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福山城を発見というのは大げさな表現だが、私にとっては「発見」だった。鉄印の旅2巡目で、福塩線で福山駅に入る時に、大きな城を発見したのだ。駅前にこんな大きな城があったんだ~何時の間に出来たんだ~という感じで、駅前と言うか、城の中に駅があると言うか、あまりの近さに驚いた。福山駅で下車したことはないが、これまでも何回か乗り換えている。城と反対側の新幹線の乗り換えで気がつかなかったのか、暗くなってからの乗換だったので見えなかったのか、はじめて見た城だ。まさか、客寄せパンダで作った「なんちゃって城」ではないだろう、ということで、新幹線を1本遅らせて、城を見に行くことにした。城の案内板を見ると、「福山城」とある。大名の名前などはよく分からないが、由緒ある城のようだ。城には青空がよく似合う。
2023.04.06
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久しぶりにピンク電話を見た。何年ぶりだろうか?以前に見たのは、街道ウオークの際、立ち寄った居酒屋。ただしこれは、居酒屋のインテリアであって、電話線も電源も繋がれていなかった。実際に使えるピンク電話を見たのは、20年ぶり・・・かもしれない。と、前振りが長くなったが、ピンク電話というのは、「特殊簡易公衆電話」というのが正式名称。一般加入回線に繋いだ公衆電話のこと。携帯電話の普及にともなって、公衆電話が無くなってきたが、店舗や公共施設に置かれたピンク電話も姿を消してきた。画像のピンク電話は、徳島のホテルにあったもの。今どき携帯電話を持っていない人がいるのか、その人のためにホテルが設置しているのか、何とも理解しがたい状況だが、おそらくこれが最後のチャンスと思い、デジカメした。今の子は、公衆電話の使い方も、コインを入れることも、ダイヤル式の電話の使い方も知らないそうだが、あまりにも懐かしいので、どこかに電話してみようと思った。が・・・ポケットに10円玉がなかった。
2023.04.03
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GoogleマップからYahoo地図から少し前のこと。岐阜のホテルで新聞を見た。もしかして「読売俳壇」に我が句が掲載されたかもしれない、という淡い期待で。だが、ホテルに読売新聞はなかった。有ったのは中日新聞とスポーツ紙。あ・・・以前に、何で東海3県に岐阜県が入っているのか、という疑問を書いたが・・・もしかすると、中日新聞が強い所が東海3県なのかも!静岡県には静岡新聞という地方大手の新聞がある。で、中日新聞に、美濃加茂市と八百津町の境界線について、あまりにも複雑、とあった。画像は、Yahooの地図とGoogleの地図だが、色分けをしているYahooの地図は見やすいが、境界線を正確にトレースしていないようで、地図上の境界線とズレている所が多い。中日新聞は、下水はどうなっている、電気は、郵便配達は、と書いているが、このような境界線が存在することに興味を持った。人生ヒマだったら(←ヒマだが)、見に行きたいものである。
2023.03.18
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街道を歩いていると、色々と懐かしい物に出会う。先日出会ったのは、電池の自動販売機。稼動はしておらず、見本の電池が茶色に錆びているが、自販機の姿はとどめている。大きな物で、背丈ほどの高さがある。電池の自販機があったのはいつ頃だったかのか、はっきりとした記憶が無い。自分のお金で電池を買うようになった頃にはあり、最盛期というか、多かった頃は、かなり小型化していたと思う。単4の電池が発売されたのはいつ頃だったのか?この自販機には単4電池が入っている。2本で130円だ。価格を変えて貼り直したようで、単3が2本で300円、4本で840円とおかしな事になっているが、今では信じられないほどの高額だ。この値段で売れば自販機の元は取れただろうが・・・なぜか、使われなくなった自販機は撤去されていない。処分費が高いからだろう・・・が、捨てがたい気持ちがあるのかもしれない。・・・だとしたら・・・・もう少しきれいに手入れして欲しい・・・
2022.11.28
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♪ あれは三年前 ♪ という歌があったが、それ風で言うと、 ♪ あれは、51年前 ♪なのだが、はっきりとした記憶はない。結婚式(披露宴)に呼ばれたのは間違いないが、その披露宴のテーブルにマッチがあったことは覚えていない。コレクションのマッチ(ラベル)を整理していたら、画像のマッチが出てきた。50年も前だと、披露宴の席で、当たり前に、タバコを吸っていたようだ。私は、生まれつきタバコを吸っていないが・・・・・・いや、正しくは、小学4年生の時に、親爺の灰皿にあった吸い殻に火を着けて、一服でタバコを止めた・・・なので、マッチは使わずに、そのまま持ち帰っていたようだ。名前からして、1971年からして、誰の結婚式か分かったので、当人達にこのマッチを郵送した。やはり、当人達はこのマッチを持っていなかった。「懐かしい物をありがとう」との言葉と、「数年前にタバコを止めた」の言葉があった。長生きしたくなったのだろう・・・多分。
2022.04.26
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新聞の折り込み広告に、「買い取り」があり、天皇陛下御在位60年記念10万円金貨、12万円、とあった。そう言えば、我が家にも金貨があったはず・・・この際だから売ってしまおうか、コインのままでは利息も付かないし、長い間眠らしておいた利息が付いたと思えば良い・・・等と言っていたら、我が家のさっちゃんが、「これでしょう」と、金庫から出してきた。一時は額面割れしていて、銀行に預金するしかないと思ったのだが、昨今の金価格高騰で、プレミアが付いている。持っていても相続人も扱いに困るだろうし、これまでの利息より高額のプレミアが付いているので、売却することにした。で、念のため、ネットで調べてみた。値上がり具合と今後の予想のためだが、14万円以上で買い取る業者がいたので、売るなら今だと判断して、店舗まで行った。結果は、148,180円での買い取りとなった。買取業の窓口嬢は、金の価格が上がっているので、金の価格で買い取れます・・・と言うが、日本で硬貨をつぶして(溶かして)金塊にするのは御法度なので、10万円の硬貨は10万円のはず。おそらく、外国へ売って、外国で金の延べ棒にするのだろう。36年前、この金貨を誰の財布で買ったのか・・・記録もメモも記憶も無い。なので、我が家のさっちゃんと山分けした。
2022.03.09
