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【本庄繁(ほんじょう・しげる)大将】 (カモメ)本庄繁は明治九年五月十日生まれ。兵庫県出身。寒村で農業を営む本庄常右衛門の長男。兵庫の鳳鳴義塾中学から、明治二十七年九月陸軍幼年学校入学。明治二十九年五月陸軍中央幼年学校を卒業し、陸軍士官学校入校。明治三十年十一月陸軍士官学校(九期)卒業。(ウツボ)明治三十一年六月歩兵少尉(二十二歳)、歩兵第二〇連隊附。明治三十三年十一月歩兵中尉(二十四歳)、陸軍士官学校生徒隊附。明治三十五年八月陸軍大学校入校、十一月歩兵第二〇連隊附。明治三七年二月陸軍大学校中退、四月歩兵第二〇連隊中隊長として日露戦争出征、六月歩兵大尉(二十八歳)。日露戦雄では下腹部に貫通銃創を負ったが奇跡的に助かった。(カモメ)本庄繁大尉は、天皇への忠誠心が強く、その識見、高貴な人格、端正な風貌から、「古武士の風格」と評され、早くも将来の将軍として人望も高かったのです。(ウツボ)明治三十八年一月陸軍大臣官房附。明治三十九年二月近衛歩兵第二連隊附、三月陸軍大学校復校、四月功四級金鵄勲章。明治四十年十一月陸軍大学校(一九期)卒業。明治四十一年四月参謀本部部員、九月清国出張、十二月北京・上海駐在。(カモメ)明治四十二年五月歩兵少佐(三十三歳)。明治四十五年六月陸軍大学校兵学教官。大正二年一月参謀本部支那課支那班長、六月兼陸軍大学校兵学教官。大正四年六月歩兵中佐(三十九歳)。大正六年八月参謀本部支那課長代理。(ウツボ)本庄中佐は、大正七年六月歩兵大佐(四十二歳)、参謀本部支那課長。大正八年四月歩兵第一一連隊長としてシベリア出兵に従軍。大正九年十一月勲三等旭日中綬章・功三級金鵄勲章。大正十年五月参謀本部附(張作霖軍事顧問)。大正十一年八月少将(四十六歳)。大正十三年八月歩兵第四旅団長。(カモメ)本庄少将は、大正十四年五月支那公使館附武官。大正十五年九月勲二等瑞宝章。昭和二年三月中将(五十二歳)。昭和三年二月第一〇師団長。昭和四年五月正四位。昭和六年八月関東軍司令官。(ウツボ)当初、関東軍司令官は真崎甚三郎中将が予定されていたが、急遽、真崎中将は台湾軍司令官に親補され、本庄中将に栄達がまわって来た。当時の陸士九期の序列は、真崎中将が一位で、本庄中将が二位だった。(カモメ)この人事は、真崎嫌いの参謀総長・金谷範三(かなや・はんぞう)大将(大分・陸士五・陸大一五恩賜・オーストリア大使館附武官・歩兵大佐・歩兵第五七連隊長・参謀本部作戦課長・少将・支那駐屯軍司令官・参謀本部第一部長・中将・第一八師団長・参謀次長・兼陸軍大学校長・朝鮮軍司令官・大将・参謀総長・軍事参議官)の采配で逆転したのですね。(ウツボ)そうだね。だが、本庄中将が関東軍司令官に就任した翌月の昭和六年九月十八日、柳条湖事件が起き、満州事変が勃発した。(カモメ)この事件は、関東軍高級参謀・板垣征四郎大佐と作戦参謀・石原莞爾中佐らの謀略ですが、軍司令官になりたての本庄中将は、彼ら幕僚にうまく操縦され、了解を与えるしかなく、事後処理も言いなりだった、と一般的に言われています。(ウツボ)だが、当時関東軍参謀(大尉)だった片倉衷元陸軍少将は、戦後、「本庄が関東軍司令官として着任した時、板垣大佐と二人で『満州で事が起きた場合、中央に請訓して解決を計るのか、それとも与えられた権限を発揮して独断で処理するのか?』と尋ねると、本庄軍司令官は『自分としては慎重に取り扱いたいが、自分の権限内であれば責任を以って独断を以ってしても遂行する』と答えた」と回顧している。(カモメ)つまり、板垣大佐らの計画に暗黙の了解を与えていたのですね。(ウツボ)そうだね。しかも満州事変が勃発すると、奉天の関東軍の援護を得るために、朝鮮軍に増援を依頼し、朝鮮軍は中央の命令を待つことなく独断で越境した。このため当時の朝鮮軍司令官・林銑十郎中将は無断で兵を動かした「越境将軍」と呼ばれることになった。(カモメ)本庄中将はわずか一年で関東軍司令官を武藤信義大将と交替しましたが、帰国したら、本庄中将は「満州の父」と讃えられたのです。(ウツボ)昭和七年九月本庄中将が宮中に参内した時、昭和天皇は本庄中将に「関東軍の謀略だと聞くがどうか」問い質した。これに対し、本庄中将は「一部でそのような動きがあったと、後で聞きましたが、本職と関東軍は関係していません」と白を切っている。(カモメ)本庄中将は、後に、この満州事変の論功行賞で男爵を賜りました。(ウツボ)本庄中将は、昭和七年五月従三位、八月軍事参議官。昭和八年三月勲一等瑞宝章、四月侍従武官長、六月大将(五十八歳)。昭和九年四月勲一等旭日大綬章・功一級金鵄勲章、満州国から大勲位蘭花大綬章。昭和十年六月正三位、十二月男爵。
2016.03.18
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(ウツボ)「陸奥爆沈」(新潮社)の著者吉村昭氏は、Q二等兵曹の嫌疑について述べている。(カモメ)前にも述べましたが、査問委員会の調べで、陸奥爆沈は人間の行為によるものだという疑いを深め、調査に入りました。(ウツボ)このQ二等兵曹についても、実は「戦艦陸奥」(サンケイ新聞社)のK二等兵曹、「海市のかなた」(中央公論新社)で述べられているF二等兵曹と同様の推論になっているんだね。(カモメ)だが、注目すべきは、著者の吉村昭氏は取材の最後に、このQ二等兵曹の実家を訪ねていることですね。(ウツボ)そうなんだ。Q二等兵曹の死体が発見されていないので、生存して戦後生き延びているのでは、という万が一のはかない期待があったようだが、現実的にはありえない話とは思うのだが。(カモメ)でも、吉村氏は自分を納得させるために、そうしたのでしょうね。Q二等兵曹は陸奥の火薬庫に発火させ、すぐにそこを飛び出し、海に飛び込み、泳いで逃げた事も可能性としてはあると、吉村氏は推理しています。(ウツボ)う~ん、そこのところを吉村昭氏は次のように記しているよね。「私は陸奥爆沈事件の調査のしめくくりとして、Q二等兵曹の故郷を訪ねてみようと思うようになった」(カモメ)続いて読んでみます。「もしもQ二等兵曹が生きているとしたら、年齢もすでに五十歳を越えている。故郷に帰っているとしたら、ひっそりと畑仕事でもしているかも知れない」と。(ウツボ)吉村氏が故郷を訪ねてみると、Qという人の白木の箱は昭和19年春に生家に戻っていた。現在は両親も死亡、肉親の一人が村にとどまっているだけだったというんだね。(カモメ)吉村氏は帰り際に、Q二等兵曹の故郷に何時までも佇んでいたそうですね。(ウツボ)これで陸奥爆沈の原因の推理は終わる訳ですが、以上のように陸奥爆沈の原因は、あらゆる面で推定のままで、確定はされていない。(カモメ)それが当時は戦時中であり、海軍の秘密主義と関係しており、また爆沈で全てが海の藻屑となり証拠が確定できないと言う事もあったのですね。だから、いまだに陸奥爆沈は永遠のミステリーとなっているんですね。(ウツボ)うん、だがね、永遠のミステリーと言ってしまえば、架空の話のように聞こえる。俺は自分なりの結論を出したいと思う。(カモメ)俺は一番気になるのが、人為説の二番目である辻野氏の温度計の接点を上げたことだと思いますね。(ウツボ)そうですか。俺は人為説の三番目の犯人説だね。M委員会の出した結論は、過去の多数の戦艦爆沈の解明されている原因が人為的なものだという事実を考慮しているんだよ。可能性が一番高い。(カモメ)でも、はっきりとは分からないですね。(ウツボ)いや、はっきりしているんだ。三番目の説が正しいかどうかは、確かに分からないが、戦艦陸奥は、爆沈したということは事実ですよね。原因がないのに爆沈はしない訳ですね。爆沈が事実なら、原因の存在も間違いなく事実ですよ。必ず原因はある。今まで列挙した原因の中のどれかであることは間違いない。これははっきりしている。(カモメ)そうですね。(ウツボ)とにかく陸奥は沈んだ。陸奥爆沈の影響は大きいのですね。陸奥がいなくなって、長門以下の第二戦隊の戦闘力を半減させ、戦艦そのものの使い方が作戦面で混乱を招くようになった訳だ。(カモメ)陸奥があれば戦艦群の組織的な使い方ができたのですね。太平洋戦争では当初日本の戦艦は12隻いた。陸奥爆沈の前の昭和17年11月13日、比叡が、15日、霧島が第三次ソロモン海戦で沈没しています。(ウツボ)そうだね。陸奥爆沈の翌年の昭和19年10月24日、大和の姉妹艦、武蔵がフィリピンのシブヤン海で壮烈な最期を遂げた。(カモメ)そして、10月25日、スリガオ海峡に突入した山城、扶桑は敵艦隊の集中砲火を浴び沈没した。11月21日、台湾沖を航行中の金剛が敵潜水艦の攻撃を受け沈没しました。(ウツボ)陸奥が爆沈してから1年半までにのうちに日本海軍の戦艦は6隻を失い残りの戦艦は4隻になっている。(カモメ)あとは昭和20年4月7日、沖縄特攻菊水作戦で大和が沈没。7月24日に日向が、28日に伊勢が呉港大空襲で沈没しました。(ウツボ)そして終戦の時、残っていたのは陸奥の姉妹艦、長門だけだった。その長門も昭和21年7月30日、ビキニ環礁で行われた原爆実験で標的にされた。(カモメ)そうですね。当時、同じく標的艦にされた米海軍の戦艦ネバダは原爆が爆発すると瞬時に沈んだが、長門は沈まなかったのですね。長門は実験から4日後にその姿を海中に消したということです。(ウツボ)陸奥は爆沈、長門は原爆の標的艦として沈没、日本帝国海軍において輝かしい栄光の歴史をもった、長門、陸奥の姉妹艦は、その最後はともに哀れだった。(カモメ)周防大島町では毎年6月8日に陸奥の慰霊祭を実施していますね。(ウツボ)「海市のかなた」(中央公論新社)によると、三好艦長の奥さん三好近江さんが中心となって組織した陸奥会は「軍艦陸奥五十年祭」のあった平成4年6月に解散した。(カモメ)ですが、三好近江さんと副艦長の奥さん大野靖子さんの遺族の家族を中心に多くの家族が伊保田の慰霊祭には参加していましたね。(ウツボ)そうですね。ところで、平成11年7月29日、テレビ東京の人気番組「開運!何でも鑑定団」に陸奥の舷窓が登場した。(カモメ)それはですね、「家人が昔、引き揚げ作業に携わっていた知人から譲り受けたものだ」と入手のいきさつを依頼人の女性が話していましたね。(ウツボ)うん。彼女の評価額は10万円だった。ところが鑑定団のつけた値段はその10倍の100万円だった。予想外の鑑定結果は舷窓の記念碑的な価値を評価したらしかった。(カモメ)昭和35年、新東宝で「謎の戦艦陸奥」という映画が制作されました。試写会に招かれた遺族は話の内容に唖然としたそうです。(ウツボ)それは、副長が将校倶楽部で知り合ったスパイのマダムと恋に落ち、スパイ一味の手によって陸奥に時限爆弾が仕掛けられるというストーリーであったからだね。(カモメ)ええ。遺族はとても承服できるものではなかった訳で、とりわけ戦艦陸奥の元副長夫人の大野靖子にしてみれば陸奥に名をかりた、とんでもない贋作だった。(ウツボ)出来すぎた軽いストーリーだったんだね。遺族は何度となく抗議し、全てフィクションであるという字幕を映画会社が入れることで決着した。だが大野靖子にしてみれば生涯許す事のできないものだった。(カモメ)「陸奥爆沈」(新潮社)によると、陸奥会主催の靖国神社で行われた陸奥慰霊祭で、三好艦長夫人、三好近江さんは、遺族の前でご主人のことを語ったことがあるそうです。(ウツボ)そこのところを読んでみる。「爆沈した前日、新たに扶桑艦長となられた鶴岡信道大佐が陸奥に親任の挨拶にこられ、その答礼として爆沈日に三好が扶桑に行ったそうです。鶴岡さんは三好に昼食を一緒にしようと引き止めたそうですが、三好は留守にもできぬからと陸奥にもどってあの事故にあったのです」(カモメ)続けます。「私は三好が事故にあってくれて、本当によかったと思います。もし留守中にあんな事故が起きたら三好も艦長として生きてはおられなかったでしょう。このように遺族の方々に親しくしていただけるのも、三好が事故当時陸奥にいてくれたからなのです」と淡々とした言葉で語ったと述べられています。(ウツボ)三好近江さんは平成3年12月4日早朝に自宅で永眠した。92歳だった。両手を胸に置き、眠るように息絶えていたという。(カモメ)三好近江さんのあと、陸奥会会長として五十年祭を努めた大野副長夫人の大野靖子さんは平成9年12月3日、クリスチャンになった彼女は89歳の天寿を終えました。(ウツボ)今はそれぞれ天国で三好艦長、大野副長と一緒だね。(「陸奥爆沈」は今回で終わりです。次回からは「シンガポール陥落」が始ります)
2007.07.20
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(ウツボ)珊瑚海海戦で苦闘して勝利を得た第五航空戦隊司令官・原忠一少将は、東京に帰ってきたとき、海軍省の廊下で、事情を聞きたそうにする顔見知りの士官に会うと、「アメリカは強いですぞ」と自分の方から語りかけたそうだ。(カモメ)そのようですね。けれども、海軍省、連合艦隊は次のミッドウェー作戦必勝の自負を持っていた訳ですね。(ウツボ)空母も第一、第二航空戦隊の赤城、加賀、蒼龍、飛龍、の最強の四隻が出て行く。何も心配もないという雰囲気だった。(カモメ)原忠一少将と対米評価が正反対なのが軍鶏を思わせる源田実中佐でしたね。(ウツボ)源田中佐は南雲艦隊の航空参謀で、当時ときめく人物だった。とにかく源田サーカスとか気違い源田とか、いろいろ言われていた。(カモメ)戦闘機パイロット生え抜きの源田中佐は「それ行け」という時、親指と中指をいい音させて「ピチッ」と鳴らす癖があったそうです。(ウツボ)そうなんだ。ミッドウェー作戦の打ち合わせに上京するとき、「あんなもの赤ん坊の手をひねるのと同じ」大丈夫、鎧袖一触(がいしゅういっしょく)任せておいてくれと、上手に指をはじいて見せたというんだ。(カモメ)かなりの自信家ですよね。源田実は戦後航空自衛隊に入隊し空将にまで昇進し第三代の航空幕僚長になっていますね。(ウツボ)空将になっても自分でジェット戦闘機を操縦していたとか逸話も多い人だ。(カモメ)そのあとは参議院議員ですね。議員仲間からは閣下と呼ばれていた。(ウツボ)話を戻そう。珊瑚海海戦の後、第四艦隊幕僚の顔ぶれが大分変わった。(カモメ)そうですね。機関参謀井上武治少佐のあと山上実少佐が着任しました。山下少佐は東京を発つとき、上司、同僚から四艦隊の悪口をさんざん吹き込まれた。(ウツボ)そうだね。「貴様、とんでもない長官のところへ行くことになったな」そういって同情してくれるクラスメイトもあった。(カモメ)しかし実際に接してみると、井上中将の感じは噂と違っていた。矢野志加三参謀長はじめスタッフの雰囲気も、激戦を指導してきたあととは思えぬ落ち着いたものであったと記されています。(ウツボ)それで山下少佐は不思議に感じ、「東京でずいぶん評判が悪いが」と、離任する一期先輩の井上武治少佐に見解を質したのだね。(カモメ)そうですね。すると井上少佐は次のように答えたのですね。「そりゃ、実情を知らない人の批判だ。司令部の頭には常に燃料の問題がこびりついている上、機動戦はサッと行ってサッと引き揚げるもの。欲を出して同じことを二度やっちゃいかんというのが長官のお考えだから、あのような経過をたどるのも止むを得ないと思う」と。(ウツボ)井上少佐の答えを続けて読んでみる。「それに五航戦の北上にしてもどっちが先に決断したか分からない。自分が命令を出したと責任をすべて引っかぶって知らん顔をしておられる節があるし、井上さんが部下に冷たいなどと言うのも、事実と全然違う。人によってはあんな思いやりの深い長官はいないと言ってるよ。下の者の機嫌取りをされないだけのことじゃないだろうか」ときっぱり言ったのだね。(カモメ)四艦隊で直に井上中将と接した参謀の言だから重みがありますね。(ウツボ)それもあるでしょうが、やはり四艦隊には四艦隊の言い分がある訳だね。しかし井上長官という人は言い訳を一切しない人だから、部下が代弁した。(カモメ)「あの戦争~太平洋戦争全記録上」(産経新聞社編・集英社)によると、珊瑚海海戦について大本営は5月8日、「空母サラトガ、ヨークタウン、戦艦カリフォルニアを轟撃沈、英戦艦一、重巡一大破」とかなりオーバーな戦果を発表しました。(ウツボ)まさに大本営発表だね。空母は実際はサラトガの同型艦「レキシトン」だったけどね。(カモメ)珊瑚海海戦の空母についての結果は、米側、空母レキシントン沈没、ヨークタウン大破。日本側は小型空母祥鳳沈没、翔鶴大破でしたね。(ウツボ)この史上初の空母対空母決戦は、戦術的には日本の勝利であると世界の戦史家は評価している。だがこの戦いにより日本側はポートモレスビー攻略(MO攻略作戦)を断念、やがて、米軍のガダルカナルへの反撃につながっていったことから、戦略的には米軍の成功であると評されている。(カモメ)そうですね。なお、「図解雑学太平洋戦争」(ナツメ社)によると、珊瑚海海戦における日本軍の損害は、撃沈が空母祥鳳、中破が空母翔鶴、損失航空機が約100機、戦死約900名と記されています。(ウツボ)そうだね。一方米軍の損害は、撃沈が空母レキシントン、駆逐艦(シムス)1隻、タンカー(ネオショー)1隻、中破が空母ヨークタウン、損失航空機が約70機、戦死約540名と記されている。(カモメ)結果は、艦船は米軍が日本側より多く沈みましたが、損失航空機と戦死者は日本側の方が多かった訳ですね。(「珊瑚海海戦」は今回で終わりです。次回からは「永田軍務局長惨殺」が始まります。)
