イエローミワの徒然草
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三児の母。家庭の事情で昼は高齢者施設、夜は飲食店で働きながら、シフトを調整して時間を作り、音楽仲間とライブをする…それが当時の私であった。所属するバンドの名前は「音のタネまき一座」、地元で活動していたミュージシャンがある目的に引き寄せられるように繋がったグループである。その目的とは「我が町大阪狭山を音楽でいっぱいの心豊かな街にすること。」始めるのが難しくて、「聴く側」になりがちな「音楽」を、もっともっと「発信する側」になって楽しんでほしい…という気持ちで「音のタネまき」とつけた。2005年秋、「音タネ一座」は公民館で「シュチュエーションパフォーマンスミュージック」略して「シチュパ!!」の講座講師をしていた。1歳から72歳まで参加の楽しい講座。そんなとき、当時公民館職員だった岡田さんとお手伝いスタッフの田中さんが、なにやら、熱く語っていた。小耳にはさんだところでは、「中高生の居場所づくり」だとか「沖縄」だとか「エイサー」だとか話している……。……何かややこしそうだ。巻き込まれぬように、聞こえないふりをしよう。出来るだけ、そっとしておこうと思った。そして、「シチュパ!!」の本番。会場にはなぜか、彼女たちが熱く語っていた沖縄で中高生の舞台「肝高の阿麻和利」を手掛けているスタッフの一人、Mさんがいらっしゃっていた。(何で、私らのステージを観に来てるんだろう・・・)Mさんは、私がその舞台で演じたお掃除おばさん「きいさん」を大変気に入ってくださり、「沖縄にきてください!」とおっしゃってくれた。その言葉を聞いて田中さんがひとこと、「繋がった!よかった!」と。ん?私の頭を「思惑(おもわく)?」の一言がかすめる。「シチュパ!!」の本番後、喜びと安堵も束の間に、Mさんを交えて、「大阪狭山キジムナーの会」発足式が始まった。出席者はその活動を支えようと集まった地域の大人や先生、そして実際に修学旅行で沖縄戦と向き合い、阿麻和利メンバーと交流した中3の子供たちも来ていた。何はともあれ、お世話になった二人のため…私はひたすらラジカセにマイクをあてて音出しをしながら、気が遠のくほどの疲労感の傍ら、目の前で行われている風景をかすかな意識で認識していた。ただ…はっきり覚えているのは、当時中3だったYが、「自分たちが中学校で取り組んだものを終わらせたくない。次に繋げたい」といった、後ろ姿だった。田中さんの一言とMさんの登場で、なんとなく他人事ではない予感がした私は、後日、岡田さんを質問攻めにする。なぜ沖縄なのか、なぜエイサーなのか、なぜ中高生なのか、具体的に何がしたいのか、最終着地点はどこなのか…。今思うと、そのころの彼女にはその質問は、とても辛かっただろうと思う。わかったことは、地域の空白世代である中高生の居場所をつくりたいということ、沖縄で感動の舞台体験を通して中高生のひとづくりをしている平田大一さんの理念を継承し、そんな活動がしたいのだということ、そして…翌年の3月31日、サヤカホールを予約していることだった。。。。。困った。。。。。何が困るって、このあまりにも無謀な計画をした田中さんと岡田さんの「熱い思い」の純粋さだけが完璧で、私はそんな二人を絶対ほっとけない・・・その「ほっとけない」ことに困ったのだ。その場では、「『はじめてのお使い』のカメラマンみたいな気持ちで、とにかく『見守り隊』としてスタッフになるわな」という返事をした。まだ形が出来ていない「うどい」の準備会に十数名の子供たちが集まった。発足式で「終わらせたくない」と語ったY達である。私が最初にした作業は、彼らの「言葉集め」をすることだった。目的は、オリジナル曲づくり。さあ、何を題材にしたいのか・・・。蓋をあけると、「沖縄からもらった平和への思い」だった・・・(後に、このことが、私がうどいの脚本を書くことをためらわす一番の要因となる。)そして、それをもとに出来上がったのが楽曲『風の声がきこえる』である。そして、その6月、「表現倶楽部うどぃ」の公民館講座が始まった。講師は、この活動のきっかけになったエイサーグループ「狭山人(さやまんちゅ)」と、私の友達で琉球舞踊の先生をしているマックだった。私は、ボーカル指導と制作班の見守りスタッフ。まだ、舞台のことなんて誰も考えていなかった。8月、平田大一さん来る。土と太陽の匂いがする平田さん。宮本亜門氏監修舞台の演出家で那覇市の芸術監督という前情報に硬くなりながらも、子供たちを生き生きと指導してくださる天真爛漫な平田さんをただただ眩しくみつめていた。そのあと、スタッフと平田さんの食事会。さやかホール前のレストランに平田さんと先にいっといてと田中さん(…思惑?)。その席で、平田さんが、一言。「来年3月の舞台のことですけど、僕が出来るのは監修ですね。僕は…誰とお話を進めたらいいでしょうか」……即答できなかった。どうしよう。あの時、何を食べたかも覚えていない。その日、一睡もできず、ある決心をし…。翌朝、集合時間よりだいぶ前に公民館に行くと、早く来ていたスタッフがもう一人。イケメン大学生スタッフのコージだ。彼も、昨日、このままではいけないと感じてくれたのだった。今日、平田さんが帰られる。いらっしゃる間にこっちの体制をはっきりさせなければと。コージに話があると別室に呼び出し、矢継ぎ早にしゃべった。主婦で嫁で仕事を掛け持ちしてて3児の母である自分だけで背負いきれる話じゃない、一緒に支えてほしいと頼んだ。彼はこくりとうなづいた。そして、二人で岡田さんのところへ行った。「3月の舞台、正式に引き受けます」さあ、脚本作り。書かなければならない内容はわかっていたが、躊躇していた。彼ら彼女が「表現したい」と選んだ内容は「平和への思い」、つまり、戦争に触れなければならないからだ。一番避けたい内容だった。当時、私は、老人ホームのデイサービスで働いていた。そこで、「回想法」というものを担当しており、日常で戦争体験を生できく立場にいた。少尉の娘さん、戦闘機のパイロット、ご主人を亡くされた方、兄さんを亡くされた方、舞鶴で引き上げ船の世話役人をしていた方…たくさんの体験をききながら、戦争の捉え方は人それぞれであることも知り、ただただ寄り添い、事実を受け止めていた。そんな「戦争」の話など書けるはずがない。「この役割、私じゃないのかも。」しかし…「風の声がきこえる」の歌詞を思い出しながら思った。この歌には、人と出会い、成長していく子供の姿がある。大切なのは、「子供たちが心を動かし、自分で考え、行動し、成長していくこと」だと。テーマは、それだと。等身大でいい。何も知らないところからでいい。それなら……題材にこだわりも主張も何もない自分がいいと。題名は「風の声がきこえる」だ。そこからは、一気に書き上げた。書き上げてからも、何度もさやかホールで上演されることをイメージした。会場にあらゆる境遇の老若男女になって座り、舞台を観るシュミレーションをした。偏った見方をしていないか、知ったかぶりをしていないか、誰かを傷つける表現をしていないか、善悪をつけていないか・・・頭も心もヘトヘトになるまでその作業をくりかえし、チェックした。そして、舞台「風の声がきこえる」の脚本が出来上がった。楽曲『風の声がきこえる』、この曲はうどいの原点である。
2013年11月21日