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あけましておめでとうございます。本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。昨日は愛媛県今治市の大山祇神社に参詣しました。こちらは芸予諸島の大三島にあり、しまなみ海道を渡ります。しまなみの風光明媚な景色もさることながらこの神社の厳かな雰囲気が大好きで、少し遠出ではあるものの、時々お詣りさせていただいております。樹齢2600年の御神木を前にすると、それだけで神代時代からのパワーを戴けるようで、気持ちも一段と引き締まります。おみくじは大吉。母が凶を引いたので、二人合わせて末吉くらいでしょうか。笑良すぎるのも気が緩みがちになりますので、それくらいの方がよしとしておきましょう。おみくじに書かれた御歌は、桜ちるこの下風はさむからで空にしられぬ雪ぞふりける (紀貫之)桜の花びらを雪に例えた美しい歌です。空にしられぬとは、つつましさを感じられる素敵な表現だなと、貫之の豊かさを感じずにはおられません。今年、私もこのような感性を磨けたらと思いました。そして本日、七草粥を戴く日。新しい一年が皆様にとっても無病息災でありますように。
2017.01.07
今年も残すところ3時間を切りました。子供の頃は大人の言う「一年が早い」という意味をあまりよく理解できていなかったのだと、自分が四十路になってから十分すぎるほど感じています。ですが、それも今後もっともっと早くなるであろうと、時の移り変わりの無情さを噛みしめる大晦日です。今年、私は二人の親しい方を亡くしました。一人は私と同い年の方。4年前にこのブログにコメントをくださったのをきっかけに交流を続けてきた新潟県燕市の男性でした。ブログからFacebookへと形は変わっても、いつも温かいコメントをくださったKさん。実際にはお会いしたことのない方でしたが、いつしか心の友として支えてくれていました。大工をされていた彼は、たぶん熱中症からの心筋梗塞で、8月下旬のある朝、永遠に起きてはこられませんでした。「いつか会いましょう。」その約束は決して果たされることのないものとなり、その「いつか」という言葉を何度も何度も怨みました。そして、「いつか」のその「いつ」は、ちゃんと自分で作らなければいけなかったんだと気づかされました。大事な人ほど。その日は誰にだって訪れること。その時は突然訪れること。これからは後悔のないよう、と心の底から感じた出来事でした。そして、もう一方(ひとかた)は9月に御年86歳で旅立たれた私が最も尊敬していた女性です。私の中でその方を一言で表現すると、「この花咲くや、つつましく」。昨今、女性の在り方が随分と変わって来て、価値観も180度といっていいほど変化し、私も色んな生き方の女性に憧れを抱いてきました。けれど、私の心の奥底から望む生き方を私自身に問うた時、私は彼女の人生、否、彼女自身だということに気づき、人生も半ばのこの時になって自分の在り方を見つめ直しています。生き方だけではありません。言葉遣いや立ち居振る舞いすべてに至るまで、「女性」とは本来こうあるべきではないかと、今も彼女は私の中で一輪、はっとするほど華やかで、ですが、つつましく咲き続けてくれています。今、静かにこの年を終えようとしています。2017年、素晴らしい年になりますように。皆さまも良いお年をお迎えくださいませ。
2016.12.31
そして、今回見たかった景色が阿蘇五岳。熊本県阿蘇市の大観峰から見るこの景色だった。阿蘇のカルデラもよく見えた。実は中学の修学旅行ですでに一度訪れていたのだがほとんど記憶になく、それでも頭の片隅にこの景色が残っていたのか、行きたい、行きたいという気持ちは日増しに大きくなっていた。そして、やはりここは気持ちのいい場所だ。空は雲一つなく晴れ、小春日和の恵まれたこの日、柔らかい涅槃像を拝ませてもらった。ここから望む阿蘇五岳は、その姿から涅槃像に例えられる。大観峰に到着したのが午前11時過ぎ。ジュースを2本買い、展望台などでゆっくりと寛いで出発したのが12時10分。帰りの船は午後2時発ということで、1時40分には港に着かなければならない私たちだった。この雄大な景色に後ろ髪をひかれながら、一路別府港へ。寄り道する余裕など全くなかった。僅か1時間弱の熊本滞在。微力ながら熊本の復興の応援をと、その気持ちはどこかにあった。確かに金銭だけが応援ではないけれど、四国に戻って改めて振り返り苦笑した。熊本で使ったお金、それはジュース2本のたった260円也。
2016.11.24
その1 湯布院の動物病院にて。「この子の名前はなんていうの?」と先生。「ウルスです。」「ウルフくん?」「いえ、ウルスです。」「もし、また倒れることがあったらその時、まずウルフくんの脈をみること。心臓は空打ちをしてる可能性もあるので、足の付け根で確認できるよう練習しておいてください。」「そして、その時のウルフくんの状態を動画で撮っておいてください。そうすると、病院に運ばれてからの対処に役立ちますから。」「再びこういうことがあれば先天性の可能性もあります。5歳までなら先天性、それ以降は後天性で、後天性の場合は脳腫瘍などが考えられるのですが、ウルフくんはまだ3歳でしたよね。」延々と「ウルフくん」を繰り返す先生でした。ウルスはドイツ語の語源で「くま」なんだそうですが、九州で「おおかみ」くんデビューです。笑その2 湯布院で迎えた朝。ホテルでの就寝前。「6時に目覚ましかけとくからね」と、私は母に伝えました。そして次の日の朝。ピピピ ピピピ ピピピスマホが6時を知らせます。「クリスとウルスを外でトイレさせなくちゃ」、私は目覚ましを止め起き上がりました。その横で、「地震、地震」と慌てる母。「地震?」「今から地震が来るよ!」どうやら母は私のスマホの目覚ましを、緊急時の合図と勘違いしたようです。「だって九州だし。この前の鳥取の地震でも同じように鳴ったから。」湯布院・金麟湖
2016.11.16
九州ふっこう割第2期分が配布されたらしいよ、という情報が友人よりFBでアップされた時には、すでに宿の予約は完了していた。昨年宿泊した湯布院のドッグラン付ホテルがとても良かったので、今年も九州行きを計画していたのだった。本当は青葉が茂る頃と思っていたのだが、あの大地震。なので余計に行きたい思いを募らせての出発だった。今回も愛犬2匹を連れての旅。八幡浜港から船で別府へと向かう。その日は曇り空だったが、デッキにいても潮風が心地いいほど11月にしては気温が高かった。けれど船内は暖房が入っており、かなりの暑さを辛抱しての3時間弱。愛犬たちはその暑さと久しぶりのお出掛けに興奮し、水をがぶがぶ飲んでいた。別府から湯布院へは下道を通っても車で1時間ほど。相変わらず景色の美しさには息を呑むほどで、まさにドライブ日和。くねくね道のあちこちで車を止めては由布岳を見上げたり、色づいた木々を眺めたり、なかなか目的地にたどり着けない。やっぱり九州の自然は大好きだなーと深呼吸ばかりしていた。予定ではそのままホテルへ直行のつもりだったが、チェックインには少し早く、私たちは金麟湖の畔のカフェで一服することにした。でも、その判断が間違ってたのかな。多くの観光客で韓国語が頭の上を飛び交っていて、逆に私たちの方が遠慮がちになるほどだった。特に愛犬ウルスは何度も彼らの被写体となり、わけのわからない言葉にかなりのストレスを感じている表情。金麟湖の周りはせっかく見事な紅葉であったのに、ずっしり疲れを背負った午後になってしまった。そして、ホテルの玄関にて。白内障のために慣れない場所ではすぐに座り込んでしまうクリスを抱きかかえようとした矢先、バタンと大きな音がして振り向くと、そこにウルスが転倒していた。一瞬の出来事で、私には何が起こったのかさっぱりわからなかった。「え?ウルス?ウルス?」大きな声で呼びかけても、体を硬直させて横向きに倒れているウルスには意識はなく、私はその時ウルスが死んでしまったのかと思った。「なんで?うそでしょ?」必死で声を掛け体を擦る。心臓に耳を当てるとまだ動いているようにも思う。パニックになっている私を見て、ホテルスタッフの皆さんが駆け寄ってきてくれた。「〇山を呼んで!」後で聞いた話では、〇山さんという若い女性スタッフは動物を看護する専門学校を卒業されているとのことだった。「これは低血糖かも。砂糖を舐めさせてあげて。」「病院には電話しました。すぐに私の車で行きましょう。」少しづつ体の硬直もとけ意識を戻しつつあるウルスを抱いて、私は〇山さんの車に乗せてもらった。「病院はこの近くですから。ここ(ホテル)のワンちゃんたちも診てもらってる先生なんです。」「こういう時は、飼い主さんが落ち着くこと。ワンちゃんは飼い主さんの気持ちを敏感に察知しますから、飼い主さんが慌てているとワンちゃんも不安になるんです。」「私も沢山子犬を見てきましたけど、低血糖を起こして意識をなくす子は結構いるんですよ。」初めてのことで動揺している私の不安をなくそうと、運転しながらも彼女は話し続けてくれた。病院に着くころにはウルスも意識を取り戻し、元気はないものの普通の状態に戻っていた。ホテルの方達にはとても迷惑をかけてしまったが、あの時もし私だけだったらどうしていいかわからず、あたふたするだけだったと思う。そして、こんなにも親切にしていただいて、私もウルスも本当に恵まれていたなと感謝している。九州、温かい思い出がまたひとつ増えた。
2016.11.15
瀬戸内国際芸術祭2016の春夏秋すべてが終わった。3年に一度の大イベントは今回も大成功だったんじゃないだろうか。私は春に沙弥島、秋に高見島と粟島を訪れた。どれも香川県西部に位置する島。今では世界的に有名なアートの島となった直島や豊島(てしま)、小豆島などの東部の島は世界的にも有名なアーティストを呼んでの華やかな作品群だったんじゃないかと思う。対する西側は秋期のみ開催の島が多く、島民を中心に島の歴史や生活と密接した作品が中心だった。もちろん、東の島もそうであったと思うのだが、香川県は日本一小さな県の割に、東讃(とうさん)・西讃(せいさん)ときっちり県民性も言葉も文化も異なっているので、表現の仕方に違いがみられるだろう。ちなみに食べ物でいえば、うどんと骨付き鶏は西、和三盆は東である。と話は逸れてしまったが、今回訪れた島のうち粟島は以前から行きたい思いの強い島だった。隣町の港から船で10分、少し海岸線をドライブすればいつも目にする島なのだが、船に乗るというのが腰を重くさせていた。瀬戸芸はそんな身近であって身近じゃない島を旅するきっかけをも作ってくれる。そこは、日本初の国立粟島海員学校跡があり、夏は海ほたるが美しいところ。そして、漂流郵便局が置かれている島だ。漂流郵便局。それは、届け先のない手紙を受け入れてくれる郵便局。昔の郵便局跡を利用して、3年前の瀬戸芸のアートプロジェクトで始まったものだ。伝えたくても伝えられない想い。大好きな人へ、片思いの君へ、初恋の人へ、未来の花嫁さんへ、可愛がっていたペットへ、そして今はもう永遠に会えなくなったあの人へ。そのほとんどが故人に宛てたもので、読みながら涙を流している人もちらほら見かけた。そう、その誰かに宛てた手紙は私たちが気軽に手に取って読むことができるようになっている。行き場のない思い、届け先のない思いを乗せた手紙を読んでいると、今、自分の周りにあるすべてのものに優しくしよう、大切にしようという気持ちがおのずから沸いてくるようだった。それは素朴な景色のなかだから余計に心に沁みて来る。それは島時間のなかだから余計に心に刻み込まれる。そして漂流郵便局の局長さんの穏やかな笑顔に、センチメンタルな心がほっとする。3年後の瀬戸芸を待たずして、また訪れたい島だった。
