日々草

日々草

私のおいたち




 この私のエッセイは、今なお日本の地方には根強く残っている半封建的な家のしがらみのの中であがき、生き方を模索している一人の青年モブ・ノリオ氏に誘発されて書いたものである。

2004年度下半期の芥川賞はモブ・ノリオの「介護入門」が受賞した。選考委員たちの多くが、これは小説に値しないと酷評しているにもかかわらず、この作品が芥川賞の受賞作になったのは、昨年の「蹴りたい背中」のような華々しい話題性でデビューさせ、文学に無関心な層までも読者に取り込んで出版社が利益を得ようと、目論んだのに違いない。
 しかし見事に空振りに終わった。何よりも作者自身がワイドショー的な話題性の対象になることを拒絶し、マスコミから頑なに背を向けたままであること、作品そのものが時代がかった古めかしさと重さのために、軽さがお好みで面倒なことは真っ平の現代の読者のフィーリングには合わず、無視されている。
 受賞直後は、単行本として本屋の店頭に山積みされたけれど、現在は完全に店頭からも姿を消し、出版元の倉庫で眠っているのではないかと思われるほど、この作品は人口に膾炙していない。

 毎週土曜日の午前10時から「土曜インタビュー」という番組をNHKが放映している。これは三宅民夫アナウンサーが時の人、話題の人を訪ね、インタビューするトーク番組である。インタビューアーである三宅民夫氏の素朴で温かみのある人柄が出演者の懐を深く開かせ、その人の人生の核心に気負わずいつの間にか入っている。この番組に登場する出演者たちは、時代の先端で草の根的に、懸命にその道を切り開いて現代を生き抜こうとしている職人気質の人々が多く、視聴者の心に清涼な風を送り込む。とても好感のもてる番組である。

 2004年10月23日(土曜日)のこの番組にモブ・ノリオ氏が登場した。
400年にわたる旧家の跡継ぎであるモブ・ノリオ氏の家、その周辺は絶対に撮影しないこと、彼の部屋だけに撮影は限ることを条件にやっと実現したとアナウンサーは番組の冒頭で断っていた。

 現在も無業のモブ・ノリオは典型的な現代ニートの若者である。

 彼はこの番組の中で、なぜ小説を書くようになったかと言う質問に、《働きたくない》という気持ちから、現実社会を逃げに逃げていたらこんな所に来てしまった。自分のしたいことは何かまだ今もわからない。自分が作家になるのかどうかもまだ定かではないと、大きな濃いサングラス中から、定まらぬ視線で、おどおどと自信なげに恥ずかしげに答えていた。


 作品「介護入門」に登場する《俺》はモブ・ノリオ 本人である。自分の背負う家と一族を呪い否定し、何者かになることを頑なに拒否し続ける金髪の穀潰(ゴクツブシ)し、作品の中で、モブ・ノリオは自分のことを
《・・・何かにつけあっというまに行き詰る己の限界を音の姿に標本化したようで、俺のやるせなさに輪をかける。経験も技術も持ち合わせぬ身も省みず、音楽を作りたいと親の会社を辞めたものの得意先から注文を取ってくる方が余程気楽に思う。そう思った途端捨てた生活を恨めしげに振り返る己の本音に青ざめ、何よりも恐ろしく俺は今生きていないと怖気立つのだ。味わい直す値打ちもない過去を反芻させるのは己の無能無才から後ずさる俺。零地点から再出発を目指しながらも真なる零の強度の前で二の足を踏む俺。微温的過去を手放さぬために決定的に今を逃す俺...》

 こんな俺は自分探しの旅を紐育(にゅーよーく)(New Yorkをルビつきでこう書いている。明治の作家でもあるまいに)に求めて旅立った。その矢先、玄関先の石畳で転んだ拍子に頭蓋骨が陥没骨折した祖母の危篤の知らで急遽帰国した。俺の旅の舞台はマンハッタン島から祖母のベッドサイドに変わった。
《・・・ICUで死体同然の状態から三度の手術を経て膝に抱いた犬に手の甲を舐らせ、テレビを見ながらメロンを頬張るように成るまでの半年以上、母と俺が毎夕食事に食卓で作戦会議を開き、祖母を担いで道なき暗い山脈を行軍し続けた病院からの経緯を周りの親戚は忘れているようだった。脳天気にも医学と偶然の力だけで祖母が勝手に回復したとの考えは断じて間違っている。》
血の繋がりのない嫁である《俺》の母と孫の献身的な介護に真の娘である叔母たちが他人事のように距離おいて眺めていることに《俺》激しく怒っている。しかし、介護は日本の古い家では嫁のすることと決まっている。けして家を出た娘のする仕事ではない。

