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京都は 東山の南部にある東福寺の側に、皇室にゆかりのある泉涌寺があります。【泉涌寺】 (せんにゅうじ)真言宗泉涌寺派總本山 開基 月輪大師(がちりん) 山号 東山 御寺と書いて、 「みてら」 と称します。皇室に縁あり、天皇両陛下お揃いで、「京都国際会館・世界大会」に御臨席の際に、行幸が有りました。当初、弘法大師が草庵を建てられ、「法輪寺」とされましたが、後に月輪大師が再興されたその落慶の時に泉が湧き出したので「泉涌寺」と改名されました。現代でも残っています。 「山門」をくぐりますと、左側に 「楊貴妃観音像」 の祀られたお堂があります。 楊貴妃観音堂そして再び「山門」に戻り、広場の坂道を下った正面に、【仏殿】があり、高坐に「運慶作」と言われる「釈迦・阿弥陀・弥勒」の三尊が祀られています。天井の龍の絵と堂裏に画かれた「白衣観音菩薩」絵は、「狩野探幽」の作です。「涅槃図」も有名です。仏殿が坂下にそして仏殿にまつられた三尊像の高さと門をくぐる人間と同じ高さに仕組まれています。人仏一帯の精神です 【霊明殿】四条天皇を始め、歴代の天皇・皇后・親王のご位牌が奉納されています。 霊明殿 特別に別拝観料を払って、入れます。是非皇室の雰囲気を味わって下さい。本坊霊明殿の奥には、別世界の様に、東山を背景にシーンと鎮まり返った雰囲気の御陵「十二帝陵」が有り、今回も両陛下が玉串の奉納を捧げられました。小鳥もさえずり自然の静けさは心が洗われます。御陵の入口 十二帝御陵東山が背景【舎利殿】(しゃりでん) 御釈迦さんの分骨を祀る舎利殿【泉涌水屋形】 (せんにゅうすいやかた)今でも泉が涌いて居ます。泉涌水屋形 【清少納言の歌碑】屋形のそばに建てられています。皇室のお傍に仕えられて歌碑が遺されています。 清少納言の歌碑並んだ位置屋形のもみじ「夜をこめて鳥の空音(そらね)は謀(はか)るとも、よに逢坂の関はゆるさじ」 清少納言(966~1027)夜がまだ明けないうちに、鶏の鳴き真似をして人を騙そうとしてもこの逢坂の関(男女が夜に成って過ごす)は決して許しませんよ。中国の故事函谷関のようには、鶏の鳴き声を部下にさせて、関守をだまして、関を開門させた逸話。清少納言は66代一条天皇の時、中宮定子(ていし)に仕えましたが、定子が24歳の若さで亡くなり宮仕えをやめました。そして晩年は定子の墓「鳥戸野陵」の近く、つまりこの辺り「東山月輪」で余生を送ったそうです 泉涌寺には、幾度か訪問してきましたが、ついぞ時間的余裕もなく同じ境内に塔頭として、京都らしい素晴らしい庭園のある寺院を初めて訪問しました。そして感動受けました。菊花展 泉涌寺境内を盛り立てていました華道のお師匠さんが和服姿で京都らしいです。明日は大徳寺に参ります
2017.04.30
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東福寺の本山の境内には塔頭寺院があり、夫々見所が有ります。本坊だけ観て、訪れない方が殆どです。 退耕庵 (たいこうあん)塔頭 北門の近くに有ります。小野小町作と伝える高さ2mの【玉章地蔵】(たまずさ)(文)と「小町100歳」像が有ります。伏見区醍醐の「小野の随心院」にも有ります。後日ご紹介します。 玄関までの路 入口の門 入った右側に お地蔵さんがあります。 岸信介基総理大臣の植樹 岸家の菩提寺【霊雲院】 (れいうんいん)塔頭 重森三玲作枯山水庭園。 【臥雲の庭】(がうん)と 【九山八海の庭】 (くせんはっかい)金閣寺にも「九山八海の名石」(中国より取り寄せた)が有りました。凹凸に飛んだ又美しい庭園です。九山八海は、 「須弥山」 (しゅみせん)の形を現しています。これを須弥檀と言います仏の世界でお寺に行きますと仏像を祀っているお逗子とか祭壇があります。。 九山八海石塔 九山八海石塔 霊雲の庭龍吟庵にも黒い雲の表現としてありましたね。 庭園 六地蔵尊六道の担当 【地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天】入口に新しいお地蔵さんが歓迎してくださいました次回は近くにある泉涌寺に参ります
2017.04.29
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皆様の温かい応援でアクセス多く戴きましたこれからも京都観光愉しんで観て下さいよろしくお願い致します 【芬陀院】 (ぶんだいん) 東福寺の塔頭 雪舟寺とも参道洗心の道ともいわれます暫し心を浄めて寺院内を訪問 雪舟庭園【鶴亀の庭】 雪舟は少年時代備中(岡山)の【宝福寺】ですごしました。東福寺の末寺法縁あって東福寺に起居していました。たまたま絵描きだけでなく庭園も作庭していました。ある日亀島を造ったところ住職が夜半にそっと窓を開けると、亀が動き出したので、驚いて雪舟に知らせましたら「重石をつけましょう」と石を載せることでとどまったそうです。今も石が乗っかっています。此の話を聞いた、後陽成天皇第九皇子【一条家第十四代の恵観】が雪舟にお願いして、【鶴亀の庭園】を作庭されました。 鶴亀の庭 曲玉の手水鉢と崩家形灯篭 茶関白 一条恵観公好みの茶室が鶴亀の庭の奥にありました。 真ん丸い悟りの窓 四角張った迷いの窓 外側から 関白 一条恵観公の【図南亭】 表玄関 雪舟の逸話幼少のころ小僧として悪戯して、和尚さんから叱られお堂の柱に括り付けられて、お仕置きを受けました。哀しくって泣き仕切る内に涙が床に流れ、何時しか足先で床にネズミ君の絵を描いていました、すると画かれたはずのネズミ君が動き出したというエピソードは有名です。此処でも重い動く亀石に石を置くほどに。明日も塔頭3.を更新します。
2017.04.28
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臨済宗 禅寺では 特に龍がよくあしらわれます寺の名にもよく出て来ます法堂(はっとう)では 天井に龍の絵がその他襖絵にも 龍が画かれています龍は雲を呼び 雨をもたらすと言い伝えられます特に 龍は仏法の護持する護法神とも言われ仏の慈雨をもたらす意味でも大切にあつかわれるのでしょう それにしても 修行のためとはいえ 何処も掃除が徹底し清浄感の清々しい 禅寺の共通した 雰囲気に 心鎮まります本日より、平常に戻り、禅宗の枯山水庭園シリーズを掲載したいと思います。東福寺の塔頭で日頃は、非公開寺院ですが、昨年の秋に特別公開されました。【龍吟庵】 (りょうぎんあん) は、 東福寺第三世住持 大明国師の墓所が有り、室町時代 足利義満の揮毫の 龍吟庵の額縁を拝する 日本で最古の国宝の方丈が 遺されており 書院造り・寝殿造りとして 貴重な建物が拝観することが出来ました。足利義満の定めた禅宗寺院五山南禅寺 五山の上位一位 天龍寺 二位 相国寺 三位 建仁寺 四位 東福寺 五位万寿寺何の理由で順位を定めたかさだかではありません。大徳寺派そして妙心寺派は、誘いを断ったそうです。 通天橋と同じ渓谷洗玉澗(せんぎょくかん)に架けられた偃月橋(えんげつきょう) 方丈庭園 枯山水 竹垣は 龍を呼ぶ 稲妻模様 西側庭園 龍の庭龍が海中から黒雲を得て昇天する姿竹垣は稲妻模様唱和の作庭者 重森三玲 作庭龍の庭黒い雲を表現開山堂 東側の庭園 不離の庭長方形の赤砂はめずらしいです長石を臥せ その前後に白黒の二石を配し幼少のころ狼に襲われそうになられたとき国師の身を二頭の犬が守ったという故事により配されましたやはり竹垣には 稲妻模様国宝 寝殿造りの方丈額縁は正面から写すことは禁じられました方丈の額縁は五山設定の足利義満が書いたとされます 熊笹 表門 重要文化財奥に寝殿造りの屋根がみえますもみじの美しさも少し見えました明日も東福寺の塔頭を巡ります。紅葉狩りは愉しまれますが本坊の庭園そして塔頭の素敵な庭園は殆ど訪れられません。勿体ないと思います。
2017.04.27
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禅寺の枯山水の庭園を鑑賞して観ましょう京都の禅宗には各派がありますが、今回は南禅寺を五山の上位とする第4位東福寺にまいります。 【東福寺】 東山区臨済宗東福寺派総本山 開基 聖一国師 山号 慧日山「東福寺」をはじめ塔頭が、存在します。「紅葉」の時期には、京都駅にも近いことからか、立錐の余地も無いほどに、人出が殺到します。 足利義満の決めた、禅宗の五山の第四番目に当たります。大きさを誇張するように、寺名も奈良の東大寺と興福寺から、一字ずつ採って名付けられたそうです。【七堂伽藍】 (しちどうがらん)形式を採り、【伽藍面】(がらんづら)ともいわれています。 三門【三門】 【国宝】禅寺としては、日本一古く大きいとのことです。扁額には【名雲閣】(みょううんかく)と書かれ、足利義持公の筆跡です。三門の上に登りますと、正面に釈迦如来像・十六羅漢像は定朝作と云われています。特別拝観で内部は拝観出来ます。 法堂【法堂】 (はっとう)釈迦如来が祀られ、天井の龍の画は、【堂本印象】作です。時節(3月14日~16日)に【涅槃図】(ねはんず)が 拝観できますが、此処も【猫】が神妙に構えて画かれている事で話題と成っています。何故なら「お釈迦さま」が亡くなる前に中毒の病で、空から「摩耶夫人」(まやふじん)母上が薬袋を投げられたところ【投薬の語源】【沙羅の小枝】(さら)に袋がひっかかり、【ねずみ】が木に登り取りに行こうとしたとき、猫が阻み、お釈迦さまのもとに間に合わなかったとのことで、十二支からも外され、功を得て、ねずみから始まる事に。何でも室町時代の画家 明兆 が画いているうちに絵具が少なく成り猫が近所の絵具屋さんから運んで来てくれたので 猫をそっと画きくわえたとの逸話がありますGoogle画像「東福寺涅槃図」で検索されますと「ネコ」と矢印がしてあります 市松模様の庭園【本坊】方丈の西と北庭には、苔で 【市松模様】 で飾られ、芸術を感じさせられます。庭園は「重森三玲」(しげもりみれい)作です。塔頭寺院の【龍吟庵】も【霊雲院】の枯山水も同じ人の策定です。 方丈庭園 通天橋【通天橋】 (つうてんきょう)この周辺が、「紅葉」で最も楽しめるところです。渓谷「洗玉澗」(せんぎょくかん)のもみじは、最高に美しいです。【開山堂】【普門院】開基聖一国師の入定の地で、ちょっとした庭園が広がります。明日は塔頭庭園に参ります
2017.04.26
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慶長7年、徳川家康は、信徒の結集に畏れ、本願寺に土地を与え東西に勢いを分けたことから東西の本願寺があります。国宝が無いので世界文化遺産には登録されていません。東本願寺御影堂 (ごえいどう)親鸞聖人を祀り千畳敷の畳は日本一祈りと法話を聞く所京都タワーを望む右東本願寺勅使門左、イチョウの樹本願寺の火災の時に、水を吹きだして消火に役立ったとの謂れ。京都駅前が近いです本願寺前の噴水イチョウの樹 御影堂廊下堂内入り口 堂内撮影禁止千畳敷の一部を龍の手水京都タワーと伽藍今回夜間のイルミネーションがイベントのあるときLED投光で七変化に映し出されるようになりましたむJR 京都駅JR京都駅正面駅構内の吹き抜け改札口入場した改札口1番線 2番線に電車右手の建物が 新幹線乗降の場所。京都駅のご紹介で、旅情を楽しんで下さい。明日は京都駅に近い東福寺へ参ります 奈良線次の駅が東福寺です
2017.04.25
