第17章

焦燥









 ミュアンが加わったレイをリーダーとする亜種派閥“在らざる者”は、雪が積もっている間は別段動きを見せず、ただ黙って形を潜めていた。他の派閥もやはり降雪状態の中での戦闘を避けたのか、真意は分からないが、“平和の後継者”も“神魔団”も、シーナ・ロードも動きを見せなかったのは事実には違いない。
 フィエルがシーナに命じたアノンへの処置については何ら通達もなく、きっとあの神の血を引く奇異な二人組みは地下で要らぬ混乱を招かぬように生活しているのだろう。
 ミュアンのおかげで“平和の後継者”とは度々連絡をつけ、交流もあったが、“神魔団”についての情報だけは一切掴めず、レイたちもどうしようかといまだ思案中であった。
 そして雪も溶けた約3ヵ月後、ゼロはというと、気温の変化の所為かは分からないが風邪を引いてしまい家のベッドで安静にしていた。健康には人一倍注意を払い、栄養面ではほぼ完璧に近い料理を自作しているゼロにとって、何年かぶりの病気だった。

 家の呼び鈴が鳴る。まだ朝8時で客人にしては少々来るのが早すぎる時間なのだが、出ないわけにもいかないのでレイが玄関へ出た。アノンは、たぶんまだ眠っているだろう。病人のゼロと一緒に寝かせるわけにいかず、かといってそこらへんにおいてはおけないので、レイのベッドを貸したのだ。
「はいは~い」
 家の中の二人を起こさないように、そっとドアを開ける。すると、レイよりも頭半分小さいくらいの少年が立っていた。
「おはようございます、レイさん」
「おお、ゼリューダやないか」
 “平和の後継者”であった一時期の仲間、ゼリューダだ。元々“エルフ十天使”だった彼だが、ゼロと仲がよかったのと、一度戦っていたなどの縁がありそれなりに話はしていた相手だ。
「ゼロさん、風邪なんですって?」
「おや、なんで知ってるん?」
 そこで彼は苦笑した。
「ミュアンさんが、言いまわってましたよ」
 その光景が容易に想像でき、レイも合わせて苦笑した。彼女は昨日一昨日と、昼過ぎには必ず見舞いに来ているほどだから。
「だから、はい。これうちからのお見舞い用の果物です」
「ああ、ありがとな。――ちょっと上がってくか?」
「お気持ちだけで、また家に戻って手伝いがあるので」
「そっか、ガンバれよ」
「はい。では、ゼロさんにもよろしくおねがいします」
 そう言ってゼリューダが去っていった。
「ほんまええやっちゃな~」
 去り行くゼリューダに、レイはぽつりとそう呟いた。

 ゼリューダから受け取った青果を保存用の床下倉庫におき、朝食を作ろうと思ったレイははたとパンの据え置きがないことに気付いた。こういうことの管理を全てゼロに任せていたからなのだが。
「しゃあない、ちょっと買って来るか」
 一応伝えておこうと思い寝室へ向かう。寝室の扉を開けると、アノンはまだ眠っているのが分かった。
「どうした?」
 その声にレイが少し驚いた表情を見せた。本来寝ているべき方の彼が起きていたようだ。
「起きてて大丈夫なん?」
「そろそろ寝てるのにも飽きてきたな」
 その台詞にレイが苦笑を浮かべる。だがまだ声に力が無く、頬が赤かった。何よりいつもならどこか冷めたような、二枚目の代名詞とも言える瞳の輝きがない。
「でもまだ治ってないやん。寝てたほうええで」
 ゼロはどうやら早く起きたがっているようなのだが、下手に動いて長引く方が厄介だと知らないようだ。病気と無縁だったというのも善し悪しか。
「アノンちゃんにうつったら大変やろ?」
 それを言われては、ゼロに反論の余地はなかった。アノンは今限りなく自分たちと同じような状態とはいえ、風邪のウイルスが彼女の身体に及ばす影響はまさに未知の領域だ。そういう条件を差し引いても、ゼロが非常に可愛がっている彼女を苦しませるのは善しとはしないだろう。目に余るような可愛がり方をしているわけではないが、一挙一動でさりげなく常に彼女を気遣っているのだ。それにアノン自身が気付いているかは、定かではないが。
 ゼロがまた布団をかぶったのを見てレイが頷く。
「俺、ちょっと買い物行って来るから、大人しくしとけよ?」
 そういい残しレイが寝室を後にする。
 ゼロは、黙って天井を見上げていた。どうやら、眠りに落ちるまでまだ時間がかかりそうだ。

