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2004年1月26日。記念すべき長男誕生の日となった。ながーい夜が明けた。「目覚ましテレビ」がやっているのをを見て朝が来たことを実感した。夫は技師長に電話し、今日も休ませてくれるよう連絡してくれた。そして、助産師の指示で(きっと先生に連絡取ったんだとは思うが)朝7時から陣痛促進剤を内服開始した(これについても、友人は、普通は点滴から開始するよ!と言っていた)。夫の両親が早々やって来た。私の両親も遅れて到着。また全員集合だよ…。昨晩中優しくしてくれた夜勤助産師がどこぞやの赤ちゃんを抱いてやってきた。「ほら~この子昨日生まれたのよ。かわいいでしょ。○○さんも頑張って。夕方までには生まれるよきっと。」とニコニコ励ましてくれた。夕方ね…とほほ。朝には陣痛は弱まってきてしまい間隔も10分おきに戻ってしまっていた。また振り出しに戻るんだね…と一日の始まりを覚悟した。午前10時に先生の回診があった。「お、○○さん、頑張ってるね。つらいかい?11時から点滴にしよう」と言った。はあ。点滴か。やっとだよ。その日の担当である婦長さんがやって来て「さあ、陣痛の合間に陣痛室に移動するわよ」と促した。何故か婦長さんがくると陣痛が始まる私は顔をゆがめながら「はい」と小さくうなずいた。病室から陣痛室まではかなり長かった。テレビドラマのように途中手すりにつかまってうずくまってしまった。夫は陣痛室にも付き添ってくれた。その腕を思いっきり握り締め陣痛のたびに顔をくちゃくちゃにした。11時に婦長が点滴をしにやって来た。それまでは婦長が来ると夫にしがみつくのをやめていたのだが、もはや恥もなくなりつつあった。陣痛は徐々に強まり、陣痛の合間には次の痛みの恐怖に怯えた。痛みのたびに夫の腕を握り締め、顔に力を入れ、叫んでもいた「痛いよ…痛いんだよ…助けて…」。最後のほうでは「お願い殺して」と言っていた。さぞ夫も困ったことだろう。婦長は「赤ちゃんも頑張っているんだよ」と言っていたが、もはや私にはこの苦しみの意味も分からなくなっていた。出産という認識がなくなっていた。痛みのたびに黄色い袋が出てくるという変なイメージがあった。お昼過ぎまでそのようにもがいていた。しかし途中婦長が「力を入れないほうが子宮口が開きやすいのよ」と言ったので、私は出来るだけ力を入れないように試みた。朦朧とする頭の中で「痛みを受け入れよう。痛みを感じないようにもがくから余計苦しいんだ」と悟りを開いたような境地になり、腰にも力を入れず、陣痛の波に素直に従ってみた。すると叫ばないでいることができた。しかし周りには私が急に黙り込んだため、陣痛が弱まったように見えたらしい。午後2時ごろ先生の診察があった。「いきんでみていいよ。そしたら全開大になるかもしれないから」と言われた。私はまだそんなにいきみたいわけでは無かったがやってみた。「うんちも出ちゃうよー」と叫びながらいきんだ。果たして出てしまったと思う。陣痛促進剤の内服も併用するように支持されたが、私は拒否した(こんなに痛いのに!ヤダ!と)。その後は再び叫ばずにはいられない状況となった。さっき悟りを開いたつもりだったのにぃと泣き叫んだ。痛みのたびにいきまずにはいられなくなり、いきむとその後に猛烈な腰の痛みがあり、もう何が何だか分からなくなった。しばらくして婦長さんが再度内診した。やっと全開大になったらしく「さあ、もう生まれるよ。分娩室に移動するよ!」と言った。「ええ?歩けないよぉ。」ともう理性のすっかり無くなった私は駄々をこねた。「じゃあ旦那さんにお姫様抱っこしてもらう?」婦長はあきれて言った。「無理!歩く!」と宣言し痛みが引いた瞬間私は立ち上がった。