イベント・ショー 0
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フリーページに聞き取りをしているEさんに会いに、三重県に行ってきた。奈良でSさんと待ち合わせ、片道4時間半。1年ぶりの約束を果たせた。去年9月の入院中の聞き取りから一年。その間彼女は、病院を何箇所か替わり、今年の7月から、自分の家で過ごしている。彼女は、要介護4を認定され、訪問看護と、日に3度、ヘルパーさんに来てもらっている。コルセットをつけると、家では杖で歩けるが、車の運転は禁止されている。彼女は自由に車で出かけたいが、そうすると介護度は下げられて、今借りている介護ベッドなども借りれないし、ヘルパーもほとんど来てもらえなくなる。制度でがんじがらめになって、明るかった彼女が、落ち込んでいた。介護保険の制度って、やっぱりおかしいところが多すぎる。それにしても、往復9時間、日帰りでは、ちょっと遠すぎる。
2008.09.27
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19.今の私お母さんは7年間の闘病生活の末、2年前に亡くなった。リウマチが出てきたのは、お母さんが亡くなってから。今は、リウマチの新薬のおかげで、朝、手がこわばるのと少し痛みがあるだけだけど、薬を飲む前はお茶碗も持てないくらい痛かった。両親がいる間は、病院の送り迎えもせんとあかんし、必死やった。でも、どうにか歩けたし、車も乗れた。でも、無理しすぎたんやろなあ。人工関節のネジがゆるんでいるって言われてた。一人になってから、朝起きたら、まず仏壇を拝んで、片付けして、掃除して、午後は手芸をしている。いつも誰かが来てくれる。友だち、近所の人、一人になってから、みんなが覗いてくれる。話が弾んで、2時間3時間がすぐたっていく。人が出入りしてくれるのが、すごく嬉しかった。アートフラワーは、ブライダルのブーケを頼まれたり、展示会の勧めがあったり。最終的に、去年、おばさんと3回目の展示会を開くことができた。今、私は、自分で車いすに乗れないし、膝も痛いけど、歩けるようになったら、もう一度人生をスタートしたい。もっと今まででてない世界に出てみたい。勇気がいるやろうな。今まで、何でも欠席してきたから。でも、今まで出ていなかった世界に出てみたい。人とふれあえるところが好き。施設、デイサービス、自分が出られるところで人とふれあってみたい。そして、厚かましいけど、誰か、そばにいてくれる人ができたらいいな。
2008.01.20
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18.お父さんとの別れお父さんの最期の2か月は、すごい生活やった。お父さんは、尿酸値が上がると暴れ出す。私のこの身体で、お父さんを抱えて、「イチ・ニ・イチ・二」と歩かせて、ベッドに寝かせて、身体を拭いた。夜八時ごろから、明け方まで暴れることもあった。みんなが、お父さんがぼけたと言った。私はいつも、お父さんの肩にもたれて添い寝をしていた。お父さんにモルヒネを打とうと言われたけれど、命を縮めると聞いたから断った。お昼はお母さんの食事療法があるし、あんたが倒れるから無理やと言われたけれど、私はできるだけのことをしたかった。でも、人間って精神的に限界がくるんやなあ。周りの人たちが、お父さんを私から引き離そうとして、お兄さんとお母さんが、救急車を手配した。私は、怒って喧嘩をしたけど、一生懸命していた糸が切れて、部屋に閉じこもった。その時、病院の先生から電話があって、「無理に連れてこんでもいい。今から行くわ。」と言って、来てくれた。お父さんを見たら、涙を流してた。病院の先生が来て、「えらかったな、今までよう介護したなあ。今晩やろうから、覚悟決め。」と言われた。でも、その晩、お母さんがすごく元気になって、3時過ぎた頃に、お父さんも元気になった。次の日は、お父さんの兄弟も呼んでいた。朝、弟も電車に乗ったと言うし、食事の材料を買いに、私が、スーパーへ行っている時、お父さんが急変した。スーパーから、痰の吸引機を買いに介護用品の店に行った時、「お父さん、おかしいからすぐ帰ってきて」と電話があった。急いで家に帰って荷物を降ろそうとすると、「すぐ来て!」と言われた。お父さんは、金魚がパクンパクンとするような呼吸をしていた。大きくパカッと開いたと思ったら、シューと引っ込んで、血圧がストンと落ちた。お母さんが、「すぐ来て!」と言ってから、2分もせんうちに呼吸が止まった。兄弟がみんな間にあわんかった。約束は10時半やったのに、お父さんが逝ったのは9時半やったから。先生に電話をして、最期の脈をとってもらった。先生が、「ぼくも女の子あるけど、ぼくもそんな介護して欲しいわ。ようお父さんの最期を家で看取ったな。」と言ってくれた。私は、13kgも体重が減った。
2008.01.20
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17.脳腫瘍の手術 お医者さんから猶予をもらった10日間の間に、気持ちの整理をして、入院できるように準備した。お父さんとお母さんは、どちらも病人食で食べるものが違ったので、それぞれの食事を作って、1食分ずつに分けて冷凍をした。そして、お父さんとお母さんの下着や着るものの準備もした。お父さんは、もう自分では何も出来なくなっていたので、いろいろなことを準備してから入院した。手術は14時間半もかかった。5cmの腫瘍をちょっとずつスライスして、落ちてくるのを待って取ると言うような手術だったそうだ。手術の後、目を開けても真っ暗で、声は聞こえているのに何も見えへん。真っ暗な穴の中におちていってるみたいで、こわくて不安で仕方なかった。痛みより、こんなに恐ろしいんやったら手術せんだったらよかったと思った。しばらくすると、私の身体が仏像の中に入ったような気になったり、真っ暗なお堂の中を歩いているような気になった。行けども行けども仏像の間を歩いていた。小学校の時、私の足が悪くなる前に、お祖父さんが京都にお寺さんの修行に行かせてくれた。地区から3人だけで、私が旅行したと言えるのはその時だけやけど、その時に見た光景とか、聞いた話とかがずっと自分の中に残っている。自分の中に残っている信心する心が、助けになって、不安を少しやわらげてくれた。そんな真っ暗な世界は3日続いた。目が見えてくると、両親のことが気になって仕方なかった。抜糸したあと、先生に帰らせてくださいとお願いした。先生の許可をもらって10日目に退院することができた。腫瘍は完璧に取り切れてないけど、3年に1回ずつ検査していけばいいやろうと言うことやった。
