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今日で今年度の教会学校もおしまいです。6年生にとっては、高学年クラス最後の日となりました。記念に、みんなで写真を撮りました。6年生は、来週から中高生クラスへ、そして今は低学年クラスにいる3年生が、新4年生として来週から我らが高学年に移動することになります。
2006年03月26日
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今日から、夫婦で信仰生活を深めるための集会が始まりました。ポール・スティーブンスの「結婚の霊性」という本をテキストとして読み進めます。目次 序 旅を始める : 神を愛する夫婦のための10の訓練準則 第1章 祈り : 特別な親しさを共有する 第2章 会話 : 心を聴く 第3章 安息 : 天国で一緒に遊ぶ 第4章 リトリート : 一人になることを共有する 第5章 学び : 神が語られるのを聴く 第6章 奉仕 : すべての面での完全な共同奉仕 第7章 セックス断ち: 誰もが望まない訓練準則 第8章 服従 : 一緒に神のみこころを行う 第9章 告白 : 赦しの外科手術 第10章 互いの服従 : 呪いを逆転させる 結婚によって霊的生活が乱されると感じることはよくあることだ。キリストにある友人としては、結婚する前の方がよい関係にあったと思っている人は結構、多い。結婚するということは、私たちのプライバシーが侵害されるということ。私とは別のもう一人の罪人と危険なほど身近に生活するということ。そして私を愛すると言い張るが、本当はどう愛するかよいかは知らない誰かさんにじゃまされるということ。霊性に関する書物は多い。結婚についての本はさらに多い。本書はその二つを結びつけていっしょに扱う。結婚そのものが神に至るための比類のないすばらしい小道だからだ。不幸なことに観想の世界について文章を書く人たちは、すべての人が修道僧であるかのように、この世から身を引き、彼らが「神ご自身の霊的な結婚」と呼んでいる世界を楽しむように、独身で生きる道を探る。しかし、私たちは、ここで、それとは別の旅路をたどろうと思う。結婚を通して、神に近づく可能性を探ってみたいと思う。霊的な友を選ぶ場合、全く知らない人を選ぶ方が、むしろ気が楽だ。クリスチャンの会議の参加者どうしといった場合の方が気楽につきあえる。会議が開かれるホテルの異国風の熱い風呂に一緒に入るような関係になっても、会議が終わるともう二度と会うことはないだろうからだ。また、友人に霊的な友となってくれと頼むほうがまだやさしい。友だちというものは、お互い、いろいろなレベルで知りあっていて、だますのは難しい。しかし彼があまりにも強く迫ってくる時には友情に終止符を打つこともできる。しかし、妻を霊の友として選ぶということは、離れることを許されない。こんな書き出しの、確かに、直面するにはしんどいことに切り込む内容の本がテキストです。今日は、この本を利用することの目的の説明の後、序章に関しての簡単な解説がありました。夫婦が霊的な友として歩むことを妨げる要素として6つが列挙されます。 1 あまりにも多くのしなければならない予定 2 親しすぎる(近すぎる)ことからくる問題 3 関わりの中で、お互いの罪と赦しの歴史をひきづっている 4 背後のかまどで煮えたぎっているまだ解決されていない問題を抱えていること 5 古傷が開かれるのを恐れることから来る、親しくなることに対する恐れ 6 結婚がもつ複雑な構造 ー 聖書が示す秩序と、実は家庭が夫と妻が主権を争う政治的闘技場となりさがっている実態3~6は、うすうすは感じていた、まさにその通りのことです。6番は、まったく気にも留めていなかったけれど、指摘されて初めて気づいた切り口でした。また、日常生活の中、その中でも結婚生活において霊性を育むことが重要なテーマです。教会や集会などの特別な時間、や祈り・デボーションの時間も大切ですが、日常生活がなおざりにされてはいけません。この本を通じてポール・スティーブンスが一貫して語ることは、結婚生活それ自体が「聖礼典を行う場」ということのようです。 私は、明らかに聖なるところだと見えるところに神を求めるよりも、自分の家庭の内に神をたずね求めるようにお勧めしたい。結婚それ自体が霊的に新しくされるための源泉なのだ。