2016.10.19
8月頭に行った健康診断の結果が出た。一番に目を引いたのが「貧血」という文字。これまで、貧血といえば細身のか弱い人がくらくら~と立ちくらみするというイメージだっただけに驚いてしまった。笑そういえば、いつからかすぐに息切れするようになり、座っていても頻繁に眩暈を起こすようになっていた。この夏の暑さだから、きっとそれは熱中症の初期症状だろうと水分や塩分補給で対処していたのだが一向に良くならない。ひどい時は座る姿勢すら辛く、なにもやる気が起こらない。寝込む日も時々あった。その理由がやっとわかった。病院で薬を処方してもらい、波はあるが少しづつ改善してきたように思う。そして服薬するようになって2週間、その日は珍しく気分が良いこともあって、車で片道1時間半ほどにある四国霊場第八十七番札所長尾寺にて菜懐石を戴くことにした。過去にも何度かその菜懐石についてはこのブログに書いたことがあるが、その一つ一つ心のこもった温かいおもてなしは身体の隅々まで染み渡る。お寺の庭園を眺めつつ、静かに丁寧に食事を戴く時間は贅沢だった。そして、それはちょうど彼岸のお中日だったこともあり、長尾寺名物「甘納豆入おはぎ」をお供えにと持ち帰る。美味しいものはご先祖様にも。
2016.09.22
お盆の帰省ラッシュのさなか、兵庫県は西宮市の県立芸術文化センターへ車を飛ばした。2月にチケットを取って半年、ずっと楽しみにしていたのだった。私がバレエに興味を持ったのは10年ほど前のこと。NHKのEテレで毎週日曜日の朝に放送されていたパリ・オペラ座の元エトワールの男性によるバレエ講座を偶然目にした際、これほど優雅な世界があるのかと衝撃を受けたのがきっかけだった。テレビとはいえバレエとの出会いがパリ・オペラ座というのは、ツイテいるというべきか、ツイテないというべきか。世界最古の世界最高峰のバレエ団の、元トップの踊りを観たことで、生で観るなら完璧な美しさを求めるようになってしまった。といってもバレエの薀蓄には興味はなく、その夢のような舞台に憧れを抱くのみ。今回鑑賞したのは、昨年亡くなった20世紀最高峰のバレエダンサーと名高いマイヤ・プリセツカヤを追悼してのガラコンサート。出演は、パリ・オペラ座と同じ世界三大バレエ団のひとつ、ロシアのマリインスキー・バレエ団である。演目のひとつが「白鳥の湖」というのも、楽しみに拍車をかけていた。というのも、これまで私が実際に劇場で観たバレエは「コッペリア」と「ジゼル」のみで、クラシックバレエの定番中の定番である「白鳥の湖」とは縁がなかったからである。真っ白な衣装で身を包んだバレエダンサーの踊りに最も似合うのが白鳥じゃないかと、私はずっとそう思っていた。バレエ=白鳥の湖、白鳥の湖=バレエという、バレエのバの字も知らない者が誰しも思う固定観念。(笑)しかし実際に観た後も、その考えは変わっていない。白鳥以上に白鳥らしい可憐さと優雅さに惹きこまれた時間。息をするのさえ忘れて吸い込まれていった世界。幸せだった。最後にみせてくれた「瀕死の白鳥」も、今時の表現でいうなら「美しすぎる」ものだった。曲はおなじみ、サンサーンスの「白鳥」。Wikipediaによると、湖に浮かぶ一羽の傷ついた白鳥が生きるために必死にもがき、やがて息絶えるまでを描いた小作品だそうで、私の最もお気に入りのバレエとなった。ちなみに、その「瀕死の白鳥」も「白鳥の湖」もこのマリインスキーバレエ団から誕生したもの。ロシアにはマリインスキーといい、ボリショイといい、素晴らしいバレエの土壌がある。手足の長いロシア人のバランスのよい美しい体型も抜きにしては語れないのかも。きっと伝説のプリマであったプリセツカヤの白鳥も、言葉では言い尽くせない美しさだったのだろう。20世紀最高のバレリーナがプリセツカヤなら、きっとまだ見ぬ21世紀最高のバレリーナを求めて、これからはバレエに触れる機会を増やしていきたいと密かに思う。世界情勢がもう少し落ち着いてきたら、パリにロンドンにモスクワに、そしてサンクトペテルブルクへとバレエ鑑賞の旅もいい。そんな夢みる私である。(笑)
2016.08.12
7月23日。大学時代からの親友3人で、15年ぶりに集まることになった。その数ヶ月前、LINEで「今年こそ3人で会おう!」とグループを作ったことで、これまでなかなか実現できなかった再会へ向けての思いが一気に加速したのだと思う。そして、せっかく会うのなら、大学時代を過ごした広島でということになった。朝9時、JR広島駅在来線乗り場の改札口で待ち合わせ。それぞれ福岡、岡山、香川からだ。在来線改札口を選んだのは、「久しぶりに母校を訪ねたい」という私の願いを聞いてもらったから。市内でも宮島でも、ちょっと足を延ばして岩国の錦帯橋でもいいのだけど、それは他の人とだって、一人でだって行くことができる。でも、さすがに卒業して20年。このメンバーでないと、母校に足を踏み入れることは永遠にないように思ったのだった。最寄り駅につくと、土曜日にもかかわらず無料のスクールバスが運行されていた。ちらほら見かける高校生。どうやら、ちょうどオープンキャンパスの日と重なってしまったようだ。昔は駅から歩いた20分の道のり。変わり果てた街に驚きつつも、その中に少しでも残る懐かしい場面を見つけようと、ガラスに額あて、各々車窓を覗きこむ。バスは正門を抜けると1号館の前で停車した。偶然出迎えてくれた事務員だというスタッフの方が私たちよりも2年後輩の男性で、ワッと昔話に花が咲く。「まだ○○先生、いらっしゃいますよ。」「そうそう、昔は名物のからあげ弁当がありましたよねー。からあげとご飯ばっかりの!(笑)」「今はもう学食のメニューも変わっちゃって、、、」「4号館と5号館を取り壊して、今10階建ての明徳館という建物を建設中なんです。今年の11月にオープンするんですよ。」「そういえば、うちの大学、全然寄付がこないですよね。」「学費は安いし、入学金なんて国公立大よりも安いのに。大きな図書館に新しい建物がいくつもできて、寄付なしでよくできますよねー。」そこは事務員の彼、「寄付はいつでもお待ち致しております、(笑)」と。後ほど1年生が教えてくれたのだが、どうやら株で得た資金をうまく運用しているとのこと。経済学部の卒業生としては、もっとこの大学で真剣に経済学を学んでおくべきだったと反省す。(笑)「1号館は昔のままですよ。耐震工事はしましたけど、僕でも懐かしいなって時々思います。どうぞ、ゆっくり見学して行ってくださいね。受付でもらった用紙を見せて、学食も食べていってくださいね。」多くの高校生は別の場所で模擬講義に参加しており、古く懐かしい教室はそのまま、時間が止まったままそこにあった。私たちは腰を下ろし、昔と変わらぬ窓からの景色を眺めつつ、終わらない昔話で盛り上がった。つい今しがた講義が終わって喋り込んでる学生のように、他人が見れば「おばさん」でも私たちはすっかり大学生に戻っていた。そして、タダでいただいた学食もとても美味しく、ここでも寛ぎのひととき。男子学生の多い大学なだけに、相変わらず量も多い。わいわい賑やかに食べていると、在校生と思われるスタッフから「今日はお母様方だけで見学ですか?」と声を掛けられた。20代で誤魔化せると思っていた私たちが、いきなり現実に戻った瞬間。(笑)花の毒身2人に小学生の母1人のアラフォー3人組は一瞬顔を見合わせ、思わず噴き出した。「いえいえ、ここのOGなんです。」少子化で大学の存続すら危ぶまれるこの頃、学部も増え、設備も整い多様化していく母校に感動すら覚えた今回の訪広。高校時代も大学時代もちっとも勉強しなかったことは棚に上げ、ここで出会ったいい仲間や思い出に感謝して大学を後にした。*「今度はいつ3人で集まれるかな?」「また15年も先になったら、トロトロしてたら還暦になっちゃうよ!(驚)」「ひゃー、還暦☆」「じゃあ、その時は赤い服で集まる?(笑)」「あ、カープが赤だから、それいいかもよ!!!(笑)」
2016.07.23
今年はずっと迷っていた。例年、紫陽花を見るのは「山陰のあじさい寺」と呼ばれる松江市の月照寺であったが、松江藩主松平家の菩提寺であるその寺も年々寂れてゆき、紫陽花の手入れも行き届かなくなった昨年の様が心にブレーキを掛けていた。兵庫県西脇市の西林寺が良さそうだ。いやいや、京都は大原三千院も美しいらしい。紫陽花が見頃を迎えた今の今まで迷っていた。そして昨晩まで、いや今朝出発する直前まで京都行きを計画していたのだが、なんとなく遠出するのが億劫になり、なんとなく紫陽花熱が冷めてきたこともあって、半日もあれば行って帰れる岡山は真庭市の普門寺へ急きょ向かうことにした。花の山寺とも呼ばれるその寺は、霧深い山中にひっそりとある。寺に近づくにつれ、道端に紫陽花が増えていく。このお寺、紫陽花の数は3000株と、各地にある有名なあじさい寺と比べると少ないかもしれない。しかし、そのひとつひとつがこれまで目にした紫陽花のどの名所よりも大きく、傷みも少なく、綺麗。そして朝露に包まれた紫陽花と、競って鳴く鶯の声がまだひんやりとした早朝の空気によく似合っていた。
2016.06.26
車を走らせ、サツキの美しさで有名な備中高梁市は頼久寺を訪ねてみた。縁側に腰を下ろし、愛宕山を借景とした枯山水のお庭を眺めるだけで静まる心。斜めの線となって降り注ぐ雨は音もなく、庭園の木々や小石を潤わせていた。大きなサツキの刈り込みは大海原を表しているのだと、説明にあった。小堀遠州初期の庭園。
2016.05.29
そんな一日になりました。緑の上で踊る光と影の移ろいに、息を呑みました。じーっと緑を眺めていると、心が満たされていきますね。京都市左京区は、瑠璃光院と蓮華寺にお邪魔致しました。
2016.05.21
これは展覧会を称賛すべきか、美術館を褒めるべきか。比較的自然豊かな処に暮らしている私でも、非日常の緑の中は本当に気持ちいいと心底思う。訪れた兵庫陶芸美術館は、深い緑に囲まれて思わず大空に手を伸ばしたくなるそんな場所だった。すっかり初夏の陽射しが眩しい空はすぐそこだ。流れる水の音がすでに恋しい涼を運んでくる。そんな心地良い空間で、今日、言葉では言い表せられないいいものを見せてもらった。デザインといい、色遣いといい、圧倒され続けてしまった。
2016.05.15