2007.11.13
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16. 頭が痛い両親の介護をしだして、4年ぐらい過ぎた頃から、私がお風呂に入っていると、お父さんが私を呼ぶようになった。私がいなくなったと思うみたいで、自分の父親がぼけだしたんだと思ったけど、なかなかお兄さんに言えなかった。次第にお風呂に入れなくなって、コルセットを着けているので、皮膚がだんだんただれてきて、股関節の疲労骨折もしてしまった。私でも両親の面倒が見られるんやと張り合いもあったけど、だんだんご飯も食べるのも辛くなってきて、お兄さんが、私がお風呂に入っている間お父さんを見てくれるようになった。それからしばらくたってから、お母さんもいつものDJカテーテルの入れ替え手術から退院して帰ってきていた。夜中の10時か11時ごろお風呂に入って、12時ごろに電気を消して寝た。夜中の2時ごろ、目の奥が痛いような、頭の芯が痛いような感じで目が覚めた。しばらくすると、ナタで頭を割られているような痛みになってきて、ふとんを口にくわえて我慢していた。3時ぐらいから嘔吐が始まり、明け方まで止めどと無く吐き気がおそってきた。朝7時ごろ、お母さんが見に来て、びっくりしてお兄さんに電話してくれた。お兄さんに連れられて病院へ行き、CTを撮ったり検査をして、即入院と言われた。その時は、お父さんとお母さんの闘病中で、お母さんは毎日塩分5gに押さえた食事を摂らないといけないし、お父さんは、鶏肉を中心の栄養のある食事を摂らないといけないし、私が入院したら二人の食事のことができなくなってしまう、入院なんかできれへん、うちに帰らしてくださいとお願いした。隣の部屋で、お兄さんと先生が話をして、10日間の猶予をもらうことになった。CTを撮ったら、私の頭の中に5cmの腫瘍が見つかったそうだ。そのことを、お兄さんから帰りの車の中で聞いた。脳腫瘍を取らなかったら、目が見えなくなるか、片半身の麻痺になるか、死ぬかと言われたそうだ。私は最初、命のことを思わんかった。手術せんかったら、目が見えへんようになるかもわかれへんと言うのがこたえた。目が見えへんかったら、運転できれへん、両親の世話もできれへん。お義姉さんは、私の頭の中にはいつも両親のことがあるんやなあと言われたけど、それなら手術を受けようとあっさり決めた。股関節の手術をしてくれた、大阪の先生に相談したら、今は手術しかないやろうと言われた。
2007.11.08
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15.両親の介護お母さんは、子宮経ガンが見つかって3か月の命っていわれたけれど、抗ガン剤がきいて3年目もクリアした。でも、お腹が癒着して、腎臓が悪くなってきた。泌尿器科で、オシッコが止まったら命取りやと言われて、DJカテーテルというのを通した。DJカテーテルは、3か月に1回入院して入れ替えをする。入院をする時は、「お母さん、いつもの命をつなぐ小旅行しような。」と言って、送り出した。私が中学生の時、十二指腸潰瘍の手術をして、その後C型肝炎になったお父さんは、その後肝硬変から肝ガンになって、ずっと入退院をくり返していた。私の結婚生活は3年間で、離婚してすぐ母親の病気がわかり、両親の介護が始まった。彼が、交通事故で入院した2ヶ月間は、朝晩彼の病院へ行って、昼間両親の病院へ行くと言う生活だった。お母さんは、結局7年の闘病生活で、途中5年目でお父さんが亡くなった。お父さんとお母さんが家にいる時は、お母さんは塩分1日5gと言う腎臓食、お父さんは、豚肉・牛肉はだめで、鶏肉を中心に栄養のあるものを取るという肝臓食を作らないといけなかった。両親が入院している時は、なるべく病院に付くようにしていたけれど、家でも仕事があった。うちの家は農家で、うちに帰ると野菜の出荷の作業が待っていた。病院から帰ると、コンテナが山積みになっていて、グラムを量って袋に詰める。夜中の12時ぐらいまでかかることも多かった。お母さんが入院している時は、昼間お父さんが一人やから話が集中してくる。お父さんと話をして、お風呂へ入って寝るのが3時ごろというのも多かった。野菜は、朝の5時ごろからテープを貼らんとあかん。朝からその仕事をして、お母さんの用意をして7時ごろ家を出る。お母さんが入院している時は睡眠時間が2時間ぐらい、そんな生活が2年ぐらい続いた。お兄さんは、私の身体を心配して、親のことより自分の身体のことを考えろと言った。結局、気が張りつめていたんやろう。周りは父親を責めるし、身体はしんどいし、足は痛いし。そのうち、野菜の出荷は大変やから、野菜作りはやめることにした。私の足は限界で、人工関節の入れ替えをせんとあかんと言われていたけれど見送った。自分が、両親を病気に追いやったと思っていたから、二人のことで必死やった。結局、私は彼をとらずに両親をとったんやろうなあ。お兄さんは、お前を犠牲にさせた。両親と同居させて悪かったと言っていた。
2007.11.02
