日々草

日々草

アメリカの大学生のレジメ(映画論)





「黒い雨」、「蛍の墓」を鑑賞して

Japanese Cinemaというクラスをとっている。
授業で、先日鑑賞した「黒い雨」と「蛍の墓」についてのディスカッションがあった。
多くの中国人や韓国人が日本人と戦争について議論することが嫌いなように、私も太平洋戦争の話題をアメリカ人とすることが嫌いだ。結局議論の中心になることはいつも「アメリカが正当な理由で戦争を行い、核を使用したか」ということになるからである。彼らはよく”It(bombing) was unavoidable.” とか“Necessary”という言葉を使う。つまり道徳的な観点からみれば許し難い行為ではあるが、世界的公益のためには必要不可欠だったと主張するのである。

◆ 戦争の大義、正義 ◆
私には、数ある「戦争映画」の中からなぜ教授がこの2つのフィルムを鑑賞用に選んだのか分かる気がする。両映画にはハリウッド”War Movie”が持ち合わせていない特徴がいつくかあるからだ。まず両映画とも、登場人物たちが直接戦争とは関わりのない民間被爆者や戦争孤児であり、場面設定も戦闘の最前線ではなく日常生活を撮っていることである。もう一つは、この映画が政治的な主張を掲げず、国を批判せず、戦争の大義も語らず、人間が「生きる」という生存する権利のみを主張していることである。これは敗戦を経験してきた多くの日本国民の「戦争を憎み、二度と戦争を繰り返さないでほしいという想い」を大きく反映している。これらの特徴は「戦争の大義」や「政治的な主張」を織り交ぜたがるハリウッドとは一線を画すものがあり、その点において意味があったのではないか
クラスディスカッションの中に興味深いものがあったので少し紹介したい。
「黒い雨」において原爆被害者たちが、アメリカ人を批判している部分がないことに疑問を持った学生が、”I didn’t really see anti-American propaganda in the film and it surprised me.” と言っていた。すべての戦争に理由を付け、納得したがるアメリカ人の正直な意見なのだろう。戦争とは大量殺戮行為であり戦争することそのものが悪であるとする考え方が理解できないのだ。ひょっとしたらこれは日本などと違い、もともと「人権、思想、宗教、経済」的な自由を追求し、これを武力によって殖民支配から勝ち取ったこのアメリカにおいて当然なことなのかもしれない。これらのプロパガンダを否定することは、アメリカ合衆国のイデオロギー自体を否定することに為り兼ねないからである。この学生はきっと「被爆者により否定されるアメリカ」「戦争におけるアメリカの罪」など分かりやすいテーマを期待していたのだと思う。これはハリウッドを見て育ったほとんどのアメリカ人が持っているものだと思う。商業映画は「善悪」に関係なく興業を成り立たせるために、大衆が期待するエピソードやプロパガンダを提供する必要がある。大衆の求める物とは戦争の大義として語られる「人権尊守」「愛国心」「正義」「自由の追求」だったり、「戦争の悲惨さ」や「若者の尊い犠牲」なのだろう。

アメリカの若者たちはこのような通念化されたプロパガンダを毎日のように浴びせられている。そして、これ以外の概念が存在することを想像できないぐらいにもうどっぷりとこの思想につかってしまっている。ディスカッションの中では、各々がインターネットや書籍から集めてきた知識を総動員し、太平洋戦争について同情したり、怒ったり、悲しんだりしていたが、私はそれを聞きながら、彼らとの間にある隔たりや距離を非常に感じていた。彼らの主張は心にまったく響かないのである。なぜならば彼らにとって太平洋戦争は”One of the wars in the history”であり、被害者も”One of the victims in the past” なのだ。そしてその史実はありとあらゆる政治的思惑によってBiasをかけられ、彼らに伝わる。当然それらは「情報」としてしか伝わっていない。これは現在も変わっておらず、イラク戦争におけるアメリカ側の歪められた報道は本当にひどいものである。学生たちは加工された情報に基づき「知識」として戦争を処理し、戦争と聞けば「大義だ、正義だ」「善だ悪だ」と語り始める。(心に響かないわけだ)