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2009年12月25日わたしのブログ始めて3日目の文章です【作家・有吉佐和子先生ご乗車】西本願寺よりご乗車あり 乗務して・三日目、西本願寺の前を堀川通北進中、門前で和服姿女性数人の方が、手を振られ、乗車される前に此れから【有吉佐和子先生が乗られます。くれぐれも粗相のないように】と一瞬緊張感が走りました。側には客待ち他社のタクシーが停まって居るにも拘わらず エムケイを待って居られました。車中気さくに「京都は落ち着いて宜しいですね」と敬語で語り掛けられ、対話も弾み思い切ってご意見を聞いて見ました。「先生、新人のタクシードライバーとして、どのよう心掛けして行けばよろしいでしょうか?」「そうね、急発進・急カーブ・急停車を避けるようにされては、【物】はころころ転げても、文句言わないでしょうが、【人間】は感情を持っていますからね」正に至言で「今後座右の銘として大切に生涯護って生きたいです」先生は京都での執筆のために落ち着いた北区に邸宅を保持しておられました。 作家ともなると、日頃第一線で働く人とのコミニケーションを採り、作品に活かされて居られるものだと、敬服致しました。有名な先生を新人としてご乗車受け、勇気と誇りを感じた次第です。その後のお客様のご感想 「とても乗り心地が好いね」とよく褒められました 感謝 ここから現在のブログです 戦国時代と寺院を辿りますと 先に織田信長によって【石山本願寺】(大坂城の当り)逆らうとして焼き討ちに会いました 豊臣秀吉は本願寺を庇護して 西本願寺が建ちました国宝飛雲閣は 秀吉の建てた【聚楽第】(じゅらくだい) から移築二条城の北にあって 関白と奉じた甥の豊臣秀次に住まいさせましたが謀反として全て焼き討ちしてしまいました 文化財として惜しまれます西本願寺 浄土真宗 世界文化遺産 阿弥陀堂 御影堂 (ごえいどう)親鸞聖人を祀り、祈りと法話が行われます 国宝飛雲閣と国宝書院の特別拝観がされました。私としても一生で2回目の鑑賞ができました。 国宝が多く存在するので、世界文化遺産に西本願寺は、登録されました。 大徳寺の芳春院の呑湖閣も合わせると京の四閣とも、非公開です。 飛雲閣 池面に映されています。 水鳥が泳ぐ 飛雲閣への庭園 特別名所(国宝) 虎渓の庭 国宝 能舞台 日本最古のものと言われます 国宝 唐門常時、観られる国宝【唐門】(からもん)は、西本願寺の南通用門の側にあり、 西本願寺の境内にある龍谷大学 大谷学舎 黄石公の馬上 張良が沓(くつ)をおし戴く 中国の故事が、表裏で物語っています。良く観ると馬上の白髭を生やした師匠 【黄石公】(こう せきこう)の沓(くつ)が片方脱げて有りません。その左側に跪いて、沓を捧げ持つ人物が観られます。【張良】その人でした。 黄石公が兵法の教示を願う張良を試す為に、幾たびか、沓を投げ飛ばし、それを、堪えて沓を捧げたと。結果黄石公から太公望の兵書を授けられたそうで、後に天下統一を果たしたと云います。 瀧の水で汚れた耳を洗っている 下流で牛に水を飲ませるのを汚れた水として、手綱を引きとめてのまさないように 滝が流れ一人の人物【許由】(きょゆう)が耳を洗っています。側に川流れに牛を連れた【巣父】(そうほ)が立っています。 許由は、中国の神話上の穏者で、当時の皇帝【堯帝】(ぎょうてい)が許由に帝位を譲ろうとしました。許由は思いも掛けない誘惑と大層心を乱す言葉を聞いたと汚れた耳を洗って清めています。一方その事を知った巣父も汚れた川の水を牛に飲ませまいと手綱を引き挙げている姿が観られます 此の故事はお寺さんの守衛さんもご存じなかったですそしてほとんどの方が 美しいとだけで 素通りされるのでもったいなと思いました昔の中国人は 素晴らしい思想を持っていたのですね次回は東本願寺に参ります
2017.04.24
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京都には、徳川に関係する遺跡が多いです。過日の金地院に東照宮が建てられているように徳川家康には、側近の僧として金地院崇伝そして南光坊天海がいました。家康75歳で亡くなった後、神として祀るため贈り名に「明神」は先に秀吉が付けているので【権現】(菩薩の世を救う仮の姿)ときまったそうです。 御所の近くに徳川幕府は朝廷との交渉しやすく二条城を築城し伏見城は廃城となりました。徳川幕府は15代続き現代に至るまで、文化財は世界文化遺産の評価を得られるほどに脚光を浴びています。 本日は、修学旅行生では、欠かせぬ二条城です。【二条城】 世界文化遺産登録 修学旅行生が、近年タクシー観光を各社利用される学校が増えて来ました。一見贅沢の様ですが、安内による【見所】貴重な時間の有効性、迷わずに目的地が、多く観られます。そして何より大切な事は、【安全管理】父兄の方が一番我が子の安全を心配。要所に先生方が、待機して生徒さんたちに、安堵感を与え、微笑ましい光景が、見られます。二条城の外周 二条城の周囲は、2km(京都御苑は4km)ジョギングされる方を多く見かけます。それだけに、観光コースも三通り1.二の丸御殿の内部だけ見て帰られる2.二の丸御殿と池を廻って帰る。3.本丸庭園も観られる方、でしょうか。 二条城のあらまし•1. 徳川家康が、上洛の際の宿所として、1603年造営•2. 徳川家康と豊臣秀頼との、二条城会見がここで行なわれました。•3. 家光の時、後水尾天皇をお迎えすることで、外堀の西半分を拡大し、城郭として、盛大な宴が、模様されました。後水尾天皇の中宮が、家光の実の妹で【和子】(まさこ)後の【東福門院】で尚更に盛大にお迎えの設備が整いました。•4. 家光以降は、将軍の上洛もなく、幕末14代家茂の上洛が有りました。•5. 1750年落雷で、天守閣焼失。1788年天明の大火で、建物一部焼失しました。•6. 1867年(慶応3年)15代将軍徳川慶喜の【大政奉還の儀】が二の丸御殿大広間で行なわれました。•7. 1884年徳川幕府の終幕で、宮内庁の所管となり、二条離宮と改称されました。現在は、京都市管轄となりました。•8. 【国宝・二の丸御殿】•9. 【特別名勝・二の丸庭園】小堀遠州作庭 順路•1. 駐車場前の受付。•2. 東大手門(重要文化財) 暴れん坊将軍によく出てきます。東大手門 •3. .番所 江戸から毎年2組(1組50人)が、4月に交代で派遣されます。裃姿(かみしもすがた)が上役の人形です。坐姿は、番士の人形です。•4. 土塀に5本の筋が見かけられます。【筋塀】と称し、門跡寺院等寺格を表すと申しますが、京都では殆ど5本です。寧ろ「飾り」と思えます。 国宝唐門•5. 【唐門】二の丸御殿の正門。西本願寺の唐門と同じく、「伏見城」から移築されたとの伝えです。良く観ますと「雲龍」「竹に虎」「牡丹に唐獅子」等豪華で鮮やかで、盛んにシャツターを切って居られます。 国宝・二の丸御殿•6. 二の丸御殿の入り口前庭、プロの写真家が記念写真をと待機しています。 他でも、シャツターチャンスと考えてよいでしょう。国宝・二の丸御殿は、二条城訪問で最も貴重な見所です。旅で時間の忙しい人は、此処だけを観て帰る人が多いです。時代劇・特に徳川幕府のお城の御殿の雰囲気と襖絵の絵画は美術館を訪れた感激を覚えます。全て写真撮影禁止で残念です お城の中って、どんな構造に成っているのでしょう。下級武士から、殿様まで、そして「大奥」と、テレビで紹介されますが、実際に目の前に、見せてくれますのが、ここ【国宝・二の丸御殿】です。玄関には、龍安寺で、ご紹介した【懸魚】(げぎょ)が、目立ちます。下足を脱いで、スリッパに履き替えます。順次各部屋ごとに、説明付のボタンが、設置されています。短いですからね利用されると面白く見られます。【二の丸御殿】(国宝)桃山時代武家風書院造りの代表的な建物です。•1. 【車寄】(くるまよせ)・遠侍に付けられた御殿の玄関です。 欄間を見上げますと鶴・牡丹・鳳凰が見られます。聚楽第 の遺稿といわれています。豪華ですね。•2. 【遠侍】(とおさむらい)・柳の間・若松の間・勅使の間 お城に参上した大名や外来客の控え室と成っています。 柳の間・若松の間・襖の絵により名付けられました。 共に「目付役」が、来殿者の受付をする所で、来殿者の 心を和らげる雰囲気があります。 虎の間・三部屋に分かれています。大名の控え室で、 虎と豹の絵が描かれています。説明では、当時生きた 現物を見たことがないので。虎を雄・豹を雌との構想で、 微笑ましいです。城の威厳。武将の厳しさを表現したので しょう。何れも【狩野派】の絵とされています。3.【廊下は鶯張り】知恩院でも、紹介させてもらいましたが、皆様 が廊下を歩かれると、「きゅつ・きゅっ」と音がします。「忍びの 者が、潜入してきても直ぐわかる仕掛けとも言われています。 後ほど、庭園に出られたときに、建物の廊下の下部を覗きますと、 仕掛けが解かります。4.【式台】式台の間・老中の間。老中の間 老中と参上した大名と挨拶を交わした場所 【狩野探幽25歳】豪華な老松が襖(ふすま)に描かれています。 「切手」に登場しました。 東入り口の杉の戸の【八方睨みの獅子】何処から見ても正面を 向きます。5.【大広間】 「一の間・二の間」将軍と緒大名との対面所。最も大切な場所 です。人形がずらりと並んでいます。将軍は、小姓と、上座に 控え、「武者隠しの部屋」も控え、「桃山時代」の「武家風書院造り」 典型をなします。違い棚・付書院、天井は二重折り上げ格天井 (ごうてんじょう)この部屋で、【大政奉還の儀】が行なわれました。265年間の徳川幕府でした。徳川家康の亡くなった日は 元和2年4月27日(太陰暦) 1616年6月1日何でも鯛の天ぷらに食中毒してその後75歳でなくなったとか。たまたまその前の年1615年6月に大阪夏の陣で豊臣勢力を滅亡させた直ぐ後でした。豊臣秀吉 醍醐の花見行列4月の後慶長3年8月18日(1598年)62歳にして伏見城でなくなっています。両者とも当時としては天寿を全うしたともいえます。朝廷より 神号を賜る豊臣秀吉 豊国大明神徳川家康 東照宮大権現織田信長 建勲 大広間を過ぎますと、更に奥に、【黒書院】と【白書院】があります。【黒書院】は、奥御殿で、将軍と親しい諸藩の大名の内輪の対面所です。特に紀伊・尾張・水戸の「御三家」で、「大政奉還」の審議は、この部屋で行なわれたといわれています。注目すべき襖絵は、「狩野探幽」の弟「狩野尚信20歳」の桜の絵が、描かれ、兄の豪壮に対して、とても和やかな、優しい 落ち着きを感じさせる襖絵です。【白書院】いわゆる、【大奥】で、将軍を囲み、将軍にお茶を運ぶ「女官」控える「局」と控える「女官」が、人形で表しています。襖絵は、狩野兄弟のお師匠「狩野興以」の「山水画」です。此処より、折り返し、牡丹の間・ソテツの間そして、二条城から手渡される、パンフレットに「鷹」の図がありますが、大広間の裏「四の間」に豪快な「老松にとまる鷹」の絵に、目を輝かせてくれます。この部屋の左方の欄間には、牡丹、往路大広間の三の間がその裏側になり、同じ欄間に「孔雀」が彫られている事に、ご注目下さい。厚さ35cmkの幅で、異なった「彫刻」がなされています。老中の間そして最後に「勅使の間」を見て、下足した場所に戻ります。部屋数33室・畳数800畳余り有るそうです。 とても広くって、第一段階ここから時間がないので、引き上げるが多いです。 特別名勝史跡【国宝】・二の丸庭園 更に、玄関の出て、右手に「庭園入り口」があり、【二条城二の丸庭園】(特別名勝・国宝並み)小堀州遠作庭。豪壮な石が並び、瀧が流れ、石橋・鶴島・亀島と配置良く、庭園の「要素」を備えています。 庭園入り口を入って、直ぐ右手に、先ほど巡った「二の丸御殿廊下」の軒下をのぞいてみますと、「鴬張りの仕組み」が見えます。本丸への門 内濠 本丸此処で、引き返す方も有ります。堀の橋を渡りますと第三段、【本丸御殿】天明の大火で、焼失、現在は京都御所に在った、旧桂の宮御殿を移築されました。庭園は明治時代に作庭、精洋風に作られています。 天守閣があった跡地【天守閣跡】天明の大火の直前、落雷で焼失しました。現在平坦な空き地に、なっています。帰路。【清流園】江戸時代に「角倉了以屋敷」から建物の一部と庭石800個を譲り受け全国から名石300個と集め、「和風庭園」と「洋風庭園」を作庭。茶室もあり、大茶会とか、国賓の接待所に利用されました。土蔵。収納庫(米蔵)そして台所・御清所には、人形が有り、「お毒見役」も、見られます。 清流園四季に季節の花が彩り、時間にゆとりがあれば、広域に散策を 楽しめる市民の憩いの場所でもあります。国宝二の丸庭園の桜二条城の苑内明日は 西本願寺に参ります
2017.04.23
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御室の遅咲きの桜 本日2回目の更新です【御衣黄桜】(ぎょいこうさくら)が珍しいです浩宮さまお手植えの八重桜 珍しい桜が宮様の隣に植わっていました 御衣黄桜です神々しいです御室の桜 五重の塔 真言宗 金堂前外人さんファミリーが説明碑を真剣に見ておられました 金堂 本堂堂内には阿弥陀如来 観音菩薩 勢至菩薩がまつられています建物は御所の紫宸殿から移築 御所の雰囲気が溢れています 霊宝館には国宝の阿弥陀三尊像があんちされています経堂説明では、釈迦如来 文殊菩薩 普賢菩薩が祀られ天台宗の学匠であった南光坊天海による【一切経】が収められています 此処でも家康の施策に貢献した南光坊天海の名がみられました南光坊は四国八十八しょ霊場第55番にあり、真言宗御室派とされています【関山】八重桜 少し坂を上って撮影 五重の塔を背景に 仁王門前からの風景手前が御室の桜苑 勅使門の前の桜
