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44話 【In Person!】
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44話 (―) 【In Person!】
【01】
9月3日。レオナを乗せた飛行機が中部国際空港に到着した。
この日は朝から雨が降りそぼっていたが、昨日まで住んでいた国――マカオ独特のスコールのような激しい降り方とは違う。
しとしと雨にはどこか気を落ち着けてくれる優しさがあり、日本に来たのだと実感が湧いてきた。
――もう二度とこの地を踏むことはないと思っていたのに。
若年での『香港店店長』背任。あの時は期待に胸を膨らませ、日本を飛び立った。
まさかその香港で、キャリアを含め、大切なものを失ってしまうことになるとは思ってもみなかったが――。
これから凪と会うのだが、今すぐ引き返したい気持ちもある。だが、会わなければならない。
メールをくれた日から、凪はレオナのパトロンであり、ここ名古屋で働く場所まで斡旋してくれようとしている。
そんな恩人からの招致だ。無下に出来ようはずがなかった。
セントレアから名鉄名古屋駅までミュースカイを利用して移動し、駅からタクシーを拾い、待ち合わせの地であるネオナゴヤへと向かう。
しばらくして、眼前にとてつもなく大きな建物を確認する。親切にも「あれですよ」とタクシーの運転手が教えてくれた。
「さすが本社のお膝元。ネオナゴヤ店は大きいですなぁ。お客さんはあれですか、今日はここでお買い物でも?」
「人と会う約束があるのだけど、そうね、たまにはこんなところで思いっきり買い物をしたら楽しいかもしれないわね」
失業してしまったいま、唯一の収入は凪からの送金のみ。だからそんな贅沢は許されないけれど、と心の中で呟く。
ほどなくタクシー乗り場に到着し、車は速度を落として停車した。
「ありがとう」
「おおきに。よい1日を」
「えぇ、あなたも」
つい癖が抜けなくてチップ代を加えてしまい、運転手に頭を掻かれてしまった。恐縮して返そうとしてくる運転手に「どうか受け取ってください」と言い添える。
道中、名古屋の街並みを見れたのでレオナにとってはいいガス抜きにもなったし、神社に賽銭を投じるようなものだ。
験担ぎにも似たレオナの好意を、運転手は素直に受け取った。レオナはタクシーが遠ざかるのを確認してから、一番近い入り口から入店する。
何せ広い。店内案内図で待ち合わせの場所を確認してから向かうと、そこにはスーツ姿の千早凪が立っていた。
壁際に立ち、自分の前を歩く女性がレオナではないかと視線を彷徨わせている。
自分の容姿はそんなに変わっていないと思うし、面影は残っていると思う。だから凪はすぐ気付くはずだ。
落ちぶれた生活をしていた時だって、体型の維持だけは慎重に気を付けていたから。
――その本人は、相変わらずすれ違う女性たちから熱い視線を浴びているようだけど。
「凪」
呼び掛けるまで、レオナに気付かなかったようだ。一拍置いて、凪は呆け……
「レオナ……」
呟く声はまるで幻を見ているかのようで、レオナは戸惑った。
――この反応……。ひょっとして来て欲しくなかった?
「本当に来てくれたんだな」
優しく笑う凪に、レオナは安堵した。
――凪は私を受け入れてくれた……? と思っていいのよね? 少なくとも、今は。
「貴方は『恩人』ですもの。呼ばれたら馳せ参じなければね。……積もる話もたくさんあるし、どこかに入りましょうか」
「そうしよう。お昼ご飯は? まだだろう?」
凪に問われて初めて自分が空腹だったことに気付く。緊張は食欲にも影響していたようだ。素直に白状した。
「えぇ、実はペコペコなの。朝はヨーグルトしか食べていなくて」
おかしなことだ。本当にそれしか食べたくなかったのだ。しかし今は違う。固形物であろうと、喉を通りそうな気がした。
凪が案内したのはテナントの1つである回転寿司屋だった。そこそこ賑わっているので普通のトーンで喋っても構わないだろう。
「日本のお寿司ね。嬉しい、久し振りだわ」
以前のレオナならば、プライドが邪魔をして対面式の高級寿司屋にしか入らなかった。
一転、今日は大衆向けの回転寿司店だ。それなのに、一貫目を口に頬張ったレオナの目から涙が伝い始める。
「レオナ!? どうした、どこか痛むのか? 具合でも悪いのか?」
ギョッと目を見開き、うろたえた凪。レオナは安心して、と首を横に振った。
「違う、そうじゃないのよ凪。美味しい。美味しいわ、とても」
「……それならよかった」
頬を緩め、浮いた腰を凪は落とす。
貪るように皿を掴んでいくレオナは、まるで日本食を食べることで日本にいなかった分を取り戻そうとしているかのようだ。
「嘘みたい。ご飯が美味しいと感じるなんて。こんなの、何年ぶりかしら……」
「無理するなよ。この後一緒にお茶もしたいんだ」
「えぇ、分かった。……ペースを落とすわ」
恥じらいながら、レオナはナプキンで口元を拭った。気取ったレオナの姿はどこにもない。妖艶で、艶やかだったレオナは、見る影もない。
今はただ食欲を満たし、かつての自分を取り戻したかのような溌剌さも見受けられる。
今この瞬間、目の前にいる彼女こそが本来のレオナ・イップの姿なのだろうと凪は思う。
「……本当に美味しかった。ありがとう、凪」
「どう致しまして」
結局、ここでは何の会話も出来なかった。だが、だからこそよかったのかもしれない。
レオナは確実に変わっていた。そのことを誰より実感していたのは、レオナ自身だった。
自分がどれだけ日本を想い焦がれていたか、分かった気がした。まさかホームシックにかかっていたとは夢にも思わなかった。
そしてどうやら自分で想像していた以上に緊張していたようだ。凪に何も責められなかった安堵感もあって、つい涙腺が緩んでしまった――。
【02】
「満腹だったはずなのに、驚きだわ。ケーキは別腹という話は本当だったのね」
「しかも、甘い飲み物付きでね……」
レオナが元気ならば何よりだ――が。
チョコフラペチーノのホイップ盛りトールサイズとミントケーキを置かれては、流石の凪も胸やけを起こしそうで若干及び腰になる。
かくいう凪は、珈琲フラペチーノのショートサイズだ。これでも凪にしては十分挑戦したほうで、自分自身を称えたい気分だ。