昨秋熊本を訪れた時、阿蘇から熊本市へ向かう途中で二度「くまモン」の車とすれ違った。最初に見かけたのは、ちょうど阿蘇大橋の手前だったと思う。黒色のホンダ・フィットのフロントバンパーに赤いほっぺたが塗られ、後ろのボディには可愛いイラストが描かれていた。一瞬のすれ違いに、「あれ、絶対、くまモンだよね」と母と顔を見合わせた。なんとも愛嬌のある車だった。それ以来、「くまモン、いいね」と、母は時々思い出しては口にした。阿蘇が好きで、阿蘇の風景を母に見せたいと訪ねた熊本。あの時、「秋の景色も素晴らしいけど、きっと春になって一面緑で覆われる季節が一番綺麗だろうね。次はぜひ春に来よう」と何度も話しながら車を走らせた。九州へは愛媛の八幡浜港から船で渡れば結構近い。できれば「この春」と思っていた。もちろん、その時はまさかあのような大地震に見舞われることになろうとは想像するはずもなく。先日、地元香川で車を走らせていて、前の車に「くまモン」のぬいぐるみが乗せてあるのを目にした。地震の後だったからか、余計にその愛くるしい表情が可愛く思えた。すると、今度は「くまモンのぬいぐるみ、欲しいね」と、母が言い出した。ぬいぐるみ好きな母とぬいぐるみ嫌いの私。しかし、「くまモン」だけはいいかな、と私も思った。家に帰って、ネットで検索。けれど、ぬいぐるみって本物を見て買わないと、ちょっとした目鼻口の位置などで全くの別物になってしまうことに気が付いた。「もう少し落ち着いたら、熊本へ行ってぬいぐるみを買おう。」それまでといってはなんだが、母の健康のためを思って「くまモン体操」のDVDを母の日のプレゼントに決めた。(笑)実はわが香川県にも「うどん体操」とやらがあるのだが、正直可愛くもないし、楽しくもない。くまモンの可愛い動きと一緒に踊る方が、間違いなく足腰にもいいし頭にもいいだろう。80過ぎのおばあさんが踊ることを考えれば可笑しすぎる気もするが、その音楽を聞くだけでも元気が出る。そして、何度も繰り返される「くまもとが大好きで良かった!」というフレーズに、なんだか私まで「熊本が大好き!」と思えてくる。その大好き!という気持ちをいつか届けに、また熊本を旅する日を楽しみに、今は陰ながら、そして心の底から応援したい。
2016.05.07
素敵な器で旬のものをゆっくりと戴くと、背筋がピンとして丁寧に食事できますね。今日は、理由のない即席親孝行の日でした。(笑)美味しいものをきちんと戴ける当たり前の日々に感謝です。どこかで大きな災害でもないと、つい普段の生活ができる奇跡を思い出せない私ですが、今日は心から感謝できます。お食事は、徳島県美馬市脇町のギャラリーカフェ萩の庵にて。・鯛の押し寿司・タケノコの木の芽和え・胡瓜とワカメの酢の物・お吸い物・人参ジュース・トマトゼリーデザートの徳島産フルーツトマト「星のしずく」は、今までに食べたことのない美味しさでした🍅
2016.04.16
昨晩の、熊本での地震で犠牲になられた方たちのご冥福をお祈りし、被災された多くの方々にお見舞い申し上げます。これ以上被害が拡大しませんように。少しでも眠れますように。半年前に訪れた熊本城は、それはとても雄々しく見えました。なのに今朝、痛々しくなったその姿に言葉を失いました。熊本の人たちが再び立ち上がり、そして前を向いて歩いていけますように。熊本城が、復興のシンボルとなりますように。
2016.04.15
瀬戸芸へ行って来た。瀬戸芸とは、2010年に始まった今回で三度目となる瀬戸内国際芸術祭のこと。3年に一度、春・夏・秋と3期に分けて、香川と岡山の主な島々を中心に国内外のアーティストと島民が造り出すアートな世界だ。かなりの集客とみられ、この時期 島々は大いに賑わう。春の瀬戸内国際芸術祭2016は10会場で催され、会期は春分の日からこの週末の17日、日曜日まで。今日は香川県坂出市の沙弥島(しゃみじま)を巡った。沙弥島は、島といっても昭和42年の埋め立てにより陸続きになっている。なので私が生まれた時にはすでに島ではなかったが、改めて訪れてみると島の風情がところどころ残っていて面白い。その沙弥島のメイン会場が数年前に廃校となった沙弥小中学校で、実は60年ほど前に私の母が小学校の臨時教師として赴任された場所でもある。すでに当時の校舎はないが、裏の浜辺で子供たちとよく缶蹴りをして遊んだことを今も懐かしむ。「月曜日の朝、特船で迎えに来てもらって、金曜日まで島にいて、土日だけ本土に帰る生活だったの。」「学校に併設された宿舎にはテレビが一台あってね、夜になると島の人たちみんなが集まって来てね、・・・。」産休代替え教師だった母の島での生活は僅か3ヶ月であったけれど、個性的な島の子供たちはとりわけ印象に残ったのだろう。浜辺で九九を練習したという話も、古き良き昭和の島風景らしいいい話だ。その沙弥小中学校では、神戸芸術工科大学の教授や学生のみなさんで立ち上げたアートプロジェクトが楽しめる。地元の子供たちと共同で制作したというのが特にいい。中山 玲佳「Las Islas -しま・しま-」瀬戸内には無数の島々があるが、そのひとつひとつに個性があって、それを活かしたアートを体感できるのも瀬戸芸の魅力の一つであると思う。地元の特産品、真っ赤な金時人参に金時いも、金時みかんも姿を化けて登場する。さくま はな「完熟の唄、海原に浮かぶ瀬戸の太陽」かわい ひろゆき「ハレの日、金時への道」戸矢崎 満雄「空飛ぶ赤いボタン」浜辺には、五十嵐靖晃さんの「そらあみ」がはためいて。カラフルな網の向こうには、かすかに秋期の会場である高見島も見えていた。桜の花びらが舞い散る中、潮の香を感じながらの島歩き。靴の中に砂が入ってざらざらしても、かえってそれが嬉しかったりする浜辺でのひと時。夏は、秋は、どの島を巡ろうか。
2016.04.13
一瞬の出来事だった。出勤が特別遅くなったわけではないが、職員健診があったその日は朝から職場の駐車場が混み合っていて、私はいつも停めている場所より少し離れたところで車を停めた。ちょうど右手には二十歳の男子職員が到着したばかりで、車の中でスマホをいじっているのが見えた。軽く音楽を流しながら、ふふふんっといった感じで車をバックさせた私は、いつになく上手に駐車できたことに満足した。「おばちゃんでも運転はなかなか得意なのよ」って感じで。(笑)車を降りた私は、ずらっと並んである車の向こうのキラキラした瀬戸内海を眺めながら、直属の上司の車がないことに気が付いた。あれ? 今日はお休みされるのかしら?車のナンバーを目で追っていた。それは、一瞬だった。気が付いたときには、私は地面に転んでいた。車止めだ。車止めに躓いた私は、たぶん漫画のような転び方をしたに違いない。両掌の親指付け根を擦り剥き、気持ち右手親指を突き指したようだった。いや、それ以上に痛むところがある。 胸だ。転んだ先にも、また別の車止めがあったのだった。そこに胸を強打した。その時、私は背後に二十歳の男の子がいたことを思い出す。慌てて起き上がり、恥ずかしすぎて振り向けずに小走りで職員通用口へと急いだ。ああ、恥ずかしすぎる。当時頭の中を占めていたのはそれだった。 痛みなど二の次だ。しかし、時間とともに増してくる痛み、くしゃみだけでなく大きな息をしても痛い。手のひらは親指下の盛り上がったところがやんちゃな子供が転んだ後のように紫色になっている。昔からよく転ぶ私だが、今回は派手にいったなーと苦虫を噛み潰したような顔でその日は過ごした。当日は病院へ行かなかったが、夜寝がえりすら痛くてできない辛さに負けて、長い待ち時間を覚悟の上で通院した。診察室に飾られたダ・ヴィンチのウィトルウィウス的人体図を見ながら、先生を待つ。結果、胸骨骨折だった。全治一ヶ月半だそうだ。今は胸の部分に大きなベルトを巻いている。それが3月下旬のこと。まだ時々胸は痛むが、春爛漫のこの陽気。安静にした方がいいのだろうが、やはり桜の誘惑には勝てず今年も花見がてら遠出した。昨年初めて見て以来忘れられない彦根城のお濠の桜と、その帰路立ち寄った姫路城の桜。哀れな日記の最後ぐらい、せめて写真だけでも華やかに締めくくろう。(4月6日)
2016.04.13
ぽかぽか陽気の中、現代狂言を観てきた。『現代狂言X』ナンチャンこと南原清隆さんと狂言和泉流九代目野村万蔵さんによるこの舞台も、今年で早10年になるそうだ。私は9年前に一度、「現代狂言2」を高松で観たことがある。今回久しぶりに足を運ぼうと思ったのは、公演場所が旧金比羅大芝居・金丸座であったから。こんぴらさんの麓にある金丸座は、天保時代に造られた現存する日本最古の芝居小屋。毎年四月には金毘羅歌舞伎が盛大に執り行われるのだが、そちらはチケット争奪戦がかなり激しく、地元でありながら金丸座での観劇は半ば諦めていたのだから、この公演を知った時には即飛びついた。一度、江戸時代の人々の気分で観劇するのも乙だと思った。9年前、高松出身のナンチャンが香川県民ホールで凱旋公演をした際には、観客の多くがナンチャンの親戚や友人だったこともあり、ナンチャンの緊張度合いが手に取るように伝わってきたが、場数も踏み、自身の演じる狂言にも自信がついてきたのか、今日は堂々と声もよく通っていて気持ち良かった。この現代狂言は二部構成であり、一部では通常の古典狂言を、二部で新作現代狂言を演じる。以前は古典狂言を演じるのは和泉流狂言師の方達ばかりだったが、いつからかその古典にも多くの芸人さん達が参加をし、しかもナンチャンが主役を演じ、しかもしかもそれがすっかり板についていたのには驚いた。さすがだと思った。金丸座の舞台に立つ、ということが許されたことも大きな自信と誇りになったのだろう。その中で、やはり素晴らしかったのが万蔵さん。初めて彼の舞台を観た時の、登場するだけで舞台上にぽっと灯りを灯した存在感は今もはっきり覚えている。オーラがあるだけじゃなく、場の空気を変えられる人だと私は思う。そのオーラだって、たぶん無我なのか。自由自在にオーラを操り、決して表立っていなくとも知らぬ間に万蔵さんを目で追っている自分に気づく。当然のこと、所作も自然で美しい。二度目の今日も、万蔵さんから目が離せなかった。運が良かった私は花道のすぐ脇の席で観劇でき、花道上で何度も立ち止まる万蔵さんをちょうど真上に見ることができた。近くで見れば、はいている袴の絵柄は現代狂言の題材に用いられた京都は高山寺に伝わる国宝・鳥獣戯画。凛々しいお顔を見上げながら、やっぱり「大好き!!! 万蔵さん!!!」と思っていた。(笑)このチケットは、先月誕生日を迎えた母への少し遅いプレゼントとして用意したのだが、母が喜んだのはもちろん、一番はしゃいでいたのは万蔵さん好きの私だったのではないかと思う。そして、ナンチャンが舞台前のあいさつで、「大いに笑って、健康になって帰ってください」と言っていたが、最も元気の源になったのは、終演後の握手だったに違いない。「へー4」そう、花道の脇の席だけの特権。82歳の母もすっかり娘時代に戻っていた。(笑)私にとっても、9年越しの片思いの相手とふれあった貴重な時間だったことは言うまでもない。現代狂言X 於・旧金毘羅大芝居(金丸座)平成二十八年 三月 十二日(土) 午前十一時開演・古典狂言 「千切木 ちぎりき」 太郎 南原 清隆 連歌の当屋 野村 万蔵 太郎冠者 佐藤 弘道 連歌の仲間 平子 悟 岩井 ジョニ男 森 一弥 石井 康太 大野 泰広 三浦 祐介 太郎の妻 ドロンズ 石本 ・新作現代狂言 「不思議なフシギな鳥獣茶会」 作・南原清隆、野村万蔵(補助) 演出・野村万蔵、南原清隆(補助) 現太郎 南原 清隆 太郎冠者 野村 万蔵 和ウサギ 佐藤 弘道 時計ウサギ 森 一弥 ハートの王様 野村 万禄 ハートの女王 岩井 ジョニ男 主人 平子 悟 次郎冠者 大野 泰広 カエル ドロンズ石本 石井 康太 ウサギ 河野 祐紀 フクロウの精 三浦 祐介本来、狂言は能楽堂で演じられるのが常である。しかし旧金毘羅大芝居は大衆向けの歌舞伎小屋であり、奈落や廻り舞台、すっぽんなどの舞台仕掛けがあるのだが、今回は歌舞伎の三百年も昔からある狂言ということで、それら一切は使用されていない。
