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私たちは普段目覚めていると思っているが、実はまだ眠っているに等しい。非常に深い瞑想状態に至ると、普段よりはるかにはっきりと鮮明な意識になる。すると普段の意識もどんよりとしたものであることが分かる。 私たちは幻影に惑わされている。大切なものを大切と考えず、そうでないものをありがたく感じてしまう。しかし目覚めた人は、幻影に惑わされることが無い。そういった人を覚者、目覚めた人という。 私も未だに眠った状態である。私は一日も早く目覚めたい。
2005.04.27
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前回も書いたが、エネルギー状態があまりにも酷く、ヨガの行や瞑想だけでは太刀打ちできず、別の力を借りる事にした。そこで行ったのがカラーパンクチャーである。 これは非常に簡単に言うならば、色と光の針治療みたいなものである。様々な色の光を各ポイントに当てる。私は針治療を受けた事は無いが、当然痛みもあるだろう。しかしカラーパンクチャーでは光を当てるだけだから、痛みは全く無い。そして敏感な人なら、行っている最中から何らかの変化を感じるだろう。比較的即効性もあるし、副作用も無いということである。さらに凄いのは、肉体的なものだけでなく、精神的なものにも作用するのである。いったん意識の揺れが生じる事もあるが、それは浄化作用であり、その後精神的にも非常に落ち着く。トラウマの浄化作用もあるようである。 最近はカラーパンクチャーも五行の理論や密教の五大元素の理論も取り入れており、単なるヒーリング、セラピーの枠を超えてきているようだ。開発者はピーター・マンデルという人物だが、カバラも行っていて、おそらく瞑想も実践しているであろう。世の中にはいろいろなものがあり、様々な人物が居るものである。 さて実際に行ってみてどうだったかだが、キルリアン写真が酷かったのでカラーパンクチャーを行い、数日後また取ってみたのだが、ほとんどエネルギーの反応がなかったのが、はっきりと反応が出ていた。撮ってくれた人も短期間でこれほど反応が出てくるのは珍しいと言っていた。 そして通常のものだけでなく、さらにパワフルなものも行うようにしてみると、いったん非常に体がだるくなり、精神的にも不安定になる時があったが、その後瞑想していて、ものすごく氣が充実し、風船がどんどん膨張していくような感覚があった。肉体の感覚が完全に変わってしまい、微細な状態になっていく感覚である。そして体が熱くなり、軽やかになり、とてもエネルギッシュになった。本来の自分はこういう状態だったのだと思い出した。これもカラーパンクチャーの効果だけでなく、様々な行や瞑想の効果も加味されて物だと思うが、それにしてもカラーパンクチャーの効果は、非常に大きいと感じた。 少なくとも後数日は続けていく予定なので、これからどうなるか楽しみである。
2005.04.17
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最近体調は回復してきていると書いてきたが、キルリアン写真(エネルギーを撮る写真)を撮ったところ、老人並みのエネルギーしか出ていなかった。ということは以前はもっとひどかったことになる。この結果には少々驚いたが、冷静になって考えてみると、確かにその通りであったと感じる。自分に対する過信があったようだ。まだまだ回復に努める必要がある。 普通だったら活動もままならない状態であったはずだったが、何とか持ちこたえていたのは、以前からの修練の賜物であろう。そういったものはやはり自分を助けてくれる。 また元々自分自身で持っているエネルギーはかなり弱くなってしまっているが、外側からくるエネルギーは感じ取っている。これはまだ守られているからであると思う。密教では加護を受けると言うが、自分だけでは修行を進めることも大変で、大いなる存在から守られていくことによって進めていくということである。自分自身の持っていると力など、そういった存在からすると、実に小さいものだと思う。 とにかく自分の状態がはっきりわかったので、今後もより心身の充実に努めよう。
2005.04.09
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メルマガ、全ての本質を求めて今回も、カルマについてです。私たちはカルマの制約を受けているという見方も出来ます。 ではこのカルマから脱却する、浄化するすべは無いのでし ょうか? それは存在すると言えます。否定的な感情、思い、煩悩を なくしていくことがそのために必要なことではないかと思 います。 この世にはうらみ、憎しみ、嫉妬、怒りなどが満ちていま す。そしてそれらは深層意識にストックされています。邪 気という言い方も出来るでしょう。これがカルマの因では 無いかと思います。 これは唯心論、心の働きで現象は決まるという考え方に基 づきます。仏教やヒンドゥー教の一派では、このような考 え方をします。この世はマーヤ、幻影であり、実態ではな いとするのです。 ここに映写機があると考えてみましょう。そこにあるフィ ルムに光が照射され、スクリーンに映像が映し出されます。 光がもともと私たちの心の輝きであり、フィルムが欲望や 煩悩であり、スクリーンが外界です。心の働きがこのよう な形で外界に投影されるのです。 このような形で内側のものが外側に現れるとするならば、 関係ないと思っていることでも、全て自分に因があること となり、自分でなしたことは自分に返ってきて当たり前で はないかという考えにいたります。 普段私たちは、自分と他人は別々であると思っています。 しかし、カルマの法則の認識が深まってくると、自分と他 人はつながっていて、同じ事を考えていると気づきます。 私たちが世界を作り出しているのです。 では、邪気や否定的な思い、煩悩を滅却する手段として、 どのようなものがあるでしょうか? たとえばサイコセラピー(心理療法)、瞑想、気功法、ヨガ などがあるでしょう。 サイコセラピーについては、いずれもっと詳しく取り上げたいと思います。 瞑想についても次回あたりでより詳しく取り上げます。 ではもう少し具体的に、否定的な思いや煩悩にどのように取 り組んでいくか、検討してみます。 否定的な思いなどが出てきたとき、それを無理やり押さえ込 もうとする人もいるでしょう。しかし、これをやりすぎると、 深層意識に固定されてしまったりします。 ではどうすればいいか?否定も肯定もせず、ただ自覚し見つ めていき、それを客観的に見ているもう一人の自分を認識し ます。そして自分を冷静にかつ温かく見守るのです。 否定的な感情にとらわれているときは、そこに没入してしま っています。しかし、冷静に一歩離れて客観的に自分を見る ことができれば、そういった思いから開放されていくもので す。 また、私たちは自分の意思や考えだけではどうにもならない ことがあります。より大きな流れの中にいるわけですが、そ の流れに逆らわず、身をゆだねることも必要です。流れに逆 らうと、エネルギーの消耗に繋がります。私も下手にじたば たして、ひどく消耗してしまったことが何度もありました。 そこでじたばたするのをやめ、流れに身をゆだねると、とて も楽になり、現象が好転していくことが何度もありました。 そして、自分の本質、これは宗教的な言い方をすると、真我 や仏性という言い方になると思いますが、そこからのメッセ ージにしっかりと耳を傾けることです。 あとこれは少し難しいかもしれませんが、悪いことが起こっ ても、これは自分のカルマであると認識し、じっと耐えるこ とです。仏教でも耐え忍ぶ修行、実践があります。昨今は耐 え忍ぶことがあまりいい印象が無いような気がしますが、何 かあっても耐えることなく、怒ったり落ち込んだりしてしま うと、また新たなカルマをつんでしまうことになります。よ くわくわくすることをしなさい、と言われますが、人間そう わくわくすることばかりしてもいられません。時には理不尽 なこともあるでしょう。そこはぐっと耐え忍んで、黙々と行 うことができれば、現象もやがて好転していくはずです。ぐ ちゃぐちゃと否定的になっていると、ますます悪い事態にな っていってしまいます。 登録はこちらからどうぞ
2005.04.04
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瞑想していると、光が見えてきたりするが、これにとらわれてはいけないが、重要なポイントであると思う。チベット密教では光明のヨーガという修行法もあり、これは可視光線ではないという意見もあるが、瞑想になれた人たちの話しを聞いていると、実際に光が見える人が多い。またチベットの死者の書でも、光の描写が色々出てくる。結局体験しないとわからない世界である。 以前は目の前に見えることが多かったが、最近は内側から光が発せられているようなことが多いような気がする。細胞か遺伝子だったか忘れたが、光を発しているそうだから、内側から光を発しているのも決して荒唐無稽ではないと思う。 以前は非常に強い光を経験したが、最近はまだ弱い。しかし少しずつそのときの状態に戻りつつあると思う。
2005.03.26
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しばらく人と接するのも最小限にし、パソコンともあまり向き合わず、体を動かしたり、瞑想をすることに時間を多く費やしているが、体調や精神状態も回復してきた。それまでが少々疲弊しすぎていたようである。その状態にどっぷりつかっていると、己の状態もよく把握できないもので、回復してくるといかにその前が大変な状態だったかがわかってくる。 知り合いに、数日前は顔色も悪く、やつれたおっさんのような顔をしていたが、だいぶよくなってきたね、といった趣旨のことを言われた。なるほどそうだったのかと妙に納得してしまった。今は顔つきもまともになってきたのだろう。ということは、数日前はどんなものだったのだろうか? 多くの人と接して指導をしたり、ネットでもいろいろな方とやり取りをすることも大事だが、瞑想に没頭し、内側を充実させる作業もやはり大事であることを、近頃改めて痛感している。しばらくこういった状態が続くだろうが、今はこのような生活スタイルをとることが自分にとって必要なことであると感じる。
2005.03.19
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数日前の日記にも書きましたが、体が想像以上に弱っており、それにともなって精神状態も決して良い状態とは言えない日が続きました。今は一時期より良くなりましたが、休養が必要な時期であると思い始めました。 ネットでのやりとりは、多くの人と知り合うことができて、わたしにとってとても有意義なものですが、エネルギーもかなり使ってしまっていました。敏感な方ならおわかりでしょうが、ネットでもかなりエネルギーの消耗や交換が起こります。ネットで呪詛をかける人もいるそうです。 今まで日記もあけることは長くても五日間程度でしたが、しばらくは頻繁な更新はできなくなると思います。コメントやメールの返事もすぐにできないかもしれませんが、ご了承下さい。 いつになるかわかりませんが、いずれはまた頻繁に更新するようにしたいと思います。しばらく充電期間をおいてリフレッシュいたします。
2005.03.09
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メルマガ、全ての本質を求めて今回は、カルマについてです。カルマとはサンスクリット語で、行動、行い、を意味します。また想念という意味も含まれます。一般にカルマというと悪いイメージを持たれることが多いですが、本来はカルマに善悪はありません。わたしたちは日常色々な思いをし、言葉を発し、行動をとっています。これらはいずれ必ず自分に返ってくる。これがカルマの法則です。因果応報と同じですね。カルマの法則が正しいとすると、他人から受けることは、他人のせいではなく、自分に因があることになります。電車の中で見ず知らずの他人に足を踏まれたとしたら、それは偶然ではなく、自分の過去の行為や想念がもたらした、必然の結果ということになります。そして、自分に返ってくる時には、直接その相手から返ってくるとは限らず、まったく別の人から返ってくることが多いのです。そして、足を踏んだ人はまた別の人から足を踏まれる結果となり、そういった因果応報の複雑なネットワークを形成しているのがこの世であるとされます。普通私たちは、身の回りで起こることは、多くが偶然に起こっていると考えます。しかし、心の底でどこか偶然ではなく、必然であると考える人も、案外多いかもしれません。カルマの法則を信じる人も少なくないのは、そのあらわれでしょう。前号で想念の実現化や、表層意識と深層意識の食い違いについて述べてきました。カルマの法則も、そこから説明できるのではないでしょうか。深層心理では、表層意識で忘れたと思っていることも、全て記憶しているといわれます。そして良い思いも悪い思いも、心の奥底に蓄えられています。その思いが、いずれ何らかの形で現実化していくのです。そして、これが繰り返されていくのが、カルマの法則ではないかと思っています。 また、インドに古来から伝わるヴェーダでは、わたしたちの一つの行為、言葉、想いはそれがどんなに些細なものであっても、波動となって宇宙全体に広がり、そうして様々な星に“当たって”正確に相手に、あるいは自分に返ってくると表現しています。こういったことは現代科学的に、完璧な証明ができるわけではありません。しかし、瞑想などを実践し、深い洞察力と、鋭敏な感性をやしなっていけば、誰でも感じ取れてくるものです。カルマは自分がなしたことが、常に全く同じ形で返ってくるわけではなく、またすぐに返るとも限りません。ですからカルマの法則を実感しにくいわけですが、瞑想などで、心を透明にしていくと、カルマがはっきりと理解できるようになってきます。ではカルマの法則が存在すると仮定して、わたしたちはそこから逃れることはできないのでしょうか?カルマは原因、条件、結果によって成り立っています。このうちのどれか一つでも欠けると、カルマの法則は成り立ちません。また、原因、条件、結果は時間の経過があって成り立つものですが、時間のない世界では因果律が成り立たないのです。いわゆるこの世では時間の経過があるので、カルマの法則が成立しますが、あの世では時間がないので、カルマの法則も成立しないことになります。瞑想に熟達した聖者は、もはやカルマの影響を受けない、という経典の記述もありますが、これは瞑想で三昧にいたり、この世を超え時間の存在しない世界へ到達してしまうからではないでしょうか?登録はこちらからお願いします。
2005.03.09
