は、九州の他の二、三の領地と同じく当時天領として没収されたのを、対馬藩主に領地として与えた。新しく国の体制を定めるに当たって対馬藩主に対して毎年一〇万の石高が認定されたが、コムギ・アワ・ソバだけがつくられコメはできない不毛な対馬では、それだけの収入を得ることができなかったからである。それゆえ日本の政策は、この藩に朝鮮との単独貿易のほかに九州にある領地を割り当てたのであって、それは万一起こるかもしれないアジア大陸からの侵略的な企図に対して、対馬の位置や朝鮮との関係からいわば監視塔の役目をもつ対馬藩主の忠誠を確実にするためである。国境で筑前侯の数人の家来が使節を出迎え、我々をさらに案内してくれた。このあたりの土地は平坦でとくに念入りに耕作してあった。原田付近ではたくさんの菜種やカラシナ(芥子菜)があった。日本のカラシは品質が優良で、その味はイギリスやロシアのものとよく似ている。ロシアのカラシが同一種の、シナガラシからとれるというのは有りうることで、他の多くの種子と同様に、このカラシがシナからキャフタ〔バイカル湘南、モンゴル国境に近い町〕を経由してロシアに輸入されたことがあったろうから、シナガラシ云々ということもありそうなことである。 獺(かわうそ)・ 出島を出発して以来、払は何匹かのイタチやウサギ以外に野生の哺乳動物を見たことがなかった。今日は一匹のカワウソが払のすぐ前から小川へ飛び込んだのでびっくりした。日本のカワウソはドイツの普通のものと形や大きさも同じだが、ただ背中がいちだんと濃い褐色で、腹・胸・喉などの毛が灰色をおびているのが違っている。ともかく日本のはカナダのものほど暗褐色でないから、ヨーロッパ種から新世界の北半球に住むカナダ種への明白な移行形態を示している。……このカワウソは川や湖のほとりに住み、そこから細い川にのぼって行く。ときには大きな河が海に注ぐあたりの海岸にもいる。カワウソは魚類を常食とし、ときにはカニも食べる。一月に交尾し一ないし二匹の子を産み、もっと多く産むことは少ない。カワウソの皮はシナヘの輸出品で、シナの商人はこれに四ないし六グルデン支払う。また日本人は、シベリアの住民、千島やアリューシャン群島の毛皮を剥ぐ人のように、口から頭部を通って尾の先まで少しも切り損うことのないやり方で皮を剥ぐ。皮は灰・明礬(みょうばん)・塩を混ぜたものをつめ、それから空気にあてて乾かす。 化石・山井 我々が泊まった山家で、われわれはまもなくこの土地の珍しい物を見つけた。中にはとくに珍しい鉱物のコレクションがあって、日本人がめったに見たこともない化石が主なもので、この地方や近くの宝満岳で集めたものであった。そのコレクションにはほかのものに混じって、石英や水晶のたくさんの断片と白に赤味をおぴた珪質板岩のところどころに赤鉄鉱がまじっている鐘乳石形の鉱物や大きな木の化石があり、組織と条理面とがよくわかった。そのほかたくさんの化石を見たが、その中にはいくつかのいわゆる竜骨、つまり原始時代の竜の骨とか、カメのものと称していた化石があった。竜骨というのは象の骨で、カメの方は怪しい化石で、たびたぴの注水ですっかりくだけて、鑑別できないようになっていた。なぜなら日本人の好みによって奇妙な組に分けて並べた石は、閉じ込められて部屋の片隅で岩の小山をなしていて、見物する直前に二、三ばいの桶で水をかけるのは、ほこりをきれいに洗い流して、珍奇な品々がきれいに輝いて見えるようにするためである。 山家……この名は山の家という意味である……は筑前領の首都で藩主の使む福岡から東〔南東〕へ六里のところにある。われわれが泊まったところは藩主の別荘で、彼は毎年参勤交代で江戸への行き帰りにはここを訪れる。使節は藩主の部屋に泊まった。二つあって、きれいでさっぱりし過ぎているような気がした。一方の部屋は高貴な人の次の間にあたり、襖戸で居室や寝室に使うもうひとつの部屋と続いている。蛇腹と天井板はえりぬきの杉材を用いきれいに磨かれていたし、壁は貝殻石灰で真平らに塗りあげてあり、一方の部屋のは桃色で、もう一方は黄土色であった。両方の部屋は六枚の襖で仕切られ、外側は花模様の、内側は金色の襖紙が貼ってあった。 襖には黒漆をぬった縁が付いていて、われわれの方の錠の代りに青銅に金張りした円い金具がつけてあった。この襖は取り外してふたつの部屋をひとつにすることができた。床は上手に詰物をした畳で緞子の縁飾りがついていた。居室の方の床は約一フィート高くなっていて、部屋の中央には厚さ二分の一フィートの芯のはいった蒲団が置いてあるのは、藩主の座席として用いるのである。両方の部屋の窓は床と同様この国の風習に従い木材であっさりと作ってある。縁は褐色にぬられ、ガラス板の代りに白い紙が張ってあった。窓は趣味豊かに造られた小さい庭に面していて、庭の奥には小さいお宮とふたつの石燈龍があって茂みの中から顔を出していた。次の間の隅に彫刻で飾った小室があり、部屋のある側にひとつの戸斟あり、格子のついた窓穴があけてある。これは外は見えるが中は見えないので、尼僧院の教会の内陣に似ている。なぜならこのせまい部屋の中にいる人はたいへん窮屈な気侍になったからである。この独特の小部屋は侍臣の勤務するところで、彼はここで妨げられず見られもせずに主君の合図を待っていればよいのである。 大宰府 ……山家の近くに有名な巡礼地大宰府という所があり、天満宮〔天神というべきである〕を祭る。何人かの従者はわれわれが到着した晩に参詣に出かけた。