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中山道を歩いていると、皇女和宮(こうじょかずのみや)の名が各地に出てくる。皇女和宮は、仁孝天皇の皇女。1846年生まれ。いわゆる側室の子で、6歳の時より婚約者がいたが、江戸幕府の請願により、16歳で14代将軍家茂(いえもち)と結婚(降嫁)した。皇女が臣下(しんか・君主を支える者・すなわち皇族でない人)に嫁ぐことを「降嫁(こうか)」と言う。(眞子さんも同じ)あの時代、飛行機で一っ飛びとはいかないので、大名行列ならぬ、和宮行列となり京から江戸へ降嫁した。その行列の数は3千人と記されている。中山道を歩いていると、皇女和宮の名を各地で目にするのは、この史実のため。10月20日(旧暦)に京を出て、11月15日に江戸に到着したのだが、皇女和宮が休憩した所とか、和宮の小水を埋めたところとか、和宮の一行が宿泊したところとか、和宮の詠んだ歌の碑とか、多数、中山道の宿や峠などに存在する。その一つ、岐阜県瑞穂市の小簾紅園(おずこうえん)は、呂久川(揖斐川)の呂久の渡しの船着き場だったところで、街道一の大きな史跡(←おそらく・当社比)となっている。ここにあったのが、 落ちて行く 身と知りながら もみじ葉の 人なつかしく こがれこそすれ中山道道中で詠んだ歌にはこのように降嫁を哀しむ歌が多いが、その後も、和宮の人生は穏やかではなかったようだ。現代の降嫁・・・・旧暦との違いはあるが、ニューヨークへ着いたのは、11月15日だったと思う。意識していたのかも知れない・・・・
2021.12.03
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1週間程前、読売新聞の編集手帳に「博物誌」からの引用があった。とても良い言葉の引用なので、どんな本なのか読んでみたいと思いながらも、雑用優先で予約を忘れていた。思い出したのは、夕刊を広げた時。そうだ・・・図書館に予約するんだった、半日過ぎてしまったので、予約がたくさん入ったかも・・・と思いながら、再度、編集手帳で本を確認し、予約を試みた。結果、先行の予約はなかった。読売新聞の読者は少なくないと思うが、コラムにあった本を読んでみようと思う人は少ないようだ。ということで、ジュール・ルナール著、岸田國士譯「博物誌」(白水社)を借りた。画像は、「博物誌」の奥付。1951年の本だ。私より、少し若い。この時代に、「昭和」を使っていない。定価180円。送料24円。検印のシール。画像では見づらいが、紙片が糊付けされている。 昔は、発行部数を確認するために、検印のシールが貼られていた。古い漢字と、旧仮名使い。 翻譯權=翻訳権 「まえがき」が「まへがき」時代が現れている。そして、ページの下の余白。これはよく分からないが、おそらく、画像のように本を持っても、文字が隠れないように、下を空けたのではないか、と思われる。また、著者の紹介も、翻訳者の紹介もない。紹介しなくても、良い物は良い、という考えなのだろうか?70年も前の、こんな古い本があるんだ、あったんだ、これぞ本来の図書館ではないか、と思った。ということで、肝心の本の中身については、明日。
2021.05.21
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映画、サウンド・オブ・ミュージックを見た。TV放送をビデオに録画し、後になってから、DVDに移し替えたもの。DVDに移し替える時に前編と後編を逆さにし、後編が先にダビングされていた。ビデオテープを節約するために、空いているテープ2本に録画した結果かと思う。しかも、画質が悪い。やはり、ビデオテープを節約するために、長時間モードで録画したからだろう。昔はビデオテープが高かったからだ。で、映画よりも楽しかったのは、CMと番組予告と放送エンディング(画像)出てくる車は角張っているし、タレントのヘアスタイルがレトロすぎる。そして、放送終了時の、コールサイン。今のTVは24時間放送しているのだろうか?深夜に(明け方か?)放送が終了すると、このようなコールサインが流れるのだろうか?あ・・・アマチュア無線ではないので、コールサインとは言わないのかも知れない。・・・いや、放送局も、コールサインかもしれない・・・いや・・・衛星放送の電波を出しているのは日本の法律の範囲外の宇宙だから、コールサインは必要ないのかもしれない・・・?地デジは・・・誰が電波を出しているのだろう?これは、1985年のもの。なぜ、85年と分かるのかというと、番組予告の「昭和60年」という内容から。昭和60年はこんな車が走っていたんだ、こんなCMが流れていたんだ・・・画質の悪い映画を早送りして、CMを楽しんでしまった。画像はいずれも、パソコンの横長画面をコピーしたものなので、横に広がっていると思われる。
2021.01.31
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その昔、ドイツ製の車に乗っていたことがある。ベンツではない。当時のディーラーはヤナセ(YANASE)。リアウインドーに、黄色いYANASEのステッカーを貼った車にあこがれ、ちと嬉しかった記憶がある。バブルが弾ける前で、世の中の景気はよかった。YANASEの景気もよかったと思う。毎年、誕生日に、プレゼントが届いた。プレゼントと言っても、大したものではないが、これも嬉しかった記憶がある。そんなYANASEのプレゼントが、下駄箱から出てきた(画像)。しっかりとした箱に入った、鍵の形をしたキーハンガーだ。帰宅した時に、ポケットにある家や車のキーを掛けておく物だ。玄関のどこへ付けようか・・・と考えていて、先送りになり、そのまま下駄箱の隅で何十年も眠っていたようだ。懐かしさと同時に、今YANASEはどうしているのだろう、と過ぎった。倒産したとか・・・耳にした記憶はないので、何らかの活動はしているのだろうが、最近、街中ではお目に掛かったことがない。どうしているのだろう・・・?◎△□◎△□◎△□◎△□◎△□◎△□◎△□◎△□◎△□◎△□◎△□ブログ500万アクセスを記念して、朗読版DVD「かおりちゃんの不思議なおもちゃのケータイ電話」をプレゼントしています。お気軽にお申し付け下さい。詳しくは、こちらをご覧下さい。◎△□◎△□◎△□◎△□◎△□◎△□◎△□◎△□◎△□◎△□◎△□
2020.09.17
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画像は、我が家のプリンターとFAX。私のドラえもん風ベッドの、足先の上にある。プリンターとFAXと書いたが、正確には、プリンターとスキャナとコピー、FAXと留守電、の機能がある。絶滅危惧状態にある感熱紙FAXを廃止するとすれば、プリンターを、FAXと留守電機能付きに変えなければならない。そんな欲張った機能を持つ機種があるのか・・・ネットで検索すると、いくつが出てくる。ただ、詳細がよく分からないので、封筒のプリントはできるのか?CDへのプリントはできるのか、WiFi接続はできるのか、時間を掛けて調べる必要がありそうだ。私のプリンターの欠点は、インクが長持ちしないことと、その値段が高いこと。買い替えても、2年ほどで、本体価格ほどの節約ができるかもしれない。とはいえ、在宅勤務もどきでFAXを使うのは今だけだけで、あとは、ネット送信に疎い俳句の高齢者が送ってくるのみなので、このままでもいいか・・・とも思えてくる。しかし、こんなタイミングを逃すと、コストの高いプリンターから足を洗えないし、そろそろ、(サポセン対応の)インク吸収体の交換時期になるかも知れない。どうしたものかである・・・・