 ここに登場する《俺》は、本家の内孫として大切に、大切に、真綿に包むように大切におばあちゃんに育てられた。そのおばあちゃんとの記憶だけが彼の生きている唯一の証なのだ。家の後継者としておばあちゃんが魂をかけて育てた孫だ。家を守り継ぐ事は旧家の女たちの人生そのものなのだ。
 しかし、このようなおなご(女)たちに育てられた子どもは社会で生き抜く術を身につけぬまま大人になり、社会に放り出される。旧家の一族とムラのなかで、おとなしく兼業農家として与えられたレールの上を走っている時だけ、その能力は発揮できる。現実の厳しい社会のなかで、自立して生きる大人になる育ちとは対極にあるのがこのムラのくらしだ。お家のためと精魂かたむけて育てた孫は親や祖母を捨て、家を捨て、大麻常習男となりはて黄色の霞のなかで自分だけの見える世界で、個人的(プライベート)音楽家(ミュウジシャン)(プライベートミュウジシャンとルビをふっている)を自称してあがいている。所詮は大人になりきれぬ子どものお坊ちゃんが箱のなかでのた打ち回っているだけだ。

《...俺はいつも、「オバアチャン、オバアチャン、オバアチャン」で、この家にいて祖母に向き合うときだけ、辛うじてこの世に存在しているみたいだ。知らず知らずのうちに、ばあちゃんの世話だけを己の杖にして、そこにしがみつくことで生きていた。それ以外の時間、俺は疲弊した俺の抜け殻を持て余して死んでいる。死んでいる俺を忘れるためか、死んでいることをより生々しい色で知るためか、夜な夜なタールでべとつくパイプに大麻を燻らせる。また黄色が飛びやがる!俺は贋の人生を生きるよりは、血を漲らせた目玉を開き、俺を翻弄する麻の大波に身を巻かれ、死んでいる俺を見つめなおす。そこからでなければ俺には出来ない物の見方がある...》


 長々と モブ・ノリオの作品を引用したのは、この作品の文体の呼吸を味わってみてほしいからだ。この大げさな、時代錯誤のなざらざらした語り口。それは、彼が住み呼吸している滅び行く世界そのものだ。

 この独りよがりと、ナルシズム、現代の青年たちに共通するものでもある。
 そして、私にも分かる。この息遣いが。この作品の世界は私が、半世紀も前に苦しみ悩み、反抗し、否定し、道に迷った私の青春そのものだ。

 私が生まれ育てられた家も、何百年もの間その土地で暮らし続けて今日に至っている寺である。幼い時からその由緒と家柄を聞かせ続けられてきた。祖先を大切に敬い守り、継承すること、繁栄させることの意味を日常生活そのものの中で、祖母は私に示していた。祖母の人生は自己を無にして寺のお庫裡(クリ)さんとしてムラのなかに土着して働き、働き通して生きることである。傾きかけている寺を再興し次の世代に渡すこと、それがまず何よりも優先されるべきことであった。
 家に自己を埋没させて、じっと耐えに耐えて生きる事が生きがいであるかのような祖母の生き様に、私は幼いときから激しく、心ひそかに反抗していた。私はその祖母に育てられた。まず家があり、次に家があり、そこに暮らす者の人間性は家に従属し省みることさえ許されない閉ざされた世界。お互いが家という一点で寄り添い、依存しあって生きる閉ざされた土着の世界。封建制の倫理観に埋没ししまっているこの世界で、私は、おとなしい優等生として、大人たちの論理にけなげに懸命に合わせて生きていた。

 この家が娘の私のために敷いてくれたレールをことごとく退け、捨て去り、私が自分の足で立って歩こうとあがいていた日々、それが私の青春時代だ。
 何者かに成りたいとあがいた日々。すべてを捨て去って零の地点から己の足で立つことの困難さに打ちひしがれ、出口の見えぬ日々。私にはもっと別の才能があるのではと捜し求めてあがいていた日々。
 しかし現実は、自分の背負っている家から孤立無援の状態で自力で生きられるほど甘くはない。