2016.03.12
四国に春一番が吹いたという今日、午後から髪を切って映画を観て来た。「パディントン」先日三越へ行ったらちょうどパディントンの展示をしてて、どうもそれに影響されたらしい。それでも、こんなに好みの映画だったとは。愉快で可愛くて、温かくて愛しくなる映画だった。クスクス笑って、そしてパディントンをぎゅうって抱きしめたくなった。暗黒の地ペルーからロンドンにやって来たパディントン。暗黒、暗黒って何度も言ってたけど、ペルーってパディントンが誕生した1958年頃はまだそんなイメージだったのかな?(笑)冒頭でイギリス人の探検家がペルーの森の奥に入って行くシーンなど、私の頭の中ではハイラム・ビンガムが山奥でマチュピチュを発見した場面と被ってしまった。ロンドンに到着するなりハチャメチャなパディントンだったけど、もし私が初めてロンドンへ行けば、同じようにパニックになるんだろうな。パディントンに会いに、冒険をしに、今すぐロンドンへ行きたくなる。でもひとまずは明日の朝、食パンにマーマレードをたっぷりぬって食べようか。四国に春一番が吹いたという今日、雨のせいで気温のわりに寒かった午後だけど、パディントンのおかげで心はホカホカ暖まってる。
2016.02.13
仕事でとても疲れた先月末、家でゴロゴロするだけでは気分転換にならないと映画を観に出掛けた。12月以降、私としてはよく映画を観に行く。一度映画館で観てしまうと、そのサイクルはしばらく続いてしまうのだ。その日選んだのは、気分で『FOUJITA』だった。画家・藤田嗣治の絵は、別に嫌いでもないが特に好きということもない。しかし、どこか私の好きなモディリアニやローランサンにも通じるところがあって、彼の絵に出会うと立ち止まってしまう。といっても、フジタの絵の本物を観たのは隣町にあるカフェが初めてで、美術館で観た記憶は殆どない。そのカフェは、今は亡きオーナーさんが大のフランス好きで、年に何度も渡仏して集めた骨董品や絵画に囲まれた空間と、南仏から眺める地中海を模して瀬戸内海を一望できるテラスがある。オーナーさんの好むシャネルの香水が微かに漂い、会話の邪魔にならない低い音で流れる古いフランス映画も憎い演出。目の前の海は南仏をイメージしたものでも、オーナーさんの醸し出す雰囲気からか私にはどこかパリを感じられる場所だった。それはレモンの木の鉢植えを横目に少し坂を上って行くのだが、その庭の一角にピンク色した小さな美術館があって、そこに20点ほどフジタやコクトーの絵が並んでいる。この映画は、そのフジタの絵のような作品に仕上がっていた。日本とフランスの合作というのも納得させる。フジタのトレードマークであった「おかっぱ頭に眼鏡」姿のオダギリジョーもなかなか様になっていた。絵描きの、しかも裏町が舞台であるから、そう気取ったパリの町を観ることもなく、初めて私がパリを訪れた時の、まだ夜が明けきれてない早朝いきなり黒人女性に恐喝され、緑色のゴミ収集車が走るパリの記憶にぴったりだった。久しぶりに思い出したパリが恋しくなって、前述のカフェに行こうかなと思うも、オーナーさんが亡くなって以来、同じ家具や食器に囲まれても、景色は変わらず美しくても、不思議とパリの香りは消えてしまったように感じて。それでも、ピンク色した小さな美術館だけは、フジタの絵の前でシャネルの香りをさせたオーナーさんに会えるようで、まだパリの空気が残っていると信じたい。そういえば、オーナーさんはどこかフジタに似ていたような。パリを愛し、パリに愛された人だけに共通する何かがそこにあるのだと、そう思った帰り道だった。と書けば、しっかり映画を観たように聞こえるが、実際はよほど疲れていたのだろう。日本でのシーンは殆どが夢の中、記憶にない。(笑)
2016.02.09
母とモーニングに出掛けようと家を出て、「そういえば、広島の北斎展ってもうすぐ終わるんだったよね」との話から、急きょその足で広島まで車を走らせることとなった。北斎といえば私が小学6年生の時、学研の「学習と科学」シリーズの付録にあったスタンプが『神奈川沖浪裏』で、その年は多くの同級生の年賀状を北斎が飾ったのを覚えている。遠い話ではあるが、当時私もそれに漏れず、北斎の描く大胆な絵の構図に魅了された。今回の展覧会は、その『神奈川沖浪裏』をスタートに、北斎の描く富士の世界へと進んで行く。それにしても、一口に富士山と言っても色んな表情を持っているのだと改めて感じた。私が初めて富士山を見たのは23歳とデビューは遅く、それも熱海へ向かう何処かのサービスエリアから見上げた姿だった。二度目は仙台へ向かう飛行機の中から。その後何度か目にしたのはすべて新幹線の中からで、そういえばじっくり富士山を眺めたことなどあっただろうか。それでも、その一つ一つが記憶に残っているというのは、さすが富士の御山ならではと思う。この展覧会では、描かれた場所も具体的に示されており、遠く茨城や尾張、諏訪湖から望む富士の姿もある。当たり前だが、そのどれもが富士山であるのに違いないが、私の中では静岡から見た富士山が最もしっくりくる。一昨年だったか、朝の連ドラ「花子とアン」で、山梨と静岡、どちらの富士が表か裏かという話にそんなこと大したことじゃないのにと思っていたが、なるほど、なんとなくその気持ちも分かってきた。そして、そこには富士山と共にある江戸時代の人々や生き物たちがイキイキと描かれていて、いつの間にか私は富士山よりもそちらに目がいくようになっていた。旅人であったり船頭であったり、普段の生活を営む人々の姿が剽軽にあって、それらが絵に動きを与えていた。富士の静と人々の動。時に主役に、時に脇役に、どっしりと存在感を示したり消してみたり。どちらにしろ、黙ってそこにあり続ける富士の山。そういえば、大学入試の時だったかな。二次試験の会場で親しくなった、静岡は三島出身の女の子が言っていた。「富士山のない景色の方が変な感じ。」きっとそうなんだろうな。江戸の人々も動物たちも、いつも富士山に見守られて生活してきたのだろう。いつも見上げると富士山がそこにあったのだろう。北斎の富士山への思いも伝わってくるようだ。『冨嶽三十六景』は言うまでもなく、これまで観ることのなかった『富嶽百景』も飽きることなく興味深くて面白い。何気に心惹かれた作品は、『田面の不二』。
2016.02.06
この頃、よく愛媛へと足を延ばす。波長が合うのだろうか。今手に取ってる本までも、松山が舞台の「坊っちゃん」である。それは、二宮くん主演の新春ドラマが思いの外面白くて、それに感化されたわけだけれど、しかし、まぁ夏目漱石という人物は松山と松山の人々のことをああも貶して書けたものだ。(笑)しかも松山は、それを逆手にとって町の個性にしちゃうあたり、やはり私は愛媛が好きだ。年が明けて10日あまり、すでに二度も訪ねている。来年にも道後温泉本館の耐震改修工事が始まるらしく、「坊っちゃん」ゆかりの温泉はそれまでに改めて足を運ぶことにして、二日には大洲の臥龍山荘へ、昨日はしまなみ海道を渡って大三島の大山祇神社へ参拝に出掛けた。その臥龍山荘とは、なんてことない町を流れる肱川の畔に建つ明治時代の山荘なのだが、こんな田舎町の山荘がどうしてミシュランに選ばれているのか不思議だった。また、行く人行く人揃って「いい処だ」と言うものだから、ずっと気になっていたのだ。だが、訪れてみて納得。足元に置かれた花弁の愛らしさに心を掴まれ門をくぐり、母屋の欄間の細かすぎる透かし彫りに息を呑む。苔むした表情もまたいい。各所に施された粋な計らいに何度も何度も驚かされた。その憎いほど行き届いた心配りに、大洲の懐の深さを見たようだった。そして、これが例えば京都の鴨川沿いにあったんじゃあ、大してつまらなかっただろう。ここは道後の湯に負けていないと思う。ここで日がな一日、ぼんやりと肱川を眺めるも良し、愛媛ゆかりの小説を読むも良し。松山やこの辺りは俳句や和歌が自ずと生まれる土壌もある。その落ち着いた趣きは、新春を迎えるのにふさわしい場所だった。坊っちゃんも連れて来てあげたかったな。曲がったことが嫌いで喧嘩っ早い江戸っ子気質の坊っちゃんが、風流を愛でたかどうかは別にして。
2016.01.11
気ままな午後。本屋帰りに、ふらり東山魁夷せとうち美術館。現在開催中のテーマは、「唐招提寺の障壁画」と「鑑真和上の捧げる風景」。東山魁夷の鑑真和上に対する思いが、壮大な構想や綿密なスケッチからも溢れていて、ちょっぴり感動してしまった。東山画伯の作品は、静けさの奥から聞こえる潮騒だったり、しっとりとした雨露だったり、肌にまとう霧雨だったり。耳を澄まして、心を落ち着かせ、微かに漂う匂いが嗅ぎ、それらが自分と向き合う時間を与えてくれる。自分の心の奥底にある邪悪なものさえ洗い流してくれるような、穏やかな時。今回、特に気に入った絵は、中島敦の「山月記」をイメージさせる「黄山良夜」。鑑賞後は美術館のカフェでぼんやり海を見ていた。
2016.01.09
新年あけましておめでとうございます今年の年賀状は、乗鞍岳からの初日の出を拝むお猿さん。(笑)猿は色紙を切り抜いて、ちょっとだけですがひと手間かけました。年賀状に、そして讃岐人なら「年明けうどん」といきたいところですが、お節料理にお雑煮を戴く静かな元旦を迎えております。ご先祖様にも少しだけお正月気分をとお供えしました。御膳が二つあるのは、お仏壇が父方、母方と二つあるからです。讃岐のお雑煮は、白みそにあん餅。わが家は私が幼い頃から、ずっと白みそに何も入っていないお餅だったのですが、二年前に初めてあん餅雑煮を食べてみて以来、すっかりはまってしまいました。やっぱり讃岐人の味覚だったんだな、私、と思った次第です。(笑)白みそに餡子、意外と相性がいいので、是非お試しあれ。こちらは、5日前に食べた私のお気に入りのうどん屋さんの「白みそあん餅雑煮うどん」。以前は年越しは海外で!というのが私の常であったのだけど、こうやって穏やかに迎えるお正月がしっくりくる年頃になりました。(笑)では、皆様にとっても素晴らしき一年となりますように。