2017.04.22
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足利家は、現代、臨済宗として5ヶ所の世界文化遺産を残しました 。天龍寺・西芳寺・金閣寺・銀閣寺そして龍安寺です。衣笠山の見える 等持院そして龍安寺の側にある、世界文化遺産【真言宗】 の大きい寺院をご紹介します。 弘法大師さんが開かれた宗派です。【大子堂】が建てられています。【仁和寺】 右京区真言宗御室派総本山 開基 宇多法皇 世界文化遺産に登録 当初訪問しました、「龍安寺」の隣接した場所に有ります。従って宇多法皇が「夏でも雪景色を見たい」 「衣笠山」 も近くに望めます。正門には「仁王さん」が逞しく 「阿吽」 (あうん)の形相で睨んでおられます。仁王門から【国宝・金堂】その背景大内山を望む 阿形の仁王さん口を開けている 吽 形の仁王さん口を閉じています阿吽(あうん)の仁王さま 仁王門から、正面に大内山を背景に国宝【金堂】が佇み、京都御所から移された、「紫宸殿」で「現存する最古の建物」とされています。 仁和寺は、888年(仁和4年)年号と同じは、比叡山の「延暦寺」も同様です。この辺りでは、タイムカプセルのように、いにしえの御所の雰囲気で満ちています。本尊は阿弥陀如来そして、「脇侍」(きょうじ)には、観音菩薩・勢至菩薩が祀られて居ます。同じ阿弥陀三尊も、「霊宝館」には、国宝の仏像が有り、常時拝観出来るようです。国宝・金堂 手前には、 「五重の搭」 があり、春の遅咲きで有名な、御室の桜園が有ります。御室の桜は、京都でも遅咲きの桜として知られています。その数200本で 江戸初期に観桜の名所となりました。丈が低く根本から枝を張ることが特徴です。最近八重が1割と変化したと地元紙が報じていました。京都最後の桜です。 仁王門より大内山を望む 本日は御殿をバスしました国宝金堂へ 浩宮さまお手植えの八重桜 五重の塔を背景に歴史が遺してくれた貴重な文化財を大切に護れる日本の姿でありたいものです 世界に目を遣れば世界文化遺産をも壊す民族もあり心が痛みます 見所は、仁王門を入って左手に 【仁和寺御殿】 があり、二条城二の丸御殿と同じく、ボタンを各部屋で押すと、説明が聴けます。1.【本坊表玄関】玄関前の庭には、大きい這い松がみごとです。 仁和寺御殿入口の這い松 中に入ると「御室流の生け花」が見事です。側に孔雀明王の掛け軸が掛けられ、香のかおりが落ち着きを覚えます。 白書院の前庭白砂正面・勅使門 右手に仁王門2.【白書院】四季の襖絵が画かれ、廊下から白砂の向かいに「勅使門」「仁王門」を眺めると雄大さを感じとられます。 宸殿3.【宸殿】前には、「左近の桜」「右近の橘」が備わっています。 五重塔を取り入れた庭園4.【宸殿の北側】に廻りますと、五重の搭が借景で心和む庭園の池にめぐり合えます。 池を取り入れた庭園庭園要素「天龍寺の曹源池」と同じく、瀧は水が流れ、「鶴島」「亀島」そして石橋が整っていました。 庭園の共通した形式です。人生観を表現のようです。部屋の襖絵は、大和絵・春の桜・夏の加茂の祭り・秋の嵐山の「三船祭りの絵」冬の交野(かたの)(大阪)鷹狩り 宇多法皇の居室5.【上段の間】宇多法皇の居室で、最も要と成るお部屋です。此処からの庭園の眺めは最高です。天井は貴賓の方が居られる「格天井」で、螺鈿(らでん)細工の床。違い棚付書院が有ります。 霊明殿への廊下6.【霊明殿】近衛文麿公の額・秘仏薬師如来が祀られ、此処からの高台からの眺めも素晴しいです。7.【黒書院】堂本印象の襖絵。「リス」等動物の存在が可愛いです。次回は、二条城へ参ります
2017.04.22
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大覚寺は京都の都造りを嵯峨天皇と弘法大師さんと常に親しくご相談あって基礎的な都が生まれた、由緒ある嵯峨御所として貴重な歴史を持っています。 【大覚寺】真言宗大覚寺派総本山 開基 嵯峨天皇山号 嵯山 玄関 華道嵯峨御流 さがごりゅう 「大覚寺」は「嵯峨天皇」の離宮を寺に改め、代々法親王が継がれた格式の高い門跡寺院でも有ります。境内は渡り廊下で繋がり、広く、今でも御所風の雰囲気に満ちて、優雅な気持ちを味わう事が出来ます。 明智門 【宸殿】(しんでん)後水尾天皇の中宮(皇后)「東福門院」(徳川家光の妹)の旧殿を移築されたものです。 宸殿家光の妹 東福門院さんが御所で使われたたてものを移築前庭に、「左近の梅」「右近の橘」が構えています。「桜」のはずが、100代後小松天皇まで「梅」でした。【勅使門】 勅使門 【御影堂】嵯峨天皇・後宇多法皇がそして弘法大師も祀られて居ます。御影堂左 嵯峨天皇 右 弘法大師京の都造りに貢献されました御影堂から 勅使門を眺める舞楽を舞う台 【御霊殿】後水尾天皇の御法体尊像が祀られて居ます。【五大堂】弘法大師御作と言われる「五大明王」は「嵯峨天皇」が祈願される「本尊」でした。【霊明殿】嵯峨天皇・後宇多法皇を始め歴代御門跡の尊牌、全国華道の師範の霊が納められています。【心経殿】般若心経の写経場。 嵯峨天皇が弘法大師のお勧めで、写経された所、世の悪病が鎮まり、その後も引き継がれています。若い訪問者も増えています。【正寝殿】南朝・北朝が講和された歴史的場所と成っています。結果南朝の後亀山天皇から、北朝の後小松天皇(一休和尚の父君)へ譲位されました。境内のもみじ 境内から大澤の池を望む。 名月や池を巡りて 夜もすがら松尾芭蕉嵯峨・大沢の池で詠まれたとされています。 池を眺める展望舞台 京都観光の人気の高い嵯峨野巡り、侘びしさ、祈りの場、紅葉・桜の名所、景色の名勝、悩める人には慰めてくれる環境。変化があって、四季を通じて、又感想が違うそして、詩歌の跡の文化を味わう観光地でした。 次回は仁和寺に参ります。
2017.04.21
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京都 らんざん 大覚寺大原三千院 と共に、歌われています【大覚寺】 右京区真言宗大覚寺派総本山 開基 嵯峨天皇 【桓武天皇の皇子】山号 嵯山 現代で有りながらも、未だに「時代劇のロケ地」として、大自然の趣を見せています。「大沢の池」池畔からのシーンが多いです。中国の洞庭湖を模して造られ、向いに「遍照山」(遍く照らす太陽のこと)が池面に写され、舟を浮かべて観月にも興ずることが出来ます。池の随分北の方面に歩みますと「名古曽の滝跡地」が、ひっそりと存在していました。百人一首に歌われています。 「滝の音は 絶えて久しくなりぬれど 名古曽流れて なを聞えけれ」 藤原公任(きんとう) この状況で、作詞家 永六輔は、「女ひとり」1節「大原三千院」2節に「栂ノ尾高山寺」そして3節に「らんざん大覚寺」を「京都」として選ばれました。ディュクエイセスの歌 「京都らんざん大覚寺 恋に疲れた女がひとり 塩沢かすりに名古屋おび耳をすませば滝の音 京都らんざん大覚寺 恋に疲れた おんなが ひとり」 大澤の池 池の一番奥に【名古曽の瀧跡】がありました。此処は時間もかかりますので、今回ブログ取材のためこの歳になって初めての訪問で感慨ふかいものがありました。 瀧の鑓水の流れの跡大澤の池に注ぎます。 瀧の水が池に注ぐ場所背景の山は、嵐山です。遍照山が大澤の池に映っています。遍く照らす即ち仏の慈悲この池に写す手法は龍安寺・金閣寺そして銀閣寺でも見られます。そして千円札にも富士山の富士五湖が採り上げています。 テレビ「長七郎夢日記」のロケによく出て来ます 観音堂納経堂 お茶屋からの大沢の池お茶室のもみじ境内の入り口付近遍照山(へんしょうやま)を池に映す景色 神仏混合から お寺の境内には 神社の祠がありますロケによくてできます。写経されたものを収めている塔です池を巡ります池の向かい側の景色です池を巡ります 赤い橋が 見えてきましたこの奥に 名古曽の蹟があります 紅葉 青い 空と池 赤い橋と向かい岸 次回は、大覚寺の内部をご紹介します。
2017.04.20
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嵯峨野巡りも終わりました。嵐山に向けて帰途にあります。本日は、清凉式釈迦像(仏像に縞模様)の原点の国宝釈迦像の祀られた。嵯峨釈迦堂に参ります。 【清凉寺】 (せいりょうじ) 【嵯峨釈迦堂】浄土宗 開基 ちょう然(ちょうねん) 山号五台山 正面・仁王門仁王さん この一帯は「源氏物語」に登場する 「源融」 (みなもとのとおる)が営んだ山荘(栖霞観)(せいかかん)と言われています。「源融」は嵯峨天皇の皇子で、「源氏」の性を受けました。 奈良の東大寺の僧、「ちょう然」が中国「宋」から帰国し、中国の五台山にならって、「愛宕山」を五台山に見立てて「清凉寺」を建立、「栖霞寺」内に釈迦堂を建てました。完成を待たずに逝去、弟子によって其の意志が完成しました。 有名な 【三国伝来の釈迦如来像】【国宝】 (インド・中国・日本)仏像に独特の筋が入り、頭髪は渦巻きのように現されると言う「清凉寺式釈迦」として異色の雰囲気を持つ、「お釈迦さん」です。全国に100体あるそうです。 釈迦堂・本堂 本堂 多宝塔 背景が嵐山 【阿弥陀堂】阿弥陀如来・観音菩薩勢至菩薩(両脇侍)【国宝】左大臣「源融」は、晩年、阿弥陀如来像の建立を発願しましたが、完成を待たずに他界しました。息子達は亡父の意思を継ぎ、一周忌に完成しました。 死後極楽浄土を願っての造像は、後に「藤原頼通」発願の宇治平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像に繋がりました。【釈迦堂内】の【釈迦十大弟子】足には靴を履いています。奈良の興福寺は草履を履いているようです。 十大弟子像には【通肩】(つうけん)は少なく、「右肩」を出している姿が多いようです。この着方を「偏担右肩」(へんたんうけん)と言い、仏や師匠を礼拝するときの恰好とされています。 「十大弟子」にまつわる二題【阿那律】 (あなりつ)釈迦の従姉妹にあたり、お説教中居眠りし、反省して「私は、一生眠りません」と誓い、目がわるくなって失明します。顔を右に向け必死で目を見開いている姿。結果彼は失明しますが、「天眼智恵の目」を得ました。【優波離】 (うばり) 阿那律の従者でありながら、主人より先に出家してしまいました。奴隷の身分で、自分のように身分の低い者でも釈迦の弟子に加えられた歓喜の表情を浮かべています。次回は宝筐院 紅葉の名所に参りります。 JR山陰本線「嵯峨嵐山駅」ホーム左が嵐山・右が小倉山です。 駅を見ると旅情がかり立たれますね。
2017.04.19
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【嵯峨野巡り10】 嵯峨野巡りの道は、愛宕山山上にある、愛宕神社への愛宕街道とも言われています。明智光秀が、愛宕詣でで、おみくじを何回か引いているうちに「吉」と出て「敵は本能寺にあり」と兵士を京に引き返らせたことで有名です。その「一の鳥居」に至る、古い町並みを京都市で数少ない、【伝統的建造物群保存地区】 として、指定されて居ます。鳥居を挟んで、手前に【蔦屋】(つたや)越して【平野屋】と言う萱葺きの茶屋がとても風情が有ります。鮎料理が主で、表に「赤い毛氈が腰掛に敷かれているのが印象的です。 愛宕山の愛宕神社の一の鳥居【蔦屋】平野屋 上から写す【平野屋】愛宕神社(あたご)参詣の古くからの茶店 【愛宕念仏寺】 【愛宕寺】(おたぎじ) 天台宗 開基 弘法大師 山号 等覚山「あたごじ」でなく「おたぎじ」とよばれています。故西村公朝和尚従事 国宝級の修理担当 仏師仏像の知識はこの方から学びました 仁王門 有志の素人さん方々が彫られた羅漢さん 【羅漢石仏】 (らかんせきぶつ)現代一般有志の方の志望で、一個の石が与えられ、各自の構想で、「羅漢像」を彫られたものが、数多く並んでいます。笑顔あり何とも云えない表情が夫々伺える様です。 本堂鐘楼音色が違い妙なる鐘の音が聞かれます境内 釣鐘は音色が変わり 共和音が聖域を感じさせます。本堂は坂の上に、そして境内を通して仁王門が見えます。境内に羅漢さんは数知れず多く奉納されています。 次回は、嵯峨の釈迦堂に戻ります。
2017.04.18
