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2023.08.21
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カテゴリ: 広井勇

工学博士廣井勇傳 抜粋【現代語表記】 前半

   序【原文カタカナ】

故東京帝国大学名誉教授正三位勲二等工学博士広井勇君昭和三年十月一日をもって薨去(こうきょ)せらる。

 君、南海土佐の地に生まれ、年歯わずかに十一歳にして単身、笈(きゅう)を負うて東都に出て奮闘努力、蛍雪の苦を積むこと多年、終に札幌農学校に入り、その業を卒(おえ)るや、更に渡米の雄志を抱き苦辛経営、僅々二か年にしてここに遊学の資を蓄え、明治十六年をもって米国に渡り、河川・港湾・鉄道・橋梁等の実地を研究し、更にドイツ大学に入り、深く心を学理の研究に潜め、もってその得たるところを実地の経験に参照し、かたわら英仏諸国を巡歴し、常に智見をひろめ抱負を大にす。在留六年にして帰朝し、直ちに札幌農学校の教授に任ぜられ、ついで東京帝国大学の教授となり、子弟を薫陶すること三十余年、その平生己を持するや厳にして、人を待つや寛温厚の風貌篤実の資性よく同門の子弟をして愛慕、慈父のごとくならしむ。このごとく博士が高邁なる識見と豊富なる独創とは、しばしば築港・橋梁・河川・水力電気等の実地に現われ、さらにまた波浪・波力・橋梁力学・セメント等に関する四十有余種の著書となり、論文となり、日本土木工学の重鎮としてその雄名を欧米学者の間に賞揚せらるるに至れり。

 君の忽焉(こつえん)として薨去せらるるや、君が

生前の人格・識見・学殖を敬慕し、また多年の薫育の恩義を感謝する者相謀りて、故博士記念事業会を組織し、胸像建設・伝記編纂・工学辞典編集・奨学資金設定等の計画をたて、曩(さき)には博士の心血を注ぎて築港を完成せられたる小樽港に胸像の建設を終え、今またここに博士の偉業風格を追憶するの記念として伝記編纂の挙を完了せり。

 想うに博士の卓越せる偉業功績は長えに不滅の好鑑を遺し、その勇剛なる気象崇高なる人格はよく後世の範たらしむるに足るというべし。ここに故博士を追懐し序文とす。

  昭和五年九月

   東京帝国大学名誉教授工学博士 中山秀三郎

•第一章    広井博士の生涯(略出)

    一 揺 籃

 近代日本における土木工学界の先駆者にして、港湾及び橋梁技術の世界的権威たる、東京帝国大学名誉教授広井勇氏は、旧土佐藩士広井喜十郎氏の長男として、文久二年(一八六二)九月二日土佐国高岡郡佐川村に生れた。

 広井家は代々土佐藩の主席家老深尾氏に仕えていたが、博士の曽祖父に当る遊冥翁は碩学の誉れ高い儒者として藩中に重きをなしていた。父の喜十郎氏は博士出生の当時、土佐藩の御納戸役を勤めていたが、生活は豊かではなかった。博士には春という姉が一人あった。

 文久二年は、勤皇討幕の世論が沸騰し、徳川幕府の権勢もようやく衰えつつあった。この時、土佐藩では、勤王倒幕党の主領の武市瑞山が、同志の十三人を放って、中間派の吉田東洋をたおして以来、藩政は急転して武市派の手中に帰し、幾多の志士は、藩主山内容堂侯を説得して新撰組等と闘い、あるいは京都にあるいは江戸に、薩長の志士と提携して勤王に奔走し、積極的に徳川幕府の倒壊を企画しつつあった。

 広井博士の父、喜十郎氏は、御納戸役を勤めていた関係上、直接これらの運動に参加して東奔西走することを許されなかったが、この時代における血気な若者として勤王に共鳴し倒幕を期待していたことはいうまでもない。そのためか、喜十郎氏は前後数回勤事差控を受けたということであった。

 広井博士はかかる雰囲気の中に生い立った。

   二 年少時代

 明治維新後、一藩の御納戸役であった博士の父も、その小禄を召し上げられたので、悲惨なるものであったが、しかも不幸はこれに止まらなかった。明治三年十月九日、博士の父はこの窮乏の中に遂に不帰の客となったのである。父を亡くした博士父母の歎きは、外の見る眼も哀れなものであった。かよわき博士父母は、絶え間なき嵐の真只中に放り出されたも同様な惨苦を、今は何者の庇護もなく堪え忍ばねばならなかった。

