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<Facebookより>今日は昼から旅の中休み。 旅先でまったりするのが好きなのに、これまでよく頑張りましたよ、私。今朝は3時半起き。 懐中電灯を持って、早朝4時からティカル遺跡のサンライズツアーに参加しました。雨が結構降っててね、ポンチョ被って歩きましたよ。ガイドのジェルマルが「いい経験になる!」てしつこく言うものだから、近道だと言われ足元がどんなに悪くても見えなくても、これはいい経験だと自分に言い聞かせ、長ズボンの下から入ってきた虫にどんなに刺されても、こんな経験なかなかできないと自分を慰め、どんなに雨が強まろうが、雨季のジャングルを歩けるとは貴重な経験だと自分を奮い立たせ、登りましたよ、暗闇の中、64mもある4号神殿を。雨ですから、案の定日の出は見れなかったんですけどね、暗い闇と深い霧に包まれたジャングル中をモンキー達の太い鳴き声が轟いて、薄明かるくなってくると鳥たちのお互いを呼び合う声が響き渡るんです。流れ行く霧の合間を別の神殿が浮かんだり沈んだり。 汗ばんだ身体をティカルの風に任せながら、ずっと眺めていました。確かに、どこにもない最高の経験になりました。でも、よく頑張り過ぎてダウン気味。 明日も一日ジャングルですから、今晩はゆっくり休みます。ベリーズ国サンイグナシオ・Marthas guest house にて日本時間 7月7日 13:35
2018.07.06
<Facebookより>やっとWifiが安定する場所に来て、現在の日本のニュースが入るようになり驚いています。 有り難いことに、私方の母や家は大丈夫だと姉と連絡が付きました。皆様のご無事と、これ以上被害が拡がらないことをお祈り申し上げます。私は4時間前にベリーズに入国しました。陸路での国境越えは欧州以外では初めてなので緊張しましたが、なんだろ、グアテマラからベリーズに入った途端、雰囲気というか空気ががらり変わったのを感じます。それまで居た場所がジャングルだったからかもしれませんが、ベリーズはとにかく明るい。中米で唯一英語が公用語ということと、どうやらグアテマラとの仲は宜しくないらしい、くらいしか知らずに来てしまったので、軽くショックを受けました。こんなに変化を楽しめるのなら、このままホンジュラスやエルサルバドルなど中米の国々を巡るのも悪くない、と正直ちらり思いました。が、日本の現実にそんな気持ちを抱いたことを反省しております。どうか早く雨が治まりますように。ベリーズ国サンイグナシオ・Marthas guest house にて日本時間 7月7日 10:30
2018.07.06
<Facebookより>日本が大雨であちこちで被害が出ていると聞きました。 皆さま、大丈夫でしょうか? ご無事をお祈り申し上げます。私はこれからグアテマラの隣国ベリーズへと移動します。グアテマラ国ティカル・Hotel Jaguar Inn Tikal にて日本時間 7月7日 3:07
2018.07.06
<Facebookより>今、スコールです。 といっても優しい雨ですが、身体を休めるいい時間です。今日は一日、マヤ文明のティカル遺跡に居ました。 神殿に登ったら、思わず声を上げてしまう景色がありました。沢山の珍しい野鳥や動物達が出迎えてくれ、ジャングルは生命の源なんだとワクワクでした。 あらゆる生き物の鳴き声が雨の中今も響いてきます。満天の星空も楽しみなのですが、スコールはいつ終わるのかしら。あと2時間半したら、明日の朝まで電気の供給はないんですって。 ホテルのレセプション脇のパソコンは、降雨のためネットに接続できないのですって。 面白いよね。笑せめてお湯が水になる前にシャワーを浴びたいと思います。グアテマラ国ティカル・Hotel Jaguar Inn Tikal にて日本時間 7月6日 9:30
2018.07.05
<Facebookより>成田のホテルを出てから、やっと身体を横にすることができます。 今、グアテマラは4日の23時45分、日本は5日の15時前ですよね。 長い長〜い今日でした。 なのに、明日は早朝6時半の飛行機に乗るので4時45分にピックアップ★こんなハードな旅、そろそろ限界かな。笑先月3日に大噴火したフエゴ山は現在落ち着いているそうです。 もちろん避難民の方は大勢いらっしゃるようですが、シティは普通の生活が続いています。フエゴ山は小規模でもよく噴火をするので、日本のJICAなども参加して避難訓練もしていたようです。 ただ、村のリーダーの判断で生死が分かれたのだそう。 家や財産を守ろうした人は命を失い、物欲を捨てた人は助かったんだとか。日本でも本日5日の読売新聞朝刊に、フエゴ山噴火一ヶ月後の記事が載っているそうですので、読売をお取りの方は読んでみてください。今晩滞在のホテルは空港から近く、なかなか清潔です。あ、グアテマラの通貨の単位をご存知? ケツァールといって、色鮮やかで綺麗なグアテマラの国鳥の名と同じです。グアテマラシティ・Hotel Las Americasにて日本時間 7月5日 14:45
2018.07.04
<Facebookより>ダラスでの乗り継ぎに8時間もあることに気付いたのが3日前。苦笑 仕方なく市内に出ることにした。ダラスといえば、J.F.ケネディが暗殺された街としか知らない私。 時差ボケで朦朧としながらケネディ大統領が撃たれた場所(バツ印)に立ってみたが、私は眠さと暑さで倒れそう。苦笑ちなみに、この煉瓦のビル6階から銃弾は放たれた。アメリカ合衆国・ダラスにて日本時間 7月5日 0:47
2018.07.04
6年前の旧ユーゴスラビアとドナウの旅からの帰国の時、私は日本という国にどれほど守られてきたのかを、痛いほど感じていた。かつて日本を出たいと強く思った私が、ザルツブルクからミュンヘンへ向かう列車の中で、「ああ、日本人で本当に良かった」と心の中でむせび泣いた。そして5年前、アウシュビッツを訪ねたことを最後に憑き物が落ちたように外国への関心がなくなった。もう私は海外を旅することはないだろう、そう思っていた。それが、これから目の前にある飛行機に乗ったなら、次に降り立つのは海外だ。アメリカン航空176便。アメリカはダラスを経由し、現地時間で本日中にグアテマラシティに到着予定。(グアテマラとの時差は15時間。日本時間 5日 9:50着)
2018.07.04
浅間(せんげん)と名の付く神社がいくつもあることを知ったのは、先月末、「さあ、明日が富士山への出発だ」という夜だった。元来私はどこへ行くにも下調べをしない。行き当たりばったりでこれまでも旅を続けてきたものだから、それが海外ではなく国内でも、一人ではなく母を連れていても変わらない。ただ今回は、富士山がご神体であり、御祭神がコノハナサクヤヒメ命である浅間神社をお参りしようと何故か心に強く思った。当初、静岡県富士宮市にある富士山本宮浅間大社参拝を決めていた。本宮とあるのだから容易に気付いても良さそうだが、全国に浅間神社は1300もあるようだ。それらは主に関東甲信、東海地方に祀られており、四国に住む私にとって聞きなれていなかっだけだ。しかし、行く直前に行先が変わるのも私のクセ。偶然、富士山の北口にあたる山梨県富士吉田市にも1900年の歴史をもつ神社があることを目にする。参道には古木が繁り、高さ18mの日本最大木造鳥居が聳えるという。人の多い場所を好まない私は、そのひっそりとした独特な雰囲気に気持ちが固まった。実際に訪れてみると、空気が冷たく澄んだ深い木々の向こうに、厳かで霊験あらたかな古社が控えていた。ここも世界文化遺産「富士山」構成資産として登録されている。そして、富士吉田口登山道の起点でもある。北口本宮冨士浅間神社ー御祭神ー 木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト) 天孫彦火瓊々杵尊尊(テンソンヒコホノニニギノミコト・木花開耶姫の夫) 大山祇神(オオヤマヅミノカミ・木花開耶姫の父)ー由緒ー人皇12代景行天皇40年(110年)日本武尊(ヤマトタケルノミコト)御東征の砌、箱根足柄より甲斐國酒折宮に向かう途次、当地御通過、大塚丘にお立ちになられ、親しく富士山の神霊を御遥拝され、大鳥居を建てしめ、「富士の神山は北方より登拝せよと」勅され、祠を建てて祀ったのが始まりとされている。
2018.04.14
「でね、一度住職さんに釈迦如来さまと薬師如来さま、阿弥陀如来さまのどれが一番偉いのですか?と尋ねてみたことがあるんです。さて、どれが一番偉いと思う?」私はなんとなくピンときて、「お姿を変えてるだけで、どれも同じ」と答えてみた。「お、正解!」はじめは時間を気にしていた私も、西明寺の従業員であるというおじさんの話に段々のめり込んできて、時を忘れ聞き入っていた。ペンライトを再び秘仏である薬師如来像が入っている箱に戻す。そこには4つの紋が描かれていた。「左端は徳川の葵の紋、右端もご存知、菊のご紋。」「左から二番目は、江戸時代にこの寺を復興させた望月家の紋でして、望月家といえば甲賀忍者、、、」「え?忍者?」こんなところで忍者の話が出ようとは、恥ずかしながら忍者といえばハットリくんしか知らない私はびっくりしてしまった。いや、ここは近江の国なのだから忍者が出ても不思議じゃないかもしれないが、心構えができていなかった。「あの松尾芭蕉が伊賀の忍者だったのも有名な話だよね。」「へ?松尾芭蕉が忍者???」頭の中、どんぐり眼(まなこ)にへの字口の松尾芭蕉が回っている。「そうだよ、松尾芭蕉は幕府のお庭番で、当時貧しくてお米もあまりとれなかった東北の人々が年貢を誤魔化していないか調べるために、表向きは俳人として奥州と北陸を巡った記録が「おくのほそ道」なんだよ。」頭の中、くるくるほっぺにふくめん姿の松尾芭蕉がスパイをしながら歌を詠んでいる。「え?これ有名な話だよ。」驚く私におじさんは続ける。「で、甲賀の望月家もそう。幕府より指示を受け、島原の乱で知られる隠れキリシタンを見つける諜報活動をしてたわけだ。」「任務は果たせたけれど、それによって多くの百姓たちが命を落とした。その罪滅ぼしもあってこの寺に入り復興させたといわけ。」「なので、ここに望月の紋がある。」「もうひとつはさっきお話ししたように、生まれる前と現世、そして死後の世界がくるくる回るのを表現したもの。」「色んなお話を伺いましたけど、私的には松尾芭蕉が忍者っていうのがすごく面白かったです。」頭の中、まだ黒装束で手裏剣を持った松尾芭蕉が古池の前で腰かけている。「芭蕉もいいけど、自分の干支の十二神将像にお願いするのを忘れずにね。いい、干支を間違えたら聞いてもらえないからね。」それにしても、さすがは近江の国。花見に彦根を訪れて、まさか忍者にまで話が及ぶとは、まして隠れキリシタンまで登場するとは思いもしなかっただけに非常に興味深かった。国宝の古い建物ばかりじゃない歴史を感じながら、帰路車を走らせる。
2018.04.11
「まあ、ここに座りなさい。」国宝の本堂の中に足を踏み入れた私に、お寺の男性が声を掛けてくださった。「どちらから見えられたのですか?」「四国の香川です。」「じゃあ、ライバルというわけだ。」???「ここはね、天台宗のお寺なんですよ。」「ああ、お大師さま、、、」彦根城の帰り、いたるところにある桜並木に目を奪われながら、湖東三山のひとつ、西明寺を訪ねた。一番美しいのは紅葉の季節らしいが、8年ほど前、同じく湖東三山の百済寺(ひゃくさいじ)を訪れた際、京都とはまた違う趣きの深さに感動し、他の二つの寺院もお参りしたいと思っていた。湖東三山とは、琵琶湖の東側にある三つの天台宗寺院をまとめてそう呼ぶ。「ここの本尊の薬師如来さまは秘仏でね、実は私も見たことがない。」この後、40分ほど説明が続くことになろうとは知らない私は、「へえ」と本堂中央に座した。写真の薬師如来像は左手に薬壺を持ち、右手の薬指は少し前に曲げられていた。薄暗くてよく見えなかったが、薬壺を持つ左手も僅かに薬指のみ曲げられているようだった。「薬指は薬師如来さまからいただいた指でしてね、薬などはこの指で塗ると治りが早いですよ。」「生きている間は誰しも病気をしますから薬師如来さま、生まれる前は釈迦如来さま、亡くなった後は阿弥陀如来さまが守ってくださります。釈迦如来さまは手のひらを見せる形、薬師如来さまは先ほども言ったように薬指を曲げてらっしゃる。そして、指で輪を作ってらっしゃるのが阿弥陀如来様。」こういう話をじっくり聞く機会がなかった私は、少し前のめりになって真剣に頷いていた。秘仏の薬師如来像を祀った箱の両側に並ぶ十二の像にライトを移して説明を続ける。「あんたの干支はなにかな?」「ネズミです。」「じゃあ、子年の像を拝むんだよ。それ以外に拝んでも聞いてもらえないから。」薬師如来を守護する十二神将は、生まれ年の干支の守り本尊とされている。「ここの十二神将立像は、文字の読めない人にもわかるように頭上に干支を乗せてるのでよく見てごらん。」「この像が造られた当時、日本にはトラと羊が入ってきていなかったから、この二つは本物と全然似てないのが面白いだろ。」西明寺の十二神将像は、運慶の弟子の作と伝わっている。「ここはね、宝くじとギャンブル以外はなんでも言うことを聞いてくださるからね。それも一つだけじゃない、いくつお願いしても聞いて下さる。」別に頼み事をしようと思ってお参りにきたわけじゃない私は、何をお願いすればよいか思いつかずきょとんとした。「もしも他の方のお願いを代わりにする場合は、その人の干支に向かってするように。」「実は、私も息子もここでお願いして癌が治ってね。・・・・・・・・・・・」おじさんは非常に話が好きらしい。住職さんではないとのことだった。「あ、国宝なのはこの建物の本堂と三重塔。どちらも鎌倉時代の作で、まず本堂が滋賀県第一号の国宝に指定されて、その数年後に三重塔。二天門は室町時代作で重要文化財。」「実はこのお寺も戦国時代に織田信長に焼き打ちされたんだけど、本堂と三重塔、そして二天門のみ焼かれずに済みましてねえ。」昔習った教科書では、信長といえば延暦寺の焼き打ちとしかなかっただけに驚いた。話は延々とその後も続いた。外は青空が広がり、さきほど歩いた庭園では陽の光が眩しく踊っているに違いない。この寺のお庭は蓬莱庭と呼ばれ、薬師如来や十二神将などをあらわした石組と鶴亀の形をした島が浮かぶ池が美しい。苔の緑に心鎮まる。ー 龍應山西明寺略縁起 ー西明寺は平安時代の承和元年(834)に三修上人が、仁明天皇の勅願により開創された寺院である。平安、鎌倉、室町の各時代を通じては祈願道場、修行道場として栄えていて山内には十七の諸堂、三百の僧房があったといわれている。源頼朝が来寺して戦勝祈願されたと伝えられている。戦国時代に織田信長は比叡山を焼き打ちしてその直後に当寺も焼き打ちをしたが、幸いに国宝第一号指定の本堂、三重塔、二天門が火難を免れ現存しているのである。江戸時代天海大僧正、公海大僧正の尽力により、望月越中守友閑が復興され現在に至っている。
