みーしゃのわすれな草日記

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カテゴリ: プロ野球
広島東洋カープ

高橋慶彦選手


彼が甲子園に出場した事も、
カープに、ドラフトで入団した事も、
彼がピッチャーからバッターに変更し、
スイッチヒッターになった事も、

広島ファン

を自称しながら、全く知りませんでした。

実は、その頃のわたしは忙しく、
プロ野球をテレビで見る余裕などありませんでした。

週に3日塾に通い、(通っていただけですが・・・)
週に1回英語を習い、(7歳から習っていたにもかかわらず、全く身に付かず・・・
週に2回剣道の稽古に通い(初段になったら辞めました)
週末には野球の練習をし、(女の子が野球チームに入れるようになったはしりの頃でした)
空いた時間で、友人とバレーボールの練習をし、
(教えてくれる人が誰もいないながら、
「バレーボールがしたい」それだけで、近くの公園で、
見よう見真似で、バレーボールの練習をしていました)

・・・今考えると、とても忙しい生活をしていましたね。

その様な生活をしながらも、読書は好きで、
近くの書店には暇を見つけては通っていました。

わたしの父は、とても厳しい人でしたが、
本に関しては、
「どんな本でも、本はいい物だから、好きなだけ買っていい」と言ってくれ、
本来のおこずかいとは別に、「本代」と言う名目のおこずかいをくれていました。

ある日のこと・・・
その日は、塾に行くまでの時間があったので、
わたしは、本屋さんで、立ち読みをしていました。
バレーボールの雑誌を捜してスポーツコーナーに行きましたら、
そこにあった、

「カープファン」

と言う雑誌に目が止まりました。
広島カープの、ファン雑誌のようでした。
「カープファンを自称しているくせに、このような雑誌があるとは知らなかったわ!」
と思い、手にとって読み始めました。

そこに、 高橋慶彦選手 の特集が載っていたのです。

彼は、投手で入団したもの、目が出ず、バッターに転向。
足の速さを活かすため、スイッチバッター(左右両手打ち)に。
もともと、右利きなので、左を強化する為に、お箸を左で持って食事したり、
その箸で、豆をつまむ練習をしたり、トイレも左手で・・・。
野球の練習では、ひとが練習終わった後、残って練習したり、
人が1の量の練習をしたら、その倍、3倍の練習をして・・・

その様な、練習のおかげで、彼は打率3割、ベストナイン、
盗塁王、33試合連続試合安打の日本記録(たぶんこれはまだ破られていない気がします)、
そして、日本一、日本シリーズでの最高殊勲選手賞など、
多くの記録と、名誉を手にしました。


自分は、才能がないので、努力するしかない。
それも、人と同じだけ努力したとしても、それでは人と同じだけにしかなれないので、
人より多くの努力をしたいと思っている」


わたしは、この記事を読み、感動し、「彼のように努力する人になりたい」と思いました。
また、そこに掲載されていた、彼の笑顔の写真に心奪われ
そして、わたしは恋に落ちました
(この恋が、わたしの人生の中で本格的な恋の始まりだったような気がします・・・
野球選手なのに、野球する所を見ないで、ファンになってしまったのでした。

それから、わたしの生活は一変しました。
まず、高橋慶彦選手(以後、慶彦選手と書きます)の載っている雑誌を集め、
毎日、プロ野球ニュースを欠かさず見る様になりました。
カープ戦の野球中継は必ず、見ましたし、
野球中継のラジオを聞くようになりました。
父にお願いして、スポーツ新聞をとってもらうようになりました。

慶彦選手は、わたしが好きになった時は、
すでに、すごい人気者でした。
カープと言う、地方球団にいながら、
CM契約があり、芸能人並にレコードを出していました。
(全部で、3枚か4枚シングルを出していました。もちろん全部買いましたし、今でも唄えます
彼は、歌はあまり上手くはありませんでしたが・・・)

「ベースボールアルバム」という、一連の選手特集雑誌が、2冊も発行され、
(NO.1は好評の為、売り切れ、絶版に。その為、NO.2が発行されたそうです)
若い女性に、大人気だったようです。

そんなことは何も知らず、ファンになってしまったわたし。
出遅れてしまったことを、嘆きながら、わたしは彼を応援しました。

彼の野球は、華麗というよりは、バタ臭い。
天才と言うよりは努力家、という感じのプレーをしていました。
ですから、ベストナイン賞はもらっても、
ゴールデングラブ賞はもらったことがないはずです。

顔は2枚目だと思いますが、好みもあるでしょうか?
でも、笑った時の目じりのしわが、わたしのお気に入りでした。

彼のことを好きだということを、
クラス替えの時の、自己紹介で話しましたら、
「私もカープファンなの」と言う方が声をかけてくれたり、
「券をもらったから、一緒に見に行かない?」
と、神宮球場や、後楽園球場の券を手に入れた友人が声をかけてくれるようになりました。
そして、一緒に野球を見に行くようになり、
とても親しい友人が何人かできました。

学校で、わたしが慶彦選手が好きなことはとても有名になり、
担任の先生がわたしのことを
「高橋さ~ん!」 と呼ぶようになったりました。
(わたしの旧姓は高橋ではありません

その頃の、わたしは、
慶彦選手と結婚できると信じていました。
(ああ、若いという事は無謀でした・・)
合宿所にファンレターをせっせと送り熱い思いを書きつづっていました。

が、もちろん人気者です。
返事が来るわけはありません。
それでも、結婚できると信じていたあの頃・・・

ある日、



と言う記事が飛び込んできました。
婚約したか、結婚が決まったかと言う記事でしたが、
涙が、知らないうちに流れていました。
ポロポロ、ポロポロと。

しかし、実はその頃のわたしは、
もう少し、手の届きそうな野球選手にも恋をし始めていました。
それが昨日少し触れた、日本ハムフィターズの選手、
五十嵐信一さんでした。

慶彦選手の結婚で、ショックを受けましたが、
ひとつの恋を忘れるには、ひとつの恋を始めるのが一番の早道の原則通り、
わたしの気持ちは、五十嵐さんに向かいました。

慶彦選手のことは、それ以来、すうっと気持ちが引いてしまったのですが、
昨年の日本シリーズで、ロッテのコーチとして、グランドに立っている慶彦さんを見て、
自分の青春時代の切ない気持ちをを思い出し、
また、相変わらずの笑顔に、少~し気持ちが揺れてしまいました。

そう言えば、当時の就職活動の面接の時、
趣味の欄に必ず、「野球観戦」と書いていました。
すると、面接官の方達は、だいたい興味を持って、質問してきます。
「どのチームのファンですか?」
「広島です」
「広島のご出身ですか?」
「いえ違います。
広島に、高橋慶彦選手という方がいるのですが、彼は努力の人だそうで、
『努力は人を裏切らない』といって、人の何倍もの努力をされ、実力を付けたそうです。
彼のように努力できる人になりたいと、常に思っています」
その様な、受け答えをして、面接をくぐりぬけ、
わたしは、第一希望の会社に入社できました。

決して、「彼に恋をしていました」とは言いませんでした♪





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最終更新日  2006年06月28日 15時12分17秒
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