松島への渡航許可 in 1656 于山島が竹島ではないことは先に説明しました。それは即ち、韓国が近年におけるまで竹島を知らなかった事を意味する。つまり、韓国は竹島に対して実効支配をしていないのである。最初に竹島を実効支配したのは日本である。いつ竹島を発見したかは定かではないが、幕府は松島(現・竹島)への渡航許可を1656年に出しているので、少なくともそれ以前に竹島(旧・松島)は日本人の経営支配下に入っていたことを意味する。
隠州視聴合記 in 1667 隠州視聴合記 (松江藩士・斉藤豊仙著 1667年) 隠州在北海中故云隠岐島、従是、南至雲州美穂関三十五里、辰巳至伯州赤碕浦四十里、未申至石州温泉津五十八里、自子至卯、無可往地、戍亥間行二日一夜有松島、又一日程有竹島、俗言磯竹島多竹魚海鹿、此二島無人之地、見高麗如自雲州望隠州、然則日本之乾地、以此州為限矣
竹島松島之図 in 1724 幕命によって鳥取藩が、大谷、村川両家から鬱陵島周辺海域を聞き調べ作製した図に、竹島松島之図というのがある。この図は1724年に製図されたもであるが、松島の2つの主島(西島と東島)が描かれ、その周りに幾つかの岩礁が書かれている。20世紀に入るまで、韓国ではこのような竹島(旧・松島)の2つの主島が書かれている詳細な地図は存在しない。
改正日本輿地路程全図 in 1779 作者の長久保赤水(1717-1801)は、水戸徳川家の儒官として江戸に出仕した人で、晩年『大日本史』の「地理志」稿本を執筆した地理学者でもある。この「改正日本輿地路程全図」は行基図を越えた画期的な日本図である。輪郭はかなり正確になり、距離や方角も正しく読み取れるようになっている。幕末に至るまで、他の日本図の手本となった。この"日本図"には竹島が描かれている。また、1833年に書かれた『新刻日本輿地路程全図』は改正日本輿地路程全図の系譜図である。
三国通覧図説 in 1785 韓国が、「日本も自ら竹島を朝鮮領と認識していた」として持ち出す資料の一つに、地理学者の林子平(はやししへい・1738-1793)が書いた『三国通覧図説』がある。この書には付属図の『三国輿地路程全図』がある。林は日本の地図だけでなく、朝鮮の資料も参考にしたと思われる。朝鮮半島の直ぐ傍に、島名の書かれていない島があるが、これは明らかに存在しない于山島である。そして日本海の中央に描かれている島は、当時竹島と呼ばれていた鬱陵島のことである。その竹島の直ぐ傍に小さな島が書かれているが、これはチュクドと考えるのが妥当である。林子平はまた『朝鮮八道之図』も描いているが、鬱陵島には「鬱陵島」と「于山国」の2つの名称が記載してある。
華夷一覧図 in 1790年代 木村蒹葭堂(きむらけんかどう・1736 - 1802)が作成した『華夷一覧図』という図は、大清を中心とする東半球図を紹介してる。蒹葭堂はこの図に、隠岐西北にほぼ同じ大きさで「松シマ」と「竹シマ」を描き、日本と同じ朱に彩色した。この地図は、大日本(本州)・四国・九州と蝦夷の四島の外郭を朱で縁取り、松シマ・竹シマの他、オキ(地名なし)・イキ・ツシマ・琉球諸島・伊豆諸島・無人島一名小笠原島・タ(ク)ナシリ・エトロフ等の小島を朱に彩っている。さらに、東北・関東沖とマリア島(マリアナ諸島)東方の島々も朱色。しかし、蝦夷北方の大陸から半島状に延びたカラフト、サカリイン(サハリン)島、及びウルフ(ウルップ)以北の千島列島は彩色されず、蒹葭堂の懐く「日本」の範囲がよく分かる図である。また蒹葭堂から多くの地理情報を得ていた長久保赤水は、『唐土歴代州郡沿革地図』(1790年刊)の「亜細亜小東洋圖」で「松シマ」「竹シマ」をヲキや日本と同じ赤褐色に彩っている。