2018.04.08
犬を連れて遠出をすると、色々な方によく声を掛けていただける。彦根城では、お隣の岐阜県より来られた女性に話しかけられた。ご主人が写真を撮るのが好きで、桜の時期はよく彦根を訪れるらしい。「うちも犬を飼ってたんだけどねえ、孫のアレルギーのせいで犬を飼えなくなって淋しくて。息子は私の実家のある富士宮市にいるんですけどね、ほら、帰ってくるときはいつも孫を連れてくるから。」一面、溢れんばかりに咲き誇る桜の木の下でしばらく会話を続けた。聞けば、静岡の息子さんから「今日の富士山」の写真が毎日送られてくるという。「あ、私たちも富士山へ行ったばかりです。」と、今度はうちの母。「え?どうやって?」「犬がいるものですから、娘が車を運転して。」「え?一人で富士山まで運転ですか?」はい、ここでもちゃんと驚いてもらえた。笑実は先月下旬、私たちは再び富士山を目指していた。とはいっても、これで四度目となる富士山行きは、山梨にある馴染みのペンションを基点として伊豆と鎌倉へ足を延ばすためだ。伊豆は両親の新婚旅行の地であり、鎌倉も母にとって父と旅した想い出の場所。時間が足りなく駆け足の旅となったが、その間もずっと富士山はわれわれを見守っていてくれた。11月下旬と比べると、春霞のせいか少し淡く優しい富士山ではあったが、山梨側からは一度も雲に隠れることはなかった。富士山という共通の話題に話が弾む。「そうそう、息子が教えてくれたんですけどね、富士山の写真を東から西に向けて飾っておくと災難から守ってくれるんですって。」「へ~、富士山が」 母は熱心に聞いていた。私はというと、じゃあ災難は東から来るのか?と心の中でツッコミながらも桜を写真に収めることに懸命だった。しかし、何事も素直さが大切。数ある富士山の写真のどれを引き延ばして飾ろうか。ただ今、検討中である。2018-03-28 9:22精進湖(山梨県富士河口湖町)
2018.04.07
4月3日、ちょうど満開を迎えた桜を観に彦根を訪ねた。彦根へは、どんなに車を飛ばしてもわが家から5時間は優に掛かる。だが、彦根城の桜が一番好きだと母は言う。濠を囲む咲き誇った無数の桜の競演もさることながら、一本一本の枝ぶりも花弁のまとまりも別格の美しさだと私も思う。彦根行きを決めたのは、先月末のことだった。その日の朝、行きつけの喫茶店で古い雑誌を開いた私は、こんな記事を偶然目にした。「城にはなぜ桜が咲くのか」その中で、日本城郭史学会代表(当時)の西ケ谷恭弘さんはこう語っていた。(以下、抜粋)日本の城址を訪ねると、近くに靖国神社が建てられていることが多い。明治4年の廃藩置県により、日本のほとんどの城郭は破却され、その跡地の広々とした城址は、招魂社や学校、軍用地などに利用される。招魂社は東京では靖国神社、地方では護国神社と呼ばれ、戦死者の霊を祀る社であり、その霊を慰めるため桜が植えられたのがそもそものきっかけである。明治政府は桜が一斉に散るさまを「潔し」とし、武士道精神に関連付けて桜の植栽を進めた。護国神社の桜は、やがて城址も埋め尽くしてゆく。折しも明治34年、土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲の「荒城の月」が発表され、城と桜の結ぶつきを強めた。城と桜は、明治維新以降に結びついたもの。戦国から江戸期まで、何の関係もなかったと、西ケ谷さんは言っている。本来、城に植えられた木は松だった。松並木は防風林となり、夜警の松明や柵を作る用材にも使え、樹皮の下の白く柔らかい部分は水でふやかせば救荒食にもなる。また、松脂は油や止血剤にもなり、松茸も採れる。松山城や高松城など、名前に松を冠する城が多いのはその名残である。読みながら、そうだったのかと納得した。以前も彦根で花見をした際、昭和9年に桜を植えるまで彦根城に桜は殆どなかったと耳にしていた。また、彦根城前には滋賀懸護国神社が鎮座している。私が20代半ば頃、職場のデイサービスで「同期の桜」を泣きながら歌っていた明治生まれのおじいさんの顔も思い出された。今では桜のない城など想像すらできないが、名城には桜が本当によく似合う。そう改めて感じた花見となった。
2018.04.06
てっきり私は、裁判員裁判時に評議を行ったような小部屋で、裁判官、検察官、弁護士に裁判員経験者の代表者が顔を合わせ、ざっくばらんに意見交換をするのだと思っていた。だから、裁判終了後のアンケートでも、自宅に郵送されてきた意見交換会開催の案内にも気軽に参加希望の意を表した。先日、その意見交換会が高松地方裁判所において行われた。私も選ばれた経験者のひとり。裁判中は3名の裁判官としか直接話す機会がなかったから、今回は検察官や弁護士らも同席ということに多少の興味を持って高松まで足を運んだ。何より、馴染みの裁判官との再会が楽しみだった。ところが、会場に案内されてびっくり。通されたのは、結構広い会議室だった。確かに裁判員経験者8名と裁判官、検察官、弁護士がそれぞれ一名出席しての座談会形式には違いないが、向かい側には各報道関係者、その他の検察官や裁判官等、20名以上の関係者が傍聴席に座っている。中央には高松地方裁判所所長と進行役の裁判官。一気に緊張が高まる。実際の裁判でさえ平常心で臨めた私だが、この日心臓のドキドキがとまらなかった。自分が参加した裁判は一例にしかすぎず、それぞれ異なった事例があることはよくわかっているつもりだった。しかし、この意見交換において改めて痛感したことがそれだった。私が経験した起訴内容は強盗致傷。裁判当時を思い出す。私が臨んだ裁判では被告は有罪を認めており、争点となるのはそれが計画的か偶発的かということだった。被害者を殴った棒をめぐって議論が繰り返された。初日に被害者による答弁が行われた際は私の気持ちも被害者側に大きく動いた。また、裁判が進むにつれ曖昧な返答を繰り返す被告に対しても、それを弁護する国選弁護人に対しても不信感が募り、被告に向ける自分の眼が日増しに厳しくなるのを感じた。だが、実際に刑を決める段階になると、若い被告の将来について考えざるを得なかった。たぶん、いっときの出来心からの犯行に違いなかった。被害者の受けた心の傷の深さまでは計り知れないが、被害者が負った外的な傷は比較的浅く、盗まれた金品の額もそう大きいものではなかった。しかし、犯した罪は罪。罪を償うことは被告の将来においても非常に大切なことだと思った。* * *今回の意見交換会の中で、ある経験者がこんなことを言った。「被告が語った中で、自分の将来についての言葉がありました。私はそれがとてもショックでした。」私以外7名の経験者が、殺人か殺人未遂という重大な事件を受け持っていた。殺した側、人の命も未来も奪った人間が自分の将来を思う。別の経験者はこう言った。「(殺された)被害者の父親の意見陳述を聞きながら涙が止まらなかった。自分も娘がおり、どうしても感情移入をしてしまい家に帰ってからも泣きました。50何年生きてきて、これほど辛い時間はなかったです。」私は周りの人たちと自分の意見との温度差を感じた。裁判員裁判で受けた心理的苦痛も、殺人事件に携わった彼らと私とでは比較にならないほど違っていた。私は裁判後、周りの人に裁判員に選ばれたならぜひ参加すべきと伝えてきたが、果たしてどうなのだろうか。色んな思いが頭の中を駆け巡った。だが、やはり裁判員裁判を経験したことは自分の人生上貴重な経験になったと思うし、裁判で終わらず、今回のような意見交換の場に選ばれたことを有難く感じた。日々、新聞をあらゆる事件が賑わす。文字としてそれらを見るのと、実際に被告や被害者、その家族と向き合うと、その重さは全くもって違ってくる。感情的にもなるし、感情移入した状態で判決に関わるのはどうかと疑問に思うこともある。けれど、裁判に参加する機会を与えられるということは、やはり意味あるものだろう。意見交換会での私の意見が今後の裁判員制度の運用に役立つとは思えないが、自分の中で見直すいい時間になったと思っている。
2018.03.20
日ごと天気が移り変わる春、休みと好天が重なった今月2日に弾丸観梅ツアーを敢行した。思い付きは前夜だったが、そうと決まれば早起きなんかは苦でもない。早朝5時に家を出て、龍野西SAで厚切りトーストに姫路アーモンドバターのモーニングを堪能、10時過ぎ大阪城公園に辿り着く。予定では9時半には到着するはずだったが、田舎では縁のない駐車場事情と融通のきかない道路事情に戸惑ってしまった。大阪城公園の梅林が素晴らしいことは以前母から教わっていた。20年以上前になるが、大阪城を訪れた際に天守閣から見下ろした先に広がる梅林に驚いたという。いつになく寒さ厳しい冬が長引き、梅の開花が大幅に遅れた今年、まだ満足に梅を見ていないことから大阪行きを決めた。雪に縁のない生活で車は夏タイヤのまま、近場でウロウロするしかなかった鬱憤をここで晴らそうとも思ったわけだ。急な遠出に少し面倒くさがっていた母も、大阪城と聞いて腰を上げた。結果、大満足の一日だった。天下の名城は梅の花もよく映える。屋台のたこ焼き屋のお兄さん曰く、「今年は寒かったからやっと咲き出したところ。2~3日前から多くの人が集まるようになってきたよ。」一気に暖かくなったからか、咲きはじめにしては開いた花が多かったように思う。小梅が愛らしい。公園内では梅に囲まれ囲碁を打つおじいさんやお弁当を広げる人々、中国や韓国はもちろん、フィンランドやフランスなどの外国人観光客とも大勢すれ違った。みんな自国の言葉で話しかけてくるので、何処から来たのかよくわかる。それはもちろん、私にではなく私が連れている愛犬たちに。犬を連れて入場できることも嬉しかった。20年前と比べると人出が多く、人混みになれていない私たちには大変だったが、母は父との思い出の場所を懐かしむことができたようだ。それならばと、父を追憶する旅を母にプレゼントしようと今あらためて計画中である。
2018.03.06
七十二候では「東風解凍(はるかぜこおりをとく)」の今日、皮肉にもこの冬初めての氷柱を見た。立春を迎えた4日の朝、香川でもあちこちから降雪のニュースが届く。とりわけ金毘羅さんのある琴平町では5cmほど雪が積もったようで、そこから来る職場の同僚は一人山奥から出てきたような車を走らせていた。しかし、海沿いのわが町は一時期吹雪いた程度で終わってしまった。今冬、雪に苦しめられている方々には大変申し訳ないが、私だって白く染まった景色が見たいと本日、明るい陽射しで溶けてしまわないうちに雪景色を見に出掛けることにした。この氷柱はその出先で見つけたもの。行先は琴平町を経由し、菅原道真が4年ほど滞在したことのある綾川町。そこには讃岐では最も有名な滝宮天満宮がある。また、内陸になるため香川の中では常に気温が低い場所でもある。昨年も観梅の為、1月と2月に訪れていた。確か去年、大宰府より株分けされた飛梅は、1月20日頃にはかなりの花を開かせていた。雪の中に咲く白梅はなんと絵になるものかと、頭の中に思い描きつつ車を走らせる。途中、車窓に広がる白い田んぼに胸弾ませながら、琴平を過ぎて東へと折れる。そこから走ること15分ほど、悲しいかな段々と雪は減り、天満宮では道路脇でさえ雪はなくなってしまった。ああ、残念。だが、それは梅に雪だけではなかった。やはり寒さ厳しい今年、梅の開花も大幅に遅れてしまっているらしい。境内に150本ある梅の木は、どれも蕾のまま立春を迎えていた。東風吹かば 匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな東風はまだか。梅の花はまだか。せめて2年続けてのお詣りなら、少しは賢くならぬものか。
2018.02.05