◆ 知識レベルの戦争 ◆
映画を鑑賞しているとき気になったことがある。映画を最後まで見ずに席を立つ学生の数が、他の映画を鑑賞したときよりも圧倒的に多かったことだ。理由は良くわかる。彼らにとって淡々と生活シーンだけを切り取ったような戦争映画は「面白くないのだ」。映画「パールハーバー」のように、「恋愛仲にある男女が戦争によって引き裂かれてしまう」といった類の故意的にドラマ性を演出し、ビジネスを成り立たせているような商業映画は除外するとしても、アメリカの戦争映画には必ず一定Dramatic Elementが存在するし、鑑賞者もそれを期待している。比較するとこの2つの邦画は、戦争被害にあった民間人の「生活風景」や「人生」をなるべくbias に通さずに再現しようと努めている。メインテーマの場面でさえ淡々と流れていく。ハリウッド娯楽映画に特有なお涙頂戴的な「期待通りに悲惨で」「非日常的な」演出は見られない。日本人の私ですらテンポの遅さや、地味な演出にはやきもきした。それでも私は席を立つ気分には到底なれなかった。最後まで見ることが、戦争を起こしてしまった私たちの責任のように思えて席を立てなかったのだ。ぞろぞろと退出していく学生たちを眺めて「あぁ、この人たちにとっては太平洋戦争も彼らが経験して来た、たくさんの戦争の1つだし、この映画もその戦争を描いたつまらない日本映画ぐらいにしか思わないのだろうな」と思い、とても悔しい気持ちになった。

私は戦争を経験していないし、私の知り得た歴史の多くは日本側の立場に立ったものだとも思う。ただ私の中には戦争の傷跡がはっきりと残っている。広島平和記念館に残っているような物理的な「何か」ではないけれど、言葉ではうまく表現できない、日本人が抱えてしまった精神的な傷(加害者、被害者としての)が残っているのだ。アメリカ人が感じ得ない何かを私が持っているとすればそれは、本土において戦争を行い、多くの民間人の犠牲を残したからなのかもしれない。私は他のアジア人の日本人に対する憎しみを真に理解することはできないけれど、感覚的に納得できてしまうのは、このような戦歴の共通点があるからなのかもしれない。
その上で、現在の世界情勢を考え直すと恐ろしくてたまらない、“知識レベル”でしか戦争を語れない国民が「大義」を捏造し、次々にその有り余った軍事力のはけ口を探し、潰してゆく。現地では“経験レベル”で戦争の真実を知った兵士が大義など無視で、虐待など非人道的な行動を繰り返している。「あれ、どこかの国に似ていない?」そうまさに大東亜共栄圏、亜細亜民族解放を掲げて戦争に突入していった大日本帝国にそっくりなのである。

日本は敗戦から学んだ(と思いたい)。少なくとも戦争をしても失うものこそあれ、得るものは何もないということを知っている。アメリカを武力で屈服させることは、もはや不可能だろう。彼らはある意味において、世界で最も困難な試練を与えられた国民なのかもしれない。経験によって体験できないことを、その想像力によって学ばなければならないからである。メディアは万能ではない。本土を焼土と化された映画(や数多くの戦争映像)は、今のところ真の意味では彼らの胸には届いていないようだ。しかしそれを経験した私たちは、伝える努力をやめてはいけないと思う。学生は戦争史を学ぶ努力を怠ってはいけない。そう、私達に課された責任もアメリカ同様に大きいのだ。なぜなら「正義の戦争よりも 不正義の平和の方がよっぽどいいということになぜ気がつかないのか?」*という台詞の本当の意味を知る日本人だからである。

*「黒い雨」より(原作:井伏鱒二)







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