 彼女は暗闇の中、ただ一人在った。立っているのか、横になっているのかも分からない。平衡感覚がないため、自分の状態が分からない。光が存在しないため、自分の手さえも見えない。
 足を動かそうと脳から命令を下した。足が動く感覚はあった。だが、“本当に動いたのか”確認することができない。
 ひどく曖昧な世界だ。うろたえる様子もなく、彼女は淡々とそう感じた。
 暗闇は怖くない。周りが見えないのならば、周りに人がいたとしても物理的に誰も自分を見ることは出来ない。自分への侮蔑の視線も見えないならば何も怖くない。誰か居るかもしれないと心に強く信じ込み、心を騙し続ければなんとか耐えられる。何も聞こえなければ自分への罵倒も聞こえないし、見捨てる言葉も聞こえない。
 そこで彼女はふっと思い、声を出そうとした。発したのは、彼の名前だ。だが、何も自分の耳には届かない。自分の聴覚が麻痺しているのかもしれないが、何も聞こえないことだけが分かればそれでいい。裏切りの言葉も聞こえないのだから。念のために、声が出ていないのかもしれない場合を考慮し手を叩いた。手を合わせた感触が返ってくる。身体は動くようだ。だが、何も聞こえない。真空状態なのか、そんな考えも浮かんだが、自分が無意識に呼吸をしていることに気付き、それを否定した。
 光も、音も存在しない世界なのだと確信する。そしてそれと同時これがいわゆる現世ではないとも思う。夢、と呼ぶには味気ないが、それ以外の呼称を彼女は知らなかった。
 だが、自分は“この空間にきたことがあるような”気がする。
 そうだ、自分の記憶ではない、その前の記憶だ。
 かつて“自分が死んだとき”の記憶。戦いに敗れ、死を感じたとき、あらゆる感覚、感情が一度排除され、この無の世界に来た記憶がある。
「お前に新たな命を授けよう」
 そう、そう言われたのだ。そして完全に確信する。これは自分の記憶の世界。現世ではない世界なのだと。

「夢、か」
 はっと目を覚まし、一息をつく。妙に生々しい夢だった。
そして、思い出してしまったのだ。自分が何者であったのかを。いや、もしかしたら思い出さされたのかもしれない。何故ならこの森には依然としてエルフの血を継ぐ者がいて、自分を生み変えたイシュタルがいるのだから。
 しばしの黙考の末、自分を殺した神を思い出す。今考えてもぞっとする。四大神の一柱であるジャスティの妹であった自分を守り、戦いに赴いてからもずっと自分の背中を任せてきた腹心中の腹心であった神の名を。彼の刃が自分の胸を貫いたあの瞬間を。
「リューゲ、か……」

 正午を回ったころだろうか。再度訪問者がやって来た。一人は当然のごとくミュアンで、もう一人は珍しい女性だった。
「レリムさん」
 出迎えレイの表情が少し引き攣る。おそらくこの森の全エルフの中で、彼が最も苦手にしているのが彼女だ。独特の雰囲気、プレッシャーの前にレイは言葉が上手くでてこなくなるのだ。
「私も、お見舞いですよ」
 そう言い天使の如く微笑むレリムの手には、ゼリューダ同様果物を入れたカゴの取っ手が握られていた。

「お加減はいかがですか?」
ゼロがいる寝室の扉を開け、彼の頭が扉の方に向いたのを確認してから、レリムはそう声をかけた。
「あんたか」
ゼロの瞳が朝より平時に戻っていた。どうやら回復してきたようだ。
「天師様とここに向かう途中会ってさ、一緒に来たんだ」
「わざわざすまないな」
ミュアンとレリム、二人に対して礼を言う。あまり表情には出ていないが、レイから見た限り嬉しそうではある。
「いえ、貴方たちが言うなれば中央の救世主となるのかもしれないのですから」
ゼロが“平和の後継者”を脱退する際に彼女と戦い、その戦い以後妙にゼロに対して優しくなったような気がする。気のせいかもしれないのだが。
「なら尚更こんな風に休んでちゃいられないな」
苦笑混じりにゼロが答える。レリムは、軽く微笑んだだけだ。
「焦りは禁物、とも言うよ」
 至極真面目にミュアンがそう言ったのを見て、ゼロが苦笑した。彼としては冗談だったのだが。
「ところで、アノンという子はどこに?」
 レリムが話を変える。その言葉に思い出さされたようにゼロはレイを見た。ゼロが起きた時既に隣のベッドにいなかったから、彼なら知っているだろう、そんな目だ。
「ちょっと呼んできましょか?」
「あ、いえ、別に用があるわけではないのですが」
「まぁ、挨拶くらいしてもいいだろ。レイ、呼んできてくれるか?」
「りょ~かい」