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日中外を歩いていると、暖かさを感じた。これなら春らしいなと感じた。3月になっても雪が降るなど春らしさを感じなかったが、ここにきてようやく春の訪れがやってきたように思う。 今は季節の変わり目だが、このときは体調に注意する必要がある。わたしは季節の変わり目に体調を崩すことも多かった。体が寒い状態になれていたのが急に暖かくなると、体に変調を来しやすい。またわたしは汗っかきなのだが、厚着をしていて暖かい状態だと、汗を多くかき体が冷えて体調が崩れてしまうことがある。この季節は着替えもうまく行う必要がある。 最近は日が長くなってきたが、わたしは日が短いよりは長い方が良い。日光が長く当たっていた方が、氣をふんだんに取り入れられるように思う。もっとも最近は紫外線の影響がもろにくるので、あまり長く日光に当たっているのもよくないとされるが、日照時間が短いとうつ状態になりやすいように思う。そのような報告もあったはずである。 春と言えば花粉症の季節だが、わたしはアレルギー体質にもかかわらず、花粉症とは無縁であった。しかし、今年は例年の30倍から40倍の花粉という話があるから、どうなるかわからない。発症してほしくないけれども。
2005.03.08
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リンクさせて頂いている、ついてるファシリテーターさんからスリーインワンのセッションを受けた。 スリーインワンとは、大脳生理学や、構造神経学など色々なものを応用して、体、心、魂を統合していくものである。まずは筋反射テストを使って、体にどのようにすればよいかを聞いていき、セッションを進めていく。 筋反射テスト・キネシオロジーは、知らない人が見たり聞いたりしても、本当にそのようなことがあるのかと感じてしまうだろう。しかし、心と体が密接な関係があることがわかってきているが、その観点からすると、心の作用が肉体や筋肉に顕れても不思議ではないように思う。 キネシオロジーで色々と見てもらったが、やはり肉体が弱っているようであった。ここしばらくあまり肉体を顧みてこなかったので、もともと強くなかった肉体が、さらに弱くなってしまったのだろう。 問題点を決めて、それについていろいろと探っていくのだが、思いもかけないことが浮上してきたりする。わたしは、母親の胎内にいる時、それも受胎して一ヶ月ほどに母親の影響を受け、それを自分のものとして受け取ってしまったと出た。一般的な観念からすると、そういったことは考えられないだろう。しかしわたしは腑に落ちるものがあった。自分の中にある怒りや敵意が、そのときに形成され、しかもそれを表に出さないようにしてきたが、胎児の時に親の感じていた怒りや敵意などを自分のもののように受け止め、しかも胎児は能動的に表現することはできないから、内側にため込んでしまったように思う。 そして、わたしは周りから受ける影響を悪いものだと思いこんでしまっていたが、それは自分の糧となるように変容できるのだと気付いた。周りからの影響を悪いものだととらえてしまうことは、かなり根深いものであり、簡単に解決しないかもしれないが、自分の糧として変容できるという気づきを、意識の深い部分でおこなうことができたので、少しずつ改善していけるように思う。 セッションが終わってからもいろいろと興味深い話しを聞くことができた。セッションはそのときだけでなく、始まる前や終わってからも重要であると思う。 ヨガや気功など東洋の伝統的なものを中心に学んだり実践してきたが、このようなセラピーも有効であると思う。スリーインワンも学んで、今後の自分自身のことや、他の人に役立てていきたいと思った。 スリーインワンのトレーニングコースは色々と段階があり、多くの人が学んでいるが、スリーインワンを身につけて、実際にプロのセラピストやファシリテーターとして活動していくのは、ほんの一握りだそうである。多くの人は自分のために学んでいるらしい。それはそれでいいのかもしれない。実際セラピストやファシリテーター、ヨガなどの指導をしていくのも大変である。通常の人間関係と違い、深い領域でのコミュニケーションをとることになるが、これはかなり訓練をしないと難しいし、間違った方向にリードしてしまったら大変である。 ついてるファシリテーターさんは安心してみてもらえます。関心のある方は実際に受けてみると良いでしょう。
2005.03.08
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本日は日曜であり休みの日であるが、おもいきり寝てしまった。日曜日ならぬ寝て曜日であった。 わたしは寝ない時はあまり寝ないが、寝る時はとても長く寝てしまう。疲れがたまってくると、半日ほど寝てしまう。睡眠が短かったり逆に長かったりするのは、あまり良いことでも無いと思うが、こういった状態が長く続いている。 睡眠は短くてすむにこしたことは無いと思っている。人によっては3時間や4時間の睡眠で十分である。しかし、長く睡眠をとらないと駄目という人もいる。ナポレオンやエジソン、レオナルド・ダ・ヴィンチは短眠で有名だが、アインシュタインは長く寝ないと駄目だったそうである。体質によって、その人にあった睡眠時間があるのだろう。 世の中には不眠症というものがあるが、これはわたしにとって無縁である。わたしも元々心配性であり、いろいろ悩んだりすることもあったが、それで眠れないことはなかった。かえってそういう時は寝るに限るとぐうぐう寝てしまっていた。だから心配のあまり夜も眠れず、といったことは全くない。鬱などは眠れなくなると深刻であるそうだが、そういう意味では、わたしの悩みや苦しみはたいしたことはないのだろう。 ゆうべはちょっとお腹を下し、ねたら半日寝てしまったが、これも体の浄化作用だろう。すこし体も楽になったような気がする。気分も新たにすっきりとしていきたいと思う。
2005.03.06
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ここ数日ネットで知り合った方々とお会いすることが多い。とても多くの方と接してきたので、いちいちどなたとお会いしたか書けないのが残念というかそれくらい書けばいいかもしれないが、結構大変な作業になるので、省略させて頂きます。 3月2日はわたしの誕生日だったが、ネットで知り合った方と3時間あまり話しをし、その後場所を変えてヒーラーの人たちなどと色々話しをした。自分にとって、とても意義のある誕生日となった。 翌日のひな祭りでは、ネットで知り合った方々のライブに顔を出した。通常の音楽ではなく、倍音や波動が中心のものであると感じた。深い意識に入っていく感覚があったり、エネルギーが動いていく感覚があった。演奏しているお二人の様子を見ていると、トランス状態、軽い瞑想状態に入って演奏していると感じた。音楽を聞くのも演奏するのも瞑想であることが、よりはっきりとわかった。わたしもそういった音楽をやってみたくなった。楽器は全然できないけれども。 本日は非常に濃いメンバーが集まって、7時間近く話しをしていた。普通なら7時間も話しをしていたら、間が持たなかったりするものだが、全くそういうことはなかった。話の内容も色々とありすぎて思い出しきれないくらいである。実に色々な方がいるものであると思う。人と人とのつながりは面白いものである。こういった関係を大切にしていきたい。 わたしも人間関係が特定の分野の人たちに偏っていたが、色々な分野や考えの人と接することによって、見聞が広まってくる。これは自分の大きな財産となる気がする。 ネットにおける人間関係はそれだけで終わってしまうと希薄なものになるようにも思うが、きちんと活用すると無限の可能性があるとも思う。
2005.03.05
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僕はマスコミがいろんな攻撃をしてくるのを見ていました。見ていました、というのは、まるで何か自分ではないもののイメージに向かって、みんなが槍を射掛けたり、鉄砲を撃ったりしている感じがしたからです。しかし、その時僕は思いました。あ、先生が、世の中のよくない人たちの喜ぶ言葉を言ってはいけない、と言っていたのはこれなんだ、ということがよくわかりました。ですから僕はされるがままにしておこうと思いました。つまり自分のイメージなんていうものを僕の実体だと勘違いして、それに向かって槍を射たり鉄砲を撃ったりしている人たちがいても、なされるがままにしなければいけない、というのが先生の教えだと思いました。つまりこれが消えるまで放置しなければいけないし、そしてそれが消えたとき初めて僕がながいこと自分の心の中にかかっていた薄いベールから解き放たれるんだと思います。 古代ギリシャでは、真理の女神に会うときに「ベールを裂く」という言い方をされていますが、そういう状態が訪れるだろう。そのとき初めて自分は、頭で理解しているようなゾクチェンから解放されるだろう。そのためには社会的にも死ななければならないし、いろんな意味で自分の周りに作り上げたものから死を体験しなければいけないと思いました。人間の死もそうです。自分は自分の身体をもって生きていると思っています。そしてこの肉体が機能停止することをまるであたかもこの世界から自分が完全になくなってしまうかのように考えていますが、そんなことはありません。これはイメージと全く同じ作り上げられかたをしています。この肉体はいつかは機能を停止していきますが、私たちのセムニー(心の根源・霊性の根源)はこの肉体のイリュージョンが解体しても死ぬことはありません。普通世の中で言われている、不死とか遺伝子操作によって次の自分が残っていく、なんてこととは全く関係がないことです。が、同じです。つまり自分の社会的な姿をばらばらに引き裂いてしまって、なすがままに殺してしまわなけない。そしてこれが死んでいったときに、ようやく自分は肉体だけになって、肉体といっしょにあるこの魂と生きられるようになりますし、そうするとこの肉体というもう一つの、もっと根源的なイリュージョンが消え去っていくことさえ見届けることができるだろう。そういう状態にまでたどり着かなければいけないだろう。ああ、ラマの教えというのはすごいな、と僕は本当に思いました。これを確実に予言していました。そして、そうしなければいけないと先生は言っていましたから、1995年から2‐3年の間はとてもひどい目にあって、日本の精神・宗教の世界は混乱した状況を体験しましたが、僕には予言の成就としか思えませんでした。そしてこの予言はだれのものかというと、先生の予言であるし、グル・パドマサンバヴァの予言であると思いました。中沢新一氏ゾクチェン入門より 偉大な人物が、迫害を受けたり亡命を余儀なくされることはよく聞く話である。真実を追究していくとは、本当に大変なことでもある。社会的にも死ななければならないこともあるのだろう。自分というものを捨てていかなければならないこともあるかもしれない。 わたしも真実を追求していく上で色々大変なこともあったが、偉大な先達の方々に比べたら、何ということもない。自分にそういったものが耐えられるかどうかはわからないが、少しでも道は歩んでいきたいと思う。
2005.03.04
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朝起きて外を見ると、かなり雪が降っていた。3月にもなって雪が降るとは珍しいかと思うが、わたしが生まれた年は3月に大雪だったそうである。わたしは一昨日が誕生日だが、わたしが生まれて退院する時には雪がすごかったそうである。もちろんわたしは三島由紀夫とは違って、生まれてすぐのことなど記憶にはない。 雪が降ると電車のダイアは乱れるし、歩いていて履いているものが汚れたり、とても寒かったりと雪が降ることで喜ぶ大人はあまりいないだろう。しかし、今の子供は知らないが、わたしが子供の頃は雪が降るとみんな喜んだものである。東京では雪だるまが作れるほど雪が積もることはあまりなかったが、作った年もあった記憶がある。また雪合戦はよくやった。東京の雪は水気が多く、固まりにしてぶつけると結構いたい。パウダースノーだと当たってもさらさらとしてあまり痛くないが、水気が多い雪だと、少々きつい。 子供は雪を好み、大人はあまり好まない。またスキーを好む人にとって雪は大切なものであるが、そうでないひとにとっては雪が降っても降らなくても関係はない。同じ雪でもその人によってとらえかたがまるで違ってくる。これはなかなか面白いことである。 わたしたちは何事も色々とレッテルを貼りたがる。ある人にとって雪は遊ぶために必要不可欠な好ましいものであり、ある人にとっては寒くなるし、色々と弊害が起こるし、雪は好ましくないものとする。しかし、自分の貼ったレッテルは雪の本質を示していない。自分の貼ったレッテルをはがして、本質を見極めることは容易ではないが、大切なことだと思う。 東京では予報では雪はもう降らないようである。少しつもった雪もすぐに溶けてしまうだろう。儚いものであり、無常を感じずにいられない。
2005.03.04
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ネットで知り合った方々とお会いし、色々と話しをした。そこにはヒーラーの方もいらっしゃり、ヒーリングをしているところを見せてもらったりもした。 様々な話題が出たが、そこでサイババの話しもあった。わたしはサイババの信奉者でも崇拝者でもない。ただ、少なくとも偽物ではないだろうと思っている。そうでなければ非常に多くの人が彼の元を訪れたり、ボランティアに励むことはないだろう。 有意義な時間を過ごし、帰りの電車の中で、サイババについて書いてある本を読んでいた。すると自分自身が本質的なものに導かれていく感覚があった。これは何度か経験しているが、そう簡単に経験できることではない。ここで思ったのは、真理や本質へ至るには様々な道があり、一つではないことであった。サイババに関する文章を読んでいて、その様な経験をしていたわけだが、先ほども書いたようにわたしはサイババの信奉者でも崇拝者でもないし、この体験をしたから、信奉者になると決意したわけでもない。しかし、彼を通じて本質的なものに導かれていくような感じがしたのは事実である。以前のわたしだったら、崇拝もしていないひとから真理や本質に導かれることはないと考えていただろう。しかし、誰を信じると言うことが大切なのではなく、また道のりは色々あるのだということを、改めて感じ取った。 その体験は、時間がたつと弱くなってしまったが、わたしにとって貴重なものであった。このことを大切にしていきたいと思う。
2005.03.03