結婚関係においては、霊的生活の三つの賜物、すなわち養いと癒しと、そして成長とを経験できる。霊的更新運動は、霊的更新と結婚を結びつけようとするが、クリスチャンの結婚それ自体が霊的更新の源泉だとはほとんど認めていない。成熟に至るのを助けるまっすぐな神の道であり、極めて地上的な状況を通して与えられる霊的な恵みの手段結婚は、クリスチャンの人格を形成するための学校となる。まさに地上的であり、同時に天上的な学校だ。それは神を見出す場である。結婚は人間的で、地上的、肉的で傷つきやすく、痛みがあり、煩わしく、明らかに難しいものである。そういうところで神が特にご自身をあらわしてくださるのだ。しかし、神はまた、浮き立つばかりの喜びの中でも、深い交わりの瞬間にも、ご自身をあらわし、その瞬間を深め、満たしてくださる。ドロレス・レッキーは、私たちが共に営む生活の中で最も地上的な部分である性交こそが真に聖なる営みだということを示唆している。「聖餐の聖礼典において、私たちは聖なるパンを食し、ぶどう酒を飲む。霊的な養いの行為である。結婚においては、性交が第一の(確かに唯一のというわけではないが)聖礼典の儀式である。それは公に誓約が宣言された期間から始まったお互い仕え合う奉仕の広がりであり成就なのである。」 すべてのクリスチャンは、それぞれの配偶者のための祭司のつとめに、神によって任じられているのである。後半は、司会者のリードで、参加者それぞれが結婚に導かれるまでを思いめぐらす時を持ちました。何か、神さまが備えて下さっていた資質や出来事、事件などがなかったかなどなど。その時々にリアルタイムで感じていた直接的な導きもあれば、結婚ずっと以前に体験していた出来事などが、結婚への間接的な呼び水のような役割をしていたことに、後から気づかされることもたくさんあるというのです。思いめぐらしの後、それぞれが分かち合います。自分の場合、結婚に至るいきさつを考えた時、明確な確信とか、祈り込んで決断するという過程がありませんでした。(ということを表現しようとすると、確信がなかったのに?なんて言われそうで、ちょっと恥ずかしいような気分がして、なかなか表に出せないのですが、その思いがどこから来るかは、また別の問題なので、置いてといて^^)ひと言で言ってしまえば、タイミングと勢いでしょうか、いわゆる信仰感情の表層に見えてくるものとは違うものでしたが、それさえも、神さまは用いて下さって、二人を結びつけて下さった、という思いがしました。そのことを話したことで、妻の中にも、安心が与えられたような気がしました。夫婦関係だけでなく、直面を避けていたことがたくさんあることを思わされます。(どちらかというと、引きこもり系なもので^^)避けるということは、単なる先送りではなく、かえって問題をこじらせ、悪化させる結果につながることも思わされています。同時に、かつて、直面したことによってよくない結果があった記憶がすりこまれていることも感じます。失敗経験というものですね。かといって、むやみやたらに直面・対決すればいいということでもありません。いいえ、これは、何事中庸という意味ではありません。ただ、キリストを信じる者にとっては、主が、実際に、具体的に導いてくださる時があるので、それに応じていくということです。人の力で、思いで、ことを起こして、時にうまく行ったように見えることもあるかもしれませんが、それは結果に一喜一憂するだけのことです。しかし、本当に主の時と方法と力を待ち望む時に与えられる解決は、一つ一つの出来事の見かけの成否に関わらず、確実なのです。一見、悪い状態がもっとひどくなったすることもあるかもしれません。しかし、主の御手にある時に、その出来事を通して苦しむことで、内面が大きく取り扱われているからです。また、今の時期に、この集会がもたれること、この本を読むことができること、それぞれが「時」であったと二つの意味で思えるのです。一つは、問題点が浮き彫りにされ始めているというタイミングであるということです。もう一つは、あくまで、主が第一であることをはっきりと覚えることができる状態にまで導かれているということです。神さまとの交わりが深められている結果として、そういうことを認識することができるのですが、以前であれば、知らず知らずに、本や人の意見を、聖書以上に従ったり、受け入れたり、崇拝したりしていたことでしょう。神さまが与えてくださるタイミングはすべてすばらしいです~。 主を崇めます~! ハレルヤ感謝~!
