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日本の天皇家は世界最古の輝かしい歴史を持つ王朝です。オリエントでアッシリア帝国と覇を争い、キンメリ人と連合してシルクロードを東遷したウラルトゥ王朝の末裔であり、後に扶余王となって満州の地に君臨し、ソロモンとシバの女王の子、メネリケの子孫である大物主一族(公孫氏)と同盟して邪馬壱国を建て、さらに百済国を建てました。この陸・南海シルクロードを駆けた壮大な歴史は、【記紀】によって抹殺され、忘却されてしまったのは残念なことです。扶余には、月氏+ウラルトゥ王朝のシルクロード系の前期王朝とインド経由の穢国・南海系の後期王朝がありました。共に製鉄部族です。箕子朝鮮が滅亡した後、南海系穢族の王アグリイサトは扶余前期王朝に合流しやがて穢族は強力になり扶余後期王朝になり、東明王と称しました。そのため、月氏+ウラルトゥ王朝のシルクロード系の前期王朝は、・エゾの地へ移動し東扶余を建て、その子孫に仇台が出て九州に渡来して神武天皇になりました。残念ですが天皇家は万世一系とは言い難く、幾つもの民族の歴史をつないできたものでした。 天の王朝(東表国・豊日国・金官加羅国) BC800年頃、タルシシ船でコーサラ国を経て九州に東表国(オッフルの植民地)を建てた日本最古の王朝。エビス王クルタシロス(首露王)のエビス王朝ですがクルタはタルシシ船支配者の意味。エビスはエレサレムのエブス人です。エブス人もオッフル人(現ソマリア)も紅海とアラビア海の海人でした。のち邪馬壱国に敗れるまで、九州全域を1000年間支配し、譲った後、朝鮮半島の弁辰地域の金海を飛地として支配し駕洛国・金官加羅といわれ、その王家は金氏と中臣氏になりました。この王家は【記紀】では孝昭、孝安、孝霊、孝元、開花とつづき、後の倭の五王に至ります。この王家から金氏が分離して【新羅】をたてます。ニギハヤヒの多羅王朝この一族は、かつてディルムンを本拠としたシュメール人とカルデラ人の子孫でした。後にソロモンのタルシシ船に参加したヒッタイトの製鉄カーストをも吸収し、アラビア海のヤードゥ族を従えてプール国をたて、ガンジス河口のコーサラ、マガダ両国のシャキイ族となってマレー半島を越え、モン族の地を支配し、ベトナムに文郎国をたて、後に河南省の宛に製鉄コロニーをつくって魏と韓に属していましたが後に、秦に追われて奇子朝鮮をたより、穢国をたてました。穢国王アグリナロシは奇子朝鮮を滅ぼした衛氏朝鮮に復讐するため漢に協力しましたが漢は衛氏を滅ぼすと奇子朝鮮を再興させず、楽浪、玄メンの二群にしてしまい欺かれたアグリナロシは自刃したため、その子アグリイサシは遼東太守を殺害して北扶余前期王朝と合体し、その庶子が王位を奪って北扶余後期王朝をたて東明王と称しました。穢国の王族はシャカ族で国民はチュルク族でした。ニギハヤヒの姓、余の「アグリ」はドラヴィダ族の一派というゴードン族のなかのサブカーストのアガリアという鉄工部族をさします。そして、この一族後期王朝の陝父(ニギハヤヒ)が南下して熊本に多婆羅国をたて後に、神武・卑弥呼の邪馬壱国に吸収されました。 【ウラルトゥの歴史】 カッシート人がウラルトゥ地方に侵入する前から、アナトリアには原ヒッタイト族、カルトヴェリ族ハヤシャ族などが住んでいました。フツリ人はエジプトやカナンから、この地に拡散してきたのですが、ヒッタイト資料は、この地方を【フツリ人の国】と記しています。フツリ人は、BC2000年紀半ばには、ミタンニ王国に従事し、ヒッタイト王シュビルリウマシュ以降はヒッタイト王国に従属していました。ヒッタイト崩壊後、いくつかの少国家がヒッタイトの伝統を継ぎ、重要都市のカルケミシュはハッティ国、オロンテスはハッテナ国となりました。そこに、ヒッタイトのムシュ族やカスカイ族が入ってきたのです。このようにウラルトゥは、当初からミタンニやヒッタイトのフツリ人、カッシート人チュルク人などからなる、いくつかの部族の連合体でありました。カッシート人は月氏になりインドに移ってクル国のなかにも混在しました。従ってウラルトゥとクル国は同族であり従属した同盟者といえるでしょう。約3000年前に、フェニキア人とヒッタイト人の混血によって、ウラルトゥ人が生まれました。この時、ウラルトゥ人によって小アジア(トルコ)のヴァン湖周辺に建国されたのがウラルトゥ王国であり、その初代王となったのが、アマテラス(男神)です。BC1013年、イシンの末期に、フェニキア人のマカン(海の国)がウラルトゥと共にアッシリアと戦いました。