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本日はわたしの誕生日である。幼い頃は誕生日が来るのを楽しみにしていた時期もあったが、今はとりたててどうというものはない。月日のたつのははやくなったなあ、と感じるくらいである。 わたしは年男で、ということは24才になった、、ではなくて36となった。自分としては30代後半にさしかかったという事実が、どうもぴんとこない。いまだに20代のような感覚である。結婚をしていないからそう感じるのかもしれない。 かつてわたしは実際の年齢より上にみられることが多かった。学生時代学生と言ってびっくりされたことがある。てっきり勤め人かと思った、とそのとき言われた。それ以外にも年齢の割に落ち着いていて、もっと上かと思った、と言われたりもした。 しかし、若い頃に老けてみられた人は、年齢を経ると若く見られる場合も案外あるように思う。最近わたしは、以前とは逆に実際より下に見られることのほうがおおい。人によっては20代と言っても通用するという人もいる。ネットでの文章と実際にあうと印象が違うもので、わたしの書いた文章から40代か50代と思っていた人もいて、あってみて驚いたということもある。人の印象も面白いものである。 年をとるとはそれだけ死に近づいたことになるが、輪廻があるとするならば、次の生誕に一歩近づいたことになる。このような考え方からすると、若いとか年をとっているという感覚が、普通と違ったものになってくる。また生死の概念も違ったものになってくる。 とにかく今は年齢を重ねた事実をありのままに受け止め、年をとろうがとるまいが、一瞬一瞬を全力で生きるのみである。
2005.03.02
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先日知り合いのセラピストの方から、アロマとボディーワークと、エネルギーワークを組み合わせたセッションを受けた。セッションルームに行って早々、とてもやつれていると言われた。ここ数日ストレスがたまっていたので、外にもでているのだろうなあ、と思った。 ベッドに横になり、セッションが始まった。セラピストのご夫妻が行ってくれていたのだが、二人でそれぞれ役割を分担して行っていた。ボディーワークは痛みはほとんど無く、自然に体がゆるんでいく感じだった。わたしの関節は柔らかく、可動範囲も広いのだが、筋肉の部位によっては、非常に固くなかなかほぐれないようだった。これは単純に筋肉が固いというのではなく、長年にわたって色々な人を瞑想指導などしてきて、そこで受け取ったエネルギーや、邪気などがブロックとなってたまっていたものである。地層のように何層にもなっていたそうである。 わたしのエネルギー状態を見てもらったが、エネルギー体は非常に充実しているのだが、肉体がまったくエネルギーが不足した状態で、エネルギー体が肉体からもエネルギーを吸い取っているような状態ではないかと言われた。わたしは肉体よりもエネルギー体に注意を向けてしまい、肉体をなおざりにしてしまう傾向もあるので、そうかもしれないなと感じた。またこのままでは、肉体から意識が離れてしまうことを選択してしまうのではないかといわれた。わたしにはそういう傾向も確かにある。このままではどうやら本当にやばかったようだ。寿命が早く尽きてしまうことになっていたかもしれない。 わたしは胸のあたりに鉄板が入っているようなブロックがあり、また肝臓や腎臓のあたりにも詰まりがあった。そこに色々と蓄積されているのだろう。どろどろとしたエネルギーの固まりがあったようである。ある程度抜いてもらったが、完全には抜けきらなかった。 そして、わたしの上半身と下半身のエネルギー差は非常に大きかったようである。上半身は充実しているのだが、下半身はほとんどエネルギーが不足しており、かすかすだったようである。また足にも大きなブロックがあり、普通に日常生活をしている人で、こんなに足にブロックがある人ははじめてといわれた。普段から上半身に意識が向き、下半身をないがしろにしてきたから、そうなったのだろう。これはバランスをとる必要があると思った。 アロマを体に塗り込んでもらったが、体にどんどんオイルが浸透していったそうである。普通はもうすこしはじいてしまうものだが、どんどんしみこんでいき、体が必要としているのだろうということであった。そこまでなっていたかと驚いてしまった。 終わってすぐはぼーっとした感じであったが、少しずつ意識がはっきりしてくると、肉体にもエネルギーが充実しているのがわかった。顔色も良くなったと言われた。最近は肉体的にも精神的にもあまりいい状態ではないことを感じていたが、肉体は限界まで来ていたのだろう。意識が肉体から離れることを選択せざるをえないような状態とはよっぽどのことである。そこまでほっておいたのも、わたし自身に問題があったなと反省した。それにしても丁度いい時にセッションを受けることができたと思う。もう少し遅かったら、本当にどうなっていたかわからない。巡り合わせの不思議さを感じる。 回復してきた感じがあるので、もっと肉体も大事にし、肉体とエネルギー体のバランスをとるようにしていこうと思う。わたしにセッションをして下さったセラピスト夫妻のHPはこちらです。http://homepage2.nifty.com/love_and_peach/index.html
2005.03.01
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私の白いサリーは、貧しい人のなかで、私も貧しい人のひとりだというしるし。 私の身なりも生活も、病に倒れた人や、骨ばかりの子どもとひとつになるための糧。 『そして、不親切で冷淡でありながら奇蹟をおこなうよりは、むしろ親切と慈しみのうちに間違うほうを選びたい。』********** 貧しい人にふれる時、わたしたちは、実際に「キリスト」の身体にふれているのです。 わたしたちが、食べ物をあげるのは、着物を着せるのは、住まいをあげるのは、飢えて、裸の、そして家なしの「キリスト」に、なのです。********** 沖(日本人の名前)私はね、どんな人でも、もっとも貧しい人びとのために何かしたいという愛の心を持っている人なら歓迎しますよ。 プロテスタントでも回教徒でも、ユダヤの人でもヒンズー教徒でも、沖の国の仏教徒。 でもね、隣人に奉仕するのは「献身」と「祈り」と「愛」によってですよ。*********** いまの世の中、人間が人間を見捨てているのよね。親が子を、子が親を、兄が弟を、友が友を、隣人が隣人を。*********** 私は社会福祉家でもなければ、慈善事業家でもないのですよ。 私は「キリストのため」にやっているだけですから。***********マザーテレサの好きな祈り(聖フランシスコの「平和の祈り」より)神よ、わたしを、あなたの平和を実らせるために、用いてください。わたしが、憎しみのあるところに、愛をもたらすことができるように、また、争いのあるところに、和解を、分裂のあるところに、一致を、疑いのあるところに、真実を、絶望のあるところに、希望を、悲しみのあるところに、よろこびを、暗闇のあるところに、光をもたらすことができるように、助け、導いてください。神よ、わたしに、慰められることよりも、慰めることを、理解されることよりも、理解することを、愛されることよりも、愛することを望ませてください。わたしたちは、自分を与えることによって、与えられ、すすんでゆるすことによって、ゆるされ、人のために死ぬことによって、永遠の命をいただくのですから。 わたしはマザーテレサのことを余りよく知らない。しかし、このような言葉を聞いたり、彼女が実践してきたことを伝え聞くと、本当に頭の下がる思いがする。彼女は偽善によって物事を行っていたのではなく、本当の愛を持って人と接してきたのだと思う。 彼女はキリスト教徒であったと思うが、キリスト教が優れている、仏教が一番であるというものではなく、その人それぞれが、どのような実践をしているかが価値のあることであると思う。
2005.02.24
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本日発行のメルマガ、全ての本質を求めて今回は、想念の実現化と、表層意識と深層意識のギャップについてです。想念は実現化する。精神世界などではよく聞くことですね。例えば、雲を想念の力で動かしたり、消したりすることのできる人は案外多くいるという話も聞きます。しかし、思うこと全てがそのまま実現しているかといえば、そうだと言いきれる人はほとんどいないでしょう。普段の生活において、全てが思うがままにいくわけではありませんよね。人間は良い要素もあれば、悪い要素もある。肯定的な部分もあれば、否定的な部分もあるものです。人の深層心理でも、肯定的な要素と否定的な要素が必ずあるものです。そして、想念を実現化させようとしても、それに対して否定的な思いが出てきたりします。ですから、実現化する想念もあれば、実現化しない想念もあるわけですね。瞑想などを行い、深層心理にアプローチしていくことができるようになると、想念が現象化しやすくなります。しかし、これは危険な要素もあります。それは何でしょうか?それは否定的な要素も現象化してしまうこともあるわけです。ですから単純に深層心理に入っていく瞑想や、そういった技法は力はつきますが気をつけないと危険な場合もあるわけです。瞑想はきちんとした指導を受ける必要があるとされる大きな理由の一つがここにあります。このように、想念が実現化するということは、単純なものではないようです。表層の意識で思ったことが全て実現化するわけではないのですね。しかし、深層意識で思ったことが実現化することがある、いやそれどころか深層意識の想念によって、わたしたちは生きているという言い方もできるのではないかと思います。これは、幸福なことも不幸なことも、自分たちの深層意識が招いているということです。これにはすぐに首肯できない人も多いでしょう。「幸福をみんな望んでいる。わざわざ不幸なことを望むことなどあるものか」このように考えるのが自然ですね。しかし、例えば病気にしろ事故にしろ、表層意識ではそういう目にあいたい等と考えませんが、深層意識ではどのようなことを考えているかわからないのです。ですから深層意識や無意識、潜在意識などと言われるわけですけれども。わたしは数年前、サイコセラピー(心理療法)を習っていました。そのとき教わったこととして、表層意識と深層意識には大きな壁、ギャップがあるということでした。それによって、様々な問題や身体症状まで発生してしまうのです。わたしたちは、何々をしたいのだけどできない。あるいは何々をしたくないけれどもしてしまう。ということがよくあると思います。わたしは片づけが大の苦手です。部屋の片づけをしなければと考えるだけで心身が重くなり、何もやる気が起きなくなってしまうのです。もちろん片づけをしたほうがいいことは表層意識ではわかっているのです。しかし、深層意識の抵抗が、非常に強いのです。これなどまさに、何々したいけれどもできない、という例ですね。なぜこういうことが起こってしまうのか?それは先程も述べたように、表層意識と潜在意識の間に大きなギャップがあるからです。わたしの例でいえば、表層意識では片づけをしようと考える。しかし、深層意識では、とにかくやりたくない、と思っているのです。この表層意識と深層意識の食い違いが、様々な問題を引き起こすのです。わたしの場合は、他のことまで何もする気がなくなってしまう、という事態にまでなってしまうのです。これはこのギャップがもたらすものです。サイコセラピーを習っている時に、身体症状が出ている人でさえも、深層意識では、それを望んでいると教わりました。問題であるようなことも、その人にとっては意味があるのです。一寸聞いただけでは、信じにくい話しですが、治療を受けて症状がなおってくる。しかし、なおってしまうと困ると深層意識が判断し、また症状がぶり返す。あるいは表層意識でもなおると困ると認識するケースもあるそうです。ですから、一見その人にとって不幸と思えることでも、実はその人の深層意識が招いたことであるとも言えてしまうのです。その意味で私たちの想念は実現化し続けている。ということも言えると思います。ここで言えるのが、私たちにとって大切なことは、まず深層意識を理解すること。そして、表層意識と深層意識のギャップを無くしていくこと。そして表層意識と深層意識を統合していくことではないかと思います。今までの世界は分離する方向にいっていましたが、これからは何事も統合の方向にいくことが大切なのだと思います。登録はこちらからお願いします。
2005.02.22
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人間はどんな人にも弱点や苦手なものはある。それはどんな聖人君子であろうが、立派な人であろうが、必ず存在する。わたしももちろん多く存在する。 わたしにとって弱い要素、苦手なものとはなんであるか?それは片づけである。大げさに聞こえるかもしれないが、このことを考えるだけで、憂鬱な気分になり、他のことまで何もする気がなくなってしまう。ここまでくると病的である。 わたしのこういう状態は、きれい好きの人からすると、考えられないことであろう。わたしもちらかっているのがいいとは思わないが、片づけることの面倒くささを考えると、何も手をつけないという結論になってしまう。しかし、きれい好きの人からすると、片づけることが面倒とは思わないだろうし、たとえそう思っても、片づいていないことに耐えられないだろう。 わたしの部屋が全然片づかないのも、わたしの深層意識のある種の投影ではないかと思う。ひとは内面の奥底には非常に素晴らしい要素と、見るに耐えないぐちゃぐちゃな要素と両方がある。わたしも当然きれいな要素だけで成り立っているわけではない。見るに耐えないような要素も内在している。それがきちんと浄化していければいいのだが、まだまだ残っていて、それが自分の部屋の惨状となって投影されているように思う。 しかし、いつまでも逃げていられないし、そろそろ取り組む必要がある。思い切ってはじめましょうか。数時間後から。
2005.02.21