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入院から3か月たって、今日、EさんがM市の病院に転院した。医療法の改正で、入院期間は3か月に決められているそうだが、まだ彼女は一人で車いすに移ることができず、退院しても一人暮らしなので介助がないと生活できない。それで、地元の病院で治療を続けることになった。N医大から、彼女の地元の病院までは車で約3時間。移動で疲れなければ良いのだが。先週の月曜日、12時の診察時間より早めに彼女たちの病室に行くと、SさんもEさんもちょうど車いすに乗せてもらったところだった。昼食後、シーツを替えるので、それまで乗っているという。その時のEさんの車いすに乗る限界は2時間ぐらいだった。いつもは、午前中リハビリの治療があるけれど、ちょうどその日はリハビリの先生が出張でお休み。SさんとEさんを誘って、食堂のモーニングセットを食べに行った。Eさんの車いすは、私が押していった。入院して3か月、いつも病院の給食で、食堂で食べたことがなかったそうでとても喜んでくれた。 入院中は途中までしか聞けず、退院してから診察日の2回、続きを聞いた。彼女の話を聞くと、お寺さんとか、拝むとか言う言葉が多く、何か宗教を信じているのかなと思い聞いたら、小学校の時お寺の住職さんと一緒に京都へ旅行に行った時の印象が強いそうだ。唯一の旅行経験で、その時に聞いた話が、自分の生きる支えになってきたという。それ以降、結婚の時九州の彼の家へ行ったのと、両親と町内の旅行に行ったのだけで、旅行の経験がないという。それを聞いた時、私は少しショックを受けた。長い闘病生活と、家族の介護、私より3才若い彼女の今までの人生の厳しさは、私の想像を超えたものだった。退院したら車いすを積んで、私がどこかへ連れて行ってあげたいと思った。彼女の話を聞いていると、言葉があふれてくるという感じで、今まで他の人に話したかったことがいっぱいあったんだろうなあと思えてくる。私は、彼女の話を、ほとんど彼女が話すままに書いている。最初は、普通の体験談のように気軽に考えていたが、彼女の人生そのまま聞き取って書いていることの責任の重さを感じている。彼女は、私と出会って、もう一度人生をスタートしたいなあという気持ちになったそうだ。両親が亡くなって、もう一人で自由にできる。これからは、もっと今まで出ていなかった世界に出たいなあという気持ちになったそうだ。責任もって、最後まで書かないとなあ。足が良くなったら、M市の病院までとことん追いかけていこうと思っている。
2007.10.29
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14.彼の事故離婚届の用紙に自分の名前を書いて、彼に渡した3日後のこと。その日は、私の全身検査の日で、私は今までの彼がいる病院とは違う病院で検査を受けた。家へ帰ってきてすぐに電話が鳴った。救急隊の人からで、救急車の中で彼が、お宅の電話番号を言ってるので駆けつけてもらうこと出来ますか?と言うことだった。彼は、交通事故にあっていた。飲食店のむすめさんが運転していて、そのお母さんとおばあさんと彼が乗っていた。深夜の2時の事故と新聞には書いてあった。近所の人たちは、私たちのことをまだ夫婦だと思っていたので、新聞に一つの家族と一緒に彼が乗っていたから変に思われた。助手席に乗っていた彼は、右目、右肩、肋骨、内臓と右半身の損傷で、6か月の重傷やった。意識不明で運ばれたけど、自分の勤めていた病院に移る時、電話があった。手術の承諾書に判がいる。私が押していいのかなと迷ったけど、家族は遠いし私しかいてへんかった。一番に電話をするのが私しかおらんから、私が、彼の両親に電話した。事故の相手に、ご家族の方ですか?と言われた。夜間の事故で、こちらの運転していた人にアルコールが入っていて、双方前方不注意と言うことやった。次の日から、朝晩看病に通った。自分のことを知られるのは嫌やから、朝は6時から7時、夜は8時から10時と人目のつかない時間を選んで、病院へ通った。食べ物が食べられへんから、野菜と果物を縛ったジュースを作って朝晩飲ませた。身体を拭いて、着替えさせて、洗濯物を持って帰ってきた。九州のお父さんも出てきてくれて、みんなからバカやと言われたけど、家に泊まってもらった。彼のお兄さんも来てくれて、病院の床に手をついて、弟の命を助けてくれたのは、医者ではなくてあんたや。面倒見てくれと言えた義理ではないけれど頼むと言われた。ただびっくりしたのは、お母さんが来なかった。お母さんは家を空けられないと言ったけど、家を建てた時は、お父さんと一緒に来てくれた。私と会うのが、嫌やったんかなあ。病院の婦長さんも電話をかけてくれたけど、一度も来なかった。2ヶ月間、看病をした。先生が、奇跡やと言うぐらい、普通に歩けるようになって退院した。夜間の裏門のところで待っていて、彼のアパートまで送り届けた。「すまんかった」とは言ったけど。その後、静養するために、九州まで行く時も電車のところまで送っていった。九州から、着いたとは電話があったけど、結局お母さんからは、一言もなかった。お母さんは、離婚について、私の両親と同居していただけに、気にいらんこともあったのかも知れない。九州で1か月静養するって言ってたけど、後で知ったことやけど、1週間で戻ってきて、自分でアパートで生活していたみたい。書類上は、別れているから、それ以降は連絡もしなかった。帰ってたのも知らんかったし、今さら自分から連絡してもあかんかなあと思った。でも、事故の時車に乗っていた4人の中で、元気になって仕事に復帰したのは、彼だけやった。
2007.10.28
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13.お母さんの病気手術しても無理と言われたけれど、他の病院も当たってみた。抗ガン剤を打ったらいいかも知れないと、他の病院を紹介してもらったけれど、12月25日で、もう年末で病院が終わってしまう。1月4日から抗ガン剤を打ちましょうと言うことやった。その年の年末からお正月にかけては、心配で仕方なかった。大量出血したら大変やから、お母さんがトイレに行くたびにどきっとした。時計の音が気になるぐらいに、ピーンと心が張りつめていた。1月4日が待ち遠しかった。1月4日から、抗ガン剤を打ち始めたら、10人中一人と言うぐらいによくきいた。手術は無理と言ってたけれども、手術してもらったら、12箇所とったうちの8箇所に転移していた。私が言えることじゃないけど、私が苦しめたためにお母さんが病気になった。死の淵から帰ってきて、厚かましいけど、お母さんの命をもらおうといつもお願いした。私は、病院の外来に押し掛けていって、私は何をしたらいいか必死で聞いた。お母さんの命を拾いたい、と家に帰って自分で家族のカルテを作った。お父さんも、C型肝炎から肝硬を悪くして入退院をくり返していたけれど、両方の看病は大変なので、一緒の病院に入院してもらった。二人の治療が始まった。
2007.10.27