その結果、アッシリア王の攻撃でイシン(殷の本国)が滅んだため、番韓のヤードゥは海に浮かんでインドに逃れ、ウラルトゥは、北方ヴァン湖に退き、シャキイ族は、南下して後の穢国になりました。この時、カルデア人は、アッシリア軍に捕らえられていたイシン王族の子叔箕しゃ(ししゅきしゃ)を奪い返し、遥々航海して渤海湾に至り、遼東半島に上陸してその地に国を建て、【奇子朝鮮】と名付けました。BC781年、ウラルトゥ王アルギシュティシュ1世=ウガヤ王朝初代・衰子餘よ(すいしよ)または申侯が、アッシリア王を破ります。同じ頃、ドーソン(銅鼓)文化の拡散始まります。インド太陽王朝のマラ族と月神王朝の連合軍が銅鼓文化を持ってジャワ島、バリー島セレベス島などに入りました。アッシリアを滅ぼしてから300余年を経てBC6、5世紀になるとウラルトゥは二分して匈奴(キンメリ)と連合するものと、ペルシア(秦)に従属するものとになりました。秦は、この後、益々強くなり燕(フェニキア)も強化されたので、奇子朝鮮は、ついに満州に移って大凌河を国境とし河西の地を譲って東遷しました。神武以下の扶余の百済王朝朱蒙は東扶余(北扶余前期王朝)に追われて、北扶余後期王朝(穢国)の陜父らと共に卒本に逃れて高句麗をたて、北扶余を奪って高句麗国をたてました。このために陜父らは九州に亡命し多婆羅国をたてるのです。扶余王家は、167年頃、夫台が高句麗と戦い、その子仇台は、高句麗と和解し高句麗の養子になりその王族と化してケイ須といいました。後に自立し、公孫氏と同盟して、その宗女を娶り、公孫度は逆に扶余の王女を娶りました。公孫氏が南下して帯方郡をたてるとケイ須もその地に至って伯済国をたてた後に百済王仇首といいました。この仇首が伊都国王イワレヒコ・神武であり、その妃、卑弥呼は公孫度の宗女で日向にいました。高句麗は新大王の長子、発岐が公孫氏と同盟し涓奴部を率いて遼東に都したため、三子、延優らは輯安に移って新国をたてました。後に魏によって公孫氏が滅亡した時、発岐一族の旧国は新国に合流しました。扶余王家は仇台、位居、麻余と続き、依慮はその末王であり、百済の近肖古王になって鮮卑の慕容カイに討たれて亡命南下し、伊都国の王、祟神になりました。
2013/06/12
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BC627年に即位したアッシリアはカルデア人の王、ナボポラッサルの反乱に破れBC612年、メディアのキアクサレスによって滅びます。その後、メディア(楚)はスキタイ(越)と同盟してソグディアナ、後のソグド付近に移動しました。『史記』は、越(スキタイ)を夏王、禹(ウトヘトガル)はグート人とウルク人の混血なのでスキタイ族はグート・ウルク族です。その後、エラム族グループのなかのアケメネス・ペルシアがオリエントを支配しました。 エラム族はシュメール人やグート族と同系です。ペルシア人はアーリアンの一派ですが同じくイランを根拠地にしてエラム諸族と同盟していました。ペルシア王国の姉妹婚はエラム族の習俗であり、エラム語はペルシア帝国の公用語でした。ペルシア王キルスはカルデア人のバビロン王朝を滅ぼしてオリエントの覇者になりました。ペルシア史にBC519年、カスピ海の東方で尖冒サカ族が反乱し、ペルシア王ダリウス1世は自らカスピ海を渡って遠征したとあります。尖冒サカ族とはアッシリアの遺民を表わし王子を擁立してダリウスを攻撃したと考えられます。この後、ペルシア帝国は『ソグディアナのかなたのサカからエチオピアまで、インダスからサルディスまで』におよんだとありますから、ソグディアナの東方にあたる黄河上流の流域はペルシアの支配に服したことになり、従来のアッシリア系亡命者の支配地を奪ったことになります。アッシリア史はアッシュールウバッリトの敗走後を生死いずれも記録しないが、ウラルトゥに逃れた後、さらにサマルカンドまで逃亡したのです。
2016/10/27