早春賦にあるように、この立春には再び寒波到来ということで、まさに「春は名のみ」と暖かさはしばらくお預けになりそうだ。しかしニュースの騒ぎ用に比べると、瀬戸内沿岸のわが町は今のところ「言うほど寒くない」。しばらく発熱に悩まされた私だが、今朝は早くから拭き掃除をした。久々に気分よく迎えた朝、本当は四国霊場第七十五番、弘法大師生誕の地である善通寺をお詣りしたいと思っていた。ふと昨日のデイサービスでの朝の会話を思い出す。「みなさん、地元の美味しいものってなんですか?」 相談員がご利用者さん全員にそう尋ねる場面があった。「熊岡のカタパン!」ご利用者さんだったか職員だったかはっきり覚えていないのだが、誰かが「あれは名物やなあ」とつぶやいた。その「熊岡のカタパン」とは、広大な善通寺さんの東院伽藍と西の誕生院を繋ぐ参道と垂直に交わる細道を折れるとすぐにある菓子店のこと。お遍路さんもよく見かける。そして大正時代の建物は、旧金毘羅街道だった当時の面影を今も残している。その姿は、素朴なカタパンの味そのままである。小麦粉と砂糖を練り上げて焼いた「カタパン」は、口に入れると生姜の味がする。堅いのでなかなか噛むことはできないが、口に含んでいる時間も楽しませてくれる。それは明治29年の創業時、兵隊さんの軍事食糧として考案されたものらしい。善通寺市には陸軍第十一師団があった。ああ、善通寺さんをお詣りするなら「熊岡のカタパン」にも立ち寄ろう。母にそう伝えると、「父さんが調停委員をしてた時、善通寺の簡易裁判所に行ったついでによく買ってきてくれてたわなあ」と言う。なんでも父さんとの思い出に繋がるのかと、思わず微苦笑した。昔はガリガリ噛んでいた母だったが、「一番堅い石パンは遠慮するわ」とずらり並ぶ陳列ケースを前に弱気を見せる。確かにテレビでも「日本一堅いカタパン」と紹介されたくらいだから、八十を過ぎた母に無理強いはすまい。しかし、やはり私は石パンに挑戦せねばなるまい。もちろん初めて食べるわけではないのだが、あまりにも久しぶりということもあり、石のごとく堅い石パンが懐かしくなった。「石パンを100g、小丸パンは10枚、、、」昔から使い続けているその古びた陳列ケースを眺めながら、「あそこのえびせんも美味しいよなあ。添加物が入ってないけん、子供が小さいうちから食べさせられてええわ」と言っていた昨日の相談員を思い出した。「あ、あとえびせんも。」メインが「熊岡のカタパン」になってしまったので、善通寺さんへのお詣りはまた今度。久々に石パンを口の中に放り込み、歯が折れないように柔らかくなるまで舐めてから噛んでみた。砂糖の甘さと生姜の味が口いっぱいに広がる。それでも「熊岡のカタパン」、やっぱり堅い。明後日が立春ということで、本格的に平成三十年がスタートする。小さな小さな目標として、毎日15分、大嫌いな漢字と、これまた大大大っ嫌いな英単語を勉強することに決めた。まずは乏しい語彙力を増やしたい。
2018.02.02
大寒のこの時期、人がまばらなこの場所をゆるり歩くのが好きだ。今年は例年に比べても寒さ厳しく、ニュースから流れる遠方の大雪に震えている。こちらは有難くも雪はなく、他県ほど冷えこみもキツくはないが、それでもひときわ寒さが応える。その中にあって、ほんの少し寒さの緩んだ昨日の午後、私は一人栗林公園を訪れた。梅もちらほら咲き始めている。これほどまでに冷たいと、春はまだまだ遠いところに感じてしまうが、膨らんだ蕾は私たちより一足早く春の気配に気づいているのかもしれない。ぴんと張り詰めた空気の中で見る松の緑は、年が明けてひと月足らず、すでに弛んできた私の心を正してくれるかのよう。心が浄化される気がする。2時間ばかりのんびりと身を置いた。そして、冷えた体は讃岐のあん餅雑煮で温めよう。といいつつ、昨日は先にお腹の中を温め済。おかげで寒さを感じることなく一歩一景を楽しめた。讃岐のあん餅雑煮。それは、出雲地方の小豆雑煮と京都の白味噌雑煮が一緒になったような実に不思議な存在である。出雲地方から伝わった小豆の食文化は、餅の餡として変化し、汁は京文化が伝わり白味噌仕立てになった。味噌汁の中に餡餅が入っていると考えると、それだけで違和感を覚える人もいるだろうが、白味噌との相性は思いのほかよい。白味噌といっても京都の西京味噌のように甘くはなく、どちらかといえば辛め。餅をかじって中から餡が出てきて、それが煮干しの旨味がでた出汁と渾然一体となる。これが、なんとも旨いのだ。古い雑誌にはそんな風に紹介されていた。
2018.01.24
どちらかというと、私はずっとそれを母の好みだと思っていた。母方の祖父は生前、俳句に書に絵画にと多趣味な人で、俳句などは自身が会員の俳句雑誌「ホトトギス」でよく賞をもらうほどだった。座敷には、祖父の一句と石ころを磨いて拵えた蛙の置き物が飾ってある。また、酒好きだったという祖父のお気に入りは、七福神が描かれた九谷焼のぐい吞みだったと母から聞いていた。そんな祖父の血を受け継いだ母は、高校卒業後に芦屋の知人宅に下宿をし、なんばにある高島屋でバイトをしながら田中千代服飾学園で洋裁とデザインを学んだ。娘である私から見ても人とは違う独特の個性とセンスに、子供の頃より母には敵わないと思ってきた。ただ、私の中では母のイメージと砥部焼はどこか結びつかず不思議にも思っていた。(砥部焼伝統産業会館)「家にある砥部焼は、全部父さんが買ってきたのよ。」父が亡くなって3年、時折母が語る父は私の知る父とは異なっていた。仕事一筋の父だったが、やきものが好きで単身赴任先の松山から車ですぐの場所にある砥部焼の窯元をよく訪ねていたという。高知に居た時は、大きな皿鉢料理の器を何枚も買って母を呆れさせたそうだ。それは、器など全く興味がない父だと思っていただけに意外だった。いや、思い込んでいただけなのかもしれない。床の間の真ん中にでんと置かれた大きな壺も、父が窯元で選んだ砥部焼だった。(同会館)「今の天皇陛下が皇太子時代に来られた梅山窯を、知り合いの調停委員さんに紹介してもらったそうよ。」(同会館)砥部焼伝統産業会館で地図をもらい、梅山窯を訪ねてみる。売店に所狭しと積み上げられた器はどれもこれも見慣れたものばかり。(同会館)帰宅して、家にある砥部焼の皿を裏返すと全てにある「梅」の文字。知らぬ間に梅山窯の砥部焼に囲まれて育っていたことを、本日窯元で知る。
2018.01.16
この美味しさは、もう罪だと思う。しまなみ海道への道中、石鎚山SAで買った愛媛ブランド『紅(べに)まどんな』。このSAのマルシェでは、季節ごとのみかん生しぼりジュースを楽しめるので、よく立ち寄る。そして少し割高にはなるだろうが、ここで買うみかんはいつも満足できる美味しさでおススメだ。この時期、近ごろは当然のこと紅まどんながずらりと並ぶ。「樹になるゼリー」と評される紅まどんなはオレンジ色の見た目も美しい。マルシェを一巡しながらも目は紅を追う私に気づいたのか、店員さんが声を掛けて来る。「私も柑橘類で一番紅まどんなが好きです。」「贈答用なら紅まどんながよろしいかと思いますが、ご自宅用でしたら媛まどんなで十分ですよ。」「でも、媛は外れもあるんですよね。」『紅まどんな』には同品種に『媛まどんな』がある。以前私はこの店で、紅はJA全農えひめが扱っている商品で 一定の品質基準をクリアした外れのないもの、媛の方は当たり外れがたまにあると教わっていた。「確かに、紅まどんなは厳しいチェックに合格したものばかりなので間違いはないですが、媛の方も美味しいのを見分けるコツがあるんですよ。」「触ってみて、なるべく柔らかいのを選んでください。」お店の方が持ってきてくれた、少しぷよぷよ感のある媛まどんなを手に取った。「これは熟して柔らかいわけではないんです。」「この媛は決して紅に負けない味だと思います。」一個1000円近くはする紅まどんなと比べると低価格で迷いなく手を出しやすい。私は手にその感触を覚えようとした。「じゃあ、媛まどんなを・・・」と私がレジに向かおうとしたとき、「どちらもください」と背後に母。「そんなにいっぱい買ってどうするの?」「美味しいんだから、両方買ったらいいじゃない。」「この時期なら、常温で2週間くらいはもちますから」と、店員さんも母を後押し。しかし、美味しい。ほんと、この美味しさは、もう罪じゃないかと思ってしまう。好き好きだろうが、私は『まどんな』を食べてしまうと、昔大好きだった『せとか』をはじめ、どのみかんも残念に感じてしまう。そして、愛媛県人のみかんに対するプライドに、毎度感服する瞬間。
2018.01.11
三年連続、古代より日本総鎮守と尊称される大山祇神社を参詣。御祭神は大山積大神。風光明媚なしまなみ海道の真ん中、ここ愛媛県は大三島に鎮座したのは推古天皇二年、594年と伝えられている。大山積大神は山の神であり、海の神、産土の神。全国にある大山積神(大山祇神)を祀る神社の総本宮でもある。朝廷より日本総鎮守を下賜され、天皇や多くの武将がこぞって宝物を奉納するような由緒ある神社が何故このような瀬戸内の小島にあるのかは学者さん達に任せることとして、日本の古い歴史に想いを馳せここに立つとき、なるほどなと思はざるを得ないのも確か。神社の周りには国の天然記念物に指定されているクスノキ群があり、樹齢2600年の御神木をはじめ、日本最古の楠「能因法師雨乞の楠」は伝承樹齢3000年といわれている。残念ながら雨乞の楠は現在枯死しているのだが、まるで彫刻のような美しさで、私は何度出会っても感動する。日本の総氏神さまにふさわしい老木に、身の引き締まる思いと安らぎとの両方の思いを抱いてしまう。そして、私にとって大山積大神さまを身近に感じられる場所でもある。大山積大神は霊峰富士の御山に鎮座するコノハナサクヤヒメの父神にあたる。昨年、富士山と縁のある一年になったのも初詣にここ大山祇神社を参詣したおかげかもしれない、とふと思った。ならば、今年もと思ってみたり。もう一度富士山を訪れる機会があればその時は、コノハナサクヤヒメを祀る富士山本宮浅間大社にも足を運んでみたい、そんなことを思いながらの帰り道となった。そして、大三島に来たらやっぱりこれでしょ。神島(みしま)まんじゅう。出来立てをホクホクと戴く幸せ。お店の方は村上水軍の末裔なのか?、店の名に気づいたのも帰り道。次回、尋ねてみようと思っている。皆さま、あけましておめでとうございます。本年も宜しくお願い申し上げます。明日は七草がゆの日ですね。
2018.01.06
今年は富士山に裁判員にと、思い返せば様々な景色が浮かんでくるが、この大晦日に思うのは気持ちよく12月を過ごせたこと。年初、私は「年末大掃除をしないぞ!」との目標を立て、毎日こまめに掃除をしてきた。そのきっかけとなったのは、数年前の9月、友人の奥さんがアップしたFacebookの記事だった。「年末の寒くて気ぜわしい時に大掃除って馬鹿らしいわと気づいてからというもの、我が家の大掃除は春と秋の二回。扇風機とストーブを片付けるタイミングで」なるほど、よく考えれば年の瀬はなにかと急用が入ったり、天気も不安定だったり。冷たさや気ぜわしさで掃除が雑になることもしばしば。なによりバタバタと駆け込み新年というのも神様に対して失礼なんじゃないかと気づいた次第。遠方で暮らす友人の言葉にもハッとさせられた。「今月は来年の準備に勤しむことにします」そうなんだ、12月は新しい年を迎えるにあたり、すべてを整える月なんだ。迎えるということ。今月頭には面倒な場所はほとんど掃除が終っており、おかげで段取りよく年賀状も15日に投函済だ。師走ってこんなに長かったのかなという感じ。こんなふうに、2017年はよく掃除をした年だった。長年気になっていた箇所も整い、準備完了。来たる年はまた何か新しいスタートを切れるような気がする。今月5日、奈良県は室生寺を旅した。女人高野とも呼ばれる室生寺の五重塔の西側に如意山という山がある。弘法大師が恵果阿闍梨より授かった如意宝珠を、この山の頂上に埋めたという伝承が残っているそうだ。如意宝珠とは如意輪観音が持っている、あらゆる願い事を叶えてくれるありがたい玉。昭和21年に実施された如意山頂上の石造納経塔の調査の際、実際に琥珀玉や巻物、当時の貨幣などが見つかっているという。
2017.12.31
上野動物園のジャイアントパンダ「シンシン」と「シャンシャン」の観覧申込をした。当たったら困るなあと思いながら。笑東京までは新幹線かなあ、夜行バスもありかなあ、迷子になるから川崎に住む親友に連絡しようか、でもやっぱり予算オーバーかなあ、などと一人勝手に考えていた。だが、結果はもちろんのこと落選。残念な反面、ホッとしている。ならばなぜ、私は観覧申込なんぞしてみたのだろうか。自分でもわからない。職場のデイサービスのレク用に「シャンシャン袋」。ふと思いついて試作品を作ってみたが、超簡単なわりに思いのほか完成度の高いものができたと自負している。袋を振ると、鈴が「シャンシャン」と鳴るのが自慢。
2017.12.25
先月は本栖湖より千円札裏面の富士山を拝んできたので、今日は10円玉表面へ。宇治の平等院鳳凰堂。10円玉、10円玉と思っていたら、一万円札の裏面に描かれているのだって平等院の鳳凰像であるし、二千円札裏面はここ宇治も舞台になっている源氏物語絵巻と紫式部の絵柄である。と、別に貨幣柄を追っているわけではなく、今年最後の紅葉狩りに奈良を訪れ、その帰りに京都へも立ち寄った次第。奈良から四国への帰り、交通量が多く走りにくい阪奈道路を避けるのに京滋バイパスが頭に浮かんだのだ。京滋バイパスは名神高速より南を走るため、京都市内ではなく宇治の平等院へ行こうということになった。平等院にはこれまで一度だけ訪れたことがあった。大学入試の二次試験の帰りだったと記憶しているので、もう20年以上昔のことになる。もちろん世界遺産に登録される前の話であるから入園者もそう多くなく、まして外国人の観光客には全く会わなかったように思う。鳳凰堂内部に入るのだって当時は入園料だけで良かったような気がするが、今は別料金の上、解説付きの団体行動にまごついてしまった。過去の記憶が美化されているのかもしれないが、昔の鳳凰堂の方がしっとりしていたなあと残念に思った。それでも、本尊の阿弥陀如来坐像と雲中供養菩薩像を目の前にすると「ほお~」とため息が出てしまう。阿弥陀像は平安時代の仏師・定朝の作であることはうろ覚えながら頭に残っていたのだが、彼の作と確実に言い切れるものはこの本尊のみということを初めて知った。定朝が完成させた寄木造りのまさに頂点のような作品。その柔らかさは、実に極楽浄土をイメージするのに相応しい阿弥陀様のように感じた。こうして今年最後の紅葉狩りは、平等院の阿弥陀様のお顔のような柔らかい色合いで締めくくることとなった。
2017.12.05
