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「山に向かいて目を挙ぐ 工学博士広井勇の生涯」
66-67ページ
札幌農学校の洋風校舎は当初建坪411坪余、他に2階79坪であったが、書庫、講堂、温室その他の農学校用の諸施設が次々に増設されていった。(1坪は3,3平方メートル)。演武場(Militaly Hall)は明治11年(1878)9月に完成したもので、総2階、1階は113坪余の講堂、2階は操練場と武器庫の2つに区切られ、一隊50人ずつの訓練が行われるものであった。講堂と体育館を合わせたような建物であった。
明治14年(1881)7月、中央楼上に大時計が据え付けられ、開拓の街に時を告げるようになった。当時は時計も珍しいものであっただけに、この建物は「時計台」と愛称されるようになった。
この近代建築を設計したのがホイラーである。彼の肉筆の平面図が北海道大学附属図書館に残されている。設計の寸法はフィートである。建物全体がアメリカ風バルーン・フレーム構造で、軒桁から棟木に丈が高く、幅の狭い2本の合掌を架して、上部から約3分の1ほどの箇所にカラービーム(一種の梁)を水平に渡して合掌を堅く結んでいる。アメリカ・コロニアル様式の簡素で、しかも荘重な印象を与える建築であり、のちにこの時計台が札幌の標準時を伝えるようになる。
バチェラー・オブ・サイエンスの学士号を持つホイラーは、札幌農学校では数学と土木工学を担当し、年俸3,000円を支給された。クラークが去った後には、彼は月額50円の増俸を受け、教頭心得として後に教頭として校務を処理した。彼は卓越した土木技術者であり、品行方正、温厚な紳士であった。
★札幌の時計台といえば観光スポットであり、もちろん私も行っている。
最初、訪問したときは、館内の展示物を丁寧に見て回った記憶がある。
今月9月、札幌と小樽に行く。北海道の友人から何度も来るよう誘われ、彼の町づくりボランティアの模様を見学させてもらうのが目的だ。
折角だからと、時計台と広井勇が建造した百年堤防を見学しようと思う。
日本における記念すべき土木建造物であり、広井山脈ともいわれる「人類のための仕事」に励んだ青山士や台湾の華南平野を現在でもうるおし後世の人々を益し続けている百年ダムを作った八田與一もまた広井勇の門下であり、
それはピューリタン革命からもたらされた 「業(work)による福音
」に由来するのではないかと考えているがいかがであろうか。
「山に向かいて目を挙ぐ 工学博士広井勇の生涯」
59-60ページ
「クラーク帰国により第2代教頭となったウィリアム・ホイラーは、数学・土木工学・図学・測量を教えた。いずれも北海道原野の開墾には不可欠な学問である。
彼はマサチューセッツ州立農科大学第1期生で土木工学を専攻し、在学中から大学内外の測量や土木設計を手がけた。卒業後は鉄道の線路敷設班長、線路区技師として実績を積み、来日前には設計事務所をボストンで経営するまでになった。25歳の青年教頭である。」
「彼の工学観は当時アメリカの科学技術観を反映する進歩的なものであった。特に『Second Annual Report of Sapporo Agricultual College 1878』(「札幌農学校第2年報」)には、当時の日本と欧米の学問・教育を比較した論説を掲載した。
『 日本人はその好学心において欧米人にひけをとらない にもかかわらず、伝統的な学問観、方法と社会的束縛のため、学校卒業後の進歩が欧米人に遅れてしまう。日本の学問はほとんど中国の古典を文字からのみ学ぶ記憶中心のもので、 模倣には長けているが自ら作り出すということをしない 。そこで、 理論的理解を基本とし、それに基づいて様々な事態に対して応用・実践できる能力を養う ことを目的とする西洋式の教育を課することが急務である』(渡辺正雄『お雇い米国人科学教師』参考)。
★日本の明治以降の科学技術化・資本主義化においてこうした西洋式な正規の教育 と 鈴木藤三郎や豊田佐吉に代表されるような発明・工夫改良による実業が相即して日本産業革命がいわば自生的に生長できたのかもしれない。
日本の産業は長らく「模倣には長けているが、自ら作り出すことはしない」と言われ信じられてきたが、遠州・三河を中心としておそらくは報徳思想を淵源とする発明・工夫改良により産業をおこし、社会や国家に貢献するという考え方は、トヨタ、スズキ、ホンダといった日本を代表する産業となり、また鈴木鉄工部や台湾製糖会社修繕部門などを通じて、多くのそうした人材を日本・台湾において育てていったようにも思われるのである。
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