2007.12.14
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(カモメ)「雑学・太平洋戦争の真実」(日東書院)によると、マッカーサーは当初、日本への本土上陸作戦を強力に主張していましたね。(ウツボ)うん。だが、米国統合参謀本部は、マッカーサーの主張を認めなかった訳だ。統合参謀本部の計画としては、強力な空襲により日本の抗戦力と国民の戦意の低下をはかり、その後、降伏に追い込むことを画策していた。だが、それと並行して、本土上陸作戦も一応検討はしていたんだね。(カモメ)この作戦の基本構想により、米軍にとって、硫黄島は日本空襲のために必要不可欠の要衝になったということですね。それで硫黄島への攻撃を開始した。(ウツボ)ところが、栗林中将は水際作戦を許さず、米軍を上陸させて、その後、徹底的な攻撃を行う戦略をとったんだね。結果的に硫黄島の戦闘は壮絶を極め、多数の米軍を殲滅した訳だ。陸軍大学校で戦略の成績がずば抜けていたという栗林中将の本領が発揮された。(カモメ)特に日本軍の新兵器、噴進砲(有翼ロケット弾)70門は米軍のシャーマン戦車をまるごと粉砕したので、米兵を恐怖のどん底に陥れましたね。〈ウツボ)そうだね。さらに、栗林中将は全戦闘を通じて、部下に突撃を許さず、最後まで徹底抗戦を行った。だから米軍が5日で攻略の予定だった硫黄島を、日本軍は一ヶ月以上も持ちこたえた。(カモメ)神風特攻隊20機が日本本土から飛来し、硫黄島の上陸支援機動部隊の空母サラトガに3機体当たりし大破させ、護衛空を撃沈しましたね。(ウツボ)ええ、特攻機はその他複数の艦船も撃破しているね。一方、潜水艦も硫黄島に出撃して、回天特攻隊が発進したが、こちらの方は米海軍の哨戒艦船が多数いて、成果はあがらなかった。(カモメ)日本本土での空襲の被害が増大したのは、硫黄島が米軍に占領されたからです。この島の航空基地が中継点として機能しB29爆撃機の日本空襲を容易にしたからですね。(ウツボ)そうなんだよ。だから、「日本は沖縄よりもむしろ硫黄島を決戦の戦場にすべきだった」という説があるんだ。硫黄島の周辺にいる米機動部隊の空母、艦船や輸送船を日本軍の全力をあげて攻撃し殲滅し、上陸した6万人の米軍を人質にして、硫黄島を死守するというものだ。(カモメ)そうなると、日本空襲も出来ないし、有利な条件で和平の交渉が早めに開けていたかも知れないということですね。(ウツボ)その可能性はあったかも知れないね。まあこれは、理論的なものだがね。そもそも、「帝国陸軍の最後4」(角川文庫)によると、当初、日本の大本営は硫黄島を航空要塞化することを栗林中将と約束していたんだ。(カモメ)ところがその約束は反故にされた。(ウツボ)そうだ。大本営は栗林中将に対し「硫黄島は航空基地として不便なるにつきこれを中止せり」という一本の電報で片付けてしまい、約束を果たさなかったんだ。その理由は、昭和19年10月の台湾沖航空戦、レイテ決戦で、日本の陸海空軍は甚大な損害を出し、余力が尽きた。航空機がバタバタ射ち落とされたんだ。それで、硫黄島に配置する航空機の余裕は無くなった。(カモメ)このようなことから、栗林中将の不満は増大した。しかし、大本営は火砲と弾薬は出来るだけ栗林中将に送って支援するという誠意は失わなかった訳ですね。(ウツボ)まあ、そうだね。約束を反故にした埋め合わせともいえるのだがね。(カモメ)特に、その火器の中に、噴進砲があった。これはロケット砲ですね。日本の兵器部が鋭意研究をかさねて造り上げた新兵器ですね。20センチの砲筒式と40センチの桶式の二種類が成功し、はじめて硫黄島に送り込まれた訳です。(ウツボ)栗林中将は水際では抵抗せず、米軍を上陸させて殲滅すると言う作戦を採った為、大砲の砲口はことごとく海正面に向けずに、側面または斜面に向けられていた。(カモメ)2月19日、米軍は上陸を開始し、午前9時2分、上陸成功の赤い信号機が高く海岸に打ち上げられた。(ウツボ)そして「日本軍の抵抗は微弱なり」「わが艦砲射撃のため敵は痛撃されて沈黙せるものと思考さる」「わが軍は全域にわたって平均200ヤード前進せり」等々の無線が海上の本部に向かって発せられたというんだ。(カモメ)抵抗の少なさに、楽観的な内容の通信が行き来していた。(ウツボ)そう、まさに楽観ムードだった。ところが日本軍は、敵が500ヤードまで内陸に入り込むのを待っていた訳だ。日本の砲兵陣地が初めて引き金を引いたのは、上陸から2時間後の午前11時だった。(カモメ)内陸第一陣のトーチカで待ち伏せしていたのは早内政雄大尉の指揮する独立速射砲第12大隊、中村少尉の第8大隊の小隊も配下にありましたね。(ウツボ)そうだ。耐えに耐えて来たこれら砲陣の射撃はついに砲門を開いた。砲弾は米軍の兵士に集中し、その様子は「枯れ草をなぎ倒すようであった」と記録に残っている。(カモメ)「枯れ草をなぎ倒す」ですか、すごいですね。兵士だけでなく戦車や上陸用舟艇も次々に破壊されましたね。とにかくすごい集中攻撃だったらしいですね。(ウツボ)この時点ではまさに日本軍の作戦勝ちだった。(カモメ)硫黄島に従軍した、米軍の有名な従軍記者、ロバート・シャーロッドが書いた「硫黄島」(光文社)によると、このとき、負傷はしていないが、精神異常を起した米兵が多数後方に運ばれてきたと記しています。(ウツボ)ロバート・シャーロッドは他に、「タラワ」(光文社)、「サイパン」(光文社)も出版している。俺は2冊とも持っているけどね。米軍サイドの記録として、読み応えがある本だ。(カモメ)「硫黄島」(光文社)によると精神異常を起した米兵は、震えたまま何もしゃべらなかったり、硬直したり、「キーキー」と高音で叫び続けるなど、手がつけられなかったと記されています。(ウツボ)まさに地獄の戦場だった。
2007.04.20
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(ウツボ)「戦艦陸奥」(サンケイ新聞社)によると、通常、軍艦は敵艦の甲板を打ち抜いて内部で爆発する徹甲弾を搭載して海戦を行う。だが日本海軍はひそかに研究に着手し、昭和16年に三式弾を完成させた。これは対航空機用として開発されたんだね。(カモメ)そうですね。三式弾は直径2センチ、長さ10センチの焼夷弾を砲弾の中に1200個詰め込んでいるのですね。(ウツボ)うん。砲弾の先端に時限装置がついており、定められた時間に発火すると砲弾の前部がはずれ、1200個の焼夷弾がいっせいに飛び出すという仕組みになっている。(カモメ)砲弾は旋回しながら飛んでいるので、前部がはずれると放射状に焼夷弾をまきちらす訳です。(ウツボ)戦艦大和は46センチの主砲で三式弾を撃ったことがある。向かってくる敵機の編隊のやや上方に向けて発射した。(カモメ)編隊の上で爆発した三式弾はバラバラと花火のしだれ柳のように敵機に落ちかかり、1発の三式弾で5機を撃墜したといわれていますね。(ウツボ)敵の編隊のま正面に撃つ事もある。(カモメ)ソロモン群島の消耗戦が続いていた昭和17年10月、ガダルカナルのヘンダーソン基地に向けて戦艦金剛と榛名が三式弾を打ち込んだ記録も残っています。(ウツボ)そうだね。基地はまたたくまに火の海となり、ヘンダーソン飛行場にいた米軍機と施設を焼き尽くした。(カモメ)このような三式弾を戦艦陸奥も搭載していたのですね。三番、四番砲塔の砲弾440発のうち、100発がこの三式弾だったと言われています。(ウツボ)安全性は確認されていたが、しかし開発間もない新式砲弾であり、燃焼性も高いものだった。だから自然発火の可能性もあると推理された。 (カモメ)海軍は火薬の質的変化にともなう自然発火には最大限の神経を使っていましたね。 (ウツボ)そう。だが、前にも言ったが、諸外国や日本でも火薬庫の自然発火を起こした軍艦は多いのだね。(カモメ)この三式弾は、江田島の東岸にある中国火薬の屋形石分工場の構内に展示してありました。直径46センチの大和主砲用の三式弾ですね。(ウツボ)陸奥爆沈後、査問委員会はこの三式弾に注目し、嶋田繁太郎海軍大臣の命令により全ての軍艦からこの三式弾を陸揚げした。(カモメ)査問委員会の命令で三式弾の安全テストが連日行われました。高熱を加える、振動させる、圧力を上げる、考えられる全ての悪条件をテストした。しかし、三式弾が自然発火する可能性はないという結論に達した訳です。(ウツボ)8月になってM査問委員会から一通の報告書が出された。その報告書には「原因として人為的原因ではないという証拠が得られない」というものだった。(カモメ)つまり誰かが陸奥を爆発させたと言っているのですね。そこでいよいよ最後の「人為的原因」に目が向けられた。(ウツボ)第一番目に、ここで軍艦研究家の福井静夫氏の推理を紹介してみよう。彼は自然発火はないし、また、放火も実行は不可能だと結論している。(カモメ)そうですね。彼は、ただひとつ考えられるのは、次のようなものであると推理しています。陸奥は爆沈の1週間前、呉海軍工廠にドック入りしていたのですね。(ウツボ)うん。ドック入りの際は砲弾や火薬類は全部陸揚げされる。(カモメ)ですから、火薬類は厳重に保管されるけれども、この陸揚げ中に誰かが時限装置を取り付けた。それが1週間後に爆発するように。(ウツボ)爆発は正午過ぎに起った。丁度昼食の休憩時であり、監視の目は通常より少ない訳だ。(カモメ)つまり、時限爆弾は正午をねらって設置されたと福井氏は推理したのですね。(ウツボ)アメリカ軍のスパイが国民の、また海軍の象徴である戦艦陸奥を爆沈させた。(ウツボ)第二番目の推理を紹介しよう。これは人為的というより過失ともいえるものだが。査問委員会は呉の海軍病院に入院している180名の乗組員を含む生存者355名全員の面接調査を実施した。(カモメ)そのとき辻野という下士官が「第三砲塔の火薬庫の温度上昇が原因であろうかと思われます」と発言した。(ウツボ)だが、火薬庫内の温度上昇については充分な検討がされていたので委員会は辻野の意見に耳を傾ける委員は誰一人いなかった。査問委員会は10月に解散した。(カモメ)戦後辻野氏は「海市のかなた」(中央公論新社)の著者青山淳平氏に手紙を送っています。(ウツボ)そうだね。辻野氏が青山淳平氏に送った手紙によると、辻野氏は爆発の数日前、辻野氏の10分隊の電路班員が居住区で同僚どうしの話を偶然立ち聞きした。(カモメ)その話の内容は「弾火薬庫の当直の番兵から、三番砲塔の火薬庫の警報機が作動して鳴ったというので、関係長に措置を仰いだところ、少し温度計の接点を上げて置くように言われ、そのようにしたが、また二度目も同じ三番砲塔の火薬庫の警報機が鳴った」とあります。(ウツボ)続きをよんでみよう。「再度指示を仰いだところ、やかましいからもう少し鳴らない様にせえ、とのことで、二回も温度計の接点を上げたが、あんなに上げて大丈夫かなあ」というものだった。(カモメ)だが、結局、警報機が鳴って接点を2回上げたにせよ、そんなことで爆発する事はありえないという専門家の見解が発表されたのですね。(ウツボ)そうだね。さていよいよ第三番目として、「人為的原因」の最後の「犯人説」に移ろう。「戦艦陸奥」(サンケイ新聞社)によると、昭和45年7月23日、陸奥の四番砲塔が引き揚げられた。(カモメ)その時、砲塔の内部から人骨、鉄帽、長靴などに混じって、印鑑が出たのですね。(ウツボ)そうだ。印鑑は2つあった。1つはKという姓が刻まれていた。もう1つは同じ姓で名前までも刻んであった。(カモメ)Kは二等兵曹で三番砲塔の要員であったと記されています。(ウツボ)Kは陸奥爆沈の直前まで盗難事件の容疑者として内偵が進められていた人物だったんだ。(カモメ)Kが放火したとしたら、なぜ遺品の印鑑が出て来たのは四番砲塔なのか。(ウツボ)放火した後Kは四番砲塔にのがれたのか。それとも遺品だけが飛んで四番砲塔に入ったのか。ここは謎だ。(カモメ)四番砲塔には数体の遺骨があったが、それがKのものかどうか特定されていない訳です。(ウツボ)次に「海市のかなた」(中央公論新社)による「犯人説」の紹介をしよう。(カモメ)査問委員会では早い段階から素行に問題があったF二曹が火薬庫に放火し、自殺を図ったおそれがあると推定していたとありますね。(ウツボ)この人物について「高松宮日記」には6月11日に杉浦矩郎大佐(軍令部第二部第三課長)の話として次の記述がある。(カモメ)読んでみましょう。「原因として考えられる以外に、四塔弾庫の下士官が最近衛兵伍長勤務中、時計を盗った。丁度八日、衛兵司令と弾庫長、兵曹長等が呉軍法会議に赴いたので、本人はこれを知っていたと思える。日本海軍のこの種の事件は人為的のかかる理由多し。考慮して調べる要あり」と記されています。(ウツボ)高松宮は当時、杉浦大佐からこのような報告を受けていた事になる。分かりやすく言えば、時計を盗んだF二曹は、衛兵司令らが呉の軍法会議に赴く事を知った。(カモメ)F二曹は自分が疑われ、衛兵司令らが呉の軍法会議に盗難の報告とF二曹の逮捕の許可をもらいに行ったと察した。(ウツボ)故郷の父母や自分の将来を思い、悲観して、爆発さして、自殺したか、または証拠隠滅を図った。現在でも、テストがいやで、学校に放火する生徒がいる。(カモメ)そうですね。塩沢委員長は潜水夫に命じて沈んだ陸奥のFがいた兵員室を捜索させた。昼食を済ませ、みんな部屋で休んでいた時間帯の事故なんですね。(ウツボ)つまり、Fも同室の他の5人と昼寝中であれば、兵員室で遺体を発見できるはずだと。(カモメ)そうです。しかし同室の5人の遺体は見つかったが、Fの遺体だけは発見できなかった。(ウツボ)それでも査問委員会はFを犯人とする証拠はどこにもなかったので、断定はしなかった。(カモメ)しなかったというより、できなかった訳ですね。次に最後に、吉村昭氏の推理に移りましょう。
