藤原大和の日本史徒然草

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藤原大和

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2005/01/20
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カテゴリ: カテゴリ未分類
天正年間に入ると「戦国天下取りレース」は決勝トーナメントに突入したといえる状態になってます。
まずは本命として織田信長
次に西国の実力者である毛利輝元
そして北陸の雄である上杉謙信
少し遅れて東国の王である北条氏政
さらに遅れて長篠の大打撃から立ち直れていない武田勝頼
その他は九州の島津、大友、竜造寺の三強と東北の葦名、伊達、最上、南部…
この程度しか生き残ってはいませんでした。つまり応仁の乱から約百年でどうやら全国的に統一の方向性が見えてきていたのです。
信長を別とすれば、この中で実力的にぬきんでていたのが毛利と上杉で、特に上杉謙信は戦争に勝つために妻も娶らず、毘沙門天に願をかけていたほどの人物でした。
殆どの戦争に負けることもなく、まさに「軍神」といえる存在だったのです。
この「謙信西上」の報に、毛利に亡命した足利義昭は狂喜したことでしょう。
ついに信長は負けるであろう、と思ったに違いありません。
しかし信長はそれほどの脅威を感じていなかったものと思います。
なぜなら、いくら強くても上杉軍は「農民兵」だからです。
農繁期になれば戻らなきゃならないし、雪が降っても北陸兵は退路を断たれる前に撤退するだろう、と冷静に読んでいたはずです。
実際上杉軍は強かった。
手取川で織田、上杉軍は激突し、あの猛将柴田勝家に率いられた織田軍は大敗します。
しかし、信長の予想通り上杉軍は追撃戦を行わず、能登を掌中にしただけで引き上げてしまいました。
(余談:秀吉は柴田勝家の援軍要請に渋々応えて北陸に出陣したが、柴田勝家と意見対立の末無断で撤退し、危うく処分されるところであった。秀吉も上杉軍は農繁期には撤退するという読みをしていたが、それを理解できない勝家と衝突したらしい)
ところが、程なく上杉謙信は脳卒中(?)で急死します。
信玄の死ほどインパクトはありませんでしたが、これも信長の強運といえるでしょう。
しかも謙信には妻がない=実子がいないため後継者は養子となるわけですが、間の悪いことに養子が二人いたのです。
当然のことながら二人の養子は謙信の後継者の座を狙って対立します。
一人(景虎)は北条家の出なので北条家が後押しし、もう一人(景勝)は後ろ盾がない為昨日の敵である武田勝頼を頼ります。
この上杉家内の内紛により、結局は加賀、能登は織田領になり、越中の一部も回復することが出来たのでした。
(謙信の後継者の座は結局景勝が勝ち取り、その結果上杉家と北条家は断交し、上杉の力は大いに衰えた)
さて、こうなると抵抗を続ける本願寺を別にすると、大敵といえる存在は毛利以外はなくなってしまいました。
毛利輝元は若年ですが、吉川元春、小早川隆景という叔父二人が良く補佐し、人材も豊富で「鉄の結束」を誇っていました。
そして、信長は毛利との戦争を秀吉に委ねたのです。
ところが思っても見ない事態が発生してしまったのです。
秀吉の領国である近江と中国戦線を結ぶ経路上に領地を持つ荒木村重が謀反を起こしたのです。
まさに青天の霹靂でした。





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Last updated  2005/01/22 12:34:53 AM
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Herman@ Re[2]:私の中の額田王~」「万葉群像」より(11/24) 藤原大和さんへ あなた様と私は30代の頃面…
藤原大和 @ Re[1]:私の中の額田王~」「万葉群像」より(11/24) 何故それを御存じなのでしょうか?
Herman@ Re:私の中の額田王~」「万葉群像」より(11/24) 昨日という憎悪は消え 明日という希望がや…
Kay@ Re:愚劣とすらいえない山本太郎(10/31) Happy Birthday‼ 夢、叶いましたか?
らっぴぴたん @ Re:菅をクビに出来ない民主党(07/24) こんにちは。 このタイトルには全く関係あ…

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