「『援助』のこと、ありがとう」
消え入るような小さな声だったが、レオナの口から紡がれたのはお礼の言葉だった。
22通のメールの文面からは想像もつかないしおらしさに凪は驚く。目を丸くしつつも、慎重に言葉を選んでいく。
「いや……。君が困っていたから」
「借りたお金はきちんと返すわ。とは言っても、いきなり全額耳を揃えてというのは、いささか無理だと思うの。
そうだわ、借用書を用意してきたの。毎月決まった金額を貴方の口座に――」
「レオナ。そんな心配はしていないし、その件に関しては君の思ったようにしてくれて構わない」
「でも凪、」
「それよりも、君の口からハッキリと聞きたいんだ。本当に名古屋に住むつもりか?」
お金の話はしたくないとばかりに凪は話題を変えた。
レオナとしてはそうはいかない。金の切れ目は縁の切れ目でもある。これからは凪に誠意をみせていきたい。
凪に借りた分は絶対返済しようと、改めて心に誓うレオナだった。とはいえ、凪が持ち出した話題の方も重要である。
「えぇ、名古屋に住むわ。メールにも書いたけれど、香港に未練はないの」
「君に紹介したい仕事だが、今までとは全く異なる職種だ。その点の覚悟は?」
「愚問だわ! ……と力強く言い返したいところだけど、貴方には紹介者としての責任があるものね。そう質問されても仕方ないか」
「俺の親友の店なんだ。俺には、何よりも彼が大事でね」
「心得てるわ。大丈夫、あなたとその人を裏切る真似は決してしない。
確認をさせてもらうけれど、私の仕事は『外国から来た注文に対しての手助け』でいいのよね?」
「あぁ。君の職場は、由緒ある老舗の呉服店。ここ最近、外国からの注文が増加の一途を辿っているらしい。
そこで君には『外国から来た注文を捌いて欲しい』そうだ。多言語を巧みに操ることの出来るレオナだからこそ、彼に力を貸してやって欲しい」
「着物には興味があるけれど、知識は一切ないの。それでも大丈夫なのかしら。少し心配だわ」
凪の親友、姫丸二季が営む呉服店を手伝う――。それがレオナに課せられた、新たな職務だった。
「『それは仕事をこなす内に覚えていくだろうし、おれも教えていくから大丈夫』だと言ってた。店主の姫丸二季には明日紹介するよ」
「それを聞いて安心したわ。ありがとう」
「……聞かせてくれ。なぜ22通のメールを俺に寄越した?」
「いよいよ本題ってわけね。貴方には正直に話すべきなのでしょうね。都築と加納が私を無視し続けたからよ」
「あの2人は、君と時期を同じくしてユナイソンを去ったんだ。そもそも彼らにメールを読む術はなかった」
「そうだったの? 私には何の情報もおりてこなかったから……。メアド凍結の件も失念していたわ。駄目ね、私。全然周りが見えてなかった……」
そう告げるレオナは寂しそうだった。
誰がいつクビを言い渡されたのか、正確な日付までは、いまの凪の身分では調べられない。
より最後まで籍を置き続けることが出来たのは誰か? と言った、細かい点なども分からない。
かつて人事部の寵児であった凪でさえそんな有様なのだから、香港にいたレオナは尚更だろう。
「教えて、凪。加納と都築は、円満退職した?」
「そんなはずないだろう。あれだけの騒ぎを起こしたんだから。警察沙汰にもなったし」
「それを聞いたらとてもスッキリしたわ。ざまぁみろ、よ」
ふふんと鼻であしらうレオナを見て、吹っ切れつつあるのかな、と思う。
「意地の悪い女と思ってもらって結構よ。この性格は直りそうにないわ。
これでも少しは気持ちを改めたのよ。こんな綺麗な世界に、私のような女がまだ生きていてもいいんだってね。
姫丸さんはこんな私にチャンスをくれた。私はそれに全力で応えようと思う。……凪、貴方にも感謝するわ」
一度は堕落の道へと進んだレオナだが、優秀な面を打ち出していけば向上の一途を辿るのも夢ではないだろう。
「これから一緒に頑張ろう、レオナ」
凪の贖罪にしたって、完全に終わったわけではない。
――レオナを救うことで多少でも自分の罪も贖えるというのなら、全力でサポートするまでだ。
今は、その覚悟に従うことしか頭にない。
【03】
「君に見せたいものがあるんだ」
そういって凪は口元に笑みを閃かせる。まるで悪巧みを得意げに語る少年のように。
「私に?」
「あぁ」
カフェを後にした凪は、「こっちだ」と有無をいわさずレオナを促した。
長い通路を経てやって来た先はユナイソン直営売り場。どうやら連れて来られたのはコスメのコーナーのようだった。
天井高く吊るされたシャンデリアは照明によって煌びやかに光り、その下でゴールドの容器に入ったコスメが輝いている。
テーブルに敷かれたサテンの白い布は高貴さを彷彿させ、上品なカットが施されたワイングラスがアクセントの役目を果たしていた。
その中に散りばめられた、目映く光る新作のコスメたち――。
レオナは思わず手を伸ばし、実際に眺めてみたい衝動に駆られた。どうしたって視線が隈なく動いてしまう。
このコーナーにはテーマ――『物語』がある。それが露骨に伝わってくるから、レオナはどうしても足を動かすことができずにいる。
ずっとここに留まっていたい。
かつては≪ムーサ≫と称えられたこともある腕が疼く。レオナが手掛けた作品が単なる陳列ではなく芸術だと認められていた時代。
地位は低くても、やりがいがあった。確かな手ごたえを掴んでいた。あの頃の空気をいま、肌でぴりぴりと感じ取っていた。
「今にも創りたそうだな」
隣りにいた凪が、横目でレオナを見る。
思わず唾を飲みくだす。私なら……私だったら……。むくむくと創作意欲が込み上げてくる。
「このディスプレイは、かつて君の部下だった者の作品だ。なかなかのものだろう?」
「かつての部下?」
ここでカツンと靴音。ひとの気配を感じ、背後を振り返る。1秒、2秒、3秒。4秒目を数えたところで、レオナの口からその人物の名前が零れた。
「柾」
「御機嫌よう、レオナ」
眼鏡から覗く視線、その目付きは以前より鋭くなったと思う。凄味を増したのは貫禄が付いたからだろうか。
昔は背伸びをしていた感が否めなかった青二才も、いまや本社お膝元である代表店舗のコスメ売り場を統括するまでに至ったか。
背中に寒気が走った。果たして自分はもう、この男には敵わないのだろうか?