竹島密貿易事件 in 1836 1836年に、石州浜田の回船問屋・会津屋八右衛門(いまずやはちうえもん)が、幕府が渡海禁止令を出していた竹島(現・鬱陵島)へ渡り、竹や木材を伐採して密貿易をしていた事が知られ、裁判を受け死刑になった事件がある。この裁判の判決文に、「松島へ渡海の名目をもって竹島に渡り」という浜田家老の言葉がある。つまり、竹島事件で問題になったのは朝鮮領の鬱陵島への渡海であり、松島(現・竹島)への渡海については何も問題にされていないのである。
通航一覧 in 1853 『通航一覧』は1853年、徳川幕府によって編纂された近世外交史料集成である。その中に「竹島密貿易事件」の記述があるが、ここに出てくる竹島とは現在の鬱陵島のことである。
皇国総海岸図 in 1855 水戸藩士の酒井喜煕(さかいよしひろ)が幕府所蔵の地図や水運関係者の聞き取り調査から1855年に『皇国総海岸図』を作製。海岸の状況や港の施設、航路の距離・帆走方向を収録し、日本全域を表す総図で松島(現在の竹島)と竹島(現在の鬱陸島)も記載されている。日本領土が黄色に塗られているのに対し、松島と竹島は着色がないが、福岡県沖の御号島(現在の沖ノ島)も無着色であるから、当時は無人島であることを指したものとみられ、朝鮮領という意味ではないと考えられる。また、隠岐周辺の地図では、竹島渡海の港であった福浦(現在の隠岐の島町)付近に「松島竹島ハ亥子ノ間二当ル」と、当時の地図では初めて両島に至る航路の方角を示す表記が見つかり、隠岐島との間で交流があったことをうかがわせる。
重訂万国全図 in 1855 幕臣で幕府天文方の山路諧孝(1777 - 1861)が1855年に著した『重訂万国全図』には「アルゴナウト島即ち竹島」「ダゲレト島即ち松島」の記述があり、これら2島とも日本と同じ色で着色されている。
新刊輿地全図 in 1861 佐藤政養が著した『新刊輿地全図』は幕末を代表するメルカトル図法による世界地図である。原図は1857年のオランダ製の航海用地図で、内容が詳しく正確なうえ、世界の主な都市・山川の一覧がある。佐藤政養は幕末から明治にかけての蘭学者・技術者で、勝海舟の塾で蘭学、測量術を学んだ。隠岐と朝鮮半島の中間に"タケ"と記述してある日本と同じ色で彩色された島がある。
増訂大日本輿地全図 in 1864 逸見豊次郎が1864年に著した『増訂大日本輿地全図』は、非常に大きな図であるが、これに竹島(鬱陵島)と松島(竹島)が記載されている。
竹島雑誌 in 1871 地理学者で探検家であった松浦武四郎(1818 - 1888)は、1871年に『竹島雑誌』を編述。この書は竹島(現在の鬱陵島)はもともと日本領であるとの見地から記述してある。吉田松陰も、安政の大獄で牢屋にぶち込まれた時に、弟子の桂小五郎に国防上竹島は重要拠点と書簡で主張している。
朝鮮全図 in 1873 日本の海軍水路寮は1873年に『朝鮮全図』を作製した。この図には、鬱陵島が蔚島として描かれ、蔚島と朝鮮半島の間に于山島が描かれている。この朝鮮全図には竹島は描かれていない。同年、明治新政府がウィーン万国博で展示した『L'Empire du Japon』には、松島(鬱陵島)と幻の竹島(アルゴノート)が日本領として描かれている。
日本地誌提要 in 1874 1874年に内務省地理寮地誌課の塚本明毅によって編纂された『日本地誌提要』には、日本海に2つの島があることが言及されている。