竹島の島根県編入 in 1905 日本は1905年1月28日の閣議において、江戸時代には松島と呼ばれていた島を正式に竹島と命名し、島根県隠岐島司の所管する旨を決定し、島根県知事は同年2月22日付の島根県告示第40号をもってその内容を公示した。翌年の1906年4月8日、島根県隠岐島の一行が鬱陵島を訪れ、鬱陵郡の郡守・沈興澤に「竹島が日本領になり、その視察の序(つい)でに鬱陵島を訪れた」と来意を告げた。
大日本管轄分地図 島根県全図 in 1908 安藤力之助が書いた『大日本管轄分地図 島根県全図』には隠岐の北西に「桂島」という島が描かれている。竹島と同じ方角だが、距離的に隠岐に近過ぎるため更に研究する必要がある。
東亜輿地図 in 1909 竹島編入4年後の1909年に、陸地測量部(現在の国土地理院に相当)が発行した地図『東亜輿地図』には、竹島が島根県に属していることを示している。この東亜輿地図は100万分の1の縮尺で、シベリア東部、日本、中国南部までの東アジア全域を241区域に分けている。竹島が書かれてある図は松江区分のページで、鬱陵島には「韓国江原道」、竹島には「島根県隠岐」と行政区が記載してある。
日本水路誌 第四巻 本州北西岸及北岸 in 1916 海軍水路部が発刊した『日本水路誌 第四巻 本州北西岸及北岸』には、隠岐列島に竹島の記述がある。経緯度、島の概要、夜間航行においては時として危険であることなどが記載されている。翌年には朝鮮総督府が作成した『鬱陵島図』が発刊、更に翌年の1918年にも『鬱陵島図』を発刊した。
日本陸軍測地測量部の図 in 1930 1930年に日本の陸軍測地測量部が作成した「地図区域一覧図」という地図があるが、これを基に韓国は、「竹島は朝鮮領として描かれていて、近代に入っても日本政府の竹島に対する認識は朝鮮領であることを自ら示している証拠である」と主張している。 しかし、この「地図区域一覧図」は、軍隊の運用のためその管区を定め、部隊を運用する為の地図である。基本的には管区や運用を行政境界と一致させるとしても、運用上の便宜から例外が出ることは不思議ではない。結論として、竹島が軍の地図区分において朝鮮管区(軍令上の区画)に加えられたとしても、あくまでも「行政区画」上、島根県に属していた事実は変わりない。国家の領域を管轄して、天皇を補弼(ほひつ)したのは内務省であるから、行政区画をもってその帰属を論ずるべきである。韓国は行政上の地図と軍事上の地図を同一視してはならない。
竹島特集記事 in 1934 朝日新聞が1934年6月28日から7月8日にかけて、竹島に関する記事を特集で掲載している。アシカ猟やアワビ漁をしているのが分かる。
朝鮮現勢便覧 in 1935 朝鮮総督府が作成した『朝鮮現勢便覧』では、領土の東限は「慶尚北道鬱陵島竹島」とし、位置は「東経130度56分」とされた。同年、民間の地図会社が作成した『朝鮮全図』には鬱陵島までが描かれていて、竹島は記載されていない。同じく1935年に民間の出版会社が発行した『朝鮮全図』は鬱陵島と竹嶼(ちくしょ)が書かれている。竹島が朝鮮全図にないのは当然である。