〔廣井数馬(幼名)は十一月三日家督を相続した。時に九歳だった〕

 その年の暮、家老深尾氏が高知に移ることになったので、博士の家も佐川の屋敷を引き払って高知に移り住むことになった。高知在住当時の博士の家庭は、物質的に最も薄幸な境遇に置かれていた。禄を離れてからは、わずかな貯え物を売り払いつつその日その日を過していたが、もはや売り払うべき何物もなくなった。今は祖母や母の手内職より得る零細な金をもって、辛うじて糊口をしのぐより外にみちがなかった。数馬少年も家業の手伝いに大部分の時間を費さねばならなかった。

その頃、博士の祖母は、木綿綿を糸につむぐことを内職としていたので、毎日綿からひきだされる糸がたまると、それを糸屋へ届けて鳥目〔銭〕に換えて来るのが博士の仕事になっていた。

 ある日、博士が例のごとく数個の巻き糸を金に換えて帰る途中、子供心のあどけなきに近所の子供達と遊びに紛れ、ついにその大切な金を遺失してしまった。幼い博士は祖母の叱責を予期して心を痛めたが、いかんとも仕方がない。博士は草履(ぞうり)を脱いで空に放り投げた。もしそれが落ちて来て、表が出たら叱責を免れるものとの占いであった。落ちて来た草履はまさしく地上に表を現わした。博士はようやく安心を得て家に帰った。果たして博士の占いは的中した。祖母は「失うたものは仕方がない。以後気をつけなされ」とやさしく諭すだけであった。

〔士族は明治維新後、商業や農業についたが、子弟の教育に心を尽くした。勇も寺小屋に通った〕

 祖母は名をお勇といった。早く夫に死別して舅(しゅうと)の遊冥翁(ゆうみょうおう)に仕え、孝養至らざるなく、藩主より三度まで表彰された人である。遊冥翁は学者に多く見る気質の難しい人であったが、彼女は何事にも温順に仕え、かつて翁を怒らしめた事がなかった。この温順豊かな祖母の慈愛の中に育(はぐく)まれた博士は、たとえ早く父を失って貧窮の中に人となったとはいえ、なお幸福であったといわねばならぬ。

彼女はその愛する孫である博士の傍らで糸紡ぎ車を繰(く)りながら、昔話や人物伝等を語り聞かせる事を常としていた。あるときは山内一豊の武勇伝に、あるときは深尾重光の奮戦談に、ある時は野中兼山の大事業(1)に耳を傾けた。特に広井家について最も傑出した人物として語らるる曽祖父遊冥翁の物語りに至っては、恐らくその一句をも聞きもらすまいと、一心に聞き入った事であろう。

(1) 『築港』に、広井が幼い頃、高知県浦戸に遊びに行ったとき、野中兼山が築いた防波堤が二百年の時を経て、安政の大地震で津波を防いで、一村が助かった話を古老から聞いて感動したとある。 

  二 少年立志時代

 明治五年(一八七二)の夏、当時東京において侍従の職にあった、片岡利和氏〔母寅子の義弟〕が、郷里土佐へ帰省した。上京遊学の志に燃えていた博士にとって、これは絶好の機会であった。

博士はまず片岡氏を訪ね、学問修行の希望を述べた。『いかなる労務にも服することをいとわないから、東京に連れ行かれたい』と歎願するのであった。片岡氏は、初め博士の人となりに嘱目(しょくもく)しなかった。かつ東京遊学にはいまだ年が早すぎると思ってこれを許さなかったが、博士の熱心なる願いは、片岡氏を動かさずにはおかなかった。。片岡氏はついに母や祖母が許すなら連れて行こうと答えた。この返事を受け取った博士は、飛び立つほどの喜びをもって家に帰った。そして母に上京の許しを乞うた。母はただ一人の男の子ではあるが、父を失ってから二年とも経たない時だったので、博士を手放す気にはなれなかった。けれども小賢しい性質を持たない、むしろ鈍重とも見られた少年時代の博士には、その肉親にさえ、上京などのできる人物だとは思われなかった。『そんなに行きたいのなら、行ってごらん』と(略)博士は欣然として片岡氏に伴われ、懐かしの郷関(きょうかん)を後にして船上の人となった。時に博士は十一歳であった。
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最終更新日  2023.08.21 04:43:01


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