2022年03月12日
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『シーボルト 江戸参府紀行』二月一八日[旧一月十二日〕 仏像と仏教語 初版第1刷発行 1979年7月15日 訳者 斎藤 信 さいとう まこと 東洋文庫87 発行者 下中邦彦 株式会社平凡社 斎藤 信氏略歴 明治44年東京都生。 東京大学文学郁枝文科卒(昭12)。 名古屋市立大学名誉教授。 現職(著 当時) 名古屋保健衛生大学教授。蘭学資料研究会会員。 専攻 ドイツ語。オランダ語発達史。 主著『DEUTSCH FUR STUDENTEN』。 主論文「稲村三伯研究」など。 一部加筆 山梨県歴史文学館 われわれは朝六時に出発し、広くひらけた水田……所々の厚い氷が張っている……に沿って高橋という小さい村へ、それから北方を通って小田に向かった。これまでの日中の旅行では若干のアトリ・セキレイ・ツグミ・カラス・スズメを認めたのだが、今日はそれよりもたくさんの鳥を見た。今度は大部分ガン(雁)・カモ(鴨)およびツル(鶴)であって、それらの鳥は下におりて水におおわれた稲田で餌を捜していた。街道ではこれまで日本ではめったに見ない日本産のカササギがいて、われわれを驚かせた。この鳥は普通アジア大陸から朝鮮を経て日本に渡って来るので、朝鮮カラス〔烏 同地方ではカチガラスという〕とも呼ばれている。 ビュルガー君と私はひとりの下検使と通詞の弥七郎および二、三人の門人を伴って、一行に先だって小田まで行った。有名な神木をゆっくり視察するためである。それは大きなクスノキで村の入口にあり、広く枝を張り葉の密生した梢がある。幹は枝のところまでとどく木造の祠でかくれている。その祠は両部神道の混交した建築様式に属し.たくさん彫刻がほどこされ、波形の板葺の屋根がついていた。大きな石の土合のある支柱の上にあって、石の階段が側面にあって内部に通じている。祠の中には三つの頭があって手が何本もある仏像(千手観音)が刻まれているのが見える。前に置かれた木製の小さい台には供物の道具や花や香をたく容器や灯明がある。馬頭観音、すなわち馬の頭をした守護仏である。なぜなら図がそれを紹介することになっているが、蓮の花の上に足を組んで坐り、逆立つ頭髪の中から、ちょうど頭のてっぺんの所に馬の頭が突き出している。そのうえ非常に見わけにくいので、観察の鋭いケンプファーにも子牛の頭と見えたほどである。この偶像と神木は第七図で示す。仏像という本では七守護佛の中にこれを掲げている。馬頭観音といい、腕の挙げ方に若干の異なる点がみられるが、れわれが木の中で見たのと同じである。上述の図彙にはこの仏について次のように述べている。「此ノ尊応―用利―益ノ甚深ナルハ所―知無キガ如シト云心ナリ」と。そして僧侶は信じやすい農民にこの文の意味をしつこく説明するので、彼らは馬頭の仏を自分たちの馬の守護仏と認め、方々から巡礼してくるのは、自分自身や自分たちの馬のために、その仏の援助を保証する印刷した護符をもらってくるためなのである。 日本語 この救済や免罪の護符は、日本語で読むと「馬頭観世音普門品三十三」といい、さらにその意味は……「馬頭の守護仏の総称、これに属する部門は三十三巻に作成された」ということで……聖者に関する一つの経文の標題に過ぎないと思われるが〔このような標題の経典はない〕、それを僧侶は助けを必要とする者のために、有効な助言を得る経典のいわば標題として、無知な田舎の人々の手に与えるのである。日本の仏教徒の間では普通に使われる漢字で書いたこのきまり文句の上に、聖体顕示合に似た標識があり、その中に古いファン字もしくはランザ文字が書いてあり、私はその中から「ハヤオンカヤ」という文字を解読した。また紙片の真ん中にはランザ文字でAの字のついた赤い印章が押してある。仏教徒の用いるこの古い文字は、支那人にはファンズー、チベット人にはラジク、モンゴル人にはエストリュン・ウシと呼ばれ、あとのふたつの民族〔チベットとモンゴル人〕にはランザ、またはランジャという一定の名でいわれ、日本では悉曇(しったん)という。この文字は、仏陀崇拝とともに今に残っていないが、二、三の宗派とくに真言宗・天台宗では、支那・チベットさらにモンゴルの沙門のようになお行なわれている。