「これを貴方が作ったの?」
「えぇ」
「成長したのね」
心の底から思った言葉を告げると、柾は冷たい視線をレオナに向けたまま言った。
「あなたは成長しないんですか、レオナ」
一瞬、思考が停止した。なじられたと理解した瞬間、怒りに奮えるどころか、冷静になる自分がいた。
それは愛するコスメが相手だから。こればかりは、誰にも負けない自信がある。
隣りで凪がふっと笑ったのが分かった。
確かにこのやり取りは、第三者からすれば見ものだろう。
かつての部下が成長を果たし、かつての優秀な上司が落ちぶれたとあっては面目丸潰れだ。この挑発は、下剋上とも受け取れる。
「言ってくれるわね。……いいわ、お望み通り、ぶっ壊してあげる」
「そうそう、そうこなくては。では、お手並み拝見」
2人が交わす視線に熱い火花が散った。スッと柾が一歩後ろへ下がり、レオナに譲る。そのレオナはじっと、挑む空間を見据えている。
「聞いた通りだ、三原。今から彼女がこのディスプレイを丸ごと作り変える。君は彼女のサポートに回ってくれ」
「は、はいっ、柾チーフ!」
柾の背後で事の成り行きをこっそり見守っていた三原は、唐突な展開、上司の言葉に驚きながらも頷くと、彼女に駆け寄った。
「手伝わせていただくことになりました、三原です」
「よろしくね、三原さん。早速だけど、脚立が必要だわ。どこにある?」
「脚立ならば、一番近いところでは家電売り場に」
高い位置にあるものを取るため、常時脚立が置いてある。場所もそんなに離れてはいない。
「そう。どう行けばいいかしら?」
「私が取って来ます」
効率を考えると、設置場所を知っている三原自身が取りに行った方がいい。
「ありがとう」
自ら買って出た三原に対し、レオナはお礼を言う。最短距離で売場へ向かうと麻生がいた。幸いにも脚立の近くだ。
麻生への挨拶もそこそこに、三原は「麻生チーフ、そちらの脚立をお借りしたいんですが」と伝える。
「構わないが三原ひとりじゃ重いだろう。俺が持ってく。どこまでだ?」
「コスメ売場です。すみません」
「いいさ、こんくらい。つか、柾はどした?」
麻生が脚立を担ぎ、尋ねる。結構な重さになるのに、麻生の歩幅は普段のそれと変わらない。三原は必死について行きながら、事情を説明する。
「売場に千早事務局長と若い女性が一緒に来られまして。どうやらその女性、柾チーフのお知り合いだったようなんです。
短いやり取りを経て、柾チーフが手掛けたディスプレイを、その女性が作り直す……という展開になってしまいました」
「なんだそりゃ。つまり……柾の『作品』が駄目出しされたのか?」
「私には駄目出しというより、柾チーフが女性の力量を見たがっているように見受けられましたが……、よく分かりません」
「柾が作った売場ってウケがいいんだけどなぁ。今回のも見たぜ。いつものように客の評判はよかったと思ったけど?」
「それはもう! 力作も力作ですよ。念入りに計算もしたし、シミュレーションも重ねましたから!
いつものことですが、近隣のコスメ部門のチーフも、わざわざ見に来てくださったぐらいです」
歩きながらも三原は胸を張る。柾の作った売場は、大袈裟に言ってしまえば展示会に入選をし続ける常連者のようなもの。
作品が変わるごとに「見たかったから来たぞ」と立ち寄るファンは多く、三原としても鼻が高い。が、その顔がすぐに曇った。
「でも柾チーフは『今から彼女がこのディスプレイを丸ごと作り変える』と仰ったんです。
それって、ただ手を加えるだけじゃなく、根本から引っ繰り返すという意味ですよね?