2007.07.13
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【半田亘理(はんだ・わたり)中尉・13機】(カモメ)半田亘理は明治四十四年八月二十二日生まれ。福岡県久留米市出身。昭和三年、佐世保海兵団入団、艦船勤務。昭和七年十月、第一九期操縦練習生。(ウツボ)昭和八年三月操縦練習生卒業、戦闘機専修課程修了。空母「龍驤」(一一七三三トン)飛行隊配属。その後、大村航空隊配属。(カモメ)昭和十二年八月、<三菱・九六式艦上戦闘機・単葉>の操縦員として、空母「加賀」(二九五〇〇トン)飛行隊配属、上海戦線で戦う。(ウツボ)九月七日、五十嵐周正大尉の二番機として出撃。三機で艦攻隊を援護中、太湖(中国の江蘇省南部と浙江省北部の境界にある大きな湖)の上空で、<カーチス「ホーク」複葉戦闘機>七機と遭遇した。(カモメ)この空戦で、半田亘理一等航空兵曹は、<カーチス「ホーク」複葉戦闘機>を一機撃墜しました。これが半田亘理二等航空兵曹の初撃墜となりました。(ウツボ)昭和十二年九月二十日、南京第四次空襲に艦攻、艦爆援護任務で<三菱・九六式艦上戦闘機・単葉>で出撃。午後一時、南京上空で。半田亘理一等航空兵曹は<カーチス「ホーク」複葉戦闘機>三機と空戦に入り、二機を撃墜した。(カモメ)最後の一機は、半田亘理一等航空兵曹に追われて、南京西部の揚子江上流に停泊している外国艦艇の上空に逃げ込んだのです。(ウツボ)半田亘理一等航空兵曹は、外国艦艇から射撃を受けたため、追撃を中止し、撤収した。(カモメ)10月17日、韶関(しょうかん=中国山東省の都市)空襲に向かう<空技廠・B4Y・九六式艦上攻撃機・複葉>の護衛で半田亘理一等航空兵曹は他の三機とともに<三菱・九六式艦上戦闘機・単葉>で出撃しました。(ウツボ)指揮官は、新郷英城(しんごう・ひでき)中尉(佐賀・海兵五九期・第二五期飛行学生・中尉・空母「龍驤」乗組・大分航空隊分隊長・大尉・鹿屋航空隊分隊長・霞ケ浦航空隊分隊長・台南航空隊分隊長・第六航空隊飛行隊長・元山航空隊飛行隊長・空母「翔鶴」飛行隊長・少佐・築城航空隊飛行隊長・第三三一航空隊飛行隊長・第252航空隊飛行長・終戦・中佐・北海道庁警察部・農協主事・航空自衛隊入隊・二等空佐・一等空佐・空将補・第二航空団司令・航空総隊司令部幕僚長・航空幕僚監部監察官・北部航空方面隊司令官・空将・航空自衛隊幹部学校長・退官・勲三等瑞宝章・昭和五十七年十一月二十七日死去・享年七十一歳・従四位)だった。(カモメ)韶関手前の上空で迎撃に上がった中国空軍の<カーチス「ホーク」複葉戦闘機>五機と空戦になり、日本側は敵機四機を撃墜、半田亘理一等航空兵曹はそのうちの一機を撃墜しました。(ウツボ)昭和十三年六月、半田亘理一等航空兵曹は、第一五航空隊に転属した。(カモメ)七月十八日、南昌空襲に艦戦隊の第三小隊一番機として半田亘理一等航空兵曹は、<三菱・九六式艦上戦闘機・単葉>で出撃しました。(ウツボ)艦戦隊の指揮官は、南郷茂章(なんごう・もちふみ)大尉(広島・海兵五五期・第二二期飛行学生・空母「赤城」乗組・大尉・英国大使館附武官補佐官・横須賀海軍航空隊分隊長・大分海軍航空隊分隊長・第一三航空隊分隊長・空母「蒼龍」飛行隊長・第一五航空隊飛行隊長・昭和十三年七月十八日鄱陽湖上空で戦死・享年三十二歳・少佐・撃墜数八機)だった。(カモメ)南昌の青雲譜飛行場南方五キロで、迎撃に上がって来たソ連空軍志願隊の<ポリカルポフ「I-15」複葉戦闘機>と<ポリカルポフ「I-16」単葉戦闘機>六機と、中国空軍の<グロスター「グラディエーター」複葉戦闘機>編隊と空戦になったのですね。(ウツボ)そうだね。この空戦で、半田亘理一等航空兵曹は、<ポリカルポフ「I-15」複葉戦闘機>二機(うち不確実一機)を撃墜した。(カモメ)なお、この空戦で、指揮官・南郷茂章大尉は、<ポリカルポフ「I-15」複葉戦闘機>一機を撃墜しました。ところが、南郷茂章大尉は、墜落する敵機と衝突して戦死したのです。(ウツボ)昭和十三年十一月、内地に帰還。この時点で、半田亘理一等航空兵曹は、一五機を撃墜していたが、公認は六機だった。
2019.11.08
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(ウツボ)「サイパン肉弾戦」(光人社NF文庫)によると、「あ号作戦」は6月19日から開始されたが、海軍の第一機動艦隊の艦載機430機のうち315機を失い、旗艦の空母「大鳳」と「翔鶴」が沈没した。(カモメ)司令長官・小沢治三郎中将のアウトレンジ攻撃法は失敗に終わりましたね。その後も攻撃を繰り返しましたが、結局「あ号作戦」は崩壊しました。(ウツボ)そうだね。その頃、サイパンの陸軍部隊は連日の敵の攻撃と何百機という米軍航空機の空襲に悩まされていた。(カモメ)ある日の夕刻、友軍機が一機現われ、西海岸の米軍の泊地付近を攻撃しているのが目撃されたのです。(ウツボ)「日本軍の飛行機に間違いない。友軍機はまだ健在だった」と参謀の平櫛孝少佐は思って涙が出るほど嬉しかったという。(カモメ)たった一機の飛行機を見て涙ぐんだとは。第四十三師団司令部ではマリアナ沖海戦の惨敗の結果など知らされていなかったのですね。(ウツボ)そうだよ。だから平櫛孝少佐は「マリアナ沖の海戦に大勝利した日本の海軍機が余勢をかって、サイパン奪回の作戦の初動をはじめたのだろうか」などと楽観的な観測をしていたというんだ。(カモメ)平櫛孝少佐がそのように思っていても、タバコの火をつけても、その火をねらって米軍が撃ってくるのはいつもと変わらなかったということです。(ウツボ)米軍の攻撃はものすごかった。遂に師団司令部はタッポーチョー山東側まで後退するよう軍命令が発せられた。(カモメ)平櫛少佐も後退しました。負傷していたので血のにじんだ三角巾を頭に巻き、片足を引きながら当番兵の肩に捕まって崖を登っていきました。(ウツボ)途中、同じく激戦のあとガラパン方面からさがって来た島民と兵士の一群と合流した。指揮官を失った兵士たちは、ぼろぼろの軍服をまとって、亡霊のようにさまよっていた。(カモメ)平櫛少佐は彼らの姿を見て背筋に冷たいものを感じたといいます。人間として極限の状態から脱出したときに錯乱状態に陥ったのだと。(ウツボ)その一群の兵士たちは、わけの分からないことを叫んで歩く者、聞くに忍びない卑猥な言葉を大声でわめく者、性器を丸出しにして歩く者もいた。(カモメ)島民の全裸の女性が戦場をさ迷い歩いていたそうです。通常では考えられないこれらの痛ましい姿に、平櫛少佐は敗戦のみじめさを様々と感じた、と記しています。(ウツボ)6月25日、第四十三師団司令部は、軍司令部のいるタッポーチョ山南部の洞窟に着いた。自然洞窟に工事を加えて構築した相当大きな洞窟だった。(カモメ)洞窟は、第三十一軍司令部、海軍の中部太平洋艦隊司令部の南雲忠一司令官や参謀、要員などで一杯でした。そこに第四十三師団司令部が割り込んで入ることになったのです。(ウツボ)発電機による裸電球に照らされた司令部の洞窟の中に入ると、奥深いところに、目だけギョロッとした中部太平洋艦隊司令官・南雲忠一海軍中将がいた。第三十一軍参謀長、井桁敬治少将も狭苦しそうにあぐらをかいていたそうだ。(カモメ)第四十三師団長・斉藤義次中将は入口から雑魚寝をしている参謀たちを踏み越え、第四十三師団参謀長・鈴木卓爾大佐と共に南雲中将と井桁少将の間に割り込みました。(ウツボ)平櫛少佐は早速仕事にとりかかった。岡野喜佐少佐(陸士四十期)が、平櫛少佐のやるべき仕事を手伝ってくれた。(カモメ)岡野少佐は本土の工兵学校から派遣されて、中部太平洋各地で築城指導を中、サイパンで米軍上陸に遭遇し、内地に帰れなくなり、サイパンに留まっていたのですね。(ウツボ)不運といえば不運だった。サイパンにはこういう人がほかにも多数いた。岡野少佐は、そのまま四十三師団参謀に任命されたんだ。(カモメ)やがて岡野少佐は複廊陣地構築のために出て行くことになりました。一人の兵、一本のスコップから集めて指導しなければならないので、大変な仕事だった。(ウツボ)平櫛少佐は、出かけるときに、岡野少佐に新品の参謀肩章を渡しその肩に着けてやった。その参謀肩章は平櫛少佐が最後の時にと思って、とっておいたものだった。(カモメ)そうですね。金色に輝く参謀肩章を着けた岡野少佐はいかにも嬉しそうに「ありがとう」と白い歯を見せて出発していったそうです。その後、岡野少佐はサイパンで戦死しました。(ウツボ)「我ら降伏せず」(立風書房)によると米軍は南部から北上しチャッチャ、ガラバンを結ぶ線まで進攻してきた。すでに全島の半分くらい敵の手に落ちていた。(カモメ)そのような状況の中で、混乱に乗じてスパイが暗躍し始めました。主に原住民のカナカ、チャムロ族に多かったが、中には日本の若い女性までスパイになっていたそうですね。(ウツボ)そうだね。彼らは、昼は洞窟に潜んで、夜になると指揮官を狙って拳銃で狙撃し、姿を消してしまうので手がつけられなかった。(カモメ)みんなが頼りにしていた水源地にも毒薬が投入されたそうです。兵や住民が血を吐き苦悶しながら死んでいったそうです。(ウツボ)また、ジャングルで攻撃準備をしている部隊に不思議なくらいに正確に艦砲の猛撃を受け、全滅する悲劇まで起きた。(カモメ)スパイが部隊の位置を米軍に知らせていたと記されています。
2008.11.14
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【四五期首席・牧達夫大佐(陸士三六)】(カモメ)次は、四五期首席の牧達夫(まき・たつお)大佐ですね。陸軍大学校四五期は昭和五年十二月十二日入学、昭和八年十一月二十九日卒業。入学者数五十一名。卒業者数四十九名。藤井滝人少将、於田秋光大佐、桜井敬三大佐、島貫武知大佐、榊原主計大佐、杉山茂大佐、山本林吾中佐などがいますね。(ウツボ)牧達夫大佐は明治三十四年十一月二十七日生まれ。石川県出身。中央陸軍幼年学校予科、陸軍士官学校予科を経て大正十三年七月十八日陸軍士官学校卒業(三六期)、十月砲兵少尉、下関重砲連隊附。昭和二年十月砲兵中尉。昭和八年十一月陸軍大学校卒業(四五期首席・砲兵大尉)。野戦重砲兵第八連隊中隊長。(カモメ)昭和九年十二月陸軍省軍務局附。昭和十年十二月陸軍省軍務局員。昭和十二年八月ドイツ国大使館附武官補佐官。昭和十三年三月砲兵少佐、九月チェコスロバキア公使館附。(ウツボ)昭和十四年一月陸軍大学校教官、十二月陸軍省軍務局課員。昭和十五年八月砲兵中佐。昭和十六年九月台湾軍参謀、十一月第一四軍作戦主任参謀、フィリピン作戦。(カモメ)第一四軍作戦主任参謀・牧達夫中佐はフィリピン作戦の立案を行い、フィリピン作戦のバターン半島攻略戦に臨んだのですね。(ウツボ)そうだね。牧達夫中佐の上司は、第一四参謀長・前田正実(まえだ・まさみ)中将(岐阜・陸士二五・陸軍砲工学校高等科恩賜・陸大三四・陸相秘書官・工兵大佐・第三軍参謀・少将・上海特務機関長・第一三軍参謀長・中将・第一四軍参謀長・予備役)だった。(カモメ)フィリピン作戦時、前田中将に同調して牧中佐はバターン半島攻撃の一時中止を主張したのです。このため、前田中将は予備役にされ、牧中佐は南方軍総司令部により作戦主任参謀を罷免されました。(ウツボ)この事件について、四八師団長・土橋勇逸中将の昭和十七年一月一日の「土橋日記」に、マニラ市への一番乗りなどよりも、バターン半島へ米比軍を逃した第一四軍の処置を不満とした内容の記述が見られる。(カモメ)一月一日の「土橋日記」には第一四軍から派遣されて来た軍の作戦主任参謀・牧達夫中佐とのやり取りが次の様に克明に描かれています。(ウツボ)読んでみよう。「十七時ごろ、牧軍参謀来たり、一六師団と同時入城せしめたいから、師団のマニラ入城を待つようにという軍司令官(本間雅晴中将)の意図を伝えた。一番乗りなど別に眼中にないから快諾した。が自由に前進を許していたら、師団はこの正月にマニラに入城できたのであった」(カモメ)「私は牧参謀に対し、あれほど度々意見を具申したのに、軍が一顧も与えなかったため、遂に敵をバターンに逃がしたではないか、となじったところ、牧君は『いや閣下、ご心配は無用です。バターンに逃げ込んでも永く抵抗などできません。全く袋のねずみ同様に、わけなく潰せます』と答えた」(ウツボ)「私は『君は陸大の優等生でありながら、妙なことを言うね。あるいは袋のねずみでわけなくたたけるかもしれぬが、戦術というものは機会を求めて殲滅を図るべきではないか。パンパンガ河の東でたたき得る絶好の機会があるのを、何の処置もせず、みすみす逃しておいて、いや、バターンでやりますからとは何事だ』と大渇した。隣室に集まっていた新聞記者連中が驚いたそうである」。(カモメ)土橋中将は翌一月二日にも、第十四軍参謀長・前田正実中将に対しても同じような苦言を呈していますね。(ウツボ)牧達夫中佐は、第一四軍作戦主任参謀を罷免され、昭和十七年二月第一四軍政部附となり、その後、昭和十八年一月陸軍大学校教官に就任した。昭和十九年三月砲兵大佐、七月第四軍参謀。昭和二十年八月ソ連軍の満州侵攻で捕虜になりシベリア抑留。昭和三十一年十二月復員。【四六期首席・細田熙大佐(陸士三九)】(カモメ)次は、四六期首席の細田熙(ほそだ・ひろし)大佐ですね。陸軍大学校四六期は昭和六年十二月十二日入学、昭和九年十一月二十九日卒業。入学者数五十名。卒業者数五十一名。赤松貞雄大佐、井戸田勇大佐、大坂順次大佐、高崎正男大佐、林三郎大佐、岡村愛一大佐などがいます。(ウツボ)細田熙大佐は昭和二年七月十九日陸軍士官学校卒業(三九期)、十月二十五日少尉。陸軍士官学校の同期生には、高山信武大佐、松田武大佐、草地貞吾大佐、大橋武夫中佐らがいる。昭和九年十一月陸軍大学校卒業(四六期首席・歩兵中尉)。ドイツ駐在。(カモメ)昭和十五年十二月ドイツ視察団(団長・山下奉文中将)の随員(中佐)。最終軍歴は参謀本部作戦課員・参謀(大佐)ですね。(ウツボ)昭和二十四年七月七日、GHQ(連合軍最高司令官司令部)に対して、細田大佐が陳述を行った。細田大佐は、昭和二十年一月二十日策定「帝国陸軍作戦計画大綱」の立案並びに海軍側との折衝に当たっている。
2014.12.19