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昨日は、寂聴さんのエピソードに共感して下さる関心を 多く戴きました。人はふれあいによって大嫌いであった人とも180度転じて、お人柄の誤解がとけることと、子供の痛みに母さんの暖かい「手をあてがう」手当てで痛みが癒されることよくききます。まして仏に仕える身の手当ては、徳効があり、感謝の気持ちで共に、「般若心経」を唱えることが大切なことと感じました。 本日は弘法大師さんが清滝川上流で、神護寺を創建され、嵯峨天皇(桓武天皇の皇子)と深い都造りの相談者でもあり、此処嵯峨野を歩かれ、無縁仏の風葬の亡骸を鄭重に埋葬に心されたと思います。 【嵯峨野巡り9】 嵯峨野を【寂】と選ばれた作家としての「寂聴」さん。正にその一言に尽きると思います。法名の名付け親は、同じく作家で天台宗の僧で 【今東光師匠】でした。 【寂庵】を後にして、先ほどの「石仏の三叉路に戻り、散策道を北へ、其処には「化野念仏寺」が有りました。【化野念仏寺】 (あだしののねんぶつじ) 浄土宗 開基 弘法大師 山号 華西山(かさいざん) 参道 受付を入りますと、石仏の群れが一杯に拡がる光景に、驚きを隠せません。 十三塔の前のお釈迦さん「十三搭の前に、「お釈迦さん」が坐り、周りを群れとして石仏が中央に向けて配置されていました。「寂聴」さんの「嵯峨野散策」の本に、お釈迦様が皆様に、お説教されている姿の様に見られます。と記されていました。今は亡き霊が、仏の慈悲で守護され憩うて居られる様にも感じられました。 西院の河原お客様からよく質問を受けます。「石仏は幾つ位ありますか?」毎年お盆の終わり頃の、8月23・24日には、【千灯供養】としてローソクをお供えする行事が有ります。千は数の多いことを意味し、毎年増えつつあるようです。 寺伝によりますと、「二尊院」から「念仏寺」に掛けてこの当たりを「化野」(あだしの)と呼ばれていました。約1,100年前「弘法大師」が「五智山如来寺」を開創され、野晒しと成っていました無縁の遺骸を鄭重に弔い埋葬されたと伝えられ、その後「法然上人」の常念仏道場として、「華西山 東漸院念仏寺」(かさいざん・とうぜんいんねんぶつじ)を建てられて、浄土宗とされたそうです。本尊・阿弥陀如来 浄土宗として、本尊は、西方浄土から東向きで【阿弥陀如来坐像】 (湛慶作) が祀られて居ます。受付に至る石段参道の側に、かなり彫が見にくくなった「釈迦如来・阿弥陀如来の石仏も鎌倉時代の作とされています。 本堂前の地蔵菩薩堂の中を覗きますと、正面の両側に、極楽図と地獄図が画かれていました。【西院の河原】 (さいのかわら) 「空也上人」御作【地蔵和賛】にあの世で嬰児(みどりご)が河原の石をとり回向(えこう)の塔を積み重ねます。「一重積んでは父のため、二重積んでは母のためと・・・」やっと少し積み上げると鬼が来て潰す姿が思い遣られます、罪も功も無き幼子の死界をこの世で回向の大切さを説かれているやに思われました。石仏群の囲いには、多くの「石積み」の形が訪れる人の真心が微笑ましい形で一杯見渡せます。 京の都には、東山清水寺の附近に【鳥辺野】そして船岡山の麓北区千本十二坊に「上品蓮台寺」がありますが其のあたりを 【蓮台野】 と言います。【化野】と三箇所の亡骸の風葬の場所でした。金閣寺の側あたりです。 本堂より、少し奥に行ったところに、【水子地蔵尊】が祀られていました。多くのお参りの「千羽鶴」や「お人形」等が飾られていました。親の姿もこの世で見ずして、あの世に悲しい現実です。 孟宗竹竹藪の小柴垣の中央に立て札が立っています 角倉了以の長男 【住倉素庵】の墓があります 風神雷神図で有名な俵谷宗達と親交あり素庵56歳でハンセン病で61歳で亡くなるまで 此処に隔離 宗達は面倒を看ました死後その悲しみを雷神の身体を白色にして宗達は黒の風神図として供養したともいわれています 更に「孟宗竹籔」を越えますと、墓地がありその入り口には、六体のお地蔵さんが立ち、夫々「六道」の担当で持ち物が変わっていました。常にお地蔵さんが側に付いていて下さっている様です。 古語「あだし」は「悲しい」・「悲しみ」と言う意味から「あだしなる野辺」が「化野」と言われる様になりました。「無情」を端的に表現、「嵯峨野」の風情の一部とも考えられます。 紅葉時の境内 次回はいよいよ嵯峨野巡りの終着点、【愛宕寺念仏寺】(おたぎじねんぶつじ)へと進みます。
2017.04.17
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【嵯峨野巡り8】 【平家物語】に登場する、【祇王】【横笛】そして「渡月橋」の【小督】の哀話が そして【源氏物語】「野々宮神社」の悲恋。此処「嵯峨野」に潜んでいるところに、女性の方に人気が有るのでしょう。 「祇王寺」「滝口寺」を後にして、暫し又歩を運びますと、三叉路に、可愛い野仏が数個道端に佇んでいました。その三叉路を右に少し行きますと右手に 【瀬戸内晴美】 即ち【寂聴】 さんの「嵯峨野」での私邸があり、其の敷地内に庵を築かれました。【源氏物語】の編集も此処で執筆されました。 曼荼羅山 寂庵表入口 現在は一般には開放されていません。私邸前の表札は「瀬戸内」となっています。 【寂庵】 天台宗 山号 曼荼羅山 (まんだらやま)寂庵の命名は、作家で天台宗の僧侶 【今東光師匠】でした。 曼荼羅山は、「寂庵」からよく見渡せます山で、京都五山の送り火中の最後に灯される 「鳥居型」 が有名です。佛教的行事に、鳥居も珍しいですが、【愛宕神社の一の鳥居】があるとしても五山に採用されたのでしょう。 大文字五山の送り火の「鳥居」が曼荼羅山 今は、締め切って、本堂内に入れなくって残念ですが、以前は開放され、時々「寂聴」さんとお客様が会われる機会が有りました。貴重な体験談 (観光ご案内して) ある母娘のお客様を嵯峨野巡りをご案内していました。 娘さんとの子連れのお客様に、訪問をお勧めしましたが、老婆のお母さんは瀬戸内晴美は大嫌いじゃ」と訪問を拒まれました。晴美さんの過去の女性像を考えてのことでしょう。中年の娘さんの説得で、しぶしぶ「寂庵」を訪問しましたら、本当に仏の導きか、「寂聴」さんが本堂に居られました。 お母さんは、脚を痛めておられ、その旨寂聴さんにしぶしぶ訴えられたとき、「どれどれ足を出し成され、手当てと言うでしょう、温かい母さんの手は、子供の痛みを和らげますね、私の手には、仏さまが加護されていますので、良く効きますよ」といって足を暫し摩られました、不思議と痛みは和らぎ、畳の上で坐る事が出来ました。あれほど嫌っておられたお母さんは、「勿体無い」といって涙をボロボロ流して、まさかあの有名な方に、温かく気軽に接して下さった事に、「本当に来てよかつた一生の良き思い出になる」と歓ばれました。 そして、感謝を込めて 「一緒に私と般若心経を唱えましょう」と先導され、貴重な体験をされました。仏にこの日の導きに感謝を一緒にされる寂聴さんの心根が尊く感じました。そして一緒に記念写真を「ハイポーズ」と寂聴さんが二本指を差し出し言われてにこやかな写真がお客様の手に残りました。嫌いと言う前に、会って話される事で、誤解は消滅しました。 現代は、大変お忙しい身、高嶺の雲の上の方と成られ、庶民的に会う機会が「嵯峨野」で会えなくなって、とても惜しい事でと思います。東北にも一寺を設け、東奔西走、人の心を癒されておられます。女性のみのお話会が月に一度あるそうですが、申し込み予約が殺到しているようです。私たちは本当に恵まれたと尊い体験をさせていただきました。今でも良き思い出として残っています。嫌いと心を閉じるのでなく話せば道は開く母性の手は温かく我が子の痛みを和らげる次回は、無縁仏の供養塔が祀られる【化野の念仏寺】(あだしの)に参ります。
2017.04.16
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【嵯峨野巡り7】 「祇王寺」のご感想は如何でしたでしょうか?苔の庭を一周するだけでも、大自然の美しさと侘びしさを感じとる事が出来ます。白拍子の「祇王さん」の華やかさの影に世の無情を身を以って体験され、心の癒しに、仏道に出家され、此処「嵯峨野」の静かな地で、漸く人間の尊厳を会得されたのではないでしょうか。【平家物語】「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無情の響きあり、沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者(じょうしゃ)必衰の理(ひつすいのり)を顕わす(あらわす)。奢(おご)れる者久しからず。ただ春の夜の夢の如し、猛(たけ)き人も遂に滅びぬ。偏(ひとえ)に風の前の塵に同じ琵琶法師の語りが深々と聞えそうです。 祇王寺に隣接した滝口寺の門【滝口寺】 (たきぐちてら)浄土宗 開基 良鎮 山号 小倉山 「祇王寺」の出入り口から、少し山手に隣接して、「滝口寺」が有ります。ここもお寺とは言え、庭先のこじんまりした部屋に訪れるだけですが、「平家物語」「重盛高野の巻」に登場する、平重盛の家臣【滝口入道時頼】 と「建礼門院」に仕えた侍女 【横笛】 の悲恋の舞台となった場所でも有ります。時代祭にも横笛が隊列に加わった写真をご紹介しました。 語り部とし、縁先で訪れる人ごとに、無表情で滔々と語られたお婆さんも、この世から、浄土に召されました。同じ事柄を終日多くの人々に述べられたご労苦は察するに余りありました。【物語】 清盛の西八条殿での「花見の宴」に於いて、「建礼門院」侍女「横笛」の「舞い姿」を、重盛の侍「斎藤滝口時頼」が繁々と見て、ひと目惚れして恋しく想う様になり、恋文を送る様になりました。ところが時頼の父がこのことを知るや「お前は名門の身にして、将来平家一門に入る身上でありながら、横笛ごときを想い染めるとは」と激しく叱られました。 時頼は、主君の信頼に背いて恋に迷う自責から「これこそ仏道に入る為の仏の尊い導き」と決心して、此処嵯峨野の【往生院】で出家し、名を【滝口入道】と改めました。 【横笛】は、都で「滝口入道」が出家したということを伝え聞いて恨めしく思い、自分の恋心を持って居ることを打ち明けたいと、都から嵯峨野の往生院を探し求めて辿り着いた時はもう日も暮れて、夕闇の迫るころでした。荒んだ僧坊から念仏の唱える声が聞えました。心をときめかして、滝口入道の声と聞き澄まして、真の恋心を打ち明けたく女の身で訪れたことを告げてみると、裾は露で濡れ、袖は涙でぬれ、痩せこけた顔付きは、本心で求め尋ねてきた様子は、誰しも抱き閉めてやりたい気になるも、仏道に仕える者として心を鬼にして、同宿の僧を遣わし「全く此処にはそのような人は居りません、何かの間違いではないでしょうか」と言わせました。襖の陰で涙しながら 「横笛」は、悲壮な悲しみで帰る時「眞の心を伝えたく」庭の近くに有った石に歌を「血染め」で書いて帰りました。 そして保津川に身を投じたという説もあります。 「滝口入道」は、未練が残ったまま別れた「横笛」に住まいを見つけられたからには、修行の妨げと思い【高野山】に移りました。これを知った「横笛」もその後直ちに、奈良の 【法華痔】で尼に出家しました。現在本堂に紙製の小さな「横笛像」並びに「横笛堂」があるとのことです。 「法華寺」で尼に成ったと聞いた「滝口入道」は、一首の歌を「横笛」に送りました。 「そるまでは 恨みしかも 梓弓(あずさゆみ) まことの道に 入るぞ嬉しき」 「横笛」やっと心の通じた「歓喜」と「幸せ」をかみ締めて、返しの歌 「そるとても 何か恨みむ 梓弓 引きとどむべき 心ならねば」【あずさゆみ】神事に使う弓ですが、詩の「枕詞」として「春」(張る)に掛け、心の春をイメージしているようです。 「横笛」は、仏道を全う出来た心の安らぎのまま、間もなく法華寺で亡くなりました。これを聞いた「滝口入道」も仏道修行を積み【高野の聖(ひじり)】といわれる高僧に成られたと言う事す。【本堂】滝口入道・横笛の木像鎌倉後期の作で眼が水晶(玉眼)竹薮に平家の供養等が建っていす。【小松堂】平重盛を祀る【横笛歌碑】参道の庭にあり、横笛が指を切って「血染め」で、歌を書いて帰ったと言う石碑嵯峨野の雰囲気は、文学で女性の悲話を以って語られています。現代人としてその昔を偲びつつ訪れるのも自然にも触れ、祈りの気持ちにもさせてくれるようです。 次回は寂庵を訪れたいです。
2017.04.15
