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2023.08.23
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カテゴリ: 広井勇

 5 札幌農学校時代

当時、政府の方針は、維新の直後、新興日本の経綸を委(ゆだ)ぬべき人材の養成にあって学問奨励のために、盛んに官費制度の学校を設置した。博士は既に工部大学に通学しながら、なおこれらの官費学校を片っぱしからたずねて試験を受けた。そして受けた試験には、ほとんど全部これに通過した。けれども、博士は規定の年齢に達していなかったために、いつも入学を許されなかった。当時、博士は陸軍士官学校の入学試験にまで及第した。(略)たまたま明治十年(一八七七)七月、札幌農学校は、工部大学の予科並びに東京英語学校の上級生中から、官費生を募集した。これは真に絶好の機会であった。博士は直ちにこれに応じ、入学を許可された。よって片岡氏に年来の厚遇を謝し、同邸を去りて暫らく芝増上寺内の開拓使官舎に移った。

同時に選ばれた札幌農学校の第二期生となった人々は、内村鑑三、太田(新渡戸)稲造、宮部金吾、岩崎行親、高木玉太郎、足立元太郎、藤田九三郎、佐久間信恭、南鷹次郎の諸氏で、博士は最も年少で十六歳だった。 この試験において博士は年齢一つを詐称した。幾度か年齢のために入学を許されなかった博士は、恐らく生涯唯一の嘘を言わなければならなかったのだろう。後年よく微笑を湛えつつ、この事を友人に語るのであった。

 札幌農学校は、今の北海道大学の前身である。当時の北海道開拓使長官は黒田清隆氏であった。氏は蝦夷(えぞ)といわれた北海道を開発せんがためには、まず有為の人材を養成するにありとし、明治五年四月、学校を芝の増上寺境内に設けた。当時、維新後、日浅く、いわゆる豪傑をてらうの風あまねく、学生教師ともに挙動粗野にして開拓の趣旨にそわないので、明治八年八月これを札幌に移して札幌農学校と称し、学生としては比較的年少者のみを選抜した。

ここにおいて黒田長官は大いに欧米の文化を移さんため、適当な教授を外国にもとめんと欲し、駐米全権公使吉田清成氏にこれが物色を依頼した。吉田氏は更にマサセッチュツ州アマスト農学校長コロネル・ウィリアムス・クラーク博士に諮(はか)った。クラーク氏はこの要求を聞いて、自ら決するところあるもののごとく、自ら日本に渡りこれに当たるべきことを申し出て、数名の教授を伴い札幌に来着した。(略)
 札幌農学校はクラーク博士を迎えて第一世の校長とし、すべてマサチューセッツ州立農科大学の規模にならい、卒業生には農学士の称号を付与する事となった。クラーク氏は従来の複雑な学生心得を撤廃して単に Be Gentleman! の一句をもって、校則とし、学生の良心をして自発的に働かしめるような方法を採った。「紳士たれ!紳士たる者は、申し合わせを忠実に守らなければならぬ」
 これがクラーク氏の教育の信条であった。今まで乱暴を極めた学生は、自ら紳士をもって任じなくてはならなくなった。

遅刻は紳士の恥辱である。自然門限に遅れる学生もいなくなった。たまたま遅刻するものも必ず罪を門番に謝するようになった。農学校の門塀は低かったが、これを飛び越えて入るような者も全くなくなった。
 クラーク氏は職業的の宗教家ではなく、真のピューリタンであった。毎朝授業開始に先立ちて聖書の講義をした。暫くして黒田長官は学校を訪れた。そして学生の態度が全然一変せるを見て少なからず驚いた。そしてそれがキリスト教的指導の結果なるを知って更に感嘆し、ついにクラーク氏にその布教を許した。クラーク氏はかねて用意したトランクを取り寄せ、これを開いた。中はいっぱいの聖書であった。しかも一々学生の名が記されてあった。氏はこれを一人一人の学生の手に渡し、各(おのおの)自ら、この書の中からキリスト教の真髄を会得するように諭した。 クラーク氏の在職はわずか八か月に過ぎなかったが、その間によく学生を教導し、氏の感化によって学生はいずれも熱心な教徒となり、あたかもキリスト教の学校でもあるかのごとき観を呈したほどであった。
 クラーク校長は明治十年四月 Boys be ambitious! の有名な辞を残して帰国した。(略)

