陽炎の向こう側             浅井 キラリ

陽炎の向こう側   浅井 キラリ

この空の下で 55




翌週の水曜日の夜、祐子は特別な許可をもらって外出した。

ホテルニューオオタニのラウンジへ。

タクシーで出掛けた。

6時半少し前に着いた。

外は真っ暗。

窓際の席に通された。

窓に映る自分の姿を見た。

妊娠6ヶ月の妊婦。

命が危ぶまれている人間には見えない。

彩子は、ミルクティーを口に運んだ。

『翔さん、来てくれるかしら。』

胸がドキドキして、鼓動が自分にも聞こえてきた。

7時を過ぎた頃、携帯電話が鳴った。

公衆電話からだった。

『翔さんからだわ。』

「もしもし。」

「川村です。お久しぶり。何年ぶりかな。手紙、読みました。突然で、驚いてしまったけれど、何かあったの?」

「別に。ただ、お手紙に書いたとおり、急に思い出して、お会いしたくなったの。それだけです。」

「そう、僕としては、会わない方がいいと思うんだ。もう何年もたって、お互い変わっているだろうし、それぞれ違ったところで過ごした時間の方が長いでしょ。もう、会わない方がいいと思うんだ。」

「どうしても、だめですか?一度だけ。」

「思い出をそっとしておきたいんだ。いい思い出として。会わない方がいいよ。君ももう結婚しているんでしょ?僕も結婚したよ。別々の生活をしているんだ。あの頃、君のこと、本当に好きだったよ。でも、今は、二人とも別々の人と人生を送っているんだ。会わない方がいい。悪いけれど、それだけ言いたくて電話したんだ。」

「・・・・・。」

「大丈夫?」

「大丈夫です。」

「じゃあ、切るね。」

「・・・・・・。」

ツーツーという電話が切れた音が彩子の耳に届いた。

涙が溢れてきた。

暗い窓ガラスを見つめた。

『私、何をしているんだろう。バカみたい。何を期待していたんだろう。こうなるのって分かっていたはずよ。』

涙を拭いて、会計を済ませて、ホテルの外へ出た。


会いたい


坂道を歩きながら、彩子は、祐子に電話した。

「祐子?今、大丈夫?」

「大丈夫だよ。どうした?」

「私ってバカみたい。」

「どうしたの?今から、そっち行くよ。」

「もう、ずっと前に終わったのに。」

「ねえ、今すぐ行くから。いいね。」

彩子は、タクシーで病院へ戻った。

暗いロビーの長いすに腰掛けていた。

そこへ祐子が走って入ってきた。

彩子の体は以前に比べ、弱々しく見えた。

祐子は、彩子に駆け寄って行った。

うつむいていた彩子が顔を上げ、涙を溜めた目で祐子を見た。

「祐子。ごめん。」

「何言ってるの。友達じゃない。いつもお互いそうしてきたじゃない。彼に会ってきたんでしょ?」

「えっ?」

「ごめん、この間、来た時、手紙、見ちゃったんだ。見ようと思ってみたんじゃないの。目がいっただけだよ。それで、会って来たの?」

「うぅん。電話がかかってきて、会えないって。私、バカだよね。本当にバカだよね。当たり前じゃない。もうずっと前に終わっているんだもの。バカだよね、私って。」

「そんなことないって。今、心が不安定なだけだよ。あんたが妊娠していて、病気だってこと、彼には教えてないんでしょ?」

「だって、言えないよ。そんなこと。それで、会ってなんて。」

「言えば、会ってくれるかも知れないじゃない。会いたいんでしょ?」

「でも、そんなことしたら、私、隆を裏切ることになるわよね。黎に対しても。一生懸命、私を支えてくれている隆に申し訳ないと思っているの。胸が痛むの。でも、何でか分からないけれど、翔さんに会いたい。祐子、私、間違っているよね。」

「正しいとか、間違っているとかそういうことじゃないと思う。あんたは、翔さんに会いたい、それだけじゃない。素直になっていいんじゃないの?」

「私、彼のこと忘れてなかった。分かったの。自分が死ぬかもしれないと思った時、今でも、怖いの。本当は。彼のことで胸がいっぱいになって、耐えられなくなっちゃったの。隆に出会って、彼が優しくて、私も彼のことを愛するようになって幸せだった。今でも、彼と結婚して幸せだと思っているわ。結婚するのは、隆だったって思っているの。でも、やっぱり、私、忘れていなかったの。どうしたらいいの。」

「彩子が思っている通りにすればいいじゃない。会えばいいじゃない。本当のこと話して。あんたが言えないなら、私が言ってあげる。」

「彼、どう思うかしら。今さら、会ってくれるわけないと思っていた通りだった。そうよね。もう、10年以上も昔のことよ。彼も結婚して家庭もある。会ってくれるわけないのよ。」

「だから、私が話してみるから。」

「うぅうん。病気のことは知らせたくない。」

「彩子。」

彩子は、祐子にすがって泣いた。

子供のように。

祐子には彩子の気持ちが痛いほど分かった。

好きで好きで、それでも別れを選んだ彩子の気持ちを知っていたから。

自分の命を見つめなければならない病気になり、翔に会いたくなった彩子の気持ちが祐子にも辛かった。

祐子も泣いた。

祐子は、こんなに怯えている彩子を支えてあげられない自分が情けなかった。


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