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嵯峨野巡りの中心祇王寺 【嵯峨野巡り6】【祇王寺】 (ぎおうじ)真言宗大覚寺派 開基 祇王尊尼 山号 高松山祇王寺 本堂苔がとても美しいです京都は湿地帯ですので苔庭が多く歴史を感じさせます。入口萱葺の門孟宗竹の竹林苔庭手水鉢 800年前を偲びましょう。 「平清盛」 の寵愛を失い、余生を尼になって過ごしたと伝えられる「平家物語」に名高い白拍子(しらびょうし) 「祇王」 にゆかりの寺です。此処にも女性の哀話が話題と成ります。 平家全盛の頃。都に「平清盛」の寵愛を受けた白拍子「祇王」と妹「祇女」が仕えていました。後日加賀の国の「仏御前」が清盛の屋敷に、白拍子として出仕方申し出ましたが、清盛は「祇王には適うまい」と門前払いを受けました。心の優しい祇王は清盛に取り成して。「一度舞いを観られては」と取り成し受け入れられました。 「今様の歌」(いまようのうた)七・五調の宮廷の舞の歌で 「君を始めて 見る折は 千代も暦(へ)ぬべし 姫小松 御前の池なる 亀岡に 鶴こそ群(むれ)いて 遊ぶめれ」 (大原寂光院の池) 繰り返し三度歌ったが声も筋もすこぶる上手で、清盛の幼児の頃悲劇の母御から聞いた懐かしい歌に清盛は、涙してたちまち心を「仏御前」に移したと言います。 清盛の館から追い出される「祇王」は、せめての忘れ片身にと、障子に書き残されました。 庭園の片隅に石碑として建っています。萌えいずるもの歌碑 「萌えいずるも 枯るるも同じ 野辺の草 いずれか秋に あわではつべき」春に草木が芽を出し初々しく萌え出るのも、秋には枯れてしまうのも、同じ野辺の草(自分たちのこと)の宿命。そして時が来ると、哀れにも姿を消していく、そうした同じ道を辿るものです。此処が祇王の追いやられても、優しい心遣いでした。 あくる春清盛より祇王に、「仏御前が退屈しているから、舞を舞うて慰めてくれぬか」と使者をよこすも、あまりの屈辱に祇王は行く気は無かったのですが、清盛の権勢と母「刀自」(とじ)の哀願に抗し切れず,館に赴き歌いました。 「仏もむかしは 凡夫(ぼんぷ)なり われらも遂には 仏なり いずれも仏性 具せる身を 隔(へ)つるのみこそ 悲しけれ」 並み居る諸臣も、祇王の心を察して、涙を絞ったと言う事です。「祇王」は母と妹を伴って、此処嵯峨野に身を寄せ、「仏門」に入られました。その後、暫し年を経て、母子三人が念仏している所へ、竹で編んだ網戸を静かに叩く音がしました。以外や「仏御前」でした。障子に書かれた祇王の真意が理解出来たからでしょう。 あれほどの仕打ちを受けたにも拘わらず、祇王も今は仏に仕える身と、心を赦して優しく迎え容れられました。此処が、誰も出来ない祇王の超人的な愛で嵯峨野を訪れる人のこころの糧そして救いともなり、とても人気があります。 寺とは名ばかり、こじんまりした苔の庭園の側に二部屋の本堂があるだけです。昔は祇王桜が有りましたが、枯れて今は見られません、秋には、紅葉の葉っぱが苔に散らばり、彩なす光景は心癒されます。訪れられれば、必ず、履物を脱いで「本堂」に上がって下さい。ボタンを押すと、上記のお話しが、流れます。そしてもう一つ別室から観られる「虹の窓」を鑑賞してみて下さい。篠竹を斜めに交差した外側に「孟宗竹」が縦に構え、障子を閉めると篠竹から「虹」が写る趣向になっています。 虹の窓本堂の側に親子三人の墓があり、嵯峨野で静かに揃って憩うて居るようです。世の無情から解き話された様に 祇王・祇女そして母刀自の墓 右は平清盛の供養塔 貴重な遺跡の存在で五輪塔 地水火風空宇宙の元素表現他の地に遺跡的な清盛の墓並びに菩提の遺跡の存在が見当たりません。大河ドラマ主役松山ケンイチは神戸市兵庫区「能福寺」三大仏の一つに参詣 仏午前は、加賀に帰って亡くなられたそうです。 次回は、【滝口寺】が隣接して居ます。同じく女性の哀話が潜んでいます。
2017.04.14
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【嵯峨野巡り5.】【二尊院】嵯峨野は、文学にも各所に足跡が有ります。短歌・俳句・古書等に耽るのに最も良き環境でも有るようです。「去来の小さき墓」に一礼して、更に歩を進めますと、伏見城から移したと言う、総門に辿り着きます。瓦の端には、豊臣秀吉の「五七の桐の紋」が見られます。此処が、「二尊院」の入り口となっています。 伏見城から移築された総門 何故、「二尊」と言いますと、本尊が「釈迦如来」「阿弥陀如来」 と如来が二体揃うのは、大変珍しい事で、実際本堂で、仏像を拝しますと、立ち姿で全く同形に見えます。よくクイズで違いを探すような感じです。ならば何処が違うのでしょうか?以前仏像の見方で説明させていただきました様に「手先の指」がお釈迦さんは、手の平を広げ指も揃えて全て伸ばしておられます。一方阿弥陀さんは、此処では、親指と人差し指を丸く結んで居られます。 以前は、仏像の前まで入れましたが、今は観られなくなっていました。でも確かめたいですね。 発遣(はっけん)の釈迦如来はこの世で一切の衆生の往生を勧め、来迎の阿弥陀如来は、彼の浄土に迎えられる。即ち「勧める仏」と「招く仏」とで漏れなく衆生を救済しょうとする仏の悲願から、此処に二体祀られて居ます。 【小倉百人一首】の発祥の地とも言われ、本堂の横には、古式のカルタが販売されています。【時雨亭跡】「常寂光寺」と同様に、小山に登り詰めた処に「藤原定家」の「山荘」である「時雨亭跡」の石碑が建てられて居ました。 参道 参道も「紅葉の名所」で、百人一首では、その美しさを表現する歌が読まれています。 「小倉山 峰のもみじ葉 心あらば いまひとたびの みゆき 待たなん」 貞信公 藤原忠平 小倉山の峰に彩なすもみじ葉よ、もしそなたに心があるならば、このまま、そっと散らないで、もう一度の天皇の行幸を待つておくれ。(紅葉のあまりの美しさを強調された歌) 「宇多法皇」が始め大井川行幸として、訪れておられました。 わが子「醍醐天皇」に見てもらいたい意と考えられます。続いて二尊院のそばの【厭離庵】ご紹介します 【厭離庵】 (えんりあん) 臨済宗天龍寺派 日頃非公開百人一首を藤原定家が編纂した場所とも言われています。「二尊院」から本通りに出て右手少し行きますと、北側に有ります。日頃、非公開ですが、紅葉のシーズンには、特別拝観出来るようです。外の喧騒から、別天地の様に静かな雰囲気を味わう事が出来ます。期日 11月1日~12月上旬 9時~16時 志納金 500円 入口玄関庭園への門居間定家塚本堂 苔生す庭園愛宕水の湧く泉藤原定家が筆を洗ったとされます 懸崖の上に「茶室」を構え、愛宕水の名水で、一幅のお茶は、何とも言えない美味です。「中心山荘の跡地」とも言われています。 嵯峨野は、時雨時が多く、こうした文化も発祥したのでしょうね。 作家も良く来られて、文章を綴られるそうです。昔、静かにお話を伺い、お逢いした年取られた「庵住さん」も今は、この世から浄土へ召されました。時の流れを切なく感じました。 次回は、いよいよ本番【祇王寺】です。。
2017.04.13
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本日は、貧しさの中でも芭蕉の十哲のひとり「向井去来」の棲家「落柿舎」が嵯峨野の風情にぴったりで、田園風景と共にご案内します。 落柿舎【嵯峨野巡り4】 「常寂光寺」の門を後にして、直ぐの所に、のどかな嵯峨野を連想する広い畑に至ります。写真に撮られるには、畑の手前から、彼方にひそかに佇む【落柿舎】 (らくししゃ)は、一幅の絵に成ります。 田園風景 【落柿舎】は、松尾芭蕉門下十哲の一人【向井去来】(むかいきょらい)が閑居した、極めて貧しそうな藁葺きの田舎風の一軒屋で、蓑笠が掛っているのが、印象的です。庭の片隅には 「柿ぬしや 木ずえは近き あらしやま」と記された「句碑」が立っています。 そもそも「落柿舎」の名の由来は、 去来が貧しい生活で稗飯(ひえめし)を食していました。ある年の秋に、庭の柿が豊かに実ったので、売買が商人との間で纏りました。「よし久方振りに、白い飯が食べられるぞ」と夢を膨らませて一夜を過ごしました。ところが夜半から嵐が吹きまくり、柿の実が全て落下していて商談は、不成立と成ってしまいました。「1升升は1升升だな」と観念して「落柿舎」と名付けたそうです。無念の句碑が、嵐と嵐山に懸けている気持ちがよく理解できます。 更に歩を進めますと、右手の墓地と句碑に立ち寄りますと、【去来の墓】がありました。 去来の墓 犬・猫の墓の様な、三角形の小さな自然石が置かれていました。石には「去来の墓」と書かれていました。その直ぐ横に、句碑が並んでいますその中に【虚子】の句碑を見付けました。 「おおよそ天下に 去来ほどの 小さき墓に 詣でけり」 虚子の歌碑 広い一帯は多くの歌碑で囲まれています。その一つです。 実は、左京区【真如堂】内の塔頭に、「向井去来」の菩提寺が 有り、そこには立派な墓があるそうですが、嵯峨野の居心地もまんざらではないと、未だにひそかに眠っているようです。 次回は、小倉山百人一首の基地であるとされる【二尊院】を尋ねたいです。
2017.04.12
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常寂光寺は、日蓮宗で本堂を始め解放されず、信仰を旨としています。仏像の存在すら判りません。「南無妙法蓮華経」のお軸が懸っているとも考えられます。 多宝塔 ブロ友から大河内伝次郎は大分県豊前(ぷぜん)市大河内の出身芸名まで故郷の誇りとして付けられたと教えられました 【嵯峨野巡り3】 大河内山荘を後にして、暫く歩くと、「トロッコ鉄道」「嵐山駅」が有ります。春秋には、桜・紅葉の鑑賞で「保津川」の景勝地を満喫出来る事で、利用する方が多いです。【常寂光寺】 (じょうじゃくこうじ) 日蓮宗 開基 究竟院日愼上人 山号 小倉山 日蓮宗としての観光寺院は、極めて珍しいです。「紅葉」と「歌碑」で訪れる方が多いです。小倉山の山腹にあって静寂で清らかな「常寂光土」に遊ぶような趣が有ると言うので「寺名」が付けられたそうです。 日愼上人は、日蓮宗大本山本圀寺(ほんこくじ)「山科区御陵大岩町」にて僅か18歳で法灯を継がれ「修学」「歌道」への学問及び文化に深く達して居られました。 入口の門 拝観受付 仁王門 【仁王門】仁王さんは「運慶」の作と言われています。 本堂への参道左 男坂 (急坂) 右 女坂 (なだらかな坂)私は女坂を利用しました 本堂前 【本堂】一般に外からしか拝する事が出来ません。 今年も見ごろになりました多宝塔 【多宝塔】紅葉をバックに、よく写真を撮られます。 紅葉の境内京都市街の展望 京都市街の西北の位置に有ります 【歌仙祠】 (かせんし)歌人藤原定家の祠(ほこら)定家像が安置されています。【時雨亭跡】 嵯峨には「時雨亭」は三箇所有ります。「常寂光寺」「二尊院」「厭離庵」(えんりあん)何れも、定家山荘の跡と称して居られますが、昭和10年国文学者の考証では、定家の「小倉山山莊跡」は、常寂光寺仁王門の北即ち「二尊院」南に位置し、「厭離庵」近辺は、定家の子「為家」の住まい、「中院山荘跡」の定説と言われています。寧々さんの寺【高台痔】の山上に「時雨亭茶室」があります。 定家は、このあたり山荘「時雨亭」を構えて【小倉山百人一首】を編纂したとも言われています。【二尊院】と共に往時を偲んで訪れる人も多いのでしょう。 時雨亭は、小高き山に登った所に有り、この辺りからも京都市街が見渡されます。「紅葉」はとても美しいです。【角倉資料館】「角倉了以」は保津峡等を開発した立役者で有り、「藤原定家」の落ち着いた小倉山麓に隠棲所を提供したのが「角倉了以」と言うことで、展示されています。長男角倉素案は風神雷神図を描いた俵谷宗達とも親交がありました 次回は【落柿舎】(らくししゃ)を経て【二尊院】を訪れたいです。
2017.04.11
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野々宮神社から小柴垣そして嵯峨野の竹林トンネルの散策道を越すと俳優大河内伝次郎の山荘に至ります自分の別荘と思って、お大臣気分で、満喫してみてください。 【嵯峨野巡り2】 山荘内の持仏堂 先ず信心から毎日参詣してお散歩山荘の入口 左側右は常寂光寺方面へ 野々宮神社から「小柴垣」の散策路を選ばれるも良し、急がれる方は、【天龍寺裏出入り口】から外に出た所から、豪壮な竹薮の路と成ります。嵯峨野の風情たっぷりの雰囲気です。突き当たった所を左に行きますと、「亀山公園」経由嵐山に辿り着きます。本日はその突き当たった所にある「大河内山荘」に入山してみましょう。 お茶券で和菓子とおうすをよばれる。 【大河内山荘】 映画俳優・大河内伝次郎の別荘 2万平方メートル(6,000坪)故大河内伝次郎は、常に「二枚目」を維持する事によって、この景勝地を確保すべく、精神的には、山荘内に「持仏堂」を祀り信仰も厚く、体力維持には、広々とした我が所有地内を「ジョギング」して努力されたとのことです。獲得に30年要されたそうです。 別荘の邸宅 壮大さが素晴らしいです嵐山を借景は見事 散歩道と茶室 茶室亀山に隣接し、小倉山にも望める別荘で、坂道も含む、自然の亀山に隣接し、小倉山にも望める別荘で、坂道も含む、自然の起伏のある庭園です。小高き丘から、京都市街の眺望も素晴しく、比叡山も良く見えます。向きを変えると、嵐山の桜の遠景も目を見張る景勝に歓喜を覚えます。場所を変えると、保津峡の直ぐ側に面し、「山紫水明」の絶景も観られます。 保津峡の景色 京都市街地の眺望バックは東山三十六峰 暫し、故大河内伝次郎を偲びつつ山道を巡られるのも、良い想い出に成ると思います。 故大河内伝次郎の「執念」でしょうか?茶室の一つの「壁」に染みが自然に浮き出て、主役「丹下左膳」の「顔」が浮かび挙がっているように見えます。片目が刀傷で失明している姿も、敢えて、指摘しないと、判らずに通り過ぎられるようです。みなさんで探してみて下さい。 記念館大河内伝次郎の写真展示 「記念館」もあり、「お食事処」も有ります。受付で貰った「お茶券」で、ゆっくりお菓子と「薄茶」で一服されるのも、心落ち着いて暫しの憩いとなりましょう。 次回は、トロッコ列車「嵐山駅」を経て、【常寂光寺】【落柿舎】へと参ります。