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サンカの人々 ぶらんここの原稿は岐阜県の教育家であった三宅武夫氏が、少年時代(明治時代)におけるサンカとの出会いを回想したものです。サンカという人々の生き方が少年の目にはどう映ったのか、また何を学ぶことができるか貴重な記録です。手書き私家版として発行されたものから転載。 韆(ぶらんこ) 三宅武夫著から 【風の草の団子杉】は古木である。すぐ南に一寸した湖沼があって秋にもなると渡り鳥が翼を休めていた。この古木の下に藤原と名乗る夫婦が娘を連れて毎年五月から十一月迄いた。 団子杉の夫婦はこの荷車の様な一輪車に一切のものを乗せて、押さずに引っぱって韋駄天走りに走ってどこかに行った。小母さんの向うには娘と犬を乗せて平均をとったのは珍しい。■初めに私は明智(注 岐阜県恵那郡明智町)在に生れた。明治卅六年暮のことだ。そこには“山窩”とよばれる人々が毎年五月から十一月まで、同じ時期に同じ所に渡って来ては住みついていたものだ。私が接したのは、鳳の草部落に住んだ藤原某の一家で、夫婦と娘一人の小屋である。 彼等には「生活」があり、「教育」があった。 生活=生命=いのち、いきる力、ねがい。教育=共育=足場をそろえたソダチ方。然し、この一家は間もなく一般人の中に入っていく(トケコミ)直前の人達だった。これは何度でも、人に語ったことだが、書いたことがないので、思いついて「書いてみる」ことにした。今度いつか浄書する時の素稿のつもりである。私一人が感心していても、外の人は、どう思うかも知らないが、私の最も尊敬する先輩野村芳兵衛先生が、褒めてくれたことのある説だということだけは言い添えておきたい。 昭和四十八年七月一日■ 鞦韆(ぶらんこ遊び・・・・・)ぶらんこ は 只の遊びである。その遊びに今誰が本気になって取り組んでくれるか。今日教育の危機を言うものは多いが、子供と共に育つことを忘れて押し付け教育をし、人間を数に換算して、その不合理を思わず、かつて我もされた教育の形を先ず離れようとしてくれる先生は滅多にいない。 昭和五十又一年九月廿一日記■ 親と子のぶらんこ遊び第一稿本 時は明治四十四年九月の末つ方。所は恵那郡明智城北東、大学鳳の草。団子杉の梅。 事は、ここに国籍不明の日本人夫婦とその娘の三人が、この木の根っこに住っており、私共とは全く異質の生活をしていたが、私共に分からん言葉を半分以上は混ぜて使って「竹細工」を渡世にしていた。村方を廻って歩いては、米麦、味噌醤油に、物々交換をしているといったふうだ。彼らのことを私共は、村人と共に、少し怖れながら、然しいつも興味深くみつめていた。彼等は、五月半には、いつの間にか来ており、昨年、冬前に截っておいていった竹を器用に剥いでこれを身辺用の諸家具に編み上げたり削ったり焼いたりして磨いて艶の出た様々な竹細工を持って一軒一軒訪ね歩いていた。私共は、彼らを「ポンス」とか、ポンスケとかいって、大分「軽蔑した気持ち」を含めて呼んでいたし、疎外しようとしていた。 私共が何となく彼等を怖れていたのには理由がある。 第一は彼らの国籍が分からん。第二は言葉が違う。第三は生活様式が違う。決して嘘を言わないし、器用だし、早いし、何も言うことはないのだが、どうも違和感が先に立って溶け合わなかった。それにもう一つ、ばかに足が早い。・・・・何するか分からんと思えたのである。顔形も、私共のように田舎臭くないし、所々分からん部分を除いては言葉だって上方風な上品なものだったし、着物も、いつも洗濯をして小ざっぱりしており、ちっともおかしくはなかった。小父さんは、いが栗頭で、大抵鉢巻をしていたが黒い髪で白い歯で、するどい眼で結構いかす男だった。盲縞の木綿の着物で角帯をきりっとしめていた。そのふところが、いつもふくらんでいたのは“うめがい”という「山刀」が胸に抱かれているからだと皆は言っていた。帯は角帯だが、そいつは小父さんが自分で織ったやつだということだった。滅多にものを言わないし、笑わない。只誰かに食べ物をもらって「ありがとさんどす」という時の笑顔が何とも可愛かった。 一人娘だったせいもあろうが私よりも四つ五つ年下と思われる女の子をとても可愛がっていた。が、何か教えたり、何か採ったりする時は、見ている私共が怖い程に真剣だったし、そのことが出来るまでは、いくらその娘が涙をこぼしても、べそをかいても道端に座り込んでしまっても決してゆるさない。「しっかりしなはれ・・・・・」と小母さんは言う。「おーっそーがい奴っちゃぞ。あいつら・・・・・」私共は、そういって遠く離れて、然し一生懸命に見ていたものだった。小母さんは、綺麗な人で「笹の家」(明智の料亭)の芸者なんかより「背が高いだけでもよっぽど美人だ」と、私共は思っていた。それに声がいい。「あんさん。ほんやんボンでっしゃろ・・・」と顎を少し右前に出して、にっこり笑ってくれたりすると、うちの叔母様達なんか、とても「かなん」と思ってみていた。
2015/03/02
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