2020.08.24
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我が家のFAXは、感熱紙仕様。感熱紙って何? と言われそうな時代になってきた。FAXの感熱紙は、以前は、文具屋やスーパーでも売っていたが、今は、家電量販店にしかない。しかも、ロールペーパのA4とB5で、芯の太さの大小2タイプと、ミニ感熱紙のみ。その他は取り寄せとなる。感熱紙の良いところは、場所を取らないことと、インクシートを必要としないこと。普通紙仕様の機種は、FAXの後ろに用紙を立てて入れて置くかプリントの際に用紙を入れるので、場所をとる上に面倒なところがあり、インクシートが切れたらプリントできない。一方、感熱紙の最大の欠点は、用紙の残量が見えないことと、用紙の途中補充ができないため、使い切るか強制的に取り替えるしか、用紙交換ののタイミングがないこと。なので、多くのFAXを受信すると用紙切れになって、受信が完了しない。そして、カッターが付いていないので、複数枚の用紙が切れ目無く排出されるので、ペーパーナイフなどで切断する必要があること。また、感熱紙ゆえに、長期間保管すると、プリントが劣化して、終いには見えなくなること。そんな中、最近は在宅勤務の真似事をし、俳句のリモート選句をしたりして、FAX用紙の減りが早く、慌てて感熱紙を買いに出たりしている。安いものなので、買い置きをしておけば良いのだが、我が家のFAXは15年以上前のものなので、そろそろ寿命かと思っている。
2020.08.23
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画像は、昨日まであった我が家の洗濯機。いや、正しくは、昨日まで使っていた洗濯機、だ。今の若い人には通じない「二槽式洗濯機」で、25年前の物。25年もの間何事もなく動いてきた。我が家のさっちゃんは、2年ほど前から、 そろそろ寿命かもしれないけど 使えるうちは買い替えない 二槽式は便利なところもある・・・などと迷っていたが、ついに買い替えを決断した。新しい洗濯機の機能を使いこなせるのか、今なら取説を読んで理解できるだろうけど・・・という判断が働いたようだ。この洗濯機が置いてあるところは、10数年前にリフォームしているので、25年間も洗濯機を置きっぱなし、ということではないが、洗濯機の下には長年の埃が積もっていた。
2020.07.19
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義母の家には色々な物がある。その多くは、古くて価値のないものだが、今の私でも、保存したくなる物があったりする。そうは言っても、私自身も終活しているので、余計な物を増やしたくない。が、矛盾しているが、このような(画像の)錆が出てきた鉄瓶は、錆落としをしてみたくなる。この鉄瓶は、某会社が昭和38年に、創立30周年で配った記念品。蓋の裏側に、鋳造文字で書かれている。で、サビの部分は、歯ブラシと歯磨き粉で擦った。だが、鉄瓶の中は、歯ブラシが横に入らないので、先の部分を熱で柔らかくして曲げて、擦った。が、外側の錆は、気になるので、ドリルの刃先をプラスチックのブラシに替えて擦った。あまり擦ると、鉄そのものの白い光が出てきてしまうので、頃合いが難しい。ということで、古さは落とせないが、私なりに、納得の範囲内に納まる出来上がりになった。
2019.09.16
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書こうと書こうと思いながら、時間が過ぎてしまったことがある。それは、旧街道の宿にあった高札(こうさつ)のこと。高い所に掲げられた板(札)なので、高札と呼ばれ、その高札が立っているところを高札場という。高札の目的は、幕府から民衆への告知。江戸時代末期まで存在していた。東海道や中山道を歩いていると、高札を目にする。昔のままの高札が残っているとは思えないし、現代語表記なので、再建された物と思われるが、高札の内容を読んでみると、どこの高札も同じ内容であることが分かる。地元の代官様のおふれ、ではなく、幕府からの全国的なおふれだったようだ。お金の換算に関することや、夫婦仲良くすることなども書かれていて興味が生じる。画像は、高札の一部。コピー本を売ってはならない、請負職人は談合して手間賃をつり上げてはならない、とある。今の世と同じ、今の世でもこのまま使えそうな高札の内容だ。
2019.06.11
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元禄15年12月14日・・・と言えば、赤穂の四十七士が吉良邸を討ち入りした日。忠臣蔵としておなじみの討ち入りで、年末になると、色々なイベントが開かれる。四十七士が眠る泉岳寺のある港区主催の歴史フォーラム「忠臣蔵」があったので、加来耕三氏の講演と、もりいくすお氏のトークショーを聞いてきた。歴史家・作家の加来耕三(かくこうぞう)氏は、本日の主催者には申し訳ないが、忠臣蔵は、松の廊下の刃物沙汰と吉良邸討ち入りという出来事以外は、全部ウソ、と、講演を始めた。確かに、忠臣蔵という演じものには脚色が多く、舞台や映画などによって、その内容が異なっている。会場のニッショーホールは満席。だが、会場は私と同年代と思われる高齢者ばかりで、若者はいない。土曜日の昼。若者は寝坊しているのだろうか?それとも、忠臣蔵には興味が生じないのだろうか?私も含め、会場には、「大石内蔵助は昼あんどん」という解説に同意のうなずきが生じていたのだが・・・・会場のロビーには、浅野家・吉良家ゆかりの、赤穂市、西尾市からの観光案内や土産物、記念品の販売があった。その中で、???と思ったのが、「切腹饅頭」。なんと、饅頭の横っ腹が開いていて、中の餡が見えるのだ。そこまでするか・・・という感じだったが、買い求める人は少なくなかった。
2018.12.14
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東海道や中山道などの旧街道の宿場町は、その後も発展を続けた町もあれば、過疎の道を歩んだ町もある。そこには、色々な事情があったものと思われるが、その大きな要因は、地形だと考えられる。参勤交代の時代が終わり、道路や鉄道が発達してきた時、険しい峠などを避けて工事が行われたからだ。そこには、古い宿場を守るために、道路の拡幅や鉄道の敷設を拒んだこともあったろう。だが、今にして思えば、長久手宿などは、観光客や街道ウオーカーを拒むような過疎地となっている。画像は、長久手宿の小さな名所旧跡案内板。手書きで、風雨に晒されるままで、判読が難しい。街道ウォークのガイドブックによると、この地は、皇女和宮の排泄物を埋設したところだという。せっかく、そのような塚が残されているなら、これを手がかりに、皇女和宮がどのような思いで江戸まで移動したのか、その時の宿場の賑わいはどうだったのか、皇女和宮はどのような歌を詠んだのか・・・・などと、観光で町おこしはできないものか・・・・と考えさせられる。その昔、長久手宿近くまで、鉄道を敷設した人がいた。(昨日のブログ)当時、赤字を承知で鉄道を敷設したとは思えない。なぜ過疎化が進んでしまったのだろう?