「何か?」
 レイに呼ばれて室内に入ってきたアノンは、おどおどした様子でレリムを窺った。どこか怯えているようにも見受けられる。
 元々あまり大きくない部屋で、皆それほど体が大きくないとはいえやはり5人もの数が入ると狭く感じられた。
「いえ、特に」
 レリムの答えにゼロが顔をしかめた。これでは彼女を呼んだ意味がない。
「いや、世間話でもいいからさ、何か、ないのか?」
「そう言われましても……」
 アノンがきょとんとした表情を浮かべたままゼロの方へ近付く。本能的な行動のようだ。いや、もしかしたら先刻彼女が見た夢の所為かもしれない。自分の拠り所であるアリオーシュの傍に居たいという衝動。
「以前貴方がた二人とお会いした時は、アノンさんと顔を合わせることは出来ませんでしたが、そうしていると本物の兄妹のようですね」
 レリムが起き上がってベッドに腰かけているゼロの隣にアノンが座るのを見て、そう呟く。ゼロが照れくさそうに笑いながら、アノンの頭を撫でた。
「猫やないんやから……」
 その様子を見てレイが突っ込むが、アノン自身気持ち良さそうなのでなんとも言えなかった。
「闘神アリオーシュも、そんな感じにアノンちゃんを可愛がってくれたの?」
 くすくす笑いながらミュアンがアノンへ尋ねる。ゼロにはアノンの表情が僅かながら曇ったように見えた。
「アリオーシュ様は、そうだな。ゼロほどではないが優しかったな」
 あまり昔のことを思い出したくないようではあるが、そんな様子はほとんど見せずアノンが答える。ゼロ以外の3人は相槌を打つように頷いた。だが、ゼロだけは腑に落ちないようにアノンの頭をくしゃくしゃとした。
「アノン、悪いが果物ナイフを持ってきてくれないか?」
 彼女の表情から言いようの無い感情を汲み取り、アノンを部屋から離そうとするゼロの計らいだった。その彼の考えに気付いたのはアノンだけで、残りの3人にはレリムが持ってきてくれた果物を食べたい、と言った辺りが彼らしかった。


「それでは、お体をお大事に」
「また来るね!」
 日も沈み始めたころ、レリムとミュアンがレイの家から帰っていった。ゼロも玄関まで見送るなど、かなり体調は復調しているようだ。
「なんか、レリムさん焦ってるみたいやな」
「ああ、おそらく俺らに任せっぱなしってわけにもいかないが、冷静に自分たちの戦力を分析すると敵に勝てないという風な結果にしか辿り着かないんだろうな」
 いやなことが起きなければいいが、二人のその思いを知ってか知らずかは分からないが、昇り始めた月は変わらぬ輝きを見せていた。



「ヴァリス、ですか」
 “平和の後継者”の砦に悲報が訪れる。斥候役を買って出たロゥの報告によれば、“神魔団”のリーダー、ヴァリス・レアーが迫っているというものだった。
 現在はウォーが所用のため不在であるというのに。その事実がさらなる不幸だった。
―――どうするべきでしょうかね……。
 おそらくレリム一人ではヴァリスを倒せない。いや、確実に自分の方が敗れるだろう。ウォーと二人で戦って勝てなかった相手だ。
 中央のルールに従えば、誰かを彼と戦わせることでこの危機は回避できるが、それはつまりほぼ100%に近い確率で誰かを犠牲にする、ということだ。
「天師、貴方の心中察して痛み入ります。ここは俺がいきます」
 砦に集まったメンバーの中でも一際大柄な男、バンディアルがそっと手を上げた。豪快そうな見かけに反して言葉遣いは怖いくらい穏やかだ。しかし、声の震えは隠しきれていなかった。
 レリムは、すぐに彼の意見に頷けなかった。“平和の後継者”の前身である“エルフ十天使”は結成当時からゼロを除いてメンバーの加入を行わなかったため、全員が古参と言えば古参のメンバーなのだが、その中でもレリムにとって補佐であるダイフォルガーとナナ、既に戦いに命を散らしたムレミック、そして彼、バンディアルは別格だ。覇権を争う戦いが始まる依然から付き合いのあった彼女らは、翁の宣言とともにレリムを押したて、メンバーを集めて旗揚げしたのだ。だから、レリムにとってバンディアルは欠くことのできない存在に違いない。ムレミックという柱を失った今では、尚更なのだろう。
「迷って、おられるのですか? 俺のために」
 ふっと、バンディアルの表情が柔らかくなる。まるで、父親のような優しい表情だ。
「当然です。簡単に決められるものではありません。命に、関わることですし……」
 一瞬、レリムが泣きそうな、切なげな表情を見せた。その場に居合わせた者が男女問わずにドキッとしてしまう、儚い美しさだった。
「なら俺も行きますよ」
 新しい声の参入にメンバーの視線が移る。
「ロイさん……」
 元“森の守護者”の戦士ロイ・スクートは少し気だるげに全員の視線を受け止めた。まるで、自分の言葉の意味を理解していないように。
「バンディアルの旦那、あわよくば、って奴を狙いましょうや」
 さっさと立ち上がり、軽くバンディアルの胸を叩き部屋から出て行った。体格の良い彼の背中が、妙に小さく見えた。
 それに合わせるようにバンディアルもレリムのほうへ近付き、何かを呟いて彼もまた部屋から出て行く。その声を耳にしたレリムは、何も言わずに自室へと戻ってしまった。