2016.01.01
昨夜のレイトショーは、私を含め鑑賞者はたったの2人だった。私的にはとても面白かったし、終わってからも色々考えさせられるいい映画なのに、勿体ない。だが、おかげで映画に没頭できたのは有難かった。この映画、香川では上映されないということで高速を飛ばし、ドライブがてら愛媛県新居浜市まで行ってきた。たぶん、私がウィーンを初めて訪れた時、クリムトの名画「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I(黄金のアデーレ)」はまだベルヴェデーレにあったはず。しかし残念なことに、その当時の私は「接吻」の強烈さに今回の映画のある意味主人公である「アデーレ」については覚えていない。今はニューヨークのノイエ・ギャラリーに展示されているそうだが、そこに行きつくまでのアデーレの姪であるマリアとオーストリア政府との所有権争いがこの映画の主軸。実話なんだそうだ。*それは1938年、ナチスがオーストリアを占拠した際、価値ある個人の財産をすべてナチスに奪われたことから始まる。それが敗戦後、正当な持ち主に返されることなくそのままオーストリア政府の手に渡った。ナチス侵攻前、アデーレ本人は自分を描いた作品についてはオーストリア・ギャラリーに寄贈するよう言い残していた。だが、真の所有権はアデーレ自身ではなく、夫のフェルディナントにあった。ユダヤ人であった彼は絵画を残して国外へと逃亡し、ユダヤ人排他の流れにあった国への寄贈を取りやめ、甥姪に相続させるという遺言を残していた。マリア自身もこの年、アメリカへ亡命している。結果は周知のとおり、この裁判でマリアは勝訴するのだが、結局この物語に本当の勝者はいないんじゃないか。そして、国を追われるということに改めて考え込んでしまった。もう3年も前、私がたった一ヶ月の欧州の旅を終え、帰国への列車に乗り込んだ時、「ああ、これでやっと日本に帰れる」と涙が出るほど安堵の気持ちでいっぱいになったことがある。その旅行はちょっと色々あって、今でもきっとこれからも誰にも言えない心の傷が私の中にある。しかし、その代わりに得たものもあって、その一つが「国」だった。日本人に生まれて本当に良かったと思った。日本にいるときは感じなくても、日本という国にいつも守られているんだと気が付いた。それは日本だからというより、例えば平和が許されるならばどこの国でも構わない。自分の祖国があり、いつでも帰れるふるさとがあり、そこを追われる心配のない私たち。世界の歴史を見ても、現に今も、当たり前のようで決して当たり前じゃないその幸せを痛感した瞬間だった。劇中で、マリアは老いた病身の父母をウィーンに残してアメリカへ渡るのだが、その別れは特別心に残るシーンだった。 「君の未来ある国の言葉で話そう」と、娘を思う気持ちと悲しみでくしゃくしゃな顔をして別れ間際に父が英語で言うところなど、本当なら誰が母国ではない国の言葉で別れの挨拶などしたいと思うだろうかと、胸がぎゅーと痛くなった。いや、マリアだって決してアメリカへなど行きたくない。もう二度と会えない大切な人をそのままに、生まれ育った国を好んで捨てる人などいるわけがない。「アデーレ」もそうだと思った。映画を終えて、あらゆることが脳裏に浮かんでは消えていき、そして今はやはりいつかはオーストリアで「アデーレ」に会いたいと思う。オーストリアに帰ってきて欲しいと願う。マリアが争った真の相手はオーストリア政府ではなかったと私は思う。この物語の結末はこれでいいと思っているし、マリアへの「アデーレ」の返還は正しかったと思うけれど。ラスト、この裁判を共に戦った新米弁護士ランディの胸で泣くマリアの涙がすべてだと思った。私の涙は一滴も出なかったけど、胸の奥底を乾いた白い息が沈んでいくような痛みに泣いた映画。だからといって重くもなく、テーマのわりに軽快なタッチで描かれている。だから面白い。主役のヘレン・ミレンはもちろんのこと、段々頼もしくなっていくランディ役のライアン・レイノルズも良かったじゃないかな。それにしても、絵画一枚になんて色んなドラマがあるんだろうか。
2015.12.16
近頃、土曜日は映画の日になっている。今日は、「母と暮せば」。舞台は長崎。原爆で息子を失った母と、亡くなったはずの息子。淡々と物語は進んでいくが、伝えたいことはしっかり胸に届いてくる。詳しい内容は十分前宣伝をされているのでここに改めることはしないが、吉永さんと二宮くんの親子が本当に自然で、ありえない設定でもすっと物語に入っていけた。私は3年前まで邦画は一切観たことがなかったので、今回初めて吉永小百合さんの映画を観たけれど、やはり美しい方ですね。二宮くんの恋人役の黒木華さんもそうですけど、お二人とも所作も言葉遣いも美しくて。最近は身近にも綺麗な方が増えてきたけど、物腰の柔らかい方となると、ね。私がまだ25歳前の頃、行事の多い職場ゆえに失礼がないよう町の作法教室に通ったことがある。その時習った食事の仕方、私も時々思い出しては意識するけど、実はできる方を見たことは一度もない。それを、何気ないシーンで吉永さんはさらりとされていた。そのちょっとした場面でも吉永さんの人となりを見たようで、さすがだなと思った。そして、出演されたどの役者さんもそうだけど、後ろ姿がとても素晴らしかった。映画の終わりにはうっすら涙が滲む、そんなふうに仕上がっていると私は思う。
2015.12.12
今日で3日目。夜の7:30頃、社会保険事務所の職員と名乗る男から母宛てに電話があった。まずその時間に社会保険事務所から電話があること自体おかしいが、日を増して段々しつこくなってきたので私が受話器を取ってみた。私 : 「どちらの社会保険事務所ですか?」 相手 : 「本局です。 東京からです。」私 : 「掛け直しますから、そちらの電話番号と名前を教えてくれませんか?」相手 : 「08××・・・」私 : 「東京なら03ですよね。」相手 : 「掛け直されるなら、もよりの社会保険事務所まで・・・」私 : 「あなたに掛け直しますから、東京の電話番号を教えてください。」相手 : 「前回、お伝えしましたよね。 紙に書いてるはずですが・・・」もちろん、嘘である。私 : 「紙を捨てたので、もう一度教えてください。」相手 : 「08××・・・」私 : 「いえ、03からお願いします。」こんな同じやり取りがしばらく続いた後、開き直った相手は「08××-××-××××まで連絡ください」と、うちの電話番号を答えるので、「もう二度と掛けて来んな!!!」と、思いっきり受話器を叩きつけて切った。だが、こういう卑怯な真似をする人間は、やはりしつこい。その後も何度も何度も嫌がらせのように電話を鳴らしてきた。母に聞くと、最初は「きちんと年金が入ってきていますか?」という程度のものだったらしい。それが、次第に訳の分からないことをグダグダ言い出し、揚げ句に今日のやり取りまでになってしまった。電話に出なくともしつこくリンリンなる電話がうるさくて、それよりも一人で思い出していると気分が悪いので、最寄りの交番へ電話した。まあ、留守電にすればいいだけの話だが、近ごろ近所には独居のお年寄りが増えてきたし、もしも相手に住所が知られているならいい気はしない。今回のことと、少し前にもあった裁判所を名乗る電話の話もした。それは、「ある方からお宅の支払いが滞ってる連絡がありまして・・・」と電話があり、その時は「こちらから折り返して電話するので名前と電話番号を教えてください」と答えるや否や切られてしまったもの。たぶん、今回の犯人と同じ人物であろう。対応してくれた交番のUさんは大変親身に話を聞いてくれ、こちらが考えた対応策にも協力してくれることになった。「それは気分が悪いですよね。 他にこれまで怪しい電話などはありませんでしたか?」思い出せば沢山ある。その一つが3年近く前、「新生ゴールド」と名乗った明らかに詐欺の電話。それ以来、変な葉書も時々届く。「わかりました。 署内の職員全員に周知するようにします。」「交番がうちの近くで良かったです。」「通常はこの番号に電話してくださればいいですけど、急な時は110番してくださいね。 すぐ飛んで行きますから!」ナンバーディスプレイなど電話だけの解決策ではなく、あらゆる対応策を話し合った。「あ、そうそう、良ければ警察の電話をお貸ししましょうか?」「え? そういうこともできるんですか?」「ええ、できますよ。 まあ、最初に「この電話は詐欺防止のためすべて録音します」から始まるので、面倒なところもありますが。」いやあ、どうせ録音するのなら、警察の電話というだけでとても心強いではないか。「ぜひ、お願いします!」詳しい出来事と時間をノートに記録。明日は職場のみんなにもこの話をし、色んな人の対応策案を聞こうと思う。一人で抱え込まない。嫌な思いも心配事も、あとに引き摺るのはやめにしよう。
2015.12.09
本日公開の映画「杉原千畝 スギハラチウネ」を観た。私が彼とその「命のビザ」を知ったのは確か2000年、日本政府によって正式に杉原氏の名誉回復がされた時だった。それ以来、リトアニアをはじめバルト三国を訪れたいという想いを募らせながら、未だ果たせず。世界情勢の先が見えない今、シリアを主とする難民問題も前途多難な今、ある意味この映画はタイムリーだと思う。それまでリトアニア領事代理として、日本政府に背いてビザを発給したことしか知らなかった彼の人生の、当然ながらその前と後があることに気づく機会にもなった。ビザを発給した当時、杉原千畝は40歳。また、第二次世界大戦が描かれるとき、必ず登場するといってもいいシーンが省略されているのを不思議に思いながら観ていたら、逆に彼が救った命によって皮肉にも失われた命もあったことを、直接的な表現を避けてはいたが気付かされた。もちろん、彼の判断は人道的であったと思うし、そこから先の各々の将来は全て人の力ではどうにもならない定めだったのだと私は思う。それはいつの時代にもあったことだし、それが世の常なんだとも思う。杉原氏の人生は壮大過ぎて、どうしても2時間半弱では描ききれない。なので、映画そのものは私的には少し物足りなさを感じたのは否めない。いくら唐沢さんの演技が素晴らしくても、杉原さんのバックグラウンドは半端じゃないし、スケールが違いすぎる。でも、観て良かったと思う映画だった。冒頭の雪に覆われた真っ白な大平原を蒸気機関車が走るシーンが、映画では満州となっているものの一目でポーランドとわかる景色に、それだけでも私にとっては東欧を懐かしむのに十分。最後に、杉原千畝が書いたビザが6000人の命を救ったならば、それを受け入れた杉原氏の友人、ウラジオストク総領事代理の根井三郎も忘れないでおきたい。
2015.12.05
