陽炎の向こう側             浅井 キラリ

陽炎の向こう側   浅井 キラリ

優しく抱きしめて 1



「おはよう。今日も元気だね。」

「気持ちだけ。納期が目の前で、どうにかなりそうなんだから~。」

「そうなんだ。カラ元気ってやつか。」

「はっきり言うわね。まあ、いいわ。その通りなんだし。」

「今、何やっているんだっけ?」

「留学生の実態調査。アンケート集計とそれから、コメントから実態を浮き彫りにすると言うことかな~。報告書がもう少しで上がるところなんだ~。」

「そうか、頑張れよ。」

「サンキュー。手伝ってくれたらもっとサンキューなんだけどナ。おごっちゃうけど。」

「おごってもらいたいけど、こっちも手一杯なんだよなぁ。嵐が去ったら飲みにでも行こうな。」

「はあ~い。それを楽しみに、えんやこーら、頑張るわ。」

村沢美奈は、大学院の経営工学科を出て、銀行系のシンクタンクに勤める28歳。

仕事歴、5年目で漸く、自分の仕事にも自信を持てるようになってきた。そして、案件を任されるようになり、仕事にどっぷり浸かる毎日を送っていた。

田中誠二は、同期で同じ部署に配属されている。入社当時から二人はというか、美奈は、誠二の励ましに支えられてきているところがある。

美奈は、親元から通勤する一人娘。意地っ張りな所があるが、まっすぐな、ちょっと成熟度が足りない28歳だった。

直球は、投げられるが、カーブやスライダーを投げられるような器用さはなかった。

「はあ~。」

コンピュータを前に、美奈がため息をつく。

「あんまり、デカイため息つくなよ。周りに丸聞こえだぞ。後輩にバカにされちまうぞ。」

「そんな、大きなため息だった~?きゃあ。そういう、田中君はどうなのよ?」

「俺?バッチリに決まっているじゃん。明後日、プレゼン。」

「そうなんだ。ガンバってね。私は、まだ、報告書の段階だからね。飲みに行くのは、先だね。」

「まあ、いつでも付き合ってやるさ。行き詰まって、やけ酒でもいいぞ~。」

「まったく~!あっちに行ってよ。」

「せっかく、自腹払ってコーヒー買ってきてやったのに、その態度かよ。」

「ごめん。コーヒーもらうわ。ありがとう。」

「頑張れよ。」

「ありがとう~。素直でしょ~。」

いつもこんな会話を交わす二人だった。

美奈は、誠二が買ってくれたコーヒーを一口、口に含み、コンピュータの画面に向かった。

次の仕事に繋げるには、一つ一つの仕事を着実に、そして上司やクライアントの期待以上のパフォーマンスを出していかなければならない。

美奈は、そのプレッシャーを楽しみながら、仕事をしていた。この仕事が、自分の探求心の深さを満足させてくれると思っていた。

美奈の友人のなかで、大学院まで行ったのは、美奈だけだった。皆、キャリア志向だったが、メーカーや広告代理店などに就職していた。

美奈の周りでは、銀行など金融系は避けられていた。リスクを負わない仕事は、面白みがないと敬遠されがちだった。

美奈は、ここ1週間は、毎日、12時を回るまで職場のコンピューターに向かっていた。美奈の勤めるシンクタンクの規則で資料を自宅に持って帰れないことになっているのだ。自宅に資料を持って帰れるのなら、自分の部屋でのんびり、好きな音楽でもかけながら仕事をしたいのにと思っていた。

「よう、夕飯に行かないか?」

誠二が、声を掛けてきた。

「お前、目が充血しているぞ。たまには休めよ。」

「えっ、そう?」

「潰れるぞ。お前には、ストッパー機能がついていないんだな~。大人は、ちゃんと自分をマネージメントできなきゃな。いい年して、そんなことも学習してきていないんだからな。人様の会社のリスクマネージメントなんていう案件は、お前には無理だな。」