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映画「ガイアシンフォニー 第二番」ダライ・ラマ14世の言葉◆一番大切なのは「心」の問題 人間は知性を持っているがゆえに、様々な矛盾した心を持っていますが、それは必ずしも悪いことではない。 自然界では互いに対立する力が、おのずとバランスを取り合ってします。この仕組みは小さな草花でも、宇宙の運行でも同じことです。各部分が自由に働きながらバランスが取れているとき、全体はいきいきと活動します。 ところが、一度このバランスが崩れるとひとつひとつの力が敵対し始め、全体として異常や混乱が起きるのです。 しかし、人間には素晴らしい知性があるからこそ、遠い未来のことを想い、計画し、 変革してゆくことができるのです。ただ、その素晴らしい能力が建設的い使われるかは、その人が心の奥底に秘めている動機や意図によってきまってくるのです。 だから、心の動機・意図が実はもっとも大切なものなのです。もし、私達が持つこの素晴らしい能力を建設的な方向に発揮するなら、私達は自分自身のためだけでなく、この地球に住むすべての生命に対して、素晴らしい貢献ができるのです。さらに、仏教者の立場から言えば、人間は地球をはるかに超えた広大な宇宙に存在する全ての生 命にさえ、役立つことができるのです。 例えば、仏教のもっとも大切な教えの中に「無限の利他心」というのがあります。 この修行を通じて私達は、この地球だけでなく全宇宙の生命のことを想い祈ることさえできるのです。 さらに私は、人間の本性は他者に対する優しさと慈しみの心だと強く信じています。だからこそ、人間は素晴らしいと思うのです。◆多くの人々が気づき始めている 地球の未来、人類の未来に関して私は、はっきりと楽観的です。人間はあらゆる困難な問題を克服できると強く信じています。多くの困難に関らず、いま世界のあちこ ちに明るい兆しが見えています。とくに思想家、科学者、そして若者達の中に。 さら に、多くの人々が私達の未来にとって物質的な進歩では十分でないということに、はっきりと気づき始めています。環境問題の大切さにも気づき始めている。これも大変明るい兆しです。 さらに素晴らしいことは、今までどちらかといえば物質的な発展をリードしてきた人達、政治家や実業家達ですが、この人達が慈悲の心、思いやりの心の重要さに気づき始めているということです。一般的に彼らは心の問題に無頓着ですが、最近は霊的に深く目覚めた経済人が何人も現れています。 また宗教の世界でもよい兆候が見えます。異なった文化、異なった宗教が共に生きるためには、★どうしてもそれぞれの多様性を認め合うという基本姿勢が必要です。その兆しも現れています。これはみな希望の証しです。 ただ、これらの兆しはまだとても幼い。幼いがゆえにとてもデリケートです。だから、注意深く丁寧に育ててゆかなければならない。急激な変化を与えればしんでしまいます。 だからこそ私達一人一人に大きな責任があります。全人類の責任なのです。この星の未来を、小数の指導者の責任に帰することはできません。私達一人一人が未来について責任を自覚しなければならない。それは何も特別なことではない。自分自身の未来なのです。今こそ、すべての人達の、地球規模の気づきが必要なのです。 世界中がもっともっと深くつながり影響し合っているのです。この信念にもとづい て、私は地球はひとつであり、人はひとつながりであるということを、訴え続けよう と思っています。 ダライ・ラマ法王は、利他心の重要性をよく説かれる。誰にでも無限の利他心は内在しているのだが、普段はそれが様々な汚れに覆われて、隠れてしまっている。しかし、気づきはじめている人たちもでていることは事実である。 そしてお互いに認めあうことが大切である。自分の意見を主張し、他を排斥するようでは、利他心を育みようがない。互いを認め合い、全ては根底で繋がっており一つであることを私たちがもっと自覚していけば。未来は明るいものとなっていくだろう。
2005.02.20
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現在お腹を下していて、少々力が入らない。ただ熱を出した時もそうだが、こういった身体症状が出た後は、とてもすっきりして調子が良くなる。わたしはアレルギー体質で、アトピーの症状もあるが、時々ばーっとでてくることがあるが、それがおさまると体の毒素が抜けていったようですっきりとする。 好転反応というが、いったん身体症状が顕在化し、その後は状態がよくなることは、自分の体験からも間違いないと思う。途中では苦しいが、そこを耐えればすっきりと浄化され、以前よりよくなっていく。 これは身体だけでなく、意識においても言えるように思う。色々と自分の内面のいやな要素が出てくることがある。瞑想などをしていると、こういうことがある。この時いやになってしまったり、落ち込んだりしてしまう人もいるが、そういうときは、己を理解し改善していくチャンスである。そういったとき必要以上に心を動かすことなく冷静にしていれば、やがて心は静まっていく。そして以前より鮮明ですっきりとした状態となる。 また、内面のことだけでなく、周りの出来事でも同じことが言えると思う。いやなことが起こると誰でも落ち込んだり、周りを恨みたくなったりするものだが、よく考えてみると、常に良いことばかりが続くことはあり得ない。この世は無常であり、良いことが悪いことに変化したり、その逆もある。その繰り返しである。悪い現象がおこっても、そこで心を乱すことがなければ、いずれそれも終わり、良いことが起こるようになっていく。わたしはこれを何度も実感している。 好転反応は身体症状だけに当てはまらず、様々なことに当てはまるように思う。
2005.02.19
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宗教というとあまりよいイメージでとらえられないことも多いが、その大きな要因の一つとして、私たちは正しい、あなた達は間違っている、という区別をし、論争や紛争、挙げ句の果てには戦争にまで至ってしまうことがあるだろう。 自分の信念を持つことは大切だと思う。しかし、自分の信念に合致しない人たちのことを、頭から否定してしまうのはどうだろうか?それが果たして天の意に添っているのだろうか? 20世紀は闘争の時代であり、今もそういった流れは続いているが、それに辟易している人たちも出始めているように思う。アメリカは自分たちが正義であり、違う意見のものは押さえつける、場合によってはたたきつぶすという姿勢でいる。しかし、それにノーという人たちも多くなっている。イラクにアメリカが戦争を仕掛ける際、世界中で反対デモがあったのはそのあらわれの一つであろう。 アメリカ在住の方で面白い分析をしている人がいる。最近アメリカでヒットした映画は、コメディーやアニメの比率が高く、戦争物やアクション映画はヒットしていないというのである。これはアメリカの人たちが、潜在的にドンパチはうんざりだ、という気持ちのあらわれではないか、という分析である。なるほど、そうなのかもしれない。そのうちアメリカは、ベトナム戦争終盤と同じような状態になっていくのかもしれない。 わたしたちは正しい、あなた達は間違っている。こう主張するのは簡単であるし、自分は正義のつもりでいるだろう。しかし、そういう主張や心の働きが大変な事態を引き起こしてきた。これは古今東西変わらない。自分の意見と違う人たちに対しても、まずは耳を傾けることが大切ではないか。はじめから排斥してしまっては、根本的な解決などない。 最近わたしと違う意見の人たちが、わたしのことを陰で誹謗などをしているようで、そういうことがあるかと思うと残念であり、人はなかなか自分と違う意見を受け容れられないのだと、改めて感じた次第である。なまじっか精神世界などに関わっていると、かえって自分と違う意見の人を排斥する傾向が強くなったりする。そんなことではかえって瞑想などをしないほうがいいではないかとまで思ってしまう。また、宗教的なことや、精神の世界が一般的に受け入れられることも無いだろうと思った。 人類は主義主張を超えて認め合うことができるようになるのだろうか?紆余曲折はあるだろうが、その様な時が来ることを信じたい。ただしそう簡単にはいかないだろう。
2005.02.18
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マスコミでも取り上げられ、よく知られた存在になっている夜回り先生こと水谷修さんの日記などを色々と読む機会があった。 水谷さんへのメール相談は毎日500通以上、相談の電話は鳴りっぱなし、去年の講演会数は300回以上だそうである。なぜ水谷さんは多くの人の心を引きつけるのか?それは自分のことを顧みず、真剣に子供達のことを考え、取り組む姿勢によるものだろう。 水谷さんはガンであり、余命幾ばくもない。また生徒を助けるために、親指をつめるはめになったが、生徒一人助けるためなら安いものと平然としていたそうである。自分の身体や、命までをも削って人のために尽くす姿は、当然多くの人の心を打つだろう。水谷さんの講演会より*********** 今、夜の町、僕の住む世界にどんどん次から次へと子供達が来る。 僕のように夜回りをやれなんて言わない。せめて、例えば身の回りの子供達に優しい言葉をいっぱいかけてあげる。身の回りの子供に、ここに、あんたを愛している私がいるよ、と教えてやる。それでいいんですよ。それを皆さん方が丁寧に丁寧に日本の大人達がみんなやっていったら、日本の子供達、どれだけ救われるか。 僕は日本は、今子供達、際(きわ)にきていると思います。もしかしたら日本の子供達、すべてダメになるかもしれない。 ぜひ守ってやってください。子供達は受けた愛の数が多ければ多いほど、非行から遠ざかり、非行の傷は浅い。 愛はいつでも、私達大人は、子供に与えることのできる、最も簡単な、無尽蔵に溢れる、お金もかからないものなのですから。インタビュー記事より水谷 僕は汚いものを自分のなかにもってるし、決していい人間じゃないし、醜いものをもってる。でも、いい人間になりたい。いい教員になりたい。そのために、何もしないでいると、悪いことを考えそうだし、やっちゃいそうだから、人のために生きるのが一番楽です(笑)。 僕、よく子どもたちに言うんです。おまえたちなんでそう自分のことばっかり考える? オレ、楽だぜ。人のことだけ考えて、人の求めてることを一所懸命やるって、こんな楽な人生ないよって(笑)。 そう思いますよ。僕って、世の中で、一番楽な人生をおくってる。だから、立ち止まれと言ってて、(自分のことは考えてないんだから)実は自己矛盾ですね。必要なのは、肉体と、根性(笑)と、愛だな。水谷 僕も組織にいますけど、一匹狼で、ちゃんとやってますよ。仲間もいますよ。だから、人がどうであるかですよ。そのくらいじゃないと、非行や薬物なんて関わり合えないでしょうね。 人間を信じていますよ。心の中に美しいものがたくさんある。だから僕は講演をたくさんしてるんですよ。人間は美しい花の種をいっぱい持っている。花の種というのは、水をやりすぎないで適切に育てれば、みんな美しい花が咲く。それが育てられる社会をつくる。案外簡単なことだと思いますよ。 それを組織としてやろうとするからうまくいかない。人の心は一つ一つ。1億2千万積み重なれば日本が美しくなる。60億積み重なれば世界が美しくなる。それを僕はしたい。システムを変える人間もいるでしょう、政治でそれを変えたい人もいるでしょうけれど、それは僕の仕事じゃありません。─10年20年先のご自分について、考えることは。 ありません。いつも、その日暮らし。心の中の想いに正直に生きるだけ。子どもたちと今、いかに丁寧に生きていくか。それが、僕の教員生活。今年で22年目になるけれど、昔も今もずっと変わらない。一瞬一瞬を生きていければ、それでいいじゃないですか。─一瞬を生きてきて、今がある。 今の僕は、僕がつくったんじゃない。子どもたちがつくったのだと思っています。数日前、6年間勤めた戸塚高校定時制で離任式がありました。かつての教え子たちが集まってくれ、車が花束で埋まって霊柩車のようでした。子どもたちに僕は言った。「水谷をつくったのは、おまえたちだよ。僕は人間として、君たちから多くを学ばせてもらった。ホントにありがとう」─ガンを告知されたとき。夜回りするとき。暴力団と向かい合うとき…。怖くはないのでしょうか。 怖くないですよ。怖がるならば、自分の生き方です。不正な生き方はしてないか。不純な生き方はしてないか。怖がるべきは、自分にウソをつくこと。子どもたちを裏切ること。それ以外、怖いことは何ひとつありません。 水谷さんの生き方、実践されていることを見ていると、自分はまだまだであると感じざるを得ない。いかに立派な思想を持ち、口ではいいことを言っていても、その人の生き様がきちんとしたものでなければ、実践が伴っていなければ、ほとんど意味をなさなくなる。わたしは水谷さんの実践してきたことの数分の一もできていないが、少しでも手本として、見習っていきたいと思った。水谷さんのHPです。http://www.sanctuarybooks.jp/mizutani/水谷修さんの夜回り日記http://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/kokoro/yomawari/
2005.02.17
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本日発行のメルマガ、全ての本質を求めて今回も空とはどういうものか探っていきます。「プランク・スケール」を最小の波長として、一立方センチの中の空間エネルギーを計算すると、それは現在知られている宇宙の全物質が持つ総エネルギーより、遙かに大きくなります。デビッド・ボーム「プランク・スケール」とは、現在の数学が扱える、極微の寸法です。極限のミクロの状態ですね。これは微細な粒子ほど、高いエネルギーを保有する可能性が高いわけです。わたしはヨガや気功や瞑想を行うと、氣やプラナといったエネルギーを感じます。そして粗雑な氣と微細な氣があるように思えます。そして、粗雑な氣はエネルギー狂態が低く、微細な氣はエネルギーが高いのを感じます。微細であればあるほどエネルギーは高く、質のいいものとなるようです。量子力学の観点から見ていきましょう。量子力学によれば、粒子は波動としての性質を持っています。そして、その周波数は粒子の寸法が小さいほど高くなります。エネルギーは周波数に比例するので、小さな粒子ほどエネルギーが高いということになります。微細な粒子であればあるほど、エネルギーが高いわけですね。さて、量子力学では粒子の存在が確定できません。ここにあるのではと予測はできますが、確実にここにあると特定できないのです。これをつきつめていくと、空間と粒子の区別が曖昧になり、空間そのものがエネルギーを持つ、という結論に達してしまうのです。空間と粒子が区別できないとするならば、空間には無数の高いエネルギーを持った粒子に満ちあふれている、ということが言えるでしょう。そうなると空間そのものがエネルギーに満ちていることになるわけですね。そして、空間が小さいほど高いエネルギーを保有する可能性が高くなります。仏教では空を悟るとか、空を体得することを目的としてあげたりしますが、これは頭で理解することではなく、空には全てがあり、空を悟ること、体得することは、全てを知り、体得することになるのでしょう。それこそが仏教の神髄であると言えましょう。登録はこちらからお願いします。
2005.02.15