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(カモメ)戦艦霧島と戦艦サウスダコタは一万メートルの距離から、撃ち合いました。霧島の砲撃は正確でしたね。最初の一斉射撃で、戦艦サウスダコタは多数の命中弾を受け上部構造が破壊されたのです。(ウツボ)そうだね。ところが、この砲撃戦の途中から、戦艦ワシントンが戦艦霧島に照準を合わせて四十センチ砲を撃ちまくった。霧島は戦艦二艦を相手に反撃することになった。(カモメ)その結果、ワシントンの主砲弾九発が霧島に命中し、霧島は電信室全滅、前部主砲塔全滅の損害を受けました。だが、霧島もワシントンに命中弾を与えましたね。(ウツボ)戦艦同士の砲撃戦は想像を絶する、すごさだった。霧島の砲火が弱まるや、ワシントンの四十センチ砲は、霧島の主砲八門のうち、七門までを一挙に粉砕してしまった。(カモメ)さらに戦艦霧島は多数の命中弾を受け、火災を起こし、比叡と同じように、舵も砲弾の破片で破損し、航行不能になったのです。火災で火薬庫が爆発する危険が迫ってきました。(ウツボ)そうだね。そこで艦長の岩淵三次大佐(海兵四三)は、キングストン弁を開き、総員退去を命じた。戦艦霧島は昭和十七年十一月十五日午前一時二十五分、サヴォ島西方七・五浬の地点で沈没した。艦長以下千百二十八名が駆逐艦に救助されたが、二百十二名は艦とともに沈んだ。(カモメ)アメリカ艦隊の駆逐艦四隻は日本艦隊の正確な命中弾でほぼ壊滅し、残りの一隻、戦艦ワシントンだけが奮戦していたが、やがて、離脱しましたね。(ウツボ)十一月十四日午後十一時三十四分、近藤中将は、ガダルカナル島砲撃作戦の中止を決定し、隷下艦艇に通報した。(カモメ)この第三次ソロモン海戦の二次戦では、日本側は戦艦霧島と駆逐艦綾波が沈没しました。アメリカ軍は戦艦サウスダコタが中破し、駆逐艦四隻が沈没しました。(ウツボ)この第三次ソロモン海戦全体では、アメリカ側は多数の巡洋艦と駆逐艦を失ったが、戦艦二隻は沈没を免れた。日本側は戦艦の比叡と霧島を失い、打撃を受けた。(カモメ)さらに、近藤中将はガダルカナル島の飛行場砲撃を断念したので、戦艦ワシントンに坐乗していた、アメリカ艦隊の指揮官ウィリアム・リー少将の面目は立ち、戦略的勝利を得たと言えますね。(ウツボ)第三次ソロモン海戦全体では、日本海軍では、戦艦比叡、霧島、重巡洋艦衣笠、駆逐艦暁、夕立、綾波が沈没した。(カモメ)アメリカ海軍では、軽巡洋艦アトランタ、ジュノー、ヘレナ、駆逐艦バートン、カッシング、ラッフィ、モンセン、ベナム、ブレストン、ウォークが沈没しましたね。(ウツボ)これは出撃してきたアメリカ艦隊のほとんどが撃沈されたことになる。(カモメ)ですが、日本海軍も、この第三次ソロモン海戦で、戦艦比叡に加えて、さらに戦艦霧島も失いました。二隻の高速戦艦を失った訳です。開戦以来、初めて戦艦を、しかも二隻も失った損失は大きかったのです。(ウツボ)第三次ソロモン海戦を終えた、第十一戦隊は、十一月十八日の朝、トラック島に帰港してきた。阿部司令官の坐乗する駆逐艦雪風を先頭に、照月、朝雲ら総数五隻の駆逐艦の小艦艇が入港してきた。(カモメ)十日前の十一月九日には、戦艦比叡、霧島、を中心に、威風堂々と陣形を組んで出港して行った第十一戦隊の威容はどこにもなかったのでう。各艦はどの艦も敵の砲撃で、被弾し、傷だらけでした。(ウツボ)これを迎える戦艦大和の艦上には、山本司令長官と宇垣参謀長の姿はなかった。連合艦隊司令部の幕僚十数人が、並んで出迎えただけだった。(カモメ)宇垣参謀長は日記「戦藻録」にこのときの状況を次の様に記しています。(ウツボ)読んでみよう。「早朝、戦傷の駆逐艦入港、第十一戦隊の比叡、霧島を欠くは心寂しき限りなり。(略)〇八〇〇第十一戦隊司令官阿部弘毅中将、顎下に弾片負傷の姿にて来訪。隷下の二艦を失いたるに対し、悲痛な報告あり。乗艦を喪うて帰る将士の心情まさに同一なりとす。ことに比叡の処分問題にもっとも心痛し、『かかることなれば、一思いに、比叡にて戦死すればよかった』と思えりと述懐せり。心中推察するにあまりあるものなり」(カモメ)西田が悲劇の艦長なら、阿部中将は不運の提督と言えるかも知れないですね。(ウツボ)西田艦長が戦艦大和を訪ねたのは、阿部中将が訪ねた翌日だった。「君に大和に来てもらうつもりだ」と次期大和艦長の椅子をほのめかした山本五十六連合艦隊司令長官が、どのような顔をして西田艦長を迎えたのか、戦前も戦後も西田艦長は一切語っていない。(カモメ)だが、連合艦隊司令部の参謀達は西田に冷ややかでしたね。「大和艦長という餌食に魅せられ、比叡で死ねなかったのだ」と暴言にも等しい陰口をたたいた参謀もいたといわれています。(ウツボ)西田艦長の大和来訪について、宇垣参謀長の「戦藻録」には次の様に記している。(カモメ)読んでみます。「比叡艦長西田正雄大佐、午後来艦す。声涙その苦衷を報告す。余輩極力慰撫につとむ。毎回のことながら、語る人聞く人ともに、これぐらい辛きものはあらざるべし海軍指揮官として、最大の苦悩たるものなり」(ウツボ)幕僚達の風当たりは強かったが、ひとり宇垣参謀長のみは、西田に同情的であり、武人らしい思いやりを寄せている。(カモメ)この第三次ソロモン海戦後、ガダルカナル島周辺の制空権、制海権は連合国軍の手中に帰し、ガダルカナル島の日本陸軍は孤立状態になったのですね。(ウツボ)そうだね。昭和十七年十二月三十一日、日本の大本営は、ガダルカナル島撤退を決定した。(カモメ)昭和十八年一月二日には、ニューギニア・ブナの日本軍が玉砕しました。(ウツボ)二月一日から七日にかけて、ガダルカナル島から約一万三千名の陸軍(一部海軍)を駆逐艦で撤退させた。ガダルカナル島での戦病死者は約二万二千名だった。(カモメ)四月十八日、連合艦隊司令長官・山本五十六大将が、ソロモン諸島最北西のブーゲンビル島上空で、アメリカ陸軍機に待ち伏せされ、戦死しました。(ウツボ)六月三十日、連合軍は、中部ソロモンのレンドバ島と、ニューギニアのナッソウ湾に同時上陸を行った。日本軍の南東方面防衛線に対する連合軍の本格的な攻撃が始まった。(カモメ)この流れを見ると、ソロモン海戦を含むガダルカナルの戦いは、太平洋戦争の天王山でしたね。(ウツボ)そうだろうね。米内光政海軍大将も、ガダルカナル戦での撤退直後、「もはや戦争もこれまでだと思った」と述べている。永野修身元帥も「攻勢から守勢に移った戦局転換期」と記している。(カモメ)山本五十六連合艦隊司令長官も、このソロモン上空で失いましたね。ソロモンの戦いは日本にとって大きな痛手となりましたね。(ウツボ)本当に、そうだね。だから、現代の我々にとっても、「ソロモン」という言葉自体が、なんというか、重い感じがするのは、きっと無意識に痛手をこうむった歴史の重みを感じさせるのではないだろうか。(今回で「ソロモン海戦」は終わりです。次回からは「宮城事件」が始まります)
2010.06.11
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(ウツボ)元戦史編さん官・近藤新治氏は、「戦史叢書」刊行完結三十周年記念で、次のように述べている。(カモメ)読んでみます。「戦争が終わった時、私は稲毛地区に待機する戦車師団の中隊長であった。そしてその年の暮には、復員局残務整理部で毎日死亡広報の整理をしながら、『米国の対日戦史調査に協力』という任務を命ぜられていた。毎日任務につきながら思うことは、『全身全霊を打ち込んでいた戦争になぜ負けたのか、その原因は何だったのか』ということであった」(ウツボ)「何としてもそれを解明したいと思い、元の連隊長のところに相談に行った。連隊長はしばらく考えた後、『その問題に答えられる人が一人だけいる。原四朗を紹介しよう。今復員省で資料整理課長という名目で、戦史資料を集めているからちょうどいいだろう』と言われた」(カモメ)「連隊長の紹介状を手に恐る恐る原さんを訪ねた。それから毎月一回原さんを訪ね、民間人の趣味的研究からプロの戦史研究家になるまで、その道筋を示して導いていただいた」。(ウツボ)昭和四十五年、原四朗は、陸上自衛隊幹部学校での講演で、次のように述べている(一部抜粋)。(カモメ)読んでみます。「……敵がきたときに、かねて勉強しておいた戦略戦術、用兵、習い覚えた技術によって、うまくこれに勝とうなんて考えても、それは愚かなことである。諸君は潔く戦って桜の花のごとく綺麗に散ればよい。それが自衛官、否、軍人の本質であります。統帥の道は、このように自衛官の本質を理解し、それを部下に理解させることであると思います」。(ウツボ)「沈黙のファイル」(共同通信社社会部編・新潮社)の中で、原四朗は、瀬島龍三について、「瀬島はじっくり腰を据えて天下の情勢分析し、大局を判断させたら日本一である」と述べている。原四朗は昭和六十四年二月十五日死去。享年八十一歳。【五三期首席・高木作之中佐(陸士四五)】(カモメ)次は、五三期首席の高木作之(たかぎ・さくゆき)中佐ですね。五三期は昭和十三年六月十一日入学、昭和十五年六月十七日卒業。卒業者数四十九名。孚彦王(皇族)中佐、国武輝人中佐、橋本正勝中佐、白石通教中佐、椎崎二郎中佐、近藤進少佐、野々村美昊少佐、晴氣誠少佐、畑中健二少佐などがいますね。(ウツボ)高木作之中佐は、昭和八年七月十一日陸軍士官学校卒業(四四期)、十月二十日歩兵少尉。昭和十五年六月陸軍大学校卒業(五三期首席・航空兵大尉)。(カモメ)昭和十六年九月参謀本部第一部第二課(作戦)航空班部員(航空兵大尉)。昭和十七年四月十三日第一航空軍参謀(航空兵少佐)。(ウツボ)久納誠一(くのう・せいいち)中将(東京・陸士一八・陸大二六恩賜・フランス駐在・陸大教官・陸相秘書官・朝鮮総督秘書官・騎兵第二八連隊長・陸大教官・陸軍騎兵学校教官・第八師団参謀長・少将・騎兵第四旅団長・第二二軍司令官)の娘と結婚した。(カモメ)昭和十八年七月第四航空軍参謀(施設)。最終軍歴は第一航空軍参謀(中佐)。戦後、復員省史実部勤務。(ウツボ)「軍事史学」100号記念特集号掲載のため、高木作之・元陸軍中佐は、平成二年六月二日青山学院大学で開戦回顧談を、杉田一次・元陸軍大佐、中原茂敏・元陸軍大佐、寺崎隆治・元陸軍大佐、大井篤・元海軍大佐、扇一登・元海軍中佐らと行っている。【五四期首席・益田兼利少佐(陸士四六)】(カモメ)次は、五四期首席の益田兼利(ました・かねとし)少佐ですね。五四期は昭和十三年十二月二十七日入学、昭和十六年七月三十一日卒業。卒業者数七十三名。李グウ公(皇族)・大佐、板垣徹中佐、汾陽光文中佐、佐野常光中佐、日隅良少佐、平野斗作少佐などがいる。(ウツボ)益田兼利少佐は、大正二年九月十七日生まれ。熊本県出身。昭和九年六月陸軍士官学校卒業(四六期)、十月歩兵少尉、歩兵第二一連隊附。昭和十二年陸軍士官学校教官(中尉)。昭和十三年大尉。昭和十六年七月陸軍大学校卒業(五四期首席・歩兵大尉)、参謀本部附。(カモメ)昭和十七年少佐。昭和十九年三月第一一軍参謀(作戦主任)、十一月大本営作戦班参謀。昭和二十年八月軍務局課員、終戦。(ウツボ)昭和二十七年七月警察予備隊久里浜駐屯部隊に入隊(二等保安正)。その後、陸上幕僚監部募集課長、東京地方連絡部長等を歴任。(カモメ)昭和三十九年三月陸上自衛隊北部方面総監部幕僚長(陸将補)。昭和四十年七月第二師団長。昭和四十一年一月陸将、六月陸上幕僚監部第五部長(教育訓練)。昭和四十三年三月陸上幕僚副長。昭和四十四年六月東部方面総監。(ウツボ)昭和四十五年十一月二十五日、ノーベル賞候補作家、三島由紀夫が、日本刀を携帯し、楯の会会員四名と陸上自衛隊東部方面総監部を訪ね、益田兼利総監を監禁し、バルコニーから、集まった自衛隊員に自衛隊の蹶起を呼びかけたが果たさず、午後零時十五分割腹自決した。三島事件だね。(カモメ)益田兼利陸将は、昭和四十五年十二月二十二日、三島事件(三島由紀夫乱入事件)の責を取り辞任しました。昭和四十八年七月二十四日死去。享年六十歳でした。(ウツボ)ちなみに、益田兼利氏の子息に元綜合警備保障株式会社取締役社長で元陸上自衛官の益田兼弘(ました・かねひろ・熊本・防衛大学校九期・陸上自衛隊入隊・第一特科連隊長・陸幕人事計画課長・陸将補・東部方面総監部幕僚副長・陸幕装備部長・陸将・第二師団長・東部方面総監・退官・綜合警備保障株式会社顧問・同社取締役・同社常務・同社代表取締役社長・瑞宝中綬章)も父と同じ第二師団長、東部方面総監を歴任している。
2015.01.09
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(カモメ)昭和十七年二月、この近藤少佐の作戦計画により、陸軍の落下傘部隊は、パレンバンを攻撃、作戦は成功し、石油基地を占領、確保しました。後にこの作戦は「空の神兵」という映画にもなったのですね。(ウツボ)そうだね。ちなみに、宮崎県の川南町には「落下傘部隊発祥の地」という案内看板がある。川南町に日本で初めて陸軍の正式な落下傘部隊を設置したのも近藤少佐といわれている。(カモメ)昭和二十年一月八日近藤中佐は中国の海南島で戦死しました。戦死後大佐に昇進しました。享年三十六歳の若さでした。(ウツボ)参謀本部作戦課課員・近藤中佐は、ベトナムにいた阿南惟幾陸軍大将を陸軍大臣にするため、内地に呼び戻す命令を受け、航空機で向かった。(カモメ)当時暗号無線は米軍に解読されていたので、「阿南惟幾陸軍大将が輸送機に乗っている」と米軍に伝わっているはずだったのですね。(ウツボ)そうだね。そこで、近藤中佐は阿南大将を自分の乗ってきた航空機に乗せ、自分はおとりとなって、輸送機に乗ったのだが、戦死した。近藤中佐搭乗のの航空機は、レイテ上空で撃墜されたのだ。(カモメ)「子煩悩な父でした。逆立ちで座敷を一周してみせてくれたこともあります」と娘の市村悠紀子さんは述べています。悠紀子さんの夫は、京都大学名誉教授で経済学者の市村真一氏です。【五一期首席・瀬島龍三中佐(陸士四四)】(ウツボ)次は、五一期首席の瀬島龍三(せじま・りゅうぞう)中佐だね。。五一期は昭和十一年十二月十四日入学、昭和十三年十二月八日卒業。卒業者数五十一名。李鍵公(王族)・中佐、岩越紳六中佐、梅沢治雄中佐、越次一雄中佐、竹下正彦中佐、宮崎舜一中佐、尾関正爾中佐などがいる。(カモメ)瀬島龍三中佐は、あまりに有名なので、簡略に留めておくことにします。明治四十四年十二月九日生まれ。富山県出身。農家の三男。東京陸軍幼年学校を経て、昭和七年七月十一日陸軍士官学校卒業(四四期・次席)、十月二十五日歩兵少尉。昭和十三年十二月陸軍大学校卒業(五一期首席・歩兵大尉)。(ウツボ)昭和十四年一月第四師団参謀、五月第五軍参謀、十一月参謀本部部員、十二月兼大本営暖房。昭和十六年十月少佐。昭和十九年八月兼軍令部部員。(カモメ)昭和二十年二月兼連合艦隊参謀、三月一日中佐、七月一日関東軍参謀。八月十五日終戦、ソ連軍の捕虜となりシベリア抑留。(ウツボ)昭和二十一年九月東京裁判の証人として一時帰国。昭和三十一年シベリア抑留から帰国。自衛隊入隊の勧誘を受けたが、昭和三十三年民間企業の伊藤忠商事に入社。昭和三十六年業務部長。(カモメ)昭和三十七年取締役業務本部長、常務。昭和四十三年専務。昭和四十七年副社長。昭和五十二年副会長。昭和五十三年会長に就任。ここまでの瀬島隆三の軌跡は、山崎豊子の小説「不毛地帯」にも描かれていますね。映画化もされました。(ウツボ)あくまでもモデルとして小説に登場しているのだね。昭和五十六年伊藤忠商事相談役。昭和五十九年勲一等瑞宝章。昭和六十二年伊藤忠商事特別顧問(~平成十二年)。(カモメ)中曽根康弘政権(昭和昭和五十七年~昭和六十二年)のブレーンとして、第二次臨時行政調査会(土光臨調)の委員。(ウツボ)生前の公職は、亜細亜大学理事長、財団法人太平洋戦争戦没者慰霊協会名誉会長、地域伝統芸能活用センター会長、日本戦略研究フォーラム会長、日本美術協会会長、全国旅行業協会理事など多数。(カモメ)平成十九年六月二十一日、妻の清子が老衰で九十歳で死去。それから三か月足らずの九月四日、瀬島龍三は老衰のため死去しました。享年九十五歳。従三位。【五二期首席・原四郎中佐(陸士四四)】(ウツボ)次は、五二期首席の原四郎(はら・しろう)中佐だね。五二期は昭和十二年十一月一日入学、昭和十四年十一月二十七日卒業。卒業者数五十二名。北白川宮永久王(皇族)・中佐、朝枝繁春中佐、天野良英中佐、新井健中佐、浦茂中佐、田中耕二中佐などがいる。(カモメ)原四郎中佐は神奈川県出身。陸軍幼年学校(首席)を経て、昭和七年七月十一日陸軍士官学校卒業(四四期首席)、十月二十五日騎兵少尉。昭和十四年十一月陸軍大学校卒業(五二期首席・騎兵大尉)。幼年学校、士官学校、陸大をいずれも首席で卒業。士官学校は瀬島龍三と同期ですね。(ウツボ)昭和十七年一月二十九日陸軍大学校研究部主事兼大本営参謀、十一月九日第八方面軍参謀。昭和二十年三月一日中佐、三月十六日大本営参謀(決号作戦主任)。(カモメ)戦後、航空自衛隊入隊。一等空佐で退官。その後、防衛庁戦史室の戦史編纂官として、「大本営陸軍部・大東亜戦争開戦経緯」を刊行しました。
