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20話 【六日話】
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20話 (合) 【六日話】―ムイカノハナシ―
≪01:9月6日、7時58分、ユナイソン名古屋店POSルーム≫
歴は兄のことを考えていた。
昨夜の因香とのやり取りを思い返す。事はかなり深刻だということを知った。
情報が増えれば増えるほど、壁が高くなっていく。焦りに加え、自分の非力さに打ちのめされる。
だが歴に与えられた試練はそれだけではなかった。
POSルームのパソコンを起動させた彼女は、画面を見て思わず絶句した。
(……何!?)
何の冗談かと、マウスを使って画面をスクロールしていく。しかし、悪夢は悪夢のままだった。――データ全消去。
(全ての催しが昨日で終わってしまっている。誰かが故意に終了させて、店内の商品値段を変えたんだ――!)
名古屋店唯一のPOSオペレータである歴が休んでいた昨日のうちに、何者かがこの部屋に入り、パソコンを弄ったようだ。
悪意ある悪戯、見えない敵がいる事実に、歴の身体はぶるりと震えた。
敵という言葉に思わず昨日の因香が呼び起こされる。敵――凪は祖父の敵だと言う。そのことと今回の出来事は関係あるのだろうか。
だが妹の歴ですら兄の在籍を知らなかったぐらいだ。兄妹という関係を知った上で、アクションを仕掛けてきたとは考えにくい。
(となると、狙いは私個人? 理由が気になるけど今はそれ所じゃない。早く直さなければ。開店まであと2時間。果たして間に合う量なの?)
修正方法はある。ただひたすら手を動かし、マウスとキーボードを操ればいい――というより、その手段しか道はない。
だがPOSの仕事は開店前が一番忙しい。こんなことをしている時間など、本当はないのだ。そうと分かっているから怖気付いてしまう。
耳を澄ませば通路は賑やかしくなっていた。出勤者が増えてきたようだ。早々に取り掛からねば、客に迷惑が掛かってしまう。
悩んでいる暇はない。四の五の自分に言い訳するのをやめ、早速急ピッチで取り掛かる。
幸い、昨日の日付けで強制終了させられたデータは『再利用』という形で復活が可能だ。それだけが救いだった。
そんな作業と並行するように、続々と新規の依頼が舞い込んでくる。電話だったり、直接POSルームに立ち寄ったりと。
いつもなら飛び込みの依頼も愛想よく引き受けていた歴だったが、心なしか今日だけは少し苛立ちを感じてしまう。
心の狭さをまざまざと突き付けられ、いけないと思い直す。良心の呵責を感じながらも、もやもやした気持ちを捩じ伏せ、依頼を受ける。
(いま依頼して来た人たちは、自分に与えられた仕事をきちんとこなしているだけ。だから私も誠心誠意、応えなくては)
考えず、いまは手を動かす。それだけを自分に言い聞かせ、何とか時間内に直し終えた。
「…………や、った……」
(間に……合った……! 間に合った……! 良かった……良かったぁぁ……)
安堵したのも束の間、目に見えない悪意に気付いてしまい、震えが止まらない。
一体誰が、何の為にこんな酷い所業をしたのか。
考えたところで答えなど見付けられやしないのだが、また同じ悪夢が繰り返されないとも限らない。
(対処方法があればいいのに……)
でもこういう時は誰に頼ればいいのだろう? 今まで助けてくれた柾や麻生はもういない。
いや、彼らがいたとしても畑違いの分野。解決策は見い出されやしなかっただろう。
きゅ、と腕を掴む。震えを閉じ込めるように。
(怖い……)
ふいにPOSルームのドアを叩く音があった。あまり接点がなかった先輩たちだった。歴は鍵を開け、彼女らを招き入れる。
「おはよう~、千早さん。これ、今日中に頼まれてくれない?」
売価変更依頼書の束は文芸書ほどの分厚さだった。くらりと目眩がした。
「あの……頑張ってみますが、これを今日中でというのは……」
歴の言葉を聞いた女性が眉を吊り上げた。ドスを効かせて歴に言う。
「今日中じゃないと困るのよ! 催しは明日からなんだから。明日からこの売価になっていなかったら承知しないわよ!」
隣りに居た女性も畳み掛ける。
「はい、こっちは私の方ね。これも明日からだから! 売価を変えるのがあなたの仕事でしょ? しっかりやってね」
「じゃあね、千早さん」
示し合わせたかのように含み笑いをすると、2人は部屋から出て行った。
途方に暮れる歴が『書類作成日』を見ると、そこには8月15日の文字。
(半月前から入力可能だった書類を、間際になって依頼してくるなんて――もしかして、わざと?)