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信用していた人がわたしの意と違うことをしてしまったりして、少々悩んでしまった。最近あまり悩むこともなかったのだが、久しぶりに考え込んでしまった。 こちらが意図していたことと、全く違う反応を相手が返すことはありがちな話しである。人と人とのコミュニケーションは難しい。理解されないだけならともかく、誤解されたりいらぬ誹謗中傷を生み出すことにもなる。 ひょっとしたらわたしの言ったことが誤解されて広まり、多くの友人から白い目で見られることにもなりかねない。わたしの話を誤解して受け取り、それを変な形で広めてしまった人に対して、まったく心が動かないかと言えば嘘になる。しかし、わたしは誰も恨んだり、怒ったりしないようにしようと思う。それをしても根本的な解決にならないし、下手をするとよけい泥沼化してしまう。 自分の身に降りかかったことをそれはそれとして冷静に受け入れたいと思う。もちろん怒った方が良い場合もあるだろう。ただ怒るにしても、しょっちゅう怒っていては何も利益にならずに終わってしまう。怒るにしても時期というものがあるような気がする。のべつ幕無しに怒っていては疲弊するだけである。 今後どうなっていくかわからないが、心を動かすことなく、平常心を保っていれば、何らかの道が開けてくるように思うのである。フリーページ 「植物の不思議な力」更新しました。
2005.02.14
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いろいろと自分の周りであわただしいことが起こり、少々ストレスを感じるほどだった。以前はちょっとしたことでもストレスを感じていたが、最近はかなり心が動じなくなっていたのだが、時々立て続けに色々な現象がおこることによって、ストレスがたまることがある。 普通だったらなんでこういう目に遭わなければならないのか、等と考えてしまうところだが、これは与えられた試練であるとか、これも自分の業であると考えると、それはそれとして意味のあるものであるとわかり、ストレスも生じにくくなる。 これは単純に思いこむものではない。心の深い部分から納得できると、ストレスがたまっていたり、いらいらしたり、無気力になっていたのが、すっと解消されてしまう。ただ思いこむだけでは、表層意識では納得していても、無意識下では納得していなくて、よけいひどくなったりする。 わたしもこういった考え方がすぐにできるようになったわけではないが、次第に根付いてきた感じがする。このような考え方ができた方がより楽であるし、自分自身を向上させ、他の人のこともよく考えてあげることができるようになってきたように思う。 生きていく上で色々と大変なことも多いが、我が身に降りかかってきたことを憂いたり、呪ったりせず、発想を転換させること大事ではないかと思う。
2005.02.12
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最近はいらいらしたり、怒ってしまう人が多いように思う。以前には考えられないような犯罪も増えてきているが、これは背景に怒りという心の働きもあるであろう。 怒らなければならない場合もあるだろう。しかし、怒らずに耐えた方が良い場合も多いと思う。怒りも背景に愛がなければ、お互いに傷つけあい、疲弊させるだけである。そして他人を傷つけるだけでなく、自分自身をも痛めつけることとなる。 一年ほど前のことになるが、友人の言動にむっとしてしまい、一人になった時、怒りにまかせて床をドンと踏みならした。そのとたん当たり所が悪かったのだと思うが、足首に激痛が走った。歩くことはおろか、まともに立つこともできなかった。幸いなことに骨に異常はなかったが、しばらくは杖を使わないと歩けなかった。このことから、怒りは自分自身を痛めつけることになると思い知らされた。 怒る時は自分の思い通りにならないとか、相手のことを考えず、自分中心の時に怒りが発生する。戦争や紛争など怒りの最たるものだが、相手のことなどまるで考えず、自分のこと、自分の国のことしか考えていない。しかし、怒りや憎しみは同じもので収まるものではない。よけいひどいことになるだけである。本当の意味での愛によってのみ、怒りや憎しみから解放されるだろう。 どうしても怒ることが必要なこともあるかもしれない。しかし、それは相手のことを考えた時にこそ肯定されると思う。これはもちろん難しいことだが、怒りに充ちた今の世の中で、このような意識転換をしていかないと、ますますまずい事態が生じてくるように思う。 自分の利益ばかり考えず、他の人のことも思いやる気持ち、怒りと反対の心の働きがこれからはもっと必要になってくるだろう。
2005.02.11
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本日発行予定のメルマガ、全ての本質を求めてでは、空とはどういうものか探っていきます。天外伺朗氏は仏教における空の解釈を大きく三つに分けられるとしています。一つは「無常観」もう一つは「相互依存」三つ目は「とらわれない心」です。「無常観は」形あるものは必ず滅する、これはよく聞く言葉ですね。「相互依存」は、花が咲くにしても、その花の力だけでなく、枝、幹、根がそろい、地面から養分を吸い上げ、太陽や空気や水などもあって、はじめて花が咲く。そのような複雑に絡み合った「相互依存」の関係が空とするものです。「とらわれない心」は、私たちの心は常に何かにとらわれているが、もしそのとらわれから解放されれば、ものすごい力を発揮する。この何事にもとらわれない心の働きを「空」という解釈です。天外氏はこれらは正しいであろうとしています。その上で、「空」を「ホログラフィー宇宙モデル」に当てはめると、どうなるか解釈を進めています。「空」とは形のない状態であり、それこそまさに「暗在系」「あの世」であるとします。「あの世」にはあらゆる物質や精神がたたみ込まれています。そして「空」とは何もないというイメージを持ちやすいですが、そこに全てがたたみ込まれているとは、おかしいではないかと感じてしまうかもしれませんね。ここで光を考えてみましょう。太陽光は白く見えますが、実はあらゆる色の光の集合です。太陽光をプリズムに当てると、様々な色の光に分離するのは、よく知られていますね。「あの世」とは光のようなものでしょう。と天外氏は結論していますが、光を重要視する考えは、色々と見られます。有名な「チベットの死者の書」では、生と死の中間である状態、中有の事が詳しく書かれていますが、中有では強烈な光が出現すると描写されています。その光は虚空からあらわれ、その光に溶け込みなさいとしています。それによって輪廻の輪から脱却し、仏にもなると書かれています。またチベット密教では、神や仏を観想(イメージ)し、自分が神や仏の姿となり、最後はその姿も消えて、光に溶け込んでいく瞑想を行いますが、これを空や空性に溶け込むという表現もします。チベット密教を学んだり、実践している人の中には、光や光明を実際に見える光とは違うとする人もいますが、多くの人が瞑想や臨死体験において、光の経験をしています。それによって心が明るくなったり、心が変化したりといった体験も多く報告されています。また光は可視光線だけでなく、目で認識できないものも多くあります。わたしたちは常に光に囲まれているとも言えます。そして、チベット密教でいう光明とは、可視光線のことだけでなく、目で認識できない光もさしているのではないかと思います。そして、光は情報である、という考えもあります。これについてはいずれもう少し詳しく書きたいと思いますが、光とは波と粒子の二つの性質があります。波動と粒子に情報が詰まっているとしたら、光は情報を伝達していくことになります。そして真空は実は空っぽではなく、エネルギーに充ちているという説があります。量子真空というものですが、そうなると、真空とはエネルギーや光や情報に満ちあふれているのではないかと推測されます。また、五大元素という考えがあります。全ては五つの元素から成り立っているというものです。地元素、水元素、火元素、風元素、空元素の五つですが、地元素は個体、水元素は液体、火元素は熱、風元素はエネルギーで、空元素は他の四つを成り立たせているものであるという考えがあります。そうなると、虚空は空っぽでなく、様々なものに充ちているという考えが、五大元素の見方からも、新しい科学の視点からも一致するのではないかと思うのです。登録はこちらからお願いします。
2005.02.10
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たまには取るに足らない話しでも。 数日前某所での呼び出しアナウンスにて。「○○からお越しのアヤミ レイさん、○○までお越し下さい」 ん?アヤミ レイ?ヤとミの間にナを入れたら、綾波 レイではないか!と瞬間的に思ってしまった。 この人はエヴァンゲリオンが流行った時には、色々と言われたんだろうなあ。アヤナミストからはうらやましがられ、逆にアスカビトからは、敵意を抱かれたりして。もし小学生だったら、いじめられたかもなあ。などと妄想をふくらませてしまった。 アヤミ レイさんの親御さんも、まさか未来に娘とほとんど同じ名前のキャラクターが流行るなど、夢にも思わなかっただろう。 エヴァンゲリオンを知らない人には、全くわからない話で失礼しました。
2005.02.09
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人は心が緊張しっぱなしか、逆に弛緩しすぎの場合が多いが、緊張と弛緩のバランスがとれた状態が必要である。 ヨガでは緊張と弛緩のバランスをとることを目指す。これは心の状態でも同じことが言える。釈迦牟尼の弟子で、弦楽器の名手だった人がいた。この人は釈迦牟尼の弟子になったはいいが、なかなか瞑想に入れなくて悩んでいた。 ある日釈迦牟尼にそのことを相談したところ、釈迦牟尼は、弦楽器を演奏する時に、弦の状態はきつすぎず、ゆるめすぎない状態でいるのではないかと聞いた。弟子はその通りですと答えると、釈迦牟尼は、心もそれと同じことであると答えた。そこで弟子ははっと気づき、それからきちんと瞑想に入れるようになったそうである。 チベットの聖者、マチク・ラプドンマも同じようなことを言っている。まずは心を緊張させ、徐々にゆるめていく。それによって瞑想に入っていく、というようなことを言っている。まずはしっかりと緊張させ、徐々にゆるめていく。これによって瞑想に至れるのである。 集中と緊張が混同されている場合があり、精神世界系の人で、集中を否定する人がいたが、真の集中は、緊張とは無縁のものである。リラックスしつつ心が一点に集中し、静まっている状態、これが本来の集中である。緊張しているうちは、本当の集中とは言えない。緊張と弛緩のバランスがとれて初めて、真の集中に至れる。 チベット密教のゾクチェンやマハ・ムドラーでは、「無努力」ということを説く。またタオイズムでは「無為自然」と説く。これを単に怠惰になって何もしないことのように勘違いしてしまう人がいる。それは極端な見解であり、本当の「無努力」や「無為自然」とは、もっと絶妙で精妙なものである。 ゾクチェンにはまって、自分の都合のいいように解釈し、きちんとした努力を怠っている人たちがいる。ゾクチェンでもまずはしっかりと努力し、そこから無努力の実践に入っていく。しかし、そのことを理解できないと、怠惰さを肯定したり、単純な煩悩肯定で終わってしまう。中沢新一氏も無努力に至るには、まずは努力が必要であると言っていたそうである。 緊張と弛緩のバランスがとれることで、本当の意味での中道、二元を超えた状態に至れるのであろう。中道もやりすぎずほどほどにという解釈をする人もいるが、ほどほどでいいと思っていると、だいたい怠惰になりすぎてしまう。まずはしっかりと緊張させたり努力をして、そこからゆるめていくことによって、本当の中道となるように思う。 これを書いていて、いったん書いていたものが消えてしまった。むかむかしていたのだが、これではいけないと思い、気を取り直し、集中して書き直すことにした。すると心も落ち着いてきた。心が乱れるのも、集中に欠けているからである。また、バランスがとれていない状態だと言えるだろう。緊張と弛緩のバランスをとり、本当の集中を心がけたい。
2005.02.08
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寡作の映画監督、テレンス・マリックの1978年度の作品。彼は哲学の講師をしていたが、映画監督に転身。この作品でカンヌ映画祭、監督賞を受賞している。 誰もが目を見張るのは、圧倒的に美しいその映像であろう。大自然や、動植物を非常に美しく撮るのは、あまりアメリカ映画では見られない。風に揺れる麦補、沈まんとする太陽、小川のせせらぎ、自然の中でうごめく動物たち。これらの映像には息をのむ。 ストーリーはありふれた、男女の三角関係が軸となっている。修羅場が展開されるが、それを必要以上にもり立てることもなく、淡々と話しが進んでいく。そして、主人公の妹の視点から描かれており、誰かに偏ることもなく、穏やかに物語は進行していく。 金と土地に恵まれ、満ち足りた天国の日々。それも大自然の驚異と、人の中にある醜い心の作用によって、あっという間に崩れ去ってしまう。広大な麦畑がイナゴの大群におそわれ、醜い嫉妬心から派生した麦畑の火災の前に、人々はまるで無力である。一切が崩れ去っていくことを、ただ見守るしかない。 この映画では、明白な善と悪の区別をしない。主人公の妹のモノローグで、「誰だって完璧じゃない。完璧な人なんて見たことがない。誰のなかにも悪魔と天使が半分ずついる」と語られる。監督は誰を擁護することもなく、非難することなく、ニュートラルに登場人物達を描いている。 キリスト教世界では、人間は自然を克服しようとしてきたが、東洋思想では、人間は自然と調和していくものであり、人間も所詮は大自然の中の大きなサイクルのひとつにすぎない、といった考えである。テレンス・マリックは哲学を教えていたが、東洋思想に通じていたかはわからない。しかし、この作品では西洋的な考えより、東洋の思想が反映されているかのようにも感じられてしまう。 この作品は超越的な視点から描かれているように思えるが、人間とは所詮愚かなものであり、大いなる存在の前には無力である、といった傲慢な感じはあまりしない。そこには人間に対する、深い哀しみと共感を感じる。 最近のハリウッド映画と違って、地味な作品であり、いわゆる面白い映画が好きな人は退屈するであろう。しかし、見終わった後も心にしみ通っていくような余韻がある。深みのある作品である。
2005.02.07