2017.04.10
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嵐山の景観に酔ってその後はいよいよ嵯峨野巡りに参りましょう【嵯峨野巡り1】 歴史の真相は定かでは有りませんが、伝説では、いにしえにも女性の「哀話」が隠れています。そして【嵯峨野巡り】にも、静かに潜んでいます。従って女性には京都の観光で、一番人気があります。勿論春は桜、秋には紅葉の景勝地でも有ります。文化・詩歌にも史跡を見出し、世相の喧騒から人間らしさの原点に戻れそうでも有ります。 既に【嵐山】【渡月橋】そして【天龍寺】世界文化遺産はお話しました。特に 【琴聞き橋】と【小督局】は、筆頭に御紹介しました。 天龍寺を後にして、 「小柴垣」の道を歩み最初に辿り着いた社が嵯峨野巡りの入り口 野々宮神社本殿【野々宮神社】です。祭神は「野宮大神」(天照皇大神)が祀られて居ます。「黒木の鳥居」をくぐるも、こじんまりした小柴垣に囲まれた神域で、小さい苔と池のある庭園も見られます。 苔の庭園 「伊勢神宮に仕える前に「斎宮」(さいぐう・いつきのみや)に選ばれた未婚の皇女が「潔斎」(けつさい)のため1年間篭られるそうです。 【源氏物語】第十帖【樫木の巻】 (さかきのまき)に登場します。【光源氏】(ひかるげんじ)と【六条御息所】(ろくじょうみやすどころ)の別れの場面です。 光源氏(23歳)は、少女のような「紫の上」と結婚したものの、気持ちが充たされなかった。それにつけても、青春時代を埋めてくれた「六条御息所」(30歳)が愛おしかった。その御息所(みやすどころ)が源氏を待ち切れず、「斎宮」とともに伊勢神宮に下向するという。源氏は嵯峨野を尋ねて会おうとするも、会ってくれない。源氏は「榊」(さかき)を持って来て強引に会うことが出来たが「神聖な榊を折って来られたの」と責めて伊勢神宮の下向を思い止らなかった。源氏は、この年上の恋人の深い愛情を無視して心奢って、ないがしろしたことを悔いた。源融は、ほんの近い【嵯峨釈迦堂・清凉寺】に住まいしていました。【嵯峨野の竹薮の道】野々宮神社を後にして、小柴垣から。大らかな嵯峨野の竹薮の道を歩みます。とても豪壮な「孟宗竹」でコマーシャルの背景によく出てきます。天龍寺拝観時の裏手出口周辺にこの素晴らしい竹林の景色が観られます 外人さんも真剣にシャツターを切っている姿を見かけます 孟宗竹林と小柴垣 「孟宗」とは、中国の古事【二十四孝】にでてきます。孝行息子【孟宗】 のお話です。「冬の雪の積もる季節に、母上が、筍を所望されました。孝行息子の誠意の念力と願いが適い、竹薮から「筍」を掘り出す事が出来ました。それを聞いた村人は、感動して「孟宗竹」と名付けたそうです。ここでも中国の良い面があります。昔の中国人は偉かった。でもこの程共産党トップ書記長が【習近平氏】に代わりましたが、日本との外交政策は、如何成るのでしょうか?互恵の政策が立てばよろしいが、支配の傾向がみられます。 次回は「大河内山荘」へご一緒しましょう。
2017.04.09
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本日より嵯峨野巡りの初めに、京都一とも言われる嵐山周辺の案外知られていない名所をご案内します。【嵐山】 右京区京都観光の「嵯峨野巡り」は、最も女性に人気が有ります。その入り口が【渡月橋】を含む此処「嵐山」です。「山紫水明の景勝地」として訪れる人々の心を遺憾なく癒してくれます。嵐山・渡月橋 大堰川の堰き 保津川 渡月橋より上流の景色保津川下りの船「角倉了以」 が「保津峡」を開削、豊かな渓谷は、JR「亀岡駅」からの「保津川下り」でも、スリル満点で、此処嵐山が「終着船着場」となっています。その船着場から、少し川上に、丘に登る階段が有り、少し上ったところに中国の「周恩来総理記念詩碑」が建っていますが、有名な【雨中嵐山】の詩の表現は、嵐山の表現を遍く伝えて下さっています中国の要人が来日の際は、どんなに忙しい日程でも、此処を表敬訪問されます。過っては、「温家宝首相」が訪れられました。今は冷え切っています。 周恩来の碑「雨中嵐山」の詩が書かれています。更に「亀山公園」を登りますと、「角倉了以」そして「津崎村岡局」の銅像あります。特に村岡局は、嵯峨野「直指庵の創設者」で、幕末の影の立役者でNHK大河ドラマ「篤姫」の味方・理解者でも有りました。 角倉了以の銅像保津川の開拓者 津崎村岡の銅像戻って、「渡月橋」は南北に架かっています。見所はブロの写真家が佇む、京都市内から訪れた、渡月橋の手前から嵐山を背景に、シャツターチャンスです。そして渡月橋を南に渡った所から、川べりに降りて、堰を含めて背景に、お饅頭の様に、丸く構えている「小倉山」 (小倉山百人一首)そのバックに「「愛宕山」が見える場所も一服の絵に成ります。 真ん中丸い山「小倉山」 此処から更に、南へそして石段を登りますと、「虚空蔵菩薩」(こくうぞうぼさつ)(知恵の仏)を祀る、【法輪寺】があります。地元での言い伝えですが、子供さんたちの「七五三」のお祝いで、智恵を授かる為に、法輪寺で祈祷して、渡月橋を南から北へ、「振り向かないで、渡り切ると、その子に智恵が授かる」ということで、子供たちは真剣な様子で前を見つめて渡る姿は、とても微笑ましいです。 川の名が渡月橋の上流・下流で堰と堰とで変わります。上から「保津川」「大堰川」そして「桂川」と嵐山の景勝を求めて、多くの観光客がお見えですが、その殆どの方が、目にとまらないのが、渡月橋の北東詰に在る【琴きき橋跡碑】 黒田節の二節の歌詞の情景です 女性の哀話 渡月橋の北詰に碑が建っています。此処で源仲国が小督の琴の音を聴いたと偲ばれます。小督寓居跡渡月橋から直ぐの所にあります。此処には、嵯峨野の女性哀話の一つが静かに潜んでいます。あの有名な「黒田節」の二節に「峰の嵐か松風か、尋ぬるひとの琴の音か、駒引き止めて立ち寄れば、爪(つま)音高き【想夫恋】(そうふれん)」 宮中一の美人でお琴の名手であった 【小督局】 (こごうのつぼね)は、高倉天皇の寵愛を受けていましたが、中宮であった【徳子】(建礼門院)の父である「平清盛」は「わが娘をおいて何ごとぞ」と烈火のごとく怒り、小督を宮中から追い出してしまいました。高倉天皇は、愛しさのあまり部下の【源仲国】に命じて嵯峨野に身を隠していました小督局を探しに行かせました。嵯峨野の此処嵐山を訪れたころ、高倉天皇を恋い慕う想いを込めた【想夫恋】の琴の激しい曲が聞えてきました。そして出会って事情を話し、宮中へ連れ戻されました。今でも「国道1号線東山トンネル」西出口のそばにある、高倉天皇の御陵の側に天皇の遺言により眠っています。 小督局の屋敷跡が、渡月橋の少し川上の「局茶屋」の北側に碑が建てられています。馬を止めて琴の音を聴き入る仲国の姿がまぶたに浮かびそうです。 平家物語の一つです。明日から嵯峨野巡りに入ります
2017.04.08
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【琵琶湖疎水】の一環として、琵琶湖から運河で、トンネルも幾つか超え此処蹴上の小高き水位から水を一気に落として【水力発電】 の構想を造り上げた場所で、運河を利用した荷扱いの船は、 【インクライン】 と言って傾斜鉄道で、平地まで運ばれました。桜の並木で順次その過程を写真で知っていただければ幸甚です。 地下鉄「蹴上駅」下車右手の斜めの坂が傾斜鉄道跡階段を上り詰めた蹴上公園以前にご紹介しました疎水考案者 田辺朔朗工学博士像東京工大(東京大学前進)の卒業論文が採用されました。銅像の前から望む銅像の前から岡崎公園を望む銅像の横に水力を利用する傾斜の土管傾斜鉄道の桜並木京都一流ホテル 「ウエスティンホテル都」日本初の水力発電所明治煉瓦造りインクライン 船を載せています。並木の桜並木の桜傾斜鉄道を望む傾斜鉄道が平地に無事到着下の水面にもぐり込み船は浮かびます。噴水が彼の偉業を感謝と讃えをしています。どれだけ多くの人たちが文明をあじわわしてもらったかを 岡崎疎水の観光船着き場利用 1000円 時間待ちが長く歩きました。【蹴上】 (けあげ) 地名伝説源義経が16歳の時、鞍馬山から奥州平泉へにおもむくとき、此処で家来と一休みしているときに、平氏の群れ9名の馬が蹴上った土が義経の鎧を汚したことで 全員切り殺したということです。 京都の桜岡崎公園疎水べりのソメイヨシノの満開風景写真で送ります。蹴上インクラインから降りた場所の噴水観光船はここから乗船右手に岡崎動物園珍しく「黄桜」が咲いていました。向かいが岡崎動物園バックが大文字山京都市美術館観光船平安神宮の鳥居がかすかに見えます。平安神宮の橋から東を向いて平安神宮の橋から西を向いて。この彼方に 琵琶湖疎水の論文を採り上げた京都府初代知事 北垣国道(きたがきくにみち)の銅像が立っています一学生 田辺朔朗(たなべさくろう)の卒業論文を採り上げましたが莫大な経費予算を要し「こんど きた がきは ごくどう もの」となじられました文明開化 水路の運搬 蹴上水力発電 水道水 電車 邸宅の池の水現在でも潤っています
2017.04.07
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昨日の【蓮華寺】の素敵な庭園を造られた 【石川丈山】 の住持された【詩仙堂】をご紹介します。 月と庭に咲く花そして自然をこよなく愛でられて余生を送られました。【詩仙堂】(しせんどう) 左京区曹洞宗大本山【永平寺】の末寺 開基 石川丈山 山号 六六山 宮本武蔵の一乗寺下がり松 松ヶ崎より白川通りを南下、東に坂を登りますと、 「宮本武蔵」と「吉岡門下」との「一乗寺下がり松決闘地跡」を眺めつつ、更に登りますと、「詩仙堂」の小さい門に辿り着きます。 過っては、皇太子殿下浩宮様が推奨されて、英国の皇太子並びに故・元英国皇太子妃 ダイアナ妃 が訪れられた写真が悲しくも飾られています。 ツツジが東山三十六峰を表現しています。燈籠が八坂の五重の塔 額縁に 【酔花醒月】 (すいかせいげつ)と丈山の隷書で書かれています。花の美しさに酔っている内に、何時しか月が出て目が醒めました。 鹿威し有名な 【僧都】 (添水) (そうず)一般に「ししおどし」の元祖 「蓮華寺」の庭園も造園された 【石川丈山】 が寓居された山荘でもあり、仏間も有ります。 59歳の時造営、90歳で亡くなられました。三河の国の出身で、三河武士として25歳のとき駿府城火災の際に、徳川家康の第11子「頼房(のちの水戸藩主)」当時5歳と乳母を救出した功労も有りましたが、大阪夏の陣で家康より「一番乗り」を禁じられていたにも拘わらす、決行してしまい。33歳で蟄居(ちっきょ)を命じられてしまいました。そして髪を切って「妙心寺」に出家、禅僧の修行をしました。 幼い頃より、自然の美しさ特に「富士山」の霊姿が心に焼きつき漢詩を残しました。そして此処一乗寺村に小さな庵を建て、好きな詩と自然の風景、観月も含め一生を過ごしました。 「詩仙堂」の名の由来は、中国の三十六歌仙を一室に、肖像画は、 「狩野探幽」 が画き、「詩仙の間」を中心に呼ばれる事に成りました。 入り口の額には、 【蜂腰】 (ほうよう) 蜂の腰は曲げて居ます。謙虚を表わすようです。 仏間は、比叡山根本中堂の様に、僧の礼拝される場所を低くして、仏と私たちは同じ高さから拝めるようになっています。 仏間の前に、台所で働く人への注意書, 【六勿銘】 (ろっこつめい)の掲示板が懸けられていました。その裏には、【既飽】 (きほう) の字が書かれ、既に満腹、腹八分目の大切さを説いて居られる様です。【六勿銘】 【火の用心】【戸締り用心】【早起き】【粗食】【倹約・勤勉】【清潔・掃除】 一例を記しますと、 「勿妄丙王」(丙王を妄(みだ)りにする勿(なか)れ)「火を粗末に取り扱うな」の意です。丙王(へいおう)を妄にする勿れ 火を粗末に取り扱うな 根族(こんぞく)を忘るる勿れ 盗賊を防ぐことを忘れるな 晨興(しんこう)をいとう勿れ 朝早く起きることをいとうな 糲食(れいしょく)を嫌う勿れ 粗食をいとうな 倹勤(けんきん)を変ずる勿れ 倹約と勤勉を変えてはならぬ 払拭(ふっしょく)をおこたる勿れ 掃除をおこたるな 石川丈山が庫裏(台所)に掲げて下働きの人の心掛けを促した。嘯月楼 【嘯月楼】 (しょうげつろう) 庵の屋上に、丸と四角の窓が有り。一説には幕府に敵対する怪しい者の見張りが、何時しか観月詩歌を詠まれ自然を謳歌されるように成ったと言われています。 明日は、女性に最も人気のある 【嵯峨野巡り】 に参ります。