友人の息子のY郎くんが小学4年生の冬休み、私はクロアチアの首都ザグレブの空港から彼宛てにエアメイルを送った。その半年後、今度はスロベニアから葉書を送った。どちらも、私からではなくサンタクロースからとして。10歳近くもなってサンタを信じる彼にサプライズを届けようと、友人と共に計画したことだった。彼はそのエアメイルを大切に大切に、先生にも友達にも自慢をし、彼の机の奥深く宝物箱にしまっておいてくれたようだった。あの時のことは私も時々思い出しては、でも随分と大人に近づいただろうから、さすがにY郎くんももう夢から醒めてるだろうと思っていた。ところが、先ほど友人からラインがきた。「Y郎、まだサンタ信じとるで。」彼は現在、中学2年生。今日、学校でサンタとサンタから貰ったと信じてる葉書の話を友達にして、どうやらからかわれたらしい。辛そうにして帰ってきたんだそうだ。「ごめんね。かえって可哀想なことしたね。 本当の事、言おうか?」「いやいや、夢があってええわ。」「今はみんなの話を仕方なく受け入れたけど、自分だけ信じとるみたいな感じやな。」「下唇かんどったわ。 ふふふ。」と友人。どうやったらこんな素直で夢のある子に育つんだろう。私も今すぐY郎くんを抱きしめたくなった。この先、ちょっと責任重大だが・・・。写真は、彼に送った葉書の写真と同じ、「きよしこの夜礼拝堂」。オーストリアはザルツブルク郊外、オーベルンドルフにある礼拝堂で、有名なキャロル・きよしこの夜は1818年、ここで誕生した。
2015.11.30
「あ!猿!」香川県から徳島県へ抜ける県境の道で、木の上に登っている猿を見つけた。そのまま通り過ぎても良かったけれど、両手で大事そうに柿を持って食べる真っ赤な顔をしたお猿さんがなんとも可愛らしくて、慌てて車を引き返した。スマホを持って、そっと車から降りる。その瞬間、目の前を一匹の猿がシュッと走り去ってしまった。「あ!」せっかくのチャンスを逃してしまったともう一度柿の木を見上げると、まだ一匹いた。その一匹と目が合った。一瞬、固まった彼ではあるが、ハッとした後、一目散に逃げ出した。「あ、待って!」待つはずがない。木から飛び降り、電柱に登る。てっぺんまで登ったら、今度は綱渡りのごとく慌てて電線を伝っていった。2本の電線は、徐々に幅を広げて軒下へと繋がっている。必死で伸ばすも手が届かなくなって焦った彼は、ターザンのごとく屋根の上へと飛び移る。「あーあ。」可愛く柿を食べる姿を写真に撮りたかっただけなのに。来年の干支であるお猿さんの愛くるしい表情を残したかっただけなのに。振り向くと、田んぼの向こうには優に10匹を超える猿軍団がたむろしていた。再び近づきスマホを構える私を見つけ、またもや一目散に散らばる猿たち。そんな私を見た地元の老婦人は、「よっけおるやろ。野菜も引っこ抜かれて困っとるんよ。猿も多いし、ここは猪も出るしねー。」猿に負けじと夢中で追う私は、きっとおばちゃんには町の子に見えたんだろうな。(笑)今日は私の43歳の誕生日でした。惜しくも逃げられちゃいましたが、来年の主役くんに会えるなんて縁起いいでしょ。
2015.11.29
私が高校1年の時であるから、もうかれこれ25年も前になるが、ある日、先生はさらっと太宰治の志賀直哉批判の話をしてから「城の崎にて」の授業に入った。一通り読んだ後、私を指名し感想を聞いた。だが当時、太宰好きだった私は先ほどの先生の話ですっかり志賀直哉を受け入れられなくなっていた。「私、この人の文章、嫌い。」内容は全く頭に入っていなかった。正しくは、「好かん」って答えたと思う。「わし、いらん話をしてしもたみたいやの。」先生はあの時、きっと苦笑いしていた。その後、ずっと志賀直哉を敬遠していた私だったが、何年も前に尾道を訪れたことで「暗夜行路」をきっかけに彼の作品を読むようになった。意外にも読みやすく、情景も自然と浮かんでくる。描写がいい。ただ、それでも「城の崎にて」はあの授業以来手に取っていない。11月下旬にしては暖かかった昨夕の城崎は、浴衣姿でぶらりぶらり歩く観光客で賑わっていた。いい湯だった。封印された「城の崎にて」、もうそろそろ解ける気がする。
2015.11.26
夜もまた、一歩一景の美しさ。特別名勝・栗林公園
2015.11.22
2015.11.21
子供の頃は同じ四国内と言っても遠い遠いところだと思っていた愛媛県の南予地方も、道が良くなった今では気軽に日帰りできるようになった。最も南西部にある宇和島市へは3時間半、芝居小屋の内子座で有名な内子町へは高速に乗れば私の町から2時間で行ける。それでもどこか縁遠くて、南楽園へ花菖蒲を見に行くほかは松山より向こうへ足を延ばすことはなかった。ところが数ヶ月前、「この前ね、テレビで内子の木蝋資料館上芳我邸(かみはがてい)が映ってて、なんかすごくいいところみたいだから、一度連れてってもらいたいわ」と、以前の勤め先の元施設長から電話があった。「か、かみは? そのかみはなんとかって何ですか?」無知な私は、読み名もわからなければ、上芳我邸という漢字なんて想像すら出来ない。「昔、木蝋(もくろう)で財を成した豪商の大きなお屋敷よ。」と言われても、「はあ、木蝋ですか、、、。」といった具合だった。それから数日後、外出先に再び電話があり、「さっき、うちにジパング倶楽部のパンフレットが届いたんだけど、そこに今度は下芳我邸っていうのが載ってるわ。」「はあ、しもはがていですか。」「前に言った上芳我邸と関係があるのかしらね。」「はあ、、、。」こうして、内子といえば内子座しか知らなかった私が内子町へ行くはめとなった。内子町は、明治末期から大正にかけて、木蝋や生糸の生産で栄えた町。とりわけ国内最大規模の製蝋業者であった本芳我家と、その分家であった上芳我家、中芳我家、下芳我家らによって一大繁栄を築いてきた。今でも保存されている昔の町並みには立派な蔵構えがずらりと並ぶ。そして、その有志らの出資によって地元の人々の娯楽の場として建てられた芝居小屋が内子座である。木蝋資料館である上芳我邸も、現在お蕎麦屋さんとして賑わっている下芳我邸も町を代表する名所であるが、内子といえば内子座と頭に刷り込まれている私たちが一番最初に訪れたのは、その内子座だった。なぜか見物客が少ないといわれる木曜日、ぽつりぽつりとお客がいるだけで、思いのほか寛げる。芝居小屋といえばわが香川県には日本最古の金丸座があるのだが、この内子座は金丸座よりこじんまりとしているものの、その佇まいは決して負けてはいない。むしろ、客席と舞台は近く、花道と客席の段差が小さい内子座の方が、きっと贅沢に演者と向き合えるにちがいない。金丸座が故中村勘三郎さんの思い入れが特別強かった芝居小屋であったならば、内子座は人間国宝である坂東玉三郎さんが贔屓にされる芝居小屋。内子座が金丸座に引けを取らないのも納得できる。その場所で、地元の中学生たちにアンケートをお願いされた。「どうして内子に来られたのですか? 内子座の良さはなんですか?」その後も何人もの中学生に同じ質問をされたから、きっと校外学習の一環なのだろう。玉三郎さん好きの上司は毎回丁寧に答えていた。「それに、内子はノーベル賞を受賞された大江健三郎さんの故郷でもあるので、一度来てみたかったんですよ。」たぶん、他にほとんど客のいなかった今日のアンケートは、みんなほぼ同じ答えになるんじゃないか。真剣に答える上司と、少し難しい話になると目が泳ぐ中学生たちを交互に見ながら、そんなことを思って一人可笑しくなっていた。その後は定番のコースを巡った私たちであったが、そう大きくない町でも一日では回り切れない見どころがある。次回、そう遠くない先に訪れるのを楽しみに、そのときも下芳我邸ではお蕎麦を、上芳我邸ではお抹茶と愛媛の伝統和菓子「ゆずっ子」を戴きたいと思っている。
2015.11.19
雨がひとしきり降った朝、紅葉を見に但馬の安国禅寺を訪れた。年々口コミで広まったその紅葉は、多い日には狭い境内に3千人もの人が押し寄せるそうだ。もちろん、お寺の方がうまく誘導してくれるのだが、できればゆっくり穏やかに観賞したい。香川から兵庫県豊岡市にあるお寺までは片道およそ4時間半掛かる。拝観時間は朝の8時から。朝一番ならそう人も多くないだろうと、再び得意の真夜中ドライブを決行することにした。(笑)この安国禅寺は、夢窓疎石の薦めによって足利尊氏が全国各地に国家安泰祈願のため建立した安国寺のひとつ。歴史は古いが、七堂伽藍を有したというその境内は享保2年(1717年)に火災により焼失し、現在建物はそれより北方に移されている。その本堂の裏庭に、樹齢100年を越えたドウダンツツジが広がっている。それが秋になると真っ赤に燃え上がるのだ。その僅か2週間、お寺は一般客にも開放される。安国禅寺に着いたのが7時半。駐車場は私が気づいた範囲で第4駐車場まであり、第3駐車場から入る細道は一般車両はご遠慮願いますとの看板が立っていた。だが、まだ時間が早いのと、母が高齢であったため、寺門を掃除していたご住職の奥様が、お寺のすぐ前に停まらせてくれた。「遠方から来てくださったんですね。」 気さくに声を掛けてくださり、「まだ拝観時間ではないですが、せっかくなのでどうぞ中へお入りください」とまで言ってくださった。恐縮しながら車を降りると、奥様は私の車のナンバーを見ながら、「私も香川の出なんですよ」と話し出した。そこから一気に親しみが沸いたように会話も弾んだ。私は写真を見て知っていたが、全く想像だにしていなかった母はこの瞬間、思わず「うわぁ」と声をあげた。知っていたはずの私も息を呑んだ。「上にあがって、もっと前の方でゆっくりご覧になってください。」私たちは祀ってある達磨大師にお参りもせず、そのドウダンツツジから目が離せなくなった。「昔は一本の株だった木が、子や孫でここまで増えましてね。それにここは雪深いところでして、本来なら上へ上へ伸びる枝が雪の重みでこんな風に横へ広がったんですよ。」「これは雪が造った芸術ですね。」奥様はこまごま用事をされながら、そんな話を聞かせてくれた。「それで、いつからこんなに有名になったんですか?」その時、上述したお寺の縁起を教えてくださり、「20年前、昔のお寺の跡地に千本ものナツツバキの群生が見つかりましてね。たぶん、当時お庭に植わっていた木の種からなんでしょうけど、それが先に話題になったはずなのに、今ではこのドウダンツツジの方が見事だと有名になりまして。」「春には白い可愛い花が一面に咲くんですよ。紅葉の方が見事だから、春は開放していませんけど。」 そう言って、2枚のポストカードをお土産にくださった。「へぇ、夜中に香川から来なさったんですか。 それは遠いところから、、」そう言いながら、お寺のおとこしさんがお盆に急須と茶碗を乗せて現れた。「せっかくやから、ドウダンツツジをバックにこれを真ん中に置いて写真を撮ってあげますよ。」まさかお茶までと一瞬思った私は、「そうお気遣いなさらずに」と喉まで出かかっていた言葉を飲み込んで正解だった。(笑)それは、まさに一幅の絵を見るようだった。奥様から戴いたポストカードは、そうだ、ドウダンツツジが大好きな恩師へのお土産としよう。
2015.11.13