そんなことをしたら勿体無いとも思うし、その前に、あんな完璧とも思えるディスプレイをどうやって新しい姿に変えるというんでしょう」
憂う三原だったが、現場に戻って来たからには与えられた仕事をこなさなければならない。
「ありがとうございました、麻生チーフ」
「あぁ」
三原が手を伸ばす。麻生から脚立を預かると、レオナの方へと近付いて行った。
【04】
――あれがその女性か。
麻生の位置からは後ろ姿しか見えないが、三原と並んだ彼女がかなりの長身だということは分かった。
緩やかに巻かれた黒髪は艶めき、波打っている。腰に当てられた両手が、この勝負に臆していないことを物語っていた。
麻生に気付いた柾がすぐ横に立つ。
「あの脚立、麻生が持って来てくれたのか。悪かった」
「それはいいんだが、これから何が始まるんだ?」
「見応えのある余興だ。時間が許されるなら見ておいた方がいい。滅多に見られないショーの開幕だ」
「彼女はお前さんが作ったディスプレイを更地にしちまうんだろ? 気分悪くねぇの?」
「悪いも何も麻生、彼女がレオナ・イップだ」
「……はぁ!? レオナって、あのレオナ!? なんで日本に……つか、ここにいるんだよ!」
「引っ張って来たんだ、彼が」
顎をしゃくる先には凪がいた。柾たちとは距離を取り、ことの成行きを見守っている。
「おーおー、それまた随分とスピーディーな交渉術だこと。んで? なんでその問題の彼女と、こんな展開になってるんだ?」
「僕が焚き付けた。負けず嫌いだからな、レオナは。ブランクはあるが、それでも凄いのを作ってくると思う。
既に彼女は商品のケースを始め、色味をチェックし終えている。彼女に油断や隙はない」
弧を描く口元、1秒も見逃さないとばかりに固定された視線。貪欲にもレオナの一挙手一投足を目に焼き付けるつもりだろう、柾は。
そしてレオナの視線が天井のシャンデリアにあることに気付く。案の定、レオナは脚立に上ると真っ先にシャンデリアを外しにかかった。
スカートからすらりと伸びたふくらはぎを、隣りに控えていた三原はハラハラとしながらも魅入らずにはいられない。
同性から見てもうっとりするその脚線美なのだから、凪や柾、麻生には目の毒以外の何物でもないはずなのに。
ちらりと男性陣に視線を向けると、3人はレオナの足ではなく手先をじっと見つめていた。
そう、その手は何をするのも早かった。シャンデリアを取り外すのも、容赦なく布を剥ぎ取るのも、コスメの配置を変えるのも。
そして指示は短く、即決だった。
「用意するのは縁がイエローのサングラス、厚みのある洋書を2冊、白の藤で出来た丸いテーブル、椅子もセットでね。
同じく藤でできたブラウンのスーツケースが欲しいわ。なければ似たようなものを。木製よ。これだけは譲れない。
それと、造花生花どちらでもいいから芝生色に似た植物を。理想はグリーンネックレスね。主張し過ぎない大きさのものが欲しいわ。
グラスも1つよ。とても綺麗なやつね。あぁ、安物では駄目よ。照明にあたるとバレてしまうから。5分の3程度の量の水を注いでちょうだい」
「分かりました」
三原1人では時間がかかると判断した柾は、手の空いているメンバーに声をかけ、手分けして確保するよう指示を飛ばす。
「進藤は2階のバッグ専門店モナドで似たようなスーツケースがあるかどうか覗いて来てくれ。なければ1階のアド・アドだ。
吉田は本屋で洋書を見繕って来てくれ。その後、進藤のサポートに回るように。花屋には根室、君が行ってくれ。小物類も頼めるか?」
「勿論です、柾チーフ」
「岸と瀬部は資材置き場からテーブルと椅子を運んで来て欲しい。お誂え向きの資材があったはずだ」
「了解です」
その間にもレオナの注文は続いていた。
「口紅2本、チーク1本、ネイルは3本用意して。色は明るいものでお願い」
レオナが頭の中で描いている想像図が三原にも伝わったのか、独断でネイルなどの色を決めていく。手にしたのは青、白、赤のトリコロール色だ。
「いいわ! 最適なチョイスよ」
微笑みとともに賛辞を浴びた三原は気をよくしたのか、笑顔で応じる。
一方、レオナは運び込まれてきたアイテムを次々と並べていく。柾とは違い、思考錯誤を繰り返すことなく、一発で。
それはまるでスピード・スター。
レオナの手によって、ガラリと変えられた売場が生まれた。
柾がイメージしたのが夜だとしたら、レオナが生み出したそれは朝。まるで常夏の楽園の世界、バカンスに紛れこんだような錯覚を覚える。
いつしか周囲には一般客によるギャラリーが集っていた。休日なので若い女性が多く、なにが始まったのかと興味津津に眺めている。
どうやら柾とレオナの対決が、客にはネオナゴヤが主催するイベントに見えたようだ。
「ランチ前に通り掛かったとき、夜のパーティーみたいな展示だったよね? ビフォー・アフター凄くない? 雰囲気が丸っきり違うよ」
「あ。あたしさっき、『夜』の方インスタグラムに載せたよ? こっちの『朝』版も載せちゃおうかな」
「私もツイッター呟いちゃお。『ネオナゴヤで余興なう』。さっきのリップの色もよかったけど、こうやって見るとこっちが欲しくなる~」
人が人を呼び、観衆の数はさらに膨れ上がる。
早速商品を手にして「レジはどこですか?」と凪に尋ねる客もいた。ネオナゴヤにとっては願ってもない効果だ。一方レオナはというと、
「これでチェックメイトよ」
チェスの駒を操るように口紅を1本置く。無造作のはずなのに緻密に計算されたポジションに。それが最後の作業だった。
「お見事。素晴らしいよレオナ」
「凪、ありが……」
凪が拍手で労うと、まるでそれが引き金だったかのように大きな拍手が起こった。観衆である客によるものだ。
惜しみない賛辞がレオナに送られている。その事実に唖然とした。
――嘘、信じられない!