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12.母からの電話何で彼が出ていったのか、何が落ち度なのか、何が悪かったのか、自分でわからなかった。私は、両親と別居してもやり直したかった。お兄さんに、アパートを探して男同士で話してと頼んで行ってもらった。アパートで寒いやろうなと、暖房器具とか手配して、両親からは、あんたは馬鹿やと言われた。お兄さんが、アパートを探して、彼と話をしてきた。彼は、窮屈やったから一人になりたいと言ったそうだ。私は、食事を取れなくなってしまった。彼がいなかったら、身体も思うように動けへんかった。毎日、死にたい、生きててもしやないと思って、死ぬことばっかり考えた。ある日、車に乗って、ガソリンあるだけ乗って最後にどこかに飛び込もうと思った。頭の中は死ぬことばっかり考えて、もうガソリンがなくなってきて、ダムの近くまで行って、後一つカーブを曲がったら、そのまままっすぐ飛び込もう・・・もう、目の前には死の川の波が見えてた。その時、携帯の音が鳴った。受話器を取ると、お母さんの声が聞こえた。小さな、小さな、苦しそうな声で、「あんた、今どこにいるの?出血止まれへん。近くにおるんやったら、帰ってきて・・・病院へ連れて行って・・・」その電話で、私は目が覚めた。買い物に行くと言って家を出たけれど、車でどこかへ飛び込む今年か考えてなかった。でもお母さんの声を聞いて、すぐ家に戻った。お母さんは、あんたが辛そうやから今までよう言わんかったけど、ずっと不正出血があったと言う。すぐ、看護婦をしていた従姉妹に電話して、病院で診てもらったら、子宮頸部癌で末期だと言われた。もう手術をしても無理だという。私が、お母さんを病気に追いやったと思った。
2007.10.26
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11.別れ家を建てるまでも、両親と彼と4人で同居していて、食卓を一つに囲んでいた。彼も、九州から出てきていてそれまで一人で暮らしていて、スタートしたばっかりで新鮮やったんやろうなあ、その頃は。両親は、農家やから畑へ行ってて、私の仕事は家のことが中心やった。私は、お弁当を作る楽しみが出来た。彼は、病院の医学療法士をしていたから、お弁当を他のスタッフの分も4人分ぐらい作っていた。朝晩、私が車で彼を送り迎えして、車の中が二人の時間やった。カセットを付けながら、病院へ着くまで、運転が危ないぐらいしゃべってた。帰りは、電話がかかってきたら迎えに行ってた。田舎やから、両親は夜遅く迎えに行くのが嫌みたいやった。彼は11時過ぎるのが普通で、夜中の1時を過ぎた時、我慢の限界になって、もっと早く帰れんのかと口を切ってしまった。彼は、だんだん口数が少なくなって、家を建てた方がいいかなと思った。最初は、彼もこっちの両親と生活するのが楽しみやと言ってくれて、一緒に住む家を建て替えようと言ってたけど、途中から別棟にすることにした。でも、お父さんが、生活が全部別になって私がいなかったら寂しいと言ったから、お風呂だけは一緒にしていた。私はローンを組みたかったけど、お父さんが、この身体で一緒に住んでくれてありがたいと言って、ローンを組まずに家の費用を出してくれた。そんなこともあかんかったんかなあ。いろんなことをしゃべってしゃべって二人で過ごすのが夢やった。でも、だんだんしゃべらない生活になっていった。私は、家が建ったら変わるかな、いつかは何とかなるやろうと思っていた。でも、だんだん帰りもますます遅くなって、二人で過ごす車の中でも、彼はしゃべらなくなっていった。彼の方が、しんどかったんかな。そんならみんなで話し合いをしようとお父さんが言って、九州から彼の両親も出てきて、話し合いをする場を持った。その時、彼のお父さんから、申し訳なかった。忘れたってくれ、と言われた。そして私には、次の人生を考えてくれと言われた。それから1週間ぐらいの間に、彼はアパートを見つけてきて、荷物を片づけだした。彼の目のことを考えて、彼の衣類とか取り出しやすいように整理していたのに、それもみんな業者を呼んで運んでいった。彼が荷物を運び出す姿を見たら、私はもう歩けなくなってしまった。
2007.10.25
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10.新しい家結婚した時は、もう両足共人工股関節が入っていたけれど、私は足のことを忘れて動き回っていた。半年ほどして、家を建てようということになった。家を建てて私の両親と同居して、彼の両親も九州から呼びたかった。あれもしたい、これもしたいといろんな夢があった。36歳の6月に結婚して、10月頃から家を建てだした。家を建てだしてしばらくしてから、卒業シーズンが近づいてきた。私は、幸せで、今までのまわりのおかげを形にしたかった。助けてくれたお寺さんが、その頃自分の母校の校長先生をしていた。自分の母校でもあるし、卒業生にお花を作ってあげようと、40人弱の卒業生の胸に飾るお花を準備してあげた。普通だったらお礼状をくれるんだろうけど、後輩たちが私に作ってくれたのは中学校の卒業証書だった。私は、中学校の卒業式に出ていない。中学2年の夏休みからずっと病院に入院していたので、日数が足りなかったけれど、学校と親と相談して卒業させようということになったみたいだ。卒業式の後、先生が卒業証書を病室へ持ってきてくれて、読んでくれたらしい。けれど、手術の日で麻酔で寝ていたから、私には記憶がない。そんなことを聞いたのか、子どもたちが卒業証書を作ってくれた。代表の子が、先生と一緒に家まで来てくれて、それを読んでプレゼントしてくれた。私にとって、最高のプレゼントになった。家を建て始めて10か月。やっと完成した時、彼の両親を九州から呼んだ。連絡を取って、切符を手配して、4泊家に泊まってもらった。自分で食事を作って、両親を招待することが夢やった。動けて、食事を作れることが嬉しかった。足の不自由な私と、目の不自由な彼と、お互い二人で一人、という感じやったけど、いい雰囲気になっているなあと思っていた。新築した家には、私の両親も一緒に住んだ。でも、彼にとっては、私の両親と一緒にいることが窮屈になってきていたみたいやった。嬉しいはずに新築やのに、彼も、私の両親も不満を抱えている。両方の不満を聞きながら、少しずつトラブルが出てきていた。