 お寺の庫裡(クリ)さんとして寺に嫁ぎ、人生を送るなら、きっと有能な嫁、庫裡として生活していたであろう。私はそのような人生を送るよう育てられ鍛えられていたと思う。そのように祖母は私を育ててくれていたと思う。その祖母の思いを乱暴に踏みつけ、振り切って頑なに家に背を向けて生きてきた。この家には戻りたくない、戻れないという一途さだけで進んで来た。

こんな私が一人の青年と出会った。

 彼も又、崩れ落ちつつある重い家を背負っていた。過去の栄華と没落の落差の中で道に迷っていた。

 戦争、終戦、農地解放、戦後の復興と激動する歴史に翻弄され、すべて財をなくしただけではなく、精神までも社会の激動の渦にのみこまれ、社会の吹き溜まりの中で人としての尊厳をなくして金まみれになり、自分たちの不遇を恨み、まっとうに働く意欲すらなくしている一族郎党のなかで、必死に逆風に抗して道を求めていた。
 彼らの拠り所は、自分たちの祖先が地主としての権力と名誉を誇示していた家柄だということだけだ。二言目には「今はこんなだけれど、うちの家柄はよかった。」である。

 世はまさに高度成長期にさしかかろうとする時であった。みな豊かさを求めて活気に満ちていた。皆、浮かれているのに私たちは打ちひしがれていた。
 すべてを失った者同士、私たちはまさに零の地点からが新しい生き方を求めて出発した。その中味には差異があったが、自分の家を捨てたいという一点で一致した。

 古い家を否定した私たちにとって、どういう家を構築していくのかは避けては通れぬ課題であった。とりわけ、子どもをどのような人格に育てるかは自分たちの背負っている古い家を止揚して新しきものを作り上げねばという脅迫観念にも似た思いがあった。

 個と個によって結ばれる家庭、しなやかに自分を解放して振舞える家庭、個の発展が家庭という集団になっても保障されるような家庭を意識的に作りたかった。個というものが何ものにも拘束されないで豊かに発展できる家庭、この考え方の実践はかなりの強風のなかを逆らって生きることと成った。さらに、社会の中で自立した大人として、確かな生きる力を持った人間を育てる事が私たちの生きる上での目標となった。

 それは子どもの人格形成の問題であると同時に、親である私たちがどう成長するのかというテーマでもあった。

 それはまた古い家父長的な家が最も克服しなければならない人格の問題でもある。

 日本の資本主義の高度成長は近代的自我を非常に未成熟のまま、むしろその自我を半封建的な家父長的な倫理性に押さえ込むことで、物言わぬ勤勉な労働者を働き働き働き続けさせる事で発展してきたと思う。
 彼らは物質的豊かさを得る事で満足し、心は《家》を《企業》にと置き換えて従属して生きて来たのではないか。学校もそうだ。お上の言葉に盲目的に素直に従う大量の勤勉な労働者を世に送り出すことであった。彼らの経済基盤は土着の家である。半封建的な家父長的な倫理観にささえられた家である。これは日本の資本主義の底辺を支えてきたいかにも日本的な特殊性ではないか。

 この数年、地方都市で青年や、少年少女の痛ましい殺人、殺傷事件が後を絶たない。この記事の執筆中にも、無業の青年(19歳と28歳)が両親を殺害するという事件がたて続けて起きた。親の職業は、一方は中学教師であり、他方は市立博物館の副館長(公務員)である。ニュースで彼らの家屋敷を映していたけれど結構な豪勢な住まいである。地方の貧しい公務員が零の地点から出発して一代で築けるような家屋敷ではない。
 このような階層が地方のムラ社会の中でどのような暮らしをしているのか私にはありありと思い描ける。彼らの内包する矛盾がここにきて頂点に達しているのだ。彼らが資本主義社会の高度成長期に手にしたものは豊かな財だけではなかった。その息子、娘たちが人として育ちそびれているのだ。
 いずれこの家は消滅する。勤勉に家を守り続けてきた親たちが到達した地点がこれだ。

 私は近頃、若い頃あれほど否定し、反抗して、憎んできた祖母のことをふと心に浮かべている。
 懸命に家のために生き、激しい時代の転変に翻弄されながらも、92歳の最期まで誇り高く逝き切った祖母の晩年の孤独を今にして分かる気がする。祖母に労をねぎらう言葉もかける事無く別れてしまった。今にして思えば祖母は無償の愛で孫を育んでくれていたのだと思える。この祖母がいたから、今の私がいる。この当たり前のことがとても深い意味があるように今なら思える。そして、ふと気づくと祖母と似た行動様式の自分がいる。消すことの出来ない祖母がそこにいる。