2018.07.09
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旧中山道の大井宿(JR・恵那駅)から御嶽宿(名鉄・御嵩駅)間は、古い街道がそのまま残されている。残されているとはいえ、400年も前に作られた街道なので、そのまま残っているはずはないのだが、そんな感じがする街道だ。この間の宿場は、大湫宿(おおくて宿)と細久手宿(ほそくて宿)。鉄道からも道路からも見放された宿場町なので、交通手段の変化とともに置き去りにされ、昔のまま残された。例えば、一里塚もそうだ。一里塚は、道路の両端に一対、お椀型に設けられたものだが、道路が拡張されると、片方、あるいは両方が撤去されてしまい、現存していない。ということで、この間には、いくつかの一里塚が、昔のまま保存されている。街道の両側に盛られた一里塚を見ると、昔の旅人のように、ここでひと休みして行きたくなる。ここで、ペットボトルの水を飲むと、昔の人は陶器の器で水を持ち運びしたんだろうな、それだけでも大変だっただろうな・・・と思うのだった。
2018.05.03
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旧細川邸があったと思われる所をフェンス沿いに巡って行くと、赤穂義士の史蹟がある。赤穂義士が切腹をした細川邸の庭だという。頑丈な門が閉じられていたが、隙間から中を見ることができる。赤穂浪士が吉良邸に討ち入りしたのは、元禄15年(1703年)。そして、将軍から切腹を命じられて自刃したのが、翌年2月4日で、その間、大石内蔵助他16名が細川邸預けにされていたという。この、旧細川邸の敷地の所有者は誰なのか・・・港区なのか、東京都なのか、歩いただけでは分からないが、直ぐ近くには、都営住宅や公立中学校がある。ネットで検索すると・・・・細川家下屋敷 → 高松宮邸 → 物納 → 区に払い下げ → 都営住宅・中学校のようである。中学校(高松中)の東側と南側が、手付かず状態で残っている不思議な所だ。四十七士が眠る泉岳寺は、ここから直ぐの所にある。
2017.11.02
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先日の、落語「井戸の茶碗」に登場するのは、正直清兵衛の他に、貧しい浪人の千代田卜斎と肥後熊本藩細川家の若侍高木佐久左衛門。くず屋の清兵衛が卜斎から仏像を買い、佐久左衛門に売ることから、色々な問題が起きるのだが、だれもが正直すぎるという設定。で、気になるのが、落語の中に、「細川家の下屋敷」が出てくること。ということは、細川家の下屋敷が白金に実在したのかと思えてくるので、これも確認したくなった。付近を歩くと、白金の高台に、「旧細川邸のシイ」という大木があった。細川邸がここにあったというのだ。屋敷そのものはなくなっていたが、椎の木が残されている。すると、落語の話は実話なのか・・・・と、思いをめぐらす。肥後熊本藩細川家とは、元首相の細川護熙氏の家系。ここまで具体的なら、落語も何らかの事実に基づいているのかもしれない、と思える。
2017.11.01
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落語には色々な地名が出てくる。一番多いのは、花街の「吉原」で、次が「浅草」、「吾妻橋」だろうか?で、「井戸の茶碗」という落語には、具体的な地名とお屋敷名が出てくる。港区白金界隈が舞台だ。その落語に出てくるのが、「せいしょうこうさま」。実際に存在すると聞いて、見に行った。落語に登場するクズ家の正直清兵衛さん仲間が弁当を食べたり休憩する場所が、「せいしょうこうさま」で、なんだろう、と思っていた。行ってみると、覚林寺というお寺で、加藤清正公を祀っているので、清正公・・・・せいしょうこう、と呼ばれていたという。すると、落語に出てくる細川家の下屋敷も実際にあったのだろうか。あったとすると、落語の内容は実話なのか・・と思えてくる。
2017.10.28
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こんな箱が出てきた。薄い鉄板を折りたたんで箱にしたもので、 京名物 鴨川 八ツ橋 とある。記憶などからすると、(硬い)八ツ橋が入っていたものだ。八ツ橋というと、今は、柔らかい生八ツ橋を指すようだが、昔は、固い八ツ橋しかなかった。で、鴨川・八ツ橋、で検索するも、この箱が示すような八ツ橋は出てこない。鴨川八ツ橋というのがメーカー名のようであるが、手がかりがない。生八ツ橋を発売し損なって、倒産したのだろうか?ということで、保存の価値無しと判断して、燃えないゴミに出した。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・このブログに、10年がかりで書いてきた超短編を完成させ、オッカー久米川さんに絵を加えていただき、絵本にしました。題して「かおりちゃんの不思議なおもちゃのケータイ電話」短編小説プラス絵で、映画のようなビジュアル感覚で楽しめるようにした絵本です。文字は多く、漢字には振り仮名はありませんが、子供さんにも楽しめるよう、塗り絵と猫探しができるようになっています。21cm×21cm 40ページ ハードカバーamazonで発売中です。 @1201円。「にととら」で検索下さい。
2017.09.05
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終活をしていたら、こんなバッジが出てきた。小さな桐の箱に入ったバッジ。背広の襟に付ける普通サイズのバッジだ。バッジには、HEMMIとある。HEMMIとは、ヘンミ、ヘンミ計算尺のこと。何かの会でそれなりの成績を上げたのだろうか?それとも、単にヘンミ計算尺の会員になっただけのことなのか、記憶はまったくない。その昔、小学生だったか、中学生だったか、計算尺にはまっていたことがある。三角関数も何も分からないのに、検定試験を受けた記憶はある。100均で電卓を売っている時代、計算尺はまったく存在価値がないが、当時は、素晴らしい計算道具だと思っていた。計算尺は、いまだに何本か持っている。算盤もそうだが、捨てられないでいる。
2017.08.24
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旧街道は、新しい国道や鉄道によって塗りつぶされているとこが何カ所もある。長いこと旧街道を歩いていると、このようなところでは、歩道橋を渡るのか、地下道をくぐるのかの判断ができるようになる。で、このバイパスでは地下道だろうな、と思われたところに、この画像の案内があった。 中山道ハ地下道オクグル丁寧に書かれているが、公的なものではない雰囲気がある案内版だ。なんと言っても、このカタカナがいい。昔は、カタカナを公的用語として使う企業もあったので、そんな時代の人が書いたものと思われる。古い中山道を愛して残して行こうとす人たちがたくさんいることが嬉しい。
2017.07.22
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今回の中山道ウォークは、野尻宿(中央線野尻駅)から、妻籠までが第一日。2日目は、妻籠から馬籠を通って、中津川宿まで歩いた。妻籠、馬籠と言えば、日本人ならほとんどの人が知っている、旧宿場町。信州の旅行パンフレットには必ずと言っていいほど、この旧宿場が載っている。妻籠、馬籠の宿のすべてが、昔の面影を残しているのは、鉄道と国道が、木曽川沿いに作られたこと。旧中山道は、木曽川を南に外れて、馬籠峠を通っているが、鉄道はアップダウンに弱いので、馬籠峠を避け、国道もそれに従った。とはいえ、昔のままの家並みが残っているのではない。馬籠宿は2度の大火で、すべてが再建されたもので、あまりにもきれいすぎる。この点、妻籠宿には、昔の面影がある。画像は、そんな妻籠宿での3枚。馬籠宿のように、観光客でごった返していないのが救いだ。