仏典がすべてこの文字で書かれていることはまれで、ただ若干の語や格言や仏の名がこれで書かれているに過ぎず、一般大衆に対しては深遠な仏の教えの神秘的な仮面として僧侶の役にたっている。 この文字の最初の書体は、支那人、チペット人、モンゴル人および日本人のたびかさなる箪写によっていちじるしい変化を受けたし、同様にその発音もこれらの民族の文字と書き換えるデーヴァナーガリーとは全く異なった文字が、さらにチベット人や支那人が自分たちの文字で書きなおした言葉の中に、サンスクリット語の独特のなまりで、婆羅門教徒から仏教徒がわかれた非常に古い時代に由来しているものが発見されると思うのである。けれどもウージエ―ヌ・。ビュルヌフはファン語とサンスクリット語の一致をすでに証明した。そして日本の悉曇文字のアルファベットと、I・J・シュミウ卜が支那の原典によって報告した支那やチベットの沙門のファン、あるいはランザ文字のそれとを比較すると、これらの文字の様式はだいたいにおいて似ていることは否定されない。支那・チベットおよび日本のランザ文字とデーヴァナーガリーとが同一であることはほとんど疑う余地はなく、チベットのライヴクやモンゴルのエストリュン・ウシュクがデーヴァナーガリー(純正な神霊の文字)という語の言葉どおりの翻訳であり、日支辞典でも悉曇を「ヒンドゥスタンの字母書法」と説明している。 しかしデーヴァナーガリーや支那・チベットのランザ文字では鋭く書かれた字頭が、日本の悉曇では画数が多い文字の場合には融合する独特な点があり、その結果多くの文字を書く場合に字頭はほとんど認められず、若干の場合には全くない。日本人が悉曇(しったん)文字を右から左へ縦に書くやり方は、字頭と字面の融合を助長したかもしれない。けれども人々はこの書法にこだわってはいけない。日本人はみずから悉曇に近づいて、この文字は元来右から左に水平に書いた、といっている。また支那人は横書きのタタール文字を垂直に書く実例をもっている。音節文学者は、ちょうどランザやデーヴァナーガリーのように五〇字から成る。この文字の発見者はブッヂサワ・リュムョウ(竜猛、仏教徒一四世の祖であり、かつヒンドゥスタンの真言宗の開祖(前二一二年没)とされている。この宗派は六四八年ごろ南インドから支那に渡り、七一七〔養老元〕年に支那から日本に伝わった。 弘法大師 そしてこの宗派が普及したのは、主として宗教学やその他の学問に功労のあった高僧、弘法大師(七七五年生)のおかげである。この時代に悉曇の日本への導入が証明されている。弘法大師は日本語のヒラ仮名五〇合図をはじめて作ったひとで、それを作ったときにファン文字を頼りにしたといわれている。それはちょうど六三二年にデーヴァナーガリーを習うために、チベットから印度に派遣されたチベットの仏教学者トンミザンボダが、ランザ文字の型によって自国のために文字を作ったようなものであって、その文字はいまウヂャン(「字頭のある文字」)という名で知られ、インドのバルラ(バルラは未詳。)あるいは文字を作った神、梵天ブラフマ(Brahma)のことか〕によって作られた「字頭のない文字」と対照して一般に使用されるものである。 馬頭観音 上述の守護仏、馬頭観音に関して、私は仏像図柴の第三巻一三ページにもうひとつ他の像が出ていることを述べておく。その像にはたくさんの腕があり、その像には沢山の腕があり、弓・矢・剣・杓のような同じ象徴的な道具を持っていりのが、描かれているが、頭はえあだ一つで、頭頂には同じく馬の頭が逆立つ頭髪の中から突き出している。これを九曜星の中の火曜星として挙げているが、遊星マルスの支那の名称であり、仏教者の考えではこの星を薬師仏または医療の仏として尊ぶ。 浮本 炭鉱 浮本(Wukumoto)付近でわれわれは炭坑をおとずれた。一二〇段の階段でゆるやかに下に通じる縦坑から石炭を採掘する。石板状の石炭で、うすい層をなして泥板岩と交互に重なっている。日本人の同行者がもっと下に行くのを許してくれなかったので、約六〇段まで行ったが、石炭層の厚さはとるにたらず、わずか数インチに達したに過ぎなかったが、もっと深い所では数フィートの厚さがあるというが、それは採掘された石炭から推定することができる。多くの箇所に小さい四角の縦穴が排水のために掘ってあった。挺子(てこ)にしっかりとつけた樋で、われわれの国のツルベ井戸の場合のように、水を穴から汲み出すという、ゆっくりだが非常に簡易な方法で行なっている。この石炭は瀝青(れきせい)含有量が多いので、普通は充分焼いてコークス〔九州ではガラという〕にするのだが、発掘場所のすぐそばにある戸外の炭焼釜で焼く。 天山・船山・ヒアグ岳・雲仙岳・水車・貯水池 われわれの前方、東と北東には稲を植えた果てしない平野が広がり、西北から西南の視界の果てには天山・船山・ヒアグ岳(Hiagu‐dake)。