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広井勇、母を札幌に呼んで一緒に暮らす
広井勇は札幌農学校着任とともに、当時東京にいた母を札幌に呼んで一緒に暮らした。広井は渡米にあたって、土佐にいた祖母や母の面倒を当時東京で侍従であった叔父の片岡に託していた。在米中祖母は亡くなる。内村鑑三の一八八七年(明治二〇年)二月八日付の広井あて手紙に「ご祖母様、ご逝去の由、ご悲嘆同情にたえない」とある。(「米欧留学篇」p.217)「工学博士広井勇伝」では次のように記する。
「明治二十二年九月十一日、博士は帰朝と同時に札幌農学校教授に任ぜられ、直ちに札幌に赴任した博士はこの新設工学科のために容易ならぬ努力と苦心とを払ったのである。当時、大学と称せらるるものは東京帝国大学以外には無かった時代であるから、学士の称号を付与する札幌農学校の存在は、北海道全土の誇りであった。広井博士は、その学校の教授であり、殊には洋行帰りであるというところから、たちまち尊敬の的となった。この時、博士はまだ少壮二十八歳の青年であった。威あって猛からざるその風貌は、既に堂々たる紳士として、人をして犯し難き感を抱かしめたのである。 札幌へ赴任すると、博士は札幌区北一条西五丁目に一戸を構え、仲秋、母堂を東京から迎えた。父を失える十一歳の幼な子を片岡氏に託して旅立たせ、明け暮れその出世のみを楽しんで、自らは淋しく暮らして来た母堂は、十七年ぶりに、初めていとし子との楽しい生活を迎えることができるようになった。
この頃の博士は帰朝早々で、元より貯蓄など全く無く、家具の購入を始め、将来夫人を迎うるの準備をも整えねばならず、経済的に非常に多難の時代であった。しかし、博士は一向に無頓着で、大勢の書生を教養する事を楽しみとした。博士の母堂は、熱心なキリスト信者であったから、この頃博士の家に寄寓し、または出入りしていた人で、その熱烈な信仰に動かされ、キリスト教の信仰の道に入った者も決して少なくない。」(p.38)
広井勇は母と妻に自分のために祈ってくれ、自分にはそれが必要だからと絶えず頼み、事業が成功すると、母と妻の祈りのお陰だと感謝したという。
「『 人間にとって祈祷は最も主要な事である。実際、人間には祈祷より外に施すべきはないのである。自分の如き者は素質において、決して天才という質でない。他人が三日にて成就する事も自分には一ヵ月もかかるのである。その点からしても、ただ祈りと努力があるばかりである、どうぞ自分のために祈ってくれるように、祈りにました援助はない
』とは、博士が繰り返し家人に語っていた言葉である。人に対して毅然たる博士の一面には神に対し幼子のごとき謙遜があり、信頼があったのである。そしてことに母堂と夫人の祈祷をこの上もなき助力としていた。何事かを仕遂げ、または何事か災厄を免れ得た場合には、いつもこれを母堂と夫人の祈りによる賜であると心からの感謝を述べるのであった。」(p.93)
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