「富士山を間近で見るぞ!」と心に誓い、4月四国から山梨まで車を走らせた。そこには確かに日本一の富士山が鎮座ましましてはいたが、首の周りに白いストールを巻いていたり、イングリッド・バーグマン張りにお洒落に帽子を被ったりと、すっきり全貌を拝むことはできなかった。そこで8月、再び東へ車を走らせる。私としては、これまでは縁もゆかりもない山梨が一気に身近になっていく。葡萄も買った、葡萄ジュースも買った、信玄餅も買った。そして夕暮れ時には雲も晴れ、ほんのり赤く染まった美しい富士の御山を拝むことができたのだった。大満足してのその帰り、立ち寄った奥飛騨での定宿のおかみさんに、「次は雲のない雪を被った富士山を見たくなるから」と告げられる。その暗示にかかったかのごとく、3ヶ月後に今年三度目の山梨行きを決行することになろうとは自分でも振り返り可笑しくなる。片道600kmは優にあるだろうか。軽自動車でそう簡単にブンブン行ける距離ではない。だが私は5日前、すでに富士山を見るための定宿になりつつある鳴沢村のペンションに泊まっていたのだった。2017-11-24 8:45 田貫湖畔(静岡県富士宮市)「富士五湖というけれど、実はもうひとつ湖が静岡側にあるんだよ。」「田貫湖っていうんだけど、そこからの富士山も綺麗だから一度行ってごらん。」一気に山梨まで走った春夏とは違い、今回は朝一番田貫湖到着を目指して四国を出た。2017-11-24 9:15 田貫湖初冬の空気は冷たく澄んで、富士山をくっきり浮かび上がらせる。こんなに迫力ある存在感のある山だったんだ。淡くほわんと目の前にあった夏の富士山からは別人のような力強さを感じた。圧倒された。2017-11-24 9:25 田貫湖畔2017-11-24 13:25 河口湖畔(山梨県富士河口湖町)2017-11-24 15:00 本栖湖(山梨県身延町)2017-11-24 16:55 ペンションより(山梨県鳴沢村)今年の富士の初冠雪は例年より遅く、しかも10月下旬には台風のせいで一度雪が溶けてしまうことがあった。まさか11月下旬まで雪のない富士山はないだろうと思っていたが、いかにも前髪をぱっつんと切ったかのような雪の被り方も好みではない。どうだろう、私の思い描く姿を富士山は見せてくれるのだろうか。天候はたぶん大丈夫だろう。だが、直前の急な冷え込みにもスタットレスタイヤを持たない私は微かな不安を抱いていた。2017-11-25 6:15 ペンションより2017-11-25 6:45 ペンションよりそして予報通り、天気は快晴。しかも道中思うほど冷え込みもなく、富士山4合目まで難なく愛車で走ることができたのだった。「最近まで富士山の雪は少なかったんですが3日前の夜に雪が降りまして、そうですねえ、今の富士山はひとつき先の景色ですね。」ペンションのご主人は、例年なら12月上旬まではお椀をかぶせたような雪の被り方だと教えてくれた。本来なら、私の好まない前髪ぱっつんの富士山だったのだ。2017-11-25 9:05 ペンションより運がいい。2017-11-25 9:55 本栖湖2017-11-25 10:05 本栖湖2017-11-25 10:05 本栖湖2017-11-25 10:10 本栖湖2017-11-25 10:35 朝霧高原(静岡県富士宮市)2017-11-25 11:05 白糸の滝(静岡県富士宮市)どんな姿であろうとも富士山は別格だと私は思う。いつまでもどこまでも見飽きることなく見続けられる。次はどんな表情を見せてくれるのだろうか、目が離せない。けれど今回、これほどまでに神々しい姿を見せてくれるとは。富士山に感謝することしきりである。2017年、いい一年の締めくくりになった。
2017.11.29
今年5月に「開運!なんでも鑑定団」で本物と認められた伊藤若冲の掛け軸を、丸亀城城郭内にある資料館で現在見ることができる。双幅【鶏図】という。本日、しとしとと数日前より続く雨の下、私も若冲を訪ねてみた。若冲といえば、奇抜なほどの色鮮やかな鶏の絵を思い浮かべる人が多いのだろうか。私も漠然とそんな印象を持っていた。ただ、昨今の若冲人気のおかげでそれを知り得たくらい、私は彼の絵を全く知らない。これまで唯一目にした本物が、金刀比羅宮(こんぴらさん)奥書院の障壁画「花丸図」であり、今日出会う作品が私にとって若冲の鶏第一号となる。なので偉そうに若冲を語ることはできないのだが、ちょっとブログに残そうと思った。あらかじめ掛け軸の写真を見て水墨画ということはわかっていたが、派手さのない若冲に一瞬戸惑った。正直、「ふん」というのが第一印象だったのだが、じーっと眺めているうち味が出てくる。まあ、「これは若冲が描いたものだよ」と聞かされているからかもしれないが、さすが若冲、面白い絵を描くなと思った。墨の濃淡もいいが、絵に勢いがあった。鶏の顔もひょうきんでいい。頭に残る。若冲は鶏を描くにあたり、自身で鶏を飼い、一年ひたすら深く観察し、続く二年は写生を続ける修練を積んだという。若冲研究者の第一人者である狩野博幸さんによると、「菊のこの描き方は若冲にしかできず、鶏も若冲がよく使う表情をしており、雄鳥と雌鳥の目線を意識的に合わせている」とのこと。やはり「ふーん」程度にしかわからない私だが、この絵、好きだなと思う。この鶏は、瀬戸内海に浮かぶ本島(香川県丸亀市)のある町家にあった。現在所有している方の父親が海運業を営んでいた50年ほど前に、木材の運賃代わりに材木商から渡されたものらしい。なので保存状態は完璧とは言えないのだが、対で残っていたのは幸運だろう。もともと本島を中心とする塩飽(しわく)諸島は、昔水軍で栄えた場所。江戸時代には船大工の技術を生かし家大工や宮大工として活躍していた彼らの裕福さは、島を訪れると今も残る江戸時代の古い町並みからもよくわかる。この鶏と塩飽水軍に関わりはないだろうが、塩飽大工によって建てられた立派な民家から見つかったことは大いに頷ける。資料館をでると冷たい雨はやんでおり、長雨はひとまずお休みということか。
2017.10.17
「ついで」というのは神仏事では褒められたものではないが、せっかく奈良まで来たのだからと東大寺に立ち寄ることにした。いや、東大寺というよりは「奈良の大仏さん」に会いに行こうと思ったのだった。「奈良といえば大仏さん、大仏さんといえば奈良」だろう。奈良県内には何度も足を運んでいる私だが、ここ10年近く大仏さんを訪ねていない。そういえば、奈良公園の鹿さんたちにも挨拶しよう。それになんといってもこの旅の本命、運慶を中心とした慶派一派による「南大門の金剛力士像」を忘れちゃいけない。そして東大寺の中で最も天平時代に思いをはせることのできる「八角燈籠」も楽しみだった。飛鳥からは100年ほど歴史は浅いが、それでも700年代。日本はどんな未来を目指していたのだろうか。なんか久しぶりに「奈良に来たー!!!」という感じだった。今年は10月7日~9日に「鹿の角切り」があったらしい。そして、秋は鹿さんの恋の季節、発情期のため注意するよう教えてもらった。
2017.10.13
「わしは六甲を見ながら育っとったんか、と思ったわけよ。」ふらり立ち寄った「ぶどう」と掲げた産直市のおじさんは、二上山と畝傍山、甘樫丘の遥か向こうに連なる山々を指してそう言った。なんと、明日香村から神戸の六甲山が見えるんだそうだ。そろそろ西日本では終わりに近い頃だろうか、色も味も濃い巨峰を味見する私に、おじさんは教えてくれた。石舞台古墳の傍にある食堂で昼食をとった私たちは、桜井市にある二つの寺院を巡るため車を走らせていた。どこもかしこも日本の古代史に登場する場所、おじさんの話は尽きない。「ここは小原(おおはら)地区といって、藤原鎌足誕生の地でね。」懐かしい日本の原風景が広がっている。奈良県は飛鳥地方。今年5月、キトラ古墳と高松塚古墳壁画を見学して以来の訪問だった。車窓からは、黄金色に実った稲穂にすでに色あせた赤い彼岸花の景色が続く。青空の下、ススキの穂は気持ちよく風になびいている。ところどころ古代へといざなう史跡案内の道しるべが道行く人の目を引いていた。ここはいつ来てものどかでいい。そして今回のお目当てが、ここ飛鳥でしか出会えない仏像を巡ることだった。一つは聖林寺(しょうりんじ)の国宝・十一面観音菩薩。あのアーネスト・フェノロサが激賞したという天平時代のミロのヴィーナスだ。お姿全体から溢れる堂々たる優美さと指先まで行き届いた繊細さに、よくぞ廃仏毀釈の波を乗り越えてくれたと心底思う。そして、ここは郊外のひっそりとしたお寺であるため、国宝の観音菩薩と一対一で好きなだけ対面できる贅沢さえも味わえた。* * *現在、興福寺中金堂再建記念特別展として『運慶』展が東京国立博物館で開催されている。それに触発されたわけではないが、「ちょっと快慶を観に行こう」と思い立ったのが、この飛鳥旅のはじまりだった。ちなみに、『快慶』展は、奈良国立博物館にて今年の春に大盛況で幕を閉じている。国宝級の仏像が並ぶ特別展も悪くはないが、なにせ人の多さが気になる私は年々そういう展示ものから足が遠退き、またどれもこれもがメインの仏像ではすべての印象がぼやけてしまうこともあり、面倒ではあるが一つ一つ足を運べたらという想いが飛鳥まで私の背中を押してくれた。それは、日本三文殊のひとつである安倍文殊院のご本尊、国宝・渡海文殊菩薩群像。(安倍文殊院HPより)今から800年以上も昔に大仏師・快慶によって造立された、説法の旅路の文殊様が4人の脇侍を伴って雲海を渡っている姿を現したものだ。獅子に乗った文殊菩薩像は高さ7mにもなり、日本最大の文殊様でもある。もうなんと言えばよいのか、素晴らしい、美しい、神々しい、圧倒されるなどという月並みな表現では到底表しきれないものがそこにあった。いつまでもいつまでも見ていられる、見ていたいお姿。飛鳥の地でまた新たに出会えた尊い仏像に、はるばる車を走らせた疲れも一気に吹き飛ぶ。境内には可憐なコスモスが風に揺れ、のどかで優しい飛鳥の秋がそこにあった。
2017.10.06
「私にとって、富士山はいつもそこにある景色なの。」もう25年以上前のことだが、東海地方の某大学の2次試験を受けた際、静岡県は三島出身だという女の子と出会い、受験日の1日を共に過ごした。「逆に、富士山のない景色の方がフシギなぐらい。」その時、彼女の台詞で一番印象に残ったのがそれだった。そして、当然ながらよく目にする富士山の写真は常に堂々と鎮座ましまし、だからといってはなんだが、私は静岡県や山梨県に行けばその景色を当たり前のごとく見れるものだと思い込んでいた。もちろん天気の悪い日は地元の低い山々でさえ姿を消すが、どこか富士山は特別のような、そう信じたいところがあったのだと思う。ところが初めて山梨県を訪れた今年4月は深く雲をまとっており、すっきりと姿を現すことは決してなかった。山頂周辺は風が速く、頭を隠す雲たちはあっという間に遠く流れていきそうなのに、次から次へと新たな雲が生まれては富士の御山から離れない。裾野の広さに感動したものの、やはり富士山も他の名峰と同じくそう簡単には全貌を見せてくれないのだ。期待が大きかっただけに、がっかりという気持ちがなかったといえばウソになる。いつもそこにある富士山、富士山のない景色の方がフシギと言った三島の彼女の言葉が逆に私を寂しくさせた。確かに、いつも富士の全貌が見れるとは彼女は言ってない、しかし。この8月25日も、新東名高速の新富士ICを降りた時には重い雲があちこちにただよい、今回も無理だなと諦めのような思いが胸に広がった。どっと疲れが私を襲う。そして、悲しかった。どうしてそこまで富士の全貌にこだわるのかというと、それは綺麗なみ姿を母に見せてあげたいという気持ちの他にもうひとつ。以前ブログにも書いた昨年9月に亡くなった私の尊敬するある女性が山梨出身であったから。その方の面影と重なる富士の優美さを見ることで、私はどこか慰められたかったのだろう。だからその姿が全て現れた時、心の底から嬉しかった。尊いなと思った。美しいと感じた。今度は雪を被った気高い姿を見せてくださいね。そっと富士の御山に手を合わせる。
2017.09.02
長野県松本市の中町通りにある「やまへい」という漬物屋さんがお気に入りの母。お店の奥様とお喋りするのも楽しいからだ。松本を訪れるとその「やまへい」さんと松本城には必ず立ち寄ることに決めてある。その日、お昼を少し回っていたにも関わらず、松本城では蓮の花が美しく咲いていた。しばしお城と蓮に見入っていた我々は、お決まりの「やまへい」さんへと向う。愛犬を連れての旅なので、店に入るのは母だけにして、私は犬と一緒に店先に置かれた長椅子に腰を下ろした。「遠くから来たの?」一人のおじいさんに声を掛けられた。おじいさんは手持ちの袋から一つ桃を取り出し、「この時期なら、信州の土産にこれ以上のものはないよ」と教えてくれた。「川中島白桃と生で食べられる白いトウモロコシは、ここをまっすぐ行った処にあるマルシェで売ってるから、ぜひ寄ってみな。」四国に住む私はこれまで川中島白桃という桃に出会うことがなかった。周りの友人たちに聞いても、まず知らない。近頃になってようやく地元の産直でも色の悪い小さな桃が、一応「川中島白桃」と名乗って置かれてあるのを目にするようになったが、手に取ることはもちろんなかった。それに、海を挟んで向かい側の岡山は桃の国。今年も岡山へ出掛けた際に購入した清水白桃に大満足した私はそれ以上を望んでいない。けれど、時々耳にする「川中島白桃」が気にならないわけではなかった。「やまへい」さんから出て来た母に犬を預け、私は小走りでマルシェを目指した。「これが川中島白桃ですか?」ピンク色をした綺麗で大きな桃だ。はあはあと少し息切れしながら、籠の中に4個だけ転がるその桃を指し、店員さんに尋ねた。「もう残りはそれだけになってしまいました。今が食べごろです。一個でも十分食べごたえがありますよ。」私は川中島白桃を2個買った。今朝、常温に置いてあったその桃の1個を氷水で15分ほど冷やし、食べてみた。想像していたよりは清水白桃にも近い味を感じたが、その果肉の締り具合には驚いた。食べごたえがあるというより、母と私の2人では1個食べるのも多いくらいだ。すごく重い。「桃」はドイツ語では男性名詞、フランス語では女性名詞なんだそうだが、清水白桃がフランスで川中島白桃がドイツといった感じ。これはどちらが美味しいというより好みの問題なんだろうが、私には重すぎだ。しかし正直なところ、そう感じたことにホッとしている。もしも川中島白桃の方が清水白桃よりも私の好みであったなら、これから毎夏、四国では手に入らない美味しい川中島白桃を求めて彷徨わなければならなくなるから。それにしても、「桃」を絵に描いたなら、一番おいしく映るのは川中島白桃だろうなあ。本当にいい色をしたとても綺麗な桃だった。(信州の川中島白桃と甲州のブドウがこの旅の戦利品)