「余裕をもたせて、広告の入力を先に済ませておいて良かった……」
出来るかどうかは分からないが、やれるところまでやっておかないと。
「――さん。千早さん?」
肩を軽く叩かれ、ハッと顔を上げた。三原――既に柾が異動したため、今日からは『三原チーフ』だ――がいつの間にか入室していた。
「あ……」
三原は歴が顔面蒼白なことに気付いた。
先ほど廊下ですれ違った2人がのびのびとした様子で『あぁ、清々した!』と交わしているのを小耳に挟んだのだが、そのことと関係があるのだろうか。
「仕事の依頼に来たのだけど……。大丈夫? 顔が真っ青よ」
途端、歴の身体がびくりと震えた。目尻に光るものを見て、それが涙であることを三原は確信した。
「みは……す、すみません。その仕事は……出来そうになくて……」
「……どういうこと? 入力してくれないと困るのだけど……」
「そ……うですよね。すみません。いつまでですか?」
「来週中で構わないわ」
そう言うと、名古屋店にひとりしかいないPOSオペレータは明らかに安堵した様子で「それならば」と請け負った。心なしか、涙声で。
「ねぇ、千早さん」
「はい……?」
「さっき、住居関連の子たちが部屋から出て来たわよね? 何かされたの?」
「あ、いえ、仕事の依頼です。明日からだと言うので、今日中に入力しなければいけなくて……」
「あぁ、だから私の方を断ろうとしてたわけね」
机に置かれたあどけない紙の束がそうなのだろうか。覗き込むと、POSへの入力依頼日は8月15日になっている。
「頼まれたのって、それ?」
「え? あ……」
三原も依頼する側。当然気付いたはずだ。その依頼日開始日が半月前だということに。
三原が眉根を寄せている。大方、『半月前の仕事を今頃しているなんて、千早の仕事のスピードは遅い』と思っているに違いない。
だが、三原の反応は、そんな歴の想像とは真逆のものだった。
「ひょっとして、今になって依頼された?」
「……なぜそれを……」
「あなた、POSのパソコンが壊れたとき、うちに手伝いに来てくれたじゃない? その時のあなたの働きぶり、そんなに遅いとは思わなかったから。
半月も入力を放ったらかしにしてたなんて思えなくて。腑に落ちなかったから訊いてみたのだけど」
(三原さんは……分かってくれた……?)
それだけで救われた気がした。それで十分だった。
だから歴は頭を振る。横に。何の問題もないのだと知らせるために。
「……そう? ならいいの」
(千早さん、嘘がつくのが下手ね。明らかに何か隠している)
助けなどいらないという意思表示なのか。それならそれで構わない。一度だが、手は差し伸べたのだから。
(そもそも私に千早さんを心配している時間はないわ。チーフになって覚えることが多過ぎる。出来れば一連の事柄全て、知らないままでいたかったわ)
いま彼女を助ける人物が現れたら、間違いなく庇った者にも嫌がらせがいくだろう。やるせない話だが、知らぬが仏の意思を貫くのが妥当に違いない。
(柾チーフや麻生さんと仲が良かっただけじゃなく、他の男性も横目で彼女を見ていたから、それが面白くなくて、嫉妬されて疎まれてるのかもね……)
その柾と麻生も異動してしまった。一部の女子社員たちは積もり積もった鬱憤を、いまになって憂さ晴らししているのだろうか。
(千早さんは孤立無援の立場に置かれているってわけか。正面切って直接悪口を浴びせる人も出てきたみたいだし……。雲行きが怪しいわね)
触らぬ神に祟りなし。そんな言葉が日本にはあるではないか。
三原は見ざる・言わざる・聞かざるの精神で無関係を装うことにした。
だが何故か三原の心はざわめき、時間が経過しても落ちついてはくれなかった。
≪02:9月6日、16時35分、ユナイソン名古屋店社宅マンション≫
マンションに帰る歴の足取りは重い。
仕事はまだ終わっていなかったが、残業を願い出ようにも労働基準法が厳しくなったこともあり、勤務時間厳守を理由に帰宅を余儀なくされてしまった。
(太陽だってまだあんな位置にあるのに帰らなきゃならないなんて……)
持ち帰って出来る仕事ならそうしていた。だが仕事の内容上、持ち出しは不可能だった。
こうなったら明日は早朝出勤するしかない。なんとかギリギリ間に合うはずだ。
何が一番堪えるかと言えば、仕事量ではなく、あからさまに向けられる敵意だった。午後にはとうとう直接「ウザい」とまで言われてしまった。
仕事中は涙を流している暇すらなかった。しかし緊張の糸が切れたことで、感情が一気に昂ってしまい、目尻に熱いものが溜まっていくのが分かった。
昨日までの平穏さはどこへ行ってしまったのだろう?