この季節になると訪ねたくなるのが大歩危峡。俳句が趣味であった祖父がその景色を好んで詠んでいたこともあり、母を隣りに乗せて昔話をしながら車を走らせる。今年はそこから少し足を延ばして、祖谷渓を訪れてみることにした。有名な祖谷のかずら橋までは行っても、そこから奥となるとまだ二、三度しか赴いたことがない。明治30年から約20年かけて造られた道路は片側が断崖絶壁、細い急カーブの連続で、隔絶された深山幽谷と形容される秘境を走るのは、いつも億劫だったから。今日も、どこかの家の取り壊しやら道路の維持改修やらで通行制限があったりと、ただでさえ対向車が来れば面倒な道が一段と難度を上げていた。なにも紅葉の時期に行わなくてもと思ってみたが、そうか、雪の季節はもうすぐそこなんだ。そして、祖谷渓といえば小便小僧。かつて地元の子供達や旅人が度胸試しをしたという逸話をもとに作られたそうだ。
2015.11.12
私が大学4年の時、あるボランティア活動で高校1年生の男の子と知り合った。当時、私が可愛がっていた女の子の幼馴染みで、ちょっとやんちゃな部分を持った、友人は多いだろうが、どちらかというと一匹オオカミ風の彼だった。そんな彼と仲良くなった経緯は詳しく覚えていないが、彼の家に遊びに行ったこともあるし、私が大学を卒業して地元に戻る時には送別会に手作りのケーキをご馳走してくれた。彼は小さい頃からお菓子を作るのが好きだった。「売ってるケーキや本の通りに作ったケーキは甘すぎるだろ。だから、甘さ控えめのケーキを自分なりに作ってるんだ。」確か、高校生の彼がそう話していたのを覚えている。それからしばらくして、彼が東京の製菓学校へ入学したことを知る。彼が東京にいる間、たった一度だけ電話で話したことがあるけれど、その後は疎遠になっていた。それでも、東京や神戸で修行を積んだのち、広島でロールケーキの専門店を開いたと風の便りで伝わってきた。Facebookとは、こういう時に役立つものだ。仲間を通じて、彼と10年ぶりに連絡を取るようになった。そして、昨年もちょうどこの時期、私は彼にロールケーキを送ってくれるようお願いした。すでに飲み込みが悪くなっていた父も、彼のロールケーキは美味しく食べられると喜んでいたからだ。あれは、1年前の11月3日。朝、デイサービスへ行く準備をしていた父が転倒し、頭を強く打ってしまった。念のため救急車を呼んだのだが、意識があったために病院から少し後に搬送してほしいとお願いされた。それなら朝食もまだだから何か食べとこう、ということになった。「ロールケーキが食べたい。」いつも食べてるパンでも、ご飯と味噌汁でもなく、彼のロールケーキを食べると言うのだった。そして、それがあっけなく逝ってしまった父のわが家で食べた最後の食事となった。葬儀などの一切が終了し、少し落ち着いた頃、私はそのことを彼に伝えた。正直、最後の食事が彼のケーキということが嬉しくもあった。「最後に食べてもらえるのは、食べ物を作る仕事をしている人間からすると、名誉なことだねぇ。なんだか違う喜びを感じました。子供として立派に責任をはたしたね、picchuやん。」じーんとした。先日もまた、父の想い出の品として一周忌法要のお供えも兼ね、お世話になっている方々への贈り物として取り寄せた。「あんな上品な生地は初めてです!」贈ったものが、そうやって喜んでもらえることは贈り主である私も誇らしい。早速彼に報告。「おおー! ありがとう〜!プレゼントする人と、作ってる人が上品だからかな。(笑)」確かに、上品な生地。素朴で素直な味は、彼そのものがよく表れている。喜ぶ彼にまだ伝えていないことだが、彼のロールケーキは一年前よりも一段と美味しくなったと私は思う。毎年、父を偲びながら彼のロールケーキの進歩を楽しむ秋にしたい。
2015.11.09
11月6日の朝、美しいお花を抱えた男性がわが家の前に立っていた。見事なカサブランカにベージュのガーベラ、薄いピンク色したカーネーション、その優しい花達の向こうにある男性の顔は隠れていた。玄関を開けた母は、「こんなお花頼んでない!」と慌てたらしい。(笑)「今日がちょうど一周忌だと聞きまして。」それは、昨年父の葬儀でお世話になった町内の葬儀屋さんだった。早いもので、父がこの世を去って一年が過ぎた。その間も、折に触れ父を偲んでわが家を訪ねてくれる方々はいた。以前、ブログにも書いたデイサービスの青年もその一人。つい先日、「そろそろ一年になると思って、胸がざわざわしたんです」、とお参りにきてくれたばかりだった。だが、葬儀屋さんが一周忌になぜ?「昨日、お宅の院主さんとお会いしまして。」聞けば、前日にわが家の檀那寺の院主さんが、その葬儀屋さんの会館で一年ぶりにおつとめがあったとのこと。どこか心に残る院主さんだったので声を掛けたというのだった。そこで次の日にわが家で一周忌の法要があることを聞き、沢山のお花を抱えてお参りに来てくれたのだった。「ちょうど院主さんとお会いして、今日が一年のまわりめやぁ言うやないですか。ちょっと変な言い方やけど、こんな偶然があるのかと嬉しくなってな、私も手を合わさせてもらおうと思ったんや。」去年の葬儀の時もそうだった。彼はまだ35歳の若さなのだが、そのくだけた言葉にも心遣いにも優しいぬくもりがある。ミスのないマニュアルに沿った形式だけの段取りとは違う、あったかーい気持ちを故人にも遺族にも与えてくれる。親不孝者の私が父にできた最後で最高のプレゼントが、彼との出会いだったと思っている。正直、お葬式で感動するなんて、それこそ変な表現だが、あの時の感動は今も心に残ったままだ。「Hさんのお葬式は、僕も印象に残ってるから。」私が彼との出会いを父にプレゼントした気になっていたが、一年経った今もこうした人とのつながりをもらっているのは私の方だったのだ。父も母も私も、本当に幸せ者だなと、あったかい気持ちが心の中いっぱいに満ちている。
2015.11.08
阿蘇の壮大な風景は、気持ちが大きくなって好き。大きなカルデラに抱かれて、両手いっぱい広げたくなる。中学生の頃に登った中岳の噴火口は、9月に起きた噴火のせいで近づけず。草千里より先は通行止めだった。それでも、私が望んだ景色で阿蘇山は出迎えてくれた。可愛い米塚もすっかり秋模様。大分と宮崎の県境で見た一面ススキ野原は阿蘇でも見られた。杵島岳だろうか、ベルベットのような裾野はまるで高貴な方のドレスみたいで、嘗ての乙女心をくすぐってくれる。(笑)
2015.11.03
九州の旅はこれで六度目。ちょっと中途半端な数字だけど。(笑)中学時代、修学旅行で訪れたのが初めてのことで、その時は新幹線が博多駅に着いた時、友達と「はじめの第一歩!」なんて言って飛び降りたのを覚えている。当時、国語の教科書に草千里の写真が載っていて、のびのびとした阿蘇の風景に胸膨らませたものだ。実際は阿蘇山の中岳をウォークラリーで登山させられ、ゴールの草千里ではみんな疲れ切った顔で写っている。だが、その阿蘇の雄大な景色は私の大のお気に入りとなった。なぜか三十年近くも経って、母にも見せてあげたいと急に思い立った。それは、十月半ばのこと。愛媛は八幡浜港から大分県臼杵市へと渡った。一日目の行き先は、宮崎県高千穂町。臼杵石仏をするっと観光して、大分県の豊後大野市と高千穂町を結ぶ緒方高千穂線へと入る。これが結構な山道で、くねくねしたカーブがいくつもいくつも続いており、一向に先が開けない。まあ、四国遍路で険しい山道の運転には慣れていたので、あれに比べたらまずまずの道幅だし、勾配も急じゃないので運転そのものは苦ではなかったが、ほとんど対向車の来ない知らない山道が延々と続くと、いくら昼間でも不安になる。それでも、紅葉が始まったばかりの祖母山の頂に癒されつつカーブを縫った。このまま峠を越えると思いきや、いきなり電灯もない真っ暗で不気味なトンネルが待ち構えていた。でこぼこしたトンネルの壁面が意外と怖い。もしも独りぼっちだったら、小心者の私はきっと泣き出していたと思う。いつまでこの道続くんだろ。そんな時、一気に前方が明るくなり、一面見渡す限りのススキ野原が現れた。「うわーーーー!!!」思わず叫んでしまった。私は車を脇に停め、転がるように山の斜面を走って降りた。「後ろに乗ってるクリスもウルスもびっくりしてたよ」、と母。どうやら、愛犬たちもあきれるほどの勢いで、ススキ目指して駆け下りたらしい。棚田に輝く稲穂も美しかった。いい季節に九州へ来た。
2015.11.01
イサムノグチが晩年アトリエを構えていた場所が現在、イサムノグチ庭園美術館として開放されている。香川県は高松市牟礼町。随分と前から行きたいと思っていたが、それは2週間前までに往復ハガキで予約申し込みをしなければならず、面倒くさがりの私には近くて遠い美術館だった。だが先月のこと、岡山に住む親友から誘いがあった。彼女もずっと行きたい思いは強かったのだが、これまでタイミングが合わなかったそうだ。「10月27日、午後1時に予約が取れました。1時間の見学だそうです。お昼を食べてから行きましょう。ランチはpicchuちゃんにお任せするわ。」少しづつ木々も色づき青空が美しい季節、太陽の下で制作し続けた彼の作品を鑑賞するのに最高の機会である。そしてそれは、想像以上に素晴らしいものだった。絶妙な空間。写真では表しきれない大胆な動きと安定感。思わず手を触れたくなるなめらかな質感。石の持つあらゆる表情に驚いた。芸術とは時に挑戦的であるだろうが、彼の作品のもつ美しさは見る人に安心を与えてくれる。美しいって、すごいことだと思った。そして、「彼は相当の女好きだったのが分かるよね。」友人の言葉に思わず笑った私も、かつて石の彫刻にこれほど艶かしさを感じたことはない。(笑)彼の作品には色気があると思う。そういうと、ただ表面的に捉えられては全く意味が異なってしまうが、放つ色気がより人を惹きつけてやまないのだと思った。見学する前に流れていたビデオの中で、日本人とアメリカ人のハーフであった彼はどこにいても異邦人で、根無し草のような孤独を抱えていたというような内容があった。アトリエはイサムノグチも気に入ったこの辺りで産出される世界でも評価の高い庵治石を積んだ円で囲まれ、彼の指示したとおり完、未完に関わらず、そのままの形で保存維持されている。彼が線を引き、その上を囲んだというその円を見たとき、もしかしたら、彼はここに自分の居場所を作りたかったのかな、根を下ろしたかったのかな、と感じた。彼は84歳で亡くなったのだが、84歳の誕生日もこのアトリエで制作していたそうだ。拠点は彼の生まれ故郷のニューヨークであったが、春や秋などの時候のいい頃はここに滞在していたらしい。県内の丸亀市にあった武家屋敷を移築し、そこに居を構えた。1988年11月17日、ここで84歳を迎えた後、もう一つのアトリエがあるイタリアに移った。そこで風邪をこじらせニューヨークに戻ったのだが、そのまま肺炎となり帰らぬ人となってしまった。彼は、春にはまたここで制作を続けるつもりだった。このアトリエはその時のまま、今もイサムノグチとともにある。それは、屋島と庵治石が採石される五剣山に囲まれた自然豊かな場所にある。アトリエを見学後に訪れた屋島から、彼が造った庭園の盛り土とそこに置かれた卵型の石が小さく見えた。
2015.10.27