2006年03月25日
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子ども3人とも、近所で書道を教えてもらっているのですが、次女ちゃんが出品したものが特選に選ばれたそうです。作品と共に、顔写真を月刊誌に載せるための写真がほしいということで、撮影しました。いい笑顔です。 ちょっとはにかんでますね。
2006年03月23日
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VIPアルパインローズ・ビレッジでの1泊を終え、帰路につきました。宿のフロントにパンフレットが置いてあった篠山チルドレン・ミュージアム(通称・チルミュー)に立ち寄ってみます。宿を出て、約10分、山を一つ越えたところにありました。実は、あまり期待しないで来てみたのですが・・・。 駐車場と正門大人のチケット館内の案内図 山というか丘のふもとにあります。屋外にはシャボン玉ゾーン。 長男くん、はまりました。スタンプラリー。 施設内のあちらこちら設置されていている10個のスタンプを、地図をたよりに探します。どうやら、この施設、廃校となった中学校の建物を再利用しているようです。木造平屋の建物が、いい感じですね。さて、中ものぞいてみましょう。子どもグラフィティ棟 案内図 くるくるステーション。 ゲームや工作の用紙が、回転寿司のようにまわっていて、好きなものを選んで遊べるんです。 保健室コーナー。 身長・体重・視力を測ります。 どっきり通知表コーナー「いつもつけられてばかりでつまんない! たまにはだれかの通知表、つけてみたいよ~ なんて思ったことない?ここでは、きみが通知表をつける人。 友だちや先生や家族の通知表を作って、みんなをどっきりさせちゃおう!」スタンプは「たいへんよくできました」などの他に「グレートです」「まあまあです」「ナイスです」なんていうのも!渡り廊下で、みんなのスナップ校舎は木造。窓も木枠の昔ながらのつくりです。中学・高校と、鍵はねじ式のこんな窓でした。窓ふきしたこと、立て付けが悪く、冬に登校すると、窓のすき間から入った雪が机に積もっていたこと、なんかを思い出しました。なんとなく、こんな窓がなつかしいなぁ。ちょっとしたタイムスリップです。お昼ご飯も施設の中ですませ、2時半過ぎにチルミューを後にしました。チルミュー前の国道173号線をひたすら南下。1時間ほどで、昨日降りた阪神高速の川西小花に到着。そこから家まで40分弱、合計1時間半ちょっとで、家についてしまいました。帰りは、阪神高速の700円だけ。 何だか篠山がとっても近く感じられました。子どもたちも、今回の旅がとっても楽しかったようで、また行きたい、行きたいと言っています。6月頃には、蛍の群舞を見られるスポットが近くにあるそうで、VIPアルパイン・ビレッジでは楽天トラベルで宿泊プランを用意していました。川遊びもできるようなので、機会をつくってまた行きたいものです。
2006年03月21日
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東条湖おもちゃ王国を後にして向かうは、今日の宿泊地である VIPアルパインローズ・ビレッジ。楽天トラベルで見つけました。選んだ理由は、東条湖から近いと思ったことと、きれいな割に手頃感のある価格設定だったこと。1泊2食で大人7600円、子どもは小学生以下は半額=3800円、幼稚園児までは添い寝なら宿泊代無料なのです。丹波篠山までは確かに30分ちょっとで着いたのですが、市街地からさらに奥に20分ほど入ったところにあったので、おもちゃ王国からは1時間弱かかってしまいました。 ひっそりとした山あいの集落に、おしゃれなうすピンク色の大きな建物が。フロントでチェックインし、部屋に向かいます。4階の10畳和室でした。きれいで清潔なお部屋でした。大浴場も備えてあるのですが、ホテルから徒歩2分のところにある草山温泉「観音湯」への入浴券も宿泊費に含まれているので、さっそく汗を流しに行きます。 無人野菜販売所の向こうに見えるのが観音湯。 鉄のさびたような渋い色のお湯でした。観音湯は、徒歩2分のうたい文句に偽りなく、ホテルの真向かい(ほんのちょっと斜め向かい)にありました。さびた鉄の色のお湯の、味わいのある温泉です。