婦長さんが点滴棒を押しあわてて私の後についた。分娩室に駆け込む途中、廊下にいた私の母親が「ママとは違うから大丈夫って先生おっしゃってたよ」と耳元で言った。??と思ったが気にしなかった。分娩台に上がると婦長が「膀胱におしっこたまってるんじゃない?導尿しましょうか」と言った。私はこれも断固拒否した。「嫌です!」管を入れるなんてとんでもない!いじらないで!という心境だった。もうここからは自由にいきんでいいよ言われ、私は腰の痛みを恐れつつも陣痛のたびに「ヴーン」とすごい声を出していきんだ。1回の陣痛に2回はいきんだ。夫はいつの間にか分娩室にいて私の肩をさすっていた。3,4回の陣痛の後、先生が入ってきた。ディスポの術衣を厳かに身にまとい「助けてあげるからね」と言った。吸引分娩することになったのだった。あれよあれよという間に局所麻酔をされ会陰切開された。どのように吸引のカップをつけたのかは分からなかった。「次いきんだら生まれるよ」と言われ「本当?絶対?」などとまたも子供のように言ってしまった。「うーん」といきんだ。しかし生まれなかった。大きなボーリングの玉が挟まっているような感じでとても尋常なこととは思えなかった。生まれないじゃん!と怒りをこめて「こんな状況でストップなんて耐えられない!」と叫んだ。それに対してスタッフは苦笑いしていたと思う。再度陣痛がやって来た。私は力の限りいきんだ。2回目いきんだときに「もういいわよ力抜いて」と言われいきむのをやめてみた。するとスルスルスルとすべる様に股間から赤ん坊が取り出された。その瞬間信じられないくらい楽になった。「男の子ですよ」と誰かが言った。その子は直ぐには泣かなかった。数回のサクションの後「オギャア」と甲高い声で泣いた。私はこういう場面をテレビなどでみると必ずウルウルしていたのに、いざ自分のときは放心状態で全然涙も出なかった。へその緒がつながったまま私の胸に赤ん坊が載せられた。確かな重みを実感した。赤ん坊の指が5本そろっていることを確認した。嬉しいとか、母性がわいてくるとか、そんなドラマチックな感動は無かった。ただただ終わったことにホッとした。臍帯を触ってみなさいと言われ、ぎゅっと握ってみた。拍動を僅かに感じた。「ご自分でへそのを切りますか?」と言われたが私は断った(まだ駄々っ子が続いていたかも)。夫は私の頭をいつまでも撫でてくれていた。後から分かったのだが、夫は顔をくちゃくちゃにして泣いていたらしい。カメラを持って入らなかった彼は、先生に促され慌てて病室にとりに行った。その間私は、もう一度小さくいきみ胎盤を出した。見ますか?と言われたがこれも拒否した…。その後会陰の縫合を受けた。体重などを計測するため赤ん坊はいったん引き離された。そのとき泣き止んでいた赤ん坊が再び元気に泣いた。私を母と分かってくれたのだろうか。計測を終えた赤ん坊は夫の手に抱かれ、廊下で待つ4人の両親たちと対面した(後から写真を見た)。私はもう口をきくことが出来ないくらいぐったりしていた。あれだけ泣き叫んで恥ずかしい…という思いもあったのかもしれない。黙々とされるがままになり車椅子で病室に戻った。そこで久々に両親たちと対面した。「お疲れさま。よく頑張ったね」と口々に言われたが、当然私のすざまじい声を聞いていただろうと思われ、苦笑いで返した。赤ん坊は吸引分娩のため頭が変形しており、胎脂といわれる羊水のごみも頭に沢山つけていた。でもいいにおいに感じた。看護婦さんの指示でおっぱいも吸わせてみた。一生懸命吸い付いていた。誰に教えられたわけでもないのに。夫の両親、私の両親も名残惜しそうに帰っていった。その後夫と二人で赤ん坊を囲み、互いを労った。私は夫に深く感謝した。見捨てないでくれてありがとう。わがままな私に切れないでくれてありがとう。夫もよく頑張ったねとすりすりしてくれた。こうして36時間にもわたった私の出産は終わった。1月26日午後3時42分。無事生まれてきてくれてありがと。
