できるところから一つずつ

できるところから一つずつ

2026(進行中)



重さうにゆつくりゆつくり顔を出す十月六日のスーパームーン

うつすらと白き満月浮かびをり日暮れ間近の東の空に

満月の翌々日に買ひに行く七割引きの月餅(ムーンケーキ)を

感謝祭を合図のやうに始まりぬバンクーバーの冷たい雨季が

レンブランドの風景に見る暗き空バンクーバーの冬空に似る




コスモス2月号  木畑紀子選

  始まる前に 

入院の三日目の夜半 眠りゐし夫の呼吸がふつと途絶へる

「どこまでの治療を望んでいますか」とささやくやうにドクターが訊く

六十二年の結婚生活終はりたりたつた三日の入院の後

覚悟だけは決めゐし老々介護だが始まる前に終はりてしまふ

「亡き夫」と文字にせし時俄かにも心にせまる夫の亡きこと

子らが抜け夫も抜けたる戸籍簿に私の名前だけが残りぬ

少なくも退屈にだけはほど遠し逝きたる人との六十二年


コスモス3月号  田宮朋子選

酸素マスクをはずさうとする夫の手をそつと握りて言葉を探す

あたらしき下着一式みつけたり(万一用) と書いた袋に

子らと我掌を重ね合ひ全員で火葬炉点火のスイッチを押す

先月は夫と見てゐし満月を今日は一人で空に探せり

中空の雲の一か所明るみてそこにあるらし今日の満月

三日間病みてそのまま旅立ちぬ 短気な夫の面目躍如




コスモス4月号  桑原正紀選

ゆつたりと流れるやうなノクターン スマホの着信メロディーにせむ

命日はショパンと同じ 音楽に縁の少なき夫でありしが

Spouse(配偶者)からSurvivor(生存者)へと変はりたり役所の書類の中の私

夫逝きて三か月目の土曜日の午後を義妹と茶房に憩ふ

亡き人のことにはふれず語り合ふ午後の茶房の窓際の席

父母も姉も夫も失ひし我を支へる子らのぬくもり



コスモス5月号

妻と子を連れて墓参に帰国する 父の葬儀を逃した次男

長男も次男も父に似てきたり顔も姿も照れるところも

墓前にて祈る姿の堂に入るアニメで作法を覚えし男孫

はじめての日本なれども少年はスマホ片手に町へ出てゆく

合羽橋で包丁一本買ひて来ぬ十五の男子厨房が好き

駅前のたこ焼き屋さんが気に入りて孫のおやつは今日も〈タコヤーキ〉

子の妻は太巻き寿司が気に入りて私の分も買い来てくれぬ


コスモス6月号

東京に冬を過ごして戻り来ぬ 帰雁達より一足先に

萌え初める草の香りを運びくるカナダの春の穏やかな風

逆光の朝の梢に降り立ちて影絵のやうな鴉が揺れる

シナトラの歌ふ「マイ・ウエイ」さながらに生き切りし夫 満ち足りてあれ

どこかまだ夫の逝去に納得がいかない我か 涙がでない

もう夫が居ないことなどつい忘れ時には話しかけたりもする

「だんなさんは生まれてきたから死んだんだ」夫の死因をその友が説く


コスモス7月号

独り暮らしをのびのび豊かに楽しめと義妹に言はれ少しく微妙

夫でさへ〈思ひ出の人〉になりはじめ過去が日に日に大きく育つ

タイガース応援用のメガホンを貰つてくださる方が見つかる

東京に育ちながらもタイガースのファンでありしが夫の〈こだはり〉

引き出しの奥にひつそりしまはれて夫のそろばん滑りの悪し  

私のそろばんもまだとってある小学時代に使ひこみしを 

算盤はもう捨て時か まだどこも壊れてゐるといふにあらねど


むさしのコスモス197

作品五首 「目覚めよ」     

まだ慣れぬ独り暮らしの手すさびに古きフルート取り出してみる

オーケストラで笛を吹きゐし日々ありて観客席には夫もゐたりき

数十年クローゼットに眠りゐし笛に吹き込む令和の空気

「目覚めよ」と祈りを込めて歌はせる かつては親友なりしフルート

音階を笛に吹きつつ呼び戻す夫に出会ふ前の自分を


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