2017.07.12
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JR中央線、木曽福島と中津川の中間付近に、須原駅がある。その須原駅近くが、須原宿(すはらしゅく)。須原宿は、中山道69次の39番目の宿。江戸から、75里12町、295キロmのところ。須原宿は、1715年に、木曽川の氾濫で流出し、現在の高いところへ移ったが、1866年の大火で、焼失した歴史があるという。そのためかどうか分からないが、須原には「水舟」(みずふね)が多い。水舟とは、サワラの木を舟のように切り抜いて、湧き水を貯めるもの。共同井戸のようなもので、飲料や洗い物などに使われたといい、現在でも、飲料などに使われているようだ。旅人としては、口を湿らせ、手を冷やせるのがありがたい。木曽路には、このように、清水を溜めて置く場所がいくつもあったが、いずれも、コンクリートの枡になっていて、昔の面影はなく、須原宿の水舟は旅人を癒やしてくれる。画像の手前が、水舟。
2017.06.28
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旧中山道の木曽路は、木曽川に沿っている。木曽川は山脈と山脈の間を流れる川なので、大きく蛇行することはない。川があって、旧街道があって、鉄道があって、新国道があるのが、木曽路だが、所によって、旧街道だけが扇状地の付け根を大きく迂回する。その昔は、扇状地で、道路を直線に作ることができず、山裾に沿って大きく迂回したものと思われるところだが、今は、鉄道も国道も扇状地の先の川沿いを通っているので、迂回路は昔のまま残されている。そこで会う人々は元気だ。大人も、子供も、元気に挨拶をしてくれる。「きょうはどこまで?」と、中山道を歩いているのが分かって、声を掛けてくれる。コンビニはもとより、自販機もない。あるのは、山から湧き出る清水くらい。住めば都と言うけれど、そうなのだろうか・・・と思ってしまうが、この、丁寧に手入れされた農地を見ると、前向に生活しているであろうことが分かる。
2017.06.27
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街道に鉄道の駅を作るとすると、第一に考えるのは、利用者の利便だろう。人が多く住んでいるところに駅を作るのが一番いいということだが、町の真ん中に駅を作るのは難しい。立ち退きの問題もあるし、土地買収費用の問題もあるだろう。なので、宿場の中心から街道とは直角に離れたところに駅を作るのが一般的。中山道、蕨宿、浦和宿、大宮宿などは、いずれもそのような位置に駅が作られた。だが、木曽川沿いでは、街道と直角方向は、川あるいは険しい山なので、宿場の入口か出口に近いところへ駅を作るしかない。で、木曽福島駅は、福島宿の京寄りに作られた。宿場の中心からしたら不便な位置だが、地形上、これしかなったのだと思う。そんな木曽福島駅前の宿に泊まった。山みず季 URARA つたや というのがそれ。「山みず季」「URARA」「つたや」の3軒ではない。これで一つの名称。先代に配慮し、嫁さんにも配慮し、若い者の意見も取り入れてた結果か?古い旅館(旅籠)だが、何かあか抜けしている、というのが最初の印象。気取りすぎている、頑張りすぎている、普通の旅館でいいのに、とも思ったが、部屋や風呂などの造りが違う。なぜ? と尋ねたら、TVの改築番組「ビフォーアフター」の力を借りた、という。限られた資金で古い旅館を現代風に改築したのだという。頑張っている経営者夫婦だった。
2017.06.18
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旧街道がどのようにして出来上がったのか・・・言うまでもなく、人々が商業目的で移動したのが最初。人が移動すれば宿ができ、やがては宿場町になっていくのだが、木曽川沿いの中山道は、その後に作られた鉄道や国道に大きく影響されている。木曽川沿いに街道があったところに、人の移動が多いことから、鉄道ができ、自動車を通す国道ができるようになったのだが、川沿いの狭いところなので、鉄道を敷くにも、国道を通すにも、場所が無く、山を削り、トンネルを掘り、旧道をつぶす、ということになったようだ。中山道の木曽路には、鉄道や国道につぶされて、かろうじて、1メートルほどの旧道が残されていることろがある。中には、国道のために民家が移設されて、民家の庭先が旧道という所もある。画像は、いずれも、国道のすぐ側に残された旧道。平坦優先の国道が、直ぐ脇の下にできたり、上にできたりしたため、法面(のりめん)で狭くなった旧道は利用されなくなり、草が生い茂っている。登記上は「公道」なのか・・・・『庭先を通るな』と、言われたことはない。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・このブログで、10年がかりで、年末年始に書いてきた超短編を完成させて、オッカー久米川さんに絵を加えていただき、絵本にしました。題して「かおりちゃんの不思議なおもちゃのケータイ電話」短編小説に絵を加えて、映画のようなビジュアル感覚で楽しめるようにした絵本です。文字は多く、漢字には振り仮名はありませんが、子供さんにも楽しめるよう、塗り絵と猫探しができるようになっています。amazonで発売中です。 @1200円。 「にととら」で検索下さい。
2017.06.17
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木曽町は、平成の大合併で、木曽福島町と周辺の3村が合併して誕生した新しい町。最初は、木曽郡の11町村の大合併の構想だったが、色々な事情で(長野県民独特の考えによる結果だと思う)、4町村の合併となった。面積は、476平方キロメートル。正方形にすると、一辺が約21Kmほど。御嶽山の頂上までも含む広い面積だが、人が生活するのは、木曽川流域がほとんど。木曽谷の木曽川流域の狭い地域なので、警察、税務署、町役場、県立病院、消防本部などが、細長い地域に点在している。警察の管轄はどこからどこまでなのか?税務署の管轄はどこからどこまでなのか?我々都会に住む者には分かりえない苦労があるように思える。中山道を歩いて、地域のバスで木曽福島駅まで戻り、翌日、同じバスで、昨日の最終地点まで戻ったり、二往復したが、バスは、貸切状態が一度、その他は、乗客が4人以下だった。過疎が先なのか、公共交通機関の廃止が先なのか・・・・その辺は分からないが、木曽路に入って、過疎と過疎対策の難しさを考えさせられた。
2017.06.14
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中山道ウォークでは、前回、福島宿の少し先まで歩いた。宿の名称は「福島」だが、町役場の名称は「木曽町役場」。地図上の名称(住所)は、「木曽福島」で、JRの駅も「木曽福島」。その福島宿は、中山道六十九次のうち、江戸から三十七番目の宿場。木曽谷の宿は、川沿いの狭いところの宿なので、幅がなく長い宿が多いが、福島宿は、山の地形を利用した、上下二段の宿となっている。川沿いの低いところの路と、家二軒分ほどの高さの所の路とがあるのだ。画像は、山側の路(上の段、と呼ばれている)。昭和初期の大火で焼失したが、再建されたという。で、福島宿の手前(江戸方面から)には、福島関所がある。木曽川と山に挟まれた狭いところにある関所だ。箱根関所、新居関所、碓氷関所、そして、福島関所の四関所が、日本四大関所だそうだ。
2017.06.13