2004.01.26
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便秘で産院に駆け込み、フライングとなった1月23日から2日後。1月25日未明。それはやってきた。私は元来夜型で、夫と一緒にベッドに入っても絶対すぐには眠れない。逆に夫はベッドに入ると1分以内で眠ってしまう。おまけに真っ暗にしないと嫌だという人なので、眠れない私が脇で本を読むことも出来ない…。眠れるんだから明るくたっていいじゃん!とも思うのだが。飛行機のようなスポットライトの明かりが欲しいところだ。夫が寝入ってしまうと、私はいつものようにベッドを抜け出しリビングで文庫本を読み始めた。午後11時くらいからだっただろうか。大して面白い本でもなかったが全然眠くならなかった。ついに午前2時半ごろその本を読み終えてしまった。しかたなくベッドに戻って眠ろうと試みた…。うとうとと僅かにまどろんだだろうか。ジワジワと下腹部がせり上がって来るような痛みを自覚した。時計を見ると午前3時30分であった。痛みはある程度上ってくると引いていった。時間にして1分間程度。しかし20分後同じ痛みが再度襲ってきた。こ、これはもしや陣痛か?しかし23日の経緯もありしばらく黙って堪えることにした。3,4回目の痛みのとき、月経時の経血のようにジョボっと膣から液体が流れ出る感覚があった。破水?あわてて起き上がりトイレで確認した。無色透明の液体で下着が濡れていた。破水かな?確信は持てなかった。でも夫を起こすことにした。すでに時間は5時過ぎになっており夫は難なく眼を覚ました。「今度こそホントなの?」と疑いを隠そうともしなかったが、私が陣痛であることは間違いないと確信を持って伝えると信じてくれた。破水であればすぐ産院へ向かわなければならない。陣痛だけならまだ20分おきで慌てる必要はない。その日は夫が日当直の日で午前9時から翌日の午前9時まで24時間勤務なのであった。私たちは破水でないことを祈った。せめて明日にしてくれ!と願った。とりあえず起きて様子を見ていると午前6時には陣痛は10分おきになった。産院に電話すると「では朝食を食べてから来て下さい」とのことであり、夫が流暢に作った雑炊を食べてからいざ出陣!となった。陣痛はずっと10分おきであり強弱に変化はなかった。産院到着。ナースステーションを覗くと、何と1月23日と同じ助産師だった…(汗)。なぜだ?ずいぶん夜勤の頻繁な病院なんだな…恥ずかしいよ。「今度は本当だと思います」とテレながら挨拶した。診察を受けると「子宮口はまだやっと1.5cmですね。でも破水の検査は陽性ですので入院となります」と高らかに宣言を受けた。今日だと夫が立ち会えないよ…という気持ちもあったが、自分の言っていることが認められた…良かった入院だ…という気持ちのほうが大きかった。すぐに服を着替え(お仕着せの分娩着)陣痛室に入院した。夫はやや名残惜しそうにしながらも仕事へ向かった。そして、私の長い長いお産がスタートしたのだった。夫は日当直に出かけ、たった一人取り残された。まず分娩監視装置をつけられた。胎児心拍は130bpmで安定しており陣痛はほぼ10分おきに来ていた。陣痛の合間を縫って両親に携帯メールを出した(この病院は午前7時から午後9時の間なら携帯使用OKなのだ)。両親ははるか遠くの埼玉県(ちなみに私は北海道に住んでいます)在住なのでメールしてもどうしようもないのだが、心細さを紛らわすため連絡してみた。意外にも返事は数分で返って来た。「とりあえずそちらに向かうから病院の名前と住所教えて」とのことだった。何!来るって?