一即多、多即一

一即多、多即一

武術の本質


の場合は実際にやるよりも、見ることの方が好きであった。

 生まれてこの方私は本格的な喧嘩や殴り合いをしたことがない。一人っ子だか
ら兄弟喧嘩も無縁だったし、そもそも人との争いごとが嫌いであった。

 そのようなわたしがなぜ格闘技や武道に関心を持ったのか?まずは肉体の弱さ
に対するコンプレックスがあったと思う。私は肉体があまり強くなく、肉体の強
さに対してあこがれを抱いていた。

 しかしそれよりも強い動機としては、精神面にあったと思う。格闘技において
は肉体の強さは不可欠だが、それと共に心の強さも重要な要素を持つ。
 総合格闘技プライドの王者、エメリヤエンコ・ヒョードルは肉体が非常に強く
車が大破する事故にあっても、自分自身はかすり傷一つなかった。
 しかし、彼の強さはそれだけではない。試合の時バックドロップの体勢で頭か
ら落とされ、首に相当の負担がかかった。普通ならそこで心がおれてしまい、負
けてしまうものである。
 しかし彼は投げられている間によけいなことは一切考えず、どのようにして受
け身をとって、ダメージを少なくするかと冷静に考え実行した。そして、頭から
落とされてもすぐに相手の動きに対応し、関節を決めてあっさりと勝利してしま
った。
 これは彼の精神の強さをよくあらわしていると思う。格闘技の世界で超一流の
選手は、肉体の強さや技術に優れているだけでなく、心の強さもある。その点に
私は惹かれる。

 武術となると更に精神的である。針ヶ谷夕雲(はりがや・せきうん)という剣
の一派無住心剣術の創始者がいた。夕雲は他流試合を生涯五十二度行い、一度も
負けなかったが、彼の到達した境地は「相抜け」であった。

 「相抜け」とは何か?実際に剣を交えることなく、相手に対しただけでその力
量がわかり、無用な戦いを避け、剣を収める。そういうことは剣の歴史の中でた
びたびあったものらしい。

 針ヶ谷夕雲が、晩年、その弟子・小出切一雲と対した仕合がある。この時、夕
雲70歳、一雲34歳。
 師が弟子に印可(免許)を与えるか否かを試す仕合だったが、この時もまった
く戦わずして剣を引いてしまった。技量伯仲して双方とも進むことも引くことも
できず、そのまま闘争心が無くなってしまったのだという。こういう現象を「相
抜け」というのだそうだ。
 師・夕雲は何を思ったのか、懐(ふところ)より数珠を取り出し、香を焚いて
一雲を拝んだというのである。これはもはや凡人には解らない宗教的な境地では
ないか。

中矢伸一論稿集より

 武術も極まれば、一切の争いを超え、真の平和に通じる道となる。超一流の武
術家が、宗教的になっていった例は多くあるが、真の宗教や武術とは、人間の生
きる上においての極意を追求し、それを達成するものであろう。

 現代において格闘技や武術を志す人たちは、このあたりの本質を見失っている
人が多いように思う。それは宗教においてもそうであろう。宗教や哲学にしろ、
武術にしろ本質を見失うことなく、本来の極意を追求し、人類が真の平和を得る
ためのものとしていくことが大切である。


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