黒髪山(Kurofige‐jama)や雪におおわれた多良(Tara)の山々が連なっている。南の方には相変わらず白い山頂の雲仙岳がそびえている。農夫は田圃を耕し水を引く仕事に励んでいる。このあたりでは馬を使って耕すが、こういうやり方は長崎地方ではめったにない。山岳的な地形のため手鋤(てすき)の方が多い。水を低い田から高い所へあげるには、運搬できる非常に簡単な仕掛けの水車を用いる。それは実際に有効な道具で、われわれはあとでもっと詳しく見聞することになる。 多久川・高橋・竜王・貯水池 われわれは多久川(Takagawa)にかかる高橋という大きな石橋を渡り、小城の城のそばを過ぎ、牛津の寺で昼食をとった。海にほど近い楽しい村である。道は竜王付近の丘を通り過ぎるが、丘の上に水田濯流用の池がつくられている。こういう池は米作の行なわれる多くの地方でよく見受けられる。この種の池は、普通連なる台地の山腹の、海抜一〇〇ないし二五〇メートルあたりの充分水源で維持された平らな場所に造られ、堤防や水門を偏えている。水門からは水路が水田に通じていて、谷に沿って階段状に下り平地に広がるので、いっそう容易に灌漑できるのである。こういう貯水池は通常は公の監督下にあり、注意深く維持される。庄屋(汐貧)の許可がある場合だけ必要な水を流す。水門の口には水位計(Midsu‐hakari)があって、必要量の測定に役立つ。米を主食とする日本のように人口の多い国では、万一の日照りの場合の不作を防ぐために、こうした方策が必要である。 佐賀・船頭の淵・光広王・肥前〔鍋島斉直 一七八〇~一八三九〕 われわれが今日通り過ぎた平野には大小の川が縦横に流れている。けれども自然のままの早い水路を下らずに、千年の文化が抑制して来た川床をゆっくりと流れて行く。われわれは肥前領の首都で北緯三三度一五分、グリニッチ東経一三〇度一八分にある佐賀に着いた。おそらく九州で最も立派な人口の多いこの都会は、城郭外の町をふくめて長さ二里半、幅は約一里ある。たくさんの通りが東西南北に規則正しく交叉している。われわれが進んで行った大通りは追福も広くよく手入れされていた。けれども一部は商店、一部は職人が住んでいる家々は低くて立派ではない。たくさんの小川や運河が町を分断しているが、その中に船人の運河という意味の、船頭の淵と呼ぶ大きな運河があって、ここから約一二ドイツ・マイル離れた福岡に通じ、島原湾を北の海〔玄界灘〕と結び、佐賀を主要な貨物の集散地とする九州の国内商業に大きな力となっている。この運河にかかっている橋の上に巨大な青銅の像がある。地蔵または守護聖者で、名を光広王という。すなわち「光明を広める王」であり、かの仏像図彙によれば、この仏は「雨を降らし五穀を成就せしめ玉ふ」とある。かくも広大な平野の農産物を首都に供給する運河の橋にとってこの像はふさわしくないことはない。 肥前を治めている領主はこの町にそびえ立つ城内に住んでいる。彼は古い鍋島家の出身で、松平肥前守の官名をもっている。〔鍋島斉直 一七八〇~一八三九〕彼の年収は約三五万七千石、約四二八万四千グルデンに達する。 町を通るわれわれの行列は一時間余り続いた。街には見物人がいっぱい押し寄せて来たが、その中には二本差しの人……武士や役人……が大勢いた。とにかく秩序は整然としていて、十字路には藁縄を張って通行を止め、その後ろには好奇心をもった人々が幾重にも人垣を作っていた。ふたつの城門には番兵が立っていた。そしてていねいにお辞儀をしたが、そういうやり方は武装したわが方の軍隊のことが頭にはいっているわれわれには、必ずしも好ましい印象を与えなかった。それでも日本の軍人は、軍隊式の動作の欠如を服務中は軍人らしいこわい顔つきをすることで埋め合わせている。そして甲冑をつけた騎馬武者は、兜の面頬の代りに恐ろしい容貌の仮面さえつけているが、その仮面はおそらく後ろにかくれている勇士より以上に敵に恐怖を感じさせ、しかも古代ギリシア演劇におけると同様のやり方で、法にかなった勇気の型を中にいる当人に与えるのである。日の暮れるころにわれわれは境原から神崎まで肥沃な平野を進み、神崎でふたたび一向宗の寺に泊まった。
2022年03月12日