さすがに、いま流行のスーパー銭湯には負けますが、きれいに整備された温泉ながら、いわゆる商業主義は感じられず、何となく、また生きたくなるような温泉でした。夕食は7時から。1階のレストランでいただきます。和食中心で、なかなかおいしい夕食でした。お刺身はもちろんですが、お漬け物やごま豆腐?なんかもうまうま。 夕食後は卓球をして過ごしました。研修室のひとつに卓球台が設置されていました。1時間くらい、遊びました。さて、卓球セットを借りようとフロントに立ち寄ったのですが、カウンターの端の方にいろんな観光地のパンフレットが置いてある中にVIPクラブのパンフレットが! あれれ???フロントに人に話を聞くと、VIPクラブ関連の施設だそうで。びっくりびっくり。そういえば、エレベータの中には星野富弘さんの絵が飾ってあるし、横の壁には「愛神愛人」の書まで飾ってある。いやぁ、これにはびっくりびっくり。卓球を終え、部屋に戻るとちょうど9時。(というか西遊記の最終回が始まる9時に間に合うように戻ってきた。)ふとんにもぐりながら、11時前まで、子どもたちと西遊記を楽しみ、それから寝ました。一晩あけて、早速朝食をいただきます。 子どもの食事も、しっかりしたものでした。朝食後、宿舎の方が、何人か交代で、広大なアルパインローズ・ビレッジの施設を案内して下さいました。まず連れて行ってもらったのは、本格的なプール。競泳用のふつうのプールの建物の奥に、もう一つ建物があり、そこには跳び込み用のプールがありました。高さは10メートル、深さ4メートルとのこと。歩きながら、この建物を所有するまでに至るいきさつを話して下さいました。もともとはお寺関係の団体が、研修所目的で建てたものとのこと。ごく近所にある観音や、H徳学園(だったかな?)とも関連のあるところだったそう。ところが、数年前にその施設は閉鎖。 買い取り手を探したそうなのですが、引き受け手がまったくいないまま、解体されるしかないという結論に達しようとする頃、最後に地元で何とか存続できないか、という話になり、最後の最後にVIP関連のところにまで話が来た。 相手方は、本来、仏教系。キリスト教関連のところと接点があるはずもないのですが、不思議とまわってきたのだそうです。宿泊施設として2年前にオープン。そして、施設を運営するに当たっての一番の根幹が、「いのちのゴミ教会」なのだそうです。この場所があるからこそ、施設を運営している意味があるとさえおっしゃっていました。施設を案内して下さったうちの一人の姉妹の娘さんがオーナーなのだそうですが、クリスチャン家庭に育ったものの、離婚など、いろんな苦しみ・悲しみに出会う中で、既存の教会では処しきれない部分を、少しでもカバーしたいとの思いで、こんな教会を思い立ったのだそうです。部屋の後ろには、紙と鉛筆が置いてあります。そこに、自分の痛み・苦しみなどを書き記すのだそうです。講壇正面には、シュレッダーが設置されていて、苦悩を書き込んだ紙を切り刻むのだそうです。「いのちのゴミ箱に、心のゴミをすてませんか。」「私たちは今、本当に生きておられる、ありてある神様に祈りたいと思います。ありのままの真実な叫び声を出して祈ってみませんか。心の中に詰まっている、誰にも言うことが出来ない、心の負担となっているもの、自分を苦しめている心の中のゴミを、そのまま真実に吐き出して見ませんか。」「書いたものは講壇の前にあるシュレッダーに入れてください。粉々になって誰にも見られることはありません。」続いて施設案内を続けていただきました。研修室 大広間「にしきの間」 80人くらいまで収容可能 体育館も正式規格のものだそう。グラウンドも、右翼70メートル、左翼90メートルくらいあるそう。(距離はちょっとうろ覚え)最後に、チェックアウトの11時まで卓球をして遊びました。
2006年03月20日