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パッション~キリストの受難~を見る。今回で二回目である。始めて見た時は、大いに感銘を受けたが、今回も目が画面に釘付けになり、時間があっという間に経ってしまった。 この映画ではイエス・キリストが、磔となり屠られるまでの最後の12時間が主に描かれている。そこでの受難を受ける描写がすさまじい。ここまでやる必要があるのかと感じる人も多いだろうが、そこまでの受難に耐えながら、神への信仰を貫き、衆生に対する愛と哀れみの心を保ち続ける姿に、感動する人も少なくないはずである。 なぜイエスはそこまでの受難に耐えることができたのか?それは主にたいする絶対の信頼と、信仰によるものであろう。現代は不信がはびこっており、何かに対する揺るぎない信頼というものは、なかなか持ちづらい。しかし、揺るぐことのない信仰や信頼を持っている人は、非常に強く、大いなる力を発揮することになるだろう。そういったことができる人は幸いだと思う。 ヨガにも信仰のヨガである、バクティ・ヨガというものがある。これは神に対する大いなる信仰と献身を行うものである。日本人が持っているヨガのイメージとかけ離れているが、バクティ・ヨガを非常に重要視する人たちもいる。トンデモ話になってしまうが、イエスの生涯において、謎の数年間がある。この時期はどこでなにをしていたかはっきりしないのだが、インドでヨガの修行をしていたという説がある。もしこれが本当だとするならば、イエスはインドでバクティ・ヨガの実践をしていたのかもしれない。 イエスは当時の宗教界からすると新興宗教に属し、それまでのものを否定するものであった。そこでその当時の祭司たちから目をつけられ、死刑に処せられるまでになってしまった。何か新しいことを行う場合、宗教に限らず、様々な分野でも迫害されたり、受け入れられなかったりする。それは本物であろうが偽物であろうが関係ない。釈迦牟尼も色々と迫害を受けたり、受け入れられなかったこともあった。それでも信念を貫き通す、強い意思がイエスにも釈迦牟尼にもあったのだろう。 またイエスが受難に耐えることができたのは、多くの魂に対する愛があったからとも言えるだろう。自分を理解してくれる人に愛を注ぐことは行いやすい。しかし、自分を仇なすものに対しても愛を注ぐことはとても難しい。イエスは自分をむち打ったり、罵倒したりするもの達に対しても、愛を注いでいった。こういった心の働きをしていたからこそ、受難に耐えることができたのでもあろう。自分のことだけを考えていては、とても映画で描写されているような受難に耐えることはできまい。 そして、イエスの愛は言葉だけのものではなかった。心の底からのものであり、行動も伴っていた。イエスの愛を理解できなかったものも多かったが、最初はイエスに対して無関心であったり、理解をしていなかったものでも、イエスの受難に耐えながらも、信仰と愛を貫き通す姿に心を動かされたものもいた。自分というものを放棄していかないと、愛を語ったとしても他の人の心を動かすことはないだろう。イエスの最後の12時間では、自分というものを完全に放棄していた。ここまですることは非常に難しいことだが、少しでもイエスのそういった姿勢を見習いたいと思った。 イエスの受難に耐える姿は、目を背けたくなるほどのものである。しかし、真実をありのままに見ることは、時として目を覆いたくなるほどのこともある。私たちは真実から目を背けることなく、直視していく姿勢が大切なのではないだろうか?以前書いたパッション評です。http://plaza.rakuten.co.jp/oneness0/2002
2005.02.06
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少しだけ山ごもりをしてきた。といってもゴッドハンド、マス大山が行ったようなたいそうなものではなく、ちょっとしたものである。学生時代、マス大山が行ったような山ごもりをしてみたいと、ある程度本気で考えたこともあったが、そこまでの根性がなく、実現には至らなかった。おそらくやっていたとしても、彼が行ったようにはとてもできなかったろうが。 空気と水のいいところにいるだけで、寿命が延びるような感じがする。都会にいると、心がせかせかとしてしまい、落ち着きに欠ける。いらいらしたり、その反動でとても怠惰な状態になったりする。ストレスもたまって、寿命も縮まるような感じがしてしまう。 都会の喧噪を離れて山の方に行くと、時の流れもゆっくりするような感じがして、心身共によい意味でリラックスして、穏やかで落ち着いた状態になってくる。ストレスも解消されていき、何をつまらないことで悩んでいたのだろうという気分になってくる。 標高が高いところへ行くと、酸素濃度が薄くなる。その状態で呼吸法をすると、少し負荷がかかり、より効果が出るように思う。また瞑想をしても、山で行うとより深い意識に入りやすくなり、よい瞑想も行える気がする。多くの聖者が山にこもって修行をしたりしたが、やはり山で行う瞑想などは効果が違ってくる。マス大山もそのあたりを理解していたかもしれない。 また温泉がかなり効いた。温泉には少し前から行きたかったのだが、今回行くことができて、非常によかった。温泉に浸かることによって、細胞が生き返る感じがする。経絡が通り、血行がよくなり、氣の巡りがよくなってくる。体が整ってくると、心もしっかりとしてくる。瞑想や行だけでどうにもならない場合は、温泉に浸かることによって回復させたりすることもいいかなと思った。 それほどしょっちゅういけるわけではないが、効果があったので、できるときは今後も山ごもりをしていきたいなと感じた。 山には新鮮な氣が満ちあふれている。それを吸収するだけでも、大きな違いがある。都会では氣がけがれており、それによって自分の氣も汚れてしまう。氣に敏感になってくると、汚れた氣の中にいるだけで、体調の変化などを感じる。そういうものを気にしないことも必要だが、環境のいいところ、氣のよいところへ行って、よい氣を吸収することも大切になってくる。
2005.02.04
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連日の疲れで大いに寝てしまう。ここのところ平均睡眠時間は4~5時間程度だったが、一挙に10時間ほど寝てしまった。披露してくると深い意識から眠りを求めてくるのがわかる。短いに越したことはないのだが、氣を消耗した場合は、単純に肉体を酷使して疲れるのと質が違う。休息をとらないと持たない場合がある。 以前肉体労働をやっていたことがあるが、そのときは疲れて休んでも、目覚めはすっきりしていた。しかし、多くの人と接し、氣を消耗するような感覚がはっきりするようになってからは、いくら休んでも疲れがとれないことがある。単純な肉体の疲労より、氣を消耗する方が、大変な感じがする。 気功などの指導者や、セラピストや、ヒーラーや、治療家は、こういった問題と向かい合っている人が多い。一日のうちに診る人を数人に限定しているという人がいるとも聞く。それ以上やると自分の身が持たなくなってしまうからであろう。言うならば自分の氣や、大げさに言えば寿命を削って、他の人のためにやっていることになる。 以前日記で書いたトンレンは、まさに他のために行う実践である。自分のよい要素を他に与え、他の悪い要素が自分の所に来るように瞑想する。自分の喜びと他の苦しみを交換する実践である。これは自分が損をするだけのように思えるが、後でエネルギーや心が充実してくるのがわかる。利他の精神を持って行ったことは、いったん自分が損をしたような感じがしても、後で大きな利益となって返ってくるようである。 レイキはエネルギーを消耗しないことと、邪気を受けないことをポイントとしているが、わたしの聞いた話では、やはりレイキを行う人で、エネルギーを消耗したり、邪気を受けてしまったりする人がいるという話を聞いたことがある。中にはセッションをやればやるほど元気になるとうやり方や、そういう人もいるようだが、元々持っている体質もあると思う。 わたしの知り合いで、明らかに氣を消耗するようなことをやっていても、あまり休息をとらずに頑張っている人がいる。元々肉体も強いのだろうが、気力が常に充実している。わたしは元々あまり肉体が強くないのだが、それを理由に休息をとらなくてもいいような場合でも、怠けてしまったりすることがある。休息が必要な場合があるのは当然だが、それはそれとして自分の怠け心を肯定することがないようにしていきたいと思う。
2005.02.02
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日本の世界に知れ渡る文化とは何か?色々意見があるだろうが、現在において最も知られているのは、ジャパニメーションだろう。 海外でもピカチューのキャラクターグッズは知れ渡っている。わたしの知る限りでは、ドラえもんやドラゴンボールなど、海外でも多くの子供達が見ているそうである。 秋葉原といえば一昔前は家電の町であったが、いまやオタクの町と化している。海外のオタクにとって秋葉はイスラム教徒にとってのメッカのようなものである。余談だが家電を買うなら、秋葉まで行かなくてもヤマダ電機やコジマに行けば十分である。ヤマダ電機に行くと、テーマソングが耳にこびりついてしまうのが困ってしまうが。 海外のオタクと親しい人に話を聞いたのだが、その人は一時期葛飾区に住んでおり、秋葉から非常に近い。そのことを海外のオタクに話しをしたら、なんといいところに住んでいるんだ、と言われたそうである。23区に住んでいる人からすると、葛飾区は23区に果たして含まれるのか?などとイメージする人もいるかもしれないし、寅さんや両さんのしかわたしも思い浮かばないが、聖地秋葉に近いだけで、海外のオタクからすると、とても素晴らしいところになるようである。 シティハンターというマンガがあり、これはアニメにもなったが、かつてはわたしも好きだったが、あれは主に歌舞伎町が舞台となっている。海外のオタクが歌舞伎町に行くと、シティハンターの舞台ということで、これまた感激するそうである。わたしなど歌舞伎町に行っても、人は多いし波動は乱れているで、感激するどころか気分が悪くなってしまう。しかし、シティハンターオタクにとっては、やはり聖域のようである。 海外ではマンガやアニメは子供向けのものであり、大人が見たりするようなものではないとも聞く。実際いい年をしたサラリーマンが、電車でマンガ雑誌を読んでいる光景も、他の国ではあまり見られないだろう。日本のマンガやアニメが優れているのか?それとも日本の大人の精神年齢が低いのか?何とも言えないが、後者の比率が高いような気がする。 日本のマンガやアニメ文化が発達した大きな要因として、手塚治虫の存在があるだろう。わたしも彼の作品は優れたものが多いと思う。ものによっては、下手な文学作品より、よっぽど本質を突いているように思う。しかし、手塚本人は、大学生や社会人までマンガに読みふけっている姿を嘆かわしく思っていたそうである。宮崎駿も、おおはやりであるが、当人はここまで観客動員数があることに、とまどいを感じているようなことも聞いたような気がする。 わたしもジャパニメーションは優れていると思うし、子供の頃や学生時代など時々世話になったが、日本にはもっと世界に誇れる文化もあるように思う。そういったものが失われていっているのは残念なことだし、それを掘り起こしていく作業も必要だと思う。
2005.02.01
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去年までは30代以上の人たちとばかりつきあいがあり、20代の人たちと接する機会があまり無かった。以前からの知り合いもみんな年をくってしまい、いきのいい若者だったのが、だんだんおっっさんやおばはんになりつつある。 しかし、今年に入って、20代の人たちと接することが多くなってきた。おっさんくさい言い方になってしまうが、そういう人たちと接すると、新鮮みがあってよい。 わたしと接点ができるくらいだから、当然精神世界に関心を持っている人たちが多い。そこで聞くのは、精神的なことに関心を持っている人たちが増えてきているが、周りにそういった話しができる人が少ないということである。 現在w大の現役の学生であり、今は臨床心理を学んでいるが、一年後大学を卒業したら、別の大学の医学部に入り直し、医学と臨床心理を融合させて活動したいという崇高な理想を掲げている、真面目な男性と話す機会があったが、やはり周りの人と話が合わず、学校では一人でいることが多いと言っていた。また、学校の友人は上辺だけのつきあいで、学校以外でであう年上の人たちとのつきあいの方が、自分にとって重要であるという話もしていた。 こちらでも、ソーシャルネットワークでもお世話になっている、天音2004さんのところへおじゃましたのだが、そこで20代後半で、非常に元気な、来月からインドへ行って本格的に精神の修養に取り組みたいという人ともかなりつっこんだ話しをしたが、やはり周りにそういった話しをできる人がなかなかいないようである。 巷では相も変わらず外側のものに意識を向けさせるようなものばかりはびこっているが、それがどこか違うのではないかと感じる若者が増えてきている。しかし、まだまだ少数派であるから、周りにそういった話しができるひとがなかなかいなかったりする。これはとても残念なことである。 ネットでは色々な人間関係を構築していくことができる。もちろん直接あって話しをする方が良いわけだが、現実の世界での出会いも限界がある。しかし、バーチャルの世界では、無限とも言える可能性が広がっている。そこにはまりこみすぎてはいけないが、現実の世界に失望してきたら、そちらに逃げ込んでしまう人もやはりでてくるであろう。 もっと、内側の世界に目を向ける人たちが、気軽に話しができる世の中になればいいと思う。わたしも学生時代は本質的な話しができるひとが周りに少なくて苦しんでいた。今も似たような経験をしている人は案外いるのではないかと思う。わたしと同じような悲しみや孤独感を感じる人が多くいるとしたら残念なことである。ブログやソーシャルネットワークで、少しでも本質的な話しに関心を持っている人たちの輪ができていければと思う。
2005.01.31
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ここ数日非常に忙しい。今までのんべんだらりとしてきたのが、一気に変わってきた。まあ人間暇だと時間を無駄にしてしまうことが多いので、忙しいくらいでわたしは丁度いいように思う。体は壊さないように気をつけないといけないが、まあなんとかなるであろうと楽天的に考えている。
2005.01.30