「さすがレオナだ。よかったな」
凪がポンと背中を叩く。弾かれたように、レオナは観客たちに向かって礼をした。やんややんやと喝采は続き、中には指笛も飛ばす者もいた。
顔をあげたレオナの顔には、やり遂げた感が浮かんでいる。
「凪。この感覚、随分と久し振りだわ……!」
新しい売場を眺めながら、レオナは感慨に耽る。
「楽しかったわ、とても。まるで昔の私に戻ったみたい」
「君は随分生き生きしていたよ。いい兆候なんじゃないか?」
凪は本心から賛同した。
「柾に感謝しなきゃね」
レオナがお礼を言おうと柾の姿を探しあてたとき、彼は部下を呼び寄せているところだった。
「三原」
ツウカアの仲だ、柾が訊きたいことは1つだろう。
「……はい。彼女の指示は、とても動きやすかったです」
「そうか。……そう言えば、『計画の柾、直感のレオナ』だったな」
入社当時もそうだった、と柾は思い返す。
彼女の指示は想像がしやすく、完成図が頭の中に描きやすい。構想をタブレット端末で構築させ、完成図を一人占めしている柾とは真逆のやり方だ。
レオナのように、完成図はスタッフと共有するべきだ。また反省点が見付かったなと心に書き留める。
レオナの作品にも1つの物語が詰め込まれている。今回のは誰がどう見ても、『初夏のバカンス』に他ならない。
アイテムの魅力を引き出し、最大限に活かす。それがムーサの仕事ならば……。彼女は見事やり遂げたことになる。
「久し振りに燃えたわ。ありがとう、柾」
「ムーサの呼び名はいまだ健在だな。……お帰り、レオナ」
差し伸べられた手を、レオナは力強く握り返した。
「ただいま、柾」
【05】
盛況に終わった催事場から離れた凪は、レオナに店内の見学を提案した。
レオナは嬉々としながら賛同し、店内マップを眺め、行きたい場所をピックアップし始めた。
ショッピングが御無沙汰だったレオナには、名だたるショップ名を見ただけで胸が踊るのを堪えきれない。
「あー……。取り込み中に申し訳ないんだが」
ぎこちなく呼び止めてきた男性の声に、レオナは顔を上げた。見知らぬ人物だったが、いつもの癖でじっと見つめてしまう。
射抜かれるようなレオナの視線に、声を掛けた麻生は委縮してしまい、助けを求めるように柾の近くへ移動した。
「麻生、お前な……」
「わりぃ、つい身体が勝手に。レオナさん、はじめまして。俺は麻生。柾の同期で家電チーフだ」
「はじめまして、麻生さん」
ふわりと微笑むレオナに、麻生はたじたじだ。
話を聞いていた限りでは妖艶なイメージしかなかったレオナだが、実際に接触してみると可愛さが混じっていて、意表をつかれてしまう。
「かつてあなたが香港店の店長だったと聞いて。実はい……いだーーーーーっ」
「いだ? あの……麻生さん?」
麻生があげたのは悲鳴だった。柾に思いきり靴を踏まれ、発言させてもらえない。
「柾、どういうつもりだ……!」
「それはこっちのセリフだ。何を言おうとした、何を」
「決まってんだろ!? い……ふぐぐ」
今度は柾の手が麻生の口を覆う。
「いい子だから少し黙ってようか、アソー君。それともそのヤンチャなお口をマウス・トゥ・マウスで塞いでやろうか?」
「やれるもんならやってみろよ」
「……2人ともどうしたの?」
「俺も、こんな柾は初めて見る。熱でもあるのか、柾」
レオナと凪が憐れむように2人を見ると、今まで取り乱していたのが幻だったかのように柾は麻生から離れ、レオナに向き直った。
「僕のことはいい。それよりレオナ、なぜ日本に?」
「凪の勧めで名古屋に住むことにしたの。ここから近いわよ」
レオナの告白に衝撃を受けながらも、柾は自分なりに推理を進めた。麻生は、店内に伊神がいることを告げたいに違いない。
レオナの人生が大幅に狂った原因の1つが伊神であり、その伊神はまさにここ、ネオナゴヤにいる。
ひょっとしたら数メートルと離れていないところにいる可能性だってなくはない。
しかもレオナはここから近い場所に居を構えるという。凪が彼女の世話を焼いているということは、ネオナゴヤへの来店頻度も少なくないだろう。
そうなると、伊神とバッタリ再会してしまう可能性だってある。
果たして2人が再会することは最善の道なのだろうか? 伊神に会うことで、レオナが再びダークサイドに陥らないとも限らない。
せっかく日本に戻って来たからには、彼女には幸せになって貰いたい柾である。
だがこうして引き延ばしてみたところで、所詮は凪の敷いたレールの上。運命というものがあるならば、じきに2人は再会を果たすだろう。
だったら麻生を引き留めたところで未来は変わらないのかもしれない。――が。
――やはり伊神君の意見を尊重すべきだ。僕たちが面白半分に伝えるべきじゃない。
一方、柾の態度、視線、長い付き合いから全てを察した麻生は、出掛かった言葉をすんでのところで飲み込んだ。
――レオナを招待した凪すら黙秘を貫いているし、伊神の件は伏せておくほうがベターなのかもしれないな。
ただ、麻生の心の中には燻り続けるものがあった。
【06】
社員食堂でひとり、遅い昼食を摂る麻生の顔は険しい。食べているスパゲティはいつもと同じ味付けのはずなのに、どこか味気ない。
肝心の麺はフォークにクルクルと巻き付けられたままだし、口に運ぶペースはのろい。
――柾は何故俺を止めた? 伊神がいることを伝えない方が正しいのか?
恋愛経験を積んでいる柾が言うのだ。ゆえに正しいのだろう。そうは思うものの、釈然としないのは何故だろう?
心では、伊神とレオナは実際に会って、じっくり話した方がいいだろうに、と訴えている。
――だが俺がそんなことを言ったところで詮無き事だし……。そもそも伊神の問題だしなぁ、これは。
「……か?」
――或いはレオナが伊神をストーカーする可能性まで視野に入れていたとか? だから伊神の存在を伏せた?