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東海道ウォーク、三条大橋まであと2キロほどのところに、近代化産業遺産の「インクライン」がある。インクラインとはなんんぞや、という感じだが、日本語にすると「傾斜」。正式名称が「インクライン」となっているので、勝手にいじることはできないが、おそらく、インクラインレールとか、何かが後に付いていたのではないかと思われる。そのインクラインとは、落差のある、京都市内の水路と、琵琶湖疎水を結んで、舟を行き来させるための設備。落差(高低差)は、36メートル。この間を、581.8メートルの、登山電車様の車(台車)で結んだもので、この長さは世界一だという。登山電車様には、舟ごと乗せたので、荷物や人は舟に乗ったまま行き来したという。画像上は、そのための線路。中央の2本が線路ではない。その両側に線路があり線路幅は広く、複線になっていた。次の画像は、インクラインの頂上。琵琶湖疎水の水路があり、そこに、舟を降ろすようになっていた。明治の中頃から、昭和初期まで稼働していたという。で、画像下は、インクラインの傾斜路をくぐるトンネルの壁。上からの荷重に耐えられるように、ねじったようにレンガを積み上げた工法だという。同じ時期に作られた物なのに、片やインクライン、片やねじりまんぼ・・・この感覚が何とも言えない。
2017.05.23
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中山道ウオークは、塩尻を過ぎて、木曽路へ入った。中山道と東海道の違いは、中山道の方が古い街並みと自然が多いことだと思う。海に近い東海道は人口が増えるに従って町が発達し、古い街並みが少なくなったが、中山道は古く懐かしい日本的な街並みが多く残されている。古い街並みが残っているのは、都市化されなかったこと、つまり、鉄道や新しい国道から離れていた(見放された)ことが、その理由として考えられるが、大きな火事がなかったことも幸いしていると思われる。宿場町の歴史を見ると、大火で宿場全体が消失、というのも少なくない。で、画像は、奈良井宿。塩尻から名古屋方向へ25キロほどのところ。観光バスで来ている外国人も多く、シャッターを切るタイミングが難しいが、のんびりと待っていれば、人通りが途切れる時がある。それなりの、昔の街並みを写すことができたかな、と思うのだが、待っていてもダメなのが、駐車車両。観光者の車は通行禁止になっているが、地元の車は通行も駐車もOK。この街並みを見たくて観光客が来るのだから、駐車場所を考えたらどうなの、と思うのだが、そこまではできない、と思う人がいるようだ。
2017.05.04
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塩尻の郊外(現地の人には郊外という認識はないかもしれない)に、平出(ひらいで)遺跡があり、その直ぐ近くを、旧中山道が通っている。トイレ休憩を兼ねて、平出遺跡を見学した。縄文時代の古代住居が復元されている。当然に、ワラ屋根は朽ちたろうし、柱や梁も朽ちたと思われるから、復元だ。復元でないのは、縦穴だけか・・・と思うのだが、この『縦穴(竪穴)』には、以前から疑問を持っている。横穴式に対しての縦穴なのは分かるが、横穴と同じくらいの奥行き(深さ)があるなら、縦穴と呼んでもいいが、ここの穴は、深さが1メートルもない。なぜこれを、縦穴と呼ぶのか、どうも得心がいかない。そして、住居の作り方だ。穴を掘った土を穴の周囲に積んで、雨水の浸入を防いだと言われるが、そうであるなら、もっと積み上げればいいと思うのだ。平出遺跡では確認できなかったが、神奈川で見学した遺跡では、縦穴の内部の周囲に排水用の溝が作られている住居があったのだが、そこまでするなら、土手や土台を高くした方が良いのではないかと思うのだ。縦穴式住居について、何か、根本的な理解が抜けているのだろう・・・
2017.04.08
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昨日の日記で、旧街道は新しい道路に塗りつぶされたりして狭くなっているところがある、と書いたが、それを如実に表しているところがある。ここは(画像)は、塩尻の先の、本山宿と贄川宿の間の道。画像の右手の橋が新しい国道19号。そして、その下を潜っていくのが旧中山道で、画像には写っていないが、この左側に旧国道がある。この3本の道は、この先で一緒になってしまうのだが、このように、ていねいに残されているところがある。それは、地元の要求だったのか、土地が中途半端に余って、売るに売れなかったのか、その事情は分からないが、こうして、残されている。街道ウオーカーとしては、このような道は貴重で、絶対に歩きたい道である。時として、見落としてしまうことがあるが、そのような時は、その分岐まで戻って、歩き直してくる。この道も、たかだか100メートルほど。しかも、橋脚の辺りは実際の街道だったのかとの疑問も生じるのだが、ここが旧道だと言われると、歩かずにはいられないのである。
2017.03.28
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今回の中山道ウォークは、下諏訪からスタートした。スタートして直ぐのところで出くわしたのが、この細い路地。画像上の左側にある少し傾いた電柱と、右にある垣根のような植木の間が、大名行列をした中山道だという。寸分違わず旧街道を歩きたいとは思ってはいないし、それは不可能なことなのだが、こうして歩ける道が残っているなら、街道ウォーカーとしてはこの道を歩きたくなる。だがこの道幅では、馬も籠も通れない。なぜ、こんなに狭くなってしまったのだろう。中山道に限らず東海道にも、道が消えたり幅が狭くなっているところは何カ所もあったが、そのほとんどは、新しい道路に塗りつぶされたか、放置されて自然によって狭められたかであり、このように、公共事業ではない、人為的に狭めらた所は無かったように思う。画像下は、この路地(旧中山道)の奥から、入口方向を写したもの。公共事業で表の道路を拡幅するので、不要となる旧道と交換した、と思いたいが、この様子では、公共の手は入っていないように思われる。道路幅は、約60センチ。私道なのか公道なのか?どう考えても、建築確認は下りない道路幅だ。何がどうしてこうなったのか、知りたいものだが・・・経緯を知る人はいないと思われる。
2017.03.27
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きのうの日記の続き。並河靖之の七宝展があったのは、東京都庭園美術館(港区白金台)。港区は広く、最寄りのJRの駅は目黒。目黒駅から、徒歩圏にある。さすがに白金台と思わせる雰囲気の中にある。こんな土地が残っているんだ、と思ったら、旧朝香宮(あかかのみや)邸とのこと。門から美術館(旧朝香邸)まで、徒歩数分もある。朝香宮って・・・誰?というのが、私の知識。ネットで検索すると、明治天皇の第八女の夫君が朝香宮。昔は宮宅が多かったというが、このような邸宅を各宮家が持っていたとは・・・その財政はどうなっていたのだろう・・・というのも私の知識のなさ。画像は、東京都庭園美術館のパンフレットに載っている、車寄せと南の庭、そして、邸内。明治時代にこんな建物を作れたのか、その時から空調があったのか?水道やトイレはどうしたのか?やはり、私の知識のなさはそこへ行く。
2017.03.06
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中山道を歩いている。今回は、芦田宿(長野県立科町)から西へ歩いた。で、芦田宿で見た案内がこれ。「中山道名称統一300年」とある。これまで、日本橋から埼玉群馬と歩いてきたのだが、この案内を見るのは初めてだった。名称、とあるから、「中山道」の事だとは思うが、いや、それしかないだろうが、「中山道」なのか、人偏の付く山の「中仙道」なのかのについては、30年ほど前まで議論があったと思われる。今でも、ネットには、両方が使われている。この街道が整備されたのは、江戸時代。いわゆる参勤交代がなされるようになってからだ。それから、約400年。名称統一のために、誰が、「中山道」と書けと言ったのだろう?もしかして、名称統一は、別のことなのかも知れない・・・・??
