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枝下神社から県道11号線を400mほど北上すると、左側の分譲地の中に取り残されたような森が見えてきます。
この森の奥に鎮座するのが、今回の目的地青木原神社です。
写真は県道11号線から見た青木原神社の全景です。
こんもりとした森には神社あり、典型的な姿かもしれません。
杜の入り口には、社標と石碑が建てられ、立派な石の明神鳥居を構えています。
上は明治時代とほぼ現在の地図で鎮座地は赤枠の部分になります。
明治頃は飯田街道沿いの四郷や上郷に集落ができており、鎮座地周辺は丘陵地に樹林が広がる一帯で当時の地図には鳥居の記は見られません。
社頭全景。
左に「青木原神社」社標、右手の石碑は青木原神社由緒でした。
参道は鳥居をくぐると、右に向きを変え拝殿に続いています。
参拝者駐車場は見当たらず、駐車余地もなく、車は境内に乗り入れさせて頂きました。
青木原神社由緒、内容は以下です。
「祭神 豊受大御神
昭和16年(1941)支那事変の真只中、そして同年12月、第二次世界大戰へと突人し、日本国民の食程不足により国の施策として、この青木原台地に開拓農民を各地より集め、地区の守り神として、弥栄神社を祀り毎朝崇拝を重ね、開拓精神に燃へ食糧増産へと励みました。
その後、昭和40年(1965)9月、地区の一層の発展と生活の向上を願って衣食住の神である豊受大御神を伊勢神宮の外宮より分祀して戴き祀りました。
地区の発展と共に逐次境内地も整備され、宗教法人として、昭和48年認可されました。
青木町の高台地にある、この青木原神社は地区住民の氏神として、住民を護り幸せを授け賜うことを願う人々の崇敬を受けております。
祭儀
歳旦祭 1月1日
春祭(祈年祭) 2月17日
例大祭 4月第2日曜日
大祓(夏越の祓) 6月30日
秋祭(新嘗祭」10月23日
大祓 12月31日
除夜祭 12月31日」
「祭神:天照皇大御神・豊受姫神
氏子域:青木町
例祭日:4月第二日曜日」
由緒に昭和16年(1941)「食糧増産のため青木原台地開拓に伴い創建」されたとあるので、明治の地図に印が載らないのも無理はない。
上の地図の上段左が大正9年、右が昭和34年。
下段左が昭和57年、右が2007年の地図。
由緒に記された年代に近い地図を並べ、当地の移り変わりを見ています。
右上の昭和57年では山林は開拓農民により開墾された畑が広がっています。
大正13年に開業した三河鉄道猿投駅(名鉄三河線猿投駅)を中心に住宅が広がりを見せ、戦後には田畑や山林は急速に宅地に変わって来たのが分かります。
鳥居扁額は青木原神社。
開墾当時から今日まで、氏子とこの地を見守り続けてきた神社。
境内全景。
一対の狛犬の先に、南西向きに舞殿、その先に拝殿・本殿を収めた鞘殿が一つになった社殿、右側は社務のようです。
白い狛犬と舞殿。
創建時期が新しい事もあり、狛犬の白さが際立っています。
舞殿から拝殿方向の眺め。
これは?
舞殿脇に置かれた木彫りの像は、何を現したものだろうか。
祭神の豊受姫神に見えなくもない、ここに賽銭を供えさせてもらいました。
拝殿内の年間予定表をみてふと感じたことがあります。
近隣との係りを避け、町内会や子供会に係わらず生活できていた街から、郊外に転居してくると街以上に多いコミュニティーへの参画依頼は想定していないことかもしれない。
そのひとつが神社を維持するための清掃や協力金かもしれない。
土地の一員として溶け込んでいくには、こうしたコミュニティーも必要なものだと思いますが、新たな転居者が増えていくと、そうしたものもうまく回らなくなるものです。
やがて、維持費もままならず、清掃活動も衰退し、荒廃・消えていく神社もあります。
私の住む街は集合住宅が多くなり、世帯数も多いのですが、大人の事情で小さな祠ひとつ維持できず、それにともない、子供ながらに楽しみだった祭や子供神輿も、息子達に経験をさせることなく消えてしまいました。
今では生気のない街になりました、開発が進むこの町に、神社を中心としたコミュニティーが存続することを願いたい。
本殿全景。
入母屋瓦葺の妻入りで、拝殿と鞘堂を兼ねています。
格子戸から内部の様子。
奥に祀られた本殿の姿は良く分からなかった。
愛知県神社庁、社頭の由緒からすると、創建当初は内宮の天照皇大御神を祀った事にはじまり、後に外宮の豊受大御神が祀られたようです。
舞殿から境内の眺め。
右手に手水舎があり、正面に大きな石碑が立てられていました。
開拓碑。
碑文をアップで撮ったものの、手振れが酷く読み取れず詳細は分かりませんが、恐らく由緒の前段で書かれていた内容だろうか。
御船 津島神社 2024.11.27
枝下(しだれ)川神社 2024.11.23
波岩(ハイワ)神社 2024.11.22