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『シーボルト 江戸参府紀行』二月一七日〔旧一月十一日〕楠木の大木 嬉野温泉嬉野の近郊 塚崎温泉 武雄温泉塚崎温泉 武雄温泉日本語 初版第1刷発行 1979年7月15日 訳者 斎藤 信 さいとう まこと 東洋文庫87 発行者 下中邦彦 株式会社平凡社 斎藤 信氏略歴 明治44年東京都生。 東京大学文学郁枝文科卒(昭12)。 名古屋市立大学名誉教授。 現職(著 当時) 名古屋保健衛生大学教授。蘭学資料研究会会員。 専攻 ドイツ語。オランダ語発達史。 主著『Deutsch fUr Studenten』。 主論文「稲村三伯研究」など。 一部加筆 山梨県歴史文学館 彼杵から道は曲がりくねって谷間を通りニノ瀬へと進む。この村は一世紀以上前から一本の巨大なクスノキで有名である。すでにケンプファーは一六九一〔元禄四〕年にこの木のことを述べており、その周囲を六尋と見積もっている。精確に測ってみることは骨折り甲斐のあることと思い、元気な門人たちの助けを借りて地面のすぐ上の所で幹を測った。 周囲は、一六・八八四メートルあり、このことから直径は五・三七日メートル、面積二二・六七五平方メートルあることがわかった。ケソプファーの時代にすでにそうだったが、木は空洞になっていて東南の側は全く空いている。約八フィートの高さの枯れた根が空洞の入口の前に今なお立っている。空洞は日本の畳八枚を並べて教くことができるから、面積は一四・五七七平方メートルある。従って一五人がその中に立てるという報告は誇張ではない。この空洞は高く幹の内部に通じているが、それでも幹は非常に丈夫で強い枝をもち、ひろく枝を広げ葉の茂った梢がある。純粋のクスノキで、日本の南方地域ではこの木から樟脳をとる。近くに小屋を建てて、この驚嘆すべき巨木の話を聞かせて布施を受けているひとりの貧乏な老人が、われわれに次のようなことを物語った。この木は日本で崇められている宗教家の弘法大師の杖から生じたと。われわれはこの伝説を全面的には信じようと思っていないが、この木が第八世紀という古い時代(なぜなら上述の弘法大師は七七四年〔宝亀五〕に生まれた)に由来しているということが単にもっともらしいばかりでなく、この木が一三五年以上前にすでにこんな大きさになっていて、今日と同様に空洞をもっていたことを考えてみるならば、その古さを認めてもよいだろう。クスノキは非常に高い樹齢に達し、幹や梢はのびて大きく広がり、梢は遠くからも見え、神聖なドイツの柏の木とよく似ている〔この瀬のこの大樹は明治二〇年ころ切り倒されたという〕。また日本のいくつかの樹木は、大きさのために特別な名声を得てている。たとえば甲斐の国の矢立の松・一〇フィート以上あるといわれる上総の大銀杏などである。また日本の杉もたいへん太くなる。私は直径五フィート以上の巨木を見た。彼杵の年を経た巨木の正しい姿は第六図に示す。その幹には手のとどく限りの周囲に、名前や格言やその他の銘などをいっぱい書いた紙片が貼ってあった。われわれはなおそれにオランダ語を書いた一枚を加えた。払の門人のひとりは、計った大ささを日本語で書き加え、この木は計れないという噂に終止符をうった。計れないというのは大さのためではなく、北と東北の側で斜面が接近を拒んでいるためなのである。 嬉野温泉 われわれは嬉野への旅を続け、昼食後に有名な温泉を訪れた。この温泉は山の麗の石膏屑の上にあり、そこを掘りぬいた長さ約六フィート、深さ二フィートの湯壷に、沸騰し泡立ちながら湧き出している。底では砂が舞い上がり、その中にはたえず気泡が生じ、枠は炭酸石灰でおおわれている。浴場へ導かれる湯は浴槽の横にある比較的小さくて深い貯水槽に溜まり、溢れた湯は樋を通って横を流れている小川に落ちる。湯の色はきれいで普通の水と変わりなくすっかり澄み切っていて透明である。臭いは弱く硫黄を含んでいる(が硫化水素の臭いではない)。味はやや甘味があり、比重は〇・九九五である。湧きでる湯の温度は列氏七四~七五度〔約C九〇~九一度〕であるから、卵は数分でかたく茹であがってしまった。この源泉を化学的に調査したビュルガー君は次の結果を得た。「石灰水は白濁しなかった。酢酸鉛は水を強く乳濁させた。硫酸酸化第一鉄は緑色となり、濃縮された酸は気泡を生ぜず、没食子チンキと鉄青酸カリウムは変化を起こさない。塩酸酸化バリウムは強い白色の沈殿をきたし、硝酸銀はそれを乳濁した」。 これらのことから、この水の中には主として硫酸塩と少量の塩酸度が溶解して含まれていると考えられる。注目すべきことは、源泉から遠くないところの石膏床に天然の硫黄が存在していることである。この源泉それ自体、同じくすべての浴場と小川のかなりの距離の間は湯気でおおわれていたし、付近の木の葉、とくに楠木の大木は黄色くなっていた。熱湯が流れ込むところからそれほど遠くない小川には、日本人がよくハエとかハイなどと呼んでいるアブラミスの一種がいる。さらに下って約一二ないし一六メートル行くと、次のような魚類がとれる。すなわち、金鮒・黒鮒・白鮒・ショウトク・アプラ・シロハエ・鯰(なまず)・鰌(どじょう)・飛鯊(とびはぜ)である。これらの魚類は温泉の守護神に奉納することになっているから、土地のひとがここで魚をとることは禁じられている。浴場はたいへん簡素である。杮葺(こけらぶき)二階建の三つの広間から成り、そのうちふたつの大きな部屋には三つの浴室、小さい方には一つの浴室がある。