「……さん?」
――そうか、そう考えたからこそ会わせたがらなかったのかも。流石だな……咄嗟にそこまで考えを巡らせられるのかよ。
「……麻生さん?」
思考を遮断する。反射的に声を掛けられた方を見れば、そこにはトレーを持った千早歴が立っていた。
「……ちぃ?」
「あの、もしよかったらご一緒してもいいですか、と」
何度も声を掛けたんですけど、と歴は笑った。
「あぁ、勿論。向かいでも隣りでも。好きなとこどーぞ」
「ありがとうございます。ではお言葉に甘えて……」
麻生の正面にトレーを置くと、席に着いた。麻生と同じボンゴレスパゲッティとサラダのセットだ。
「悪いな。ちょっと考えごとしてて」
「そのようですね。難しい悩みですか?」
箸でレタスを摘まみ、咀嚼する歴を見ながら、麻生は「まぁな」と苦笑した。
「珍しいですね。麻生さんが職場に悩みを持ちこむなんて」
「さっき直面したばかりの案件なんだが、色々考えさせられてなぁ」
しみじみと告げる麻生に興味を持ったのか、歴はきょろきょろと周囲を確かめ、小声で尋ねる。
「私に出来ることがあれば、いつでも言ってくださいね。頼ってください」
「それはありがたいけど、ちぃも持て余すんじゃね? カテゴリは恋愛だ」
「恋愛!? 麻生さんの悩みが!?」
「ばかっ、声でけぇ……! 違う、俺じゃなくて」
こくこくと頷く歴は、聞く気満々だ。麻生は遠回しに訊いてみることにした。
「……例えばさ、ちぃだったら元カレに会いたいか?」
「元カレなんていませんし……」
「あぁ……。そういう前提なんだが……」
「いえ、頑張ります! どーんと答えてみせます! えぇと……。でもそれって、別れ方によりません?」
「だよなぁ。じゃあ、ちょっとこじれた系で終わった恋」
「いやですよ。会いたくありません」
眉根を寄せて嫌がる歴に、再び「だよなぁ」と返す。
――いや、別に2人は付き合ってたわけじゃねぇのか。えぇと……?
「女の一方的なアタックに、引き気味の男……」
「……その2人が会うんですか? 何の嫌がらせです?」
「でも男は女の人生を気に掛けてるんだよ」
「人生を? つまりその女性を気に掛けているんですね? 人間として嫌いではない、ということでしょうか」
「そんなとこだな」
「麻生さん、まだるっこしいのはナシでお願いします。何があったんです?」
「だな……。じゃあ言うけど、知ってるか? 伊神の話。伊神が香港に行くことになった理由と、そこでの出来事」
「あー……」
言いにくそうに歴は言葉を濁した。これは知ってるなと麻生は確信した。
「知ってます。透子先輩や芙蓉先輩からも聞きましたし、伊神さん本人からも少しだけ……」
「へぇ。プライベートで伊神と話すことがあるんだな」
意外に思っていると、歴は相好を崩して教えてくれた。
「伊神さん、最近ご自分のことを話すようになってくれたんですよ。
なんでしょうね、こう……前に進みたいことでもあったのかな? ひとに話すことで自分の心を整理してる感じ。分かります?」
「あぁ……なるほど」
意識しているのか、はたまた無意識下なのか、そこまでは分からない。
だが、今の伊神は自分の立ち位置を俯瞰的、或いは客観的に見ているのかもしれないな、と麻生は思った。
確かにそういう態度は前向きと捉えられるだろう。
「でも伊神さん、優しいから。香港で出会った女性が好意を寄せてくれたけど、透子先輩が好きだったから断るしかなかったって仰ってました」
「それはまた紳士的な言い回しだな。伊神らしいっちゃらしいけど」
「その女性がどうかしたんですか?」
「実はいま、ネオナゴヤに来てる。凪が呼んだんだそうだ。伊神もそれは知ってる」
「なぜここで兄が出てくるんです?」
「人事部にいた頃から付き合いがあったみたいだぞ。で、ここからが問題なんだ。伊神と彼女を合わせるべきかどうか」
「それは伊神さんとその女性の問題だと思いますけど……。お2人が会いたいかどうかでは?」
「『特に会いたいわけでもなく、単に立ち直って欲しいだけ』というのが伊神の言い分だが、本心ではどう思ってるか……。
彼女が来てることを知ってるんだ。イヤならイヤって言うと思うんだが、はっきり言わなかった」
「麻生さんは、伊神さんがその女性に会いたがってる気がするんですね? 理屈ではなく、直感で」
「あぁ。柾と凪は、『伊神の意思に委ねる』んだそうだ。ただし奴らは『どちらかと言えば会わせたくない派』だ」
「では、伊神さんではなく、女性側に尋ねてみてはいかがでしょう? その女性が伊神さんに会いたいかどうかを訊くんです」
「だが、その質問を俺がレオナに……あぁ、その女性の名前なんだが、しようとしたら、近くにいた柾にブッたぎられたぞ?」
「柾さんの前で尋ねるから、止められてしまうんですよ! いない時に質問すればいいんです」
ふふっと笑う歴に、麻生は柾の将来について一瞬だけ不安をよぎらせた。こりゃー柾のやつ、尻に敷かれるかも。
「いない時か……なるほど」
「今日はフライトの疲れもあるはずですし、接触するなら日を改めた方がよさそうです」
「確かにな」
「レオナさんの生活パターンを、それとなく兄に訊いてみましょうか」
「ちぃからの質問なら、凪も率先して話すだろうな」
「そうとも限りません。上手くやらないと気取られてしまうもの。あれでもなかなかの秘密主義なんですよ、兄は」
「単なるシスコンじゃないのか」
「たちの悪いシスコンです」
溜息まじりの辛口評価に苦笑する麻生に、歴はフォークを持ち上げてみせた。
「冷めちゃいますね。早くいただきましょう」
新たな目標を見付けてご満悦の歴は、スパゲッティをちゅるると吸い込んだ。
【07】
――今頃レオナさんはこの店に……。