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今日から一泊二日のお出かけ。目的は、兵庫県にある東条湖おもちゃ王国です。地図を見ると、順調に行けば、家から1時間半くらいの道のりと予測。朝10時の開園にあわせ、ラッシュの影響も考慮して、8時前には家を出る予定でしたが、準備にもたついてしまい、8時15分くらいになってしまいました。ところが、思いのほか渋滞が少ないまま、伊丹までたどり着いたのですが、その先の中国道で「事故渋滞」の表示。とっさに中国道に接続する池田ジャンクションに行かず、阪神高速11号終点の川西小花に変更。下道を通って宝塚インターに向かいましたが、そこで朝のラッシュでしょうか、大渋滞にはまってしまいました。結局、宝塚インターから中国道に乗ったのが9時40分過ぎ。ひょうご東条インターを降りておもちゃ王国に着いたのは10時20分くらいになりました。開園の10時には着けませんでしたが、でも20分くらいのロスで済みました。親は入場券のみ、子どもは乗り物乗り放題のキングフリーパスを購入し、いざおもちゃ王国へ! はじめのうち、子どもたちは親と共に行動していましたが、乗り物に2、3乗り、だんだん遊園地の広さや勝手が分かってくると、自分の乗りたい乗り物を探し、子どもたちだけで園内を駆けめぐるようになりました。 トミカ・プラレール ランドもありました。 はじめは喜んで乗り込みましたが・・・ 遊具のはずなのに見せ物みたい? 長男くんもパスを有効利用すべく、一人で乗り物乗りまくり!ジェットコースターも、そんなに本格的なものではありませんが、特に長女ちゃんと次女ちゃんがはまり、何度も何度も乗っていました。長男くんも最初、怖がって乗りませんでしたが、勇気をふりしぼって乗ってみたら「ちょっとこわかったけど、おもしろかった!」気がつくと、あっという間に4時過ぎ。子どもたちは、遊び足りないとぶぅぶぅ行っていましたが、宿泊場所に明るいうちに着きたかったので、何とか説得、おもちゃ王国を後にしました。
2006年03月20日
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今日の礼拝では、トロント日本人教会に、宣教師として派遣されている村井優人先生がメッセージをとりついで下さいました。聖書のテキストはヤコブ5:18~20です。 ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。 いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。 エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように祈ると、 三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。 そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。まず、村井先生ご自身のお証しがありました。スパルタ教育に徹していたことが間接的なきっかけとなり、お子さんの命を奪ってしまうところだったそうです。意識不明の状態のお子さまがいる病院からの帰り、動揺の中、運転しながら祈っている時、不思議な安心感に満たされたそうなのです。この挫折と、そこを通して取り扱われた主の体験が、村井先生を本当の謙遜をお与えになっているように思えました。さて、エリヤといえば、カルメル山上でのバアル神との対決で大勝利を収めた人物として有名です。ところが、ヤコブは、カルメル山での対決ではなく、その前の、雨を降らせないようにしたり、降らせたりした出来事を選んで記述しています。しかもエリヤを「私たちと同じような人」と表現しています。そしてエリヤも、この後、完全な挫折を味わうのです。そして、本当に用いられるようになったのは、それからだったのです。(ちょうど2年前に列王記を読んでいた時のことを思い出しました。)本当に、徹底的に「自分はだめだ」というところを通される必要があるようです。でも、そのことによってのみ、人は主のお取り扱いを受けられるようです。そして、その経験から、すべては主から来たものであることを知り時、本当の感謝のいけにえを献げられるようになるのです。午後も夕方までお交わりの時をもつことができました。
2006年03月19日
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今日は、長男くんの卒園式。とうとう、この日がやってきてしまいました。奥さまは、朝から着付けで早起きしていました。朝から曇り、天気予報では昼過ぎから雨が降るようです。 まずは家の前で記念写真。 奥さま、帯がとっても気に入ったご様子。幼稚園で記念撮影。さて、いよいよ卒園式が始まります。卒園児一同で合奏の後、子どもたちはいったん退場し、改めて卒園証書授与式です。その後、教室に戻り、最後の時間がもたれます。いつものように礼拝し、賛美し、そして最後のプレゼントを先生からもらいます。 Nくんのご両親、T牧師先生ご夫妻が、トランペットとピアノで賛美の奏楽をしてくださいました。 ♪ぼくらはひとつ!1年間、保護者会の会長を務めた奥さまも皆さまにねぎらっていただきました。この後、例年は、園庭でティーパーティーがもたれるのですが、雨が降ってきたので講堂に変更。そこでクラスごとの記念写真撮影です。 担任の先生と記念撮影。 園長先生とごあいさつ。最後の帰り道・・・卒園式のプログラムです。第57回目の卒園式
