G3 (―) 【Various Men!】


日常編 (―) 【Various Men!】



(1)

桜前線が日本を横断し始めた3月下旬。
ユナイソンネオナゴヤ店に足を運ぶ女性客らは、こぞって重たいダウンコートを脱ぎ、淡い色のスプリングコートに袖を通していた。
春めいた装い、豊かに加わる色彩。私が先に満喫するのよと言わんばかりのトレンドファッションの先駆者たち。
冬物最終処分品は店頭には出ていない。もしあったとしても、それらは2階バックヤードの隅へと追いやられている。
今、婦人服売り場にはパステルカラーやホワイト、明るい原色を基調とした布地たちが一面に広がり、人々の目を眩ませている。
女性は晴れ晴れとした気分になっているし、男性は薄手の生地を手に今にも涎を垂らさんばかり。
僅かだが水着コーナーも設けられており、ハート型の目をするか、もしくは目尻を下げていた。
客の目当ては新しさや安さ、加えて個性的だったり、実用性があったりするもの。ニーズは増え、店側もあの手この手で販売戦略を練る。
奇しくも今日から新たな戦が始まろうとしていた。その名もインナーバーゲン。
春物の下着がどれも30%OFFになるという触れ込みは人気を博し、インナーコーナーはミスからミセスまでの幅広い年齢層の女性客でごった返していた。
「客注分のキャミソールが届いたそうです」
「このストッキングはセンター発注? それともメーカー発注でしたっけ」
婦人服売場の責任者である五十嵐を呼ぶ従業員。そしてレジには会計を待つ長蛇の列。
オープン1ヶ月を祝して作った目玉が、まさかここまで好評だとは。
(三割引の集客率は大きいな。この多忙さでは、昼休憩は断念せざるを得ないだろう)
五十嵐はレジを打ちながら、頭の中で午後のローテーションを組み換え始めた。効率のいい最善策を見繕わなければ。


(2)

「こんなことしてる場合じゃないのよ!」
突然喚きはじめた八女芙蓉の声に、すぐ近くで作業をしていた伊神十御が目をぱちくりさせて彼女を振り返る。
ここはバックヤード内にあるPOSルーム。伊神は故障したエアコンを直すために派遣された。
作業している内に暑くなったのだろう。黒のつなぎの作業服は、上半身部分を肩から外すように脱いでおり、腰にだらしなく垂らしてある状態だ。
下に着ていた白の七分袖はストレッチVネックのTシャツで、ヒューゴ・ボスのロゴがさり気なく縫い付けてある。
汗を拭う伊神の姿にタオルとスポーツドリンクを差し入れしたくなるであろう、この部屋のもう1人の住人、潮透子の姿はない。
優しげな表情や口調から、穏やかで知的なインドア派と思われがちな伊神だが、日々運動を欠かさないため、健康的で程よく筋肉もついている。
背も高いのでスーツだって馴染むように着こなせてしまえるし、どんなTシャツでも見栄えよく映る。
本人に自覚が一切ない、モデル張りの男。それが伊神だった。そしてそんな男性を前にしても一切なびかない女性が芙蓉である。
「どうしたの、八女さん」
2人は同期。知り合ってから9年目に突入しようとしているが、「伊神」「八女さん」という呼び方は変わらない。その仲も然り。
芙蓉はすらりと伸びた足を組み換え、伊神を睨む。彼が何かしたわけでもないのに、とばっちりを受ける損な役割を引き受けるのも昔のままだ。
「買い物に行きたくても行けないのよ」
「どうして?」
「1つ、潮も千早も休みだから。2つ、昼休憩まで後10分もあるから。3つ、今にも商品が売り切れてしまいそうだから」
「オレが買って来ようか? もう修理も終わるし、いつ休憩に入っても構わないから動けるよ?」
いつもの芙蓉なら、「あら本当? 助かるわ」と伊神を見送ったことだろう。
伊神の方も、それに似た返事が返ってくるものだと思っていた。だからこその進言だった。
だが今回は違った。なぜか芙蓉は顔を紅潮させ、口をぱくぱくさせている。
言いたいのに何と言えばいいのか分からない……そんな反応だ。「いい。遠慮しておくわ」と絞り出すのが関の山。
頼って貰えなかったことが寂しくて、おずおずと尋ね返す。
「何が欲しかったの? 遠慮しないで言ってごらんよ」
「言えないのよ」
「あぁ、サプライズギフトってやつ? 杣庄君に贈るのかな? 大丈夫、ちゃんと黙ってるから。これでも口は堅い方だよ」
にこにこと無邪気に笑みをたたえる伊神は何も悪くない。それどころか善人そのものだ。
だから芙蓉の心は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。反して、実際口から出てきた言葉は辛辣で、人を傷つけかねないものだった。
「行かなくていいって言ってるでしょう!?」
元をただせば、大声を張り上げ、会話を開始させたのは芙蓉ではなかったか? 
自分の責任を棚に上げたこの言い草はあんまりである。だが伊神は責めない。そもそも芙蓉の言動に目くじらを立てたことすらない。
傍若無人な振る舞いだろうと、伊神ならば絶対に許してくれる。
この世で唯一甘えさせてくれる男性だということを、芙蓉はよく知っていた。そこにつけ込む自分の卑怯さも、身に沁みて理解している。
老若男女問わず、困っている人を見掛けるたびに、すかさず手を差し伸べて来た伊神。
だが今度ばかりは少し黙っていて欲しい。度を越したボランティアは、煩わしいお節介と同義語だ。
「ごめん、八女さん」
しゃしゃり出たことに気付いたのだろう。伊神は参ったな、と弱々しい苦笑いを浮かべた。
「……何度も言うようだけどね、伊神は何も悪くないの。謝る必要ないわ」
(こんなフォローも、毎度のことね)
成長しない自分に辟易する芙蓉。伊神は時計を見て微笑んだ。
「八女さん、休憩の時間だよ。買い物に行って来なよ」