三つの浴室には二つの浴槽があり、残りの浴室には一つだけ備えてある。浴槽は内側を石で囲んだ容器で、長さ六フィート・幅はその半分で、人は随意に湯や水をその中に入れることができる。ふだんは浴槽にはただ熱い湯がみたしてあって、入浴者は自分の好きな温度にうめさせる。浴場の入口には監視人や番人のいる小屋があって、前庭には入浴客のための、庭に面した小さい家がある。日本の医者は、慢性病や痘癒・麻疹の病後の療養として、また麻痺のような運動器官の弱っている場合、痛風(つうふう)やリウマチなどの時にこの嬉野温泉の利用をすすめる。一回五文ないし十文文(五百文は約一グルデン)と入浴料金が安いから、裕福でない人でも温泉を利用することは容易である。 嬉野の近郊 塚崎温泉 武雄温泉 嬉野の近郊は、われわれが一部を既に通って来た区間と同様にすべて火山的形成の特質を著しく帯びている。円錐形の山々が周囲の地平線を境し、高い丸屋根のように遠くあちこちに聳え立ち、至る所に異常な平野の姿をみせている。それらは古代並びに近代の火山的形成として、以前の流動状態や地底からの強烈な隆起の跡をなおはっきりと示している。嬉野から数時間進むと塚崎の温泉があるが、三つの登りという意味で三坂〔三間坂の誤りか〕と呼んでいる高い山を越えて道が通じている。この塚崎付近の温泉はまた武雄温泉の名で知られていて、同じ名の山麓にあり、一般に嬉野温泉と同様の物理的・化学的性質〔今日の調査では成分が異なる〕を示している。ただ温泉の温度は列子四〇度〔C五〇度〕に過ぎず、湯元の湯溜りはもっと大きく浴室もいちだんと快適な設備をもっている。使節とわれわれは、肥前藩主の浴場で入浴する許可を得た。木製の浴槽で、湯元から湯が運ばれた。その清潔さは驚くほどで、もともと水晶のように透きとおった湯を前もって馬の尾で作った細かい飾でこすのである。塚綺は小さい町で、嬉野温泉と似通った病気に利用され、広い効能があるといわれているから、たくさんの入浴客が訪れる。途中われわれはたびたび茶の栽培と陶器を作っているのをみかけた。嬉野の茶園は全国的に有名で優良な緑茶を生産する。すなわちここでは特に湯気を通してつくられ、そうやって緑色を保つのである。
2022年03月12日
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諫早 温泉 真珠養殖『シーボルト 江戸参府紀行』 初版第1刷発行 1979年7月15日 訳者 斎藤 信 さいとう まこと 東洋文庫87 発行者 下中邦彦 株式会社平凡社 斎藤 信氏略歴 明治44年東京都生。 東京大学文学郁枝文科卒(昭12)。 名古屋市立大学名誉教授。 現職(著 当時) 名古屋保健衛生大学教授。蘭学資料研究会会員。 専攻 ドイツ語。オランダ語発達史。 主著『Deutsch fUr Studenten』。 主論文「稲村三伯研究」など。 一部加筆 山梨県歴史文学館 二月十六日(旧暦一月十日)われわれは七時にたち、多良岳に源を発して諌早付近の海に注ぐエイショ川(Jeisjol‐gawa)という小川を越え、海岸沿いに大村の町に向かうたいへん気持の良い道を進んだ。諌早と鈴田という小さい村の間にはたくさんの茶が栽培されていて、畑という畑には整然と茶の木が植えてある。長崎付近では茶の木はよく見かけたが、きちんと植えてあるのではなく、数本ずつ薮をなして野原に散在していたり、または境に沿って生垣となったりしていた。大村領の境界ではふたりの武士が姿を見せ、使節に挨拶し行列を先へと案内した。彼らは野服(nofuku)を着用し、二本の刀を差し藩主の定紋をつけた黒漆塗りの陣笠をかぶっていた。われわれはまだ正午前に大村に着いたので、太陽の高度をはかり、クロノメーターで経度を観測した。われわれが測定したところでは、大村の町と城は北緯三二度五五分二七秒・グリニッチ東経一三〇度一分に位置し、町の名をとってつけた大村湾の近くにある。大村は四〇の町に分かれ、人口二千をかぞえる。領主上総介(Kadsusanos'ke)〔大村純昌、一七八二-~八三八〕は年収二万七九七〇石、約三三万五千四百グルデンを受け、ここに城を持っている。 真珠養殖 この土地はとくに真珠採取で名高く、領主はこれを占有している。大村湾内の真珠貝の主な生息地は内海であるといい、二ないし二〇尋〔一尋は約一・八メートル〕の深さのところで岩石に付着しており、潜水夫は小舟から命綱をつけたりあるいはつけないで海中にはいり、すばらしく上手に貝を深みから採ってくる。深ければ深いほど、真珠は大きいという。日本で本物の真珠のとれる貝は大部分は大村湾と尾張湾および伊勢・薩摩地方の沿岸でみつかる。蝶番のところにある独特の突起部から袖貝と呼ぶ。 アコヤ貝 またこの貝は、おそらく最初に発見された尾張国の或る場所によって、アコヤ貝と名づけられた。