時計など視覚に入れたくない今日に限って、電池交換の依頼が舞い込んでしまうのだから困ってしまう。
伊神は自身でも気付かない幾度目かの溜息をついて、今が14時30分であることを確認した。
「伊神さん、電池交換ありがとう。助かったよ」
依頼主の杣庄が、脚立の上にいる伊神を見上げながら労いの声を掛ける。
「どう致しまして」
埃で汚れてしまった両手をパンパンと叩きながら、伊神は脚立から降りた。
「手、洗ってきなよ。手洗い場すぐそこだから」
「うん、借りるよ」
鮮魚作業場のドアから通じるバックヤードに移動する。ひとけのない通路は省エネ推進中とばかりに薄暗い。
とはいえ足元がおぼつかないほどの暗闇でもないので、難無く手洗い場で汚れを落とすことが出来た。
ハンカチで手を拭いている伊神から溜息が洩れて、耳聡い杣庄は「どうしたんスか?」とほぼ反射的に尋ねていた。
その時点で、やっと自分が悩み続けていたことに気付き、伊神は途方に暮れる。
「うん……ちょっと困ったことがあって……」
「! 俺! 伊神さんのためなら何でもするぜ。俺を頼ってくれて構わないから」
普段は助けられてばかりの杣庄だからだろう。滅多に弱音を吐かない伊神の力になれたら嬉しいとばかりに胸を叩いてみせる。
杣庄の心遣いに伊神の心はぐらついた。当日を迎えたというのに今だ答えが出せずにいる。ならば友人に尋ねてみるべきかもしれない。
「今日って不破君も出勤かな? できれば一緒に話を聞いて欲しいんだ」
「お安い御用だぜ。不破なら俺と同じ早番だ」
二つ返事で了承すると、杣庄は犬君に電話を掛ける。相手はすぐに出たようで、短いやり取りのあと、杣庄はスマホをしまう。
1分と経たないうちに犬君が現れた。暗い場所ですね、と呟きながら。
「早かったな」
「たまたま近くの売り場で作業してまして。ところでどうしたんです? 何でこの場所……?」
「そのほうが好都合なんだ。周り、誰もいないよな?」
「誰にも会いませんでしたよ」
「よし。……じゃあ伊神さん、俺たちに聞いて欲しいことって?」
「実は……苦手だけど応援してる女性がいて……そのひとが今、この店に来てるんだ」
「それってひょっとして……伊神さんが女性を苦手になった原因の?」
「……うん」
素直に認めてしまえば、あとはするすると口を付いて出てくる。
「分からないんだ、オレ。彼女と会ったほうがいいのか、会わないままのほうがいいのか」
「でも伊神さん、会ったらまた狙われるんじゃね?」
「どうしてソマ先輩はダイレクトに言っちゃうんです? 伊神さんが動揺してるって分かんないんですか?」
「オブラートに包んだって一緒だろ。伊神さんの貞操の危機にゃ変わりねぇ」
「ほんっとにデリカシーないな! あんた!」
険悪になってしまった杣庄と犬君を、伊神は「まぁまぁ」となだめながら、
「そういうの全部ひっくるめての悩みだと思って貰えればいいから」
「俺は会うべきじゃないと思う」
「同感です。相手が未練たらたらだったら厄介極まりないですよ」
凪と柾からは『伊神のしたいようにすればいい』と言われ、杣庄と犬君は『寧ろ会わないほうがいい』と言う。
誰1人として『会うべきだ』というアドバイスを口にした者はいない。
例えば透子や芙蓉に同じ相談をしたところで、提示される答えは同じだろう。『馬鹿言わないで』、そう一蹴されるのが目に見えている。
「透子や八女サンが知ったら大激怒じゃないか? その女に直談判しに行きそうで怖いぜ。
『伊神とは会わないで』とか『伊神さんは傷付き苦しんでましたけどどう責任取ってくれるんですか!?』って詰め寄りそうだ」
「ソマ先輩と同じことを僕も考えました。あの2人、伊神さん大好き女子ですからね。黙っていた方が無難です」
「そっか。2人ともありがとう。杣庄君たちの意見は尤もだと思う。このまま会わずにいた方がいいんだろうな」
決断を下してみると、意外にも心の澱が霧散してくれたような気がした。
【08】
透子はPOSルームのドアを後ろ手に閉めると、そのままドアにもたれかかり「八女先輩」と声を掛けた。視線をあげた芙蓉は「何?」と問う。
「伊神さんの“ファム・ファタル”が来てるそうですよ」
「そう」
静かに目を閉じ、数秒。芙蓉は机のうえの電話に手を掛けた。
「伊神? ごめんなさい、今すぐ来て欲しいの。えぇ、すぐによ」
優しい口調だけれども有無を言わせない、芙蓉にだけ許された伊神への物言い。大方、伊神からは「分かったよ」と快い返事が返ってきたに違いない。
芙蓉は静かに受話器を置くと、椅子にもたれ掛かる。
「今から伊神とお喋りする分、今日はサービス残業よ」
「えぇ、構いません。他でもない、伊神さんのためなら」
連絡を受けた伊神はすぐにやって来た。
当の本人は、まさか先ほど杣庄や犬君と話していた場に透子が聞き耳を立てていたことなど知る由もないだろう。だから入室早々、
「香港で出会った女に迫られて不能になったんでしょ? そんな女と会いたいわけ?」
と芙蓉が切り出すと、露骨な言い草に伊神は脱力するしかなかった。
「そのせいで潮も抱けなかったっていうのに」
「う……」
「それでもまだその女を庇うっていうの? あなた一体どこまでお人好しなわけ?」
居た堪れなくなった伊神は退室したくて仕方ない。縋るように透子を見ると、案の定透子は助け舟を出した。
「仕方ないじゃないですか、それが伊神さんなんですから」
「透子ちゃん……」
芙蓉の言葉に傷付いた伊神には、透子が天使のように思えた。だがそれも一瞬だった。当然だ、透子も怒っているのだから。
「本音を言えば私だって会って欲しくないよ。断固反対! でも伊神さんはこの件を『乗り越えたい』って思ってるんだよね?