2007.10.19
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(9) 結婚私も結婚したことがある。その人とは、35歳の時、障害者の会でめぐりあった理学療法士の人で、目に障害があった。あきらめていたけど、好きな人が出来て、両親に花嫁姿を見せたかった。その人は熊本から出てきている人で、両親は反対やった。お兄さんたちの結婚式の時は、両親が色々していたのに、何も準備してくれず情けなかった。でも、自分たちのことやかっら、自分たちでしたらええねん。と私が押しきって、式場の準備も全部自分でやった。でも、衣装あわせの時だけ母親がついてきてくれた。私は、結婚できるのが嬉しくて、来てくれた人に、自分で作った花をわたそうと思って、そんな話をしていたので衣装は3分ぐらいで決めてしまった。でも、後で聞いたら、私が他のことをしている間に、母親が白無垢や色打ち掛けを決めていた。私はせんと言ったけど、母親がしたかったらしい。この少し前に、父が着物を1枚買ってくれた。私は、その着物をお色直しに着たかった。帯に、自分の作った花も付けたかった。結局、白無垢、色打ち掛け・父に買ってもらった着物、そしてドレスの4回着ることになった。着物の着付けも、友人たちが手伝ってくれた。その時の私は、左足に装具を付けて、杖で歩いていた。21才の時、歩けるようになって退院する少し前に、亜脱臼をしていた右足の股関節も骨切り術をしていた。けれど、H先生と再会して左の股関節に人工関節を入れてから、しばらくたって右足にも入れた方がいいだろうと言うことになり、結婚をする前に人工関節に入れ替えた。着物やから緊張した。みんなも「こけたらあかんで」と言ってくれた。36歳の6月、沢山の人に祝福されて私たちは結婚した。障害者の会の仲間、授産施設の仲間、スタッフも先生もみんな来てくれた。H先生と、M先生にダメもとで手紙を書いたら、「喜んで出席します」と言ってくれて嬉しかった。M先生は有名なお医者さんでいつも忙しく、1患者の結婚式に来る訳がないと言う人もいたけれど、一番にタクシーに乗って来てくれた。早く帰らんとあかんて言ってたけれど、一番最後のドレスを着た時までいてくれて、玄関へ送っていって一緒に写真を撮った。N医大の時にお世話になった看護師さんも、広島へ帰っていたけれど来てくれた。人がいっぱい来てくれて、部屋に入れないくらいだった。時間も2時間延長して、結局4時間披露宴をした。
2007.10.17
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明日は、3週間ぶりに病院の診察日。ギブスを取るのかな?今度は痛みもなくちゃんと歩けるだろうなと思ってみたり、いやいや前もそう思っていたのにガクガクだったし・・・と思ってみたり。用心のために、一番かっちりしたサポーターと両松葉杖を持って行かねば。そうそう、それより左足用の靴を忘れないようにしないと。Eさんのお話は、まだ30代前半までしか聞けていない。明日、行って続きを聞くのを楽しみにしているが、全部聞けるだろうか。Eさんの退院する時期も近づいているようなので、ちょっと焦る。病院では、SさんとEさんと二人で携帯を使ってこのブログを見てくれていて、聞き取りを書いているのを楽しみにしてくれているようだ。私は、明日、今までの分をプリントアウトして持っていくつもりだ。 8.車の免許と展示会その後、お父さんが高血圧で倒れた。従兄弟に自動車教習所に頼んでもらい、すぐ車の免許を取りに行くことにした。教習所では、階段を上手く上がれなくて授業に遅れたりした。私は限定車で、他の人より早く教習時間が取れたりすると、教習所はえこひいきしていると言われたりした。でも、校長先生が「気にせんでええよ。」と一言言ってくださった。教習所には、和式のトイレしかなく、朝から晩までトイレを我慢しないといけなかった。だから朝から晩まで、飲まず食わずで一日を過ごした。ある日、校長先生が「ここから5分くらいのところの喫茶店に洋式トイレあるから、連れてってやるわ。」と言ってくれた。それから、校長先生か他の先生が1回連れて行ってくれることになり、おにぎり2個と自動販売機で飲み物を飲むことが出来るようになった。その頃から、周りの人たちが、かばんを持って階段を上ってくれたり、「ご飯食べたか?」と聞いてくれるようになった。最終試験の時、警察の人が、「別室を用意しましょうか?」と聞いた。でも、一緒に勉強していた主婦の人たちが、「そんなん、一人で受けたら緊張するで。一緒に試験受けよう。」と言ってくれた。結果発表の時は、自分の番号のランプがつくかなあとドキドキしていた。待っていると、私一人だけ名前を呼ばれて、(あかんかったんやろか、私一人だけ落ちたから呼ばれたんかな)と思った。行ったら、「原付免許のことが書いてないけど、裏で一回乗ってみますか?」と聞かれた。「原付は乗られへんからいいけど、どっちですか?」と聞いたら合格していた。嬉しくて嬉しくて泣けてきて、そのまま出ていったら、他に人たちが落ちたと思って心配したらしい。免許は1か月半で取れて、すごく嬉しかった。それで、病院の人や、授産所の人たちなどみんなに電話して知らせた。病院の先生が、「車の免許を今まで取られんですまなんだなあ。でも、短期間でよう頑張ったなあ。」と言ってくれた。その頃の私は、10年かけて習った通信教育でアートフラワーの師範免許が取れて、ブライダルブーケとか作らせてもらっていた。師範免許を取った時に、今までのみんなのふれあいのお礼に「心のフラワー展」と名付けて1回目の展示会をした。車の免許が取れてから、2回目の展示会をすることにした。母親も手芸をしていたので「二人展」と名付けて、作品も自分で運んだ。でも、私は何をするのも一人では出来ない。やったではなくて、やらせてもらってる。作品を作っている時、(ああ、あの人と出会った時の花やなあ)とか思い出すのが嬉しかった。2回目の展示会は、すごく沢山の人が来てくれた。新聞社の人もきて、自叙伝を書いてはどうかとも言われた。だけど、2回目の展示会の時は辛かった。父親の体調が悪くて、入院させるか展示会をするか迷ったけれど、お父さんが展示会をしてくれと言った。お父さんは、肝臓癌やった。
