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2023.07.17
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カテゴリ: 広井勇
工学博士廣井勇傳その7

九 札幌農学校教授時代
 七か年に渉る海外生活中、幾多の努力と涙ぐましき奮闘を続けた結果、早くも欧米の学界にその存在を認められた博士は、今ここに札幌農学校教授の栄職を得て故国に迎えられたのである。その帰朝は、ただ一人の少年に見送られた出発の時に比べて、どんなに晴々れしく華やかなものであったろう。広井博士が当時の得意の情は、まことに想うべきである。
 片岡氏も洋行帰りの博士のために、洋卓やイスなど何かと自ら準備を指揮し、錦衣着て帰る博士を歓迎するのであった。
 明治二十二年九月十一日、博士は帰朝と同時に札幌農学校教授に任ぜられ、直ちに札幌に赴任した。博士はこの新設工学科のために容易ならぬ努力と苦心とを払ったのである。当時、大学と称せらるるものは東京帝国大学以外には無かった時代であるから、学士の称号を付与する札幌農学校の存在は、北海道全土の誇りであった。
 広井博士は、その学校の教授であり、殊(こと)には洋行帰りであるというところから、たちまち尊敬の的となった。この時、博士はまだ二十八歳の商社な青年であった。威あって猛からざるその風貌は、既に堂々たる紳士として、人をして犯し難き感を抱かしめたのである。
 札幌へ赴任すると、博士は札幌区北一条西五丁目に一戸を構え、仲秋、母堂を東京から迎えた。父を失える十一歳の幼な子を片岡氏に託して旅立たせ、明け暮れその出世のみを楽しんで、自らは淋しく暮らして来た母堂は、十七年ぶりに、初めていとし子との楽しい生活を迎えることができるようになった。長い年月の間、何らの家庭的和楽をも味わうことなく、痛ましくも苦しみ多き生活のみを続けて来た博士にも、それはどんなに大きな喜びであったろう。神は常に最も多くの苦しみと、最も大いなる悲哀とを体験したものに最も大いなる歓喜と幸福とを与え給う。博士母子のごときは互いに海山遠く離れて、それぞれ貧苦と寂寞とに勇敢に戦って来た。その総ての憂さも辛さも今は淡き過去の夢と消え去ったのである。博士は、母と共にただ天なる神に感謝の祈りを捧げるばかりであった。
 博士の母堂は、明治十七年、片岡健吉氏と共に、同氏設立のキリスト教高知教会において、米国宣教師タムソン氏より洗礼を受け、熱烈な信仰生活に入った人である。
 全生涯を通して一刻も静止する事なく、ただ努力をもって一貫した博士ではあるが、この人格の基礎となったものは、札幌農学校教授となるまでの、いわゆる受難期であったともいい得る。博士はこの基盤の上に、その生涯の第二段を建設せんとしつつあった。
 母堂を迎えて札幌に一家を構えた時には博士はまだ独身であって、母堂と共に東京から来た同郷の後輩、岡田虎輔、永野義直、山崎正馬(博士の甥)の産しを書生として寄寓せしめる事となった。この他博士の家庭に出入りした青年は数多い事であったが、今の朝鮮地方法院検事正、奈良井多一郎氏のごときもその一人であった。その後、永野氏は札幌農学校実科に入りて寄宿舎生活をすることとなり、新たに高田武一氏が加わった。博士は元より、母堂がこれらの人々威対する』態度には少しも主従の隔たりなく、書生も召使も一緒に食事をとり、その親切、その撫育は至れり尽くせりであって、その恩愛の情はまことに親子もなお及ばぬごとくであった。
 この頃の博士は帰朝早々で、元より貯蓄など全く無く、家具の購入を始め、将来夫人を迎うるの準備をも整えねばならず、経済的に非常に多難の時代であった。しかし、博士は一向に無頓着で、大勢の書生を教養する事を楽しみとした。
 博士の母堂は、熱心なキリスト信者であったから、この頃博士の家に寄寓し、または出入りしていた人で、その熱烈な信仰に動かされ、キリスト教の信仰の道に入った者も決して少なくない。岡田、奈良井氏などはその主なる者である。
 博士は、このように久方ぶりに和やかなる空気の中に浸ることができたが、また一方においては予期せざる多忙を経験せねばならなかった。即ち札幌農学校教授として、博士は河川、港湾、鉄道、道路、橋梁、その他土木工学の全般を担当し、かつ明治二十三年二月からは北海道鉄道会社の技師長平井晴二郎氏の推挙により同社の嘱託となり、主として橋梁の設計を担当し、五月より北海道庁技師を兼務し、一時は土木課長の職について一般土木事務の監督に携わった。暫くして課長の任を辞し、兼任技師として専ら北海道港湾の基本調査に没頭するに至った。
 これがため博士は出張、その他の都合で、学校を空けねばならぬ日が多かった。したがってその教授法等も、従来のものとは根本的に趣向を異にし、適当な教科書を与え、出張中、学生をしてこれを自習研究せしめ、まず自発的に疑問を起こさしめた。質疑あれば博士は喜んでこれを説明し、懇切至らざるなかった。しかし研究の不足なる質疑に対しては、博士は再びその研究を促し、決して直には答えなかった。
 当時、学生は土木学科の一年生二名、二年生二名、合計四名の小数であった。教室では教師、学生の差し向かいというありさまで、自ずと学生の個性を十分に知ることができたから、上記のような教授法も有効のものとなったのである。
 明治二十六年四月、博士は道庁技師を本官とし、農学校教授を兼ねるようになったが、明治二十八年六月、工学科が廃止される事になったので、博士は専ら函館港改良工事監督として、その実際的手腕を振るうようになった。続いて三十年四月、小樽港事務所長となるに及んで、博士は農学校とは直接の関係を断つことになった。
 工学科創設以来八年間、博士の懇篤なる教育を受けた出身工学士はすべて十五名に達し、いずれも斯界に重きをなす人々となった。


💛山形市のI・Mさんから頂いたお手紙の中に

「この3冊の本、誠に敬意を表する働きで、多くの信仰の友、友人に広めていきたい」 とあった。

感銘を受けて、7月7日七夕の夜、保存用にとって秘蔵していた 「ボーイズ・ビー・アンビシャス」シリーズの本を第1集から第4集まで 1冊ずつ送った。

山形県立図書館に「ボーイズ・ビー・アンビシャス」シリーズの本は全5巻が蔵書となっている。

I・Mさんも 県立図書館でこれらの本を借りて読まれたという。

まことに、どうかこれらの本の一冊一冊が 広く「世に働き」ますように と願う。


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最終更新日  2023.07.17 04:28:35


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