びっくりした。メールを打つのももどかしく直接コールした。母親の声を聞き何だかホッとした。来てくれるのもありがたかった。「お母さんになるんだから頑張りなさいよ」と言われた。頑張れと母親から言われたのは何年ぶりだろう。その後私は用意してきた推理小説を読もうと試みた。話に入っていきやすいようにわざわざ途中まで読んで保留にしておいたものだ。「重力ピエロ」という2003年度の話題作だった。しかし、読めたもんじゃないんだな…これが。例え陣痛の合間でも集中できないのだ。文字を追っているだけになってしまう。ははは。あきらめた私はただボーっと天井を見つめていた。入院時の助産師の話だと10時ごろ先生が来て診察してその後の方針を決めるとのことであった。私の予想としては破水したのだから当然陣痛促進剤を使うと思っていた。そして5,6時間で生まれるだろう…なんて考えていた。しかし、先生は内診すると「まだ子宮口が固いね。やっと2cm開大だね。うんこのまま行こう」とのたまった。え?このままってどういうこと?自然の陣痛に任せるってことか…。破水してるのに…とチラッと思ったが、「出来るだけ自然のお産を」がモットーの病院だからかな…と納得してしまった。破水しているから感染予防に毎食後抗生剤を内服した。食事なんてほとんど取れなかったけれど。生まれるまでにはまだ時間がかかるとのことで陣痛室を追い出され、一般の病室に移った。テレビもあるから気分が紛れるでしょうと言われたが、これも本と同じで集中できないんだよね…。お昼過ぎに夫の両親が来た。不思議とその間は陣痛が来てもそれほど苦しまないでいられた。やはり他人の前ではちゃんとしなきゃと、この時点では理性もあったのだろう。夫の両親は私たちの家から車で20分程度のところに住んでおり、妊娠中も何かと食料を供給してくれたり世話を焼いてくれた。今回も色々飲み物、食べ物を差し入れてくれた。午後2時になると私の両親が千歳空港に着いたとの連絡があった。早…。夫の両親が車で迎えに行ってくれた。午後4時過ぎには親たち4人がそろい、狭い病室(3人部屋を1人で使わせてもらっていた)が埋まった。最初こそ気を使っていたが、だんだんその余裕もなくなり(陣痛は5,6分おきだった)母親には「痛い痛い」と連呼してしまった。両親同士は結婚式以来の対面であり特に話すこともないようであった。かみ合わない会話を繰り返していた。「うちに泊まれ」という夫両親の誘いを丁寧に?断り、私の両親は近くのホテルに宿泊することになった。そうこうするうちに夫からメールあり。当直分は技師長に代わってもらえることになり午後6時には来れるとの連絡あった。夜中に生まれるだろうとの希望的観測をしていたため、夫が夜中付いていてくれるなら立ち会えるな…ほっとした。夫の到着まで私の両親のみ残った。久しぶりの親子水入らず?となり私は痛いのを隠すのをやめた。陣痛のたびに痛いよ…と言い、助産師の訪室の際には「痛くないときも痛いんです」と実しやかに言ってしまった。母親は最近見た映画の話や読んだ本の話などをしていた。義理の母や夫とは決してしない話題なので、こういう会話に飢えていたよ…痛くなければもっと楽しいのに…と思った。その脇で父親は持参したパソコンを病室のコンセントに遠慮なくつなぎ、ひたすらフリーセルを繰り返していた。午後7時ごろ夫が到着した。私の両親は一通り挨拶するとホテルへ引き上げていった。長い夜は始まった。陣痛は5~7分おきくらいだった。1時間に一度助産師が来て胎児心拍を確認していった。陣痛の強さは私には徐々に耐え難いものになっていた。実際はそれほど強くなってはいなかったのかもしれないが、なかなか進まないお産に対する苛立ちと疲労から痛みに対する閾値はどんどん低下していった。陣痛のたびにベッドサイドの夫の腕を握り締めた。