これはメレアグリナ(Meleagrina)具でメレアダリナ・アルビナに非常に近く、さらにいくぶんかふくらみの強い貝殻で、直径三インチをこえることはない。この貝はスンダ諸島に産し、ゲゼルシャフト諸島〔ソシェテ諸島〕のタヒチ島でルソソおよびガルノー氏によって採集されたM・アルビナの変種にたいへんよく似ている。人々は、この真珠貝がたいへん小さいので未成熟の貝だと考えたら誤りである。日本においては決してそれより大きいのは発見されていない。日本人は真珠を一般に貝の玉(Kai‐no tama)と言っていて、商いされる最上程のものを真珠(支那語のDschin‐dschu)と呼ぶが、これは本物のぺルレのことである。本真珠は二種に区別される。銀玉……白真珠と金玉(Kintama)……黄金色にバラ色のさしたもので、これらは珍しくまた色彩や光沢が本当にすばらしくきれいで、一個の小さいエンドウマメの大きさで、小判二枚・約二四グルデンの値がする。これ以外に日本では種々の他の貝が採れるので、なお多くの真珠の種類がある。それはアワビ・ハマグリ・シジミ、それからピナの一種でイカイのような貝の珠はたいてい緑色を帯びていて小さい。日本ではこの真珠をさらに薬として用い、支那や日本の医者は眼病・耳痛・痙摯(ひきつけ)その他の病気にすすめる。 食用の貝 貝類は生のままかあるいは煮るかして食べる。藩侯の真珠採取場の一監視人はデザートに新鮮な貝の皿を出してわれわれをびっくりさせた。われわれはそれを生で食べたり焼いて食べたりしたが、おいしいことがわかった。ビュルガー君は、食べたときキピ粒大の真珠をかんで痛い目にあったが、真珠を得たのは仕合せだった。監視人は真珠を採ることにかけては豊かな経験を持っているようであって、真珠はたいてい貝の被膜の筋肉と膜の間、すなわち動物が殻に食い付いている部分(日本人はそれを貝の柱、つまり貝殻の支柱と呼んでいる)にあると断言したが、私も最近それを確かめた。美しくて円い真珠は必ず外膜のこのところにある。採取者もこのことを良く知っていて、ただそこのところだけで真珠を捜す。 蕗(ふき) 宿の主人の清楚な庭園の中にフキが植えてあって、冬によく耐えている葉は大きく艶がよくて、この種類をひとつの美しい観賞植物にしている。私はこのうちの一本を植物園用として出島に送ったが、晩秋に花をつけた。われわれの植物群の中でフキは、(Tu-ssilago giganteaとして光彩を放っている。後に友人のひとり、江戸の宇田川榕庵(ようあん)が大フキの葉を一枚わけてくれたが、それは直径一メートルあった。出羽の国、秋田付近ではフキはもっと大きくなるということで、日本の画京北斎は彼の画集の中で、農夫がフキの大きな葉の下で、雨宿りしている有様を描いている〔北斎漫画七編「出羽秋田の蕗」の図をいう〕。 大村から千綿(ちわた)街道は、湾沿いに続く丘のけわしい斜面を郡川(Gunnhori gawa 国境の川)が湾に注ぐ河口付近に通じている。森を流れる小川で深くはないが、ときには急流となり、このあたりでは二筋に分かれて海に注いでいる。大きな玄武岩が河床に横に並べてあって、それを渡って人夫や荷馬が過ってゆく。その左岸は巨大な自然石の壁と竹を編んで石をつめた寵を幾筋にも並べて護られている。われわれは大村湾を見渡すすばらしい眺望を楽しみ、一マイルに及ぶサクラの並本道に沿って進んだ。……この道はふたつの村を過ぎて放虎原(ほうこはら)というところに通ずるのだがひとつは紙すき人がたくさんいる江串浦で、もうひとつは松原(Matsubara)といって、鉄の槌で名高く武器・小刀その他の鉄製品を産出する。 天然痘(てんねんとう) ある村落の前にたくさんの藁縄が張ってあった。人々が私に語ったところによると、山岳を巡礼する山伏が伝染病の予防のためにしたのだそうで、厄除けの注連(しめなわ)という。こういう守りの網を張る宗教上の風習は珍しいことではない。この注連縄は近所に流行している天然痘を防ぐためにここに張られていたのである。大村藩ではこの病気の伝染に対処して非常にきびしい処置がとられていて、そのおかげでこの地方はときには一〇年間にわたってこの病気におかされずに済んでいるのである。この伝染病が周辺の地域に蔓延すると、ここではきびしい隔離が実施され、天然痘が或る部落に発生すると、病気にかかっているものはみんな遠い山岳地帯に連れていかれ、完全に治癒するまで看護をうける。こういう追放を免れようとして、ときには家族全部が病人を連れて隣接の土地に移ってゆくのは、そこに避難所を求め、もっと良い看護を受けるためなのである。長崎付近を散策したおりに、私は一度こういう回復期の病人が再び故郷に帰ってゆく行列に出会った。この人たちの中にはこれまでにこの病気にかかった数人の年寄りがいた。彼らはみんな病気で憂いに沈んでいる様子だったし、家族の大部分の者をなくしていた。 