2017.08.28
4ヶ月ぶりの再訪。今、山梨県は鳴沢村に来ている。定点観察のペンションより本日の富士山。15:1116:2216:3517:0417:1317:3317:4917:5317:5918:1018:1518:2018:2318:26
2017.08.25
神奈川県在住の鹿写真家、石井陽子さんに勧められ訪館。陽子さんとはペルーの記事をきっかけにブログを通して知り合い、鹿写真家になるずっと以前から彼女のレンズの向こう側にある人々に惹かれ、動物や鳥たちを愛しいと感じ、そして彼女の持つ独特の色彩感覚に憧れてきた。四国からはるばる東京まで彼女の個展を観に行ったり、ダラス空港でまさかの再会があったりと、気が付けば10年来の付き合いになる。今度はその彼女が、ある女性写真家の作品を観るために神奈川からはるばる四国まで来たという。志賀理江子 ー ブラインド デートなんだろう。美術館に入ってすぐ目にしたこの写真家の言葉に、私の心臓がドクンと鳴った。これ、ただの写真展じゃない。息をひそめ、カーテンの向こうにある志賀理江子ワールドへと足を踏み入れた。2009年にバンコクの恋人たちを写した「ブラインド デート」のみに終わらず、「生と死」を見つめる大きなテーマに繋がっていた。展示方法もただ写真が並んでいるんじゃない、こういう見せ方もあるのかと、静かな展示室に響くカチャカチャというスライド式映写機の音に誘われながら見入っていた。言葉と写真が交互に胸に突き刺さる。現在の穏やかな毎日に不満はないが、なんだろう、胸の奥がざわざわし始めた。そして見終わってしばらく経った今も、胸のざわめきはおさまらない。
2017.08.19
時が経ったので、許される範囲のことを少しだけ書いておこうと思う。去年の11月、最高裁より裁判員候補に選ばれたという通知が分厚い封筒に入って送られてきた。裁判員かあ。まさか自分が候補に選ばれることなどあるものかと、この制度が決まった当初はざわめく周囲とは裏腹に全く関心を持っていなかった。だが裁判員制度が始まって8年、当時は無関心だった私も、3年前に父を亡くしたことでできることなら参加してみたいという気持ちに変わっていた。父は長年裁判所に勤めてきた。父のように黒い法服を着ることはないが、同じように法廷に立ち合う機会があれば、父が生涯をかけて貫いた仕事を何らかの形で感じ取ることができるのではないか、今も本棚にずらっと並ぶ法律関係の書籍を眺めながらそんな風に思ったのだった。そして、私は裁判に参加する機会を得た。今回の起訴内容は強盗致傷。最高無期懲役が科せられる罪ゆえに裁判員裁判が執り行われるという。裁判所側は、裁判官3名、裁判員6名、補充裁判員2名の計11名。裁判員が一人でも欠ければその裁判は成立しないことから、補充裁判員も裁判員と同じように最初から最後まで裁判に立ち合うことになる。ただし、裁判員は法廷で質問することができるが補充裁判員は許されず、また審理後の評議(裁判官と裁判員が話し合って有罪か無罪か、有罪の場合はどのような刑に処するのかを決める)の場において多数決を行う際の投票権は補充裁判員にはない。テレビで裁判の場面を目にしたことはあるが、当然ながら父は一切の仕事を家に持ち込まなかったため、法廷に入るまでは実際の裁判とはどんなイメージでどういう流れになるのかわからなかった。裁判員は裁判官と一緒に法壇後ろの扉から入場する。座る場所も裁判官と同じ法壇上。私の席は裁判官の真横、中央に近い法廷を見渡すのにちょうどいい場所だった。初めて法廷に入る時は緊張も高まり、心臓のドキドキ音が耳に届くほどであったが、いざ入場すると冷静に周りを見、話を聞く自然体の自分がフシギだった。また、法廷前に起訴内容を見せてもらい、裁判長が今回の争点はここだよと具体的に言ってくれていたおかげでスムースに話に入っていけたように思う。冒頭手続きから判決までの6日間、かなり真面目に頭を使い、私なりに真剣に考え、時に悩んだりもした。同じ法廷に参加をし、同じ資料を読みながらも11名それぞれ考えは異なる。その異なった考えを十分な話合いから一つの答えへと導いていく。自分の考えに迷いが生じても、裁判官の皆さんがその悩みを受け入れ、認めてくれる。裁判員にならなければ関わることのなかった人たちだが、裁判長が仰っていた通り、私たちは11名で一つのチームになっていた。疑わしきは裁かない姿勢はなにも裁判所側だけでなく、丁寧に話を引き出し物事を見極めようとする検察側の態度にも好感が持てた。いい経験になったし、司法に対する信頼も深まったように思う。また、裁判長のイメージも変わった。これまでは閻魔大王という印象だったが、今はまるでお釈迦様みたいだと思う。閻魔大王は検察側か?笑そして、ああ、これが父の生前であればなあと、勉強になった分余計にそう思った。父ならばどんな捉え方をしただろう。父ならばどんな言葉を被告にかけたことだろう。私は幼い頃から厳格な父が苦手で、だから法曹界はまったくもって興味がなかった。自分から一番遠い仕事だと思っていた。しかし、今は思う。もしも学生時代に、せめて20代でこういう経験ができていたなら、私も法曹界の門を叩きたかったなと。素直になれなかった自分を悔いた。その後悔さえもいい経験になったと感謝している。裁判員裁判の一切が終わった後、裁判員バッチをもらった。今も父の仏前に供えてある。
2017.07.23
京都国立近代美術館を後にした私は京都最古の禅寺・建仁寺に赴いた。洛バス100号に乗れば、近代美術館から建仁寺の最寄りとなる清水道まで乗り換えなしで行くことができる。そのお目当ては俵屋宗達の「風神雷神図屏風」(原本は京都国立博物館へ寄託)ではなく、天井画の「双龍図」と海北友松の襖絵「雲龍図」。この寺には龍や風神雷神図以外にも、禅宗の四大思想である地水火風を表すとされる「〇△□乃庭」に禅庭の「潮音庭」など見どころは沢山あるのだが、その日の私は龍に集中と決めてあった。時間に余裕がなかったこともあるが、とにかく大迫力で龍が見たい!そんな気分だった。であるから、寺に到着するや一直線で法堂(はっとう)へ向かう。法堂の天井に双龍が描かれている。小泉淳作筆「双龍図」・縦 11.4m、横 15.7m(畳108枚分)これは建仁寺開創800年を記念して、構想から2年の歳月を経て平成13年10月に完成し、平成14年に開眼法要が執り行われたもの。建仁寺の歴史の中で、この法堂の天井に龍が描かれた記録はなく、創建以来初めての天井画となるらしい。通常の雲龍図は大宇宙を表す円相の中に龍が一匹だけ描かれることが多いのだが、この双龍図は阿吽の龍が天井一杯に絡み合う躍動的な構図が用いられ、その二匹の龍が共に協力して仏法を守る姿なのだと説明書きにあった。頭上一杯の大迫力でしばし動けず。海北友松筆龍は仏法を守護する存在として、禅宗寺院の天井にしばしば描かれてきた。また「水を司る神」ともいわれ、僧に仏法の雨を降らせると共に、建物の火災から護るという意味が込められているのだそうだ。龍の大胆にうねる構図と大きく見開いた眼(まなこ)は描く者によってその表現は千差万別であるが、それぞれに趣きがあって出会うたびに胸に届くものがある。海北友松の龍は特にしびれるものがあった。海北友松(かいほう ゆうしょう)は安土桃山から江戸時代にかけての絵師であり、父は浅井家に仕える武将であったらしい。若冲より100年以上昔に生きた人なのか。ちょうど今年の4~5月に京都国立博物館で開館120年を記念して彼の特別展があったらしいが、その情報を知らなかった私は惜しくも見逃してしまった。いや、海北友松という人物自体、恥ずかしながら知らなかった。改めて、自分は日本画家の絵師に対して全く知識がないことを痛感する。ここで、せっかく一人で京都のお寺に来ているのだからと写経に挑戦することにした。般若心経は頭の「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」くらいしか知らないけれど、どうせ紙に書かれた文字を筆でたどるだけだから私にもできるだろう。筆の代わりに筆ペンもお寺に用意されていることもあり、気軽に申し込みを行った。書き始めて2~3行目だったと思う。とにかく文字が薄い。画数が多く少し崩された文字、ましてや常用漢字にないものはなかなかわかりづらかった。顔を近づけたり遠ざけたり、どうにかしてその線を辿ろうと努力するものの薄くて見えない。用紙を持ち上げて透かしてみるもはっきりとせず、自然と目を細めながら手を伸ばして見ようとする自分に気づきハッとした。も、もしや、老眼?????40代にもなるとそろそろと聞いてはいたが、とうとう私もその仲間入りなのか?老眼とは老いる眼と書く。 そう、老いると書くのだ。そうなると、もう心鎮まるはずがない、心穏やかなはずもない。最初こそ一文字一文字丁寧に文字を追っていたが、見えにくい文字がどんどん現れてくるたびに心は乱れていく。そして、いくつの文字を誤魔化しただろう。こうして、自分としては生まれて初めての写経は45分かけて未完成のまま完成した。あんなに満足した龍もそっちのけで、頭の中は老眼の二文字がぐるぐる巡る。すぐさまスマホで「老眼」を検索する。すると、どうも老いた眼の症状に私はまだ当てはまらないようだ。単なる疲れ目か、眼鏡の度数が合わなくなったか。しかし建仁寺以来、老眼疑惑が私に付きまとって離れないことをこの場で白状しておこう。
2017.07.18
大阪へ行くのなら京都にも足を延ばそう。毎年世界で一ヶ所しか開催されないフランスのハイジュエラー・ヴァンクリーフ&アーペルと、日本工芸とがコラボした展覧会が京都であると知り、そう決めた。もともとジュエリーには全く興味のなかった私だが、7年前にモスクワのクレムリンで迷い込んだダイヤモンド庫との出会いが私を変えた。「本物」と呼ばれるものの圧倒的存在感は、人をも狂わすに値するだけのことはある。1200年以上昔から都として栄えた京都には、衣食住に関連する最高級なものが生み出されてきました。十二単や小袖、辻が花、能衣装など金襴を惜しげなく使った装束は、現在の西陣のような織ものから染ものまで技術の粋が詰まった地域で、熟練した職人の技と心意気により作られました。フランスを代表するハイジュエリーメゾンのヴァンクリーフ&アーペルも同様に、熟練した職人が一子相伝のように技を伝えています。本店では「技を極める」をテーマに、ヴァンクリーフ&アーペルの秀逸な作品が伝える「技」と、長い歴史の中で生まれた七宝や陶芸、漆芸、金工などの日本工芸の「技」の対比や結びつきを紹介します。フランスと日本の技の競演をお楽しみください。(リーフレットより)私が最も見たかったのが、「ミステリーセッティング」という宝飾技法だった。それは偶然テレビで見て知ったのだが、宝石を支える爪を表から見せない特別な技法で、格子状に作られた石座へ一つずつ石を置いていき、隣接する石がぴったりと合うようにカットして、パビリオン上にレーザーで溝を彫り格子状の枠へはめていくというヴァンクリーフ&アーペル独自のものである。特にルビーとの相性がよく、思わずため息が出てしまう。釘付けになった目の中でもキラキラと煌めきを放っていたに違いない。もちろん、カッティングの素晴らしさだけでなく宝石の大きさや光具合にも心を奪われた。とりわけバードクリップにつけられた大きな一粒のイエローダイヤモンドからはしばらく目が離せないほどだった。小さなペンダントに輝くそのダイヤの大きさは、なんと96.62カラット。はああああ、といった感じである。そして数多く見ているうちに、本物と呼ばれるものほど光の放ち方が上品で、色合いも控えめだという印象を持つようになった。控えめというより奥行きのある煌めきといった方がより近い表現かもしれない。だから余計に石の世界に引き込まれてしまうのだろう。多くの宝石に吸い込まれ心惑わされそうになりながら、だが、ふと心癒されていく自分に気付く。手が届かない宝石の中にあって、段々と心が開放されていく感覚はフシギだった。「本物」なんだと思った。その「本物」を作り上げていく過程を、展覧会では工程ごとに映像で見ることができる。驚くべきことは、そのすべてが今も手作業であること。これだけコンピュータが浸透している現在において、デザインもすべて人の手で描かれているのだ。細かい作業を一つ一つ見つめていると、そのすべてが愛おしくなってくる。心が開放される、心が癒される、その理由がその時ほんの少し理解できたような気がした。と、ヴァンクリーフ&アーペルのことばかり書いてしまったが、日本工芸も負けてはいない。私が好きな並河靖之氏の七宝焼に、信じられないほど細かく見事な孔雀図屏風など、技を極めるということにかけて決してヴァンクリーフ&アーペルに引けを取らない作品たちがずらっと並んでいる。ただ、今回の私はヴァンクリーフ&アーペルの煌めきに夢中になってしまっただけ。それは自分でも愉快なほどヒカリモノに魅かれていったのだった。私は現実に戻るため、美術館のカフェで少し早めのランチをとる。ぼおおっと冷めやらぬ余韻にテラス席で浸っていると、一匹のスズメが私のパンを盗んでいった。ダイヤやエメラルドはやれないが、パンならどうぞといった感じ。笑この展覧会は京都国立近代美術館にて8月6日まで。一見の価値ありと自信をもって伝えられる。