2006年03月18日
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お母さまの看病をするため、任地ウズベキスタンから一時帰国していたK兄が、残り半年の任期を全うするため、今日、日本を離れました。仕事が午後からだったため、空港で見送ることができました。お父さま、牧師先生、B先生もお見送りに来ておられました。お母さまを、天に見送り1か月。いろいろな思いを胸に日本を離れたことでしょう。特に、残されるお父さまに、主の直接の豊かな慰めと平安がありますように。
2006年03月14日
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3月も中旬。今週いっぱいで、長男くんの幼稚園生活はおしまいです。出発前の制服とかばんちょっと先回りして通い慣れた幼稚園、お別れとなると、ちょっとさびしいです。 担任の先生に送るアルバム原稿です。
2006年03月13日
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和歌山駅から出ているローカル線、南海貴志川線が、4月から南海電鉄から分離、和歌山電鐵となるということで、長男くんと乗りに行ってきました。いざ しゅっぱ~つ!南海本線で、和歌山市に着くとすでにお昼過ぎ。 JRに乗り換えて和歌山に向かいます。ところが、JRの券売機(きっぷを売る機械)と改札がありません。あちこち探し回ったあげくに、南海線の券売機でJRのきっぷも売っていました。駅構内に入るにも、南海の改札を通すのでした。(ちょっと変な感じ)しかも、和歌山市から和歌山行きの電車は、平日は1時間に1本、土日で30分に1本という少なさに、またまたびっくり。JRに乗るためのきっぷ。 南海電鉄扱いで、和歌山市からJR日本線180円区間となっています。背景の絵柄は、電車と、スルッとKANSAIカードのキャラクター、スルットちゃん。JRの和歌山行き電車。 右奥に南海電車が見えます。和歌山行き電車の発車までの時間に、和歌山市駅で買ったおすしを食べました。和歌山には5分あまりで到着。隣のホームに、南海貴志川線の電車が見えてきました。「乗って残そう貴志川線」の黄色い旗が目立ちます。 地下道を通って9番線へ。 きっぷ売り場の「南海電鉄」表示も今月限りです。 貴志川線の電車。南海カラーのワンマンカーです。 「ありがとう」のヘッドマークがつけられています。貴志川線の電車は、和歌山駅を出ると左にカーブ、すぐに次の駅に着きました。古い住宅街というか、家々の軒先をかすめながら、生活感あふれる空間を走り抜けます。駅を2、3過ぎると、まわりは、のどかな田園風景に変わりました。田植え前のかわいた田んぼの中を走ります。終点に近づくと、少し峠を上ります。みかん畑や、竹やぶの中を、電車は走ります。和歌山から30分ほどで終点の貴志に到着。 ちょっとした小旅行でした。ここで、終着駅 貴志駅の様子を・・・。 簡素ですが、味わいのあるプラットホームです。 待合室から改札をながめます。 集札用の木の仕切りが、なかなかいい感じ。 待合室の一面。 自動券売機もなくなるそうです。 幼稚園児が書いた、昔走っていた緑の電車の絵がきれいです。 終点の末端部分。いかにも終着駅です。 帰りの電車に乗る前にぱちり。ヘッドマークの色が違っています。上り電車が出発して30分弱で次の電車がやってきました。昼間は、30分間隔での運行です。帰りも、早春のやわらかな日差しの中、上り電車は走ります。和歌山駅では、記念にきっぷを一枚購入。なつかしの硬券(かたいボール紙のきっぷ)でした。 もと来た経路で、JRで和歌山市に戻ります。和歌山市駅では、ハンバーガー屋さんでおやつタイム!おやつの後は、南海本線で、和歌山港へと向かいます。