2016.07.26
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画像は、中山道追分宿にあった、奉行のお触れ書き。宿場町には、このようなお触れ書きを掲げた高札場があった。幕府や奉行からの通達事項を知らせしめる掲示板だ。で、古い昔のものがそのまま残されている所もいくつかあったが、ほとんどは、街道を歩く人のために再製された高札がほとんど。そして、その多くは、昔の書体のままで、何が何だか分からないのだが、追分宿の高札は、現代人にも分かるように、書き直されている。これは、正徳元年(1711年)の、奉行からの「定」。 ニセ薬の売買禁止 コピー本の売買禁止 職人の談合禁止などが書かれている。なるほど・・・今の世とさほど変わらない状況であったことが分かる。
2016.07.01
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栃木県の足利学校で、「宥座之器(ゆうざのき)」を見た。「宥坐之器」とは、器に水が入ってなく空の時は傾き、ちょうど良いときはまっすぐに立ち、水をいっぱいに入れるとひっくり返ってこぼれてしまうように作られている、「中庸」を示す器のこと。これは、孔子の教えの「欹器図(ききず)」を元に作られたもの。画像の説明書には、 孔子が魯の国の桓公廟に行くと、金属の器である欹器(斜めに立つ器の意)があった。 役人に問うと「座右の戒めをなす器である」という・・・・・ 孔子は「いっぱいに満ちて覆らないものは無い。」と慢心や無理を戒めた。とある。画像は、器が空の状態。水を器にいっぱいに注ぎ入れると、ひっくり返って、このように空になる。実際に、見学者が水を入れて、体験することができるのだが、悟りが開けていない私は、どこまで水を注げるのだろうかと・・・注ぎ続け、結局、全部、こぼしたのだった。
2016.05.22
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愛知の海で、貝殻が打ち寄せられた海岸を歩いた。それほど珍しい風景ではないが、なぜ、ここに集中して貝殻が集まるのか、という疑問が生じる。何と風と地形の影響と、専門家は答えるのだろうが、素人には、なぜ貝殻だけなのか、魚の骨や流木は、なぜここに集まらないのか、不思議でたまらない。で、その次に、思うのは、貝塚だ。日本各地に貝塚があり、史跡になっていたりするが、それは、本当に、我々が知っている貝塚なのだろうか、と思わずにはいられない。これだけの貝殻が集まって、何らかの都合で海岸が隆起して、これらの貝が埋もれると、何百年後かは、貝塚になるのではないだろうか?それは、単に海岸に打ち寄せられた貝殻であって、食生活の後の貝殻ではないものもあるのではないか、と思うのだ。あえて、強気で、勝手に考えるなら、古代人は、貝殻をまとめて捨てることはせず、砕いて、水たまりやぬかるみに敷いたのではないか、とも思う。資材の乏しい時代、貝殻や壊れた土器を単純に捨てたとは思えない。
2016.02.10
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吉良の旧領地は、貸自転車で巡った。アバウトな観光地図を持っ行ったのだが、町内に色々な案内板があって、迷うことなく尋ね回ることができた。そのような中、街の観光案内板に、「吉良の仁吉の墓」というのがあった。吉良の仁吉は、清水次郎長の兄弟分。吉良町の源徳寺にあるという。自転車なら直ぐの距離。行かないという選択肢はない。境内には、仁吉の墓、そして、「義理と人情」の大きな碑。また、 時世時節は変ろとままよ 吉良の仁吉は男じゃないか おれも生きたや仁吉のように 義理と人情のこの世界 (樂天・JASRAC承認)と刻んだ碑もある。で、吉良義央と吉良の仁吉には、接点があったのだろうか?義央は1641年生まれ、吉良の仁吉は1839年生まれで、本名太田仁吉。吉良町を縄張りとする仁吉、で、吉良の仁吉と称したようだ。すると、吉良町の名称と、義央は、どちらが先なのだろう?
2016.02.09
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「懐かしのTV番組テーマ大全集」なるCDを、図書館で借りた。81曲の、古いTV番組のテーマ曲が入っている。例えば、 てなもんや三度笠 鉄腕アトム 夜のヒットスタジオなどがある。で、これは、聞きたい、と思って選んだCDではない。志ん朝の落語を検索したら、ヒットしたCDだ。なぜ、「志ん朝」の検索で出てきたのか・・・と思ったら、「サンデー志ん朝」という番組があり、それで出てきたようだ。が、「サンデー志ん朝」なる番組は知らない。時代が合わないのか、時間帯が合わなかったのか、サッパリわからない番組だ。私が懐かしいと思ったのは、 月光仮面 白馬童子 夢であいましょうなど。長いこと生きてきたものである。
2016.01.27
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陶芸教室に通うようになって、2ヶ月。いくつかの器を作り、いくつかが焼き上がった。そのような中、ふんわりぼんやり、考えたことがある。それは、縄文土器の、縄文の付いた理由だ。縄文時代、縄文土器を学習したのは、中学生の頃だろうか、縄で土器に模様を付けたので、縄の文様、縄文だと習った。だが、縄文人は縄で模様を付けたのか、実際に土をこねている者として、疑問が生じる。それは、柔らかい粘土の器に、縄で模様を付けるのは難しいと感じたからだ。その時代、模様を付けるなら、木の小枝でも、竹の枝でも、粘土に掻き傷を付けることは可能だし、その方が楽だったと思われるのだ。ならば、縄文はどうして付いたのか・・・・それは、同じ形の器を、手早く作るには、鋳型のような器の中に、粘土を押し付けるようにして、型の内側に作るのがいいはず。だが、粘土が型に付いてしまって、型から取り出せなくなるので、最初に、型の内側に縄をぐるりと回して、その縄の壁に、粘土を押し付けて器を作り、すぽんと、縄に囲まれた器を取り出し、縄をクルクルと外し、再び、縄を型に戻して、同じことをくり返した、のではないかと考えるのだ。縄文時代は長いので、耳のあるような器は違うだろうが、縄がグルグルしている器はこれだと思う!!