2017.07.05
先月18日、大阪のフェスティバルホールへ「ボリショイ・バレエ」を観に行ってきた。世界にある名高いバレエ団の中で、私がどうしても憧れてやまない響きがこの「ボリショイ」。たぶん、ロシアの持つミステリアスなイメージが私を惹きつけてやまないのだろう。といっても、四国の片田舎で暮らす私がバレエと触れる機会はこれまでもほんの僅かで、趣味はバレエ鑑賞というにはおこがましい。おこがましいのだけれども、有名なバレエ団は押さえているのよと密かに自慢できる自分になりたいと、このお上りさんは思うのである。今回のボリショイ・バレエの大阪公演は2日間で、一日目が「ジゼル」、二日目が「白鳥の湖」という演目だった。休みの都合で「白鳥の湖」を選んだのだが、どうやら「ジゼル」はボリショイの十八番とのことらしい。ただ、「ジゼル」は過去にプラハ国立歌劇場で観劇したことがあり、「白鳥の湖」は二幕通して観たことがなかった私にはいい選択だったのではと思っている。私がこの公演を知った時にはすでにチケットは完売にちかく、望む席はすべて空いていなかった。迷った末に3階席最前列のほぼ中央を予約する。だがそこは全体を見下ろすのにちょうどよく、とりわけ群舞の美しさは言葉にならないほどだった。衣装の豪華さと舞いの優雅さと、それはまるで夢の中にいるようで、思わず「ブラボー」と叫んでしまって赤面する場面もあった。出演者についていえば、昨年プリンシパルに昇格したばかりのオルガ・スミルノワがオデット(白鳥)とオディール(黒鳥)役を演じ、それがとても素晴らしかったので記憶に留めておこうと思う。悪魔ロットバルト役のイーゴリ・ツヴィルコ、道化師役のアレクサンドル・スモリャニノフも頭の片隅に入れておこう。そして、演出。「白鳥の湖」といえば結末が悲喜様々あるのだが、このボリショイでは切ないフィナーレが選ばれていた。てっきりオデットとジークフリート王子はどういう形であれ結ばれると思っていた私は、胸に穴があいたような寂しさが広がっていったのだった。けれど、それがより儚い幻想的な世界を引き立てているようで、耳に残るチャイコフスキーの美しいメロディとともにじわり心の奥底に染み渡っていき、まさに「ブラボー!」と叫ぶしかなかったのである。いつか、いつか、、、いつか、本場モスクワのボリショイ劇場でロシアバレエの真髄に触れられる日が来ますように。そんな淡い願いを抱きながら、フェスティバルホールを後にした。
2017.07.01
昨年の熊本地震でショックを受けたのが熊本城と阿蘇大橋、そして阿蘇神社倒壊の映像だった。神社の楼門と拝殿の無残な姿には居たたまれない気持ちになった。神様がいらっしゃる場所なのにどうして、とも思った。別府港から高速で湯布院へ、そこから下道で2時間ばかり。至るところで地震の爪痕を目にしながら走った。阿蘇神社も復旧工事中で大きな囲いがされており、私はどうお詣りすればいいのか戸惑い、無料のボランティア案内を頼むことにした。案内役の女性は気さくな人柄で、手水の手順から丁寧に説明してくださった。「ここは神武天皇の孫にあたる『健磐龍命(たけいわたつのみこと)』を中心に、その子孫を含め12の神様を祀ってあります。なので、それぞれお得意の分野がございますので、どんな願い事でも叶えてくれますよ。」そんな話から始まったと思う。私は去年の地震で倒壊するまで、実はこの神社の存在すら知らなかった。「もともと有名な神社だったんですねー。」「結婚式で謡われる高砂の歌をご存知ですよね。」「ああ、『たかさごや~この浦舟に帆を上げて~』ってやつですね。」母も熱心に聞いている。「そうです。その高砂の歌に阿蘇神社の神主さんが出てくるんですよー。」どうやらあの歌詞は、播磨の国・高砂の浦を訪れた阿蘇宮の神官が松の下を掃き清める老夫婦にその松の謂れを問うところから始まるらしい。詳しいことは世阿弥作・能の演目『高砂』にゆだねるが、「千歳飴の袋にお爺さんとお婆さんの絵が描かれてるんですが覚えてます?」私と母はお互い顔を見合わせて首を傾げた。「お爺さんとお婆さんが箒と熊手を持っているのですが、それぞれどちらを持ってると思います?」「お婆さんの手に箒、お爺さんの手には熊手が描かれています。どの絵もそうなってるはずです。」「ほらあ、『おまえ百までわしゃ九十九まで、共に白髪の生えるまで』って言うじゃないですか。『おまえ百(掃く)までわしゃくじゅうくまで(熊手)』、ね、分かります?高砂の松の下を掃き清めていたお婆さんが箒を、お爺さんが熊手を持っていたそうです。機会があれば、また見ておいてくださいね。」「で、これが参道になるのですが、珍しい横参道なんですよ。」「横参道?」「普通、参道は拝殿に向かうように伸びているのですが、ここは神社に並行して参道があるんです。」「昔から阿蘇山の中岳火口は神霊池と呼ばれ、その新宮と国造(こくぞう)神社を結んでいるのがこの参道です。」参道から一つ中に入ると修復中の楼門と拝殿の前に出た。「楼門は国の重要文化財なので元々の材木を使って復元することになります。なので実はこれ、まだ解体の途中なんです。」「番号をふって、取り壊す方が大変ですものねー。」「でも、ここの修復には伊勢神宮を受け持った宮大工さんが携わってくれてるんですよ。変な言い方ですけど、ここで技が引き継がれることは嬉しいです。」母も私も一つ一つに「へえ~」と興味深く聞いていた。「拝殿があった時は見ることが出来なかった神殿を今なら見ることができますので、ぜひお詣りなさってくださいね。」「神殿は無事だったんですか?」「損傷はありますが、楼門や拝殿のように倒壊はしなかったんです。」「大きな揺れだったのにこの辺りは被害が少なく済んで、みんな阿蘇神社が身代わりになってくれたと言ってます。それまでも参拝される方に身代わりのお守りを勧めてたんですが、あれからここで身代わり御守りを買っていかれる方が多くなりました。」聞けば楼門は重要文化財なので国から費用が出るらしいが、拝殿などの修復費用の一切は神社負担となるらしい。復旧には7年ほどを要するとのこと。私たちは身代わり御守りを買った後、少しばかりの御奉賛をさせてもらうことにした。偶然それに対応してくださって神官さんが地震当日当直だった方で、当時の話も聞かせてもらえた。「全然想像もしてなかったけど、阿蘇神社にお詣りできて本当に良かった。」母は今でもそう言ってくれる。改めて、この地震でお亡くなりになった方々のご冥福をお祈りし、被災された皆様にお見舞い申し上げます。そして、一日も早い復興を願っています。帰ろうとする私たちを先ほどのボランティア女性が見つけて駆け寄ってきた。「お母さんがくまモンをお好きだと聞いて。ちょうど今貰ったものなんですけど、お母さん、どうぞ。」そのあと、阿蘇神社の北宮とも称される国造神社も参詣した。
2017.06.04
5月24日から一泊二日で大分と熊本を訪れた。九州へはこの1年半で三度目の訪問となる。それまで滅多に行くことはなかったし行く機会もなかったのだが、設備の整った清潔で環境のいいドッグラン付ホテルと出会ってからはお犬様孝行をするために度々足を運んでいる。笑それは由布岳を真正面に仰ぐ場所にあり、いつもならその美しい姿を存分に眺めることができるのだが、その日は残念なことに深く雲に覆われていた。けれどおかげで適度に芝生も湿っており、すでに真夏のようにギラギラした太陽を浴びることもなく、二日間好きなだけドッグランで遊べた彼らにとってはいい時間だったのではないかと思っている。その他の観光はというと、福岡や佐賀などに足を延ばすことも考えたのだが、何故かいつも阿蘇方面へと走ってしまう。今回は阿蘇と、大分県は杵築市にお邪魔した。杵築は国東半島の南端にあり、その昔は3万2千石の小さな城下町。今は和服の似合う町として大きくPRしているらしい。それは一言で云えば趣きある坂の町。それもただ坂が続くのではなく、なかなか面白い創りをした町なのである。市の観光協会の表現をそのまま借りると、日本でただ一つといわれる『サンドイッチ型城下町』。杵築城を中心に据え、『塩屋の坂』と『酢屋の坂』というそれぞれの坂の上にある南北の高台に屋敷を構えた武士たちは、その谷あいで商いをする商人たちの町を挟むように暮らしていた。二つの坂は、商人の住む谷町通りを挟み向かいあうように一直線に結ばれている。高台に続く武家屋敷通りも当時の面影を色濃く残しており、確かに着物を着てそぞろ歩いてみたいと思わせてくれる。ここで昼食をとることにした。前日、ホテルで見たテレビで「大分県民のソウルフードは『からあげ』か『とり天』か」みたいなのをやっていて、どちらを食べようかという話になった。谷町通りで立ち寄った和菓子屋さんのおかみさんは「私は『とり天』の方が好きですかねぇ」と言う。では、ランチは『とり天』にし、『からあげ』はテイクアウトにしようと決まった。大分を車で走っていると、いたるところでからあげ屋さんを見かけるのだ。入ったお店は笑食(わらべ)さん。なかなかのボリュームだが、とても柔らかくて美味だった。そして、これだけ食べたのだから満足する。満足しすぎて、もうしばらく鶏はいいやということになり、からあげは次回までお預けとなった。デザートは、和菓子屋さんで買ったイチゴの葛アイス。
2017.06.01
今夕帰宅すると、机の上に一通の手紙が置かれていた。裏返してみると、それは元上司から。内容は大体検討がついていた。一週間ほど前、私はまたも母と愛犬2匹と共に大分と熊本へ旅に出掛けた。大分といえば、肉厚の乾シイタケ『どんこ』。特にうちの母はそれが好きで、大分へ行くと「どんこ、どんこ」と煩く言う。今回もそんな母に従って、どんこの中でも肉厚がしっかりしている椎茸を選んで常日頃お世話になっている方達への土産とした。たぶん、その礼状だろう。封を開くといつもの優しい美しい文字。そして中身もとても素敵だった。またまたお土産いっぱいありがとうございましたpicchukoさんはお母様がお元気でいいですね最近に読んだ本の中の言葉です「うちの母は96歳までほとんど病気もせず元気でした 死の間際まで私の面倒をいろいろみてくれたのです それには助けられました母がいつまでも私のことを娘扱いするのには閉口しました」「あなた それは大変な親孝行が出来たわねお母様は娘のために生きがいが有って長生きされたのよ」picchukoさん いつも元気なお母様がそばに居てくれてお幸せですねいつまでもそばに居てもらいなさいよありがとうございました Y子
2017.05.30
もうひと月になる。愛犬2匹を連れて母と2泊3日の旅に出掛けた。私の運転ではこれまでで最も遠出となる『飛騨・信州・甲州の旅』。終わってみると、3日間で1585kmも走っていた。飛騨の目的は『奥飛騨温泉』。2年半前に利用した宿がとても気に入って、今回で四度目の訪問となる。これまで松茸の美味しい秋口に行くことが多かったのだが、宿の奥さんが「次はぜひ4月においでください。この辺りで採れた野草の天ぷらがとても美味しいから、せめてGWまでに来ていただけるとご馳走できますよ」と教えてくれていたこともあって旅程に入れた。そして、本命の行き先というのが『富士山』だった。それは決して登るのではなく見上げるだけの為だ。これまで高速道路のSAだったり新幹線や飛行機からだったりと、一応富士の御山を見たことはあるが、そうじゃなく一つの場所で心ゆくまでのんびり眺めていたいと思ったのだった。その思いが去年の暮れ頃から段々と大きくなって、もう行くしかない!と立ち上がった。それは山梨側からの富士山。そうなると、奥飛騨から山梨までの道筋には信州の松本があり、母の好きな松本城も外せない。お城の近くの中町通りにあるお気に入りの佃煮屋『やまへい』さんにも立ち寄ろう。そうやってどんどん行程ができあがった。ところが、天気予報では三日間のうち二日があいにくの雨。しかも、富士山の麓に滞在する日に限って天気が悪いという予報だった。私はその口惜しさを奥飛騨温泉で泊まった宿の奥さんに零してみた。宿を経営するご夫婦は横浜にも家があり、富士山周辺についても非常に詳しい。奥さんは、「じゃあ、裾野を見てきたらいいわ。遠くの方は富士山の裾野を知らないでしょ」と言った。裾野?その時はなんで裾野?と正直思ったのだが、それは訪れて一番納得したことだった。奥さんに教えてもらわなければ、悪天候で富士山の全貌を見れないくやしさだけが残ったと思う。とてもいいアドバイスをもらったことに感謝。本家本元の富士の裾野を見てしまうと、日本各地の富士山にはもう『富士』の名を使えないなと、地元・讃岐富士を思い浮かべながらそう思った。それくらい富士の裾野の広さに心打たれたこの旅は、実は開花の遅れた満開の桜も彩を添えてくれた。ちなみに、富士山麓ではオウムでなく鶯がよく鳴いていた。そして、今後富士山を見に行くという方には、「それなら裾野を見て来るといいわ」とアドバイスすることに決めている。ペンションより本栖湖精進湖西湖中央道より松本城樹齢1100年の臥龍桜(岐阜県高山市)せせらぎ街道(岐阜県郡上市)
2017.05.23
