陽炎の向こう側             浅井 キラリ

陽炎の向こう側   浅井 キラリ

この空の下で 19




「ただいま。」

「お帰り。テニス、楽しかった?」

「うん。」

母には、翔とテニスに行くと言ってあった。

母は、気づいているのだろうか。

気づいているに違いない。

「翔さんってどんな人?お茶を入れるわ。紅茶のほうがいい?」

「お茶でいい。」

お茶をダイニングテーブルに運んできた母が、彩子の前に座った。

「疲れた?お風呂に入って早く寝なさい。明日、仕事でしょ。」

「はい。」

「ねえ、翔さんって、どんな人なの?」

「別に、普通だわよ。」

「そうじゃなくて、どんなお付き合いなの?」

「お付き合いって、ただ、同じ部でテニスに誘ってくれるだけよ。」

「お付き合いしている訳じゃないの?」

「そんなんじゃないって。」

「だって、もう、大学生じゃないのよ。」

「そうなったら、ちゃんと紹介するから。お風呂に入るね。」

彩子は、これ以上、母親の質問攻めに合うのは嫌だったので、お風呂に逃げ込んだ。


何か違う自分


湯船の中に、深く体を沈めた。

『何か違うみたい。わたし、どうなちゃったんだろう。』

ふわっとする。

翔のことを考えると胸がドキドキする。

そして、何かずっしり重たいものが胸の中に入っているみたい。

『一体、何なの?まるでこれじゃ初恋の中学生じゃない。私って何も知らなかったの?』

海綿にボディー・ソープをつけ、泡立てて体を洗った。

指先。

肩。

『そうだ、さっき翔さんが触れた肩。』

なぜか涙が出てきた。

シャワーを頭からかけた。

胸のときめきが止まらない。


初めての約束


お風呂から出て、部屋で髪を乾かしていると、階下から母の声がした。

「彩子、電話よ。」

「だれから?」

「川村さんよ。」

「え、そう」

「もしもし、彩子です。」

「今日は、お疲れ。足とか痛くなってない?結構、走らせちゃったからね。お友達も楽しめたかな?」

「とても、楽しかったって言ってました。帰りに食事して帰りました。翔さんは?」

「あれから、先輩らと飲みに行って今、帰ってきたところ。遅くに電話して大丈夫だったかな?さっき、お母さん出たでしょ?悪い印象与えてないかな?」

「まだ、10時でしょ?平気ですよ。」

「今度、二人で映画か美術館にでも行かない?どこがいいかな?」

「翔さん、そういえば、アクリル画を描いているって言ってましたよね。」

「大学時代からちょっと。でも、下手のなんとやらだけど。仕事詰まっている時、かえって描きたくなるんだよね。夜中に、カンバスに向かって、無心になると、疲れが不思議ととれるんだ。」

「へえ。見てみたいな。翔さんの作品。」

「見せられるようなものはないな。恥ずかしいよ。じゃあ、美術館にでも行く?」

「いいですね。私も、美術館巡り好きですから。」

「今、近代美術館で東山魁夷展やっているんだけど。どう?」

「いきます!」

「来週は、休出しなくちゃならないから、再来週ね。また、連絡するよ。」

「待ってます。」

「じゃあ、お休み。先に、切って。」

「はい。お休みなさい。」


眠れぬ夜


「長い電話だったわね。楽しそうだったし。」

「聞き耳たててたの?嫌だな~。」

「母親として、心配しているのよ。」

「お父さんには言わないでよ。」

「わかっているわ。」

「もう寝るから。お休みなさい。」

「お休みなさい。」

部屋に戻り、ドレッサーの前に座り、髪を乾かし、化粧水をコットンにとって顔に当てた。

『ふ~。スッキリした。』

「再来週。」

「美術館へ二人で。」

彩子は、体をベッドに投げ出した。

天井を見た。

そこに翔の笑顔が見えた。

明かりを消して、ベッドに入ったけれど、眠れない。

翔のことが頭から離れない。


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