先週の日曜日、またも母と愛犬2匹を連れて彦根を訪れた。今年の4月に彦根城へ花見に行って以来、威厳ある天守閣にお濠の趣きといい、城下町の雰囲気といい、私も母も彦根をすっかり気に入ってしまったのだった。また、彦根といえば江戸時代、城主の井伊氏は茶の湯にも長けており、なので美味しい菓舗が沢山あるのも嬉しいところ。とりわけ私たちの好みと合ったのが老舗の「いと重」である。その代表銘菓である「埋れ木」は高松三越にも入っているのだが、私が行くときはいつも売り切れで悔しい思いをしていた。今回、その「いと重」での買い物も楽しみの一つにあった。彦根城外濠に面した「たねや」に多くの人が流れる中、少し奥まったところにひっそりとその本店はある。「埋れ木」は一番に頼んだ。「道芝」と「あわの海」はお盆のお供えにと取り寄せし、すでに頂戴していたので別のものをと店内を見回した。目に留まったのは美しい生菓子。銀杏などの秋らしい造形美の生菓子の中で、秋桜のピンク色が可愛いと思った。そして、その愛らしい秋桜を眺めていたら、父が生前よく聞かせてくれた京城(現ソウル市)の想い出が脳裏に浮かんだ。京城生まれで、終戦間近までそこで暮らした父の子供時代、この季節は家の裏の空き地は一面秋桜で埋め尽くされていたそうだ。その美しい情景は侘しさと相俟って、幼かった父の心の奥深くに焼きつけられたのだろう。秋桜を見ると京城を思い出す、毎年秋になるとそう言っていた。この和菓子を父の仏前に供えよう、そう思いついた。「父さん、今年も秋がやって来たよ。」お鈴を2回鳴らし、想像でしかない父の故郷を偲びつつ手を合わせた。
2015.10.09
他人の真似事や流行を追うことが苦手な私でも、大学時代のある親友からは多大な影響を受けてしまう。フィレンツェ駅構内にあるカフェのエスプレッソが美味しいと彼女が言えば、その半年後にはイタリアに立つ私がいるし、 大山崎山荘美術館でやってる山口晃さんの作品展が良かったと聞けば、いそいそと京都へ出かける私がいる。彼女がウィーンの国立歌劇場でオペラ三昧をすれば、私はドレスデンのゼンパーオーバーでのオペラ「リゴレット」のチケットを取った。たぶん、親友である前に私は彼女に憧れているのだろう。歳も星座も血液型も同じで、意地っ張りなところも我が儘なところもそっくりな彼女に、昔は嫉妬ほどではないにしろ、ライバル心に近いものを抱いていたように思う。よくぶつかっていたけれど、お互い30歳を過ぎた頃から少し無駄な角が取れて、自分の中で素直に彼女へのあこがれを認められるようになった。先日、その彼女が最近よく図書館に通ってるんだと話してくれた。行動経済学や行動心理学が面白くて、色んな本を読み漁っているらしい。そして、それらと並行して小説を読むと、また違った視点の面白さがあると言う。彼女の2時間もの熱弁に、又も私は感化されてしまった。私は本は購入派だったけど、図書館で借りる方が自分の興味ない分野も気軽に手に取れて冒険できる。早速、地元の図書館へ行ってみた。すごく久しぶり。古い田舎の図書館だから、新着の棚に6年前の本が並んでいて笑った。一応、行動経済学の本を探したら古そうなのが一冊。これからは隣町の図書館にも通おうかな。図書館に入ると、不思議と学生だった幼い自分を思い出してノスタルジックな気分になるのもいい。そして次回彼女と会った時、今度はどんな刺激を得るのか、今から楽しみにしてる私がいる。
2015.10.07
毎年、お盆の時期になると千葉に住む大学時代の親友から松戸の幸水梨が届く。ジューシーで甘いその梨を食べてしまうと、ああ今年も美味しい梨が終わってしまったなと残念に思う。豊水はちょっぴり酸味が強いし、新高梨は少しかたい。20世紀などの青梨はあまり好きじゃない。シルバーウィークに入る前、私は母と愛犬2匹を連れて、飛騨高山と信州の松本へ行って来た。信州は果物もおいしいだろうから、産直を覗くのも楽しみのひとつ。今の時期ならリンゴだろうか。さすがに松戸の幸水に匹敵するような梨はもうないだろう、そう思っていた。それは松本だったか安曇野だったか、道中偶然立ち寄った産直で信州ブランド梨の南水と出会った。行きつけのスーパーでは主に徳島産の幸水か豊水、鳥取産の20世紀がほとんどで、南水という種類の梨を私はその時初めて知ったのだった。それは、果汁が滴るほどの瑞々しさと上品で糖度の高い甘さを持ち合わせていた。その上、南水は年末くらいまで出回るという。ということは、まだまだこれから美味しい梨が楽しめるというわけだ。それは、ちょっとした感動だった。さすがは信州である。嬉しさを隠しきれず産直内を見回すと、そこにはまさに白雪姫が手にしたような真っ赤で美しいシナノドルチェも並んであった。南水梨はそのたまらない美味しさで、シナノドルチェはその美しさで、今日も旅を終えた私たちを楽しませてくれる。
2015.09.24
日本のお城の濠には泳ぐ鯉が定番!なんだろうけど、本日私は玉藻公園(高松城)へ鯛の餌やりに行って来た。高松城は瀬戸内海に面した全国屈指の海城なので、当然のごとく濠に海水が引き込まれている。ガッチャン!今じゃあまり見かけないようなガチャガチャに100円入れて回すと、その音を覚えているのか、まだ餌を投げる前から無数の真鯛が寄ってくる。なかなか見事な鯛ではないか!どれも美味しそうに大きく成長している。そんな真鯛に混じって、なんとフグの子供もいた。漁師の妻である友人が見つけたので間違いない、、、と思う。(笑)「鯛、釣ってもいいですか?」売ればいい値がつくだろう。ψ(`∇´)ψもちろん釣ってはいけないが、試しに内濠を巡る船頭さんに聞いてみた。「釣れるもんなら釣ってみな!(笑)」どうやら、私に釣られるほど鈍臭い鯛はいないらしい。さて、明治時代に取り壊された天守閣の復元に向けて動き出してる高松城。現存する櫓の、特に月見櫓と艮櫓は装飾にも長けており、何とも言えぬ趣きがある。それは、天守に代わって高松城を象徴する姿である。松平家別荘兼迎賓館であった披雲閣も素晴らしい。だが、地元ということもあって、いや鯛の餌やりに夢中になって(笑)、すっかり写真に撮るのを忘れてしまった。
2015.09.07
夏も終わりに近づいたので、潮風を感じながら2時間ばかりドライブした。どこがいいかなーと思いついた鷲羽山。瀬戸内海を挟んで岡山県は倉敷市児島にある景勝地だ。中腹を瀬戸大橋が貫いており、展望台からは瀬戸内海や瀬戸大橋の全貌がよく見える。たまには、いつもと反対側の瀬戸内の景色も悪くないだろう。瀬戸大橋が開通したのが昭和63年、私が高校一年の春だった。この橋がない頃は、四国は本当に離れ小島だったと思う。それまでに私が四国を出たのは僅か5回。小中学校の修学旅行、そして家族旅行の奈良と神戸、日帰りでの鷲羽山だった。家から汽車で1時間、高松港から今度は船に1時間乗って岡山の宇野港へと渡り、そこから電車に乗り換えて、あの頃は鷲羽山へ行くのでさえ結構大変だったと覚えている。「橋が出来てしまってからじゃ、もう橋のない景色は見られないから。」そう言って、中学時代の先生がまだ橋の架かっていない瀬戸内海の風景を何度も撮りに行っていたことも思い出した。急にこんな昔を思い出したのは、もう一つの夏が終わったからかもしれない。今年の甲子園は珍しく四国勢すべてが初戦敗退となった。私が学生の頃は四国は本当に強かった。四国四県すべてベスト8に残った年もあった。「一度でいいから、ベスト4が全部四国勢ってのを見たいな、」と言ったら、「それじゃあ、あとは甲子園じゃなくて地元でどうぞって言われるよ、」って冗談めいて笑ったのに。思えば、それだけ県代表というよりも四国代表って意識の方が強かったんだろう。地方になるほどその意識はあると思う。だから、昨日の決勝は仙台育英を応援していた。来年こそは、初の優勝旗を東北勢に持って帰ってもらいたい。
2015.08.21
お盆の法要のために、静岡から銘茶を取り寄せてみた。静岡マダム、ヴェルデさんに教えていただいた雅正庵のお茶。お茶処・静岡は煎茶文化なんだそうだ。そこで、院主さんに喜んでもらいたい私は、夏にぴったりの氷水出し緑茶を選んだのだった。説明書きに忠実に、丁寧に丁寧にお茶を淹れた。心を落ち着かせ、心を込めて、丁寧に淹れた。まろやかな口あたりに、深い渋みときりっとした爽やかさ。そしたら院主さん、「このお茶、おいしいなあ、」と読経の途中でお茶を一口ふくんだ時、不意にそう漏らした。その後もお茶の話で会話が湧いた。「わしらは、お茶一杯がすべてなんですわ。」なんとなく、もてなしの心を学んだような、そんな時間をいただいた。
2015.08.13
日曜日、大阪に住む友人がご主人と共に生後7ヶ月の赤ちゃんを連れてやって来た。13年前、オーストラリア旅行で出会った友達だ。ご主人は世界160ヶ国を旅しているツワモノで、国内も都道府県すべて制覇している。その上、乗り鉄。(笑)その彼の希望もあって、香川の私鉄である高松琴平電鉄(通称、ことでん)の琴平線に乗ることとなった。琴平線は、もともと金刀比羅宮参詣のために開業したもので、高松築港駅と琴平を結んでいる。高松築港駅は高松城跡(玉藻公園)のすぐ近くにあり、月見櫓がホームから間近に見える。琴平駅は言うまでもなく金刀比羅宮の最寄りとなる駅で、1865年に建てられた日本一の高灯篭の隣りにある。今回、幼い赤ちゃんが一緒ということもあり、乗った区間は琴電琴平駅から綾川駅までの8駅、僅か20kmほどを往復した。高松より琴平を選んだ理由は、この後琴平からJRで3つめの多度津駅でJR四国のレアな車両を見るためだ。(笑)ことでんには小学生の頃に数回乗ったことがあるだけで、JR沿線に住む私はあまり縁がなく、琴平から乗るのも初めてでちょっとした冒険だった。列車は30分に1本。昔ながらの改札口で切符を渡すと鋏で切ってくれた。今じゃ都会ではICカードなんだろうが、私の町のJRの駅はスタンプを押してくれる。まだまだ時間が止まったままだが、それでも改札鋏はとうの昔に姿を消してしまって、ここ何十年拝んだこともない。だから、この改札鋏が懐かしすぎて、ちょっと興奮してしまった。そこから先はテンションあがりっぱなし。(笑)運転席の写真を撮ってみたり、車内の天井でクルクル回る扇風機にも大はしゃぎしたり。列車についての薀蓄は右耳から左耳へとスルーしたが、こんな近くにこうも面白い乗り物が残っていたのかと嬉しくなった。たぶん線路も昔のままなのだろう。ガタンゴトンと大きな音に合わせて跳ねる身体を、椅子から転げ落ちないよう保つのに必死だった。もともと鉄道好きな私だが、その日自分の隠れた一面を知ったような、僅かながらも鉄道の旅を満喫。また乗ろう、と密かに思っている。
2015.07.31
カリカリカリ。氷を削る音に、ミンミンミンと蝉の声。後ろの方からは、ちょっぴり遠慮気味にボーンボーンと柱時計。カタカタカタ、扇風機が回ってる。昭和だなぁ。昭和、いいな。お店のお姉さんは、どこか黒木華さんに面影が似ていた。
2015.07.31
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