「悪かったわね。」

「子供は、直ぐそうやって直ぐ怒る。」

「子供ですって!私は、立派な大人よ。出るところは出ているし、くびれるところはちゃんとくびれているわよ。Cカップくらいあるわよ。」

「バーか。」

「ハハハっ~、赤い顔して、どっちが子供よ。」

「メシ行くのかよ。」

「おごってくれるの~?私、カツ丼食べたい!」

「全く、もっと可愛らしいこと言えないのかね~?”カルボナーラがいいわ”とか。お前には、かなわないよ。」

いつもの調子で、やり合い、二人は、部屋を出て行った。

美奈と誠二は、会社を出て、この界隈ではちょっと有名なとんかつ屋さんへ行った。

最近、丸の内界隈も随分と変わった。新しいビルが次々と建ち並び、再開発が進んでいる。
昔ながらのビルもそれはそれで趣があったので何となく、新しいビルに建て替えられていく姿を見て少し残念に感じられるところもある。

以前から、丸の内の通りには、オシャレなブティックやレストランがビルの一階部分に入り、ただのビジネス街から雰囲気が柔らかくなっていた。

二人は、大手町にある、とんかつ屋さんで夕食を済ませ、誠二は大学時代の友人と飲みに行くと言って、美奈を会社の入っているビルまで送って、二人は、そこで別れた。

「体、壊すから、お前も早く帰れよ。それと、気を付けてな。」

「ありがとう。田中君も、お酒に飲まれないようにね。女の子も来るの?食べられちゃわないようにね。」

「失礼なヤツだな。今日は、野郎だけだよ。」

「じゃあね。ごちそうさま~。」

「じゃあな。今度、おごれよな。」

美奈は、自販機でコーヒーを買って、デスクに戻った。

8時ちょっと前。

まだまだ、多くの研究員が、コンピュータに向かっていた。

「美奈~、どう?ちょっとお邪魔しに来たの。」

「涼子。まだ残っていたの?そっちも忙しそうね。」

「そうなの。上司に、仕事丸投げされちゃって。ヤツは、とっくに姿消しちゃっているのよ~。まっ、その方が、気楽だけど。でも、私が作った報告書を見せると、ポストイットを思いっきり着けて返してくるのよね~。何のサジェスチョンもなく。ケチはつけども何もせず~。」

「よくいるパターンのオヤジだね、川上さんは。」

「しっ!そんな大きな声で実名はなしだよ~。Kとか言ってよ。」

「ゴメ~ン。地声が大きくって。今日、二度目だわ。その注意。」

涼子も美奈の同期で、某有名国立女子大出身だった。

でも、一見、派手目なので、キャリアでこんな堅い仕事をしているようには見られない。休日に一緒にウィンドウショッピングに表参道を歩いていても、声を掛けられるのはいつも涼子の方で、美奈は、涼子のオーラの陰に隠れている。

涼子は、自分の学歴や職業を鼻に掛けると言うことが全くない。美奈もないが、その美奈から見ても涼子のその”自然流”は、あっぱれに思えた。

「もう、ご飯食べちゃった?」

「あっ、ゴメン、さっき田中君と食べて来ちゃった。」

「そうなんだ。じゃあ、今日は、帰ろうかな。田中君って、美奈のナイトだよね。」

「な、な、何それ、ただのグチの吐きだめ。」

「わっ、そんなこと言っちゃっていいの?」

「えっ、ちょっと言い過ぎかな~。そうそう、いい相談相手よ。」

「ふ~ん。」

「何よ、その意味ありげな、”ふ~ん”は?」

「別に~。じゃあ、今日は、お先に失礼するね。それが終わったら、どこか、美味しいものを食べに行こうね。」

「そうだね。そっちも、Kにぎゃふんと言わせてやるような報告書作ってね。」

美奈は、時間が経つのも忘れて、報告書の作成に取りかかっていた。

資料のコピーをし、トイレに行って、自分の部署に戻ろうとした時、部長の山形に声を掛けられた。

「村沢君、頑張っているね。今度の仕事、順調?」

「あ、部長、はい。」

「もう、今年で、5年目だっけ。一人前になってきたって、川原君から聞いているよ。」

「室長が?ありがとございます。」

美奈は、12時前に部屋を出た。まだ、途中まで帰る電車は走っているが、母親から、タクシーで帰るように言われているので、会社の前の大通りでタクシーを拾った。


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