そのとき彼が着ていたシャツの「Posh Boy」のタグが印象に残っている。夫にほぼ1時間ごとに時間を確認した。全然進まない…。早く子宮口開いて!でなければ、時間よ早く進んで!叫んでいた。夫は最初こそ優しかった。腰をさすってくれたり、汗を拭いてくれたり…通り一遍のことはしてくれた。しかし、ついに彼も切れそうになったのか、苦しみ弱音を吐く私の前で、忘れられない台詞を吐いてくれた「○○たんにはお産は荷が重すぎたかな…」そのときはガーンと思った。私苦しみすぎ?そんなこと今言わなくたっていいじゃん!とがっかりした。でも反論する元気もなく、その後しばらくは黙って痛みに耐えた。明け方、夫は脇でウトウトしているので隣のベッドに寝てもらった。私としては精一杯の理性で夫に睡眠を提供したのだ。でもそれからも長かった。助産師はその後も湯たんぽを持ってきてくれたり、ベッドを整えてくれたり、優しく励ましてくれたり…脇でぐうぐう寝ている夫とは違い根気良く接してくれた。「明日の朝から陣痛促進剤を使うことになると思うから」と言ったのに対し、私は「どうして今使うのじゃ駄目なの?」と聞いたら「こんな夜中じゃ赤ちゃんにストレスかかるでしょ」と言われた。その時はそんなものかな…と納得してしまったが(案外押しの弱い私)、後から友人に聞くと、そんなの病院の都合でしょと言われた。私は一睡も出来ずに夜が明けていった。人生で最も長い一夜はこうして過ぎていったのだった。
2004.01.25
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1月23日金曜日。予定日5日前。予定日2週間前からは、いつ産まれても文句は言えない…と覚悟しており、なんだか何も手につかない状況が続いていた。それまで通っていたスイミングクラブもさぼりがち。ひたすらテレビ・推理小説の毎日だった。今思えば、私のお産との戦いはこの1月23日から既にスタートしていたといえる。早朝5時半。私は便意を感じてトイレに立てこもっていた。お腹は激しく渋るくせに身が出ないのだ。一生懸命気張ると子宮が張ってくる。だからあまり頑張れない。しかし便意は断続的に襲ってくる…。次第に冷や汗も出てきて…。子宮の張りも強くなって…。もしかしてこの張りは陣痛?しかも便器の中を見ると身はもちろん出てないが水が赤く染まっている。トイレットペーパーで拭くと肛門ではなく膣付近で血が付着するのだ…。おしるし?異常な出血?寝ぼけていた頭がどんどん不安に埋まっていく。30分も頑張っただろうか。寝室に戻り寝ている夫に相談した。産院に電話して見ることになった。頭のどこかでは、これは陣痛ではない…と分かってはいたが電話に出た助産師には「痛みが断続的に襲ってきてご飯も食べられません」と嘘ではないが、事態をより深刻に伝えてしまった。で来院してくれということになり夫の運転する車で自宅から3,40分の産院に向かった。結果は当然フライング。単なる便秘のしぶり腹ということで、浣腸をしてもらい、外来で医師の診察を受け帰宅した。みんな口には出さないけれど嗤っていたと思う。夫もあきれていた。だけどね、痛かったしどうしようもなかったんだもん。自分でコントロールできない便意は辛いよ…。んで帰りの車だって辛かったんだから。浣腸したってちっとも良くならなかったし。自宅に帰り着いてベッドに横になりその日は半日横になっていた。夫は遅刻して仕事へ向かった。それ以来夫は私の便通を異常に気にするようになり、毎日「今日は便出たの?出てなかったら浣腸だよ」とニヤッとするのだ。私は夫はサドだと確信したのだった。
2004.01.23
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