「レリム様……」
 自室の椅子に座り、入り口に背を向け彼女は窓越しに外を見ていた。腹立たしいほどにいい天気だ。雨ならば、もう少しこの感情を和らげてくれるのだろうか。
 その彼女に、ナナがそっと声をかける。彼女の表情は、不安で溢れていた。
「バンディアルも、死んじゃうのですか?」
 今にも泣きそうな声で、少女が尋ねる。
「バンディアルは私にこう言いました。『レリム、時を待て』と。彼は、いずれ来る時のために、その礎となるつもりのようです」
「レリム様は……それでいいのですか?」
 決して振り向かないレリムに近付き、少し声を大きくして尋ねる。しばしの沈黙の後、彼女は答えた。
「私は、無力ですから」
 その一言が、全ての絶望を物語るものだった。



 二人の男が砦を出て、段々と遠ざかっていく。進行方向から強烈なプレッシャーを感じる。手に取るように分かる、きっとそれが自分たちに死を運ぶ存在なのだと。
 そして理解する。勝利の見込みなど最初から欠片もなかったのだ。
「絶対的な力の差ってこんな感じのことっすかね……」
普段は軽口を叩くロイだが、この時ばかりは流石に声が震えていた。
「戻ってもいいのだぞ」
「冗談、男たるもの、守るべきものを守るための覚悟なら、ウォーさんの仲間になったときから持ってますよ」
「潔い男だ」
 バンディアルが苦笑しながら彼の答えに頷く。短い間だったが、彼と仲間になれてよかったと思えた。
 そして、プレッシャーが突然肥大化したと思った瞬間。
「なるほど、こりゃあレリムさんが落ち込むわけだ」
「洒落にならんな!」
 しばらく、その威圧感の前に四肢の感覚が働かなくなった。そして段々と体が動くようになり、巨大な気配の方を向くと、悠然と佇んでいる巨漢がいた。
 身長などではバンディアルが上だが、彼を源とする威圧感、殺気、恐怖が彼をそれ以上の大きさに仕立て上げていた。
 毛髪の無い鋭い顔つきで、二人を睨むその男の手には、およそヒトの使い得ないような大きさの鎌が握られている。人の首を狩る死神のような、そんなイメージを連想させる。
「なんだ、雑魚か……。いや、捨て駒か。ウォーもレリムも狡い手を使うようになったな」
 ヴァリスの恐ろしく低い、地の底から発せられるような声が二人の気持ちを不快にさせる。だが、足が竦んでしまっていて動こうにも動けない。
―――これが……。
―――決して埋められない差、ってやつか。
 いてもたってもいられなくなり、二人は同時にヴァリスに攻撃をしかけた。だが、容易く避けられ、信じられない速度で繰り出された彼の鎌がバンディアルの身体を捉えた。
鎧を着込んでいたというのに、殺戮の鎌は彼の肉体の2つに分けた。
 飛び散る血と肉片を物ともせず、絶対の悪はロイへ向き直った。
 既に戦意の全てが失われたロイの瞳には、死を運ぶ鎌さえも虚ろに移っていた。



 復調したゼロは、一人中央市場を歩いていた。特にこれといった目的もなく、ただ久しぶりに少し身体を動かしたかったがためだ。
 寝たきりだったからか、少しばかり身体の節々が気持ちのいい痛みに襲われている。
「これなら、問題なく刀も振れるな」
 天気の良い空にさんさんと輝く太陽に向かってそんなことを一人呟く。
 こんな天気だからだろう、通りを歩く人々の表情も明るく、数も多かった。
―――これだけのことで、人は幸せを感じられるんだ……。俺も帰ったら、こんな笑顔の溢れる国にしなきゃな。
 考えが自然と前向きになり、戻ってからのことを考えている自分に気づき、ゼロは小さく微笑んだ。彼を知る者が今の彼の表情見れば思わず頬をつねるかもしれない。それほど、彼の別名とはかけ離れた仕草。
 上機嫌に街中を散策しているゼロに、背後から近付く存在があった。
「西王、ゼロ・アリオーシュ様ですね?」





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