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わたしはヤフーメールを愛用しているが、最近のウエブメールでは、迷惑メールフォルダーというものがあり、迷惑メールと判断されると、そちらに振り分けられるようになっている。そこにはよくわけのわからないメールが届いたりする。りえです。この前、メールありがとう♪ちょっと忙しくって遅くなってごめん!食事おごるからね。なにがいいのかな? まあこんな感じのメールが届くことがある。この前メールありがとうとあるが、りえという人にメールを出した記憶など無い。食事をおごってくれるらしいが、銀座にある高級寿司でもおごってくれ、と頼んでもおごってくれるのだろうか? 大概の人はこういったメールも無視して、速攻で削除だろうが、中には返事をしてしまう人もいるのだろう。わたしも馬鹿だからはじめてこのようなメールが来た時に、返事をしてしまったことがある。別に下心があったわけではなく、好きな作家は筒井康隆とあったので、それに反応してしまったのである。学生時代は筒井康隆にかなりはまっており、その当時でていた彼の作品はほとんど読んでいたのである。 そんなわけで返信をしてしまったのだが、当然のごとく返事は帰ってこなかった。以前やっていたブログのURLも貼り付けていたのだが、以前も精神世界がどうだこうだとよく書いていたので、もし訪れたら仰天していただろう。 まあこれくらいならありがちだが、中にはもっと訳のわからないものも来ることがある。原文はあまりにもとんでもないのと、少々下品なので載せないが、その人は子供ができなくて悩んでいるそうである。そこで精子がほしいというのである。お金まで払ってくれるとあった。本当にこのようなことを考えて行っている人がいるのだろうか? 普通はそんなものに返信する人はいないだろうが、中には下心があったり、好奇心が強い人がいて、返信する人がいるかもしれない。そうすると返事が来るのだろうか?その場合、メールを出した人と返事をした人が会ったりするのだろうか?その場合いきなり怖いお兄さんでも出てくるのだろうか? 迷惑メールでは本当に迷惑している人も多いだろう。そういったものも取り締まりの対象となるという話もあるみたいだが、これだけネットが発達してくると、なかなかきちんと取り締まるのも難しいだろう。ネットは多くの可能性を秘めているが、妙な使い方をされることも多い。インターネットは便所の落書きというタイトルの本もあったが、落書きではなく、有益な情報がはびこるようになってもらいたいものである。
2005.01.29
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二日ぶりの日記となる。二日間空けたことは今までなかったと思う。色々とばたばたして書いている時間がなかった。珍しいことだが、こういう時もある。 以前からの知り合い何人かとあって、かなり長く話しをしたが、仏教やヨガと科学や心理学などの理論を、統合していけないかという話しになった。そういうことを試みている人たちはいるが、表現が難しくなってしまっている場合が多い。それをわかりやすく行っていけないかと思った。 今まではそれぞれのテリトリーがあり、学問も細分化され、仏教やヨガの中でも色々と分かれていた。今まではそれでもよかったかもしれないが、これからは統合されていく必要があるように思った。 何年か前、サイコセラピーを習っていたことがあるが、そこで言われたことが、表層意識と無意識の統合ということだった。表層意識と無意識が分離していることによって、様々な心の問題が生ずる。表層意識ではこのようにしたいと思っていても、無意識ではそれをやりたくないと感じている。その場合葛藤が生じ苦しんだり、場合によっては身体症状となってあらわれる。まずは無意識の状態を知り、そして表層意識と無意識の統合をはかることで、問題が解決していく。 これからは心においても、いろいろな理念においても統合されていく必要があると思う。時代は細分化から統合へと移り変わっていくように感じている。 話しをした人たちもそれぞれ忙しいからどこまで作業ができるかわからないが、少しずつでも進めていきたいと思う。フリーページ 「一人の壮年が大きな現象をもたらす」更新しました。
2005.01.28
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本日発行のメルマガ全ての本質を求めてでは、タイムウエーブゼロ理論をとりあげました。アメリカ人テレス・マッケンナ(TerenceMckenna1946~2000)という研究者が、“タイムウエーブ・ゼロ理論”というものを唱えています。マッケンナによると「時代」が新しくなるにつれ、人間の「時間」というものが、どんどん速くなっているといいます。例えば、新しい文化が登場するテンポや新技術、など、どんどん間隔が縮まっているような気がしますが、マッケンナによると実際にまさにそうなっているというのです。このような事象を、彼は“タイムウエーブ・ゼロ理論”と名づけました。「ホワイトホール・イン・タイム」という本の著者、ピーター・ラッセルもテレス・マッケンナとまったく同じ論を唱えています。さて、タイムウエーブ・ゼロ理論”によると、生き物が発生してからたどった進化の道のりのスピードは、螺旋(らせん)のパターンに従っているらしいのです。私たちの感覚では、時間は一直線に進んでいるような気がしますが、タイムウエーブ・ゼロ理論そうではないとするのですね。地球の歴史的時間の始まりはまさに悠久の時を重ねながら進行してきましたが、特に産業革命以後の近年においてはスピードを上げ続け、産業革命が2世紀前なのに対して、情報革命はいま始まったばかりであるのに“光の速度で進化し続けている”と評される程の驚異的スピードで進行しています。このメルマガでも、時間が早く流れていること言ってきましたが、それを科学的に証明しようとする動きがでてきています。さらにテレス・マッケンナは彼なりの究極の結論として、進化そのものが螺旋(らせん)状であるなら「定まった終わり」がやがてやって来る、と指摘しています。テレス・マッケンナが指摘する終わりがやってくるとは、果たして一体それはどういうことなのでしょう?彼の研究によると「時間」というものはどんどん加速していって、渦巻き状にフラクタル構造を作っているというのです。しかも、相似のパターンがたくさん集まって時間の渦ができていて、それがある年のある時間に収束しているということがコンピュータ解析で判明したというのです。実は、宇宙全体も時間と同じ構造、つまり渦巻状のフラクタル構造となっています。宇宙というものの概念を簡単な表現で説明するならば、のが宇宙であり宇宙空間そのものなのです。当然のことながら、宇宙全体には太陽系と同じような構造を持つ星系がいくつも存在します。これらがすべて、渦を巻きながら周回しています。宇宙は螺旋構造を描いているが、それが1つの時空 ―時間と空間― を現しています。螺旋はまさに無限の象徴なのです。また、無数の渦は計り知れないほどの強烈なエネルギーを生じていますが、このエネルギーによって時空連続体的な軌道が生まれているのだとされています。 そして、マッケンナがコンピュータ・シュミレーションによって時間が止まると割り出した日、つまり2012年12月23日には、そのとき銀河系の軸と太陽系の軸が一致するらしいのです。つまりマッケンナの研究から分かったことは、これから約10年後の2012年12月23日に、宇宙の渦巻きと時間の渦巻きがぶつかり合い、融合するということだと理解すれば分かりやすいのではないでしょうか?メルマガではさらにアセンションやそれを連想させる仏典の記述について述べています。登録はこちらからどうぞ。フリーページ 「超臨界」更新しました。
2005.01.25
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「7つの習慣―成功には原則があった!」スティーブン・R・コヴィー、キングベアー出版、p82(ビクター・)フランクルは、心理学者であると同時にユダヤ人だった。第二次世界大戦が勃発したとき、彼はナチスドイツの強制収容所に送られ、人間の尊厳を害するような、筆舌に尽くし難い体験をした。両親、兄弟、妻は収容所で病死したり、あるいは毒ガス室に送られたりして、妹以外の家族全員が亡くなった。フランクル自身も拷問され、数知れぬ屈辱を受けた。自分の道はガス室に至るのか、それとも救われてその運命にあった人々の死体を運び、彼らの灰をスコップで掃除する役割に回るのか、それこそ自分の運命がどうなるか分からない毎日だった。ある日、フランクルは裸にされ、小さな独房に拘禁されてしまった。そこで彼はナチスの兵士たちが決して奪うことのできない自由――人間の最後の大いなる自由と彼は呼んでいる――を発見したのである。看守たちは、確かに彼のおかれた環境のすべてをコントロールすることができたし、彼の身体を思うがままにすることができた。しかし、ビクター・フランクル自身は、自分の状況を客観的に観察することができる「自覚」のある人間であった。彼の基礎的なアイデンティティーそのものは健全で、損なわれてはいなかった。だからフランクルはその状況下で自分はどう影響されるかを自分で選択することができた。彼に起きた出来事あるいは受けた刺激と、それに対する彼の反応との間には、彼の自由、すなわち反応を選択する能力(ちから)が存在していたのだ。収容所にいる間、フランクルはほかの状況を頭の中に描いた。例えば、収容所から解放され、大学で講義している場面を想像した。その教室の中にいる自分の姿を想像し、拷問を受けている最中に学んだ教訓を生徒たちに説明している状況を思い描いた。そうして自分の知性、精神、道徳観を研ぎすますことにより(主に記憶と想像力を活かして)、彼は自分の小さな自由の芽を伸ばし、それを次第に大きく育て、やがてナチスの看守たちよりも大きな自由――選択できる内的な能力(ちから)――を持つに至った。彼は看守を含めた周りの人たちの大きな模範となり、生き甲斐を与える存在となった。その模範のおかげで、周囲の人たちは苦しみの中にも生きる意味を、そして収容所生活の中にも人間としての威厳を保つことができたのであった。想像を絶するほど下劣で人間の尊厳を汚す状況の中にあって、フランクルは「自覚」という人間の独特の性質を活かし、人間の本質にかかわる基礎的な原則を発見した。 他人を外部からコントロールすることができるが、その人の内面までは本来何人たりとも侵すことはできない。そのことがフランクルの体験からよくわかる。他人を自分の思い通りにしようとしても、本質的には不可能なことである。 そして、周りに影響を与えるにも、まずは自分が変わっていく必要がある。他人が自分の思い通りにならないからと苦痛を感じたりするが、自分の思い通りにはなるものではない。まずは他人をどうこういうより、自分自身が変わっていくことにより、周りに影響が及ぼされていくのである。 フランクルの収容所体験が書かれた名著「夜と霧」だが、わたしはまだ読んでいない。近いうちに読んでみたいと思っている。フリーページ 「ヴィヴェーカーナンダの言葉」更新しました。
2005.01.24
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知る人ぞ知る船井幸雄氏。色々な評価があるようだが、以下に紹介する内容はその通りだと思う。「百匹目の猿 ― 『思い』が世界を変える」 船井幸雄、サンマーク文庫、p66ガン細胞というのは、見方によりますと実にバカな生き物です。自分の思うさま繁殖することが、自分の宿主である人体を滅ぼしてしまうことを知らないからです。宿主を滅ぼせば寄生している自分も死んでしまいます。自殺行為をしていることに気づいていないのです。子どもが親を殺すようなもので、愚としかいいようがありません。いま、人間と地球との関係は、ガン細胞と宿主との関係にたとえられるように思います。地球は疲弊していますが、その原因をつくっているのは、そこに寄生していながら主人づらしている人間です。知恵ある存在であるはずの人類が地球環境を次々にこわしています。その意味では、私たち自身がガン細胞のような存在であり、環境破壊によって自身も気づかぬうちに緩慢な自殺を推進しているのに等しいといえるでしょう。 私たちがガン細胞のようなものとは、聞いていてあまり心地よいものではないが、人類の行ってきていること、そしてその結果を見ると、それはその通りだと感じざるを得ない。 地球が母胎だとすると、そこで活動している生命体が細胞のようなものである。他の細胞はきちんと共存しているのに、人類だけが好き勝手に振る舞い、他の細胞をそして母胎自体をどんどん侵し始めている。その結果はやがて自分自身をも滅ぼすことになる。 現実を見ていくとこういう結論を出さざるを得ないが、気づきはじめている人も増えてきているが、まだ認識していない人も多いと思う。 ガンも早期発見され、すぐに手を打っておけば完治するが、蔓延してしまうと手の施しようがない。手遅れとなってしまう前に何とかしていかないと、人類は己をなしてきたことを悔いたとしても、どうにもならないことになってしまうだろう。フリーページ 「八つのプロセス」更新しました。
2005.01.23
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わたしは最近流行っている歌をほとんど知らない。マツケンサンバも、一曲通して聞いたことがないし、松平健が踊っている姿も見たことがない。余談だが、彼の場合離婚して吹っ切れてしまったのか、離婚が良い方向に向かっているようである。今後どうなるかはわからないけれども。 これは以前からそうかもしれないが、流行っている歌の歌詞が、愛だの恋だのそういった内容に偏りすぎているように思う。町などを歩いていると歌が聞こえてくることがあるが、歌詞は誰それと恋してどうの、愛する人はあなただけみたいなものばかりに感じてしまう。これも偏見かもしれないが、そういった内容が非常に多いのは事実だろう。 最近は音楽を聴くことはほとんどないが、学生時代は洋楽ばかり聴いていた。60年代や70年代の洋楽が好きで、ビートルズなどよく聴いた。リアルタイムのアーティストではプリンスが一番好きであった。初来日の時、横浜スタジアムでライブを行ったが、友人と一緒に行き、ものすごく興奮した。その余韻が三日ほど続いたのを覚えている。 他にも好きなアーティストは色々いたが、最近ふとスティングのことを思い出した。彼はポリスで一世を風靡し、ソロになってからも、大活躍をしている。 彼のソロアルバムの第一弾、ブルータートルの夢からのファーストシングル、If you love somebody set them freeという曲がある。これは曲自体もいいのだが、歌詞が非常によいと思う。スティング自体もお気に入りのようである。 もし誰かを愛するならその人を自由にしてあげなさい、という意味のタイトルであるが、これはよくある恋愛ソングではまず聞くことのないものであろう。恋愛とは束縛の要素が強い。相手のことよりも、自分のことを考えていることが多い。それは本当の愛とは違うだろう。本当の愛とは、相手をはぐくんでいくものではないか。 スティングはポリス時代、Every breath you take という名曲を生み出した。これは世界中で大ヒットした。ポリスのシングルで最も売れたものであろう。わたしもこの曲は大好きで、スティングもライブでこの曲を演奏すると、自然と涙が出てくるとインタビューで答えていた。 しかし、歌詞はもろに相手を束縛する内容である。スティングはインタビューで、Every breath you takeの歌詞は束縛であり、これでは駄目だと思い、If you love somebody set them freeの歌詞を作った。といったことをインタビューで答えていた記憶がある。誰でも人を束縛したいものだが、それでは息が詰まってしまうだろう。難しいかもしれないが、愛する人こそ自由にしてあげることが本当は大切であると思う。 洋楽の歌詞は今はどうか知らないが、かなり深いものが多かったように思う。日本の歌でも恋愛ものの歌詞ばかりでなく、深い内容のものがもう少しあってもいいのではないかと思う。フリーページ ヨガの項目更新しました。