2007.10.14
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7.人工関節と足首固定手術 H先生は、N医大からO病院へ転勤していた。N医大を退院してから数年がたって、時々足が痛くなってコルセットかな?と思って、N医大にも来たけど、H先生がいなかった。M市の病院で何度かコルセットを造り直したけれど、いつも合わなかった。H先生と再会してみてもらっても、足の痛いのは、最初どこが原因かわかれへんかった。O病院に入院して、やっぱりコルセットが原因かなと、コルセットを作り替えて退院したけれど、それから6か月で限界やった。やっぱり手術しかない、H先生は、以前手術したN医大に行ってくれと言ったけど、私はH先生を信頼していた。H先生に手術してもらいたかった。それで、29才の時、O病院で股関節の再手術をすることになった。N医大の先生も応援に来てくれることになった。それまでの私は、立つか寝るかの生活しかなかった。私は、座れるようになりたかった。股関節手術は、5人中3人の先生が、今まで通りキャップケースという手術を勧めた。これは、骨切りをして、腱切りををして固定する手術。今までの固定をはずして、し直す手術。でも、これやったら座られへん。二人の先生が、セラミックの人工骨を入れる手術を勧めてくれた。セラミックの人工股関節は、寿命が短くて、若い人には向けへんから、他の先生は反対したけれど、H先生は押し切ってくれた。痛みを取って動けるようにしてやる、座れるようにしてやると言ってくれた。私は、足首の変形も進んでいた。長い間に足首がゆがんできて、足の底が床に着かず、体重を支えられなくなってきていた。股関節に人工関節を入れて、しばらくしてから、やっぱり足首の手術はN医大のT先生に診てもらった方がいいと言うことでN医大の診察を受けた。そしたら、T先生は入院しているO病院に行ってあげると言ってくれた。そして、T先生が0病院に来てくれて、足首の固定手術をしてくれた。この二つの手術をしてから、私は座れる生活が出来るようになった。H先生が押し切ってくれて嬉しかった。動けたし、座れたし・・
2007.10.07
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6.退院後の生活と再会退院してから、身体障害者の会に入らないかと誘いがあって、誘われるままに入っていったら、いろいろなつどいがあった。そんな中からボランティアの人や他の障害者の人などいろいろな繋がりが出来た。そして退院してしばらくしてから、私は授産施設へ行きだした。8時半から4時まで、ミシンの作業やゴムの部品の仕事をした。13歳から学校へ行けなかったので、そこでいろんな人たちと出会えて嬉しかった。「自分より上見てもきりがない、下見てもきりがない」と思った。授産所で脳性麻痺の子と、両手足が不自由な子と仲良くなって、いつも3人で行動した。トイレにも3人で入って、お互いに助け合う。私は、手で拭いたり、下着を下げたりしてあげる。ひとりは、私がトイレをする時、足を持ってくれる。そしてもう一人は、身体を支えてくれる。授産所で、私にも出来ることがあることを知ったし助け合いを学んだ。台所でいろんなものを作ったり、いつも楽しかった。学校へは行かれへんかったけれど、N医大に移った頃から、通信教育でアートフラワーを習いだした。寝たきりだったので4か月で終わる初級コースが半年以上かかったり、すごく時間がかかったけれど、母親がいつも作った課題作品を送ってくれて、初級から中級、そして上級、師範コースと10年以上かかって看板をとるまで習わしてくれた。退院した頃はまだ途中やったけれど、看板をとってからブライダルブーケを頼まれたら作らしてもらってる。授産施設の人の紹介で、教室で教えたこともあった。精神科の文化クラブで1年間教えさせてもらったし、老人ホームや学校へ教えに行ったこともある。自分から何もしてないのに、人から人へ伝えてくれる。ふれあいってすごいなと思った。退院して7年ぐらいたった頃、授産所のリーダーが結婚することになった。さあ結婚という時に、リーダーの友だちが北海道から来るというので、その送迎係の中に私も選ばれて、ホテルに行った。そのホテルに、H先生にそっくりな人を見つけて、顔を見たら、向こうも私を見ている。7年ぶりやった。ドイツからお客さんが来ていて、接待やと言って部屋の番号を教えてくれたけど、他の人たちも一緒やから寄れへんかったら、自宅へ電話をくれていた。母親が、私の足の調子が悪いと言ったら、一度来るようにと病院を教えてくれた。
2007.10.07
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5.やっと歩けた1月の末、車でN医大に向かったが、途中で熱が出てきて衰弱が激しくなり、運転手が近所の民家で水をもらってくれたりした。病院に着いてからも、すぐには手術が出来なくて、痛み止めを飲んで身体が回復するのを待った。結局体力が回復するのに1年がかかった。1年後、手術が始まった。一度固定手術したところをはずし、3回手術したが、改善しなかった。私は足が痛いと訴えたが、精神的なものからきているのではないかと言われた。4回目の時、主治医がH先生に変わった。私は、もうすぐ20歳という年になっていた。H先生は、今までの先生と全く違った。それまでは、いつも親を介してで私には説明がなかったけれど、H先生は、私を、一人の人として詳しく説明してくれた。私は、「あぁ、この先生は違う。うそついてへん。」と信頼できた。そして、すんなり「手術を受けます。」と4回目の手術を承諾した。手術後いい兆しがでてきた。リハビリが出来るようになってくると、H先生は装具技師さんと相談して、左足の付け根から足先までの長下肢装具を考えてくれた。なんにんもリハビリの先生も替わったが、やがてそれをはめて立てるようになって、平行棒で歩けるようになってきた。21歳のある日、平行棒で練習して気がついたら、周りに誰もいなくなった。平行棒を離して、周りを探したら、H先生が今までの先生を呼んでいた。