 家を継ぐとは、形骸化した家を守ることでは断じてない。その時代と格闘し、懸命に生き切ることではないのか。時代を切り開くエネルギーを持続することではないのか。
 私の家系の祖先たちが歴史に翻弄されながらも、或る時は大きな足跡を、また或る時は時代の荒波に飲み込まれながらも絶える事無く今日に繋げて来たことの重さを噛みしめて、次の世代に引き渡す責任が私にもある。
 生きることに革新的であってこそ継続のエネルギーは生じるのではないか。


 2005年は、我が家の子どもたち皆、やっと自分の足で社会に巣立って行く記念すべき年になりそうだ。この子どもたちの前途は多難ではあるが洋々と開けている。

この子どもたちに伝えたい。

 君たちは、この連綿と続いてきた祖先たちの一番しんがりを走っているのだという事を。祖先たちが時代と格闘しつつ、切り開いてきた道だ。
 君もそのひとりとなって、生きよ。
 その時代の深き淵に流れるうねりに心澄まして、その潮流に逆らわず生きられる自己を磨けよ。
 時代を切り拓く人として励めよ。
 社会での自分のポジションが表舞台の華々しい脚光を浴びていたとしても、そんなものは虚栄だ。そんなものは社会の表面に漂う泡だ。
 確かに表舞台でしか見えないものもある。しかしその奥に潜む真実を見失ってはいけない。
 時代を変革していく先進性を常に謙虚に学び続けなければいけない。
 たとえ時代のウラ舞台にいようとも、怠ることなく、腐ることなく、粘り強く、時代を切り開く力を蓄えよ。
 影のところに居る時こそ、時代の真実を見極める知性を鍛え磨く絶好の機会だ。ウラ舞台に居るときにこそ見えるものがある。
 表舞台に現れたとき脚光に耐えうる自己を研鑽せよ。
 財の奴隷になるな。確かに豊かな財力は必要だ。しかし財力の奴隷に成り下がるな。

悠久の時間に思いをはせ、途絶えることなく君も続けよ。


【補筆】
 今回、モブ・ノリオのインテタビューに誘発されて、私自身の生家について書いてみようと思い立った。長い間、避けてきた思い出したくない過去である。しかし、この辺で次の世代の子どもたちに伝えておかなければ、葬り去られてしまう過去でもある。

 私自身、幼い時に祖父母から色々聞かされてきた事の意味が良く分からないまま、ずっと生きて来たが、今回この記事を書くに際して、
平成4年(1992年)に氏家斉一朗氏が発行された、『大垣城主・氏家氏の子孫』(内田利夫編、岩波ブックサービスセンター製作)という本を読み返してみた。

 氏家(うじいえ)の家の遠いルーツは信長傘下の有力武将として美濃三人衆の一人、氏家ト全(大垣城主)との伝承がある。私の生家はそのト全の次男(長男か)宗休が開基。元天台宗興福寺といい旧東津汲村にあり、後真宗に改宗。宝暦4年旧楽田村の現在地に移り、寺名を再び宗休寺とする。私の曾祖母は本家、氏家から嫁いてきている。
 このようなルーツをたどる意味は、今を生きる私たちには無意味なことであるかもしれないが、氏家斉一朗氏が膨大な資料を一冊の立派な本にして、残してくださったことにより私の祖父母たちの生き様を改めて思い起こすことが出来た。そして脈々と続いてきた血の歴史を受け継ぐことの意味を私なりに考える機会を与えられた。とても有難い事である。

 蛇足ながら、モブ・ノリオ氏が自分の背負っている家をより革新的に継承され、何時の日か生きることの意義を力強く肯定されて、道に迷っている青年を勇気づけるような新しい人間像を形象した作品を世に送り出してくださる事を期待しています。その中で再度お目にかかれる日が来る事を楽しみにしています。

 現代の若者たちの多くも根源的なところでは、モブ・ノリオ氏と同じ地平で進むべき道を模索している。この「介護入門」は若者たちの「人生入門」でもある。  

 モブ・ノリヲ「介護入門」文芸春秋社出版















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