G3 (―) 【Who Cares?】


日常編 (―) 【Who Cares?】



__犬君side

出勤途中。僕の前を歩く、透子さんの姿。
高鳴る胸。同時に嬉しさと切なさが込み上げてくる。
勇み足になってしまうのは、早く追い付きたいから。
最終的には、小走りになっていたかもしれない。
透子さんの肩を叩く。軽く、弾むように。
「おはようございます、透子さん」
「おはよう」
僕とは全く逆のロー・テンションで、素っ気なく告げる透子さん。
どうすれば彼女から笑顔の挨拶を引き出せるだろう?
それとも、僕には到底ムリな願い?
軽いショックを受けたけれど、隣りに並べた僥倖については素直に喜びたい。
何も言わない透子さん。僕も敢えて、話題を生むつもりはなかった。
居心地悪くさせてしまっているかな……? 
でも、それならそれで、彼女はこう言うハズに違いない。
「この沈黙には耐えられないわ」って。



__透子side

挨拶を寄越したきり、不破犬君は何も言わない。
なんなのよ……と思いながらも、朝から言い争うのも疲れそうだから、ただ黙々と歩いた。
無言の2人。無言の登社。
そんな沈黙の中で、自分の隣りから発せられる男物の靴音が気になって仕方ない。
歩幅は、明らかに向こうの方が広い。
今にも追い抜きかねないのに、横のラインは依然保たれたままだ。
周りの人たちからは、私たちが仲睦まじく歩いているように見えているのだろうか?
それにしたって、歪曲された事実ほど不本意なものはない。


__犬君side

透子さんと一緒だった所を平塚は見ていたらしく、冷やかし半分・やっかみ半分の言葉を僕に浴びせてきた。
「別に会話はなかった」と言えば、「倦怠期の夫婦かよ!」と痛いものを見る目で労わられた。


__透子side

「わんちゃんと一緒に来たみたいね」
私の隣りでナイスバディの下着姿を晒す八女先輩が、ハンガーから制服のスカートを外しながら言った。
「まぁ……一緒は一緒でしたけど」
「含みのある言い方ねぇ。つまり、一緒だったという事実のみを強調したいわけね」
ワイン色で統一されたインナーたちが、制服によって覆われていく。
勿体ないなぁと思っていたら、「じろじろ見ないで」と怒られた。はいはい、すみませんね。
「早く着替えなさいよ? 今日は忙しい火曜日なんだから」
そうだった。今日は開店直後の時間帯が二番目に混む、魔の火曜日。
八女先輩が早番なのも、不破犬君が早番なのも、ひとえに今日が特売日だから。
慌てて制服に袖を通す私。そして、髪を結い直す。
朝からボーっとし過ぎてしまったことを嘆くのも、毎度のこと。
低血圧だから仕方ない。……そんな根拠のない言い訳を心の中で呟き、いざ出勤。


__犬君side

誰にとっても、開店前の1時間は、店内とPOSルームを幾度となく往来する。
この時ばかりは、さしもの僕も透子さんに見惚れているわけにはいかない。
心を奪われれば、それが命取りにもなり得る。――というのは大袈裟か。
ともかく、異常な繁盛を見せるだけに、売価ミスなどもってのほか。致命的で許されないのが火曜日の常である。
それなのに――。
「あれ……?」
必死にパソコンを操作する透子さんの後ろ姿を見て、首を傾げた。
それは、朝と雰囲気が違っていることに気付いたから。
どこがどう変わってしまったんだろうと首を捻る。
そうか、髪だ。
私服の時は、細かいレースが特徴的な白の……なんて言うんだ? えーと、シュシュ?
そう、シュシュで髪を結んでいた。
でも今は、目立ちにくいタイプの黒ゴムでまとめられている。
「透子さん、朝と髪留めが違うんですね」
さり気なく言えば、
「規定を守ってるだけよ」
多忙な時に関係ない話をしないでと睨まれた。


