『夜ふけて帰って見ると広井君の家がいつも明るいので、戸をたたいて入ると一生懸命勉強している。日本の学生はこうも勉強するのかと感心させられた』 明治十九年九月広井は転じてアメリカにおける橋梁の大会社エッヂー・ムアー・ブリッヂ会社(Edge moor Bridge Co.)に技手として奉職し、鉄橋の設計並びに製作に従事し、ますますその技能をみがき、時としては職工と共に鍛冶(かじ)に従事したことすらあった。博士の有名な著書「Plate Ginder Construction」はこの頃、ニューヨークのヴァン・ノストランド会社から Science Series No95 として出版された。本書はアメリカで広く教科書として使用されるにいたったほどで、我が邦人の著書にしてこのように賞賛を博したものは稀である。これは実に博士二十七歳の時の作である。初版は1888年(明治二十一年)に出て一九一五年には第五版が発行されたが、その後数版を重ねるに至った。 滞米中の前半は、博士の生涯において、経済的に最も苦闘を重ねた時代であって、その日常の生活の中には涙なしに語り得ないものがあった。博士は三度の食を二度に減じ、節して得た剰余を蓄えて、土佐に残した母堂に毎月送金し、一回もこれを絶ったことがなかった。 Wer nie sein Brot mit Tränen aß, Wer nie die kummervollen Nächte Auf seinem Bette weinend saß, Der kennt euch nicht, ihr himmlischen Mächte.