離島、とくに九州の西南〔実際は西〕にある五島列島は、長い間この流行病からまぬかれていた。しかし一度この病気が侵入すると、その惨状はさらに驚くばかりである。長崎湾の入口にあり、漁民たちが住んでいた高島という小さい島では、数人の老人以外はすっかり死に絶えてしまったことがあったのを、私は思い出す。天然痘は八世紀の中ごろにはじめて日本に伝わって、まもなく全国に広がって恐ろしい大流行を惹起した。日本の「和事始」という書物の一節によると、九州から新羅は朝鮮半島にあった昔の四つの国のひとつに渡った人々が、七三五〔天平七〕年にこの病気を大陸から日本へもって来たという。いま町や村では一般に竹俯を戸口に竹箒(たけぼうき)を戸口に掲げて、天然痘患者が家にいることを知らせるという予防策がとられている。 われわれは大村湾に望む港町彼杵(そのぎ・薗木と書いた例もある〕に泊まった。ここからは大きな湾に望む広々とした景色を楽しむわけであるが、かつて(一六六一年)〔寛文一〕江戸参府の旅行中この海を渡るのが普通であったオランダ人が、この湾を大村湾と名づけた。 ここは肥前の国の心臓部にあって、東南の方向に広がり長さ約六里、幅は渡し場の時津から大村まで四里ある。そして西北の方では幅半里たらずの針尾瀬戸(Hariwo‐seto)によって外海につながり、瀬戸は彼杵地方の杉崎の先端と冑崎(かぶとざき)の間にある〔この瀬戸の杉崎付近に西海橋〈長さ三一七メートル〉がかかっている〕。海抜三五〇から六〇〇メートルの火山性の山地がこの海盆を囲み、多数の小島が西南に浮かぶ。わりに大きい島があって、その牛ノ浦海岸は今述べた瀬戸の内側にあり、満潮時には力強く流れこむ海水に対していわば堤防となっている。肥沃な稲田……多数のそして村々や漁民の家がこの入江を活気づけ、数知れぬ舟は静かな鏡のような海面に航跡を残して進む。とくに時津から彼杵への舟行は非常に活発で、長崎から九州内陸部に向かう商業は、その恩恵を著しくこうむっている。ただ海岸が浅く、残念ながら大きな船は航行することができない。
2022年03月12日
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代官町に大久保石見守殿と申御郡代有之、然る所金山見立役被仰付、石見守佐渡国へ被遣ける、然る所日々夜々におこりつのり、剰へ逆意企てけるか天の御罰のがれ難く、終には家断絶になよび候よし、甲州においても古府中八幡宮之神主彌兵衛と申者を切殺せり、尤神前におゐて不禮の儀有之しよし、右彌次連之者北下條神主宿に罷在候を、石見守家来竹川監物、渡邊武右衛門両人にて尋ね出し鑓玉に揚げしよし。右神主退転に及び候由、其後佐渡と山城守今に至迄此血脈也、叉甲府御家老諏訪若狭守、新見備中始て國接見之節右両人を討取たり、右武右衛門相果候砌、光明山之ばけ物是をつかみ行を、其時龍王寺慈松寺の住僧座禅致し被候けるか、ふと空中を見給へは死人をつかみ飛行有様成けれは、則住僧印をむすひ給ひ祈念をこらし給ひけれは、彼のばけ物死人を落し飛行けり、是則武右衛門の死骸成しとかや、此時より曹洞宗慈松寺旦那に罷成、また寛永年中之頃大久保石見守(長安)尊體寺旦那と相成、尊體寺を大安寺と改る筈の所、其尚の除地誓願寺屋敷之内、源正寺叉来迎寺この山は八幡長禅寺境迄大安寺之縄張也、間事に夥しき普請成り、土砂材木等は皆鍬澤より来る、然る所天之文字は大の字を之御祈願所、大之文字は国司の祈願也、依之天之字、大之字を付るは逆心之始也と大きに争論に及び、来迎寺は瑞泉寺之末寺なり、叉源心院、權長寺、長信院、帰春院、智心院迄七ケ寺有を、石見守任我意大安寺之境内と定る、故に瑞泉寺住僧季山和尚石見守と大論に及ひけるか、漸々扱ひ候て事済ける、右之替り薬師堂より七里塚迄、此時瑞泉寺之境内、慶長九卯年之事成りとそ、 光澤寺は古へは長圓寺と申し、武田の御一族、大久保石見守此の長圓寺と逆心を企み候模様顕れ、石見守切腹にぞ及びける、此節秘蔵之枕箱あり、右御取上相成枕箱御改被成候所、何事か有けん石見守葬禮之帰り待請、石見守子供三人御成敗被仰付候、長圓寺儀石見守え武田家定紋割ひしの幕貸候に付、跡寺領京都束本願寺へ納候、依之京都より使僧當着いたしける、此時光澤寺京都へ被參、寺競改り本願寺持ちに相成り、公家衆武田織部殿末流也、松平美濃守殿御願によって宝永年中帰參にて武田織部殿知行五百石、小石和村にて被下置ける、右長圓寺は玄公御孫之由申し傳え候、其頃尊称寺之門は古今珍敷造作たりとかや、是石見守寄附の門なり、闕所御拂被成り、右寺旦那之は三分一を申請叉々寺へ寄附いたし候、是は享保中の事成り、さて尊體寺事同年末の二月類焼いたしける、大泉寺寺領百石相滅し、八幡官之此領も百石相滅しける、
2022年03月11日
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