陽炎の向こう側             浅井 キラリ

陽炎の向こう側   浅井 キラリ

優しく抱きしめて 35



「運転手さん、すみませんが、病院に戻って下さい。」

美奈は、思わず運転手に告げていた。

タクシーは、大学病院の正面入り口前に着いていた。

美奈は、タクシーから降りると、フラツキながら精神科へ向かった。

『森口先生は、もういらっしゃらないかしら?』

精神科も待合室に入ったが、がらんとしていた。

一番奥にある窓から、初夏の日差しが入っているのが美奈の目に入った。

物音一つしなかった。

『もう帰られちゃったのね。会いたい。』

美奈は、精神科の待合室を出て玄関に向かおうとした。

その時、後ろから、声がした。

「何かご用ですか?」

そこには、早川がいた。

「いいえ。失礼します。」

「確か、森口先生の患者さんですよね。」

「はい。そうですけれど。」

「森口先生は、もう、ここにはいらっしゃいません。何か森口先生にご用があったのではないですか?」

「ええ、でも、次の診察の時にお話します。失礼します。」

早川は、美奈の後ろ姿を見送った。

「おい、森口、今、精神科の待合室に彼女戻ってきていたぞ。」

入院病棟のナースステーションに行った早川は、そこにいた森口に言った。

「彼女って、村沢さん?まだいるのか?」

「いいや、帰った。」

「お前の不注意な行動が彼女を戻らせたんだぞ。いいか、担当を変われ。これ以上、彼女をお前が関わると彼女は、より深くお前に傾倒していってしまう。戻れないところまでいってしまう恐れがある。お前だってそうだ。」

「今、彼女を放り出すわけにはいかない。漸く、安心できる所を見つけたんだ。今日みたいなことはしない。今、この安心感を取り上げたら、よくなってきた病状が悪化してしまう。」

「一時的に不安定になるかもしれない。でも、また新たな医師から安心感を得られればよくなっていける。彼女より、おまえの方が問題なんだ。」

「俺は大丈夫だ。ちゃんと、冷静に彼女を患者として見ている。心配するな。もう、その話は終わりだ。」

森口は、カルテを持って、ナースステーションを出て行った。

美奈は、タクシーに乗った。

途中、先日、父親と一緒にランチをしたカフェに行った。

テラスの席に通された。

「もしもし、ママ?私。お昼、食べて帰るから。うん、大丈夫。タクシーで帰るから。」

『森口先生に会いたかった。』


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