和歌山港行きの電車が来るまで、長男くんにビデオカメラを貸したら、夢中になって撮っていました。 和歌山を出ると、途中から紀ノ川河口か、港か、海に沿って走ります。5分ほどで和歌山港に到着。 徳島へのフェリーとの連絡が目的の駅のようで、船のない時間はかなりさびしい感じです。 ホームの屋根も年季が入っています。 乗ってきた特急は、半分は指定席の立派な車両、手前は通常の通勤タイプの車両が併結。 駅名表も年代物! この先にも線路が延びていましたが数年前に廃止。今はここが終点です。フェリー乗り場を見学していると、ちょうど徳島からのフェリーが入ってきました。さて、和歌山港からの帰りは、長男くんお楽しみの特急サザンに乗車です。通勤用の通常車両ではなく、リクライニングのほんとのサザンです。フェリーからの乗り継ぎ客はほとんど通常車両に行ったようで指定席はがらがらです。長男くん、リュックから何かを取り出したと思ったら、なんと「マイまくら」! 自分のリュックの上に水色の枕をのせ、横になっています。 車内で買ったサザンのきっぷ和歌山港から、サザンに乗って50分あまり。 堺で下車し、最寄り駅までもどり家に帰りました。意図していませんでしたが、これで南海線で乗ってないのは高野線の河内長野から向こう側だけになりました。いつか高野下まで乗れば、南海線全線走破することになります。いつか挑戦しようかな。
2006年03月11日
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昨日は長女ちゃんの10歳のお誕生日。1日遅れのお祝いをしました。昨年あたりから、お誕生日のお祝いにF二家に行くのが恥ずかしくなってきたようで、自宅でのお祝いです。これも、着実に成長しているということですね。ろうそくを吹き消します!学校では、先月、二分の一成人式をしましたが、ようやく10歳。親歴も10周年ということにもなります。^^
2006年03月05日
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今日は、長男くんが、卒園遠足で動物園に行く日です。最寄りの駅が集合場所。時間があったので、送りがてら、見送りに行ってきました。もうすぐ卒園です。年少さんの時に比べれば、格段にたくましく成長しましたが、こうして見ると、まだまだ幼くかわいらしく見えます。動物園から帰ってきてから、長男くんと近くの公園に遊びに行ってきました。夕方になり、帰り道、道路の舗装補修工事に遭遇しました。舗装の仕上げです。ダンプからおろしたアスファルトを、ざざざぁっと流し込み、ローラーで平らにしています。大型機材が次々と作業する様子に、長男くん、興味津々。帰ろうと言っても、もっと見ていたいと、なかなかその場を離れようとしてくれません。5時過ぎに、舗装工事も完了し(きっと、工事時間は5時目安だったのでしょう)、ようやく家路につきました。
2006年03月04日
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長女ちゃんが、ビー玉を使って遊ぶスマートボールを持ってきました。学校の図工の時間に作ったものです。すべて段ボールなどの紙製。しかも、ゲーム後、手前の段ボールを引っ張ると、点数の穴に入ったビー玉がリセットされ、手前に戻ってくるしくみという優れものです。背景のデザインは、自分で絵の具でそめたものです。
2006年03月03日
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一昨年だったでしょうか、どこかで見聞きして心に残っていること。たしか・・・罪の告白は必要だけれど、「でも赦してください」と言っていても、それが実質的なレベルにおいて「告白」に終わっているとしたら、それはサタンに栄光を帰す、サタン賛美をしていることになる・・・という感じの内容でした。いやぁ、どきっとしました。くらっくらするくらいのインパクトがありました。そりゃそうです。サタンよ、あなたのしたことは、すべて大成功ですって認めていたことになっちゃうんですから。でも、ちょうど、数年前からの自分の中の変化が始まっているところだったので、幸いこのことも、律法的に受け取ることもなく、不必要なダメージを受けずに済みました。また、今、あらためて振り返ってみると、思い浮かぶだけで2つの大きな宝物を与えられる、きっかけとなっていたような気もします。