2015.01.02
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【宮野善治郎(みやの・ぜんじろう)中佐■戦死・16機】(カモメ)宮野善治郎は、大正四年十二月二十九日生まれ。大阪出身。昭和十三年三月海軍兵学校六五期卒。十一月海軍少尉。(ウツボ)昭和十四年九月海軍練習航空隊飛行学生。十一月中尉。昭和十五年四月飛行学生三二期修了、大分海軍航空隊。九月大村海軍航空隊。(カモメ)昭和十六年四月第一二航空隊。九月第三航空隊分隊長。十月大尉。(ウツボ)昭和十六年十二月八日太平洋戦争開戦。宮野善治郎大尉は、第三航空隊分隊長としてフィリピンのクラークフィールドのアメリカ軍航空基地攻撃に参加、初撃墜の戦果をあげた。(カモメ)その後、第三航空隊は、東南アジア、北部オーストラリア、北太平洋アリューシャン列島と転戦しました。(ウツボ)昭和十七年三月三日、宮野大尉は、<零戦・三菱零式艦上戦闘機>編隊を指揮して、西部オーストラリアのブルーム港まで長距離の攻撃を行った。(カモメ)この攻撃で、宮野善治郎大尉の編隊は、二二機の敵機と軍事施設、車両等を破壊し敵基地に甚大な損害を与えたのですね。(ウツボ)そうだね。この空戦で宮野善治郎大尉は、<グラマンF4F「ワイルドキャット」艦上戦闘機>二機を撃墜した。(カモメ)この空戦後、宮野善治郎大尉は二機の<零戦・三菱零式艦上戦闘機>を従えて帰還中に、飛行中のオランダの<ダグラスDC-3「ダコタ」双発輸送機>一機を発見したのです。(ウツボ)この<ダグラスDC-3「ダコタ」双発輸送機>は、第一次世界大戦のロシアの撃墜王、イワン・スミルノフ元大尉(撃墜数一二機)が操縦していた。(カモメ)イワン・スミルノフ元大尉は、軍人とその家族を乗せて、ジャワのバンドンから、安全なオーストラリアに向かう途中でした。(ウツボ)宮野善治郎大尉以下三機の<零戦・三菱零式艦上戦闘機>は、繰り返し<ダグラスDC-3「ダコタ」双発輸送機>を銃撃した。(カモメ)自らも被弾したイワン・スミルノフ元大尉は、傷ついた<ダグラスDC-3「ダコタ」双発輸送機>を巧みに操縦し、遂に期待を海岸に不時着させました。(ウツボ)イワン・スミルノフ元大尉は、出発前に、封印された宝石箱を託されていたが、不時着した輸送機から、脱出する時、それを紛失してしまった。(カモメ)数年後、その中身の一部は発見されましたが、他の宝石は戻らなかったのです。(ウツボ)昭和十七年四月、宮野善治郎大尉は第六航空隊に転属、分隊長に任命された。(カモメ)その後、宮野善治郎大尉は部下とともに、空母「隼鷹」(二四一四〇トン・<零戦・三菱零式艦上戦闘機>等約五〇機搭載)に乗組み、ミッドウェイ攻撃の陽動部隊として、アリューシャン列島に向かいました。(ウツボ)六月三日、宮野善治郎大尉は、六機の<零戦・三菱零式艦上戦闘機>を指揮して、<愛知・D3A・九九式急降下爆撃機・単発>編隊を護衛して、ダッチハーバー攻撃に参加した。(カモメ)六月四日、再びダッチハーバー攻撃を行いました。攻撃終了後、帰還中に、宮野善治郎大尉の護衛隊と爆撃機編隊は、アメリカ陸軍の<カーチスP-40「ウォーホーク」戦闘機>の攻撃を受けたのです。(ウツボ)宮野善治郎大尉の護衛隊は、<カーチスP-40「ウォーホーク」戦闘機>六機を撃墜した。アメリカ側も<零戦・三菱零式艦上戦闘機>を一機と<愛知・D3A・九九式急降下爆撃機・単発>三機を撃墜したと報告している。(カモメ)空母「隼鷹」(二四一四〇トン・<零戦・三菱零式艦上戦闘機>等約五〇機搭載)は、ミッドウェイ海戦に参加しなかったので、被害を受けずに、六月二十四日、大湊港に戻りました。(ウツボ)その後、ソロモン方面における連合軍の熾烈な反攻で、日本海軍軍令部は、戦闘機と搭乗員を至急ソロモン方面へ送り込む必要に迫られました。
2019.08.30
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(カモメ)一般の会社でも同じですよね、大学を出たからといって、全員が部長や重役になれるわけでもないし。(ウツボ)それはそうだよ。会社に大きな利益をもたらす実績を上げて、さらに部下の面倒見も良く、上司にも受けが良くないと、上層部に認めてもらえないし、上級幹部への昇格は難しいだろうからね。(カモメ)逆に会社員でも出世競争に疲れてきたら、植木等の「ドント節」ではありませんが、「気楽な稼業ときたもんだ」と開き直る人もいますね。軍隊や自衛隊でも平時においては、そのようなところもあるのでしょうね。(ウツボ)う~ん、それは多少あるかも知れないが、軍人や自衛官は国防が使命で、有事には命をかけて仕事をする訳だから。訓練はそうはいかない。会社員は最終的には会社の利益追求が目的となっている。そこに命までかけて仕事はしないだろう。(カモメ)仕事に対する根本的な目的意識の違いですね。(ウツボ)そうでなければ、おかしいよ。ところで、本題に戻るけど、陸大には専科学生という制度が昭和八年に設けられた。隊務などで、陸大に入校できなかった者、また、受験に失敗した者などの中から、大尉、少佐を試験選抜により一年間入校させた。(カモメ)専科学生の一期生は十名でしたが、その後戦争の拡大とともに増員し、昭和十五年には七十名を入校させました。卒業者は、ほとんど師団クラスの参謀になりました。(ウツボ)当時は陸軍大学校の権威は光り輝いていた。士官学校、幼年学校、歩兵学校など陸軍の学校は教育総監部に属していたが、陸軍大学校だけは参謀総長の管轄下にあった。(カモメ)だけど、意外なデータもありますね。明治三十二年十一月に士官学校を卒業した第十一期生から、大正七年五月に卒業した第三十期生までを見ますと、卒業者総数は一万人以上ですね。(ウツボ)うん。一応資料では一万三千三百九名となっている。(カモメ)そのうち優等卒業生、恩賜組は一・五パーセントに当たる百八十五名です。ところが、この恩賜組のうち、四〇パーセントの七十五名が陸大に進学していないというデータがあります。(ウツボ)陸軍士官学校の恩賜組が所属部隊長の陸大受験の推薦を得られないということは考えられないから、恐らく自発的に陸大を志望しなかったのだろうね。(カモメ)そうでしょうね。さらに、この間には日清戦争、日露戦争があり、陸大は閉鎖され、恩賜組の少尉、中尉の多くは出征したためと思われます。(ウツボ)だが、隊付将校として生き甲斐を感じて、参謀の道をあえて歩まなかった者も多くいたのだろう。(カモメ)また、村井勝のように、中央幼年学校、士官学校(一五期)とも恩賜ですが、陸大へは行かず、砲工学校を首席で卒業、東大工学部へ派遣され、中将まで進級した軍人も多いですね。(ウツボ)砲工学校高等科を優等で卒業したら、東京帝国大学理学部や工学部へ員外学生として派遣し、三年間で大学卒業資格を得る道も開けていた。この技術コースに乗れば、大抵、将官になれた。(カモメ)永持源次も幼年学校、士官学校(一五期)とも恩賜の優等ですが、陸大へは行かず砲工学校高等科を優等で卒業しました。中将まで昇進し、造兵廠長官になっています。(ウツボ)「陸軍参謀」(文春文庫)によると、昭和二十年の敗戦によって、日本を亡国に陥れたのは陸軍の枢要な地位にいた陸大の卒業者達だ、と厳しい批判が出た。(カモメ)それについては、具体的には、飯村穣陸軍中将(陸士二一恩賜・陸大三三)は、その著「現代の防衛と攻略」で次の様に述べています。(ウツボ)読んでみよう。「陸大の戦術で教えたものは一言で言えば、日露戦争の経験により日本独特のものと自負した対ソ戦法の練磨であって、戦術はわずかに行われる兵棋などの対抗訓練と戦史とで教えたに過ぎない」(カモメ)続けて読みます。「しかも陸大の入試が極度に難しいので、多大の努力を傾け、おまけに三年間、猛烈に鍛えられるので、卒業すればほっとして、いわゆる過早天狗になってしまった。このことが大東亜戦争の開戦と敗戦の主因であった」と述べています。(ウツボ)飯村中将は陸大卒業以後、陸大の兵学教官、幹事、校長など七年に亘って陸大教育に携わってきた人だ。だから、この言葉には強烈な実感がある。(カモメ)日本は敗戦しました。もともと戦争指導というのは、軍人の専管事項ではありませんね。国内外の動向を透視し、それに適応する大作戦を進めつつ機をうかがうのは、政治家の本領ですね。(ウツボ)その通りだね。だが、日本では陸大出の軍人がそれを専行していた。(カモメ)そもそも昭和十八年までは専ら対ソ戦を前提としていましたからね。(ウツボ)その後だね、対米英作戦が本格的に教育され始めたのは。だから戦術も創意工夫と称する場当たり的な戦術となった。(カモメ)すべてに間に合わなかったのですね。国力も伴わない、総力戦準備もままならない。だから精神主義が鼓吹されるようになり、地に足の着いた本格的戦術教育はできなかったといわれています。
2009.04.03
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(カモメ)少し前まで暑かったのに、急に涼しくなりましたね。(ウツボ)若いカモメさんは涼しいだろうけど、俺はもう寒いよ。(カモメ)ウツボ先生、最近、俺、やる気が出なくて…何か元気になる方法を教えてください。 (ウツボ)元気になる方法ですか? 申し訳ありませんが、俺に聞かれても。俺だって、毎日やる気満々で過ごしているわけでもないのだから。(カモメ)そうですか、……人生というのは、あまり面白くありませんね。(ウツボ)おいおい、どうしました、カモメさん。何かあったのですか?(カモメ)いえ、特にないのですが。ただ、仕事をしても、遊んでいても、あまり面白くないと。(ウツボ) そうですか。……そうそう、高杉晋作の辞世の句、カモメさんも知っているでしょう。「おもしろき こともなき世に おもしろく」。あの高杉晋作でさえも、このような句を詠んでいる。みな同じだよ。(カモメ)…みな同じ、といわれても。(ウツボ)カモメさんの夢はなんですか?(カモメ)夢ですか? 特にありませんが…。(ウツボ)若いのに、ちょっと、さびしいなあ。(カモメ)でも、本当にこれといってないのですよ。(ウツボ)夢は、俺は、大概はビジョンだと思います。とすると、将来こうありたいという自分の理想の姿でしょう。理想の姿といっても難しいことではなく単純でいい、メルヘンでいい。例えば500万円のフォルクスワーゲン・ゴルフに乗って山並みハイウェーをドライブする…それは、カモメさんもあるでしょう。…ところで、可愛いあの娘とはどうなりました?(カモメ)ええっ、またその話ですか…。それはまだ、進行中で。(ウツボ)だったら、早く発展させて、自分の夢じゃなく、二人の夢を持てば。可愛いあの娘と一緒になって、白いお家にブランコのある庭…車庫にはフォルクスワーゲン。(カモメ)でも、俺、白い家やブランコのある庭は、あまり好きじゃないのですが。(ウツボ)ふんふん、好きじゃない……だったら、犬小屋のある緑のお家はどうですか。(カモメ)犬小屋のある緑のお家ですか?(ウツボ)子犬といっしょに、あの娘と戯れて、きらめく夜空の下、緑のお家のベランダに並んで二人の夢を満天の星に願う。(カモメ)子犬といっしょに、あの娘と戯れる、ですか……?? あの娘といっしょに、子犬と戯れる、ではありませんか。…でも俺、少しやる気が出てきました。ありがとうございます。(ウツボ)そうですか、それはよかった。とにかく夢は描けばいっぱいあるはずですよ。やる気が出たところで、本題に入りましょうか。(カモメ)ハイ。海軍予備生徒の話ですね。海軍予備生徒は、高級船員を養成する、高等商船学校や水産講習所の生徒に、在学中に海軍の教育を受けさせ、卒業とほぼ同時に海軍予備士官にするというシステムですね。(ウツボ)そうだね。海軍兵学校の生徒に準じた制度ともいえるね。「海軍オフイサー軍制物語」(雨倉孝之・光人社)によると、海軍予備員制度の始まりは、明治十六年末、西郷隆盛の弟、西郷従道農商務卿が川村純義海軍卿へ次の様な公文書を送ったのが事の起こりだった。(カモメ)読んでみます。「英国のマネをして、商船学校の生徒に軍事のことも少々勉強させ、有事の際には予備士官として働かせたらいかがでござろう。それについては、幾許かの教育に要する経費を支出して下さらぬか」。(ウツボ)「海軍予備士官」(坂元正信・成山堂書店)によると、海軍では有事の際、現役軍人のみでは所要の人員を確保できないため、英国の例にならい明治十七年八月、官立東京商船学校の卒業生をすべて海軍の予備員にする海軍予備員制度が制定された。(カモメ)高級船員を養成する東京商船学校の生徒を予備士官養成の機関とした。東京商船学校は後に東京高等商船学校と改称され、戦後は東京商船大学となりました。(ウツボ)さらに現在は、東京商船大学は東京水産大学と統合され、東京海洋大学となっている。(カモメ)ちなみに神戸商船大学は、神戸大学に統合され、現在、神戸大学海事科学部となっていますね。(ウツボ)そうだね。その後海軍予備員制度も、階級制度ができ、予備員の任用、進級、召集など、もろもろの規則が規定されたのは、明治三十七年六月、日露戦争のときだった。(カモメ)その法令の名は「海軍予備員条例」で、日本海軍の予備員制度が確立されたのは、このときですね。兵科は海軍予備中佐から、下は海軍予備三等兵曹まで、機関科においては予備機関少監(後の予備機関少佐)から、予備三等機関兵曹まで。(ウツボ)後に大正八年六月には、さらに内容が整備されて「海軍予備員令」と改められ、機関科にも、兵科と同様に予備機関中佐が設けられた。(カモメ)この頃、イギリス海軍では、予備員が軍艦乗組みや、掃海艇、哨戒艇で活躍していました。だが、日本では、第一次世界大戦でも日露戦争でも、予備員制度はありましたが、予備員を戦争に出すことは全くなかったのですね。(ウツボ)大正九年には官立の神戸高等商船学校が開校され、在校生は東京高等商船学校と同様に予備生徒に任命された。(カモメ)昭和二年、海軍予備大佐と、海軍予備機関大佐の最高官位がつくられました。だが、実際には昭和二十年、日本海軍が滅亡するまで、大佐にまで昇進した予備員はいなかったのです。中佐はかなりいましたが。(ウツボ)中佐にまでは、履歴による抜擢で進級できたが、大佐になるには、予備員令第二十一条に「予備中佐又ハ予備機関中佐ハ特選ニヨリ之ヲ進級セシムルコトヲ得」とあり、これはかなり高いハードルだった。(カモメ)予備員制度の大きな特徴は、召集による海軍勤務がなくても、進級し階級が上がっていくということでした。もちろん進級には各階級での実役停年が必要なことは現役軍人と同じでした。(ウツボ)召集中の勤務日数が進級の大きな要因になったが、船舶職員としての商船勤務の日数が計算され、また、商船学校の教官や水先人(パイロット)として働いた日数なども勘定される仕組みになっていた。(カモメ)だから、戦前、欧州航路や北米航路などの大きな汽船の船長には、商船学校卒業以来、全然軍艦とは無縁だったのに、いつの間にか、海軍予備少佐、海軍予備大尉の肩章をもった人がたくさんいました。機関長も同じでした。(ウツボ)昭和三年の秋、小演習にはじめて海軍予備員に演習召集が下令された。このときは二人の予備一等下士官だった。(カモメ)昭和四年からは、予備士官、予備准士官にも招集礼状が発せられました。この頃はせいぜい五、六人から十数人位でした。(ウツボ)だが、彼らを招集して軍艦に乗せ、配置につけてみると、実に仕事がよくできた。それは、商船学校の航海、運用の技術も、機関も、商船と軍艦と違うとはいえ、船に変わりはないので共通点が多く、当然といえば当然だった。(カモメ)中には「兵学校出の士官以上によくできる」と艦長からほめられる予備士官もいました。海軍演習でも予備士官たちは優秀な成績だったのです。そのせいか、その後、予備士官への召集員数は年々増えてきました。(ウツボ)昭和九年、現役海軍士官の不足を補うため、召集中の海軍予備士官を現役海軍士官に任用する途が開かれた。