2005.01.21
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本日発行のメルマガメルマガ全ての本質を求めてでは再び時間についてとりあげました。未曾有の被害を引き起こしたスマトラ沖地震。いまだ記憶に新しいことと思います。亡くなられた方々のご冥福を心より祈りたいと思います。地震と津波は多くの被害を引き起こしましたが、もたらしたものはそれだけではありませんでした。この影響で地球の自転が早まったようです。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050111-00000045-kyodo-soci 私たちの認識している時間、1秒、1分、1時間、1日、1ヶ月1年は地球の自転と公転を基準にしていますね。そして地球の自転が早まったということは、時間の進み方も早まったということになります。自転が早くなったと言っても、それが大きな影響を与えるわけではないと発表されています。確かにすぐに目に見える形で影響があるわけではないでしょう。しかし、一般的な「ニュートン時間」が地球の自転と公転をもとにしている以上、時間の流れ方が早くなったことは明らかな事実です。数年前なら十年一昔と言われましたが、今は三年でも昔だという人もいます。一年前でも昔と感じる人もいるかもしれませんね。以前だったら考えられないようなことが、ここ一年の間に立て続けに起こるようになってきています。これは時間の流れ方が早まっているからと言えないでしょうか?そして、私たちの感じている時間は、絶対的なものではないのです。今後も地球の自転に変動を及ぼすような事態が起こるかもしれません。それは絵空事とは言えなくなりました。そのとき明確な変化が起こるのかもしれません。また今回のメルマガでは、時間とは五感の経験の積み重ねである、ことについて述べています。気が散っている時は、多くの感覚を使い、時間の流れが遅く感じられます。逆に集中している時は、多くの感覚を使いません。ここから、五感を使えば使うほど、時間の流れ方が遅く感じられ、五感の経験が少なければ少ないほど、時間の流れ方が早く感じられるようです。次回はタイムマシン、タイムトラベル、エネルギースポットならぬタイムスポット、タイムウエーブゼロ理論、等について取り上げていきたいと思います。
2005.01.20
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明日発行予定のメルマガ全ての本質を求めてでは、今のところ、天外伺朗氏の著作をもとに書き進めている。 彼の著作、宇宙の根っこにつながる生き方を読み進めているが、そこに、エゴの追求で成り立っている現代社会、という項目があった。 仏教は本来煩悩こそが苦しみの原因である、としている。そして現代社会は、煩悩に立脚したものであると言えよう。地球環境よりも、利益を第一にするようなことをしてきているのだから、煩悩を優先させていることは間違いない。しかし、これは仏教の考え方からすると、苦しみをどんどん増大させることになってしまう。 実際のところ日本は煩悩に立脚した社会を確立し、世界でも例がないほど物質的豊かさを得てきた。しかし、それで人々が幸福になったと言えるだろうか?そのことに疑問を持つ人も最近は増えてきているだろう。 では単純に煩悩を完全に否定するような社会を確立していけばいいのかと言えば、そう簡単なものではない。その様な試みはことごとく失敗してきた。あまりにも純粋にそういったことを追求していくと、どこかでひずみが生じてくる。煩悩をまだ多く抱えている人たちがエゴを否定した社会を確立しようとしても、それには無理がある。 ただ現在のような、煩悩やエゴに立脚した社会では、完全に行き詰まってしまうだろう。煩悩や欲望こそ社会を確立していく原動力である。だから否定することはできないという人たちもいる。確かに今まではそうであった。しかし、これからは今までのシステムを考え直さないと、駄目な時期に来ているように思う。 もともとインターネットは、60年代から70年代にかけて展開された、ヒッピー達の「カウンターカルチャー運動」の精神に沿って発展してきたそうである。「愛・調和」を大切にという精神が根本にあったという。しかし現在では、やはり欲望や煩悩追求の論理に支配されるようになってしまった。高尚な理念を実現していくのは、やはり難しいようである。 天外伺朗氏は、これからは新しい社会理念や企業理念が必要であると主張する。21世紀は煩悩を追求するのではなく、感動をもとにしていくことを提唱している。 ここでいう感動とは、どこかの国の首相が「感動したー!」などと言ったこととはまるで別のことであろう。魂のそこからわき起こってくる感動のことであろうと思う。わたしの感覚では、一般的な感動したときというのは、心が大きく動いているものだが、天外氏が主張しているものは、心は静かなのだが、魂のそこから感動がわきでてくるといったものではないかと思っている。 仏教では私たちの本質は仏性であり、汚されることのないものとする。ユングは集合無意識ということを主張し、人類は根底でみな繋がっているとする。人間の本質は本来純粋なものである。しかし、エゴや煩悩を追求していくことをずっと行い続けてきた。これには本来無理がある。人間とは本来どのような存在であるか、今一度しっかりと確認することが大切ではないか。 オーストラリアの先住民であるアポリジニの社会は、エゴに立脚したものではなく、自然と一体になった非常に精神性の高いものであったそうである。彼らは砂漠を旅する時も食料を持っていかず、わずかな水だけを持って旅する。食料が必要になった時、祈りを捧げると、食料が得られるという。祈りが生活の中に渾然一体となっている。 またアポリジニは文明人が失ってしまった能力をいっぱい持っている。彼らの視力は七・〇だというし、テレパシーで意思の疎通を図っている。声は歌うためや祈るためのものだという。 文明人はその土地の先住民達の文明を劣った野蛮なものであるとして、ことごとく滅ぼしてきた。しかしそれによって失ってきたものは、あまりにも大きいようである。単純に以前と同じような状態に戻ればいいものではないが、先住民達の智慧から色々と学び取ることが必要ではないか。 21世紀は高度な物質文明を保ちつつ、高度な精神文明も確立していくことが大切であると思う。
2005.01.19
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風邪がなおった後は心身がすっきりとして、瞑想にもよい影響がある。瞑想していて、久々に異次元の体験をした。瞑想体験を吹聴するのは、あまりいいとは言えないが、参考程度としてただければと思います。 いつものように瞑想をしていたが、今回は微細な風(生体エネルギー)がどんどん強くなり、全身が心地よくしびれてきた。そして呼吸が非常に浅くなり、呼吸をしているかしていないかわからないほどになっていった。 ここまではよかったのだが、それから意識が異次元に入っていき、まず周りでどすんどすん、という音が聞こえた。それから犬や猫といった動物たちの鳴き声が聞こえてきた。これはまずいなと思っていると、猫の姿がみえてきそうになった。結局それははっきりとしないままで終わった。 ほっとしていると、ドラえもんの映像が非常に鮮明に見えてきた。目の前にスクリーンがあり、映画でも見ているようだった。場面はパッパッと移り変わり、やがて消えていった。 この間ずっと体はしびれており、風はずっと強い状態のままだった。やがて風が静まっていき、意識もこちらの世界に戻ってきた。 チベットの死者の書では、死んだ後意識が中有と言われる状態に入り、そこで様々な経験をするとある。普通は死んだ後に中有の経験をするのだが、瞑想に慣れてくると、生きている間に瞑想でその様な経験をするようになる。そして、死んだ後中有で迷うことがないように、生きている間に中有の経験をしていることが奨励される。 今回のわたしの経験は、動物の鳴き声が聞こえてきたことからも、動物の世界の経験をしたと言えるだろう。これはわたしの中にそういう要素があるからであり、気をつけなければと思った。 中有においては、心を乱したり、見えてきたり聞こえてくるものに対して心を動かしてしまうと、経験している世界に巻き込まれていき、そこに転生してしまうと言われる。わたしはこういった経験を何度かしているので、心が乱れることもなく、経験した世界に巻き込まれることもなかった。その場合は、転生に失敗しないと経典ではある。 逆にそこで巻き込まれてしまうと、転生に失敗してしまうとされる。また、中有では生体エネルギーの流れが非常に強く、早くなっているから、慣れていないと、エネルギーの流れや強さに耐えられず、気絶してしまうとされる。だから生前瞑想に慣れておいて、死んだ後気絶しないように訓練をしておくことが大切とされるのである。 こういったことを他人に押しつけることはしないが、自分の経験や、経典の内容からも、こういったことは実際にあるのだと、わたし自身は確信している。中有の存在はともかく、生きているうちも心を動かさないようにする訓練は、大切なことであろう。フリーページ「華氏911」更新しました。
2005.01.18
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夕べは少し食べ過ぎてしまい、寝る前に体調がどうなっているか心配だったが、案外すっきりと目が覚め、風邪の症状も無くなってきており、お腹の具合も大丈夫そうである。肉体がかなり浄化された感じである。 人体は自己治癒力があると言われるが、自分の体を痛めつけるようなことをしないでいれば、自己治癒力は自然と働くと思う。働かないとするならば、どこか不自然な生活を送っているのだろう。 暴飲暴食は自己治癒力を働かせなくなると思う。夕べは少し食べ過ぎてしまったが、普段は一食か二食で、菜食である。乳製品や卵もとらないことが多い。また酒も全然飲まない。瞑想などをしていると、ストレスが昇華されてしまい、酒を飲む必要が無くなってしまうのである。 また過度の性行為も自己治癒力を弱めてしまうと思う。性エネルギーは生命エネルギーでもある。いわゆる氣は性エネルギーを消耗すると、同じく消耗されてしまう。ヨガや気功をやっていた人が、結婚する前は非常に若々しかったのが、結婚後急に老けてしまった例をいくつか知っているが、これは性行為によって、氣を消耗してしまったことが大きいと思う。性エネルギーを消耗させずに蓄えることの大切さが、もっと知られても言いように思う。 わたしは以前はどちらかと言えば老けてみられることが多かったが、最近は逆になってきている。これは氣を蓄えていることと無関係ではないだろう。そして氣を蓄えることによって、自己治癒力も働き出すと思う。 また、夕べは寝る前にパソコンを使わなかったのが良かったと思う。寝る前にネットサーフィンをすることが多いのだが、それをしないですぐに寝た。そうすると目覚めが良かった。 パソコンから出る波動はあまりいいものではない。またネットからも多くの想念を受ける。パソコンを長い時間使用したり、ネットサーフィンを長く行っていると、間違いなく心身に悪い影響があるように思う。これは気をつける必要があると思う。
2005.01.17
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楽天日記をはじめて二ヶ月がたった。毎日書いていたわけではないが、ほとんどの日に書くことができた。そうなると日記もかなりの量となる。塵も積もれば山となる、ことがよくわかる。 継続は力なりというが、これは真実だと思う。二ヶ月続けていくと、色々なことに気づいたり、学ぶことも多い。また色々な方と知り合うことができ、これはわたしにとって大きな財産である。これもこつこつとした積み重ねがあればこそである。 仏教でもいろいろな考え方があるが、努力を放棄する段階があると説くところもある。これは確かにそういう段階があるが、はじめから努力もしないでぐうたらしていては駄目である。努力を放棄する前の段階では、それ相応の努力が必要である。 釈迦牟尼も怠惰であることなく、道を進みなさい、というような意味のことを言われている。釈迦牟尼は中道を説いたが、何事もほどほどがよいと言われることもあり、それは確かにそうではあるが、極端な苦行などを戒めたのであって、釈迦牟尼自身は熱心に瞑想にふけるなどのことをしてきたのである。 これからも毎日のコツコツとした積み重ねを大切にしていきたいと思う。 そして皆様のおかげでここまで続けてくることができました。感謝致します。-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=- 風邪はなおってきたが、今度はお腹の具合が悪くなった。ひどくはないが、少し下ってしまっている。風邪を引いた後や、お腹をこわした後はすっきりとしていいのだが、やはりその最中は少々きつい。まあ悪い要素がたまってしまうよりいいとは思う。
2005.01.16
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どうも疲れがたまっており、軽い風邪をひいてしまった。鼻がぐずぐずで、若干痰も出る。頭がぼーっとしてしまう。ただ熱があるかと思ってはかっても、平熱であった。 本来ならヨガの行や気功や瞑想などを行って治したいところだったが、そこまでの気力もなかった。休む時はひたすら休み、寝る時はぐうぐう寝てしまった。まあ、まだ完全に回復していないが、十分な休息によって、ある程度は回復したようである。 子供の頃は良く風邪を引いていたが、最近は周りの人が風邪を引いていても、自分だけは大丈夫ということが多かったのだが、今回は疲労がたまっていたからだろう。やられてしまった。体が弱った状態だと、抵抗力が弱まってしまうようである。 ただ、風邪をひくのが悪いことばかりかと言えば、そうとも言い切れない。野口整体では、風邪を引いたり熱を出したりすることは体の大事な調整作用であるとしている。風邪を上手に経過させることができれば体の調子は以前にも増して良くなる。逆に風邪もひけない人は、体を調整できないので、疲れのぬけない「重くだるい体」をいつまでも引きずっていかなければならず、大病にもかかりやすいとしている。 確かに風邪の最中はいやなものだが、その後はすっきりとしていい感じがする。今日は瞑想をして、とても心身がすがすがしい状態だった。風邪によって体内の毒素が出て行き、浄化されたような感じもする。逆に風邪も引かないと、毒素を中にため込んでしまい、一気に悪い症状が出るということも言えるだろう。 風邪を単に悪いものとしてとらえず。有効に活用する姿勢も大切であるかもしれない。
2005.01.14
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