璉珹寺を出たのが16時少し前。その日午前3時起床の私は、そのまま帰路に就くつもりだった。それでも帰宅は午後8時を回るだろう。阪奈道路を目指して奈良市内を走っていると、ICの手前で看板に唐招提寺と薬師寺の文字が現れた。ふとキトラ古墳で出会った女性との会話を思い出す。「今日はこの後どちらへ?私一人暮らしだから、良かったら泊まっていってもいいのよ。」「いえ、今日は日帰りの予定なんです。でも、キトラ以外の予定は全く立ててないです。」「なら、石舞台からすぐのところにある談山神社はどう?中大兄皇子と鎌足が大化の改新の談合をしたところ。」「そうですねぇ。」これまでに二度そこを訪れている私はあまり乗り気じゃなかった。「じゃあ、唐招提寺と薬師寺がいいんじゃない。」どちらもすでに行ったことがある。けれど、それは20年以上も前のことだ。薬師寺は『凍れる音楽』と謳われる東塔が修理中で観れないのが残念だけど、唐招提寺の落ち着いた雰囲気はいいかもしれない、そうちらっとその時思ったのだった。時計は午後4時を過ぎたところ。えいっと車を左折した。そこから唐招提寺まではすぐだった。大きな駐車場に車を停めて南大門をくぐると、大勢の観光客が引き上げた後のひっそりとした金堂が目に入って来た。懐かしかった。大学時代、一週間ほど滞在した奈良はレンタサイクルであちこち巡った。ここもそうだ。この南大門の先に見える金堂の外観は有名すぎて、それでも昔から好きなお寺だったなと、しばらく立ち止まってその景色と向き合った。そこに立つ盧舎那仏と薬師如来像、そして千手観音像の迫力は言葉にならないほどだった。作は奈良時代。改めてすごいなと感心した。たぶん、22歳の私はそれらに圧倒されすぎて、それ以外は見ずに帰ってしまったか、それともそれ以外の記憶は全く飛んでしまったか。私は受付でもらったリーフレットを見て、ぐるり境内を一巡することにした。拝観時間は残り40分しかない。講堂と鼓楼を見て、礼堂・東宝の横を通って開山堂へ。開山堂には鑑真和上の御身代わり像が祀られている。有名な国宝の像は毎年6月5、6、7日の3日間のみ開扉され、それ以外は御身代わり像を参拝してもらおうとつくられたらしい。それは本物を模造して、当初のお姿を再現しようとしたものだ。しかし私は、その像に心を打たれることはなかった。御身代わり像に手を合わす人たちをするりと抜け、私は鑑真和上御廟に向かうことにした。5人の団体にガイドさんが一人、先客がいた。何食わぬ顔でガイドさんの話に耳を傾ける。「当時、お坊さんの墓を建てることはなかったんです。像を作ることもなかった。なので、絶対とは言い切れませんが、これは日本で初めてのお坊さんのお墓ということになります。」「そして、この細い木をご覧ください。これは瓊花(けいか)という木なんです。瓊花は鑑真和上の故郷、唐の揚州にあった花なのですが、ながらく門外不出の花でした。」「昔の皇帝がその花をたいそう気に入って門外不出としたのです。ですが鑑真和上遷化1200年の昭和38年、特別に揚州からいただいたものがこちらに植えられています。」「花が咲く時期は4月下旬から5月上旬、残念ながらもう終わってしまいました。」その時、「あそこに見えるのは花ではないですか?」と誰かが言った。「あれ?ホントですね!普通ならもう終わっているのですが、日当たりが悪くてまだ残っていたのですね。」それは紫陽花によく似た花だった。わずかしか咲いてはいなかったが、それでもその珍しい瓊花を見れたことはツイテるなと思った。そして鑑真和上に手を合わせた後、正倉院よりも古い日本最古の校倉造である経蔵と宝蔵を見て、再び金堂でお参りをし、南大門を目指す。ここで今回のいにしえの旅は終わった。やはり、やはり奈良はいい。時空を超えて再び奈良を訪れよう。
2017.05.22
先月のこと、行きつけの珈琲屋さんで、特別企画として「仏をたずね、京都・奈良へ」と題した雑誌を目にした。ちょうど石舞台古墳で花見をした数日後のことで、帰りに拝した飛鳥大仏と中宮寺の菩薩半跏像の余韻からまだ冷めきれていない私は自然とその雑誌に手が伸びた。そこでふと目に留まったページに、白い女性の美しい阿弥陀如来像が袴を履いて立ってらした。その像は鎌倉時代作、モデルは光明皇后とある。女人の裸形という珍しさもあってか、頭の片隅にそれは深く刻み込まれた。キトラ古墳、高松塚古墳、天武・持統天皇陵と巡った帰り道、せっかく奈良まできているのだから一つくらいお寺参りでもしようかなという気になった。その時思い出したのが、その女人像だった。場所は奈良市内、奈良公園の近くにある璉珹寺(れんじょうじ)という小さな寺で、もともとは紀氏の氏寺である紀寺だったところだ。雑誌で見かけなければ、きっと足を踏み入れることのなかった場所。フシギな縁を感じながら門をくぐった。2人の女性が立ち去ろうとしているところに私が入り、薄暗い本堂の中はお寺の方と私だけという静かな時間になった。御住職の語られるテープを流していただき、御本尊を見上げる。写真のお顔よりもうんと柔らかい表情をされていた。説明にそって仏様の頭を見ると、それはよく見られる丸まった螺髪ではなく綱を巻き上げたようになっており、指と指との間は水かきのような曼網と呼ばれる膜があり、それは一切の衆生を救い上げるという意味なんだとか。「どうぞ間近に。」テープが終わるとそのお言葉に従って、手を伸ばせば届く場所でゆっくりとじっくりと拝させていただけた。本当に華奢で女性らしい美しさ。金色の袴には細かく様々な図柄が織り込まれている。その袴は50年に一度お取替えされるのだという。平素は秘仏とされるこの像は、昔は袴のお取替えを行う時だけ御開扉されていた。しかし、現在は毎年5月の一箇月間のみ御開扉され拝観することが許されている。本堂を出たのち奥の部屋へと案内される。そこには平成10年に取り替えられるまで仏様が召されていた、一つ前の袴がガラスケースの中に納められていた。その真ん前に座り、説明を受ける。写真には写っていないが、鶴の模様が沢山入ったその袴をじっくり覗くと、そこには先ほど飛鳥で出会ったばかりの「玄武・朱雀・白虎・青龍」も描かれていた。白虎はひときわ浮き出る白っぽい糸で織られており、それが袴の印象を明るく見せている。この絵柄はこの仏様だけのもので、それは昔から変わっていないのだそうだ。ここでも出会えた四神の絵。飛鳥の帰りにここに立ち寄ったのも、やはり何かの縁だったのだろうか。お庭を眺めながら琵琶茶で一服していると、「これもご覧くださいな」と一冊の雑誌を持ってきてくれた。それは創刊40周年記念特大号と書かれた『クロワッサン』という雑誌だった。「あ、これを見てここに来たんです、私。」私が席を立った時、また別の見物客が現れた。一気に押し寄せるのではなく、入れ代わり立ち代わり、ちょうどいいペースで参拝者が続くその場所は、境内にニオイバンマツリやオオヤマレンゲが咲き競う小さな小さな寺だった。
2017.05.21
「もうこの頃になると防衛やら他のことにお金が必要だったのか、古墳も小さくなっちゃったわね。」声の主はまた彼女だった。「ホント、私の町にある地方豪族の古墳の方がまだ大きいくらいです。でも、さすが高貴な方のお墓だけあって中はすごいですよね。」「この向こうに天武・持統天皇陵があって、この一帯はその血筋の者たちの古墳が集まってるのよね。」天皇に近い存在ならば、この壁画のように当時時代の最先端だったものが描かれているのも頷ける。たぶん、優秀な渡来人たちの存在が大きいのだろう。「鎌倉時代に一度盗掘されてるらしいけど、その後古墳に入ろうとする者はいなかったのかな?」私が一人呟くと、「たぶん、たぶんだけどね、祟りを恐れて入らなかったんじゃないかしら。」ということは、鎌倉時代の泥棒はその後不幸な最期を迎えていて、それを祟りととらえて後世まで言い伝えられた、、、彼女の真剣な表情に、なぜかそうなのだと納得させられてしまった。展示物の中には、その泥棒さんが盗掘時に使った瓦器片も発掘品に並んでいる。以上、キトラ古墳での話。「きっと高松塚でも会えるわね。」そして、キトラ古墳横に建てられら壁画体験館・四神の館の駐車場で別れてから5分後、私たちは高松塚壁画仮設修理施設の前で再会した。予約なしでも見学の許可を戴いた私は、彼女と同じグループで修理室に入ることができた。そこはキトラのそれと違って、実際に壁画を修理している場所、その場所にずらっと並べられた石室の断片を窓越しに見学するというものだった。それは博物館のように見せる展示をしておらず、非常に見えにくいという印象を誰しもが持ったと思う。そして、思うより小さい絵というのが一番の感想だった。なので手前にあった玄武や青龍、飛鳥美人を描いた女性群像などは比較的よく見えたのだが、少し離れた場所に置かれた男性群像や天文図は全く見ることができなかった。けれどみんな夢中だ。みんな夢中でガラスに張り付いていた。だって、あの壁画が、あの飛鳥美人が目の前にあるのだから。気が遠くなる時を越え、こうして壁画と向き合っているなんて、それぞれにみんな胸に浪漫を抱いているみたいだった。僅か10分の見学だが、こんなすごいものを無料で観させてもらえることもありがたい。日本人みんなの宝物なんだなって、じーんとなった。「たぶんここの埋葬者は忍部ね。」彼女の解説はまたここから始まる。「近くに古代米のランチが食べられるお店があるんだけど、一緒にお昼食べない?」それからもう1時間、私は彼女の古代飛鳥物語を延々聞くことになる。
2017.05.20
ちょうど一週間前、何気なくテレビを付けるとNHKの歴史秘話ヒストリアで高松塚古墳の壁画について取り上げられていた。高松塚古墳といえば今から45年前、飛鳥美人で有名な鮮やかな色彩の壁画が見つかり、考古学史上まれにみる大発見と騒がれた史跡。それは遠い記憶の歴史教科書に数多く並ぶ写真の中でもひときわ印象に残っていた。その高松塚古墳の壁画修理作業室が公開されることを、番組最後に知らされる。これで17回目、これまでだって公開されることを知らないわけではなかったが公開時期に間に合ったのは初めてのこと。私は早速文化庁のホームページを開いてみた。しかし期間中の応募定員はすべて満員、この番組で応募した人も多いだろうが、その競争に負けてしまった。けれど未練がましく探していると、「キトラ古墳」の文字が目に入る。キトラ古墳も一時期話題になった考古学ファン憧れの場所。その石室内からも壁画が発見されており、今のところ壁画の残る古墳は国内ではキトラと高松塚しか見つかっていない。そして、そこでも壁画公開が行われているという情報を目にすることができたのだった。5月16日、私は先月も訪れた奈良は明日香村へと車を飛ばす。応募したキトラ古墳の壁画見学の参加証が届いたのだ。急きょ決まったことで、前もっての知識は全くないが気にしない。それは訪れて知ったこと、キトラも高松塚に勝るとも劣らない壁画が存在したということだ。高松塚と同じ、四神(青龍・朱雀・白虎・玄武)が描かれており、その姿もほとんど同時期のものゆえかよく似ている。残念なことは、どちらの古墳も鎌倉時代に盗掘を受け南壁に盗掘孔があけられており、そのせいで高松塚の朱雀は残っていないのだが奇跡的にキトラのものは助かった。そして高松塚においては石棺を囲むようにある女性群像などの代わりにキトラには十二支が描かれ、頭上には現存する世界最古の科学的な天文図が広がっている。ちなみに高松塚の天文図は略式のものだ。今回はその中の青龍と十二支の寅のみの公開であったが、内心鳥肌が立つほどの興奮であった。有名な高松塚が見れないのは惜しいけれど、実はキトラの方が凄いんじゃないか、、、そう思いながら目の前の壁画に見入っていた。壁画は現在、そのままにしておけばやがて崩れてしまう極端なもろさであるために石室内より取り外されている。「私は高市だと思う。」急に声がして振り向くと、隣りに立つ年配の女性が私に向かってそう呟いた。この古墳の埋葬者が誰なのか断定はできないが、様々な説の中から天武天皇の第一皇子で太政大臣にまでなった高市皇子だろうと彼女は言う。私も高市だといいなと思っていたので、素直に彼女の話に耳を傾けていた。「高松塚とキトラは兄弟。」古墳自体も類似点が多いが、高松塚の埋葬者も天武天皇の皇子である忍部皇子が最有力候補とされている。「あなた、高松塚壁画も見に行くんでしょ?」「いえ、応募するにも満員で無理だったんです。」「大丈夫よ。当日必ずキャンセルが出るから行ってみなさい。」彼女に出会わなければキトラの壁画だけで満足していたかもしれない。私は壁画見学後、キトラ古墳を見てから高松塚壁画にも足を延ばしてみることに決めた。「キトラは本当に可愛い古墳よ。」こんもりと小さく盛られたその古墳は、まさか内部にこれほどまでの宝物が埋もれていたのか信じられないほどひっそりと存在していた。長い長い時間、ここで埋葬者と共にそれらは眠りから覚めるのを静かに待っていたのだろうか。私はしばし古墳の前に立ちすくんでいた。
2017.05.19
現在、私は認知症型デイサービスセンターに勤務している。一日の定員10名、手厚い介護が売りの現場。リハビリもなく今流行りの特色はこれといってないのだが、みんなが和気あいあいと笑顔で穏やかにその日を過ごせたらと、認知症型には認知症型なりの難しさと向き合いながらの毎日である。そこで5ヶ月に一度、レクリェーションの順番が回ってくる。前回は去年の12月だった。 月末は次月のカレンダー作り。私は干支の酉をモチーフに、色紙やフェルトを使った作品にした。あれは12月29日の夕方、塩田さんという男性をお家まで送った時のこと。帰りの時間に合わせて奥さんが暖かくして待ってらしたお部屋に入ると、灯されたストーブの火とベッド脇に飾られた来月のカレンダーが目に留まった。それは私が作った作品だった。もう飾ってくれてるんだと、嬉しくなった。塩田さんは12月から利用されたばかりの方で、デイサービスでの初めてのカレンダーがそれになる。段々と表情も明るくなり、いい感じでデイサービスに溶け込んでいる。「来年もどうぞ宜しくお願いします!」次回の利用は1月2日。塩田さんも奥さんも私も笑顔で挨拶をして別れた。そして、明けて正月2日目。朝の申し送りで、塩田さんが大晦日の朝に急逝されたことを知る。言葉が出なかった。今月も私のレク当番が回ってきた。定番の誕生日カードとカレンダー作りを考える。本を見て簡単そうな作品を選ぶこともできるのだが、私は創意工夫と手間隙かけて少しでも多く喜んでくれる作品に仕上げようと思っている。もしかしたら最後の誕生日カードになるかもしれない。最後の6月のカレンダーになるかもしれない。そんなことを考えるのは寂しいし失礼になるかもしれないが、でも本当に最後になってしまうかもしれないのだから。だからより一層心を込めて、丁寧に。どうか明日も沢山の笑顔を引き出せますように。