私が、9年ぶりに歩いたということをみんなに知らせたかったようだ。私も嬉しくて、お父さんに電話した。H先生の奥さんから、後で、あの晩先生も家で泣いたと聞いた。もう、これやったら退院できるかなあと、22歳の6月22日、退院が決まった。H先生と出会うまでは、誰も信用できれへんかったけれど、もう私は誰も疑えへんかった。みんなが、私のために頑張ってくれているんやと思うと嬉しかった。退院の日、外へ出たら、今までの先生がみんな見送りに来てくれた。外へ出たら、雨が降ってきて、嵐のようになってきたけれど、私には帰りに行きたいところがあった。立てたこと、歩けたことの嬉しさに、買い物がしたかった。スーパーに寄ってもらって、夕ご飯の支度の買い物をするのが夢やった。9年間、外の店に行ったことがなかったので、見るもの見るものみんな新鮮で、野菜、お肉、お魚、麺類、「そんなに買ってどうするの」と言われるくらい衝動買いをした。お皿に、いろいろなものを盛りつけて、ランチ風にしたかった。私が作って出したら、兄たちから「わぁ、Aランチや」と言われて嬉しかった。私は、作った後は体力が無く、少し食べて横になった。みんなのランチを作って、家族みんなで食べること、それが私の夢やったからすごく幸せな気持ちで眠ることが出来た。
2007.10.05
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4.勝浦温泉病院へ6回目の手術が終わってから、私の身体はだんだん曲がっていった。左足は付け根から外へ外転し、上半身は痛みのために左に傾いていった。寝たきりで上を向いているのに、身体がくの字に曲がって固くなってしまっていた。ある日、13歳の1回目の手術の時立ち会った、N医大の先生が来て、「何で、こんなことになったんや」と言った。すると病院の先生が、脇を抱えて話があると言って連れて行き、後で帰ってきた時、「まあ、しょうないなあ。いずれこうなる体質やった。」と言った。いつまでも治らない私を、N医大に移そうということだったが、衰弱が激しく、しばらく勝浦の温泉病院に行って、体力を改善せなあかんという話になった。私は情けなくなって、「私を離れ小島にやるんやろ?私は、先生のモルモット?」と言ってしまった。18歳の11月、勝浦の温泉病院に入院した。身体が曲がっているから温泉につかってまっすぐにならないかということやった。この病院では、機械を使って寝たままお風呂に長い時間入る。午後からは、ベルトで身体を固定されて、リハビリをする。結局、この病院は私にとって拷問に近かった。ただ、この病院で良かったのはK大学病院から来た先生に出会えたこと。私の今までのレントゲンを見て、3枚が紛失しているという。「何かあったんですか?」と聞かれた。私にも知恵が付いてきて、やっぱりミスやったの?と思った。病院の療養生活は辛かったけれど、勝浦の地域の人たちはありがたかった。お正月を病院で過ごすことになったら、おせち料理を作って持ってきてくれた。いつもは厳しいリハビリの先生も、携帯のテレビを持ってきてくれて嬉しかった。1月には私の体力ももう限界で、三重の先生が覗きに来た時、もう帰りたいと言った。その二日後、車で帰ることになった。排出の機能がわからなくなっていたので、一度三重の病院に入院してから、N医大に移ろうということになった。
2007.10.05
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3.度重なる手術結局、9月からもそのまま入院をしていた。10月に、初めて医長さんが動いてきた。「すじがとんだから、元に戻そう」と手術の承諾書を持ってきた。上手く歩けないし、仕方がないからサインをした。12月になって、ギブスをはずしたら、また足が外を向いた。2か月たって、もう一度、そこを手術させてくれ、と言ってきた。手術をして、立つ練習をするけれど立てない。そしたら、また手術の承諾書を持ってくる。結局5回の手術をしたけれど、立てなかった。先生は、「まれに何をやてもうまくいかない患者がいる。この子は、遅かれ早かれこういうことが起こる体質やった。」と言った。あれから3年手術続きでずっとベッドで過ごしていたので、46kgあった体重は30kgになっていた。2か月たって、もう一度、そこを手術させてくれ、と言ってきた。16歳の冬、私は車いすで病院の中を逃げた。もう手術はしたくない、みんなが嘘をついているような気がした。でも逃げられない。ベッドへ戻ると、枕の下に父親からの手紙があった。「これ以上、親としてお前に手術しろとはよう言わん。お前が決めてくれ。でも、手術しか前にはすすめへん。」死ぬことを考えた。食べんかったら死ねるかもしれない。そう思って一日何も食べなかった。でも、次の日お母さんがベッドの横にカステラを置いてくれた。死にたいけれど、カステラが好きやから一口食べた。病院の食事は全く食べへんかった。また、カステラを置いてくれるから一口食べた。そんな日が2週間ぐらい続いた。ある日、昔から知っているお寺のお坊さんが私のところにやってきて、「しんどいなあ、しんどかったら何もせんでもいい。朝起きたら、手合わして、『なむあみだぶつ』と唱えたらいい。」と話してくれた。それをきいている間に、だんだん素直な気持ちになってくるように思った。6回目の手術を受けることになった。でも、うまくいかない。私は全くの寝たきり状態になってしまい、痛みのために身体もだんだんくの字に曲がってくるようになってしまった。
2007.10.05
