ぽてと1号の遍路日記
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暴れ川「高梁川」 高梁川(たかはしがわ)の流域は古くは備中(びちゅう)と呼ばれ、備前(びぜん)・備中(岡山県)、備後(びんご)(広島県)と合わせ吉備の国として政治・経済・文化の面で重要な地域でした。高梁川の名前は古くは日本書紀のに記されている川島川から川辺川、松山川など、その時代時代に栄えていた町の名前を取って呼ばれていました。一口水門は(船穂町文化財)高梁川から玉島港へ向かう高瀬舟の航路の入り口として江戸時代に作られました。 明治時代になり備中高松が高梁と改称されたことにより松山川から現在の高梁川という名前になりました。改修の歴史は岡山三川の中では最も古く、明治25・26年の大洪水を契機として、明治43年には全国の直轄河川65河川の内の第一期改修20河川の一つとされました。改修工事は、それまでは東西の両派川に分かれていた高梁川を合流させるもので、約20年の歳月をかけ、大正14年4月に完成しています。中央犬養毅高梁川の歴史を振り返るとき、度重なる洪水の歴史を抜きには語れません。高梁川の扇状地の一部で、江戸以降の埋め立て地。当時の高梁川(東側)は、今の川筋とは違ってもっと東側、倉敷市酒津からまっすぐ南へ流れ、連島と種松山の間の低地、倉敷市江長を通り、今の水島市街地あたりから海へと流れていました。そして2~3年に一度氾濫を繰り返したという暴れ川「高梁川」。高梁川の水は、今の倉敷市街地あたり、そして加須山の小瀬戸、旧の藤戸海峡の3ヶ所から東に流れ出し、帯江地区から豊洲地区、早島全域、南は茶屋町地区全域、岡山市の興除地区全域へと及んでいます。「吉備郡史下巻」4002頁には、「131章天災地変」として高梁川の氾濫について書かれています。現在倉敷市中央図書館に保存されています。 「今の総社市秦の○○さん所蔵の書物によると、寛文4年(1664年)から天保5年(1834年)のおよそ170年間に36回の水害を被っている。しかし、多くは2~3年に一度おこっており、帳簿紛失等を考慮すると、高梁川は2~3年に一度、沿岸に荒地を生ずる程度の洪水氾濫があったと記録されている。すざまじいものですね。この天災地変と闘いながら私達の祖先は、この地に長い営みを築いてきたのです。この洪水は明治時代にも続き、東高梁川が締めきられてつけ変わるまで続いたのです。ちなみに東西に分かれていた高梁川下流域は、明治40年から大正14年にわたる大工事の結果、東高梁川は酒津で締めきられてなくなり、その河川敷は陸地となり、現在の水島市街地などとなってしまったのです。明治27年(1894年)の洪水の後の疫病(赤痢?疫痢?)流行 祖父(当時9歳)を残して、父母兄弟4人が一ヶ月の間に全員亡くなるというような悲劇もあったと伝える人もいます。当然農作物などの飢饉もあったはず天災地変と闘い続けてきた先人たちの苦労は、時には思い描かねばならないと思います。備中神楽の発祥 備中神楽は、この地方の原始信仰である荒神の鎮魂をうながす祭りである。「鎮魂」とは・・・ 人間の生命の根源は神で、神の分身が人間であると考えたのが、日本人の古い信仰である。 年々の神祭りは、遠い祖霊としての神への崇祖であるし、生命を支えるための、農作の豊穣祈願と感謝であった。 とりわけ大切なことは、神の分身である人間の、生命の長久を祈願することであった。 神がかりになって、分身である人間の体内へ、神を呼び戻すことによって、願いが達せられるとかんがえられていた。 神代神楽が備中神楽に挿入される以前の荒神神楽は、神事色の濃いものであった。 近隣の神主が集まり、清めの儀式・悪霊払いの先舞(猿田彦の舞い)・五行・悪霊払いの後舞(剣舞い)が荒神神楽の基本となっていた。 そこには、天地・森羅万象を司るものとして神を崇め、神の霊を招きもてなす「おこない」がなされていた。
2007.05.06
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