2015.12.09
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某居酒屋に、懐かしいピンク電話があった。ピンク電話といっても、ピンク系の店につながる電話ではない!ピンク色をしていて、公衆電話のように、硬貨を入れて使う電話だ。公衆電話との違いは、いわゆる電話加入権が設置者にあること。つまり、このピンクの電話機も設置者の所有ということ。黒電話の時代に、店に来た客が電話を使いたいという場合に、電話料を請求しずらいので、自分の電話をコイン式にしたのだった。携帯電話が普及して、店で電話を借りる人がいなくなったので、もう何年も、ピンク電話を見ることはなかった。懐かしい・・・使えるのかな・・・「使えるの?」と、店員君に聞こうと思っていて、飲むのが忙しくて、忘れてしまった。が、今にして思えば、店内にこうして置いてあるのだから、使ってみればよかったのだ・・・
2015.10.18
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東海道を西に歩き、愛知県に入って最初の宿場が、二川宿(ふたがわ宿)。これまで32の宿場町を通ってきたが、一番綺麗な宿場だと思う。宿場町の面影がほんの少ししかない宿もあれば、幟などを立てて大きくPRしている宿もあった。行政、あるいは商店街の力の入れ方なのであろう。そうはいえ、宿場の様子は、道路の広さや、車の通行量などの大きく影響されると思う。二川宿では、バイパスや鉄道の関係からか、旧道は静かであり、町をあげての雰囲気作りをしている。画像は、行灯・・・商店などの前にある のれん・・商店にも、普通の住宅の玄関にも下げられている 路地・・・宿場町の路地に入ってみたくなる整備がなされている遠くから歩いてきて、このような宿を見ると、疲れが抜ける感じがする。この日の歩数は、33950歩。昔の旅人も、このような宿に癒やされたのではないかと思う。
2015.10.08
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東海道を歩いている。今回は、浜松から、浜名湖の西の新居まで。浜名湖の東側舞阪の宿に残されているのが、この松並木。全部が全部、古い時代からの残された松ではないと思うが、700メートルも続いていると、東海道を歩いてきて良かったと思い直す。700メートルの間に、300本の松があるというから、植えすぎ、とう感じもしなくもないが、旅人の疲れをいやしてくれる並木となっている。これまで、日本橋から東海道を歩いてきたが、このように並んだ松並木ははじめてだ。残ったのか、残したのか・・・東海道らしい松並木である。
2015.05.24
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東海道は平坦な道ばかりではない。山あり谷ありで、中には難所と呼ばれる所もある。今回歩いたのは、金谷宿から掛川宿まで。その間に、金谷坂、菊川坂、箭置坂、という急な坂があり、金谷坂と菊川坂には、石畳が再現されていた(画像は金谷坂の石畳)。その昔、ぬかるむ山道を旅人が歩き易いように、石が並べ敷かれたのだが、現存するのは30メートルほどしか無く、平成の初めに、1千メートル強が、住民一人一石運動で復元されてという。と、街道沿いの案内板などに書いてあるのだが、なぜか、 古い石畳の石はどこへ行ってしまったのか 復元する際の石はどこから持って来たのかが、書かれていない。東海道を歩く者として、そこが知りたいのだが、残念だ。画像では、石の表面が平らのように見えるが、実際は、丸い漬け物石の頭が出ているような感じで,歩きづらい。足元をしっかりと見ていないと、転びそうだった。
2015.02.17
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SPレコードを中心として、LP・EPレコードなどを聴く会に参加した。同好のお仲間さんの紹介だ。が・・・会の正式な名称は覚えていない。PSレコードは、いわゆる蓄音機で音を出す。古い蓄音機で、電力は使用していない。ゼンマイ仕掛けでレコードを回し、針で拾った音を拡声器で響かせる。電力を使用せずに、こんな大きな音が出るのか・・・驚くほどの音量だった。ところで、なぜ、蓄音機と言うのだろう?蓄音しているのはレコード盤なのに、そのプレーヤーを蓄音機と呼ぶのはなぜなのだろう。昔は、エジソンの時代の昔は、音を刻んだ蝋管が演奏器に取り付けられていたので、その装置の全体が「蓄音機」と呼ばれるようになったのだろうか?ならば・・・英語の、Phonographはどうだろう。Phono-graph に蓄音の意味はないと思う。いやいや、そんな話ではない。SPレコード特有のスクラッチノイズがザアザアするのかと思ったのだが、それは、まったく気にならなかった。蓄音機の性能とレコード盤の保存状態なのだろう。久しぶりに懐かしい音楽を聴かせていただいた。
2015.01.16
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毒を食らわば皿まで・・・というオーバーなことではないが、赤穂市で赤穂浪士を見てきたので、そのノリで、都内にある、吉良邸跡を訪ねた。国技館のある両国で下車、国技館と反対側へ歩くと、吉良邸跡がある。吉良邸は、8400平方メートル有ったそうで、現在はその一部、86分の1が、墨田区の「本所松坂町公園」として残されている。両国の吉良邸保存会の有志が敷地の一部を購入して、東京市に寄付をし、その後、墨田区の所管になったという。この公園は、名は公園だが、その中は歴史資料館のような感じ。ほとんどが吉良に関する物ばかりで、首洗い井戸なども再現されている。この地は吉良ファンの聖地か、と思いきや、仇討ちを賞賛する文も掲げられていた。吉良は、元禄14年の9月に屋敷換えでこの地に来たといい、それは、江戸城近くの屋敷で討ち入りをされるのを嫌った幕府の意向だったという。赤穂浪士はここで、吉良の首を打ち、浅野内匠頭が眠る品川の泉岳寺に向かった。ということで、同じ道を歩いてみようと思い、地図を広げながら、泉岳寺を目指した。雪が残る中、泉岳寺への道は遠かったに違いない。
2014.10.24
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