広井博士等が入学した時は、クラーク氏はすでに去った後であった。氏の精神は、第一期生、佐藤昌介、大島正健等の諸氏によって継承され、博士等は間接にそのキリスト教的感化を受けたのであった。
 明治十一年六月二日、博士は内村、宮部、新渡戸、高木、藤田、足立の同級諸氏と共に、米国宣教師エム・シー・ハリス(M.C.Harris)氏(函館メソジスト教会宣教師)からキリスト教の洗礼を受けた。これがやがて博士が全生涯を通じてよって立った信仰の礎(いしずえ)となったのである。
 当時札幌農学校では、学生は文学でも、科学でも工学でも外交でも行政でも、各自好むところにしたがって、思い思いに学習する事が、自由であると言ってもよいくらいであった。したがってその卒業生は各方面にわたって、それぞれ社会に貢献している。たとえば、佐藤昌介氏は北海道帝国大学総長に、志賀重タカ氏は地理学に、新渡戸稲造氏は法学並びに農学に、佐久間信恭氏は英文学に、宮部金吾氏は植物学に、渡瀬寅次郎は動物学に、内村鑑三氏は宗教家に、早川鉄治氏は政治家となり、いずれも一方の権威である。これはクラーク氏の精神的感化の然らしめたところで、氏の遺徳と言うべきである。博士はこれらの人々と終生無二の交友があったのであるが、その中では唯一の土木工学者であった。

土木工学を学ぶ博士にとって最も好都合であった事は、教師の中にアメリカの土木技術者ウィリアム・ホイラー氏のあったことである。同氏はクラーク氏の後を受けて教頭となり、土木工学、数学等を担任していた。その在職年限は三年半であったが、開拓使の嘱託を受けて、道路及び鉄道の測量、設計等を監督した。札幌豊平橋は北海道における最初のトラス・ブリッジで同氏の設計であり、また札幌における気象観測は同氏によりはじめられたものである。
 博士は同級中の最年少者であったが、正義のためには師であれ、先輩であれ、教師であれ、先輩であれ、また友人後輩を問わず、忌憚なく直言した。ある朝、生理学の外国教師が講義室に入り、卓上にその引出しが載せられ、しかもその内容が散乱されてあるのを見て、直ちに学生のいたずらと誤認し、非常に怒り、「かかる行為は決して紳士のなすべきことにあらず、予に対して陳謝すべし」と言うや、博士は「一体、事の真相を調べずして、他人を非難するのを、あなたの国では紳士的と申されますか。まずよくお調べください。」と言い放った。
 教師は自分がその引出しの修理を頼んでおいたことを思い出し、希望どおりの修繕が行われていたのとを見て、始めて大工の仕業と悟り、学生に対しその過ちを謝した。以来同級生は博士に対して少なからぬ敬意を払うようになった。

明治14年7月9日に農学校を卒業して農学士となった。卒業生の中から選ばれて広井は
「最高なる道徳の準備は北海道農家に緊要なり」という演題で卒業演説をした。
 博士等は明治十四年七月九日に農学校を卒業して農学士となった。この頃の卒業式には卒業演説というものがあって、卒業生の中から選抜された幾人かが演説をしたものである。博士も選ばれた一人で『最高なる道徳の準度は北海道農家に緊要なり』という演題のもとに、キリスト教的道徳の必要なことを力説した。当時博士の信仰がいかに熱烈であったかは、これによりても推測されるのである。しかし、これが恐らく博士が公衆の前で信仰に関して説いた最後であったろう。以後信仰については全く沈黙実行の人となってしまった。(略)

ボーイズ・ビー・アンビシャス第4集 : 札幌農学校教授・技師広井勇と技師青山士」の写真がWEBCATに載っていた 少し嬉しい | GAIA ...





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最終更新日  2023.08.23 06:00:13


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