__犬君side

「私、透子先輩ほど女性らしい方って、いないと思うんです」
食堂の窓際。小さなテーブルを挟んだ2つの椅子。
歴さんは食べ終えたサンドウィッチの折り畳み式小箱を片付けながら、優しい口調で言った。
「……確かに僕は透子さんが好きです。好きですけど、どう考えても歴さんの方が断トツに女性らしいと思いますよ」
僕の真正面で微笑み続ける歴さんは、有り難う御座いますと頬を染め、小さなお辞儀を返してくれた。
素直で可愛くて、その上優しさに長けた後輩だ。
「挨拶の件にしたって、無愛想じゃないですか。これが他の男なら、「何だこの女」って呆れてますよ」
「でも不破さんは、そんな透子先輩しか見えていないじゃありませんか」
「……それは……まぁ……」
「ふふっ」
楽しそうにニコニコと笑う歴さんは、自販機で買った紅茶を飲みながら、おもむろに自分の頭を指した。注目せよと言わんばかりに。
長い髪を後ろで1つに束ねていた歴さんは、その髪留めをスッと解く。
男子社員の間で『烏の濡羽色』と大評判の黒髪が、肩から背中にかけて散らばった。
僕でさえ目を奪われたのだから、彼女に想いを馳せる男性が見たら、この場で抱き締めてしまいたい衝動に駆られてしまうかもしれない。
それほどまでに今の仕草はヘアケアCMに採用されてもおかしくない名シーンだった。
現に、後ろの席に座っていた男子社員は、髪を解いた瞬間に漂ったシャンプーの香りに気が付き、振り返ったほどである。
「今から髪を結びます。何秒掛かると思いますか?」
何を言い出すかと思えば……。
見当もつかないが、1つに纏めて結ぶだけだから、20秒ぐらいだろうか。
数字を告げると、歴さんは腕時計で確認するように言い、ポーチに入っていた柘植櫛で髪を梳き始めた。
丁寧に櫛を入れ、左手に束を集めながら、器用に後れ毛の処理をする。
「終わりました」と両手をスカートの上に戻した歴さんの髪は、先ほどと同じように綺麗に結ばれていた。
「単純な結び方をした私でさえ、1分掛かりました」
まるで種明かしをするかのように言い含める歴さん。
「透子先輩は私より短いですけど、結構凝った髪型をしているんです。今日は裏編み込みをしつつ、片結びをしていました。
これって3分は掛かると思うんですよ。1~2分で出来なくはないですけど、あそこまで綺麗に纏めるためには3分必要でしょうね」
「……それで?」
歴さんは、ここが重要だといわんばかりに身を乗り出した。
「プライベートと仕事。シュシュと黒ゴムを付け替えるために1度解いている……。
これって、意外と面倒で、手間だったりするんです。私なんか、本音を言えばそんな時間も惜しいぐらい。
故に、『服装に合わせて髪留めを変えつつも面倒な髪型を繰り返す透子先輩は、誰よりも女性らしい』、と言いたいんです。
まぁ、髪留めのゴムを変える際に、手でしっかりと髪の束を押さえていれば、結び直す手間も省けますけどね。
透子先輩がそうやって手直ししている所は見たことがないので、やっぱり逐一始めから結び直してるんだと思いますよ」
「それは……つまり、透子さんの女性らしい部分に惚れ直すべきだと?」
「私が言わなくても、十分過ぎるぐらい心を動かされてしまったんじゃありませんか?」
彼女の推理は正しい。事実、今すぐにでも透子さんに会いたくなってしまった僕である。
「透子先輩を冷たい人だと誤解なさらないで下さいね。私、それだけが心配です」
「大丈夫。ちゃんと知ってるから」
本当に迷惑だったら、はっきり言うだろう。
横に並んだ時も、本当にイヤだったらそう告げていただろうし、走り出すなどのアクションを起こしていたに違いないのだ。
それは、僕の都合のいい解釈だろうか?
でも、何年も見てきたんだ。
ずっと。透子さんだけを。
だから僕には分かる。
好かれているかはギリギリのラインだとしても、少なくとも嫌われてはいないかな、って……ね。


2010.12.20
2020.02.20 改稿


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