2017.04.07
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伏見区 京阪中書島駅特急停車駅の側近くで桜とやなぎが美しいです近くに坂本龍馬の寺田屋があります。月曜日定休で中まではご紹介出来ませんでした 寺田屋の前に伏見港があります運河に成って大阪難波に通じていきます桜と柳が調和していますユキヤナギもきれいでしたテレビによく出る大倉酒造の背景です月桂冠酒造桜と柳十石舟が見えます船着き場側に大倉酒造が見学できます舟の車庫京阪電車の高架橋桜も最も見ごろでした
2017.04.06
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大原三千院鯖街道を伝って高野川にそって八瀬の側にいちします 池の水のとり入れ口は高野川の清流からのものです 八瀬(高野川の上流) 池泉回遊式庭園 詩仙堂の石川丈山作庭【蓮華寺】 (れんげじ)天台宗山門派 左京区開基 実俊 山号 帰命山 蓬莱山 「蓬莱山」に通ずる「石橋」の真ん中の下部に、「仏の手」 と言われる石が間を空けて受け皿のように、立っています。 「宝船」は「出船形式」で船の後ろが満載で沈みがちの表現を苔で表わしています。庭内には「薬草」が満ち満ちています。 蓮華寺型灯楼 庭園の奥に「仏殿」があり、其の前には、珍しい「蓮華寺灯篭」が構えています。六角形の急勾配の笠をあしらっています。 魔除の蝉 入り口の施錠には、 「蝉」 の金具が装飾として付けられ、魔除けの意味だそうです。堂内正面には唐獅子と牡丹の白木造りの「須弥壇」があり、左奥に「阿弥陀如来像」が祀られて居ます。 「天井」には、「愛宕寺」(おたぎじ)住職であった「故西村公朝和尚」 の画かれた「龍」が輝いています。 一応鑑賞が終わりました後に、別室で抹茶とお菓子を茶券で頂戴します。 おうすをよばれる部屋の前の小川 前庭には、小川が流れ右手上流には、池と分かれた水が「水分石」(みくまりいし)の役目のように水を二手に分ける小さい島があしらってありました。人生の分かれ道とも申しましょうか。とてものどかな風情を味わうことが出来ました。 庭園全景次回は同じく石川丈山が建てた詩仙堂に参ります
2017.04.06
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京都御所の枝垂れ桜が咲いたと地元紙が報じました京都はシーズンになりますと観光客も多く 街に出た人の感想では 道路が自動車の渋滞で動かず駐車場も満杯で マイカーは避けられた方が良いのではと御所の桜 京都御苑の枝垂れ桜 (近衛邸宅)八重の桜八重の桜一際人だかりが多かったです枝垂れ桜 枝垂れ桜枝垂れ桜枝垂れ桜枝垂れ桜枝垂れ桜枝垂れ桜
2017.04.05
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【三千院の奥の見どころ】勝林院・大原問答 熊谷直実が座って待機した石法然上人の弟子として護衛のため 「桜の馬場」を更に北奥に進みますと、「律川」の橋を渡ります。その橋の袂に「法然上人」の弟子「熊谷直実」(くまがいなおざね)が坐って待ち構えていたという石が存在しています。更に突き当たりまで、歩を進めますと。正面に「大原問答」で有名な「勝林院」が有ります。【勝林院】 左京区天台宗 開祖 円仁(慈覚大師) 山号 魚山(ぎょざん) 堂内に厳かな「声明」(しょうみょう)が聞かれます。其の雰囲気で本尊「阿弥陀如来坐像」を拝する事ができます。 京都観光の殆どの仏像は撮影禁止で、貴重な阿弥陀如来像です。親指と人差し指を交えて居られるのが阿弥陀さんです。 証拠の阿弥陀さん阿弥陀さんの目は拝する位置によって、怖く・優しく変化します。 僧侶の読経される坐が最も優しく見える45度の角度のようです。阿弥陀さんの手から紐がぶら下がって居ますので、手元の紐を引くと阿弥陀さんと握手した事に成るという事で、浄土へ導かれることを願って実行されています。この手法は、他寺でも良く見かけます。縁があればお試し下さい。 両台座に座して問答 【大原問答】 堂内の本尊阿弥陀如来の前、両側に梯子があり、壇上が備え付けて有りました。一方には、 「法然上人」 がそして、もう一箇所には、「叡山南都の学僧」と浄土念仏の教理を論議・問答して信服させられたと言います。 法然上人54歳対して顕真(けんしん)権僧正(ごんそうじょう)56歳でした。 既成仏教は、王朝貴族を初め、知恵者、特定の富者のみに適ったもので、貧者・大衆・凡俗は、何等仏の救いも無く、実に仏教とは他山の石・無縁の存在とされていました。そこで法然上人は、叡山で修行し会得された結果。誰もが「一意専心・南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることで「極楽浄土に導かれる」と、説かれた時、本尊阿弥陀さんの手から、御光が射したと言うことで、 「証拠の阿弥陀」 と称されることに成りました。その後「浄土宗」として庶民の信仰と広がっていきました。 このとき師匠「法然上人」に危害が加えられるのではと、弟子の「熊谷直実」は懐に鉈(なた)を隠し持って、近くで構えて居たところ、法然上人にたしなめられ、鉈を竹薮に捨てたという事です。 前庭 前庭 勝林院に、隣接して此処も見どころが多いです 【宝泉院】 天台宗 開基 円仁(慈覚大師) 富士の形した五葉の松 法然上人衣掛けの石 入口の小庭 奥の間への庭園門の正面に樹齢500年余の「富士山型の五葉の松」がどっしり構えています。受付で備え付けの「木魚」を叩くと係りの方が案内して下さいます。額縁の竹林【額縁の庭】 として、広いガラス戸の間から、片や「近江八景図の庭園」が片や「竹林」が額縁の中で鑑賞出来ます。「抹茶と菓子」が出され、三千院の鑑賞の疲れに、一服落ち着いて外の景色をゆっくり味わわれるのに最適です。竹林の背景には、翠黛山(すいたいざん)(阿波内侍の眠れる山)ほか大原の里が望まれます。【血天井】 が京都に数箇所有り、その一箇所が此処「宝泉院」でも弔っています。伏見城で豊臣秀吉は亡くなりましたが、その跡は、徳川家が護っていました。天下分け目の一戦で、石田三成に攻められ 伏見城で徳川の忠臣「鳥居元忠(とりいもとただ)一党が、篭城で死守して、援軍の届かぬ内に自刃して果てた、血染めの廊下を、天井に上げて、菩提を弔ったと言う。 宝泉院別の庭園宝泉院庭園 【実光院】 天台宗 開基 円仁(慈覚大師) 「声明」の音階・音律を味わえる場所でもあります。楽器は四国の自然石で自由に鳴らして体験が出来ます此処も、抹茶と菓子で庭園を眺めながら憩う事が出来ます。 又、庭を散策するための履物も、用意され冬でも花を付ける「不断桜」も楽しめます。 滝の流れと小規模の庭園形式の「契心園」も落ち着きます。女性のみが、「宿坊」として利用も出来るそうです。 三千院の北隣り 呂川を挟んで在ります【三千院のお隣り】 後鳥羽天皇・順徳天皇大原陵【大原御陵】 「実光院」の真向かいに位置します。「承久の乱」 (じょうきゅうのらん) (1221年)武士から政権を取り戻そうとして北条義時追放の院宣を下され戦われましたが、敢え無く、鎌倉幕府に破れ「武家政権」が際立つように成りました。82代後鳥羽上皇は、隠岐に、84代順徳上皇は佐渡に配流されました。女官 鈴虫・松虫の安楽寺事件 法然・親鸞上人法難も関係しています 大原の里で御霊は、静かに安らいで居られる様です。遠く歴史を偲びつつ礼拝。【来迎院】 (らいごういん)天台宗 開基 円仁(慈覚大師) 山号 魚山余程、時間の赦せる方しか望めませんが、「呂川」(南谷川)の上流に位置し、慈覚大師円仁の「声明」の根拠地とも言われています。平安時代の末期に「融通念仏の開祖・聖応大師良忍」によって、再興されました。本堂には創建当時の作と言われる薬師・釈迦・阿弥陀三如来の坐像が安置されています。 更に「来迎院」を過ぎて、「律川」(北谷川)の上流かなり山道を辿りますと、【音無しの滝】に出会いました。感無量でした。白糸をたらしたような美しい滝で、巨岩に落下する「水音」は山肌にすいこまれように静けさを深めました。聖応大師が「滝の音」と「声明」が相乱れるのを恐れられ、「呪文」で「水音」を止められたと言う伝説が伝わっています。近くに聖応大師の墓が有ります。今でも仏教音楽「声明」に心して居られる事でしょう。 大原紀行も、此処まで訪れられれば、悔いは残りません。紅葉のころ又賑わうでしょう。雑踏の中でも静かな三千院の奥も愉しんでみて下さい。次回は大原街道沿いの【蓮華寺】に参ります
2017.04.05
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【三千院】左京区天台宗門跡寺 開基 最澄 【さいちょう】 (伝教大師)京都を訪れる若い女性にとって、嵯峨野巡りと並んで人気のあるところです。 「京都 大原三千院 恋に疲れた女がひとり 結城(ゆうき)に塩瀬の素描(そびょう)の帯が水面(みずも)にぬれていた 京都 大原三千院 恋に疲れた女がひとり」水面の池は 【瑠璃光池】を指しています デューク・エイセスの歌声が耳に残ります、作詞家 永六輔が京都の代表として選ばれたようです。 「寂光院」から紫色の「ちそ畑」を眺めながら、坂道を登ったところに「三千院」が有ります。「穴太積」 (あのうづみ)と称して、滋賀県坂本の穴太衆の作業で石垣が目立ちます。地震があれば余計に揺すられて固まる仕組みに成っています。フランスの女性客に説明していましたら、日本人より関心が深く、 「よっぽど自信(地震)が有ったのですね」とジョウクで返されました。桜の馬場と言いますが、紅葉が素晴しいです。 穴太積(あのうづみ)の石垣桜の馬場 大原は、 【声明】 (しょうみょう)の道場の地で、「声明」とは、お経に節を付けて、歌う様にお経を唱えます。とても荘厳で仏への世界へと誘われ落ち着きの保てる雰囲気になります。従って「三千院」桜の馬場の両出入り口「呂川」(りょかわ)と「律川」(りつかわ)が流れる「橋」が架かっています。何れも「声明」の音律から付けられたもので、節回しが上手く行かない時に、酒に溺れて酔っ払って言語のはっきりしない人を「ろれつがまわらない」という語源が出来たそうです。【天台五門跡】 妙法院(三十三間堂)・青蓮院・毘沙門堂(山科)・曼殊院・三千院格式の高い寺院で、天台座主の後継者候補が門跡として、仏事に坐しておられる方が多いです。明治以降にに修理改築された建物と比較的に新しいです。【順路】1.「呂川」に架かる「魚山橋」を渡り、「穴太積」の石塀と茶店で挟まれた「桜の馬場」を散策、【御殿門】の前の石段を登ります。門前に大きく「三千院」の立て札が掲げてあり、記念撮影に、シャッターを切っておられます。 三千院の正面の門 2.受付を済ませて玄関に入りますと、先ず目に付くのが、【香時計】です、朝灯した香の軌跡で時を図る仕組みで、珍しいです。3.同じ場所に、「往生極楽院」の阿弥陀如来の脇侍の一体「勢至菩薩」の大和坐りの写真が大きく飾られています。4.【坪庭】京の都では、昔、面玄関の間口の幅の広さで課税したそうです。そのため奥行きを長くして建造しました。いわゆる「鰻の寝床」と称します。健康上中間に太陽をと言うことで、坪庭を設けました。その雛形が此処にも有りました。家の中に庭を設けたところから「家庭」の語源ともなるほど大切な要素でもありました。「三尊石」植木「千両」そして苔が飾られています。 坪庭 小さくってもホッとする空間です。5.おみくじの元祖「元三大師」が祀られた部屋が有ります。「角大師」(つのだいし)とも言われお札が置かれています。帰って玄関入り口に飾る事で、魔除けになるとの信仰です。6.【聚碧園】(しゅへきえん)「芝法師琳賢(りんけん)」の原作で、庭師金森宗和が自ら手を加えて今日の清楚にして優雅な庭園が生まれました。池の源は、「音無川」の滝よりで、杉木立の間から「往生極楽院」が望めます。小さい池の奥に「枯れ滝の石組み」は古いです。 聚碧園(しゅへきえん)7.【客殿】最近内部が改造されて、開放的に成りました。客殿から「聚碧園」を眺める事も出来る様になりました。 以前は廊下伝いでした8.【宸殿西の間】救世観世音菩薩像(くぜかんぜおんぼさつ)(重文)鎌倉時代作、当初秘仏で観られませんでしたが、今は公開されています。不動明王像。阿弥陀如来像が祀られて居ます。部屋の中まで入って、拝観されることを、お勧めします。9.【宸殿本堂】正面に112代霊元天皇の御親筆の額が掲げて有ります【三千院】と。 本尊は、薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)で伝教大師の作とされています。 向かって右に歴代天皇の、左に歴代法親王の尊牌が祀られて居ます。本尊は秘仏で観られません。 瑠璃光の庭薬師如来のことを別名瑠璃光如来とも称します。10.【宸殿玉座】 三千院の中で最も大切な場所です。高貴の方が坐られる事から、此処からの【瑠璃光庭】と【往生極楽院】の眺めが素晴しいです。 瑠璃光とは、薬師如来の世界往生極楽は、阿弥陀如来の世界 玉座は、高貴な方が坐られる為に、 「格天井」 (ごうてんじょう)になっています。 正面に「王義之」(おうぎし)の【鵞】(が)拓本の大軸が飾ってあります。【虹の間】玉座の前の部屋で、「下村観山筆」天皇を太陽に見立てて画かれた「虹の図」従来の襖絵の常識を破って、鴨居の上の壁にすべきところを、特に「釣り襖」として、天井まで貫く大胆な構図で「虹」が画かれ、世界的に有名だそうです。虹の七彩の美しさもさることながら、下部の壁にまで、「水草」が可愛く画かれているのにも注目して見て下さい。障子の外から手をかざしますと、指の間から虹が映し出されます。「紅葉」ごろは更に美しく反映します。是非試みて下さい。瑠璃光の庭 小さいお地蔵さん11.【瑠璃光庭】本堂前から履物を履き、苔むす広い庭園は、心を和らげます。大きい地蔵菩薩が庭に立って居られます。三千院の美しさ、静けさ、清らかさ、雰囲気を味わう絶好の場所です。「造った庭」ではなく「造ることもなく出来上がっている庭」井上靖が「東洋の宝石箱」とした「池泉回遊式庭園」で、 リュークエイセスの歌女性の着物姿が「水面にぬれた」と歌った場所かもしれません。想像して鑑賞して見て下さい。【紅葉】【雪】景色は表現の出来ない感動を与えて呉れます。 「薬師瑠璃光」の如来の道場のごとく清らかで自然の姿。「杉苔と杉木立」を満喫して下さい。【有清園】瑠璃光庭の一部で、「往生極楽院」の東側にあります。「さざなみの滝」水音が静けさを感じさせます。あちこちに「童地蔵」石仏が微笑ましく、皆様を歓迎しておられます。往生極楽院内部は写真が撮れないのが残念です。12.【往生極楽院】建礼門院さんが慕って大原に 【阿弥陀如来】脇侍として【観音菩薩】【勢至菩薩】の坐像がゆったりと祀られて居ます。極楽浄土への御来迎の形で、「観音菩薩」は、蓮華坐を持って居られます。両脇侍は、あぐら坐でなく、「大和坐り」と言ってとても珍しく、腰をやや立て、今や迎えようとされる、動的感じを与えて居られます。「阿弥陀如来の印相」は「上品・上生」で極楽浄土への最高の迎え方をして居られます。仏さんを大きく囲う為、天井は、船底型になっています。彩色は今は剥げてしまいましたが、往時は、美しく極彩色で有ったと考えられます。板塀には、25菩薩三千仏、天井には飛天、柱には極楽浄土に咲く「宝相華」(ほうそうげ)も画かれていたようでてす。 お坊さんのお話では、「建礼門院さまが、この優しく心の安らぎを感じさせる阿弥陀さん三像を目の前にして、わが愛しき子と平家の菩提を弔うに相応しいとして此処大原の里に余生を送ることを決意されたのではないでしょうか」と。建礼門院さんが慕われた 阿弥陀様三尊のお姿は写真禁止です。 次回は、皆様が殆ど見向きもされずに、帰途につかれますが、三千院の奥に素晴らしい内容が潜んでいます。場所をご案内いたします
2017.04.04
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おおよそ850年前の出来事です京都観光で嵯峨野に次いで女性に人気が有をる【大原の里】をご紹介一生涯を捧げられました。その遺徳を偲びたいです。 【建礼門院徳子】 は、平家が滅びて、その追善を弔うため此処を 本堂 境内 参道の門 本堂参道の坂道【寂光院】 (じゃくこういん) 左京区天台宗 開基 聖徳太子 山号 清香山 建礼門院は「徳子」と言い、平清盛の娘で、80代高倉天皇の中宮(皇后)で、81代安徳天皇の生母で、源平合戦「壇ノ浦」で平家滅亡の際、母子ともに入水されましたが、源義経に母だけが助けられ、一時京都東山の「長楽寺」で、出家され、一説に寄れば安住の地を求め山道を超え大原の里に辿り着かれ、「極楽往生院」の「阿弥陀如来像」の優しさに触れ、「平家一門」の菩提を弔うに相応しいと、余生を「寂光院」で静かに送られたということです。 中宮(皇后)・建礼門院の御陵 侍女・阿波内侍の眠る翠黛山ご主人を常に見守っている 阿波内侍の墓今回初めて辿り着け見つけました 翠黛山・墓地への階段参道謎の苔道の階段初めて訪問 阿波内侍の墓は谷を経て向かいに位置す「翠黛山」(すいたいさん)に上ったところにありました【寂光院】庭園千代の姫小松枯れてしまいました祇王寺で仏午前の舞った歌雪見灯篭 庭園 【建礼門院庵室跡地】 湧き水此処からは一般には入れなくなりました。特別公開となりました。庵室の跡の碑 奥に宝蔵庫積み上げられた石垣は当時の姿を語ってくれそうです。 「建礼門院庵居跡地の碑」が有り、此処に入った途端、静寂と霊気が身に染みて、「寂光院」を訪れたな、と最高の雰囲気を味わう事が出来ます。 未だに「清水」が湧き出て、当時のお住まい方が偲ばれるようです 建礼門院は此処で採れた生花を摘み取り、仏前に供えられたと聞きます。優しい大原の里人に親しく見守られながら この庵室で静かに息を引き取られる時に、西(極楽浄土)から紫雲がたなびき薫香が庵室に充ち、空から妙なる音楽が聞えたと「平家物語」に記されているそうです。幾多の悲しみと苦労を体験なさり、御歳59歳で御逝去なされました。平清盛の娘として、幼くして高倉天皇の中宮として、迎えられながら栄枯盛衰平家滅亡でわが子安徳天皇を救うことも出来ませんでした 御子 安徳天皇の御陵は 壇ノ浦近く 下関に有ります場所は遠く離れて居ても 心は母子よく通じあったたことでしょう明日は大原三千ん院に参ります
2017.04.03
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【霊艦寺】 臨済宗南禅寺派 左京区後水尾天皇の皇女 宗澄尼(そうちょう)のために建てられ五代の皇女によって守られ 谷御所とも言われます天皇の好まれた椿寺としても有名で黒椿もあります日頃非公開で11月21日から12月7日まで特別公開されました表門玄関書院と本堂立石組と燈籠の枯山水庭園坂道を登りました本堂には如意輪観音さんが祀られていました快晴に映えました苔も映えています椿と紅葉の共演です説明が有りました 京洛の名木に指定された樹齢350年扇方に開く紅葉でしたお寺の建つたのが360年前で歴史を感じます降り路 振り返りつつ写真を右の人 苔を撮っていました其の苔庭です【大豊神社】 哲学の道沿いにあります。神社は、此処「鹿ケ谷」(ししがだに)・南禅寺地区の産土神(うぶすな)として信仰されています。鼠の狛犬が珍しいです。 ねずみくんの狛犬阿吽の呼吸 片方は口を「あ」と開け、片方は「うん」と口を閉じています。 4月5日の桜結婚式の後哲学の道 哲学の道は、「道」として日本百選に選定されています。京都大学教授哲学者 西田幾多郎博士が 何時も考えもって散歩されたところから誰言うと無く その名が付けられたそうです。東天王町にある 【岡崎神社】 にも狛犬に変わり「兎」が居ました 狛犬の「うさぎ」 場所は京都御所の西側には、猪の狛犬が有ります。 護王神社 祭神 和気清麻呂 (桓武天皇に仕えた)九州大隅に流された時、野原の周囲か参りますら火攻めに会った時に、千頭の猪が火を踏みつけて消したとのいわれで、猪を狛犬として奉じています。明日は大原【寂光院】に参ります
2017.04.02
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4月に入りました京都の桜の開花の開花宣言が3月31日平年より8日遅れでされました 800年前の出来事です 法然院の側にやはり念仏修行の安楽寺があります。(非公開)キリスト教への弾圧だけでなく、解かり易く一般民衆にも会得出来る法然上人・親鸞上人の説かれた宗教に法難の歴史がありました。安楽寺山門の前に掲げた「京都市の立札」です。 【安楽寺】住蓮山と号し、浄土宗の寺院 左京区鎌倉時代の初め、現在地より東一キロメートルばかりのところに法然上人の弟子住蓮坊、安楽坊二僧が、念仏場を建てて人々に念仏をすすめた。たまたま後鳥羽上皇官女松虫、鈴虫が教化をうけてひそかに出家する事件がおこり、上皇の立腹をうけ、「念仏停止」の宣下によって、二僧は死刑、法然上人は土佐へ親鸞上人は、越後へと配竜流された。これがいわゆる建永二年(一二0七)の法難であるが下って室町時代の末、天文年間(一五三二~一五五五)二僧の供養のため伽藍を之の地に再興したのが、当寺である。本尊阿弥陀尊像を安置し傍らは、住蓮、安楽両上人松虫、鈴虫両姫の座像、法然上人張子の像等をまつっている。また境内右手に住蓮、安楽両房の五輪石塔東方山林中に松虫、鈴虫両姫の五輪石塔がある 京都市 入口の門 本堂 本堂の背景庭園 千両 【安楽寺の縁起】「紫の庵の明け暮れに 心を澄ます谷水の流れを人の聞き伝え 人里まれなる鹿ケ谷(ししがだに)なお山深く分け入りて 紫の庵を結びつゝ」 「御門の寵愛浅からず 数多の官女の嫉妬よりとかく浮世を厭い捨て 菩提の道を求めんと一念心を傾けて 剃髪染衣を求めんと」 安楽寺和賛 住蓮上人・安楽上人お二人の念仏のお話に惹かれて、大勢集まり、精進の妨げと更に山深く庵を求められたとき、一匹の白い鹿に導かれ鹿ケ谷の山中で姿を消したので、仏の導きと、其処に紫の庵を設けられました。 一方、後鳥羽上皇の寵愛を一身に受けた 女官、松虫・鈴虫は、当初清水寺で法然上人のお話に救われ、後に 上皇の紀州へのみゆきの留守に、宮中を抜け出し、此処「紫の庵」に駆け込み、上人の宮中へ帰ることを進めるも、仏道への志高く、両姫は見識も高く美しい姿も投げ捨て、両上人によって、剃髪をされ、出家されました。松虫19歳・鈴虫17歳でした。 女官 鈴虫・松虫の五輪石塔 五輪石塔に至る 小さい門哲学の道沿いに悲しい歴史が有ります昨今特別拝観の【霊鑑寺】の北側そばに其の場が有ります 後鳥羽上皇の逆鱗は恐ろしく、兼ねてより意向に適わぬとして、住蓮・安楽上人は斬首。 法然上人は讃岐国(高松市)・親鸞上人は越後国(上越市)に流罪。【建永の法難】 (1107年) 仏道の僧でありながら罪とされました。 心無い権勢は出来ません、それから14年後に 院政を執られた上皇【承久の変】(1221年)鎌倉幕府を打倒されるはずが失敗後鳥羽上皇は隠岐に順徳上皇は佐渡島へ天皇が配流され土御門上皇は自ら土佐で過ごされました。天皇が配流なんて、私の時代には教わりませでした。 松虫・鈴虫尼僧は、自分の行いが原因で、両上人が、殉教されたと知り、嘆き悲しみその後、瀬戸の生口島(いくのしま)(尾道市)で念仏を捧げ松虫35歳・鈴虫45歳で入寂。 後に、法然上人が戻られ、此処に両上人の菩提を弔う為、草庵を復興「住蓮山安楽寺」と名付けられました。 仏足石【鹿ケ谷かぼちゃ】(ししがだにかぼちゃ)無病息災のために、7月末の夏場の健康維持のためにも、寺院で炊き出し行事が行われます。帰路からみた表門 後鳥羽天皇・順徳天皇大原陵【大原御陵】「実光院」の真向かいに位置します。「承久の乱」(じょうきゅうのらん)鎌倉幕府に破れ「武家政権」が際立つように成りました。82代後鳥羽上皇は、隠岐に、84代順徳上皇は佐渡に配流されました。大原の里で御陵は、静かに安らいで居られる様です。遠く歴史を偲びつつ礼拝。明日は特別公開の霊鑑寺に参ります
2017.04.01
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