1 「赦し」の時勢の再確認リアリティとして、すでにすべてがイエスさまの十字架上で処理され、赦されているという感覚です。頭では、神学的には、2000年前の十字架上で罪が赦されたことを知っていました。だから、罪を犯したと感じたり、罪が示されたと感じた時は「赦してください」と祈っていました。ところが、頭理解では赦されているはずなのですが、実感覚では罪意識が残ったままだったのです。でも、その後、赦しの宣言が、はっきりと自分のものとなりました。「わたしが与えたくて仕方のなかった赦しをよく受け取ってくれたね。わが子よ。」そんな感覚が来るのです。自分の目に、自分は罪人だけど、神さまの目には十字架の血潮ゆえ、もはや聖いとされていることが、心の底から感じられるのです。そして、このことを繰り返すうちに、もう一つ、自分の中の大きな誤解が明らかにされました。その誤解とは、罪を告白し、祈ったその瞬間に、はじめて赦されるというものでした。 私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、 その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。 ヨハネの手紙第一1:9「ごめんなさい、イエスさま。赦してください。」「悔い改めたから、今、赦してあげよう。」という構図です。確かに、「赦し」の祈りをした時に主観的に感じ、受け取る「赦し」があります。でも、実は「赦し」が執行・提供されたのはあくまで2000年前ということです。「ごめんなさい、イエスさま。」「十字架上で処理済みだから、もうすでに赦されているんだよ。」赦しを祈る前でさえ、不健全かつ不必要な罪悪感がなくなり、解放感&開放感プラス安心感をいただけるようになりました。 これこそ、主のみわざ! ハレルヤ!2 「こんな自分が」癖からの解放自分の「足りなさ」「弱さ」「罪」を探り、告白することは、クリスチャンとして当然のことと思っていました。(それ自体が悪いわけではなく、過程の中で通過する必要のあることですが)ところが、自分にとっての悔い改めは、単なる犯した罪の告白に過ぎなかったのです。日本人に多いかもしれませんけれど、「こんな自分が」と、自分を引き下げたり、自虐的に扱う傾向に陥っていたように思います。痛い面・つらい面と同時に、そこにとどまっている方がしっくりくるような、不健康な心地よさもありました。また、それが信仰的であり、謙遜だったと思っていた部分もあったかもしれません。自分の「足りなさ」「弱さ」「罪」にだけ目を留め、いちおう「ごめんなさい」と悔い改めの祈りこそすれ、それを「覆う」「癒す」「回復する」とおっしゃる主に、本当の意味で目を向けないならば、それはれっきとした「自己中心」だったことを示されました。(去年の4月には、すでに感じていたようです。)「こんな惨めな自分」確かに、そんな感覚に打ちのめされることもありましょう。でも、人を罪に定めようとするサタンの攻撃と、生きたみことばによる真の悔い改め過程における認罪とでは、来る感覚がまったく違うことを知りました。サタンが与えるものは、単なる罪責感であり、落ち込みと自己嫌悪です。生けるみことばが与えるものは、一時的痛みはありますが、悔い改めから赦しにまで至らせる建設的なものです。サタンの与えようとする罪悪感に留まっていたとしたら、それこそ、サタンの思うつぼ、「作戦成功、してやったり」とサタンを喜ばせてしまうことだったのですね。時にかなったみことばの剣・メスはするどく、ふさわしくない部分の治療過程における痛みはありますが、確実に真の悔い改めまで導いてくださるものです。「恥はわがもの、栄光は主のもの。」「こんな自分だけど、主はこんなお方。 赦し、癒し、聖めてくださる、万軍の主。」自分を見つめてしまうことがあっても、その後に、そんな告白を、堂々とできるようになりました。そして、その告白自体が、主の取り扱いから出ているものだから、まさに主の栄光ゆえ、主はその告白をことのほか喜んで受け取ってくださっていることが感じられるようになってきました。自分が信じている神さまのすばらしさ、神さまから与えられる賜物と恵みの大きさに、あらためてびっくりさせられています。
2006年03月01日
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