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2024.05.05
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カテゴリ: 報徳

安居院義道 日めくり 5日

天保十一年になって二宮先生は小田原領内曽比竹松二村に報徳仕法を行い、負債整理や荒地開墾など難村衰村の立直しにあずかる*。

「現代語訳 安居院義道」二九頁



「安居院は旧大山御師なりという。 曾比竹松の両村御趣法御施行の頃、故先生村民一同へ御教誡為される所を障子の外から立聞きした人物で、御趣法書はその頃筆記に頼られたるを幸い写し置き、その御趣法に感じ駿遠地方に説諭し廻られたるなり。」(三一~三二頁)



天保十一年(一八四〇)になって報徳二宮先生は、小田原領内曽比・竹松の二村に報徳仕法を行い、負債整理や荒地開墾など難村衰村の立て直しにあずかる。安居院先生は仕法事業の性質は知らない。また深く究めるほどの興味は起こらない、そのうちに利息の安い金を貧乏人に貸す一事だけは天来の福音と感じて受け取った。しかしまた他面には今のようなセチ辛い世の中に利息が安いことなどあるはずがない。それを貸すということがわからない。事によると、二宮という者は大山師で、一芝居うつのではないかと疑った。しかし自分は二宮に用があるのではない。金を借りることが目的だ。よし一つ頼もうと決心した。その時二宮先生は小田原領におられない。野州(栃木県)桜町陣屋にあると聞いて、はるばると同地に向かった。すなわち陣屋日記の条に
一、 相州十日町市場磯屋庄七と申す者、田蔵をたよって罷り越し候事
と記載されている。また別日記の二宮先生の子息尊行氏二十二歳の時の筆記にも、田蔵の上に中沼村を加え、その末文に「始めて来る」と付け加えられている。
 安居院先生は陣屋に行き、早速二宮先生に面会を求めたが、公務多忙のためと即座に拒絶されてしまった。
 それは陣屋としては誠に無理もないことで、その当時、二宮先生は老中水野忠邦より、江戸表へ出府するように命令されていた。続いて利根川分水路印旛沼掘割工事の検分を仰せつけられ、後には幕府の役人に取り立てられ、御普請役格(ごふしんやくかく:土木工事係)を拝命するというを拝命するという、一世一代の光栄の出世時代に遭遇して内外実に大変多忙な時であって、それらは七月二十六日の陣屋日記に照らして逐一次第がうかがわれるからである。
 このような場合であったから、先生に対して面談の余裕はない。しかし郷土の方から尋ねて来た情義で門前払いも忍びない。「まあ当分、風呂番でもさせておけ」といわれ、それから雑用をしながら面会の機会を待って、暫く陣屋に厄介になっていた。後に二宮先生はかいま見られて「彼は風呂の焚き方を心得ている」と言われたと伝えられている逸話がある。
 この安居院先生と報徳のつながりについては次の一説がある。【編者注参照】
「その頃、竹松村の隣村に安居院庄七という人がいた。先師が、曽比・竹松の二村に取り直し仕法取り調べのため出張されると、筆算するべきものが多いことから、この庄七氏を書記に命じた。氏はもとより英才かつ志あり。師の教諭を聞いてよく筆記し、仕法の書類を多く書写し、厚くその教えを信じ、よくその意を理解した。事が終わって後に伊勢神宮に詣でて、帰路この教えをもって駿遠二州に遊ぶ、二州にこの道が伝播したのは全く庄七氏の力である、云々」(福住正兄著「富国捷径」
首巻)
「時に翁その隣村にあり。子弟に授くるに法書(手本となる仕法書)を以てす。先師その能筆を聞いて、挙用して書記役とする。弟の浅田勇次郎もまた随(したが)う。兄弟は昼夜先師に親しんで会得することが大変多かった。翁が一代の経営は既にここに基づく、云々」(雑誌報徳二十三号)とあることから、安居院・浅田兄弟の書記採用説が伝えられるが、我が遠江地方において先輩の伝える所では聞くところがない。桜町陣屋訪問の記事のように全く報徳には親しみも見えない、また二宮先生も未見の人のように面会も許されないと伝え、後の嘉永六年遠州七人組の日光訪問が初会見であったように伝えられている。(竹村篤氏・高山藤七郎老「聞き書き」による)
また足柄下郡曽比竹松の仕法地について
調べてみたが、安居院先生の関係は見つからない、また先生がその隣村に住んでいたとあるが、郡が大住郡と足柄郡との違いもあって理解しかねる。
  本社理事、故神谷喜源治氏は、安居院先生は初め能筆ではなかった、筆道の研究にふけったのは晩年の五十余歳からである、能筆であったのは弟の浅田氏であって、あるいは同地仕法の手伝いに出たのは同氏であったかと思われる、と語られた。
なお、筆者(鷲山恭平)の意見として述べれば、浅田氏が近江・伊勢地方において早くから報徳を説かれた所から、その資料はいずこから仕入れたか判然としていないが、必ずや小田原領の仕法から学んだより外にない、と思う。





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最終更新日  2024.05.05 00:00:24


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