2017.05.12
今日は朝から気温が上昇し、庭先を箒で掃いているだけで汗ばんできた。本日、4月16日は私が初めてこんぴら歌舞伎大芝居を観に行く日である。気持ちいいくらい青空が冴えて、初夏を思わせる陽気に一層心が弾む。偶然チケットが手に入ったから行くのよと、昨日までは少し冷めたように周囲に話していた私はどこへやら。とても楽しみにしていた様子が外からもバレバレな今朝の私だった。ご存知、四国こんぴら歌舞伎大芝居は金毘羅さんの麓、金丸座と呼ばれる日本最古の芝居小屋で毎年4月に開催される。今年は8日から23日までの16日間、片岡仁左衛門さんを筆頭に、襲名されたばかりの五代目中村雀右衛門さん、片岡孝太郎さん、尾上松緑さんという贅沢な顔ぶれが揃っている。私の席は桝席「へ-1」。花道脇の最前列だ。本当に見事なまでの前列で、黒子はもちろん舞台の隠し棚までよく見えた。役者さんのおしろいの匂い、火薬の匂いやらも直に届き、囃子や太鼓の音は真横から。そして花道に立つ役者さん達はほぼ真上、首が痛いのを除けば臨場感溢れるいい席だった。仁左衛門さんの軽やかな立ち回りとは裏腹な噴き出した汗もよく見えた。演目は3つ。第一幕は孝太郎さんが娘お舟を演じる「神霊矢口渡」、第二幕が雀右衛門さん登場の「忍夜恋曲者」、第三幕は江戸っ子演じる仁左衛門さんの舞踊が見られる「お祭り」だった。それぞれに魂が吸い込まれそうなほど見入っていた私だったが、なにせ歌舞伎観劇そのものが初めてということで、初っ端の孝太郎さんから参ってしまった。一挙手一投足、微妙な目の表現、拗ねた顔にやけた顔。思わず吹き出す場面も胸に迫る場面も、どれもこれも鮮明に覚えている。「神霊矢口渡」という話は、鎌倉幕府滅亡から南北朝時代を描いた軍記物語「太平記」にある新田義興の最期を素材にした浄瑠璃の一場面で、讃岐ゆかりの平賀源内が書いたものらしい。といっても歌舞伎の話、軸となるのは恋話。孝太郎さん扮する渡し守の娘お舟が義興の弟の義峯に一目ぼれするところから話は動き出し、義峯の身代わりに切られて虫の息になりながらも必死で彼を守ろうとする姿は目を逸らすことができないほど素晴らしかった。衣装の美しさにさえ目がいかないほど孝太郎さんに釘付けだったんだなと、幕が引かれて初めて気がついた。こんなふうに十分堪能したこんぴら歌舞伎。狭い桝席で隣り合った者同士、芝居小屋らしく観劇の合間に和気あいあい仲良くなったのも楽しかった。なかなか手に入らないこんぴら歌舞伎のチケットではあるが、当日券が余っていることもあるという。こんぴらさんまで車で15分、きっと来年も足を運ぶ自分がいそうな、そんな気がする。
2017.04.16
今年は桜の開花予想が立てにくく、まずは第一弾で訪ねた土佐国分寺は全くの空振りだった。もちろん地元にも桜の名所は山ほどあるが、この時期だからこそ花見を兼ねての遠出がしたい。高知くらいの距離ならば外れを引いても諦めはつくが、片道200km以上もの距離を走るのであればできるだけ最高の状態でと思ってしまう。一昨年と去年に行った彦根城が大当りだっただけに余計に期待もしてしまう。だが、桜の開花状況に天気と休み、この3つをクリアするには雨の多いこの時期特に難しい。その中で選んだのが、4月10日(月)、奈良県は明日香村。近くには藤原京跡もある日本の古都だ。同じ古都なら京都でもいいのだが、「歳がいくとあの人混みはどうにもこうにも我慢ならない」と田舎者の母が言う。もともと私も奈良好きで、大学時代は一週間ほど滞在してあちこち巡ったこともある。当時、明日香村もレンタサイクルでユニークな巨石や古代浪漫を探してまわった。その明日香村にある石舞台古墳。築造は7世紀初めとされ、蘇我馬子の墓という説が有力だ。城と桜、神社仏閣と桜、瀬戸の島々と桜、桜には色んな景色が似合うのだが古墳と桜という組み合わせも私には新鮮で面白かった。その日はあいにく薄曇りであったが、なかなかの趣きだ。近くには聖徳太子の生誕地とされる橘寺や日本最古の仏像を祀った飛鳥寺もある。何度訪れても心癒される場所。飛鳥大仏を拝んだのはこれで三度目だったのだが、初めてその美しさに見惚れてしまった。内から滲み出る慈悲のようなものが感じられたのだ。桜も良かったが、最も心に刻まれたのが飛鳥大仏だったような気がする。帰りには足を延ばして斑鳩の里にも。お目当ては法隆寺ではなく中宮寺の本尊菩薩半跏像(如意輪観世音菩薩)。遠い遠い昔の人たちも向き合った仏様に、しばし包まれた時間だった。
2017.04.14
お練りも三度目となると、場所取りもなかなか巧くなる。金丸座にて明日から始まる、琴平は春の風物詩「こんぴら歌舞伎大芝居」。今日は小雨の中、14時からお練りが行われた。今年の座長は片岡仁左衛門さんということもあり、金刀比羅宮の沿道は多くの人でごった返す。普段からこんぴらさんへと続くこの界隈は独特の趣きがあるのだが、歌舞伎役者の幟が立ち並ぶこの季節、とりわけ情緒あふれる景色となる。特に桜の開花が遅れた今年は、こんぴら歌舞伎と桜の見ごろがちょうど重なり、より一層雰囲気を盛り上げる。お練りはそれらを肌で感じられる上に、役者さん達を間近で見られる最高の機会。ましてや人間国宝の仁左衛門さん。これまで歌舞伎を見たことのない私でさえ、つい足を運びたくなる。その仁左衛門さんが現れた瞬間「お年を召されたな」と思ったが、柔らかく優しいお顔がなんとも心に残って私までもがほんわかした気持ちになった。今回の演目は、仁左衛門さんの得意とする「矢口渡」と「お祭り」。どんな舞台が日本最古の芝居小屋で繰り広げられるのか、実は初めてチケットを入手できた私は今からわくわく楽しみにしている。お練りで見せた表情と舞台に立つ姿と、両方見られるなんて贅沢な話だ。せっかくだから桜を観て帰ろう。お練りの余韻に浸りながら、本宮へと続く参道を登って行く。桜咲くこんぴらさん、雨に滲むこんぴらさん、しっとりとしたいい感じだった。桜はやはり日本の景色に合うのだなあ。優しい雨に濡れる桜も綺麗だなあ。心までがしっとりと、桜の下、雨滲むこんぴらさんはまるで仁左衛門さんの柔らかいお顔のような雰囲気。
2017.04.07
今月頭に京都を訪れた。職場の元施設長との日帰り二人旅。その折、彼女からこんなことを教わった。「朝起きて、一日一回身支度をきちんと整えて外出する、 一日十回は笑う、 一日百文字を書く、 一日千文字を読む、 そして一日一万歩歩くといいようですよ」日ごろスマホやパソコンに触れるようになって全く文字を書かなくなったことを改めて反省した。書かないと書けなくなる。そこで、本を読むときに曖昧に理解している言葉をノートに書きだし、きちんと確認した意味を書き留めることにした。書かないといい加減に解釈している単語のいかに多いことか。今、私は八年ほど前に出版され話題となった時代小説「みおつくし料理帖シリーズ(髙田郁著)」を読んでいる。この5月に黒木華さん主演でドラマ化されるのを知りやっと手にした次第。今月10日過ぎから読み始めたのだが、面白くて次から次へと手が伸びる。全十巻あり、残りは一冊、十巻目のみとなった。料理帖シリーズであるからそこに描かれる料理の品々も心惹かれるし、髙田さんの柔らかく豊かな表現からも学ぶことが多い。このシリーズを読んでいると、毎日感謝して頑張ろうと思えてくる。さて、その中で「生麩」が登場する話がある。京坂では馴染み深いのに江戸では見かけない食材、生麩とは文字通り乾いていない生の麩。「串に刺して、味噌をつけて炙った生麩田楽ほど美味しいものはないですよ。豆腐と違ってもちもちしていて、炙ると焦げ目が」思わず涎が出そうになって、澪は慌てて口を押えた。ちょうど先日、京都は美濃吉本店・竹茂楼で昼食をとった際、口に入れた途端に思わず唸ってしまった一品がその生麩田楽だったことを思い出した。私が初めて生麩を食べたのは、確か四国霊場第87番札所長尾寺で戴いた菜懐石だったと記憶している。その時も麩のイメージを180°変えたその味と舌ざわりに驚いたのだが、さすがは美濃吉、今思い出しても感動が胸に広がる。主人公である澪が自分の進むべき料理人としての道、それがはっきり見えたところで九巻目が終わった。『食は、人の天なり』食は命を繋ぐ最も大切なものだ。ならば料理人として、食べるひとを健やかにする料理をこそ作り続けたい。澪は潤み始めた瞳を凝らして自身の手を見つめる。叶うことなら、この手で食べるひとの心も身体も健やかにする料理をこそ、作り続けたい。この命のある限り。そう、道はひとつきりだ。「食は、人の天なり……」作り手はその一心で料理する。一心で無心。だからいつまでも感動が残るのか。いい本に出合った。
2017.03.30
梅の香りに誘われて、天満宮を訪れた。香川県綾川町、滝宮天満宮。こちらは、菅原道真公が讃岐の国司として四年間住まわれた場所。道真が地方で政権を取った唯一の地なんだとか。此処での経験を活かして後に大出世した由縁で、ここは立身出世の登竜門と云われている。 滝宮→京都→大宰府の順で参拝するといいのだそう。拝殿前には太宰府天満宮より株分けされた「飛び梅」がちょうど満開を迎えていた。白梅のかぐわしい香り。春には桜もいいが、この香りを嗅ぐと背筋がすっと気高い気分になる。毎年、この時節には栗林公園の梅林を訪ねるのだが、今日はこちらに足が向いた。不思議だ。天満宮の梅と思うだけで、一段と凛々しく趣きが違って見える。出世に興味はないけれど、ここ滝宮を参拝した今年はせっかくなので機会があれば京都と大宰府にもと思っている。
2017.02.21
「節分の夜、こんぴらさんで小豆粥の接待があるよ。」そう教えてもらった私は、次の日が仕事だったにもかかわらず、夜のこんぴらさんへ登ることにした。こんぴらさんとはお馴染み、香川県琴平町にある金刀比羅宮のこと。わが家からは20分ほど車を走らせた処にある。地元の方の話では、そのこんぴらさんで年に三回、旧正月の前日と節分の夜、そして大晦日に小豆粥が振る舞われるとのことだ。節分と言えば豆まきや恵方巻、小豆粥といえば小正月なのだろうが、白い息を吐きながら長い石段を登って小豆粥を戴く節分も悪くないと思った。もちろん、こんぴらさんでも豆まきを行う節分祭もあり、それは午後5時より執り行われる。小豆粥の接待は夜の10時からで、それを食すると邪気を除くとされるそうだ。最近のこんぴらさんは奥社参拝を推しているのか、今年から新しい天狗守りが売り出され、「奥社はパワースポット」と書かれたポスターが至る所で目についた。何故天狗なのかというと、奥社の西側は断崖となっており、そこに天狗とカラス天狗の彫物があるからだろう。表参道を行くと、御本宮までは785段、奥社までなら1368段の石段を登らなくてはならない。讃岐に住む私でも、奥社はこれまでに二度しか参拝していない。しかし、小豆粥を頂ける接待所は神馬を飼養している御厩前の広場、だいたい400段目に設置される。先日も表書院で円山応挙の障壁画を観るため430段ほど登ったばかりだったので、それなら貧血ですぐに息が上がる私でもなんとか登れるだろうと思った。午後8時半、こんぴらさんの麓から登り始める。その夜、私と友達2人以外ほとんど人影はなく、暗くひっそりとした石段が続いていた。夜のこんぴらさんは初めてだった。普段の日は、巨大イノシシが出没するため夜間参拝は控えるよう申し渡しされている。「もう200段目くらいかな。」息切れがし、重い足を引き摺りながら顔を上げると「100段目」の文字。なかなかキツイ道のりである。御厩前の広場に近づいて、やっと人の気配を感じ始めた。子供も数人元気に声を出して走り回っている。ゆっくりと登ったので、午後9時頃接待場所に到着した。10時より早い時間であっても小豆粥が出来ていれば早く戴けると聞いていたのだが、その日の接待係は時間厳守の方のようで、それから1時間待たされることとなる。風もなく、厚着のおかげで寒くもない夜だったが、さすがに冬空の下でただ待っているのはつらい。そこで御本宮を参拝しようと決意した。ただの参拝なら決意のいることではないのだが、あと385段の石段がそれを要した。特に最後の100段が苦しい。日ごろの運動不足で息は上がるのに足は上がらない。金毘羅船々 追い手に帆かけて シュラシュシュ・・・自分たちを鼓舞する意味もあって、大きな声で唄う。辺りには誰もいない。廻れば四国は讃州那珂の郡 象頭山金毘羅大権現 いちどまわれば・・・ちょうど785段目のところで唄い終えた。「御本宮、到着ぅ~!」とその時、若い男性が一人、目の前に現れた。かああぁぁぁ。 その場が明るければ、顔面真っ赤っかな私が相手に見えてしまっただろう。「うるさくしてすみません。」「いえいえ、いいですよ。」相手は確かに笑っている。カメラを提げた、爽やかでなかなかイケメン風な男性だった。「奥社まで行かれたのですか?」「ええ、行って来ました。」夜の真っ暗なこんぴらさん、しかもイノシシと遭遇するかもしれない長い石段を1000段以上も登る人がいるのか。しかも一人で。違う意味でドキドキした私たちは、御扉閉していることもあってお参りするのをすっかり忘れてしまっていた。いや、本日の目的は小豆粥。お参りは改めて、その時は奥社にも挑戦したいと密かに誓う。優しい味にお腹の底からしっかり温まった夜である。
2017.02.05
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