2010.11.05
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(カモメ)幼年学校出身の駐イタリア大使館付武官は、酒井康中将(陸士二四恩賜・陸大三二首席)、有末精三中将(陸士二九恩賜・陸大三六恩賜)など。(ウツボ)「有末精三回顧録」(有末精三・芙蓉書房出版)によると、当時の駐在武官の待遇の様子が記されており、その華やかさが伝わってくる。(カモメ)筆者の有末精三少佐は、昭和十一年八月一日、歩兵中佐に進級と同時に、イタリア在勤帝国大使館附武官に補せられましたね。(ウツボ)そうだね。ローマに赴任した有末中佐は、イタリア陸軍主催の会合に招かれた。イタリア陸軍大臣パリアーニ将軍の大臣応接の大広間に関係者一同が集められ、大臣自ら有末中佐を紹介した。(カモメ)そのときの感想を有末は「ことに作戦部長のメンタスティ少将は、われわれ新旧武官が親しくかつてトリノ陸軍大学での主任戦術教官として教わった関係から、非常に喜んで元気付けられたのは、新しく着任した私の前途に大きな光明を与えてくれた」と述べています。(ウツボ)武官室は、エチオピア攻略後、その地方のアスマラ市の名にちなんでつけられた新市街ともいうべきアスマラ街七番地に独立した地下一階、地上三階の立派なヴィラだった。(カモメ)陸軍省外国武官掛のアンジョイ大佐を訪問したところ、有末中佐が、トリノの陸軍大学を中途退学したにもかかわらず、卒業徽章を有末中佐の勲章略綬の上に刺してくれたのです。(ウツボ)この徽章は、金色の鷲の中にイタリアの三色旗(国旗)の七宝焼をはめ込んだ金色のピンだった。(カモメ)出会うイタリア陸軍軍人は、「貴方はトリノ陸大の卒業ですか?第何期生(第五十九期生)ですか?」と、イタリア陸軍のよき理解者と判定し、何かにつけて有末中佐に便宜を与えてくれたのですね。(ウツボ)そうだね。陸軍軍人に限らず、面会した皇帝陛下、ムッソリーニ首相を始め海空軍将校、各界有識者、有威力者もその例外ではなかった。このときの嬉しさを有末は次の様に述べている。(カモメ)読んでみます。「その上、サンモウリス四等勲章ももらっていたので、いよいよ親イタリア日本武官の標識をあらわにすることができたのは、何よりも気持ちの良い思いでであった」。【陸上自衛隊・防衛駐在官】(ウツボ)それでは、次に、戦後の自衛隊の駐在武官を概略だが、見ていこう。自衛隊の駐在武官は、「防衛駐在官」が正式名称だね。(カモメ)外務省と防衛庁で平成十五年に交わされた「防衛駐在官に関する覚書」で防衛駐在官の待遇は向上したのですが、初期の防衛駐在官は大使館で肩身の狭い思いをしていたのです。(ウツボ)「いびつな日本人」(栗栖弘臣・二見書房)によると、著者の元統幕議長の栗栖弘臣氏(東大卒・陸将・陸上幕僚長)は昭和三十二年から三十六年までフランスの防衛駐在武官だったが、そのときの情報活動費は一文もなかった。(カモメ)スタッフなど一人もいなかったのです。階級は二佐であったから大使館では二等書記官、つまり大使館員としては末席でした。部屋も大部屋で入り口に一番近い席でした。だが、最近では防衛駐在官に独立した部屋を提供し、秘書をつけてくれる例がたくさん出てきました。(ウツボ)フランスにおける軍人の地位の高さには驚かされた。フランスでは駐在武官は「参謀総長の代理」とみなされ、フランス側から招待される時には大使と武官に声がかかってくる。(カモメ)ところが、たまに大使の招宴があって先方の偉い人がやってくると日本側の駐在武官の席は書記官の末席になり、先方がびっくりしました。(ウツボ)「大本営参謀の情報戦記~情報なき国家の悲劇」(堀栄三・文春文庫)によると、著者の堀栄三氏(陸士四六・陸大五六・陸将補)は昭和三十四年、戦後初代の駐ドイツ防衛駐在官の辞令を受けた(カモメ)堀一佐は情報収集に走り回ったが、スタッフもいない「ひとりぼっちの武官」だったのです。赴任前に助言をもらった戦前元ドイツ駐在武官だった大島浩氏(陸士一八恩賜・陸大二七・中将)も日本で、まさか防衛駐在官がこんなであろうとは思ってもいないだろうと感じました。(ウツボ)これが戦後のアタッセの、悲しいかな本当の姿だった。次に最近の防衛駐在官を概略だが見てみよう。(カモメ)「日本大使館付駐在武官」(海辺和彦・徳間書店)によると、防衛駐在官になるには、CGS(幹部学校指揮幕僚課程)を卒業していなければならないと記してあります。(ウツボ)外務省と防衛省の話し合いで、「CGS合格者なら国家公務員上級試験(第一種試験)合格ということでスライドしましょう」となっている。(カモメ)以前は、一佐は外務省に出向する形で「一等書記官兼防衛駐在官」、二佐は「二等書記官兼防衛駐在官」にスライドして呼称されていましたが、平成十五年の「防衛駐在官に関する覚書」では「防衛駐在官・一等陸佐」、「防衛駐在官・二等陸佐」に改められました。(ウツボ)一九九一年三月まで三年間、ユーゴスラビアの首都、ベオグラード(現セルビア共和国首都)の日本大使館に勤務した佐藤喜久二防衛駐在官は、夜間大学出身だ。(カモメ)佐藤氏は高校卒業後陸上自衛隊に入隊、一般隊員でありながら、私立大学夜間の機械工学科に通学したのです。(ウツボ)その後幹部候補生学校に合格して幹部になった。任官後、民間会社でコンピュータ・プログラムを学び、欧米研修制度で外国に派遣された。その後、CGSにも合格した。(カモメ)防衛駐在官は防衛大出身(B)が主流ですが、一般大学卒の幹部(U)も増えているということです。防衛駐在官も実力本位ということでしょうか。(ウツボ)どんな仕事でもそうだろうね。(カモメ)「日本大使館付駐在武官」(海辺和彦・徳間書店)によると、昭和五十年代頃からの海外で活躍する防衛駐在官の実態が取材されていますが、初期の駐在官よりは待遇が改善されて、重要な仕事に取り組んでいるのが分かりますね。(ウツボ)そうだね。さて、これまで帝国陸軍と陸上自衛隊を比較しながら見てきたが、それぞれの組織的実情と運用は、その背景を構成している要因によって決まってきたようだね。(カモメ)その要因とは、根本的には、天皇統帥とシビリアン・コントロールということでしょうか。(ウツボ)そのようだね。科学の進歩、政治形態・国際情勢等にも当然左右されたけどね。(今回で「帝国陸軍と陸上自衛隊」は終わりです。次回からは「帝国海軍と海上自衛隊」が始まります)
2012.05.11
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(ウツボ)吉良兵曹長が言った。「兵隊。軍刀を持って来い!」。吉良兵曹長は、剣舞をはじめ、軍刀を抜き放った。拍手が三つ、四つ起こって、すぐ止んだ。詩を吟ずる声が二つ重なり転々と続いていく。(カモメ)軍刀をかざしたまま、吉良兵曹長の上体はぐらぐらと前後に揺れました。眼をかっと見開いた。軍刀を壁に沿って振り下ろすと、体を開いてこぶしを目の所まで上げたのです。(ウツボ)そして、吉良兵曹長はよろよろと倒れかかり、村上兵曹の肩にがつとしがみついた。軍刀は手から離れて、土の上に音無く落ちた。「村上、飲め、もっと飲め」。(カモメ)吉良兵曹長の掌に掴まれて、村上兵曹の肩はしびれるように痛かった。それに反抗するように肩を張り、村上兵曹は更に新しいビール瓶に手を伸ばしました。(ウツボ)この「桜島」は、近く米軍の上陸が予想される第一線基地、桜島の通信部隊での緊張した状況、その中で、死の絶望と生への願望との間で美しく死にたいと思う村上兵曹と、対象の無い憤怒から形成された残酷で異常な吉良兵曹長との対立が主軸になっている。(カモメ)そうですね。そのような対立の中で、「昼のラジオは、終戦の御詔勅であります」と伝えられる。緊張した通信隊での生活は、突然の終戦という事象において終局を迎えようとしていたのですね。(ウツボ)だが、その断末魔の洞窟、村上兵曹の目前で再び軍刀を抜き放つ吉良兵曹長。軍刀は死の象徴であること、それは吉良兵曹長にとっても、また、村上兵曹にとっても、暗黙の了解として脳裏に刻み込まれていたのだね。(カモメ)そうですね。吉良兵曹長はそれを承知で、再び軍刀を抜き放ったのですね。その描写をクライマックスにして、この小説は結末を迎えるのですね。(ウツボ)梅崎春生の父は陸軍士官学校出身の軍人で陸軍少佐だったが、梅崎自身は若い頃から文学を志し、東京帝大在学中の二十四歳頃から小説を書き始めていた。(カモメ)海軍通信隊での精神的に過酷な体験からこの「桜島」は生まれましたが、作風は、梶井基次郎の影響を受けていますね。(ウツボ)そうだね。ニヒルと悪意を鋭敏にとらえ、それを心象風景として構成する手法だね。戦争文学としての「桜島」は、それ自体、梅崎の青春の哀歌でもあるわけで、その意味では、独特な青春文学ともいえる。「桜島」はこのあたりで、おしまいにして、次に移りましょう。(カモメ)次は「作家の自画像1 私のなかの海軍予備学生」(阿川弘之・昭和出版)ですね。阿川弘之は大正九年十二月二十四日、広島県広島市生まれ。父阿川甲一(実業家)の長男ですね。だけど本籍は山口県美祢市ですね。(ウツボ)美祢市は、カルスト台地「秋吉台」や日本最大規模の鍾乳洞「秋芳洞」があり、全国的に有名な観光地だね。(カモメ)阿川弘之は、広島高等師範学校附属中学校、旧制広島高等学校を卒業後、東京帝国大学文学部国文学科に入学していますね。(ウツボ)だが、昭和十七年九月二十五日東京帝大を繰り上げ卒業し、九月三十日に海軍に入隊、兵科第二期海軍予備学生に採用されたのだね。(カモメ)阿川弘之は海軍予備学生を志願したのですね。筆記試験、体格検査、面接口述試験を受けましたが、競争率は十倍~二十倍といわれました。(ウツボ)入隊後佐世保海兵団に集合した予備学生五百名は、徴用船「あるぜんちな丸」で台湾の高雄港に移動、台湾南部の高雄州東港の飛行艇基地で、昭和十七年十月から六ヶ月の海軍士官としての基礎教育を受けた。(カモメ)昭和十八年四月、阿川は久里浜の通信学校入学。特班という暗号解読通信諜報関係の専門教育を受けました。(ウツボ)昭和十八年八月海軍少尉として軍令部勤務(対中国諜報作業班)になり暗号解読に従事。昭和十九年八月支那方面艦隊司令部附となり、中華民国漢口の通信隊に転勤となり、この地で終戦を迎えた。階級はポツダム大尉。(カモメ)戦後は志賀直哉の内弟子として小説家としての道を歩みましたね。主に戦争記録文学ですね。(ウツボ)そうだね。軍令部勤務時代を書いた「春の城」で読売文学賞、「山本五十六」で新潮社文学賞、「井上成美」で日本文学大賞、「志賀直哉」で野間文芸賞・毎日出版文化賞、「食味風々録」で読売文学賞を受賞している。(カモメ)昭和五十四年に日本芸術院会員、平成十一年に文化勲章受章、第三回海洋文学特別賞、広島県名誉市民。平成十九年第五十五回菊池寛賞も受賞しています。
2013.06.07
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(カモメ)出先の中華民国漢口で敗戦の日を迎え、復員帰国してみたら、新聞が動静を伝える国民政府要人の中に、知った名前がいくつもあるのに阿川は気が付いたのです。(ウツボ)それは、かつて阿川が、デスクの上で、暗号電報の発信者着信者として、毎日おつきあいしていた人たちの名前だった。(カモメ)阿川は海軍での体験を、体験のままで終わらせずに、戦後、海軍の戦記や伝記の作家になりましたね。(ウツボ)それは、自分の海軍に対する思いを、どうしても書きたかった。それで、阿川は次々に作品を発表していったのだろうね。さて、いよいよ最後の段階だが、海軍の戦記作家で注目すべき著名な人が三人いるので、さらっと触れておこう。児島襄、城山三郎、吉村昭だ。ともに昭和二年生まれだ。(カモメ)児島襄(こじま・のぼる)は昭和二年一月二十六日生まれ。東京府出身。府立一中、旧制一高、東京大学法学部を卒業。同大学院も終了していますね。(ウツボ)卒業後は共同通信外信部に入社。その後、退社して、歴史・戦史作家として独立、新聞や週刊誌に連載を続けた。(カモメ)昭和四十一年に児島襄は、「太平洋戦争」で第二十回毎日出版文化賞、平成二年に戦史作家としての業績で菊池寛賞を受賞しています。また、平成五年に紫綬褒章を受章。(ウツボ)主な戦記著書に「太平洋戦争上・下」(中公新書)、「天皇の島」(講談社)、「悲劇の提督 南雲忠一中将 栗田健男中将」(中央公論社)、「史説山下奉文」(文藝春秋)、「将軍突撃せり 硫黄島戦記」(文藝春秋)、「指揮官」(文藝春秋)、「東京裁判上・下」(中公新書)、「戦艦大和上・下」(文藝春秋)、「天皇」(全五巻・文藝春秋)、満州帝国(全三巻・文藝春秋)などがある。(カモメ)「指揮官」(文藝春秋)のまえがきで、児島襄は「統帥綱領」についての興味深い話を次のように紹介しています(抜粋)。(ウツボ)「軍司令官以上といえば、日本陸軍では階級は中将以上、軍人としては最高の栄誉に属する地位だ。その軍司令官以上の高級将校の教科書ともいうべきものが『統帥綱領』だ」(カモメ)「『統帥綱領』は昭和三年三月二十日、当時の参謀総長・鈴木荘六大将(新潟県・陸軍教導団・陸士一・陸大一二・騎兵第三旅団長・中将・第五師団長・台湾軍司令官・大将・朝鮮軍司令官・陸軍参謀総長・枢密院顧問・勲一等旭日桐花大綬章・帝国在郷軍人会会長・大日本武徳会会長)の名で制定されたものだ。