(3)

昼休憩から戻った芙蓉は不機嫌だった。
不貞腐れているのは誰の目にも明らかだったし、そうと知りながら声を掛ける者はいない。女傑四人衆の三人、それに伊神を除けば。
伊神は芙蓉の後ろ姿を見掛けると、その後を追った。本日2度目のPOSルーム。
室内には衣料品売場の五十嵐とコスメ売場の柾がおり、芙蓉を見るなり安堵した顔付きになった。お互い、修正を要する商品を小脇に抱えていた。
「戻って来てくれて助かった。入力を頼むよ」
オペレータ不在の際はパソコンにパスワードをかけてあるから勝手には触れないようになっている。芙蓉の入力が終わった時点で伊神は声を掛ける。
「欲しかったものは買えたかい?」
「……売り切れてた」
芙蓉は渋々答える。
「そう、残念だったね」
心底残念そうに同情するものだから、沈んでいた気持ちを半分以上霧消させた。嫌な気分を分かち合ってくれたことが芙蓉には嬉しかった。
伊神はどこまでも優しい。
「仕方ないわ。元々そのサイズ、どこのお店でも少量ずつしか置いていないの」
たったそれだけの言葉で五十嵐は希望商品を悟ってしまった。横にいた柾も同様に。
売場担当者だからこそ気付けた五十嵐に対し、柾は豊富な女性遍歴によって答えを導き出したまでなのだが。
「ブラジャーが欲しかったのか?」
五十嵐が芙蓉に尋ねる。
入社以来ずっと婦人服売場に身を投じてきた五十嵐にとって、下着関連の単語はすっかり耳馴染みである。
うら若き女性が頬を染めたとしてもセクハラと結びつけて貰っては困るし、それでは仕事が遅々として進まないから五十嵐の場合は臆さず言う癖がついていた。
「……まさか、そこまで明け透けに仰られるとは思いませんでした」
言いにくそうに芙蓉は認める。
不自然なほどの自然さで、視線を芙蓉の全身に巡らせた柾は、「ふむ、失礼」と言ってメモ用紙を1枚手に取った。
そこにさらさらと書かれたアルファベットと数字を見て、芙蓉は戦慄する。
「どうしてそれを……」
E65と書かれたそれは芙蓉のブラジャーサイズだった。
「見れば分かる」
(千早の想い人ったら、随分とそっけなく言ってくれるわね)
芙蓉は思わず口を尖らせた。柾はどこ吹く風である。
「嵐」
嵐。柾は五十嵐をそう呼ぶ。
「なんだ?」
「これはつまり、こうだろ?」
メモ用紙に付け足される数値に、五十嵐は「よく知ってるな」と呆れたような感嘆を漏らした。
「八女さんはこれも買える」
しれっと言いながら突き出した柾手製のメモには、こう書き足されていた。AA90=A85=B80=C75=D70=E65。
「C75、D70なら、在庫数も多いと思うんだが」
「柾の言う通りだ。が、俺としてはそんな知識を披露して欲しくはなかったな」
「麻生みたいなことを言うなよ」
表情はそのままで、拗ねたことを言う柾。芙蓉は呆然としたまま紙を受け取り、くらくらする頭に手を置いた。
「……そうか、八女さんが欲しかったのは……ランジェリーだったんだね」
免疫がない伊神は居心地が悪いのか、ただただ恐縮しきっている。
(ランジェリーという単語さえ、やっとのことで口にしているんでしょうね)
芙蓉はやれやれと伊神の顔を見つめた。やはり伊神は純朴すぎる。
(それに引きかえ、柾さんときたら)
「一番多く補えるのはAA115=A110=B105=C100=D95=E90=F85=G80=H75=I70=J65か」
「逆に少ないのはAA65で、一種類しかない」
新たなメモ紙に表を作り数字を埋めて行く柾と、それを確認する五十嵐を眺めながら、千早には見せられない光景だわね、と芙蓉は苦笑した。


2010.04.01
2020.02.19 改稿


© Rakuten Group, Inc.
X
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: