陽炎の向こう側             浅井 キラリ

陽炎の向こう側   浅井 キラリ

この空の下で 57




祐子が帰った後、彩子は、窓から外を見た。

「翼。」

もうすっかり、日差しは春。

空も柔らかい青い空。

彩子は、散歩に出た。

『もう妊娠7ヶ月を過ぎれば生まれてくることのことで頭の中は一杯のはずよね。でも、私の頭の中は、翔さんのことで一杯。何て身勝手な母親なんだろう。ごめんね、翼。ママ、彼のことは忘れる。忘れるわ。あなたと、パパと、あなたのお姉ちゃんのことだけを考えていくわ。』

散歩をしていると、近くのテニスコートの脇に出た。

彩子は、やはり、10年以上昔、翔と初めてテニスに誘われて行った時のことを思い出していた。

どうしても、記憶が13年前のあの頃に飛んでいってしまう。

桜がチラチラ舞い始めている並木を歩いていく。

途中にある、オープンカフェに入った。

彩子の腕には、病院名と氏名と診察券番号が書かれた帯状のものが巻かれていた。

アイスレモンティを頼んだ。

ぼーっと行き交う人たちを見ていた。

何となく自分のいる世界と違う世界を生きている人たちに見えた。

自分も向こう側の人だったはず。

でも、今は違う。

それは、彩子が今まさに『命』と向き合っているからかもしれない。

見るもの触るもの読むもの、回りの全てのものに対して深い愛着を感じるのだった。

カフェを出て、歩き出したと思ったら、急に、地面が揺れて見えた。

『あれ、どうしたんだろう。地面が揺れている?私の体が揺れているの?』

思わず、そこにしゃがみ込んでしまった。

立つことができなかった。

通りすがりの30代の女性が携帯電話で、救急車を呼んでくれた。

5分ほどで、救急車が来た。

その間、その女性はずっと彩子に付き添っていてくれた。

多分、仕事の途中だったろうに。

お礼も言えず、彩子は、そのまま、救急車の中へ運ばれた。

そして、入院先の病院へ搬送された。






血圧が極度に下がっていた。

丁度、お見舞いに来た彩子の両親が病室にいた。

彩子は、処置室で血圧を上げる点滴を打っていた。

彩子の両親が医師に呼ばれた。

「少し、予定より早めですが、胎児を外へ出した方がいいかもしれません。母体に負担がかかってきているようです。病気の治療をしていく上で、体力も必要となってきます。これ以上、胎児を中で育てていくのは限界でしょう。」

「あの、彩子は、娘は大丈夫なんでしょうか。」

「今のところ転移している様子は見あたりません。ですが、安心はできません。この間の手術で全部取り出せたとは思いますが、万一と言うこともあります。」

彩子の母親の顔がこわばってきた。

「ご主人様にご連絡下さい。出産の時期が早まることを。手術日程が空き次第、出産と言うことにしたいと思います。お嬢さんには、私の方から説明いたします。」

医師が、部屋を出て行った後、彩子の母親は、手で顔を覆った。

父親がそっと肩に手を当てた。

「信じよう。」


命の交差点


「隆、私の出産、早まったの。来週の月曜日になったわ。私の体調がよくなくなってきて、胎児の環境もそれではよくないからって。」

「急だな。大丈夫?試験も明後日で終わるから、スケジュール的に帰れなくないな。チケットが取れたら帰るよ。」

「大丈夫だって。」

「こっちが心配でたまらないよ。」

隆は、チケットが取れたことを連絡してきた。

隆は、黎の時も、彩子の出産に立ち会った。

黎の時と違って、彩子のことが心配だったのだ。

心の支えは、多くあった方がいい。

彩子も隆の帰国を本当は、嬉しく思っていた。

翔に会いたいと、二度の手紙を送ったが、「美しい思い出をそっとしておきたい。」と言う翔だった。

しかし、彩子の思いは、つのるばかりだった。

でも、翔の思いを受け入れ、翔への想いを再び心の中に閉じこめるしか彩子にはどうすることも出来なかった。

毎日、心は重しをつけているようだった。

新しい命の誕生と自分の命の危機を受け止めるには、今の彩子は、精神的に弱くなっていた。


「先日のMRIの検査で、肺への転移が疑われる結果が出ました。手術前に、すでに転移していたと思われます。」

彩子の父は、主治医に呼ばれ、病院に来ていた。

「それで、娘はどうなるのでしょうか?」

「とにかく、出産が先です。化学治療を続けます。」

彩子の父は、それ以上のことが聞けなかった。

そして、このまま彩子の病室へ行くことも出来なかった。

地下の自動販売機で缶コーヒーを買って外に出た。


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