その『統帥綱領』に次のような一節がある」(ウツボ)「軍隊指揮ノ消長ハ指揮官ノ威徳ニカカル。苟モ将ニ将タル者ハ高邁ノ品性、公明ノ資質及ビ無限ノ包容力ヲ具エ、堅確ノ意思、卓越ノ識見及ビ非凡ナル洞察力ニヨリ衆望帰向ノ中樞、全軍仰慕ノ中心タラザルベカラズ……」。(カモメ)児島襄がかつて米陸軍士官学校を訪ねたとき、二人の教官(中佐)に、この“将軍の条件” 『統帥綱領』を説明したことがありましたね。(ウツボ)児島襄が「高邁な品性、公明な資質、無限の包容力、堅確の意思、卓越した識見、非凡な洞察力……」と数えたてるにつれて、相手の中佐の教官は眼をむき、口を開け、やがてため息とともに次のようにつぶやいた。(カモメ)「まさか……それは“将軍の条件”ではなく、“聖者の条件”だ。日本の将軍たちが、それほどの修養と能力を要求されているとは知らなかった」。(ウツボ)そして次のように言ったのだね。(カモメ)「それほどに立派な将軍がそろっていて、なぜ日本(軍)は敗けたのだろう? 将軍たちは自己修養に熱中しすぎて、作戦に不注意だったのだろうか」。(ウツボ)児島襄は「彼らの論評が皮肉に聞こえたこともあって、それ以上の将軍論は中断した」と述べている。(カモメ)この「指揮官」(児島襄・文藝春秋)は、山本五十六、山下奉文、本間雅晴、牟田口廉也、牛島満、中川州男など十四名の日本の将軍と、マッカーサー、ハルゼー、パットン、ロンメル、林彪、アイゼンハワー、ヒトラーなど十三名の海外の将軍・指導者たちを取り上げていますね。(ウツボ)そうだね。児島襄独自の識見と分析で、現代にも通じる「指揮官論」を展開していて、次のように述べている。(カモメ)「その意味では、一般社会における指導者の心得を探ろうとするには、過去の指揮官の態様は参考になり得るはずである。とくに、あまりに社会事情がちがう古い時代は別として、現代の将軍たちの場合は、思想、組織など、現代に共通する背景もあるので、理解しやすい、と思う」(ウツボ)「本書では、だから、第二次大戦に活躍した東西の著名な指揮官、指導者をとりあげ、主に、それぞれが直面した重要事態の姿に注目した」(カモメ)「求められた決定の機会に、これら指揮官たちがどのように対処し、どんな決断を下したか―そこにはそれぞれのお国ぶり、個性の差が現れていると同時に、意外に、国籍、人種、思想、文化などの相違をこえて、リーダーとしての共通性もうかがえるはずである」。(ウツボ)児島襄は、身長一九〇センチ、体重一二〇キロの巨漢だった。晩年は私塾「児島ゼミ」(歴史研究会)を開いていた。平成十三年三月二十七日死去。七十四歳だった。
2013.06.27
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(カモメ)次は、城山三郎(しろやま・さぶろう)ですね。昭和二年八月十八日生まれ。本名は杉浦英一。愛知県名古屋市出身ですね。(ウツボ)そうだね。名古屋市立名古屋商業学校を卒業し、愛知県立工業専門学校(現・名古屋工業大学)に入学した。在学中に帝国海軍に志願、海軍特別幹部練習生として、伏龍部隊に配属された。(カモメ)理科系の徴兵猶予を返上して、「お国のために尽くそうと」意気揚々と海軍を志願した城山三郎を待ち受けていたのは、海軍特別幹部練習生とは名ばかりの無残な特攻部隊だったのですね。(ウツボ)そうだね。伏龍部隊というのは、潜水具で関東周辺の海の底に潜り、先端に機雷を取り付けた二メートルの棒を持ち、海底を歩きながら、上陸して来る敵の上陸用舟艇を待ち受け、真上に来た敵舟艇の底を突き、機雷を爆発させるという特攻部隊だ。(カモメ)自分も機雷の爆発で木っ端微塵になるという、無残な特攻兵器ですね。(ウツボ)城山三郎はこの伏龍部隊で訓練中に、終戦を迎え、生き延びたが、もし、終戦がなかったら、城山は潜水服を着け、海の底に潜っただろう。結局、そこには、消耗品としての死が待っているだけの残酷な作戦だった。(カモメ)「私の履歴書」(日本経済新聞社)の中で、海軍特別幹部練習生の時のことを、城山は「これほど非人間的というか、非常識な訓練や生活を強制していたのは、おそらく世界歴史にもその例がないであろう」と憤りをもって記していますね。(ウツボ)ちなみに、この伏龍という特攻兵器は、当時軍令部第二部長だった黒島亀人海軍少将(広島県呉市出身・海兵四四・海大二六・連合艦隊先任参謀・少将・軍令部第二部長)が考案したと言われている。(カモメ)戦後、昭和二十七年に城山三郎は一橋大学を卒業しましたが、大学在学中に洗礼を受けたのですね。その後、愛知学芸大学教官助手、文学専任講師を歴任しています。(ウツボ)昭和三十八年に愛知学芸大学を退職し、作家業に専念する。ペンネーム「城山三郎」は住居の近くにあった城山八幡宮から採った。(カモメ)城山三郎は、昭和三十二年に「輸出」で第四回文学界新人賞しました。その後、昭和三十四年に「総会屋錦城」で第四十回直木賞、「落日燃ゆ」で吉川英治文学賞、毎日出版文学賞、平成八年「もう、きみには頼まない 石坂泰三の世界」で第四十四回菊池寛賞、平成十四年朝日賞を受賞しています。(ウツボ)主な戦記著書に、「大儀の末」(新潮文庫)、「指揮官たちの特攻 幸福は花びらのごとく」(新潮文庫)、「一歩の距離 小説・予科練」(文藝春秋)、「忘れ得ぬ翼」(角川文庫)、「硫黄島に死す」(新潮文庫)などがある。(カモメ)城山三郎は平成十九年三月二十二日、肺炎のため、神奈川県茅ヶ崎市の病院で死去しました。享年七十九歳でした。(ウツボ)最後に、吉村昭(よしむら・あきら)を概略だけでも、見てみよう。昭和二年五月一日生まれ。東京府出身。製綿工場経営者の八男。昭和十五年旧開成中学に入学。在学中に日本文学に親しんだ。(カモメ)昭和十九年母が子宮ガンで死去しました。昭和二十年三月戦時特例による繰上げ卒業。十二月父がガンで死去しました。(ウツボ)昭和二十二年旧制学習院高等科分科甲類入学するも翌年結核で喀血し胸郭成形手術を受け、左胸の肋骨五本を切除した。この大病で吉村昭は学習院高等科を退学している。(カモメ)吉村昭は昭和二十五年学習院大学文学科に入学します。昭和二十七年同大学文芸部委員長になり、短編を「学習院文藝」に発表しています。川端康成や梶井基次郎に傾倒したのですね。(ウツボ)だが、学費を長期滞納していたため、吉村昭は昭和二十八年三月学習院大学を除籍処分された。十一月、文芸部で知り合った北原節子(後年の小説家・津村節子)と結婚。(カモメ)繊維団体の事務局に勤めながら、吉村昭は、丹羽文雄主宰の同人誌「文学者」などに短編を発表しながら、創作活動を始めました。(ウツボ)だが、吉村昭は、昭和三十四年「鉄橋」が第四十回芥川賞候補に、「貝殻」が第四十一回芥川賞候補に、昭和三十八年「透明標本」が第四十六回芥川賞候補に、「石の微笑」が第四十七回芥川賞候補になるがいずれも受賞しなかった。昭和四十一年には妻の津村節子が芥川賞を受賞した。(カモメ)でも、その昭和四十一年に吉村昭は「星への旅」で第二回太宰治賞したのですね。その後昭和四十七年「深海の使者」で第三十四回文藝春秋読者賞、昭和四十八年「戦艦武蔵」「関東大震災」などで第二十一回菊池寛賞を受賞しています。(ウツボ)さらに昭和五十四年「ふぉん・しいほるとの娘」で吉川英治文学賞、昭和六十年「冷い夏、熱い夏」で毎日芸術賞、「破獄」で読売文学賞、芸術選奨文部大臣賞、昭和五十六年日本芸術院賞、平成六年「天狗争乱」で大佛次郎賞を受賞している。(カモメ)吉村昭は平成九年には日本芸術院会員になっています。平成十五年には妻の津村節子も日本芸術院会員になっています。平成十六年日本芸術院第二部長に就任。(ウツボ)吉村昭の主な戦記著書は、「戦艦武蔵」(新潮社)、「大本営が震えた日」(新潮社)、「零式戦闘機」(新潮社)、「陸奥爆沈」(新潮社)、「空白の戦記」(新潮社)、「海の史劇」(新潮社)、「深海の使者」(文藝春秋)、「海軍乙事件」(文藝春秋)など。(カモメ)吉村昭は平成十八年春に舌ガン、さらにすい臓ガンも発見された。手術後、退院したが、もはや原稿依頼には応えられなかったのです。(ウツボ)同年七月三十日夜、東京都三鷹の自宅で療養中に、看病していた長女に、「死ぬよ」と告げ、自ら点滴の管を抜き、首の静脈に埋め込まれたカテーテルポートも引き抜き、数時間後の七月三十一日午前二時三十八分に死去した。享年七十九歳だった。(カモメ)自ら生命を絶ったのですね。それも長女に「死ぬよ」と言って。このような話はあまり聞いたことがありません。(ウツボ)そうだね。だけどね、「死ぬよ」は、歴史の真実を追究することに非常にこだわった冷徹な大作家、吉村昭らしい言葉といえる。西田幾多郎の「死は月よりも美しい」もそうだけど、死について考えさせられるね。(カモメ)「死に方」、特に、歴史的に偉大な人物の最後の瞬間を詳細に知りたいですね。(ウツボ)そのような内容の本は確か、出版されているよ。今度、俺も読んでみたいな。(今回で「戦争と文学・海軍」は終わりです。次回からは「陸軍駐在武官」が始まります)
2013.07.04
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【一九期首席・荒木貞夫大将(陸士九)】(ウツボ)次は、一九期首席の荒木貞夫(あらき・さだお)大将だ。陸軍大学校一九期は明治三十五年八月九日入学、明治三十七年二月九日中退、明治三十九年三月二十日復校、明治四十年十一月三十日卒業。入学者数五十名、卒業者数三十三名。阿部信行大将、真崎甚三郎大将、松木直亮大将、本庄繁大将、などがいる。(カモメ)荒木貞夫大将は、明治十年五月二十六日生まれ。東京都出身。旧一橋家家臣で、小学校校長だった荒木貞之介の長男。本籍は和歌山県ですね。(ウツボ)日本中学を中退し陸軍士官学校に入校。明治三十年十一月陸軍士官学校卒業(九期)。明治三十一年六月少尉、近衛歩兵第一連隊附。(カモメ)「歴代陸軍大将全覧・昭和篇/満州事変・・支那事変期」(半藤一利・横山恵一・秦郁彦・原剛・中央公論新社)によると、荒木貞夫の原隊の近衛歩兵第一連隊では、将校集会所で将校団の宴会を開いて盛り上がってくると、若手が馬に見立てた椅子に反対にまたがって円陣をつくり、「われは官軍わが敵は……」(「抜刀隊」)と高唱して、箸をふるってぐるぐる廻ったのですね。これは荒木貞夫少尉以来の伝統だと言われていますね。(ウツボ)そうだね。荒木貞夫は少尉時代からバンカラで、どこか腰が軽かった。明治三十三年十一月中尉。明治三十四年三月陸軍中央幼年学校生徒隊附。(カモメ)明治三十五年八月陸軍大学校に入校するのですが、日露戦争で陸軍大学校が閉校になり、明治三十七年二月荒木中尉は近衛後備歩兵第一連隊中隊長として出征しました。五月近衛後備混成旅団副官、八月大尉。(ウツボ)荒木貞夫大尉はロシア通だった。明治四十年十一月陸軍大学校(一九期)を首席で卒業すると、参謀本部出仕(ロシア班)。明治四十二年十一月少佐、十二月ロシア駐在。明治四十五年五月ロシア公使館附武官補佐官。(カモメ)大正三年三月陸軍省副官、八月陸軍大学校教官。大正四年六月、第一次世界大戦中のロシア軍に従軍、八月中佐、ハルピン特務機関。大正七年月大佐、浦塩派遣軍参謀、関東都督府附。荒木貞夫は、とにかく、大佐まではロシア関係の軍歴が多かったのですね。(ウツボ)大正八年七月荒木大佐は歩兵第二三連隊長(都城)に就任した。これがひどい連隊だった。荒木貞夫は「兵隊は乞食のようだし、兵舎のカーテンはボロボロ、椅子は全部ハラを出している」と後年回想している。大正十年四月参謀本部欧米課長。大正十二年三月少将、歩兵第八旅団長。(カモメ)大正十三年一月憲兵司令官になり、五月、「国本社」(右翼の政治結社)理事に就任しています。「国本(こくほん)」は「戌申詔書(ぼしんしょうしょ)」にある言葉で、「国の基礎」という意味ですね。(ウツボ)そうだね。戌申詔書は明治四十一年(戌申の年)に発せられた詔書で、日露戦争後、国民が国民道徳を強化し、上下一致、勤倹力行して国富増強にあたることを強調した。その本質は治安対策であり、同時に帝国主義国家としての経済発展の要請、階級融和の増進でもあった。(カモメ)「国本社」という政治結社は大正十三年五月に結成され平沼騏一郎が会長になりました。誰でも入れたので、柳橋や葭町の花柳界にも会員がいて、「わたし国本芸者よ」なんて言っていた芸者もいたのですね。(ウツボ)だが、この結社は「これからは摂政を狙撃した難波大助を出さない」という趣旨で生まれた。難波大助は山口県熊毛郡周防村(現・光市立野宮河内)の旧家に生まれた。父の灘波作之進は衆議院議員だった。(カモメ)難波大助は早稲田第一高等学院に入学しましたが、労働運動や社会主義運動に入り退学しました。日雇い労働者となり底辺生活も経験したのです。(ウツボ)関東大震災などでの社会主義者弾圧事件をきっかけに「プロレタリアの皇室崇拝を打破する」ため皇室へのテロを計画する。執務能力を失った大正天皇より摂政の裕仁親王(昭和天皇)がよいと考えて狙った。(カモメ)父の仕込み式のステッキ散弾銃を入手した難波大助は、大正十二年十二月二十七日、虎ノ門で裕仁親王を狙撃するが失敗し逮捕され、死刑になった。(カモメ)父の灘波作之進は息子の死刑執行後は自宅の全ての戸を針金でくくり、閉門蟄居して半年後に餓死した。難波の生家は今も立野に現存していますね。(ウツボ)本題の荒木貞夫に戻ろう。荒木少将は大正十四年五月参謀本部第一部長に就任。昭和二年七月中将。昭和三年八月陸軍大学校校長。(カモメ)陸大校長時代に参謀旅行で、「卵をもって鉄を断て」などと神がかりな言葉を連発して、これが意外に学生に好評だったのですね。(ウツボ)昭和四年八月第六師団長(熊本)。この師団長時代に荒木中将は「皇軍」という語をつくった。その後、荒木中将が教育総監部本部長、陸軍大臣となり、「皇軍」が定着した。それまでは「国軍」と言っていた。(カモメ)昭和六年の正月、熊本の荒木師団長のもとへ、日蓮宗の僧侶で右翼過激派の井上日召が訪れました。酒を酌み交わしながら荒木中将は「君たちが蜂起したら、第六師団を率いて上京する」と放言したのです。井上日召はこれを信じました。
2014.07.25