ケリをつけたい気持ちは分からないでもないから、私は伊神さんの背中を押そうと思う」
「わんちゃんとソマは貴方に『会うな』って言ったらしいけど、潮と私は逆よ。会って来なさい」
「それは……意外だな」
虚を突かれた伊神はマジマジと芙蓉を見つめる。伊神を見返す芙蓉の目は真剣で、冗談を言っているようには見えない。
「でも、どうして」
「貴方が正直に言わないからよ。本当は会いたいくせに」
「いや、オレは別に」
「ここまでその女を気に掛けているクセに、まだ四の五の言うつもり? 貴方の感情、一体どうなってるの?」
「どうと言われても困るけど。……会いたがってるように見える?」
「えぇ、見えるわ」
「だってそわそわしてるもん、伊神さん」
「そわそわか。態度に出てるなら、そうなんだろうな。正直なところ、よく分からなくて」
「女性の機微だけじゃなくて、自分自身についても疎いなんてね」
やれやれと首を振る芙蓉に、伊神としては首を竦めるしかない。正しい指摘なだけに耳が痛かった。
「それで? 会うのよね?」
「いや、会わないよ」
伊神の即答に、「へぇ?」と芙蓉の口角が不自然につり上がったのを透子は見逃さなかった。やばい、これは耳を塞ぐべき――。
「私の・言葉を・聞いてたのかしら!?」
普段の1.5倍の声量に圧倒されながらも、伊神の返事は変わらない。
「会わない。だって杣庄君たちと約束したし」
「そんな口約束、反故にすればいいでしょ!? 言うことがいちいち小学生なのよ! 私が聞きたいのは貴方の本音!」
「だから言ってるじゃないか、よく分からないって。誰もが八女さんのように感情の選り分けが上手だと思わないでくれ」
「貴方は先に取り付けた約束を律儀に守ってるだけよ。もしソマたちが『会え』って言ったら会おうとしたでしょ」
「アドバイスを仰いだのはオレだ。彼らの言い分に納得したから、『会わない』という選択肢に辿り着いたまでで……」
「さぁ、それはどうかしらね!?」
「なっ……八女さんはオレを怒らせたいの?」
「貴方の本音を引き出したいだけよ」
言い争いのあとに訪れるのは静けさと2人の呼吸音。ふいに伊神が言った。
「透子ちゃん」
「はい!?」
「この分からず屋を言い聞かすには、どうすればいいのかな?」
伊神から紡がれたとは到底思えないほど冷たい問い掛けだった。おっかなさを感じながらも透子は答える。
「……それはー、私には無理、かなー」
「分からず屋ですって? 頭でっかちはどっちよ。元カノの潮が『会ってもいい』って言ってるんだから堂々と会いに行けばいいじゃない」
「ここでオレが『会う』なんて言ったら、それこそ『人の意見に流される優柔不断』って嘲笑うくせに」
「言わないわよ」
「さぁどうかな」
芙蓉は内心、焦りを感じずにはいられなかった。なにせ伊神がここまで反論してきたのは初めてのこと。
『どこまで怒らせてしまったかしら』、『取り返しはつくのかしら』と心配になる半面、お小言めいた言葉が勝手に口をついて出てしまう。
誰かが止めてくれるのを願った。だが助っ人になり得そうな透子は、今や悪夢でも見ているかのように後ずさってしまっている。
――あぁ、普段温厚な伊神に、とうとう手を上げさせてしまうのかしら……。伊神だって男だし、男性のビンタはきっと痛いだろうなぁ……。
眉尻を上げて口喧嘩を続けながらも、心の中ではそんな情けないことを思っているのだから始末に負えない。
引くに引けない押し問答を始めてしまったことを後悔していると、コンコンとドアをノックする音がして、2人のやり取りを中断させた。
顔には出さず、芙蓉は快哉を叫んだ。
――――助かった! この際、誰でもいいわ。いいえ、寧ろあなたをメシアと呼ぶことにする!
透子が速やかにドアを開ける。救世主は麻生だった。仕事の依頼だったら何より率先して取り掛からせていただきます! そう思っていると。
「おいおい、何してんだ? 八女さんが取り乱す姿、初めて見たぜ」
麻生は首を傾げた。
「痴話喧嘩か?」
「違います!」
速攻で否定する芙蓉に、麻生はくつくつと笑う。
「だろうな。本当は何だったんだ? 廊下まで聞こえてたぞ」
芙蓉は己の失態に気付いたが、気付いたところで遅かった。
ヒステリーになんかなりたくなかったのに。問題が伊神だったから。大切な友人だったから。不覚にも取り乱してしまった。
問いに答えたのは伊神だった。
「八女さんは、会えと言うんです。レオナさんと会って、話をして、ケリをつけろって」
苦渋に満ちた表情、声音から、『迷ってんのか』と予想をつけた。
――だが、迷ってんのなら俺は背中を押すだけだな。
「会えよ。俺は賛成だ」
「麻生さん!」
歓喜の声をあげたのは芙蓉で、ほらみなさいと満面の笑みを浮かべて伊神を振り返る。
思い掛けない展開に戸惑ったのだろう。不安げな顔を隠そうともせず、伊神は麻生を見た。
麻生は何も言わない。その代わり、透子の背後に回ると、両肩に手を置き、ぐいと押しだした。伊神と透子が対峙する形になり、当の2人は面食らう。
「潮さん、伊神に本音ぶちかましてやれ。伊神の意思を挫くには、潮さんの一言が有効だろうと俺は見た」
「単なる憶測じゃないですか」
「いいから。ほれ」
トン、と背中を叩く。逡巡していた透子だったが、深呼吸をすると、伊神の目をまっすぐ見つめた。
伊神も見つめ返す。こんなに真剣に向き合ったのは別れ話のとき以来だな、と2人は思いながら。
「伊神さん、今どっち? 会いたい? 会いたくない? 今度また伊神さんが襲われるようなことがあれば、私がその女をぶっとばしてやるから!
だから安心して会って来て。だってさぁ、今のままじゃ、心、苦しいでしょ?」
「透子ちゃん……。オレは……」
透子は普段見せる笑顔を期待した。穏やかで、優しくて、色気を纏った声で伊神が答えるのを期待した。
「――八女さん」
「なぁに?」
「さっきは怒鳴り返したりしてごめん。あなたがオレを心配してくれていることは、重々承知してるよ」
「それはどうも。私の方こそ悪かったわね。……いいのよ、もう。私は伊神の意思を尊重するわ。無理に『会え』って二度と言わないから、安心して」
頷いた伊神は透子の希望通り、笑顔を見せた。
「彼女に会うよ」
2015.09.17
2020.02.11 改稿
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