柾や麻生、兄のことだけでも十分辛いのに、女性社員まで悩みの種が増えたとなると、心が塞がれる思いだ。
引き摺るように足を動かし、階段を上がる。すると「ちぃ!」と呼ぶ声がした。
「お帰り。思ったより早かったな」
歴の部屋の玄関前に、柾と麻生がいた。歴はその場に立ち尽くす。カバンが持ち手からずり落ちていく。
涙が盛り上がって視界が見えない。嬉しさと安堵感が胸に沸き上がり、その場に泣き崩れてしまった。
「は? おいおい、待て待て。どうした?」
「ふっ……うぇ……」
「ちぃ、まずは中に入ろうぜ。おい、バッグの中に鍵が入ってるんじゃないか?」
麻生の言葉に、柾は歴が落としたバッグを取りに行く。中を探るとキーホルダー付きの鍵が出てきた。
ドアを開けて入室する。これで人目を気にする心配もないだろう。
落ち着きを取り戻した歴は、柾たちに来訪の目的を尋ねる。2人は別れの挨拶に来たのだと答えた。
「本当に……異動なんですね」
一度は鎮まりかけていた涙が再び盛り上がるのを感じた。ハンカチで目尻を拭う。
「幸い、俺は本社だから名古屋市内のままだし、柾だって五条川だから近いさ」
「会おうと思えばいつでも会える。どの道、うちの会社には転勤がつきものなんだ。遅かれ早かれ、いつかはこうなってた」
「でも今回は、明らかに兄さんの我儘なんです。だから私……」
「あぁ。こんな事がいつまでもまかり通ると思ったら大間違いだ。ちゃんと不正は正すべきだ。だろ?」
「僕も麻生も上を目指す。千早凪を越えて、命令する側に立つまでの辛抱だ。不可能ではないと信じてる。だから待っていてくれ。元のユナイソンに戻るまで」
「……はい、待ちます。……ううん、違いますね。それじゃあ駄目なんです。私も一緒に頑張ります!」
歴の言葉に、柾と麻生は頷いた。
「昨日さ、俺と柾と平塚と、本部に異動する不破っていう岐阜店ドライのやつと送別会をしたんだ。そしたら岐阜店にも魔の手が伸びていたことが判明した」
「え――……」
知らず、服の上から心臓を抑えていた。名古屋だけでなく岐阜までとは。兄は岐阜店をどうしたいんだろう。
「話を聞くに、岐阜店の場合は千早凪が命令を下したわけではなく、都築という部下が私情を挟んだことによって騒動が勃発したらしい」
「それって……じゃあ、兄ひとりが勝手に動いているだけじゃないんですか? 人事部自体が、好き勝手をしていると……?」
「今回の異動ってさ、どうやら名古屋店と岐阜店だけなんだよな。香港にも異動者がいるみたいだけど、結局そのひとだって岐阜店に縁のある人物らしくて。
だから人事部が個人を狙ってるって考えると辻褄が合う気がするんだ」
「私……許せません」
歴の静かな怒りに真剣さを感じ取り、柾と麻生は顔を見合わせる。大人しい彼女が今にも迸りそうな熱い感情を露わにしたのは初めてではないだろうか。
報いたいと思った。彼女が過ごしやすいユナイソンを取り戻してあげたい。彼女に笑顔が戻ることを願って。
「千早。居なくなって寂しいって思って貰える程には、この別れを悲しんでくれてるのかな?」
「勿論です」
嘘も誤魔化しも照れも必要ない。今日の出来事で、柾たちがどれだけ歴にとって大切なのか分かったのだ。正直に伝えたかった。
「……その言葉が聞けただけでもよかった」
柾の手が差し伸べられる。歴がその上に手を重ねると、柾はそのままぐいっと胸の中に引き寄せた。
単なる握手だろうと思っていた歴は、声にならない叫び声を上げ、麻生はやれやれと首を竦めた。
明日は異動日。それぞれの道を、それぞれが歩いて行く日でもある。
ある者は大切な人を守る為に。またある者は、人事部の傀儡となる為に。
フローチャートは凪や都築が描く通りに進んでいるが、それでも柾たちは諦めていなかった。
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