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2023.08.18
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カテゴリ: 広井勇
広井勇の信念―生きている限りは仕事をする―
 広井勇の信念は「生きている限りは仕事をする。仕事ができなくなった時、その時が自分の死ぬ時である」であったという(「広井勇伝」p.77)。

この信念は広井のキリスト信徒の義務の省察から出たように思われる。明治十六年(1883)六月広井が鉄道局に在職中、宮部金吾にあてた病気見舞状に、キリスト信者としての義務は努力することだとある。
「科学研究に対する君の『激しい情熱』は僕にその方面での努力を促した。君は自然研究においてキリスト教徒の真の精神を培っている。生涯にわたり努力することを切望する。近いうちに君は二重に祝福されるでしょう。僕が君に打ち明けた宗教上の確信は日に日に強まるばかりだ。僕は努力することを学んだ。この確信において努力することこそキリスト信徒の最大の義務だ。神の教えを守るため努力あるのみ。暇があったら、『ヨハネの信書』を考えてみてくれ」(「評伝」高崎哲郎p.91)手紙の詩に歌う。
「僕たちが信ずる救い主を固く信じ、
生涯の長い間の闘いを戦い続けようとする
ついに勝利したとき戦いをやめ
天国において神の栄光を分かち合う」
広井はこの年十月三日に鉄道局を退職し、十二月十日渡米する。一年後、恩師ホイラーへ「働きながら懸命に学ぶ生活は、順調に進んでいます」と報告した。「私は厳しい仕事の後でも先生のご指導通り土木工学などの専門図書や歴史・文学の本を読むように努めています。毎朝五時に起床し三〇分聖書を読み神に祈りを捧げています。」(「評伝」p.107)。
広井は常に技術者用のポケットブックを身辺から離さず、また視察の車中で英語の小説を読みふけっていた。

 広井は同級生中、最も早く渡米しただけでなく、一八八八年に最初にニューヨークの科学技術専門図書出版社からサイエンス・シリーズの第九五巻として英文で本を出した。この『プレート・ガーダー・コンストラクション(Plate-Girder Construction)』という橋梁実務専門書は英米で高く評価された。ここでも、新渡戸の『武士道』や内村の『代表的日本人』などの日本人が英文で書いて世界的に評価された書籍の先駆けを、広井が果たしたのである。

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 広井は、小樽港北防波堤築港の難工事にあたって、「使用するセメントは、特に浅野セメントに限る」と指名した。浅野総一郎はその関係上、視察のため、たびたび小樽に出向いては、越中屋に宿を取って、朝の六時頃から視察した。そこで見た広井について、
「現場監督の博士は、いつお見受けしても、早朝から既に合羽服に身を固めて、ご自身でセメントと砂と砂利とを調合し、水でこねておられる」 と綴って 「この博士なればこそ、この難工事も事なく運ばれるのだ」 と感動した。広井は、横浜築港において、コンクリートが割れた事故について、問題はセメントの質にあったのではなく、セメントの製造過程がきちんと丁寧に行われていなかったからだと分析し、自らその施工過程に細心の注意を払ったのである。

広井は小樽の工事で浅野を顧みて繰り返し言った。
「この難工事の全責任は自分に在る。もし何年か後にこの防波堤が崩壊すれば、それは私の責任である、と同時に浅野セメントの責任である。私たちの責任と信用はこの防波堤にかかっている。防波堤が割れれば自分も割れるが、浅野セメントも割れてしまうのである」 と。広井は自らの責任を明言すると共に、施工業者も一体となった責任を求めたのである。
 浅野は広井の回顧談を口述しながら涙を浮かべた。
「実に想起すれば博士は惜しんでも、なお余りある人物である。そうして性格的には覚悟のよい偉丈夫であった。ご不快のときにあっても、仕事だけは忘れずに続けておられた。そして常にいわれた。『仕事ができなくなれば死ぬほかはない。仕事のできなくなった時がすなわち自分の死ぬときである』と。晩年も、毎日のように『生きている間は仕事をする』と言われた。『社会の役に立たぬ体になったら、むしろ死んでしまいなさい』が博士の持論であった。」 (p.159)





廣井 勇~近代化の扉を開いた、清き技術者~ 第2回 | 草野作工株式会社 ~「かたち」は、人を想う、その先に。


小樽築港工事報文 抜粋〔現代語表記〕

総 叙

小樽港は北緯四十三度十二分、東経百四十一度一分に位し、後志国(しりべしのくに)の北端に在り。その地勢は東に向かいて開敞〔かいしょう・港湾が外海に面して直接風波を受ける〕し、対岸の近きは東南東に当り、四里(一二キロ)にして、漸次東北に向かいて距離を加え、北二十三度東、雄冬岬(おふゆみさき)に十六里半向かい、(六六キロ)に達す。北西南の三方は山丘囲繞〔いにょう・周りを取り囲む〕し、高岡は湾の北端に当る茅柴岬(かやしばみさき)に起こり、西部の山脈に連なり、山嘴〔さんし・山麓の突き出た端〕は延(ひ)いて平磯岬(ひらいそみさき)に接し、湾の南端をなす。

明治四年、開拓使、本庁を札幌に置くに当り、海陸運輸の接続を本港に期し、同年より十一年に至るの間に札幌・小樽間の道路を築造し、十三年に至り、鉄道を布設し、手宮に桟橋を架設する等、漸次運搬の便を開き、爾来(じらい)石炭輸出の増加すると、原野の開墾、水産その他万般の進歩に従い、一小漁村は変じて繁盛の地となり、大いに市街の狭隘を感ずるに及び、明治二十年において沿岸三万三千余坪(約十万平方メートル)の埋築(まいちく)を施し、二十三年に至り、面積約二千三百坪及び三千二百坪の船入場を築設して大いに市街の拡張を図り、最近の調査によれば現在人口八万五千余、輸出入の金額は三千万円余の巨額に達す。その長足なる進歩の状勢また想うべし。(略)






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最終更新日  2023.08.18 00:55:39


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