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2.最初の手術と事故13歳、中学二年の夏休み前、7月8日に入院して14日に手術をした。手術は股関節の骨切り術で、40日間入院して、後リハビリしたら修学旅行に行けるだろうと言うことだった。骨切り術というのは、大腿骨の骨を切って、股関節側の骨を回して骨盤にきっちりはめた後、大腿骨をボルトで固定して自分の骨が出来るのを待つという手術だ。手術自体はうまくいって、夏休み同級生に、「退院が決まりました」というハガキも書いて出した。退院は8月末の予定で、9月から学校へ行こうと思っていた。でも、手術はうまくいったけど、膝があまり曲がれへんから、退院前に理学療法士に2週間ぐらい膝を曲げる訓練を受けることになった。リハビリの1日目は良かった。2日目、私はうつぶせになって身体をベルトで固定し、滑車を付けて膝を曲げる訓練をしていた。膝は、床から20度しか曲がらなかった。これじゃ階段の上り下りは難しい。滑車を続けようと言うことになった。滑車の訓練はおもりを付けて20回ぐらい足を曲げるのをくり返した後、20度曲がったままで5分ぐらい停止するというもの。これを何回か繰り返す。5分の停止をしている時に事故は起こった。私はうつぶせだったのでわからなかったけど、後で、そばにいた人に聞いたら、一人の理学療法士が冗談を言いながら走ってきて、何かにつまずいてこけた拍子に私の足についているおもりを持ったらしい。私は、「ギャー」と言ったまま、海老ぞりになってそのまま意識を失った。20度しか曲がらなかった足が、背中にくっついていた。そばにいた人が、すごい音を聞いたらしい。母親がとんできて、その先生に「整形の先生を呼んで」と頼んだが、「今手術中で来られない」と言って整形の先生に連絡をせず帰ってしまった。病室に運ばれて私は気がついたけれど、痛みがすごかった。母親は整形の先生がきてくれると思っていたけれど、いつまでたっても来ない。ちょうど病室が、先生の車を停めている駐車場の真上で、夕方になってエンジン音を聞いて、母親が驚いて呼びにいった。「先生、今日のことを聞いてませんか?」と聞くと驚いて、みんなの先生がやってきた。手術室へ運ばれてイメージ透視というのをしてもらった。運ばれていく時は、先生たちはあわてていたが、出てきた時は、「大丈夫大丈夫、すじがとんだだけ。手術したところの金具を飛び越しただけ。」と、みんなで口をそろえてしまった。次の日から処置は何もなかった。歩けと言われて、痛いけど歩いていた。1週間後、一人の優しい先生が膝を触ってくれたら、膝が3倍くらいに腫れていた。すぐに整形外科で診てもらったら、血液がたまっていて15CCの血を抜いてくれた。処置室から出てきたところで、見ず知らずの女の子に、「あのお姉ちゃん、かかとが前むいているよ」と言われた。その言葉にショックを受けて、3日ほど部屋にこもってしまった。その優しい先生が血を抜いてくれただけで、他の先生は何の処置もなかった。8月の末で退院する予定やったのに、9月もそのまま入院することになってしまった。
2007.09.29
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1.幼い時のこと私は三重の田舎で生まれた。3人兄弟の末っ子で、6か月までは健康優良児やった。7か月の時、股関節脱臼をして、昔の整骨医ですだれみたいなギブスを巻いた。でも、そこがむれて、なんか足からきのこのようなものが生えてきた。左足だけが発育不全で、ちょっと短かった。小学校に入ってからは、遠足に行って、行きはいけても帰りが歩けない。2年ぐらいから、「タケノコの足、びっこの足」といじめの的になった。遠足にいっても、帰りが歩けないので、付いたあだ名が、「行きはよいよい帰りはこわい」、みんなからいろいろ言われても、自分では、みんなのまん中にいるような気がしてこたえてなかった。近所に誕生日が二日違いの女の友だちがいて、親同士も友だちで、かばんをもてなくても持ってもらえて、そんな友だちがいたからかな。中学に入っても「ぼくらのクラスにかたわものがいる。びっこがいる。」と言われていじめの的やった。中学校は自転車通学やったけど、私は上手くこげなくておかしいなあと思っていた。いじめはだんだんいたずらに変わっていった。自転車でこけても立てないし、それを面白がられた。でも、中学校にもう一人私よりもいじめにあう子がいて、先生から「その子の気持ちの窓を開けるかもしれないから」とその子の話し相手になるように役目をもらえたのが嬉しかった。中学2年の1学期。13才の時のこと。秋には修学旅行で東京に行くことになっていた。歩かれへんけど行きたかった。ちょうど十二指腸潰瘍で父親が入院していて、そこの先生に診てもらったら、「股関節がはずれて抜けかけてひっくり返っている。すぐに手術できる。そしたら痛みが取れる。」と言われた。※ いじめの経験の聞き取りで、不適切な言葉を含んでいることをご了承ください。
2007.09.29
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入院中に知り合ったEさんは、人工股関節の入れ替えで入院していた。足首も固定手術していて、脳腫瘍の摘出手術も受け、30回以上の手術を経験していて、普段は車いすと装具を付けてやっと歩けるという生活なのに、両親の介護もしてきたという。話を聞いていると、その闘病生活はすさまじく、本を書いたらいいのにと勧められたこともあるという。私も書いたらいいのにというと、「私は13の時から病院生活で、学校へ行って無いから学がないねん」と言う。「でも、私のことを知って欲しいから、お寺で話をしたことあるねん。そしたら、勇気がでてきたとか言ってもらえて嬉しかった。」と言う。それなら「私が聞き取りをしてブログに書いてもいい?」と聞くと良いという。退院するまでの3日間、少しずつ話を聞いたけれど、話が上手で引き込まれる。少しずつフリーページに書いていこうと思っている。でも、入院中には全部聞けていない、彼女の今までの半分くらい。次回の診察日(10月15日)も聞いてこようと思っているのだが、彼女は後数週間で退院しなければならない。今の法律では、一つの病院での入院は3か月以内。まだ自分で車いすにも乗れないし、痛みも取れないのに、一旦帰らないといけない。彼女は一人暮らしで、帰った後のことを考えると不安で、一生懸命リハビリに励んでいる。そんな現在の医療制度のことも知ってもらいたいと思う。フリーページに書いてみて、ブログのトップページからしか見られないことがわかった。それに、だんだん面白く無くなって途中で断念した「Papa」の中途半端なドラマレビューも一緒に出てくるよお・・・やっぱり、Eさんの聞き取りは日記で書いてから、フリーページに移すことにします。
2007.09.28
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