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【及川古志郎(おいかわ・こしろう)大将】(カモメ)及川古志郎は明治十六年二月八日生まれ。岩手県出身。新潟県古志郡で生まれる。古志郎は、生誕地の古志郡にちなんで命名された。岩手県士族、医師・及川良吾の長男。(ウツボ)及川古志郎は旧制岩手県立森岡中学校から海軍兵学校進んだ。森岡中学校には及川の同級生として、次の三人がいた。(カモメ)野村胡堂(のむら・こどう・岩手・第一高等学校・東京帝国大学法科大学退学・報知新聞政治部・同社社会部長・調査部長兼学芸部長・編集局相談役・捕物作家クラブ初代会長・日本作家クラブ会長・財団法人野村学芸財団設立・『銭形平次捕物控』など著書多数)。(ウツボ)金田一京助(岩手・第二高等学校・東京帝国大学文科大学言語学科卒・海城中学校教師・國學院大学教授・東京帝国大学助教授・帝国学士院賞・文学博士・東京帝国大学教授・文化勲章・盛岡市名誉市民・日本言語学会二代会長・従三位・勲一等瑞宝章)。(カモメ)田子一民(たこ・いちみん・岩手・東京帝国大学法科大学卒・内務省・三重県知事・衆議院議員・鉄道政務次官・衆議院副議長・衆議院議長・終戦・公職追放・農林大臣)。(ウツボ)及川は彼らと交友する文学青年だった。彼らに勧められて、及川は長詩、短歌を勉強し、盛んに寄稿していた。(カモメ)下級生の石川啄木(いしかわ・たくぼく・本名は石川一<いしかわ・はじめ>・『明星』に短歌や長詩を発表・第一詩集『あこがれ』出版・渋民尋常高等小学校代用教員・小説を書き始める・函館区立弥生尋常小学校代用教員・北門新報社校正係・小樽日報記者・釧路新聞勤務・東京毎日新聞に小説『島影』連載・『スバル』創刊・東京朝日新聞校正係・『ローマ字日記』著す・第一詩集「一握の砂」出版・大逆事件を研究・肺結核で病死・第二詩集『悲しき玩具出版』)は、及川の作品を読み文学的な影響を受けたのですね。(ウツボ)そうだね。及川古志郎は、明治三十三年十二月海軍兵学校入校。明治三十六年十二月海軍兵学校(三一期・七十六番)卒業、少尉補(二十歳)、防護巡洋艦「厳島」乗組。(カモメ)海軍兵学校(三一期)の同期生には次の様な提督がいます。(ウツボ)長谷川清(はせがわ・きよし)大将(福井・海兵三一・六番・海大一二次席・海軍省人事局局員・大佐・海軍省人事局第一課長・在米国大使館附武官・装甲巡洋艦「日進」艦長・戦艦「長門」艦長・少将・横須賀鎮守府参謀長・第二潜水戦隊司令官・艦政本部第五部長・呉工廠長・ジュネーヴ海軍軍縮会議全権随員・中将・ジュネーヴ海軍軍縮会議全権・海軍次官・第三艦隊司令長官・支那方面艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・大将・台湾総督・軍事参議官・高等技術会議議長・正三位・勲一等・功一級)(カモメ)加藤隆義(かとう・たかよし)大将(広島・海兵三一・五番・海大一二・第一艦隊参謀・大佐・東宮武官・子爵・巡洋戦艦「霧島」艦長・軍令部参謀・フランス出張・国連海軍代表・少将・国連海軍代表兼空軍代表・軍令部第一班長・第一航空戦隊司令官・海軍大学校校長・中将・航空本部長・軍令部次長・第二艦隊司令長官・呉鎮守府司令長官・軍事参議官・大将・高等技術会議議長・勲三等旭日中綬章)。(ウツボ)及川古志郎は、明治三十七年九月十日少尉(二十一歳)。明治三十八年八月中尉(二十二歳)、第二〇艇隊附。明治三十九年八月運送艦「姉川」乗組、十一月水雷術練習所附。明治四十一年一月戦艦「香取」分隊長心得、九月大尉(二十五歳)、戦艦「香取」分隊長。(カモメ)明治四十二年五月海軍大学校乙種学生、十一月水雷学校高等科学生。明治四十三年五月一等戦艦「三笠」分隊長、十二月第一六艇隊艇長。明治四十四年四月三等駆逐艦「朝潮」駆逐艦長。大正元年十二月三等駆逐艦「夕霧」駆逐艦長兼水雷学校教官。(ウツボ)及川大尉は、大正二年十二月海軍大学校甲種学生。大正三年十二月少佐(三十歳)。大正四年十二月海軍大学校(一三)卒業、東宮武官。大正八年十二月中佐(三十五歳)。大正十一年十二月第一五駆逐隊司令兼水雷学校教官。(カモメ)及川古志郎中佐は、大正十二年十二月大佐(三十九歳)、二等巡洋艦「鬼怒」艦長。大正十三年一月二等巡洋艦「多摩」艦長、十二月軍令部第一班第一課長。大正十五年十二月海軍兵学校教頭兼幹事長。昭和三年十二月少将(四十四歳)、呉鎮守府参謀長。(ウツボ)昭和五年六月軍令部第一班長。昭和七年十一月第一航空戦隊司令官。昭和八年十月海軍兵学校校長、十一月中将(四十九歳)。昭和十年十二月第三艦隊司令長官。昭和十一年十二月航空本部長。昭和十三年四月支那方面艦隊司令長官兼第三艦隊司令長官。(カモメ)及川古志郎中将は昭和十四年十一月大将(五十五歳)、支那方面艦隊司令長官。昭和十五年五月横須賀鎮守府司令長官、九月海軍大臣。昭和十六年十月軍事参議官。昭和十七年十月海軍大学校校長。昭和十八年十一月初代海上護衛司令長官。(ウツボ)及川古志郎大将は、昭和十九年八月第十八代軍令部総長。昭和二十年五月軍事参議官。昭和二十年六月科学技術審議会委員長。昭和三十三年五月九日死去。享年七十五歳。(カモメ)大丸別冊「回想の将軍・提督」(潮書房)の中で、「私が仕えた三人の海軍大臣」と題して、福地誠夫(ふくち・のぶお)元海軍大佐(東京・海兵五三・海大三五・第一一戦隊参謀・海軍省副官兼大臣秘書官・中佐・支那方面艦隊参謀・海軍省人事局員・大佐・戦後海上自衛隊入隊・海将補・海上幕僚監部調査部長・第二護衛隊群司令・海上幕僚監部総務部長・海将・自衛艦隊司令・横須賀地方総監)が寄稿していますね。(ウツボ)そうだね。その中で、福地誠夫氏は及川古志郎海軍大臣の副官時代について記している。(カモメ)それによると、吉田海相無念の引退を受け継いだ及川古志郎大将を大臣室に迎えました。研ぎ澄ました日本刀のような吉田さんとは一味違って、茫洋としたうちに信念を秘めた大人物という印象でした。(ウツボ)それまで福地氏は、直接部下として仕えたことはなかった。しかし、海軍切っての学者、とくに漢学の造詣は大家級であること、陛下(昭和天皇)が皇太子のころから東宮武官、侍従武官として長く奉仕されたほどの人だから、きっと謹厳な人格者だろうと思った。(カモメ)海軍兵学校の教頭時代(正十五年~昭和二年)、カリキュラムに精神科学(倫理、哲学、教育、統率等)を加える大改革を断行したことなどを福地氏は予備知識として心得ていました。(ウツボ)汽車の中で、及川大臣が、いつも漢文の本を読んでいるので、「そんなに面白いのですか」と福地氏が感心したら、「君たちがキング(その頃最も読まれていた雑誌)を読んでいるのと同じさ」との事だった。
2017.02.24
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(カモメ)交換条件付きでゲリラから解放された福留中将らは、機密文書を奪われるという大失態を犯したにもかかわらず、海軍中央部で事情聴取を受けた後、不問に処されたのですね。(ウツボ)そうだね。この時の海軍大臣・軍令部総長・嶋田大将をはじめとする上層部は、福留中将らが、捕虜になったかどうかの身分取り扱いと、この事件をどう秘密にして統帥の権威を維持するかが最大の関心ごとだったと言われている。(カモメ)福留中将らが紛失した暗号書や機密書類がどうなったかについての関心は薄く、福留中将もこれに軽くふれただけでした。嶋田大将らもこの件で深く追求することはなかったのですね。(ウツボ)だが、この暗号書と機密書類を解読した米軍により、これ以後の戦いは、ことごとく敵に裏をかかれて、日本軍は潰されていった。(カモメ)つまり、全てを敵に知られていながら、知られていないつもりで、嶋田海軍大臣・参謀総長ら海軍中枢が行った作戦指導により、考えられない破局を生んでしまったのですね。(ウツボ)そうだろうね。「四人の軍令部総長」(吉田俊雄・文藝春秋)によると、嶋田海軍大臣・軍令部総長の評価は、よく言われているのだが、「戦争指導には最も不適切だった人」という烙印を押されている。(カモメ)昭和十九年六月十九日、二十日、マリアナ諸島沖とパラオ諸島沖で行われたマリアナ沖海戦は、空母三隻や多数の航空機を失って日本海軍の惨敗に終わりました。(ウツボ)六月三十日、海軍予備大将の会合があり、軍令部総長・嶋田大将の命令で軍令部第一部長(作戦)・中沢佑(なかざわ・たすく)少将(長野・海兵四三・十九番・海大二六・軍令部第一部第一課作戦班長・大佐・連合艦隊参謀・軍令部第二課長・軍令部第一課長・一等巡洋艦「足柄」艦長・大五艦隊参謀長・少将・海軍省人事局長・軍令部第一部長・第二一戦隊司令官・台湾航空隊司令官・第一航空艦隊参謀長・高雄警備府参謀長・中将)が戦況を説明した。(カモメ)そのあと、嶋田軍令部総長は、中沢少将を別室に呼んで、「君の話は、あまりに絶望的で前途が暗い。もっと積極的に、有望的に述べる必要がある」と言ったのです。中沢少将は驚き、次の様に反論しました。(ウツボ)読んでみよう。「お言葉を介すようで恐縮ですが、本日お集りの方々は海軍最高の地位におられる方々のみで、これらの方々に対し、祖国の将来について真剣に、無私の心境で考えていただかなくてはならないと考えましたので、私は所信通り申し述べました」(カモメ)「これが実施部隊(連合艦隊、各艦隊など)の指揮官、参謀長でありますれば、部下の士気振作を考慮し、もっと有望かつ戦況打開策があるかのように説明いたします」。(ウツボ)これに対して、嶋田大将は一言も言わず、話はそれで終わったという。(カモメ)「歴代海軍大将全覧」(半藤一利・横山恵一・秦郁彦・戸高一成・中公親書ラクレ)に、嶋田繁太郎大将の記述があります。(ウツボ)この中で、著者の半藤一利(はんどう・かずとし・昭和五年生まれ・東京・東京大学文学部国文科卒・文藝春秋社入社・「日本の一番長い日」執筆・週刊文藝春秋編集長・週刊文春編集長・文藝春秋編集長・『漱石先生ぞな、もし』で新田次郎文学賞・専務取締役・文藝春秋退社・作家に転身・『ノモンハンの夏』で山本七平賞・『昭和史』で毎日出版文化賞・著書多数)は次のような思い出を記している。(カモメ)読んでみます。「私は戦後、嶋田繁太郎に二度会っています。自宅を訪ね、奥さんに伊藤正徳さんの紹介状と僕の名刺を出すと、玄関口まで本人がちゃんと出てきて、正座して、丁寧にお辞儀する」(ウツボ)「私は立ったまま、『閣下にお話を伺いたいと思いまして』と言うと、黙ったまま返事をしない。なんか一言、二言、言うんじゃないかと思っていても、何も言わない」(カモメ)「しばらく顔を見ているんですが、黙っている。しょうがないから、質問するのですが、イエスともノーとも言わず、ただ黙っている。口を開かない理由も言わない。二度行って、一言も言葉を交わすことができなかったんですよ」。(ウツボ)ちなみに、半藤一利の義祖父は夏目漱石。半藤一利の妻、半藤末利子(随筆家)の父が松岡譲(小説家)で、母の筆子が夏目漱石(小説家)の長女。 【吉田善吾(よしだ・ぜんご)大将】(カモメ)吉田善吾は、明治十八年二月十四日生まれ。佐賀県出身。農業・峰与八の四男。後に米屋を営む吉田祐次郎の養子となる。旧制佐賀中学校に進学し、「誠友団」と名付けた交友会に加入した。同会には次のような人物がいた。(ウツボ)古賀峯一(こが・みねいち)元帥海軍大将(佐賀・海兵三四・十四番・海大一五・連合艦隊参謀・大佐・在仏国大使館附武官・ジュネーヴ海軍軍縮会議全権随員・海軍省副官・一等巡洋艦「青葉」艦長・戦艦「伊勢」艦長・少将・軍令部第三班長・軍令部第二部長・第七戦隊司令官・中将・練習艦隊司令官・軍令部次長・第二艦隊司令長官・支那方面艦隊司令長官・大将・横須賀鎮守府司令長官・連合艦隊司令長官・殉職<海軍乙事件>・元帥・功一級)。(カモメ)下村湖人(しもむら・こじん・明治十七年生まれ・佐賀・東京帝国大学英文学科卒・母校の佐賀中学校教師・鹿島中学校校長・講演活動・文筆活動・小説家・『次郎物語』執筆開始・壮年団中央理事・終戦・『次郎物語・第四部』執筆・全日本青年産業振興会顧問兼幹事・『次郎物語・第五部』執筆・死去・著書多数)。(ウツボ)吉田善吾は古賀峯一とは「誠友団」以来友人となった。二人とも明治十八年生まれだが、海軍兵学校は吉田善吾が二期先輩。また、下村湖人の『次郎物語』に登場する「新賀峯雄」は古賀峯一だ。(カモメ)吉田善吾は明治三十七年十一月海軍兵学校(三二期・十二番)卒業、少尉候補生(十九歳)。
2017.03.31
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(カモメ)昭和九年十一月、横須賀航空隊配属。昭和十年二月、英国大使館附武官補佐官。昭和十二年七月、横須賀航空隊分隊長。八月、木更津航空隊分隊長。(ウツボ)昭和十二年十月、第一三航空隊分隊長。支那事変の為上海進出。十二月二日、南郷茂章大尉は<三菱・九六式艦上戦闘機・単葉>六機を指揮して南京攻撃に出撃。(カモメ)迎撃に上がって来たソ連空軍志願隊二〇機と空戦になり、南郷茂章大尉の編隊は<ポリカルポフ「I-16」単葉戦闘機>を一三機撃墜したのですね。(ウツボ)そうだね。この戦果により、南郷隊は、支那方面艦隊司令長官・及川古志郎中将から感状を授与された。(カモメ)昭和十二年十二月、南郷茂章大尉は空母「蒼龍」(一八八〇〇トン)分隊長。昭和十三年三月、空母「蒼龍」(一八八〇〇トン)飛行隊長。六月、新設の第一五航空隊飛行隊長。(ウツボ)昭和十三年七月十八日六時、松本真実少佐(広島・海兵五二期・大佐)指揮の元、南郷茂章大尉は<中島・九五式艦上戦闘機・複葉>と<三菱・九六式艦上戦闘機・単葉>の五機を指揮して、艦爆一四機、艦攻五機とともに安慶基地を出撃、南昌攻撃に向かった。(カモメ)一時間後、鄱陽湖(中国江西省北部)上空で、日本海軍の編隊は、迎撃に上がって来たソ連空軍志願隊の<ポリカルポフ「I-15」複葉戦闘機>と<ポリカルポフ「I-16」単葉戦闘機>、及び中国空軍の<グロスター「グラディエーター」複葉戦闘機(英国製)>と空戦になりました。(ウツボ)南郷茂章大尉は、<ポリカルポフ「I-15」複葉戦闘機>一機を撃墜したが、墜落する<ポリカルポフ「I-15」複葉戦闘機>と衝突して、湖に墜落、戦死した。(カモメ)戦死した南郷茂章大尉は、享年三十三歳、少佐に特進しました。その死は、海軍次官・山本五十六中将を始め多数の人に惜しまれたのです。国内では「軍神・南郷茂章」として報じられ、有名になりました。撃墜機数は八機となっています。【志賀淑雄(しが・よしお)少佐・6機】(ウツボ)四元淑雄(昭和十五年に志賀に改姓)は大正三年三月二十八日生まれ。東京出身。四元賢助海軍少将の三男。父の賢助は、海軍兵学校教官として、山本五十六元帥、豊田副武大将らを教えており、子息教育も厳格だったという。(カモメ)昭和六年四月、四元淑雄は海軍兵学校入学。同期生に伏見宮博英王がいる。昭和十年十一月、海軍兵学校(六二期)卒業。(ウツボ)昭和十一年二月二十六日、二・二六事件が起きる。海軍砲術学校学生だった四元淑雄候補生は機銃小隊長を命じられ、海軍省の警備に当った。四月、少尉。(カモメ)昭和十一年十二月、第二八期飛行学生、霞ケ浦航空隊。昭和十二年九月、佐伯航空隊、戦闘機専修。(ウツボ)昭和十三年一月、第一三航空隊(南京)配属、日中戦争に参加。二月二十五日、第二中隊長として、四元淑雄中尉は<三菱・九六式艦上戦闘機・単葉>で中攻機三五機の護衛任務に初出撃。空戦となり<ポリカルポフ「I-15」複葉戦闘機>を一機初撃墜した。(カモメ)昭和十三年八月、四元淑雄中尉は横須賀航空隊配属。十二月、空母「赤城」(四一三〇〇トン)乗組。昭和十四年十一月、大分航空隊分隊長。大尉に進級。(ウツボ)昭和十五年九月、四元淑雄大尉は結婚(婿養子)し、四元から志賀に改姓した。(カモメ)昭和十六年四月、志賀淑雄大尉は第一航空艦隊所属の空母「加賀」(三三六九三トン)先任分隊長。(ウツボ)昭和十六年十二月八日、真珠湾攻撃に参加。志賀淑雄大尉は板谷茂少佐指揮の第一次攻撃隊に、空母「加賀」(三三六九三トン)第二制空隊長として出撃。<零戦・三菱零式艦上戦闘機>九機を指揮してオアフ島飛行場に最初の攻撃を行った。(カモメ)その後、志賀淑雄大尉は空母「加賀」(三三六九三トン)戦闘機隊飛行隊長に就任。
2020.05.08
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